Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第5巻 「開道」 開道

小説「新・人間革命」

前後
2  開道(2)
 同行の幹部たちは、真剣な顔で、山本伸一の話を聞いていた。
 伸一は、皆に視線を注ぎながら、話を続けた。
 「また、もう一つ大切なことは、民衆と民衆の心を、どう繋ぐことができるかです。
 社会体制や国家といっても、それを支えているのは民衆です。その民衆同士が、国家や体制の壁を超えて、理解と信頼を育んでいくならば、最も確かな平和の土壌がつくられる。
 それには、芸術や教育など、文化の交流が大事になる。その国や民族の音楽、舞踊などを知ることは、人間の心と心を近づけ、結び合っていくことになる。本来、文化には国境はない。
 これから、私は世界の各界の指導者とどんどん会って対話するとともに、文化交流を推進し、平和の道を開いていきます」
 それを聞くと、男子部長の谷田昇一が言った。
 「しかし、政治家でなくして、一民間人の立場で、そうしたことが可能でしょうか」
 「君は、一国の首脳たちが、会ってくれないのではないかと、心配しているんだね」
 「はい……」
 伸一は、確信に満ちた声で語った。
 「大丈夫だよ。学会によって、無名の民衆が見事に蘇生し、その人たちが、社会を建設する大きな力になっていることを知れば、賢明な指導者ならば、必ず、学会に深い関心を寄せるはずです。いや、既に、大いなる関心をもっているでしょう。
 そうであれば、学会の指導者と会い、話を聞きたいと思うのは当然です。
 また、こちらが一民間人である方が、相手も政治的な駆け引きや、国の利害にとらわれずに、率直に語り合えるものだと私は思っている。
 私は、互いに胸襟を開いて語り合い、同じ人間として、友人として、よりよい未来をどう築くかを、ともに探っていくつもりです。
 民衆の幸福を考え、平和を願っている指導者であるならば、立場や主義主張の違いを超えて、必ず理解し合えると信じている。
 こう言うと、日本の多くの政治家は、甘い理想論であると言うかもしれない。あるいは、現実を知らないロマンチストと笑うかもしれない。
 しかし、笑う者には笑わせておけばよい。やってみなければわからない。
 要は、人類が核の脅威にいつまでも怯え、東西の冷戦という戦争状態を放置しておいてよしとするのか、本気になって、恒久平和をつくりあげようとするのかという問題だよ」
3  開道(3)
 ベルリンの夜は、更けていった。
 部屋のなかには、平和への誓いに燃える、山本伸一の力強い声が響いていた。
 「私はやります。長い、長い戦いになるが、二十年後、三十年後を目指して、忍耐強く、道を開いていきます。
 そして、その平和と友情の道を、更に、後継の青年たちが開き、地球の隅々にまで広げて、二十一世紀は人間の凱歌の世紀にしなければならない。それが私の信念だ」
 伸一の烈々たる決意を、皆、驚いたような顔で、ただ黙って聞いていた。
 その時、頼んでおいたルームサービスのサンドイッチや飲み物が届いた。
 伸一は、自らはジュースを手にし、皆にはビールを勧めた。
 「では、ベルリンの未来のために乾杯しよう。今日は、平和への新たな出発の日なんだから」
 皆、グラスを掲げ、新出発を祝した。しかし、その意味を、本当に感じている人は、伸一のほかには誰もいなかったかもしれない。
 更に、語らいは弾んだ。伸一は腕時計を見た。
 時計の針が午前一時を指しているのを知ると、彼は言った。
 「日本は午前九時になった。本部に国際電話をしてベルリンの壁の前に立ったことを伝えてほしい」
 副理事長の十条潔が受話器を取り、国際電話を申し込んだ。
 本部に電話ががると、皆が次々に受話器を手にして、近況を伝えた。
 伸一は、さすがに深い疲労を覚えた。
 彼は、医師の川崎鋭治にビタミン剤を注射してくれるように頼んだ。
 川崎は、デンマークのコペンハーゲンで、伸一にビタミン剤を打つように頼まれた時には、注射器も注射液も用意していなかったが、その後、購入しておいたのである。
 ベッドに横になった伸一の左腕に、川崎が注射をすると、伸一は声をあげた。
 「痛い! すごく痛い注射だな……」
 「そんなに痛みますか。変ですね……」
 川崎は、首をかしげながら言った。
 伸一は笑い出した。
 「頼りにならない医学博士だな。看護婦さんのなかには、川崎さんより、遙かに注射の上手な人がたくさんいるよ。
 川崎さんは、医学の知識は豊富なんだが、人間の心というものが、よくわかっていないね」
 「はあ、私は、どちらかといえば、臨床より研究の方が専門なもんで……」
4  開道(4)
 山本伸一は、子供を諭すように川崎鋭治に語った。
 「たとえば、注射をする時には、『ちょっと痛いかもしれませんが、気を楽にしていれば、すぐに終わるから大丈夫ですよ』とか、『ほんの少しの間、我慢してください』とか言うもんだよ。
 そうすれば、人は安心もするし、痛さに対する心の構えもできる。
 川崎さんは、これから、ヨーロッパの広宣流布の指導者になっていく使命をもった人なのだから、人びとの不幸を解決する″信心の名医″″生命の名医″になる必要がある。
 それには、人間に精通して、人の心、人の思いというものに、常に最大の神経を働かせていくことが大事になるね。
 信心の世界では、″研究者″ではなく、″臨床医″にならなくてはなりませんから」
 「″信心の名医″ですか。病気を治療するよりも、よほど難しくなる……」
 深刻な顔で、川崎がつぶやいた。その愛すべき生真面目さに、伸一は、また、笑いを浮かべた。
 「心配ありません。医学も仏法も、根本の精神は慈悲、つまり、抜苦与楽(苦を抜き、楽を与える)ですから、″ドクター川崎″ならば大丈夫です。決意と実践があれば、″信心の医学博士″にもなれるよ」
 川崎の顔にも、笑みが浮かんだ。
 皆が伸一の部屋から引き揚げていった時は、既に午前一時半を回っていた。
 翌朝は、午前六時半過ぎにはホテルを出発し、再び飛行機でデュッセルドルフに向かった。そして、そこから車で、約三十五キロメートルほどライン川の上流にある、古都として有名なケルンに出かけた。
 一行は、この日、ケルンに本社があり、主にディーゼルエンジンや工作機械などを製作している、クレックナー・フンボルト・ドイツ社の工場を見学することになっていたのである。
 デュッセルドルフも、ケルンも快晴であった。ライン川の左岸に広がるケルンの街を、美しい青空が包んでいた。
 訪問した会社の工場長は、一行を心から歓迎し、自ら案内してくれた。
 工場内の見学が終わった時、工場長は言った。
 「ここには約三万人の従業員がおります。そのうち約千二百人が、イタリア、インド、ギリシャ、スペイン、そして、南米、アフリカなどからの実習生です。ただ、残念ながら、日本人は一人もおりません」
 それを聞きながら、伸一は、日本の青年たちも、世界に雄飛していく時が来ていると思った。
5  開道(5)
 山本伸一の一行は、クレックナー・フンボルト・ドイツ社の工場を見学した後、ドイツ・ゴシック建築の傑作といわれ、巨大な二つの尖塔を持つ大聖堂など、ケルンの代表的な建物の視察に時間をあてた。
 それは、既に彼の頭のなかには、大客殿に続いて、戸田の遺言であった正本堂を総本山に建立する計画が練られていたからである。
 正本堂は、大御本尊を御安置することになる建物である。彼は、その正本堂も、世界的な名建築とするために、さまざまな建築物を参考にしようと思っていたのである。
 この夜、ケルン市内の中華料理店で、昼間、訪問した会社の重役たちとの会食が行われた。
 伸一は重役陣に、学会の紹介書である『ザ・ソウカガッカイ』などを記念として贈呈すると、こう切り出した。
 「私ども創価学会は、仏教の精髄である、日蓮大聖人の仏法を信奉する団体であります。
 仏法のヒューマニズムの哲理をもって、人間の心、生命という土壌を耕し、世界の平和と人類の幸福の実現をすることが、私たちの目的です。
 ドイツも、日本も戦争に敗れ、新しい民主の時代に向かい、祖国の再建に立ち上がりました。では、その民主の時代を建設していくために、求められているものは何か。
 それは、人間の尊厳と平等を裏付ける哲学です。そして、人間が真実の自由を獲得するために、自らの欲望の奴隷にならず、権威・権力に屈せず、自己を律し、自立する哲学です。
 私どもは、そのヒューマニズムの哲学を探究し、実践し、社会に広め、既に日本国内にあっては、二百万世帯の人びとが幸福生活を実証し、真実の民主の時代の担い手として、社会貢献の道を歩んでいます」
 重役陣は、驚いた顔をしながら、伸一の話に、真剣に耳を傾けていた。
 彼らは、仏教の団体である創価学会の会長一行と聞いて、現実の社会から離れて山の中にこもり、座禅でも組んでいる人たちではないかと思っていたようだ。
 ところが、実際に会ってみると、新たな社会を建設しようという気概にあふれ、実に二百万世帯もの人びとを糾合し、活動を進めているというのである。
 自分たちの描いていた仏教団体のイメージとは、全く違っていたことに気づき、皆、大きな関心と興味をいだいたようであった。
 間もなく、食事が始まった。重役陣は、次々と伸一に質問をぶつけた。
6  開道(6)
 重役陣の一人は、山本伸一に、「あなたたちの仏法とは、どんな教えか」と、尋ねた。
 彼は答えた。
 「ドイツの皆さんは、よくご存じのことと思いますが、ゲーテの『ファウスト』のなかに、ファウスト博士がギリシャ語の新約聖書の冒頭を、ドイツ語に翻訳しようとする有名な場面があります。
 ファウストは『はじめに言葉ありき』と訳すが納得できない。次に『はじめに意志ありき』とし、更に『はじめに力ありき』とするが、それでも納得できない。そして、最後に『はじめに行動ありき』と訳して、ようやく満足する。重要なのは行動だからです。
 その行動、人間の振る舞い、言い換えれば、″人間はいかに生きるべきか″を説いたものが仏法です。人間が幸福になるための、より人間らしくあるための方途を示した哲学が、仏法といえます」
 伸一が『ファウスト』を引いたのは、ドイツの人たちにとって、最もなじみ深い話を通して語ることが、仏法を理解する早道であると考えたからだ。
 別の重役が質問した。
 「創価学会は、その仏法をもって、どのような運動を進めようとしているんですか」
 伸一は、ニッコリと頷き、即座に答えた。
 「人間一人一人の覚醒であり、人間革命運動です。
 人間は複雑多様で、しかもその心は、千変万化しています。時に喜びの絶頂にいたかと思えば、時には苦しみの深淵に沈み、また、怒りに身を焦がす。
 更に、人を愛し、自らを犠牲にしてまで他者を救おうとする慈しみの心をもっているかと思えば、人を憎み、嫉妬し、隷属させ、命さえも奪う残酷な心ももっています。
 戦争を起こし、破壊を繰り返すのも人間なら、平和を創り上げていくのも人間です。つまり、人間こそ、すべての根本であり、社会建設の基盤となります。
 その一人一人の人間に光を当て、人間に内在する善性を、創造的な生命を開花させ、欲望や環境に支配されることなく、何ものにも挫けない確固不動な自己自身をつくり上げていくことを、私たちは″人間革命″と呼んでおります」
 彼は、仏法用語はほとんど使わなかった。それは通訳をしてくれている駐在員が、仏法についての知識がほとんどないことを、考慮してのことであった。
 また、難解な用語を使わなくとも、仏法について語ることができなければ、仏法を世界に流布していくことはできないと、考えていたからでもある。
7  開道(7)
 更に、もう一人の重役が、山本伸一に尋ねた。
 「さきほど、あなたは『仏法のヒューマニズムの哲理』という言い方をされましたが、ヨーロッパにもヒューマニズムの伝統があります。それと、仏法のヒューマニズムとは、どこが違うのでしょうか」
 伸一は答えた。
 「大変に鋭い質問です。
 人間を大切にするという点では同じですが、仏法では、人間が地上の支配者であり、そのほかの生物や自然を、征服すべき対象とは考えません。
 大宇宙それ自体が一つの生命体であり、人間もそのなかで生きる一個の小宇宙ととらえます。そして、人間も、他の生物も、また、自分を取り巻くあらゆる存在が、互いに依存し、支え合い、調和することによって、生を維持していると考えます。
 事実、もし人間が、自らがこの世の支配者であるかのように慢心し、強大な科学技術の力をもって、すべての森林を伐採し、動物を絶滅させ、海を汚染し、自然を破壊していけば、どうなるでしょう。
 それでは、人間自身が生命を維持すること自体が、困難になってしまう。
 つまり、自分と、他の人びと、また、周囲の動植物など、人間を取り巻くあらゆる環境を対峙的にとらえるのではなく、一つの連関と見て、調和の上に、人間の幸福を創造していくことが、仏法のヒューマニズムの一つの特徴と言えます。
 その意味では、宇宙的ヒューマニズムと言ってもよいかもしれません」
 質問した重役が感嘆して言った。
 「私の知人に生態学者がおりますが、今の自然との連関という話は、最近の生態学の研究と、非常に近いものがあるようです。彼も、山本会長と同じ見解を語っていました」
 「そうですか。更に、科学の研究が進めば、仏法の真実が証明されていくと思います。仏法と科学とは、決して相反するものではなく、むしろ、科学を人間の幸福のために、正しくリードしていくのが仏法です」
 和やかななかにも、真剣な語らいが続き、話題は、教育、芸術へと広がっていった。
 音楽の話になった時、伸一は提案した。
 「歌は民族や時代の心の表現であると思います。そこで、創価学会の平和建設への心意気を知っていただくために、私たちの歌をお聞かせしたいのですが、いかがでしょうか」
 拍手が起こった。
8  開道(8)
 一行が合唱したのは、学会の愛唱歌の一つである、「黎明の歌」であった。
  ああ若き血は
      燃えたぎる
    いま黎明の
      とき来り……
 歌い終わると、また、大きな拍手に包まれた。
 「力強い歌ですね。私たちも歌います」
 こう言って、クレックナー・フンボルト・ドイツ社の重役陣が歌ったのは、ドイツ海軍の歌であった。
 歌った後、重役の一人が言った。
 「ドイツ海軍の歌を歌いましたが、戦争をしようというのではありません。この歌に託して、復興への心意気を歌ったのです。誤解しないでください」
 「よくわかっています。ドイツの平和と繁栄のために戦う、皆さんの心意気を感じます」
 伸一が答えると、和やかな笑顔の花が咲いた。
 今度は、一行が「荒城の月」を歌った。すると、それに負けまいとするかのように、重役陣のなかから、一組の夫妻が立ち上がり、シューベルトの「野ばら」を歌った。まさに「日独歌合戦」である。
 歌は何曲も続いた。歌ううちに、一行と重役陣の心は一つに溶け合い、昔からの友人であるかのような、ほのぼのとした雰囲気に包まれていった。
 会食の最後に、重役陣を代表して、工場長があいさつした。
 「今日はケルンも久しぶりに晴天に恵まれました。また、山本会長を囲み、仏法についての、大変に有意義なお話も伺うことができたうえに、心温まる交歓のひとときを過ごすことができました。
 私は、山本会長が、太陽を運んで来てくださったように思えてなりません。
 この出会いを通して、私は、未来への希望と、勇気を得るとともに、日本への理解を、一段と深めることができました。
 これからも、日本とドイツの交流と発展のために、ともどもに力を尽くしてまいりたいと思います。本日は、まことにありがとうございました」
 一行は、重役陣と固い握手を交わすと、ケルンを後にし、デュッセルドルフに戻った。
 伸一にとって、ドイツの人びととの、仏法をめぐる本格的な語らいは、これが初めてであった。
 彼は、ドイツの人たちが真摯に仏法を求めていることを実感した。また、国境も民族も超えて、互いに共感し合えることを、強く確信することができた。
9  開道(9)
 翌十月十日、山本伸一の一行は、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフから、運河の都であるオランダのアムステルダムに入った。
 この日も快晴であった。アムステルダムでの滞在は一泊であり、その間に、大客殿の調度品などを探して回らなければならず、市内をゆっくり見学することはできなかった。
 しかし、翌日の出発前に船で運河を下り、アムステルダム港の埠頭に立つことができた。
 今回の旅の同行は、男子部長の谷田昇一や黒木昭、菅井文明という青年が中心であるだけに、伸一は、彼らの成長のために、少しでも多く対話の時間を持つように心掛けていた。
 港に停泊している各国の船を眺めながら、伸一は、語りかけた。
 「みんなに、一つ問題を出すよ。江戸時代にペリー提督の黒船が浦賀にやって来た時、日本側と何語で話し合ったと思うかい」
 谷田が答えた。
 「日本に開港を求めて来たのですから、やはり日本語のできる通訳を乗せていたのではないでしょうか。つまり、日本語で話し合ったと思います」
 「黒木君は?」
 「いいえ。私は、むしろ英語ではないかという気がします」
 「菅井君は?」
 「はい。私も英語だと思います」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「みな違うな。オランダ語なんだよ。
 そのころ、イギリスの船もやって来て、英語の必要性も考えられてはいたが、鎖国をしていた日本人が、唯一学ぶことができた西洋の言葉は、オランダ語だけだった。
 ペリーもそれを知っていて、オランダ語の通訳を連れて来ていた。
 当時は、西洋の学問といえば、蘭学のことで、すべて、オランダを通して吸収していった。
 日本人は、オランダ人から、実に多くのものを学んでいる。たとえば、あのレンガ造りの東京駅も、そのモデルはアムステルダム中央駅なんだよ」
 谷田が、伸一に言った。
 「オランダ人と言えば、江戸末期に来日した、プロテスタントの宣教師のフルベッキが有名ですが……」
 フルベッキはオランダに生まれ、二十二歳の時に、希望をいだいて新大陸アメリカに渡るが、大病をしたのをきっかけに、神学の道を志す。
 そして、ニューヨークの神学校に学び、やがて、宣教師として日本に派遣されることになる。
10  開道(10)
 フルベッキが宣教師として日本に派遣されることになったのは、彼がオランダ人で、オランダ語ができたからであった。
 当時、日本は鎖国をしていたが、西洋諸国で、ただ一つ交流のあったオランダへの日本人の関心は強く、オランダ語を理解する日本人はいたのである。
 彼が日本に着いたのは、一八五三年(嘉永六年)のペリーの来航から、六年後のことであった。しかし、日本では、まだ、キリスト教は禁止されていた。
 フルベッキは、いずれ日本でも、キリスト教の布教が許される時が来ることを信じて、日本語の習得に、懸命に励んだ。
 そのころ日本では、ペリー来航の影響から、アメリカへの関心は急速に高まっていた。
 ヨーロッパに育ち、アメリカで青年時代を送り、オランダ語だけでなく、英語も話すフルベッキは、向学心の旺盛な青年たちにとっては、いわば、新しい″知識の光源″でもあった。
 彼のもとには、大隈重信や副島種臣、伊藤博文など、後に明治維新を担う有能な青年たちが、続々と集まって来た。
 また、彼は、幕府の語学学校などでも教鞭を執ることになり、更に、明治の新政府にあっても、相談役として用いられている。
 そして、東京大学の前身である大学南校の責任者を務めたほか、学制の実施などにも、大きな陰の力となった。
 山本伸一は言った。
 「明治の新政府が誕生すると、岩倉具視が団長となって、政府の要人たちが使節団を組織して、ヨーロッパ、アメリカに派遣されるが、それを提唱したのも、フルベッキだったんだよ。
 彼は、日本が鎖国の遅れを取り戻して、欧米の先進諸国に追いつくためには、リーダーが、直接、自分の目で世界を見て回り、体験する以外にないと、強く主張している。
 そして、どこの国に行き、何を見て、何を学ぶかまで、丹念に教えたようだ。
 指導者は、まず自らが学び、体験しなくてはならない。それを怠った時には、既に堕落であり、もはや真実の指導者ではない。虚構の権威の人にすぎなくなってしまう。
 私も、いつも、それを自分に言い聞かせている。だからこそ、寸暇を割いて、世界を回ろうと思っているんです。
 みんなも、未来の大指導者なんだから、学び、体験しようという姿勢を忘れてはならない」
11  開道(11)
 山本伸一と青年たちとの語らいは弾んだ。
 谷田昇一が言った。
 「フルベッキは聖書の日本語訳でも、名訳を残したと言われていますが……」
 「そうなんだ。彼の語学力は、極めて優れていたようだ。この習得の原動力は、宗教的な使命感にあったように思う。
 その国に貢献するためにも、なんといっても、まず語学を習得することだよ。
 戸田先生も、かつて、女子部の『華陽会』で、子供が生まれたら、三カ国語はマスターさせなさいと言われたことがある。
 これからは、航空機もますます発達し、世界は狭くなる。それなのに、若い世代が、自分に言葉の壁があって、自在に交流することもできないのでは、残念じゃないか。
 ともかく、語学だけでなく、世界に目を向け、あらゆることを勉強していこうよ。智慧は仏法によって得、知識は広く世界に求めていかなくてはならない」
 伸一にとって、青年たちとの語らいは、楽しい希望のひとときであった。
 伸一自身もまだ青年ではあったが、彼はより若い世代を大成させることこそ、自分が成さねばならない責務であると痛感していた。
 というのも、彼は、いつまで自分が生きることができるかは、全く測りかねていたからである。
 恩師である戸田城聖の構想を実現するために、生きて生きて、生き抜かねばならないという強い決意はあった。
 しかし、誰の目から見ても、伸一が無理に無理を重ねていることは明らかであったし、事実、彼の疲労は、常に激しかった。
 伸一が自宅に帰った時には、毎朝、彼の体温を測ることが、妻の峯子の日課となっていたが、そのたびに彼女の顔は曇った。微熱が続いているのである。
 峯子には、日々、″この人は今夜も無事に、家に帰って来られるのだろうか″との思いがあった。彼女は、伸一はいつ倒れても、おかしくはないと感じていたのである。
 伸一には、そんな峯子の気持ちが、痛いほどわかっていた。不憫に感じることもあった。
 しかし、彼は、会長という自らの使命を果たすために、民衆の新しき時代を開くために、命をかけて、動きに動こうと固く心に誓っていた。
 そして、もしも、自分が倒れたならば、後はいっさい、青年たちに託すしかないと考えていたのである。
 だからこそ、伸一は、青年の育成に、真剣に取り組んできた。どこにいても、青年たちの栄光の未来に期待を寄せ、その成長を念じながら、懸命に対話したのである。
12  開道(12)
 オランダでの仕事を終えて、山本伸一の一行が、フランスのパリに向け、アムステルダムを飛び立ったのは、十月十一日の午後二時過ぎであった。
 三時二十分、飛行機はパリに到着した。
 ホテルに着くと、一行はすぐに、大客殿の調度品などを購入するため、市内を回り、慌ただしくパリの第一日は過ぎた。
 翌日も、午前中から、購入に出かけた。
 一行の乗った車は、コンコルド広場から、シャンゼリゼ通りに入った。前方には凱旋門が見えた。
 凱旋門は、ナポレオンが戦勝を記念して、一八〇六年に建設を命じ、三十年後の一八三六年に完成している。
 一行は、凱旋門の二、三百メートル手前で、車を降り、しばらく門を眺めた。
 伸一が言った。
 「今日は、十月十二日だね……」
 その言葉には、深い感慨が込められていた。
 弘安二年(一二七九年)のこの日は、日蓮大聖人が、全世界の民衆の救済のために、大御本尊を建立された日なのである。
 同行の幹部が答えた。
 「そうなんです。その大御本尊御建立の日を、日本語で『仏の国』と書くフランスで迎えたことに、何か不思議な意味を感じていたんです」
 凱旋門は、太陽の光に映えて、白く輝いていた。
 伸一は、しみじみとした口調で語り始めた。
 「ナポレオンは、凱旋門を造るように命じたが、この門ができる前に、戦いに敗れ、セントヘレナ島に流され、死んでしまった。
 しかし、日蓮仏法を世界に広める私たちの戦いは、絶対に負けるわけにはいかない。なぜなら、永遠の平和の道が、民衆の永遠の幸福の道が断たれてしまうからだ」
 その言葉には、強い決意が込められていた。
 伸一は、同行のメンバーに尋ねた。
 「ところで、今のフランスのド・ゴール大統領が、かつて、ドイツ軍の支配下からパリが解放された時、この凱旋門を行進したことを知っているかい」
 「はい!」
 谷田昇一をはじめ、青年たちが一斉に答えた。
 「彼は、パリが陥落し、フランス政府がドイツ軍に降伏した時も、決して屈しなかった。
 たった一人になっても、祖国のために戦おうと、イギリスに渡り、そこから『自由フランス』の旗を掲げて、戦いを起こした。そして、再び、パリに戻って来たのだ」
13  開道(13)
 山本伸一は、第二次世界大戦での、ド・ゴールの戦いについて語り始めた。
 −−フランスに侵攻したヒトラーのドイツ軍は、一九四〇年六月十四日、花の都パリを占領した。街には、フランスの三色旗に代わって、ナチスのハーケンクロイツ(鉤十字)の旗が翻り、ドイツ軍の軍靴の音が、凱旋門にこだました。
 それは、誇り高きフランスの人びとにとって、忘れ得ぬ屈辱の日であった。
 パリが陥落すると、フランス軍の指導者であったペタン元帥は、新政府を組織し、ドイツに休戦を申し入れた。ヒトラーに屈したのである。
 そして、ペタンは、″フランスは戦闘を停止しなければならない″と、敗北と休戦を告げるラジオ放送を行った。
 ″これからフランスはどうなるのか……″
 人びとは、屈辱と絶望に打ちのめされた。
 しかし、その直後の六月十八日の夜、ドーバー海峡を隔てたロンドンから、ラジオの電波に乗って、男の声が流れた。
 その声は、まだ戦いは終わっていない、と断固たる抵抗を呼びかけていた。
 ″どんなことがあってもレジスタンス(抵抗)の火は消えてはならないし、また消えることはない!″
 声の主は、フランス軍の将軍ド・ゴールであった。当時、彼は四十九歳。全フランス的には、無名の軍人にすぎなかったが、「自由フランス」政権をつくり、ドイツ軍と徹底抗戦しようとしていた。
 ド・ゴールは、来る日も、来る日も、放送を通し、自由のための戦いを、団結を訴えていった。
 「戦いをやめる? それは単なる降伏ではない。それは奴隷になることだ。手も足も出ないようになって敵に引き渡されることだ」
 その声は、妨害電波網をくぐり抜けて聞こえてくるかすかな声であった。
 だが、それが、ドイツの支配下に置かれた暗黒の時代のなかで、勇気を呼び覚ます″希望の声″となっていったのである。
 この放送に、世界は喝采を送り、多くのフランスの同胞が立ち上がった。
 しかし、ドイツ軍に屈したペタン政権は、政府の決定に従わぬド・ゴールを、反逆者として欠席裁判にかけ、「死刑」を宣告したのである。邪悪な権力にとっては、「正義」こそが「最大の悪」となるのだ。
 ド・ゴールは一歩も引かなかった。イギリスのチャーチル首相やアメリカのルーズヴェルト大統領と掛け合い、「自由フランス」への支援を取りつけていった。
 彼のラジオ放送は、粘り強く続けられていた。
14  開道(14)
 ド・ゴールは、フランスの植民地であった北アフリカの諸地域を、一つ、また一つと味方にし、勢力を拡大しながら、本国をドイツから奪い返す日を待った。
 チャーチルもルーズヴェルトも、ド・ゴールを支援はしたが、彼に全面的な協力をしたわけではなかった。死刑を宣告された将軍の「自由フランス」など、取るに足らない存在として軽んじてさえいた。
 しかし、レジスタンス(抵抗)の運動を続ける人びとの、ド・ゴールへの熱烈な支持を知るに及んで、彼の存在を無視することはできなくなっていった。
 結局、ド・ゴールの真実の味方は、戦う民衆だけであった。
 また、そこに彼の強さもあった。民衆を味方にできる者が、最後の勝利者になるのである。
 一九四四年六月六日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦が決行された。フランスのレジスタンスの圧倒的な支持を受けていたド・ゴールこそ、この″史上最大の作戦″の鍵を握っていたといってよい。
 だが、作戦の直前、ド・ゴールが見せられたのは、連合軍最高司令官がフランス国民に命令するかのような、ラジオ放送用の宣言文であった。
 「ノン!」
 彼は、その宣言文を認めず、独自に、ラジオ放送でこう訴えた。
 −−この戦いは、フランスの戦いである。……フランス政府とフランス人の指導者の命令のもと、われわれの血と涙の重い雲の背後から、今こそ、フランスの偉大さという太陽が現れ出るのである!
 ド・ゴールは、上陸軍の船に乗り、六月十四日、フランスに上陸した。
 四年ぶりのフランス本土である。彼は万感を胸に、バイユーの町に入った。
 ド・ゴール到着の報は、瞬く間に広がり、人びとは続々と、広場に集まった。これまで彼の放送を聞き、その声に希望と勇気を得てきた民衆であった。
 ド・ゴールは、広場に設けられた台の上に登り、マイクの前に進み出ると、空に向かって両手を大きく斜めにあげ、Vの字をつくった。″勝利″への大宣言であった。
 そして、彼は敵と戦い抜くなかに、フランスの勝利があると叫んだ。
 すると、それに応えるかのように、人びとの間からフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の大合唱がわき起こった。
 その声は、祖国の大空にこだました。
15  開道(15)
 連合軍は、ドイツ軍を打ち破って前進し、遂に、八月二十五日、″パリ解放″の瞬間を迎えた。
 フランスの装甲師団がパリに入城すると、ドイツ軍司令官は、戦いを諦め、すぐに白旗を掲げた。
 ド・ゴールは、市民の歓呼の声に迎えられ、パリに凱旋した。
 パリは解放されたが、連合軍司令部は、なおもドイツの反撃を恐れていた。
 しかし、ド・ゴールは、翌二十六日の午後、連合軍の制止を無視して、解放の大祝典を断行した。
 彼は、まず凱旋門にやって来た。そして、下の無名戦士の墓に火をともし、凱旋門からコンコルド広場を通って、ノートル・ダム寺院までの大パレードを開始したのである。
 市民の誰もが、喜びに震えていた。誰もが感涙にむせび、笑顔を取り戻した。
 ド・ゴールは″ここは連合軍の国ではない。私たちの祖国フランスだ″と言わんばかりに、胸を張り、パレードの先頭に立って、堂々と、力強く、シャンゼリゼ通りを進んでいった。
 彼がノートル・ダム寺院に着いた時、銃声が鳴り響いた。人びとは、慌てて、身を伏せた。
 更に、何発かの銃声が起こった。だが、ド・ゴールは、何事もなかったかのように悠然としていた。
 この行進は、彼がフランスの新たなリーダーであることを満天下に示す、大パレードとなったのである。
 山本伸一が語る、ド・ゴールの戦いを、同行のメンバーは目を輝かせて聞いていた。
 ド・ゴールについては、さまざまな評価がある。しかし、伸一は、困難を跳ね返す人間としての強さに、共感していたのである。
 彼は言葉をついだ。
 「逆境のなかで勝利の道を開くものは、指導者の強き一念だ。そして、勇気ある行動だ。それが、一つの小さな火が、燎原の火となって広がるように、人びとの心に波動し、事態を好転させていく。
 では、ド・ゴールの強き一念の源泉とは何か。それは『私自身がフランスである』との自覚です。我々の立場で言えば『私自身が創価学会である』との自覚ということになる。
 つまり、人を頼むのではなく、″自分が主体者であり、責任者だ。自分が負ければ、みんなを不幸にしてしまうのだ″という思いが人間を強くするのです。
 私たちも、どんな苦戦を強いられようが、必ず勝って、広布の凱旋門をくぐろうよ」
 その言葉は、同行の青年たちの心に強く響いた。
16  開道(16)
 仕事を終えて、山本伸一の一行がホテルに戻って来た時には、正午近くになっていた。
 そこに、メンバーである、三十代半ばの和服姿の女性が、伸一を訪ねて来た。
 彼女はバレリーナで、パリに滞在しているが、昨日までスペインの舞台に出ていたという。
 「では、スペインから駆けつけてくれたんですね。ありがとう」
 伸一は、彼女の労をねぎらい、話に耳を傾けた。
 彼は、しばらく話し合ううちに、この女性の虚栄心の強さと、自信のなさを感じた。
 それは、華やかさのみを追い求め、地道に自分を磨き高めていく努力を、怠ってきたからであろう。
 彼は尋ねた。
 「あなたがパリに来た目的はなんですか」
 「はい。こちらでバレエを勉強して、一流のバレリーナになろうと思いまして……」
 「芸術を志す人が、パリに憧れをいだくのはわかります。しかし、パリにさえいれば、なんとかなるだろうという幻想は打ち破るべきです。
 一流を目指すことは、大いに結構です。しかし、そのためには、一段階、一段階の目標を明確にし、日々徹底した努力と挑戦がなければなりません。
 夢と決意とは違います。ただ、こうなりたい、ああなりたいと思っているだけで、血の滲み出るような精進がなければ、それは、はかない夢を見ているにすぎません。
 一流になろうと、本当に決意しているならば、そこには、既に行動がある。既に努力があります。成功とは、努力の積み重ねの異名です。
 夢と憧れだけをいだき、真剣な精進がなければ、気ばかり焦り、現実はますます惨めになってしまう。大切なのは足元を固めることです。仏法は最高の道理であり、その努力のなかに信仰がある。
 また、自分を開花させ、崩れざる幸福を確立していくには、信心という生き方の確固たる基盤をつくることです。人間は自分の境涯が変わらなければ、いくら住む所が変わっても、何も変わりません。その境涯を革命するのが仏法です。
 ともかく、二十年、三十年と、地道に信心を全うすることです。その時に、あなたの本当の人生の大勝利が待っています」
 眼前の一人をいかに励まし、使命と幸福の大道を歩ませるか−−壮大な広宣流布の流れも、そこから開かれる。いや、それが、すべてといってよいだろう。
17  開道(17)
 午後から、一行は、建築物などの視察に出かけた。
 彼らが最初に訪ねたのは、ルーヴル美術館であった。かつては、フランス歴代の王の宮殿として使用されていた、世界屈指の大美術館である。
 日本でもよく知られるレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」や、ウジェーヌ・ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」などの絵画、「ミロのヴィーナス」などの彫刻をはじめ、″世界の宝物″と言われる多くの作品が展示されている。
 わずかな時間ではあったが、ルーヴル美術館の所蔵作品を鑑賞できることは、山本伸一にとって、大きな喜びであった。
 彼は館内を巡りながら、一九五四年(昭和二十九年)の秋、上野の東京国立博物館で開催された「フランス美術展」を、戸田城聖が婦人部の代表五十人とともに、鑑賞したことを思い起こした。
 これは、ルーヴル美術館所蔵の作品が中心であり、当時としては、かつてない大規模の展覧会であった。
 戸田は、「これからの婦人は、世界に目を向けねばならない。それには、世界的な美術品を、直接、見ておくことも大事だ」と、婦人部の幹部を連れて行くことにしたのである。
 当時、学会の婦人たちの多くは、生活も苦しく、美術展に行くゆとりなど、経済的にも、時間的にも、また、精神的にもなかったといってよい。
 しかし、だからこそ戸田は、婦人たちを見識ある聡明な社会のリーダーに育てていくために、美術鑑賞の機会をもったのである。
 伸一は、もし、戸田と一緒に、このルーヴル美術館を回ることができたら、どれほどすばらしかっただろうかと思った。
 名宝という名にふさわしい、一つ一つの作品は、伸一に大きな感動を与え、彼の心を和ませた。
 美術館を一巡した後、同行のメンバーの一人が、頬を紅潮させて言った。
 「いやー、すごいものですね。写真で見ていたのと実物とは、まるで違う。やはり、本物を見ないとだめですね。
 ルイ・ダヴィッドの『ナポレオン一世の戴冠式』なんか、まず、絵の大きさに圧倒されました。横幅が十メートルほどもありましたから、大変な迫力でした」
 すると、伸一が頷きながら語った。
 「芸術というのは、民族や国境、宗教や習慣の違いを超えて、人間の心と心を結びつけるものだね」
18  開道(18)
 ルーヴル美術館の中庭で、山本伸一を囲んで、芸術談議が始まった。
 伸一は語った。
 「以前に読んだ、確か矢代幸雄という人の、『世界に於ける日本美術の位置』という本に、こんな話があったことを覚えている。
 −−ちょうど満州事変のころ、アメリカでは反日感情が高まり、日本をボイコットせよ、という声が強くなっていた。
 そんな折、ボストン美術館の新規収集品の展示会が行われた。この展示品のなかに、日本の絵巻物が入っていた。その絵巻物の前には、たくさんの人びとが集まって来て、口々にその美しさを褒め称えた。
 当時は、日本の立場を説明する演説会やパンフレットは、無視されるか、反感をつのらせるかという時代であった。
 しかし、そのなかで、この絵巻物は、政治的な対立や人種差別、敵対感情を超え、心の共感を勝ち取ったというわけだ。
 優れた芸術は、人間性の発露であり、人間性の表現であると思う。ゆえに、自由であり、多様性をもっている。
 それは、武力や暴力など、外圧的な力で、人間を封じ込める″野蛮″の対極にあるものだといえる。
 だから、芸術は、政治問題などの外からの規制を超えて、より深い次元で共鳴し、共感し合い、友情を結ぶことができる。私は、そこに、世界平和への芸術の可能性を感じるのです」
 伸一は語りながら、ルーヴル美術館が、世界中から人びとが集う「美の殿堂」「芸術の広場」であることを実感していた。
 しかし、このルーヴルの至宝も、かつて、ナチス・ドイツによる略奪の危機に直面したことがある。それを守り抜いたのが、後に、伸一と深い友情で結ばれることになる、当時、ルーヴルの絵画部長のルネ・ユイグであった。
 ユイグはドイツ軍のフランス侵略の渦中、「モナ・リザ」をはじめ、主な所蔵品を、死を覚悟で密かに運び出し、古城に隠した。
 当然、ドイツ軍は、これらの名品を要求してきた。国家の資産としても多大な価値があるだけでなく、ヒトラーが、美術品には、ことのほか大きな関心をもっていたからである。
 だが、ユイグは、知恵を絞って交渉にあたり、それを拒否し、所蔵品を守り抜いたのである。
 ″ここにある美術品は、全人類の財産である。それを野蛮な侵略者の手に渡しては絶対にならない″というのが、文化の英雄ルネ・ユイグの信念であった。
19  開道(19)
 ところで、大量殺戮を重ねた独裁者ヒトラーは、一方で、芸術をこよなく愛した人間でもあった。
 そして、彼は、自らの独裁体制を固めるために、芸術・文化を巧妙に利用し、自己の野望を実現する手段にしていったのである。
 ヒトラーの独裁下では、芸術の価値は、ナチズムやドイツ民族を鼓吹するかどうかで決められ、そうでないものは、排除された。まさに、権力による芸術の検閲であり、精神の自由に対する介入であった。
 にもかかわらず、芸術家や文化人のなかには、ナチスの″お墨付き″を喜び、ヒトラーやナチスを称える発言をし、そうした作品を積極的に手掛けていった人も少なくなかった。
 また、戦時中の日本にあっても、多くの文化人、教養人が、軍国主義の先導役となっている。
 では、なぜ、文化や芸術を愛する人間が、″野蛮″の最たるものともいえる戦争を賛美し、積極的に協力していったのか。
 一つの次元から言えば、それは、「確固たる自分がなかった」ということではないか。自分がないとは、結局、哲学がないということである。
 その哲学とは、自身の心を、人間性を耕して、生き方、信念を形成するものという意味である。
 ″文化″すなわち″カルチャー″の、西洋でのもともとの意味は″耕す″ことであった。未開拓の状態にある荒れ地を耕して、豊かな大地の実りを生む。それが農耕という文化だ。
 同様に、人間の魂も未開拓のままでは、荒れ地になってしまう。
 それを耕し、手入れをして、価値の果実をもたらすのが文化であり、そのためには、哲学がなければならない。
 自分を耕すことを忘れ、精神を荒れ地のままにしておいて、どんなに文化を論じ、文化に深い造詣をもっていたとしても、それは文化を自己の装飾にしているにすぎない。
 だから、文化人を自称していても、軍国主義に飲み込まれ、あるいは、拝金主義に流されていってしまうことになる。
 イギリスの詩人のT・S・エリオットは、「いかなる文化も何等かの宗教を伴わずしては出現もしなかったし発展もしなかった」と言った。
 本来、偉大な芸術、文化の根底には、哲学、そして、宗教的な何かがある。
 ルーヴル美術館の数々の名品も、多くはキリスト教という土壌の上に咲いた精華であり、そこには、宗教によって耕された″聖なる心″が投影されているといえよう。
20  開道(20)
 山本伸一は、未来を思い描くように言った。
 「宗教と、芸術、文化というのは、本来、切っても切れない関係にある。
 古来、仏教も、多くの芸術、文化の華を咲かせてきた。これから、広宣流布という民衆の生命を耕す、大文化運動が進めば、日蓮大聖人の仏法を根底にした、新たな芸術、文化の絢爛たる華が開いていくことになる。楽しみだな……。
 そうした芸術の創造のためにも、また、民族、国境を超えて、民衆と民衆の相互理解を深める交流のためにも、いつの日か、美術館をつくりたいね。
 そこで、世界各国の名画や彫刻が公開され、人びとの心に共鳴の波動が広がっていくことを思うと、楽しくなるじゃないか」
 伸一の話は、常に、未来へと、希望へと向けられていった。
 青年たちが、彼と語り合うことを求めている理由の一つは、そこにあったといえる。
 過去を振り返り、懐かしむだけの話は、既に向上を失った精神の発露にほかならないことを、彼は知っていた。それは、未来に伸びゆく青年たちの触発にはならないのみか、自らの心の老いを誘発する。
 ルーヴル美術館を出た一行は、モンマルトルの丘に向かった。サクレ・クール寺院の建築を視察するためである。
 伸一たちは、モンマルトルのテルトル広場の近くで車を降り、秋の日差しを浴びながら散策した。
 広場の周辺には、土産物店が立ち並び、そのなかに、絵画を並べた一軒の小さな店があった。
 飾られた名画の複製や版画、エッチングのなかに、平凡だが、伸一が心を引かれた一枚の絵があった。
 一人の初々しい娘と、はつらつとした紅顔の青年が部屋の隅で、何か話している色刷りのエッチングである。娘は、長い古風な衣装で身を包み、前掛けをかけている。その傍らには紡ぎ車がある。
 青年は、思いたって娘のところに駆け込んできたのか、頬を紅潮させ、椅子に座ることも忘れている。青年を見つめる娘の表情は、可憐な花のようであった。
 そこには、輝くばかりの若さがあり、清らかな情熱を秘めた愛の鼓動が、音をたてて流れているように感じられた。
 伸一には、その青年と娘が、ヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』に登場する、自由の戦士マリユスと、ジャン・ヴァルジャンが手塩にかけて育てた娘のコゼットであるかのように思えた。
21  開道(21)
 ユゴーの『レ・ミゼラブル』を、山本伸一は二十歳前後のころ、幾度となく読み耽った。そして、大ロマンの舞台となったパリの都を思い描いてきた。
 だから、石づくりの古い建物が、そのまま残されているパリの街を見た彼の心には、憧れと親しさと懐かしさが入り交じっていた。
 そんな気持ちが、この一枚の絵に描かれた青年と娘を、マリユスとコゼットのように感じさせたのかもしれない。
 彼は、この絵をはじめ、数枚のエッチングや版画を買い求めた。
 かつて、このモンマルトルで、ゴッホも、ロートレックも、ピカソも、モディリアーニも、青春の一時期を過ごしている。
 テルトル広場では、画家たちが観光客を相手に、似顔絵を描いたり、自分の絵を売ったりしていた。
 伸一は、その光景を見ながら言った。
 「このなかにも、未来のゴッホやピカソがいるかもしれないね。
 私も似顔絵を描いてもらおう」
 伸一は、カウボーイのような帽子を被り、顎ヒゲのある青年の画家に、似顔絵を頼んだ。
 画家は、伸一を肘掛けのついた椅子に座らせると、自分も同じ形の椅子に座って、足を組んで、しばらく伸一の顔を見ていた。
 「いい顔だ!」
 画家は、フランス語でこう言うと、素早く絵を描き上げていった。その間、ほとんど伸一の顔を見ることはなく、視線は画用紙の上に注がれたままだった。
 出来上がった絵は、伸一とは、全く別人の顔をしていた。代金は円に換算すると、七、八百円になった。このころは、日本ではラーメン一杯が五十円ぐらいの時代である。かなり高い金額だというのが、皆の印象であった。
 川崎鋭治がフランス語で画家に「ぜんぜん似ていないではないか」と抗議すると、画家は言い返した。
 「いや、よく似ているはずだ。芸術的な完成度も高い。それがわからずに文句を言うのは、見る目がないんだよ」
 皆、それを聞くと、思わず噴き出してしまった。
 伸一は、画家に代金を払いながら語りかけた。
 「ありがとう。私はあなたの可能性を信じます。将来を楽しみにしていますからね。未来のゴッホさん」
 すると、画家は言った。
 「あなたは、芸術への理解が深い」
 また、笑いが起こった。画家も笑って手を振った。
22  開道(22)
 丘の上には、丸いドームを持つロマネスク・ビザンチン様式の、白亜のサクレ・クール寺院が建っていた。
 そこからは、パリ市内を一望することができた。
 澄んだ秋空の下に、″花の都″の美しい景観が広がっていた。ノートル・ダム寺院の尖塔やオペラ座、エッフェル塔、更に、ブーローニュの森も見えた。
 山本伸一は、傍らにいた川崎鋭治に話しかけた。
 「フランスは、文化の国として世界をリードしてきた。これからはどうなるだろうか」
 「実は、それが今後のフランスの大きな課題ではないかと思います。最近では現代美術の中心も、アメリカに移っていると言われています。
 フランスが、将来も、これまでのように、優れた文化や精神を、世界に向かって発信していくことができるかどうか、正直なところ疑問視する声もあります」
 「しかし、フランスには輝かしい人権宣言の歴史がある。そこで謳われた『自由』『平等』『博愛』の精神は、本来、永遠のものであり、人間性の勝利へとつながるものだと思う。
 その精神を本当に実現していくならば、フランスは永遠に世界の指標となるだろう。
 また、それを行っていくのが私たちの運動です。
 川崎さん。あなたが中心になって、このフランスから、本当の人権の勝利の波を、全ヨーロッパに広げてもらいたい。
 そのために、一人でも、二人でも、着実に信頼できる友人をつくり、その輪を更に、東欧にも広げていくのです。自分が関わった人たちのなかに、自分の世界に友情の華を咲かせ、『自由』と『平等』と『博愛』の園を築いていく。そこにこそ、仏法の実践と流布がある」
 伸一を見つめる川崎の瞳が光った。そこには、決意の輝きが秘められていた。
 一行は、そこから、郊外にあるヴェルサイユ宮殿に車を走らせた。
 この宮殿は、絶対王政を打ち立て、太陽王と呼ばれたルイ十四世によって造営されたものである。
 それまで、ここには、父王のルイ十三世の小さな城館があったにすぎなかったが、一六六一年に親政を開始したルイ十四世は、最高絶対の権威をもつ王にふさわしい、豪壮華麗な宮殿に増築・拡張するように命じたのである。
 多くの人びとが労働に駆り立てられ、前代未聞の大工事の果てに、パリからヴェルサイユに宮廷が移されたのは、一六八二年のことであった。
23  開道(23)
 贅を尽くした豪奢なヴェルサイユ宮殿に、一行は目を見張った。
 柱や壁などにふんだんに使われた黄金、大理石の壁、天井いっぱいに描かれた巨匠による絵、絢爛たるシャンデリア……。
 建物の全長は五百五十メートル、一万人が収容できると言われる。
 宮殿では、毎夜のように宮廷楽団の演奏が行われ、オペラも上演され、大会食会が開かれたのであった。
 広大な庭には、セーヌ川の水を引いてつくったという、幾つもの泉水があり、また、随所に、著名な彫刻家の作品が置かれていた。そのたたずまいは、この世の楽園を思わせた。
 しかし、この宮廷の浪費を賄うには、莫大な金が必要であり、民衆は重税に苦しみ、生活は限りなく窮乏していった。食べるに事欠く民衆を尻目に、王やそれを取り巻く貴族たちは、快楽をほしいままにしていたのである。
 やがて、民衆の怒りは、マグマのように心の底にたぎり、ルイ十四世の死から七十余年後、遂に、フランス革命となっていった。
 山本伸一は、しみじみとした口調で語った。
 「権力と権威で民衆を踏みにじり、こんな贅沢三昧をしていれば、革命が起こるのは当然だな……。
 しかも、ルイ十四世は、新教徒(プロテスタント)の信教の自由を認めた『ナントの勅令』を廃止し、新教徒に、旧教(カトリック)への改宗を命じた」
 「ナントの勅令」とは、一五九八年、フランス王のアンリ四世が、フランス西部のロワール川下流の都市ナントで発布した、信教の自由を認めた勅令である。
 これによって、フランスの王権と一体になったカトリック教会と、ユグノーと呼ばれる新教徒との間で続いていた宗教戦争の嵐が収まったのである。
 「権力に酔う人間は、武力や権力、あるいは金の力で、なんでもできると思ってしまう。
 しかし、不屈の信仰に生きる人間の心、精神を自在に操ることなど、絶対にできない。どんなに過酷な弾圧も、不屈の人には、信仰の火に油を注ぐことでしかない。また、そうであってこそ本当の信仰だ。
 権力を手にし、傲慢になると、人間のその精神の偉大さ、強さがわからなくなってしまう。それは人間を軽んじ、侮ることにほかならない。
 だから、そうした為政者や体制は、いつの日か必ず滅びていく。
 それに対して、人間の精神の力を最大限に引き出し、ヒューマニズムが勝利する時代を創るのが、私たちの運動だ」
24  開道(24)
 山本伸一は、ヴェルサイユ宮殿の庭に出た。
 彼は、石段に腰を下ろし、広大な庭園を眺めながら、建設計画が進められている、総本山の大客殿をはじめ、次に着手することになる正本堂に思いを馳せた。
 ヴェルサイユ宮殿は、民衆の犠牲のうえに出来上がったものだが、学会が推進しようとしている、これらの建物の建設は、民衆の真心と歓喜によって築かれるものである。
 しかも、それは、王や貴族のものではなく、一部の僧侶のためのものでもない。仏法のためであり、世界の民衆が参詣するための建物である。
 その建物の完成は、人間の精神の勝利と、民衆の栄光の時代の幕開けを告げる象徴となろう。
 伸一は、新しき人類の歴史を開く、創価学会の偉大な使命に、胸を躍らせるのであった。
 一行は、ヴェルサイユからパリ市内に戻り、セーヌ川で、大客殿に納める小石を集めた。
 この日のスケジュールも強行軍であったが、短時間とはいえ、ルーヴル美術館を見学し、名画などを目にしたことに、伸一は満たされた思いをいだいていた。
 夜、ホテルに着くと、川崎鋭治が伸一の部屋にやって来た。
 「山本先生、お疲れでしょうから、ビタミン剤を打ちましょうか」
 「いいよ。川崎さんの注射は痛いから……」
 川崎は頭を掻いた。二人は声を上げて笑った。
 この夜も、伸一は、遅くまで日本の同志あてに、何枚も絵葉書を書いた。
 翌十三日、一行は午前十一時にパリの空港を発ち、イギリスのロンドンに向かった。
 ロンドンの空港では、大客殿の資材の買いつけを依頼している会社の駐在員らが出迎えてくれた。
 伸一がロビーで、駐在員らと談笑していると、少し離れたところに、三十歳前後と思われる日系人の女性と、夫らしい、恰幅のよいイギリス人の男性が、遠慮がちにこちらを見ていた。
 伸一は、女性の顔に見覚えがあった。彼が手をあげると、女性は微笑み、伸一の傍らにやって来た。
 「ありがとう。出迎えてくれたんだね。また、お会いできて嬉しい」
 この女性は、シズコ・グラントと言い、この年の一月に、伸一が香港を訪問した折に、集って来たメンバーであった。
 彼女は、香港で、間もなく、夫の仕事の関係で、夫の祖国であるイギリスに帰ることを、伸一に報告していたのである。
25  開道(25)
 香港からイギリスに渡った一婦人が、元気な姿で自分を迎えてくれたことが、山本伸一は、このうえなく嬉しかった。
 彼は、婦人の隣にいた男性に視線を向けた。
 「ご主人ですか?」
 シズコ・グラントが頷きながら答えた。
 「はい、そうです。まだ信心はしておりません」
 「あなたに協力してくれる、大事なご主人です。大切にしてあげてください」
 伸一は、彼女に、こう言うと、夫に丁重にあいさつし、握手を交わした。
 彼女は、三年前の一九五八年(昭和三十三年)に広島の呉で入会した。その後、イギリス軍の軍人であった夫と結婚し、香港に渡り、この六一年(同三十六年)の三月に、イギリスのオックスフォードにやって来たのである。そのなかで、日本から送ってもらう聖教新聞を、唯一の糧にしながら、信心に励んできた。
 伸一は、シズコ・グラントと夫を、彼が宿泊するロンドン市内のホテルに招いて懇談した。
 彼は、優しい口調で語りかけた。
 「言葉も通じない、見知らぬ土地で、一人で信心しなければならず、さぞ心細かったことでしょう」
 その言葉を聞くと、彼女は目頭を潤ませた。
 「はい……。夫は優しくしてくれますが、それでも寂しくて仕方ありませんでした」
 「人間は自分の使命がわからず、何をすべきかを自覚できなければ、寂しくもなれば、孤独にもなるものです。
 あなたは、このイギリスの広宣流布の開拓という使命をもって、ここに来ているのです。仏法の眼から見れば、決して偶然ということはありません。
 ですから、たまたまイギリス人のご主人と一緒になり、イギリスに来たわけではない。
 御書をひもとけば、私たちは、過去世において、日蓮大聖人とともに地涌の菩薩として、末法の広宣流布をする約束をして、そのために現在、こうして出現してきたことが明確に示されています。
 つまり、あなたは仏弟子として、大聖人から派遣されて、このイギリスにやって来たのです。その久遠の使命を自覚し、果たそうとしていくところから、大歓喜が生まれ、新たな人生の扉が開かれていくのです」
 人間の精神を支えるものは使命である。仏法は、その使命という、人生の最高の意義を教える。
 ゆえに、仏法は、生き抜く力、勇気の明かりとなり、自己の世界を希望の光で包むのだ。
26  開道(26)
 シズコ・グラントの頬は次第に紅潮していった。
 山本伸一は、彼女が、使命の人として一人立つことを念じて、指導を重ねた。
 「イギリスには、日本から来た四、五人のメンバーがいると聞いています。まず、その方たちとしっかり連絡を取り、励まし合っていってください。
 また、たくさん友人をつくって、その人たちとともに幸せになるために、仏法を教えていくことです。
 人のために尽くすことは自らの生命を浄化し、自身の境涯を開いていきます。あなたの活躍を、私は期待していますよ。
 今日は、せっかく来てくださったのだから、何か相談があれば、この後、一緒に来ている幹部と話し合ってください。
 それから、もし、よろしければ、明日、市内を回りますので、ご一緒にいかがですか」
 「はい。よろしくお願いします」
 シズコ・グラントは、嬉しそうに答えた。
 彼女は、一時間ほど、同行の幹部に指導を受けて、帰っていった。
 その夜、伸一の部屋に、皆が打ち合わせのために集まって来た。
 伸一は言った。
 「ここで、ヨーロッパの組織について、検討したいと思う」
 同行の幹部が尋ねた。
 「やはり、ヨーロッパは支部か総支部とし、各国に地区を置くことになるのでしょうか」
 「いや、今は、各国ともほとんどメンバーはいないのだから、急がなくてもよいのではないか。
 アメリカやアジアに総支部をつくったからといって、ヨーロッパもそれに合わせる必要は全くない。
 なんでも画一的に考えるのではなく、各地の実情に合わせて、対応していくことが大事だよ。
 ヨーロッパの場合は、まず、西ドイツ(当時)、フランス、そして、このイギリスに連絡責任者を置いたらどうだろうか。
 そして、その人たちを中心に、メンバーが増えてきたら、正式に地区などを結成していくようにした方がよいと思う。ヨーロッパは、足元を固めながら、じっくりやろうよ」
 伸一は、何よりも実質を重んじた。
 アメリカでは、ほとんどメンバーがいないネバダにも地区をつくり、オリバー夫妻を地区部長と地区担当員に任命した。
 それは、この夫妻ならば、自分たちの力で、地区を建設することができると、確信したからである。また、自分で組織をつくり上げることができてこそ、本当のリーダーといえる。
27  開道(27)
 組織をつくることに対して、山本伸一は、常に慎重であった。
 全会員に、漏れなく激励と指導の手を差し伸べていくには、組織は必要不可欠である。
 しかし、それぞれの国情も、十分に考慮しなければならない。また、中心者にふさわしい人が、育っているかどうかが、最も大事な要件となる。
 特に、ヨーロッパの場合は、伝統的なキリスト教社会であるだけに、中心者になる人には、その文化をよく理解し、無用な摩擦を起こさぬ配慮も求められる。
 広宣流布の目的は、どこまでも、その国の人びとが良き市民となり、社会に貢献しながら、自身の幸福と平和を築くことにある。
 だから、伸一は、社会を大切にしていた。また、同志を守ることに、誰よりも心を砕いていた。そして、それゆえに、組織をつくることには、慎重にならざるを得なかったのである。
 同行の幹部たちも、彼の考えに同意し、まず、国や都市に連絡責任者を置くことになった。
 検討の結果、ドイツ連絡責任者として、一行を空港で迎えてくれた日系の婦人が、パリ連絡責任者として、バレリーナの婦人が、更に、ロンドン連絡責任者として、シズコ・グラントが内定した。後は、本人の意向を確認し、決定をみることになる。
 各国の人事の案が決まると、伸一は、川崎鋭治に言った。
 「ところで、ヨーロッパ全体の連絡責任者は、川崎さんにやってもらおうと思うがどうだろうか」
 川崎は、一瞬、緊張した顔をしたが、大きく息を吸い、元気な声で答えた。
 「はい、わかりました」
 「よし、これでヨーロッパは大丈夫だ! 今日は、ヨーロッパと川崎さんの新しい出発の日だよ」
 川崎は、その言葉にハッとした。考えてみれば、山本会長は、以前から、このことのために、信心もわからぬ自分と何度も会い、忍耐強く激励し、指導してきてくれたのではないかと、彼は思った。
 そして、二年前に初めて伸一と会って以来の、数々の思い出が川崎の頭に浮かんでは消えていった。
 また、このヨーロッパの旅の間も、山本会長が寸暇を見つけては自分に語りかけ、あらゆる機会を通して仏法のリーダーとしての在り方を、教えてくれていることが実感された。
 ″いよいよ私も立ち上がる時が来たのだ。この先生の期待に応えなければならない。「信心の名医」になるぞ!″
 川崎は、欧州広布の使命を深く自覚したのである。
28  開道(28)
 ロンドンでも天候に恵まれ、晴れた日が続いた。
 十四日は、朝から市内を回った。
 大英博物館やバッキンガム宮殿、更に、郊外にある王室の居城となっているウィンザー城や、チューダー王朝などの王宮だったハンプトン・コートにも足を延ばした。
 ロンドンの街は、華やかなパリに比べ、落ち着いた風格があった。
 街を行く男性も、きちんと帽子を被った″イギリス紳士″が多く、歴史と伝統を大切にする気風を感じさせた。
 途中、とある公園を歩いた。ベンチで憩う、たくさんのお年寄りの姿が目についた。
 「ハロー。ちょっと隣に座ってもよろしいですか」
 山本伸一は、丁寧に帽子を取り、七十代半ばと思われる白髪の老人に、声をかけた。
 同行のメンバーが、それを英語に訳して伝えると、その老人は、穏やかな目で頷いた。
 伸一が日本から来たことを告げると、語らいが始まった。
 このころ、イギリスでは六十五歳以上の高齢者の比率は、人口の一二パーセント近くに達していた。
 一方、日本は、まだ、六十五歳以上の高齢者の比率は六パーセントに満たなかった。しかし、医学の進歩などによって、日本も他の先進国と同様に、平均寿命は飛躍的に伸びつつあった。また、人口は都市に集中して、核家族化はますます進み、子供の数は減りつつあった。
 すると、日本も、将来、高齢者の人口比率は増加の一途をたどることが予想された。
 にもかかわらず、老年問題−−今日いうところの″高齢化社会″の問題に対する一般の関心は、まだまだ低かった。
 しかし、伸一は、会長として、年配の同志のことを考え、また、日本の将来を考えると、この問題にも、決して無関心ではいられなかった。
 デンマークで高齢者アパートを視察したのも、そのためであったし、「揺りかごから墓場まで」と言われる、優れた社会保障の制度をもつイギリスの実情も、知っておかねばならないと思ったのである。
 老人は、公園のベンチで伸一と語り合ううちに、ぽつりぽつりと、身の上を話し始めた。
 かつては、繊維工場に勤めていたが、既に退職し、今は、年金を受け、二階建ての集合住宅で独り暮らしをしているという。息子は二人いるが、それぞれ郊外に家を建てて住んでいるとのことだ。
29  開道(29)
 山本伸一は言った。
 「イギリスの社会保障は優れていますから、経済的な面では、どの国のお年寄りより、恵まれているのではないかと思います」
 老人は、深い皺の刻まれた口元に笑いを浮かべた。自嘲的な笑いであった。
 「ほかの国のことは知らないが、確かに、私たちは生活に困ることはないし、病院へも行ける。でも、決して楽ではない。
 年寄りが増え、働き手が少なくなれば、国の経済力は落ちていくからだろう。かつて、七つの海を支配したイギリスの未来と、自分の老後に、私はもっと期待していたんだがね……。
 年金暮らしを始めてからも、私は、まだしばらくは働きたいと思った。体も元気だったからね。しかし、年寄りを雇ってくれる会社はなかった。むしろ、それが、一番寂しかった。生きる張り合いがなくなったというか……」
 伸一は、老人の話を聞きながら、日本の未来を重ね合わせていた。
 −−この当時、日本では、五十五歳を定年とする企業がほとんどであった。
 イギリスに比べ、社会保障の制度の遅れた日本では、高齢者の比率が増えれば、年金制度も行き詰まり、年金だけで生活することは困難になる可能性も高いに違いない。
 それを避けるためには、年金制度だけでなく、定年制も見直し、高齢者にも、広く就労の場を提供する必要があろう。
 また、人間の生きがいという面でも、一定の年齢に達したからといって、一律に就労の場がなくなるということは、大きな問題をはらんでいる。
 しかし、高齢者の雇用を推進しようとするならば、お年寄りに適した仕事のペースや勤務時間を考え、通勤ラッシュや職場環境などを改善することも不可欠となろう。つまり、就労一つとっても、さまざまな問題に波及していく。
 ″高齢化社会″に備えるためには、従来の社会の在り方そのものを考え直し、政治はもとより、医療機関、企業、住民など、社会全体で取り組まなければならない。しかも、それらは、一朝一夕に対応できることではない。
 それだけに、国家の指導者には、未来を見すえて万全な対策を練り上げていく構想力と、それを実行していく、リーダーシップと、責任感とが求められる。また、そうでなければ、国民が不幸である。
 伸一は、こう考えると、賢明にして責任ある政治家の出現を、待望せざるを得なかった。
30  開道(30)
 秋風に、色付いた木々の葉が揺れていた。
 老人は、自分の気持ちを山本伸一に語っていった。
 「実は、二年前、妻に先立たれてしまってね。私にとって、最大の衝撃だった。人生から急に光が失せてしまったよ……」
 老人は、語るうちに目頭を押さえた。伸一は、優しい口調で尋ねた。
 「親しくしているお友達はいないのですか」
 「近所に同じ年の親友が住んでいたが、その男も、半年前に死んだ。人間なんて、はかないものだ。
 今では、一日中、部屋にこもり、誰とも言葉を交わさないことがよくある。いや食事を作ることさえ面倒になり、抜かしてしまうことが多い……」
 その言葉には寂しい響きがあった。伸一は思った。
 −−老年問題を考えると、社会保障などの制度の整備が必要であることはいうまでもないが、同時に、友情と励ましと助け合いの人間の輪が大切になる。
 隣近所のお年寄りに声をかける。親身になって話に耳を傾ける。自主的にできる限りの応援をしていく−−周囲にそうした思いやりのネットワークがあれば、独り暮らしをしていても、孤独感や不安感は、随分、軽減されるに違いない。
 日本の都市部にも、町内会や自治会などの組織はあるが、それが人びとの心を結ぶ、助け合いの″現実の力″として機能しているかといえば疑問である。
 ここまで考えた時、伸一は、従来のタテ線の組織とともに、近年、学会が力を注いできた、地域に根差したブロック組織に思いをめぐらした。
 そこには、同じ地域に住む人びとが、互いの幸福を願い、親身になって相談にのり、いたわり、励ます、人間の融合の姿がある。利害ではない、無償の助け合いの人の輪である。
 独り暮らしのお年寄りに対して、日々、自分の親のように接し、何かとお世話している同志の話も数多く耳にしてきた。しかも、各人が、自分の考えで、自発的に行っているのである。
 また、会合で、整理や誘導にあたる、学会の青年たちの姿にも、お年寄りを大切にする心を感じることができた。
 では、なぜ、学会のなかに、そうした精神が育まれていったのか。
 戸田城聖は「青年は、親をも愛さぬような者も多いのに、どうして他人を愛せようか」と、仏法者の当然の生き方として、民衆を、そして、親を愛することを教えてきた。
 更に、日蓮大聖人は、人間の道として報恩を説き、父母や衆生などの恩についても述べられている。
31  開道(31)
 報恩は、仏法を貫く特徴的な考えといってよい。
 そして、そこには、縁起(縁りて起こる)、すなわち、いかなる物事も、たった一つで存在するのではなく、すべては、互いに依存し、影響し合って成り立つという思想がある。
 この考えに立つならば、今の自分があるのも、多くの人びとに支えられてきたからであり、親に限らず、他者への感謝と報恩の心で、接していこうとすることになる。
 つまり、学会の世界に見られる麗しい人間の絆は、この仏法の「共生」の哲学を、一人一人が身につけてきたからにほかならない。
 社会保障の制度が完備されているからといって、晩年の人間らしい生活が保障されることにはならない。それは、人が生きるための、必要な条件の一つにすぎないといえよう。
 たとえば、どんなに立派なストーブがあっても、石炭などの燃料を燃やさなければ、部屋を暖めることはできない。社会保障の制度がストーブだとすれば、燃料を燃やす行為にあたるのが、身近に接する人びとの思いやりであり、心遣いである。
 こうした人間的な支援こそ、高齢化した社会を守り、支える、最も大切な要件といえる。
 また、お年寄りが人間らしく生きることのもう一つの要件は、なんらかの役割を担い続けるということであろう。
 体力は衰えても、自分のなすべき仕事をもち、若い世代とも交流し、生きがいを創造できてこそ、人間的な生活といえる。
 その点、たとえば、かつての農家では、大家族で生活を営み、子や孫との日常的な接触があり、高齢になっても、自分の役割、仕事があった。
 特に、経験に裏付けられた老人の知恵が尊重され、孝養を重んじる日本社会の伝統が生きていた。およそ、お年寄りが疎外されることはなかったといってよいだろう。
 しかし、日本の工業化が進むにつれて、人口は大都市に集中し、家族は分散され、核家族化が広がっていった。しかも、目覚ましい技術革新の波は、多くの分野で、経験を積み重ねてきた熟練者の技術を必要としなくなった。
 それに対して、学会にあっては、年配者の活躍の場は数多い。
 人間の道を学び深める信仰の世界にあっては、幾多の試練を経てきた、豊富な人生経験をもつ人びとのアドバイスが、皆の生き方の最大の参考となり、手引きとなるからである。
32  開道(32)
 友の激励に自己の使命を見いだし、人びとのよき相談相手となり、後輩の成長を見守る、高齢の同志は数限りない。
 その姿には、はつらつとした生命の輝きがある。
 老年期とは、人生の総仕上げの時代であり、精神の完成期といえよう。
 社会的な地位や立場、また、金やモノにも翻弄されることなく、一個の人間として、生と死を、そして、自己自身を見つめ、人生の本当の価値を探求できる年代である。
 しかし、どこまでも自分を高め、自己完成への意志を持ち続けていくには、確かな生死観、生命観をもつことが不可欠であろう。
 古来、幾多の人びとが不老不死を願望してきたが、人間は生老病死を離れることはできない。いかなる人も、やがていつかは老い、死んでいく。
 だが、この世は、ただ無常なだけの世界で、死によってすべてが終わるとすれば、多くの人は、死を前にして、人生のはかなさ、空しさを覚えるに違いない。
 そして、そのなかで、自己の完成に向かって、最後まで努力し続けることが、果たして可能であろうか。
 人間が最高の生を全うするためには、死をどうとらえるかが、極めて重要な問題となってくる。
 また、死後、自分がどうなるのかを考える手掛かりがなければ、人は死に対して大きな不安を感じよう。
 ましてや、死んだ後に、「地獄」という苦しみの世界が待っていると思えば、死は最大の恐怖以外の何ものでもなくなってしまう。
 仏法は、その死と生とを解明した、生命の法理である。「無常」の世界を貫く「常住の法」があることを説き、生命の永遠を明かしている。
 すなわち、肉体は滅しても、生命は滅びることなく、また、新たな誕生を迎える。そして、罪業も、福運も、境涯も、自分がつくり出したものであり、それは、そのまま、来世にも引き継がれると説く。
 更に、仏法の偉大さは、今世でその宿業を転換し、いかなる試練にも負けない自己を確立し、絶対的幸福境涯を築きゆく方途を示していることにある。
 つまり、今世の人生の勝利が、そのまま来世のスタートとなることを、仏法は教えているのである。
 この生命の法理に立脚してこそ、人は死を直視し、限りある人生の一日一日を最後の瞬間まで、人間の完成に向かい、自己を燃焼させ続けることができる。
 また、その求道の心には、「生涯青春」の息吹が脈打っていく。
33  開道(33)
 ドイツに生まれ、アメリカに育った、ユダヤ人の詩人サムエル・ウルマンは、「青春」と題する詩で、次のようにうたっている。
 青春とは人生のある期間ではなく、
 心の持ちかたを言う。
 薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな手足ではなく、
 たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
 青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
 青春とは臆病さを退ける勇気、
 安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
 ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。
 この詩は、山本伸一がイギリスにあって考えた、心の若さという問題を、巧みに表現していたといってよい。
 伸一は、日本の″高齢化時代″を考える時、創価学会の重大な使命を痛感せざるを得なかった。
 一人一人の同志が、それぞれの地域にあって、周囲に「共生」と「慈悲」のネットワークを広げていくならば、「人間砂漠」のような現代社会も、心のオアシスへと変えていくことができる。
 また、「生涯青春」の気概で、人生を全うしていくためには、仏法という確かな生命の哲学を、人びとの心に打ち立てていかなくてはならない。
 人間は、誰でも、いつかは老いる。本当に″豊かな社会″とは、老いても、人間らしく、楽しく、喜びにあふれ、創造的な人生を最後まで全うしていける社会といえよう。
 時代は、間違いなく、仏法を渇望しているのだ。
 伸一は、公園で、老人と別れ際に、こう語った。
 「子供さんも、お孫さんも、おじいちゃんがいつまでも、元気でいることを願っているはずです。
 元気でいるためには、みんなのために、自分にできることは何かを考え、行動していくことです。周囲の子供たちや、同じお年寄りに声をかけて、励ましてあげることもよいでしょう。
 ともかく、いつまでも、なんらかの目標をつくり、希望と喜びをもって生きていくことです。
 私は、あなたのことは忘れません。人生の先輩に敬意を表します。いつまでもお元気で!」
 老人の顔に、屈託のない微笑が浮かんだ。
34  開道(34)
 この日の夜、山本伸一は、ロンドンに駐在している、日本の商社、銀行の何人かの関係者と語らいの場をもった。
 伸一は、イギリスの経済の展望や、ヨーロッパの未来について、話を聞きたかったが、あいにく、彼らが口にしたのは、この地での生活の不便さであった。
 散髪やクリーニングなども、日本と比べると仕事が粗雑であり、また、どの料理店も、自分たちには決してうまいとは思えないというのである。
 伸一は、笑いを浮かべながら言った。
 「外国に来て、日本と比べ、日本と同じことを期待するのは、間違いではないでしょうか。
 イギリス人も、フランス人も、日本に来れば、おそらく、いたるところで、不便を感じるでしょう。
 確かに『我が家が一番』というのは人情ですが、ことわざにも、『郷に入っては郷に従え』ともいうではありませんか。その国に来たら、やはり、その国の価値観、文化、感覚に立とうとするべきではないかと思います。
 これから、世界は、ますます狭くなっていくでしょう。そこで大事になるのが″心の世界性″であると、私は考えております」
 「ほう、″心の世界性″ですか……」
 商社の支店長が、興味深そうに言った。
 「つまり、日本の文化や伝統、生活様式を基準にして、それぞれの国を評価するのではなく、世界の多様性を認識し、そのまま受け入れていくことです。
 もちろん、日本人としての誇りや、自国の文化を守ることも大切です。世界性を身につけることは、自国の文化や伝統を捨てることではありませんから。
 ただ、自国を判定の基準にして、優劣を決めるという感覚から、脱皮していかなくてはならないということです。
 また、外国に居住しながら、日本人が、いつも日本人だけで行動するというのも、非常に閉鎖的な印象を与えかねません。
 その国の社会に溶け込む努力が必要であると、私は思うのですが……」
 すると、年配の列席者の一人が言った。
 「確かに、おっしゃる通りだと思いますが、年をとると、感覚を改めるというのは、なかなか難しいですな……。私なども、なんでも日本と比べてしまい、つい腹を立てたり、妙に感心してしまったりすることが多い。
 結局、なんだかんだと言っても、私には日本が一番いいですね」
35  開道(35)
 ここにいる人たちは、語学も堪能だし、海外生活も長いはずである。
 しかし、彼らには、日本的な閉鎖性が根強く残っているようだ。山本伸一は、正直なところ、残念でならなかった。そして、何がそうさせているのかを、考えざるを得なかった。
 皆と語り合ううちに気づいたのは、何年かすれば、自分は日本に帰る立場であり、この国は″腰掛け″にすぎないという意識をもっていることであった。
 したがって、長い展望のうえから、この国のために何ができるかを考えるのではなく、自分の赴任中に、いかに実績を上げるか、あるいは、いかに問題を残さずに任期を全うするかが、テーマになっているようであった。
 伸一は、率直に、自分の思いを語った。
 「人間は、一定の年齢になってしまえば、感覚を変えるのは、確かに大変でしょうから、青年に期待するしかありません。
 皆さんの会社でも、どんどん青年を派遣してほしいし、あらゆる職種の青年が外国に来るべきです。
 皆さんが不便だと感じたり、客観的に見て、改善すべきだと思う点が多いということは、まだまだ日本の青年たちが、力を発揮できる分野がたくさんあるということです。
 また、日本の青年は、もっと、もっと大胆に、自分たちは″世界市民″であるのだという気概をもたなければなりませんね。
 ただし、外国に働きに来る限りは、一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうなどと考えるのではなく、そこに永住し、その国を愛し、その国のために貢献していくぐらいの決意がなければならないと思います。これは、私の恩師の思想なのです。
 そうでなければ、その社会で信頼を勝ち取ることはできない。
 また、そうしていくことが、国境を超えて人間と人間の相互理解を深め、互いに信じ合っていく大事な要素にもなります」
 話題は、それから、青年の使命に移り、更に学会の青年部へと移っていった。
 伸一は、青年部の精神を通して、学会の理念について力を込めて語った。
 ここに集った商社の支店長らは、ロンドンの日本人社会では、大きな影響力をもつ人たちである。
 その人たちに、学会への深い理解を促すことで、今後、日本からロンドンにやって来るメンバーたちのために、道を開いておきたかったのである。
 ″開道″は対話から始まる。勇気の言葉、誠実の言葉、確信の言葉が、閉ざされた人間の心の扉を開くからである。
36  開道(36)
 翌十月十五日は、ロンドンを発って、次の訪問地である、スペインのマドリードに向かう日であった。
 一行の搭乗機の出発予定時刻は、午前十時四十分である。山本伸一たちは、九時前に空港に到着した。
 ところが、濃霧のために飛行機の出発は遅れるとのことであった。しかも、いつまで待つことになるか、わからないという。
 空港には、ロンドンの連絡責任者となったシズコ・グラントも、見送りに来てくれていた。
 伸一は、待合室で、彼女に言葉をかけた。
 「わざわざありがとう。
 励まし合える友人も、指導してくれる先輩もいないところで、信心を続けるのは大変なことだ。歓喜し、決意に燃えている時はよいが、ともすれば自分に負け、ついつい惰性化してしまうのが人間の常です。
 しかし、御書には『心の師とはなるとも心を師とせざれ』と仰せです。自分の弱い心に負け、弱い心を師として従ってはならない。
 その時に、帰るべき原点が御書です。御書こそが、心の師となる。ゆえに、教学が大切になります。
 その意味で、今日は、この時間を使って、教学の試験をしよう」
 「試験ですか!」
 彼女は戸惑いの表情を浮かべた。
 「心配しないで大丈夫だよ。あなたが、これまでに学んできたことを、確認するだけだから。
 それに、ヨーロッパでは今のところ、教学の試験の予定もないので、教学部員になるチャンスをつくっておきたいのです」
 伸一は、傍らにいた同行の幹部に、設問を考え、試験官になるように伝えた。
 一人の友の成長のために何ができるか−−彼は、常にそのことばかりを考えていた。
 広宣流布とは、人間性の勝利の異名だ。そうであるならば、人を磨き、鍛え、育て、輝かせていく以外にその成就の道はない。
 待合室の一隅で、シズコ・グラントの試験が行われている間、伸一も御書を拝読していた。
 時刻は正午を過ぎた。
 昨夜、会食をした商社の関係者が、一行のために、昼食のオニギリを届けてくれた。その人は帰りがけに、こう語った。
 「昨日の山本先生の、その国に永住し、愛し、貢献していくぐらいの決意でなければならないとのお話は、心に残りました。私たちが忘れている大事なことを教えてくれました。やはり″腰掛け″のような気持ちではいけませんね」
 心の共鳴は、広がっていたのである。
37  開道(37)
 滑走路は、まだ濃い霧に覆われていた。飛行機が飛び立つ様子はなかった。
 川崎鋭治らが空港の係員に、何度も出発の見通しを尋ねていたが、「わからない」との答えが返ってくるばかりであった。
 皆、次第にイライラし始めていた。
 それを感じ取ると、山本伸一は言った。
 「霧の都ロンドンに、霧が出るのは仕方がない。ロンドンに来て、霧も見られないとしたら、かえって寂しいじゃないか。
 それに、今度の旅では、ベルリンで少し雨に降られた以外は、晴天に恵まれてきた。いつも、そんなにうまくいくものではない。大雨もあれば、濃霧もあって当然だ。
 広宣流布の道だって同じだよ。いつ、何が待ち受けているかわからない。順風の日ばかりであるはずがないもの。
 しかし、霧が立ちこめたり、嵐があったり、時には絶体絶命の窮地に陥りながらも、そのなかで戦い、勝っていくから痛快なんだ。
 『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』だよ。みんな勇気をもって、すべてを楽しみながら、壮大な広布のドラマを演じていこうよ」
 伸一は悠然としていた。
 「さあ、せっかく時間ができたんだから、少しでも勉強しよう」
 彼は、こう言うと、再び御書を開いた。
 そして、一時間ほど御書を研鑽すると、今度は、絵葉書を取り出し、日本の同志にあてて、次々と激励の一文を書き始めた。待合室は、まさに書斎となり、執務室となった。
 人が無為に過ごす時間というのは、かなり多いに違いない。その時間を有効に生かし、活用することによって、人生に、いかに大きな実りをもたらすか計り知れない。
 空港のアナウンスが、マドリード行の飛行機への搭乗を告げたのは、午後五時近かった。既に六時間余りの遅れである。
 伸一は、見送りに来てくれたシズコ・グラントに丁重に礼を述べ、飛行機へと向かった。搭乗機は、更に待機した後、離陸し、雲のなかを上昇していった。
 しばらくして、伸一は、窓の外を見た。満天の星である。
 その星々のなかに、恩師戸田城聖の顔が浮かんだ。
 ″先生は、私の旅を、じっと見守ってくださっている。日々、新しい歴史のページを開き続けよう″
 伸一は、いささか疲れを感じていたが、戸田を思うと、胸には、泉のように闘志がわくのであった。

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