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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「大光」 大光

小説「新・人間革命」

前後
2  大光(2)
 山本伸一の一行が乗ったジェット機が、コペンハーゲンに到着したのは、現地時間の五日の午前七時過ぎであった。日本時間では午後三時過ぎである。
 日本を発って、十七時間近くが経過していることになる。
 上空から見た時には、コペンハーゲンの街は、分厚い雲で覆われていたが、着陸すると、雲は晴れ、快晴となった。
 一行が空港のロビーに出ると、蝶ネクタイをした一人の日本人の男性が待っていた。川崎鋭治である。
 彼は、学会員で、フランスが誇る研究・教育機関である、パリのコレージュ・ド・フランスの研究員をしている医学博士であった。今回の伸一のヨーロッパの旅に、通訳と案内を兼ねて、同行することになっていたのである。
 川崎は、一九二三年(大正十二年)に、新潟県の高田市(当時)で生まれた。その後、一家は東京に移り、彼も中学まで東京で育った。そして、城の水戸で高校生活を送り、新潟医科大学(現在の新潟大学医学部)に進んだ。卒業後も研究室に残り、二十八歳で学位を取得して、医学博士となっていた。
 更に、甲状腺ホルモンの研究を始め、アメリカに渡って、ハーバード大学付属病院で研究に励んだ。
 やがて、帰国し、東大付属病院に勤務した後、甲状腺の病気の治療で有名な大分県の別府の病院に、副院長として迎えられた。
 そのころ、川崎は三十代半ばになっていた。そろそろ身を固めようと考えた彼は、妹の栄美子に、友達のなかに、これと思う人がいたら、紹介してくれるように頼んだ。
 妹も、両親も、既に学会に入会していた。
 栄美子は、兄の鋭治から結婚の希望を聞くと、ぜひ学会の女子部員と一緒にさせたいと思った。また、この機会に、兄も信心できるようになればという思いもあった。
 栄美子は、それまでに、何度か兄に信心の話をしてきたが、彼は取り合おうとはしなかった。
 川崎は、学会には、特に関心もなければ、偏見もなかった。宗教は、なんでもよいように考えていた。ただ、彼自身、仕事では、それなりの実績を上げながらも、いつも、心のどこかに空虚感があった。
 栄美子は言った。
 「私が推薦できるのは、皆、女子部員よ。だから、お兄さんがよかったら、青年部の面倒を見てくださっている、学会の山本総務に、お会いしてお願いしてみたら……」
3  大光(3)
 川崎鋭治は、自分の結婚のことで、学会の幹部に会うことには、ためらいがあった。
 しかし、妹の栄美子の勧めに従い、上京した折、彼女とともに、学会本部に山本伸一を訪ねた。
 一九五九年(昭和三十四年)の十月のことである。
 伸一は、川崎を温かく迎えた。
 「あなたが、栄美子さんのお兄さんですか。お話は栄美子さんから、よく伺っております。私にできることなら、なんでも応援させていただきます」
 しばらく懇談した後、伸一は尋ねた。
 「あなたには、本当の友達はいますか」
 瞬間、川崎は考えた。本当の友人といえる人はいなかった。
 「いいえ、おりません。初めはよくとも、最後は、利害で離れていってしまうケースばかりでした」
 「そういうものかもしれません。しかし、私は、一生、あなたと友達でおります。あなたの人生の成功を祈っています」
 伸一と語り合ったのは、決して長い時間ではなかったが、川崎は、伸一の人柄に心を打たれた。自分に信仰を無理強いするわけでもなければ、宗教者にありがちな、どこか高みからものを言うような説教臭さもなかった。
 礼儀正しく、思いやりにあふれ、それでいて、満々たる情熱をたたえていた。
 年齢は自分よりも何歳か若いはずだが、兄と話しているような気さえしてくるのである。
 川崎は、伸一を通して、創価学会に、好感をいだき始めた。
 彼は、妹の尽力もあり、六〇年(同三十五年)の一月、女子部員と結婚した。結婚を前にして、彼は入会したが、特に信心に励もうという気はなかった。結婚相手も学会員であるし、悪い信仰ではなさそうなので、一応、入会しようという軽い気持ちであった。
 大分の別府で、川崎の新婚生活が始まった。
 結婚後、しばらくして、彼は、腹痛に襲われた。同僚の医師は、虫垂炎(盲腸炎)と診断し、すぐに手術をした。十日ほどで退院したが、その日、再び、ひどい腹痛が起こった。夜も眠ることができなかった。
 再入院して、検査をしたが、痛みの原因はわからなかった。医師は、モルヒネを打って痛みを抑えたが、薬が切れると、七転八倒の苦しみである。
 川崎は、苦痛から逃れるために、自分でモルヒネを打つようになった。その量は次第に増え、いつしか、モルヒネがなければ、片時も、痛みを我慢できないようになった。
4  大光(4)
 病床の川崎鋭治が、気掛かりでならなかったのは、近くロンドンで開かれる甲状腺学会のことであった。
 彼は、そこで、研究発表をすることになっていたのである。それは、医学者として、自分の研究の成果を世界に問う、大事な檜舞台でもあった。
 しかし、気が焦るばかりで、容体はいっこうによくならなかった。
 川崎は、痛みのために、夜も眠れず、食欲もなく、日ごとにせていった。
 妻の良枝は、そんな夫のことが、心配でならなかった。ある日、彼女は、意を決して、ベッドに横たわる夫に言った。
 「あなた、大事なことを忘れていますよ」
 「えっ、大事なこと? 薬なら、毎日、飲んでいるじゃないか」
 「違いますよ。信心ですよ。痛みの原因もわからないようだし、もう、信心しか方法はないと思うの。祈りとして叶わざるはなしといわれている御本尊様ですもの、本気になって、信心しましょうよ」
 川崎は、妻の言葉に、苦笑して答えた。
 「何を言うんだ。病気のことは、医者の私が、一番よく知っている。信仰で病気が治るなんていうのは、迷信だよ」
 「でも、医学でも、わからないことはたくさんあるわ。現に、あなたは、こんなに苦しんでいるじゃありませんか……」
 良枝は、その日、彼のベッドの横で、真剣に唱題し始めた。
 川崎は言った。
 「頼むから、それだけはやめてくれ!」
 副院長の自分が、自らの腹痛一つ治せず、妻に拝んでもらっている姿など、決して、人に見せたくはないと思ったのである。
 しかし、良枝は必死になって、唱題を続けた。すると、不思議なことに、川崎の痛みは治まり、よく眠ることができた。
 翌日、彼は、自分から妻に頼んだ。
 「今日も、ここで題目を唱えてくれないか」
 「私が唱題しても、よく眠れたんですから、ご自分で唱題すれば、もっと、よく眠れると思うの。今日は、一緒に祈りましょう」
 その夜は、二人で唱題した。彼は、熟睡することができた。そして、翌日になると、川崎の顔や目に、黄疸が出ていた。
 それによって、医師は、胆石症の疑いをいだき、レントゲンを撮ったところ、大きな石があることがわかった。すぐに、手術する必要があった。
5  大光(5)
 川崎鋭治は、手術しなければならないことは、よくわかっていた。
 しかし、そうなれば、更に長い入院生活を送らなければならず、間近に迫ったロンドンでの甲状腺学会には、参加できなくなってしまう。
 彼は、医師に、手術以外の治療を施してくれるように頼んだ。だが、当時、手術のほかには、有効な治療方法はないことも、彼自身がよく知っていた。
 川崎は、藁をもむ心境になっていた。妻の説得もあり、彼は、この際、本気になって信心をしてみようと思った。
 毎日、真剣に唱題に励んだ。最初、コーヒーのような色をした尿が出たが、それが、やがて、薄くなっていった。
 ロンドンへ出発する直前に、レントゲンを撮ると、なんと、石はすっかり消えていた。
 ″これが、信心の力なのか!″
 彼は、喜び勇んで、ロンドンに向かった。甲状腺学会での研究発表は大成功に終わり、その後、世界の著名な大学や研究所から、招請の話がきた。研究生活に入ることは、川崎が念願していたことでもあった。
 一九六〇年(昭和三十五年)の五月に、会長に就任した山本伸一は、この年の十二月、大分支部の結成大会に出席するため、大分を訪問した。
 伸一は、川崎のことを常に心にかけ、川崎が上京した折には、時間をつくっては、何度か会っていた。
 この時、伸一は、川崎夫妻を宿舎の旅館に招いた。
 川崎は、山本会長に、世界の各研究機関から研究員として招請がきており、自分も海外で研究に取り組む考えであることを語った。
 それを、わがことのように喜ぶ山本会長に、川崎は心温まる思いがした。
 後の問題は、どの国の研究機関を選ぶかであった。川崎は迷った。
 翌六一年(同三十六年)八月の夏季講習会に参加した彼は、山本会長と会い、指導を求めた。語らいの末に、川崎は、パリのコレージュ・ド・フランスに行くことにした。
 伸一は、彼の門出を、祝福して言った。
 「私も十月には、ヨーロッパに行きます。その時には、一緒に各地を回りましょう」
 川崎は、山本会長のヨーロッパ訪問の時には、自分にできることは、なんでもやらせてもらおうと心に決めた。
 川崎がパリに着いたのは九月二十四日であった。伸一がヨーロッパに出発する十日前のことである。
6  大光(6)
 山本伸一は、空港に出迎えてくれた川崎鋭治と、固い握手を交わし、彼の労をねぎらい、同行の幹部を紹介した。
 今回のヨーロッパ訪問には、副理事長の十条潔らのほか、男子部長の谷田昇一をはじめとする、三人の男子部のメンバーが同行していた。
 一行は空港から、バスで市内に向かった。コペンハーゲンは、落ち着いた感じの美しい街であった。
 街の随所に紅葉した木々が茂り、手入れの行き届いた芝生が広がっていた。そして、道路には、さっそうと自転車を走らせる人たちの姿が目立った。
 公園の前を通ると、そこに、色とりどりのペンキを塗った、掘っ立て小屋のような家が並んでいた。
 これは、子供たちが、自由に設計し、自分たちの手で建てた家であるという。市が、そのための場所を提供しているというのだ。
 伸一は、デンマークのユニークな教育の一端を、垣間見た思いがした。
 彼は、牧口常三郎の『創価教育学体系』の「緒言」(序文)に書かれた、デンマークの復興の父グルントヴィと、その若き後継者コルのことを思い出した。
 この二人の教育者については、かつて、戸田城聖が何度となく、伸一に語ってくれた。
 グルントヴィは、デンマークが世界に誇る大教育者であり、「フォルケホイスコーレ」(国民高等学校)の創設者として知られている。しかも、詩人であり、牧師であり、北欧古典文学の研究者であり、政治家でもあった。
 ニコライ・グルントヴィは一七八三年、首都コペンハーゲンのあるシェラン島の農村に生まれた。
 彼が六歳になる年、フランス革命が勃発する。
 続いて、十九世紀の初頭には、ナポレオン戦争がヨーロッパ全土を巻き込んでいく。その折、デンマークは、イギリスに敗れ、国運は衰退した。封建的な絶対王制も揺らぎ始めた。
 まさに、激動の時代に、グルントヴィは成長していったのである。
 彼は、人間の自由と独立を求めた。権威主義、形式主義を徹底してい、成長するにつれて、既成の権威と対立するようになる。
 グルントヴィは、本の知識を、ただ丸暗記するだけの、暗記中心の詰め込み主義の学校教育に、大きな疑問をいだいた。
 後に、彼は、自分の教育理念を綴った著作『生のための学校』のなかで、そうした学校教育を、″死の文字″を教える″死の学校″だと批判している。
7  大光(7)
 グルントヴィは、大地に根を張った民衆を視し、民族の文化を軽くみる、大学出の都会のエリートたちに、強く反発した。
 ″この貧しい民衆こそ、「真のデンマーク人」ではないか″
 彼は、エリートたちの、民衆を見下す傲慢さが、許せなかったのである。
 また、民衆の上に君臨して服従を強いる、腐敗した教会や聖職者にも、彼の鋭い批判の目は向けられた。
 彼は叫んだ。
 「まず、人間であれ、それから宗教者であれ!」
 そうした直言は、激しい攻撃にさらされ、彼の著作は十数年にわたって検閲を受けたりもした。
 グルントヴィの人生は、迫害の連続であった。しかし、彼は、信念を曲げなかった。
 折しも、デンマークにも市民革命の波が押し寄せていた。彼は、時代の流れを見すえ、何をもって祖国を復興させるかを考えた。
 ″これからは、一部のエリートが、大多数の民衆を支配する社会であってはならない。民衆自身が目覚めて、政治を監視し、自由に発言できる力を持ってこそ真の民主であり、真の祖国の復興になるはずだ。
 民衆を聡明にしよう! 民衆を勇敢にしよう! 民衆を雄弁にしよう!″
 そのために、彼が構想したのが、「フォルケホイスコーレ」であった。これは「民衆の大学」を意味し、「国民高等学校」と訳されているが、広く民衆のために高等教育の場を開こうとするものであった。
 当時、デンマークでは、高等教育を受ける機会は、事実上、地位もあり、富裕な一握りの恵まれた家の子弟だけしか、持てなかったのである。
 彼は、この「フォルケホイスコーレ」で、一方的、権威的な詰め込み教育ではなく、教師と学生が共同生活をしながら、自由な対話のなかで学んでいくという、まったく新しい高等教育を構想したのである。
 それは、人生の知恵を育み、知識を修得するとともに、市民こそ社会の主体者であるとの自覚を培うものであった。
 まさに、人間と人間の触発による、生きた教育の場と言ってよい。
 グルントヴィの理念に基づく、最初の「フォルケホイスコーレ」がオープンしたのは、一八四四年のことであった。
 そして、この「フォルケホイスコーレ」が、デンマーク社会に深く根を張り、大発展していく原動力となったのが、後継者のクリステン・コルである。
 コルは、グルントヴィよりも三十歳以上も若い、少壮気鋭の教育者であった。
8  大光(8)
 コルも、若くして教育者となったが、やはり、詰め込み教育に馴染めず、精神的にも落ち込んでしまった。そんな時、偶然、グルントヴィの思想を知るのである。
 その後、コルは、グルントヴィの「フォルケホイスコーレ」(国民高等学校)の構想に共鳴し、それを実践しようと、学校の設立に奔走する。
 しかし、決して裕福ではない彼は、資金的に行き詰まり、グルントヴィに援助を求めた。一面識もない青年の依頼ではあったが、グルントヴィは、並々ならぬ情熱を感じたのであろう。コルに対する援助を快諾するのである。
 こうして、コルの「フォルケホイスコーレ」が開校する。一八五一年のことであった。
 二人は、いつも、率直な議論を交わしながら、同じ理想に向かって力を合わせていった。
 女性も教育を受ける権利があるというグルントヴィの思想を受け継ぎ、最初に女性の入学を認めたのも、コルのこの学校であった。
 グルントヴィの共鳴者はたくさんいた。
 しかし、グルントヴィを師と定め、彼の「生きた言葉」を、師の心を、教育の現場で、そのまま実践していったのは、コルをおいてなかったといわれている。
 コルは、生涯、質素な作業着で、青年との対話、庶民との対話を続けた。その姿から、「野良着のソクラテス」と呼ばれ、人びとに慕われたのである。
 やがて、「フォルケホイスコーレ」は、一八六〇年代に、最初の全盛期を迎えることになる。
 この時代は、実は、デンマークの″受難の時代″であった。プロシア、オーストリアとの戦争に敗北し、デンマークは多くの領土を失ったのである。
 この時、デンマークは、「外で失ったものを内で取り戻そう」と、祖国復興を目指して、未開拓の荒れ地の多かったユトランド(ユラン)半島で、植林運動を開始している。
 そして、「フォルケホイスコーレ」という、グルントヴィが種を植えた″教育の森″も、デンマークの各地に広がり、祖国復興を担う人間の大樹を育てる力となったのである。
 当時、新たに開設された「フォルケホイスコーレ」を担った人びとの大半が、コルの学校の出身者であったという。このため、グルントヴィは「フォルケホイスコーレ」の″父″、コルは″母″であるといわれている。
9  大光(9)
 牧口常三郎は、『創価教育学体系』の「緒言」(序文)で、この書の発刊は、愛弟子・戸田城聖の奮闘なくしてはありえなかったと述べ、その感謝の心情をグルントヴィとコルの師弟の姿に重ね合わせている。
 牧口、戸田の教育観、学校観も、「人間をつくる」「民衆を聡明にする」という点など、グルントヴィに近いものがあった。
 山本伸一は、コペンハーゲンの街を車窓からながめながら、自分もコルのように、先師牧口常三郎、恩師戸田城聖の教育の理想を受け継ぎ、一刻も早く、創価教育を実現する学校を、設立しなければならないと思った。
 間もなく、一行はホテルに着いた。
 皆、これで、少しは休息ができると思っていたが、ホテルのフロントで、正午過ぎでなければ、チェック・インはさせられないと言われてしまった。
 十条潔が、渋い顔で、伸一に言った。
 「先生、お疲れなのに、大変に申し訳ございませんが、どうしてもだめだと言うんです。まるで人情というものがありません」
 伸一は、笑いながら、十条をなだめた。
 「ホテルの事情もあるんだから、仕方がないじゃないか。荷物だけ預かってもらって、朝食をとって、市内の見学に行こう」
 伸一は、それから、日本に、無事に到着したことを知らせる電報を打った。
 「コペンハーゲン安着 留守をたのむ 山本」
 伸一が、すぐに、コペンハーゲンの街の見学を提案したのは、大客殿の調度品などを購入するために、主な店を下見しておく必要があったからである。
 街に出た一行は、調度品を購入する店をはじめ、市庁舎や警察署、高齢者アパート、コペンハーゲンの発祥の地と言われるクリスチャンボー城、アマリエンボー宮殿、アンデルセンの童話で知られる「人魚姫の像」などを見て回った。
 街の一角には、コペンハーゲンの古い街並みを再現した模型もあった。
 また、北欧諸国は″福祉の国″と言われるだけあって、高齢者アパートの設備も、そのころの日本のアパートとは、比較にならないほど整っていた。
 首都は、国の顔といってよい。その街の表情には、文化があり、政治があり、民衆の心がある。
 伸一は、この地にも、やがて地涌の菩薩が出現することを願って、心のなかで題目を唱え続けていた。
 一行は、正午にホテルに戻り、ようやくチェック・インすることができた。
10  大光(10)
 ホテルの部屋に入ると、山本伸一は、すぐに、日本の同志に、手紙を書いた。
 しばらくすると、同行の幹部たちが、伸一の部屋にやって来た。そして、男子部の中国第二部長をしている塩田啓造が、仕事でコペンハーゲンに来ており、これから訪ねたいと、電話してきたことを伝えた。
 塩田は、八幡製鉄所の山口県光市の工場に技術者として勤務していたが、パリで開かれた鉄鋼関係の国際会議に、工場長とともに出席し、その帰りにコペンハーゲンに寄ったのである。
 伸一は言った。
 「そうか。出張の忙しいなかで、時間をやりくりして、私に会いに来てくれるんだね。その心が嬉しいじゃないか」
 伸一は、日本を出発してから、ほとんど休んでいなかった。体調を考えれば、休養する必要があった。
 しかし、彼は、それよりも一人の青年と会って、全力で励ましたかった。
 「みんなで、塩田君を歓迎しよう!」
 伸一が言うと、川崎鋭治が口を開いた。
 「先生、人と会われる前に、ゆっくりお休みになる時間を取られた方が……」
 川崎は、医師として、伸一の体を心配していたのである。
 「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ。
 同志のため、広宣流布のために生きるのが、私の使命なんです。そして、使命を果たすとは、命を使うということだ。その決意がなければ、学会のリーダーにはなれません」
 その言葉は、川崎にとっては、少なからず衝撃的であった。彼は、伸一を学会の会長として尊敬はしていたが、信仰歴も浅く、学会の精神もよくわからなかったし、同志を思う伸一の深い心も知らなかった。
 川崎は、医師として、人のために献身することの意味や喜びは知っていた。しかし、本当に、人びとのことを考えて、医学に取り組んできたかというと、むしろ、自分の学問的な興味の方が優先していたように思えるのである。
 彼は、伸一の姿を目にして、自分が恥ずかしく感じられてならなかった。
 その時、伸一が言った。
 「そうだ。川崎さんに、学会の金のバッジを差し上げましょう」
 伸一は、からバッジを取り出して、自ら、川崎の背広の襟につけた。
 「これは、学会の最高幹部のバッジです。あなたもその自覚で、ヨーロッパで信心に励んでください」
 川崎の目が潤んだ。
11  大光(11)
 しばらくすると、塩田啓造がやって来た。
 山本伸一をはじめ、皆で塩田を、温かく迎えた。
 「よく来たね。君とは、日本ではあまり会えないのに、ここで会えるとは、嬉しいよ」
 塩田は、仕事が多忙なために、普段は、思うように活動に参加することができずにいたのである。
 「日本では、あまり会合にも出席することができず、ご心配をおかけして、すみません……」
 「いいんだよ。仕事が大変なことはわかっている。ただ、心は、一歩たりとも信心から離れないことだ。また、こうして、少しでも時間があれば、私にぶつかって来る、あるいは、先輩にぶつかっていくということが大事なんだよ。
 私も、なすべき課題は山ほどあるが、時間は限られている。そこで、心掛けていることは、一瞬たりとも時間を無駄にしないということだ。さっきも、日本の同志に、手紙を書いていたんだよ」
 見ると、机の上には、既に書き上げられた、二十通ほどの封書や絵葉書があった。
 それは、塩田の胸に、勇気の炎を燃え上がらせた。
 ″忙しいのは、自分だけじゃないんだ。先生は、もっと忙しいなか、こうして戦われているんだ。ぼくも挑戦を忘れてはいけないんだ!″
 この伸一の行動に胸を打たれたのは、塩田だけではなかった。川崎鋭治も同様であった。友の励ましに徹した山本会長の生き方に、彼は大きな感動を覚えた。
 伸一は、更に、言葉をついだ。
 「塩田君。人生は長いようで短い。ましてや、青年時代は、あっと言う間に過ぎていってしまう。
 今、学会は、未来に向かって、大飛躍をしようとしている。広宣流布の大闘争の『時』が来ているんだ。時は『今』だよ。五十年後になって、さあ戦うぞと言っても、たいした働きはできないではないか。
 大聖人も『一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ』と仰せになっている。
 仕事も忙しく、大変だとは思うが、君も立ち上がる時だ。君らしく、すべてを工夫しながら、君でなければできない戦いを開始していくことだよ。
 そのなかで、自分自身も鍛えられ、人間として大成していくことができるし、永遠の福運を積んでいくことにもなる」
 伸一は、塩田の求道の心を感じていたからこそ、あえて、彼に、更に発心を促したのである。
12  大光(12)
 山本伸一は、同行の幹部や塩田啓造と一緒に、調度品の購入に出掛けた。
 このコペンハーゲンの街では、燭台やデスク、また、陶器類などを丹念に見て回った。
 その途中、伸一は、美しい絵皿などが飾ってある一軒の店を見つけると、何枚かの絵皿を買い求めた。
 「お土産ですか」
 同行の友が尋ねた。
 「そうなんだ。亡くなった九州の柴山美代子さんが『私の夢は、ヨーロッパに仏法を広めに行くことです』と、語っていたことがあったものでね……」
 柴山は、九州第一総支部の婦人部長をしていたが、四カ月前に、心臓マヒで急していた。
 伸一は、静かに言葉をついだ。
 「しかし、柴山さんは、ヨーロッパの土を踏むこともなく、亡くなってしまった。本当は、一緒に連れて来てあげたかった。
 だから、せめて、残された子供さんたちに、お母さんが行きたがっていたヨーロッパのお土産を、渡してあげたいんだよ。
 皆、ともすれば、亡くなった人のことは、忘れてしまう。しかし、私は、一緒に戦い、苦労を分かち合ってくれた同志のことを、決して、忘れるわけにはいかないんだ。しかも、後に残された家族がいれば、なおさらだよ。
 私は、そうした家族を、生涯、見守っていきたいと思っている。いつも、いつも、幸せを祈っている。本当の真心の世界、人間の世界が学会だもの……」
 すると、『聖教グラフ』の編集部の部長で、聖教新聞社の記者として同行していた、菅井文明という青年が、思いあたったように、伸一に言った。
 「それで先生は、九月に青年部の合同追善法要をされたのですね」
 伸一は、九月十一日、広布の途上で若くして亡くなった同志の追善法要を行い、遺族たちを励ましていたのである。
 「そうです。尊い、大切な同志だもの……。
 広宣流布に生きる私たちは、三世まで一緒です。生死を超えた、永遠の同志であり、また、妙法で結ばれた、永遠の家族です。
 学会の団結は、その心のうえに成り立っているからこそ強いのです。現代の社会で、本当に人間と人間の心を結びつけていけるのは、学会だけでしょう。
 会合などの行事の報道とともに、そうした最も麗しい学会の心の世界を、どう表現していくのかも、これからの″聖教″の課題ではないかね」
 菅井は、大きく頷いた。
13  大光(13)
 辺りは、次第に暗くなり始めていた。
 山本伸一は、購入した絵皿のうちの二枚を、塩田啓造に手渡した。
 「この一枚は、今日の記念として、あなたに差し上げます。そして、もう一枚は、一緒に来られている、会社の工場長さんに差し上げてください」
 塩田は恐縮した。
 「大変にありがとうございます。私ばかりでなく、工場長にまで……」
 伸一は、大事な青年部員がお世話になっている会社の上司に対して、学会の責任者として、御礼の気持ちを伝えたかったのである。
 買い物をすませた後、伸一は、ホテルの前で塩田と別れた。
 夜になると、伸一の疲労は、さすがに深かった。皆で食事をしていた時も、彼は何度か席を立って外に出た。気分が優れなかったのである。
 ホテルの部屋で、医師である川崎鋭治に、ビタミン剤を注射してほしいと頼んだが、あいにく、川崎は、注射器も、注射液も、持ってきていなかった。
 翌日も、一行は、朝から行動を開始し、一日は慌ただしく過ぎた。
 そして、次の日の朝には、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフへ向かった。二時間ほどの空の旅である。
 コペンハーゲンは快晴であったが、飛行機が西ドイツ上空に入ったころから、次第に雲が張り出し、デュッセルドルフに近づくにつれて、雲はますます厚くなっていった。
 伸一たちは、デュッセルドルフの空港は、天候の関係で着陸できなくなり、飛行機が引き返すことも少なくないと聞いていたので、無事に到着できるのか心配であった。
 しかし、搭乗機は、次第に高度を下げ始めた。道路のアスファルトが光っている。雨が降って、道路が濡れているのであろう。
 だが、着陸した時には、雨は上がり、雲間から太陽の光が差し込んでいた。
 伸一は、天候に恵まれたことに感謝した。
 空港には、数人の人が出迎えてくれた。
 そのうちの一組は、戸田城聖の友人であった弁護士の小沢清の娘と、彼女の夫である。夫の仕事の関係で、西ドイツに滞在しているとのことだった。
 また、もう一組は、西ドイツのマンハイムに住む、入会して三カ月の日系婦人と、その夫であった。
 更に、電気関係の会社に勤務し、出張でデュッセルドルフへやって来た、唐沢一郎という壮年が駆けつけてくれたのである。
14  大光(14)
 西ドイツ(当時)の復興は目覚ましかった。
 街の随所に、ビルの建設が進み、人びとの表情にも活気があふれていた。
 かつて、戸田城聖は、「水滸会」の会合の折に、「西ドイツの復興を見よ。西ドイツに見習わなければならない」と語ったことがあった。敗戦から十六年、確かに、この国は、見事な復興を遂げていた。
 山本伸一は、ホテルに、日系婦人の夫妻と、唐沢一郎を招いて懇談した。特にドイツの一粒種となる、この婦人には、記念の袱紗を贈り、話に耳を傾け、一期一会の思いで、全魂を注いで励ましていった。
 「周囲に、学会員は誰もいないし、寂しく、心細いことは、よくわかります。
 しかし、ひとたび、信心をしたならば、広宣流布をしていくことが、自分の使命なのだと決めて、ともかく、一人でも、二人でも、着実に同志を増やしていくことです……」
 伸一は、真心を込めて、指導を続けた。たとえ、入会して日は浅くとも、この一人が立ち上がれば、そこから未来が開けるからだ。
 もちろん、全力で激励したからといって、必ず、その人が立ち上がるとは限らない。むしろ、期待通りに発心し、育ってくれることは稀と言えよう。
 しかし、それでもなお、「皆、地涌の菩薩」「皆、人材」と確信して、命を削る思いで励ましていくことが、幹部の責任である。その積み重ねのなかから、まことの人材が育っていくのである。
 伸一たちは、メンバーが帰っていくと、街に出た。
 西ドイツでは、学会員の紹介で、ある企業の駐在員をしている壮年が、ドイツ語の通訳と案内を兼ねて、同行してくれることになっていた。その駐在員の案内で、市内を巡った。
 ライン川沿いに広がるこのデュッセルドルフは、ルールの大工業地帯を控えた、西ドイツ北西部の商取引の中心地である。
 また、詩人のハイネを生み、音楽家のブラームス、シューマン、メンデルスゾーンを育てた地でもある。スズカケやマロニエの並木が続く美しい街並みが、文化の薫りを感じさせた。
 市庁舎の横のマルクト広場には、馬に乗った男性の銅像が建っていた。
 案内役の駐在員が説明してくれた。
 「これが、十八世紀初めに建てられた、ここの領主のヨハン・ヴィルヘルムの銅像です。人びとは親しみを込めて、ヤン・ヴェレムと呼んでいます」
15  大光(15)
 ヨハン・ヴィルヘルムは優れた政治を行った領主として知られている。
 ヴィルヘルムは、神聖ローマ帝国の皇帝を選挙する権利を与えられた選帝侯となり、オペラ・ハウスを建て、宮廷画家や音楽家を大切にして芸術の振興に寄与したほか、定期的な新聞の発刊や街灯の設置などを行っている。
 当時、設けられた街灯の数は、パリよりも多かったとも言われる。
 また、常に民衆との親交を心掛け、民衆のなかに入り、ともにビールを飲みながら、快活に語り合ったと伝えられている。
 このマルクト広場のヴィルヘルムの銅像は、彼が生前に建てさせたものだが、これを制作したのが、当時の有名な彫刻家グルペッロであった。
 駐在員が、銅像を眺めながら言った。
 「実は、この銅像の制作に関する、こんな逸話があるんです。
 銅像が鋳造される時、銅が少し足りなくなってしまった。すると、それを聞いた町の人びとは、急いで、家から銅器などを持って来て、差し出した。
 皆、ヨハン・ヴィルヘルムを誇りに思い、慕っていたからなんです。
 やがて、銅像が出来上がると、人びとは朝日に輝く銅像を見て、褒め称え、大喜びしたそうです。
 ところが、それが憎らしくて仕方ない人間がいた。この銅像の制作を、引き受けたいと思っていた者たちです。
 そこで、嫉妬心から、銅像に、ありとあらゆる難癖をつけはじめた。『馬に力がない』『鼻の形が変である』『長が悪い』……。 人びとは、その非難が妥当なものかどうかは、よくわからなかった。しかし、あまり非難が激しいので、銅像を褒めることはやめてしまったのです。
 グルペッロは、銅像の周りに板塀を巡らし、そのなかに弟子たちと入った。作業を始めたらしく、なかから、を打つ音や、何かを削るような音が聞こえてきました。
 そして、二、三週間が過ぎたころ、板塀が取り除かれました。
 すると、盛んに悪口を言っていた者も、もう難癖はつけなかった。人びとは、再び絶賛し、彼らも、皆と一緒になって、褒め始めたのです。
 ヴィルヘルムは『どこを直したのか』と、グルペッロに尋ねました。
 グルペッロは答えました。
 『銅像は直すことはできません。もとのままです。これで、悪口を言った者たちの考えは、おわかりいただけると思います』
 こういう話なんです」
16  大光(16)
 駐在員から、グルペッロの逸話を聞くと、山本伸一は言った。
 「いい話ですね。周囲の評価には、しばしば、そうしたことがあります。
 創価学会もこれまで、根拠のない、理不尽な非難や中傷に、幾度となく、さらされてきました。結局、それらは、学会の前進を恐れ、嫉妬する人たちが、故意に流したものでした。
 しかし、それを一部のマスコミが書き立てると、自分で真実を確かめようとはせずに、皆、同じことを言うようになる。また、学会に接して、すばらしいと思っていた人も、自分の評価を口にしなくなってしまう場合がある。
 風向き一つで変わってしまう、そんな煙のような批判に一喜一憂していたら、本当の仕事はできません。
 私は、学会の真価は、百年後、二百年後にわかると思っています。すべては、後世の歴史が証明するでしょう」
 一行は、マルクト広場から、ライン川の岸辺にやって来た。ここで、伸一は、石を拾い集めた。
 大客殿の主柱となるコンクリートの土台には、世界広宣流布の意義を込めて、世界各地の石を埋めることになっていたのである。
 石を集め終わると、一行は、しばらくラインの河畔にたたずんでいた。
 その時、同行メンバーの一人で、男子部の幹部である黒木昭が、伸一に語りかけた。
 「こうしてライン川を見ていると、あのハイネが作った『ローレライ』の歌を思い出しますね」
 黒木は、黒豹を思わせるたくましい風貌をしていたが、早稲田大学の英文学科を出た文学青年であり、英語の心得もあった。
 伸一は、頷いて言った。
 「そうだね。『ローレライ』の詩の舞台は、もっと上流だけど、ライン川は詩情を感じさせるね。
 いつかローレライ伝説の地も訪ねてみたいが、今回は、そんな余裕はないな。
 ところで、独裁者ヒトラーが支配していた時代には、この『ローレライ』の歌は、″読み人知らず″にされていたらしいね」
 「えっ、あんなに有名な歌がですか……。どうしてなんでしょうか」
 黒木が驚いた顔をした。
 「それは、ハイネがユダヤ人だったからだよ。
 ナチスは、過去の文学や芸術に至るまで、ユダヤの影響が認められるものは徹底的に排除したんだ。
 もちろん、『ローレライ』の歌は、あまりにも有名すぎて、作品までは抹殺できない。しかし、それでも作者のハイネの名前を消して、永遠にその功績を葬ろうとしたんだよ」
17  大光(17)
 ラインの川面に、夕日が揺れていた。
 山本伸一は、厳しい顔をして、語気を強めて語っていった。
 「『ローレライ』の歌の作詩者の名を消したのは、ナチスのユダヤ人迫害の、ほんの一端にすぎない。
 ヒトラーの戦争は一面、『ユダヤ人への戦争』だった。ドイツ国内はもちろん、ナチスが侵略した地域で、約六百万人ものユダヤ人が殺されたといわれているんだから……」
 思いがけず、ナチスのユダヤ人迫害の話になり、同行の友も、にわかに真剣な顔で耳をそばだてていた。
 ──ヒトラーは、彼の政治活動の初めから終わりまで、ユダヤ人への憎悪を燃やし続けていた。
 たとえば、最初の政治的な発言とされる、一九一九年に書かれた文書には、早くも「反ユダヤ主義の究極の目標は、断固としてユダヤ人そのものを除去することにあらねばならない」という一節が見える。
 また、彼の自伝『わが闘争』では、「このユダヤ人問題を解決することなしに、ドイツの再生や興隆を別に試みることはすべてまったく無意味であり、不可能でありつづける」とし、執拗なユダヤ人攻撃を叫んでいる。
 そして、彼が引き起こした戦争の敗北が決定的であった、一九四五年(昭和二十年)の四月の時点でも、ヒトラーは、ユダヤ人虐殺を自画自賛していた。
 「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、ひとびとは国家社会主義に永遠に感謝するであろう」
 数百万人の無辜の民衆を大虐殺(ホロコースト)の地獄に突き落としながら、何の良心の呵責もなく、こう言って憚らなかったのである。
 アドルフ・ヒトラーは、一八八九年四月、オーストリアの税関吏の子として生まれた。十三歳で父を、十八歳で母を亡くし、ウィーンに出て、画家を志すが果たせなかった。
 一九一三年、兵役を拒否してドイツのミュンヘンに逃れるが、第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍に志願兵として入隊した。
 敗戦後、彼は、ミュンヘンの反動的な弱小政党であったドイツ労働者党に入党する。大衆の不満や欲望を扇動する才に長けた彼は、たちまち頭角を現し、党勢を拡大していく。
 ヒトラーは党内で影響力を強めて、次々と権限を掌中に収め、党名も国家社会主義ドイツ労働者党(この通称がナチスである)に変更する。そして、とうとう独裁的な党首の座に就くに至るのである。
18  大光(18)
 ヒトラーがナチスの党首になったのは一九二一年七月。そして、彼がドイツの首相に任命され、遂にナチス政権が誕生したのは、わずか十一年半後の、三三年一月三十日であった。
 その一カ月後、ベルリンの国会議事堂が炎上するという事件が起こった。この時、ナチスは、共産主義者の陰謀だと叫び、人びとの不安と危機感を利用し、共産主義者など反ナチ勢力に大弾圧を加えていった。
 更に、国難に対処すると称して、巧妙に世論を操作し、国会の選挙に勝利すると、議会に圧力をかけ、ヒトラーに全権を委任する法案を承認させてしまう。
 続いて、ナチス以外の政党を解散・禁止し、翌年の八月には、ヒトラーは首相と大統領を兼ねた「総統」に就任するのである。
 こうして、ドイツ第三帝国──ヒトラー独裁の暗黒時代が始まったのである。
 山本伸一は、かいつまんで、ヒトラーが独裁者となるまでの経緯を語った。
 すると、黒木昭が、不可解そうな顔で尋ねた。
 「でも、どうしてヒトラーの独裁を許してしまったのでしょうか。ドイツには、当時、世界で最も民主的といわれたワイマール憲法があったはずなんですが……」
 「うん、それは、大事な問題だね」
 伸一は、更に、歴史的な背景を語っていった。
 ──第一次世界大戦の末期、革命が起こり、皇帝はドイツを去った。帝政の崩壊、敗戦、そして、ワイマール憲法のもとで民主政治の時代が始まる。
 しかし、長らく封建的な体制に馴染み、近代市民国家としての伝統が浅かったドイツでは、憲法の理想主義的な理念に比べて、社会の実態は、いまだ家父長的な封建主義が根強かった。
 つまり、民主という時代の流れに対し、人びとの意識が立ち遅れていたといえよう。
 しかも、ドイツは、ヴェルサイユ条約によって、莫大な賠償を課せられていた。それは、ドイツ経済に大変な重荷になったばかりか、結果的に、深刻な経済危機を招き、民衆の生活を破壊させた。
 特に、一九二三年に起こったドイツ貨幣(マルク)の大暴落は、目を覆うばかりであった。
 八月に、戦前の貨幣価値の百十万分の一になったかと思うと、十月には、なんと六十億分の一に下落してしまった。当時、丸二日間、働いて、やっとバター一ポンド(約四五三グラム)が買えるような惨状であったという。
 こうした経済の破綻が、国民の生活を窮地に追い込んでいたのである。
19  大光(19)
 経済の混乱による生活苦のなかで、保守勢力や大衆は、その不満のはけ口をユダヤ人に向け、彼らに非難が集中していった。
 当時のドイツには、全人口の約一パーセントに当たる五十数万人のユダヤ人が住んでいたとされる。
 ユダヤ人は長い間、流浪を強いられながらも、独自の宗教的な共同体を守り抜いてきた。しかし、キリスト教社会にあって、ユダヤ人は異質な存在とされ、一般の市民と同等の諸権利は与えられず、租税、職業、結婚など生活全般にわたって徹底して差別された。
 住む場所も、市民とは切り離され、「ゲットー」と呼ばれる、城壁の外の強制居住地区とされた。
 そのうえに、疫病が流行すれば、ユダヤ人が井戸に毒を入れたといって虐殺され、ユダヤ教では、幼児を生け贄にするといっては迫害されてきた。
 ユダヤ人は、こうつぶやくほかなかった。「海は底知れない、ユダヤ人の悩みも底知れない」(格言)
 彼らが、ようやく人間らしい権利を得るのは、近代のフランス革命の時代に入ってからである。しかし、市民社会の形成が遅れたドイツでは、ユダヤ人が市民権を獲得するのは、十九世紀の後半であった。
 だが、それとても、極めて不安定なものであり、反ユダヤ主義者たちは、ユダヤ人の宗教的な共同体を、「国家の中の国家」と言って危険視していた。
 つまり″ユダヤ人の忠誠は、彼らだけの「国家内国家」に対するもので、彼らがキリスト教国家に対して忠誠であるわけがない″と言うのである。
 ユダヤ人が互いに強く結び合っていたのは確かだが、実際には、彼らは、ドイツ国民として、懸命に国家に貢献しようとしてきたのである。
 また、世界に散在せざるをえなかったユダヤ人が、それゆえに、国家を超えて、国際的に結びついていることから、″国際ユダヤ主義″だとして、国家にとっては、危険極まりないものと喧伝されてきた。
 そして、ドイツの経済が危機にすると、一部のユダヤ人に財界人がいたことなどから、根拠のないが流されたのである。
 「ユダヤ人が、大けするために戦争を起こしたのだ」「戦場に出て戦うのはドイツ人、陰で社会をあやつり、甘い汁を吸うのがユダヤ人だ」
 しかし、あの第一次世界大戦では、全ドイツのユダヤ人の、実に二割近くにあたる十万人が従軍し、戦死者は、一万二千人にも上ったといわれる。
20  大光(20)
 ヒトラーが政治活動を開始したのは、このように、ドイツ国内に、ユダヤ人へのゆえなき反発が高まっていた時代であった。
 彼は、アーリア人種が、他のあらゆる人種に優越するとし、その頂点にドイツ民族を置いた。そして、奴隷的な条約である、ヴェルサイユ条約を破棄して、ドイツ民族にふさわしい「生存圏」の確保、領土の拡張をと訴えていった。
 その一方で、彼は、ユダヤ人がアーリア人種の純血性を侵し、ドイツの衰退をもたらす劣等人種であるとして、徹底的な排斥を主張したのである。
 だが、そもそも″ユダヤ人種″や″アーリア人種″という「人種」自体が、存在しない。反ユダヤ主義は、まさに、政治的な「人種差別主義」であった。
 今日のイスラエルの帰還法の定義では、ユダヤ人とは、″ユダヤ人の母親から生まれた人、およびユダヤ教に改宗した人″をさす。つまり、ユダヤ教に基づく独自の宗教的・文化的な伝統を共有する人びとをいうのである。
 だが、ヒトラーは″ユダヤ人は、決して「宗教」ではなく、「人種」である″と強弁し、ありとあらゆるウソを捏造していった。
 その代表的なものが、「ユダヤ人がドイツを支配しようとしている」ということであった。
 ヒトラーは、″ユダヤ人は「宗教」を称することによって、自らの政治的な野望を隠している。自分はこのユダヤ人の「野望」を叩きつぶすだけなのだ″と、弾圧を正当化し、こう喧伝していった。
 ──ユダヤ人は、「寄生虫」であり、その金融資本の力で労なくして巨利を得ている。「吸血虫」のように、ドイツ人の毛穴から生き血を吸っている。
 現世主義者のユダヤ人は金と権力をひたすら求め、そのためには、いかなる手段も選ばない。ユダヤ人こそ「われわれのすべての苦しみの原因」であり、「南京虫のように」除去しなければ、自分たちが食われてしまう。
 危険な事態は、人びとが気づかないうちに進行している。既に、政治、経済、官界、学術界へと、ユダヤ人はあらゆる分野に忍び込み、背後で牛耳っている。今のワイマール政府も、議会も、ユダヤ人の「手先」なのだ──と。
 これらは、すべて悪意のデマであった。だが、こうしたデマも、反ユダヤ主義の風潮のなかで、「ウソも百回言えば本当になる」とばかりに、繰り返し喧伝されることで、巨大な力を持ったのである。
21  大光(21)
 権力の魔性の虜となり、ドイツを、更には、世界を支配しようとの野望をいだいていたのは、ヒトラー自身であった。しかし、彼はそれを、そっくり、ユダヤ人のこととしたのである。
 邪悪な権力者が、ともすれば用いる、卑劣な排斥の手法といえよう。
 ヒトラーが喧伝したことを、具体的に検証してみればどうなるか。
 たとえば、ユダヤ人の手先だと非難中傷されたワイマール政府にしても、ヒトラーが政権を握るまでの十四年間に、閣僚の数は、延べ四百人近くに上ったが、このうち、ユダヤ系の大臣は、わずか五人に過ぎなかったという。しかも、皆、短期間で交代しているのである。
 とても「ユダヤ人が牛耳っている」とはいえまい。
 また、一部のユダヤ人が金融業界に力を持っていたことは事実だが、それには、歴史的な背景がある。
 中世以来、キリスト教会が、金を貸して生業とすることを、キリスト教徒に禁じたため、差別され、職を得られぬユダヤ人たちは、やむなく、それを生業としてきたのである。
 好んで金融業界に狙いを定めたのでもなければ、社会を支配しようとしたわけでもない。
 更に、ユダヤ人が、学術・芸術などの世界で、多くの偉人を輩出してきたことは確かである。
 たとえば、ノーベル賞が制定されてから、ヒトラー政権の誕生までで、ドイツ国籍の受賞者は三十八人を数えている。そのうち、相対性理論で知られる世界的な物理学者アインシュタインなど、十一人がユダヤ系であった。実に、全体の三割近くにあたっている。
 だが、これもユダヤ人が「教育」を大切にしてきた賜物であった。迫害され、土地を追われても、教育さえあれば、どこでも生きていけるからだ。まさに苦難の嵐をバネに、多大な努力を重ねてきたのである。
 この教育の伝統が、優秀な才能を生む土壌となったのである。それは、本来、ユダヤ人社会のみならず、ドイツの社会全体を、ひいては人類を豊かにするものであったといえよう。
 偏狭なユダヤ人憎悪は、こうした精神的な財産さえも拒否したのである。
 更に、ヒトラーは、ユダヤ人の謀議の記録と称する『シオンの議定書』という、かつて流布した偽造文書まで持ち出し、ユダヤ人の「世界支配の陰謀」があると攻撃した。
 出所不明の″怪文書″による中傷である。
 これもまた、不当な弾圧を行う際、権力者が用いる常套手段といってよい。
 しかも、ヒトラーは、ユダヤ人が″議定書″を執拗に否定すること自体が、この書の真実性の証拠だとまで言ったのである。
22  大光(22)
 当時の多くのマスコミは、ヒトラーの代弁者となり、反ユダヤ主義をる記事を書き立てた。
 それが、いかに真実と懸け離れたものであったかを物語る、こんなジョークが伝えられている。
 ──一人のユダヤ人の男が、ナチス系の新聞を、なぜか満足げに読んでいた。
 「どうして、そんな新聞を読むのかね」
 ほかのユダヤ人が尋ねると、その男は言った。
 「ユダヤの新聞は、ユダヤ人への迫害の話ばかりだが、この新聞には、俺たちが一番金持ちで、世界を支配していると書いてあるんだもの」
 ヒトラーは自分の気に入らないものは、すべてユダヤ人に結びつけた。
 民主主義も、議会主義も、自由主義も、国際主義も、また、人びとの自由と平等を広げる人権思想も、いっさいが″ユダヤ人がアーリア人を支配しようとして考え出した道具″だと見た。
 だが、そのような強大な″支配者ユダヤ人″がどこにいるというのか。結局、ヒトラーの妄想のなかにすぎない。にもかかわらず、彼の偏見と差別意識に満ちた妄想は、文字通り、狂気の暴走を始めてしまったのである。
 こうして作られた虚構の「ユダヤ人問題」を「最終解決」するために、ユダヤ人の「排除」を叫び、それは遂に、″アウシュヴィッツ″に代表される「ユダヤ人絶滅計画」にまで行き着いてしまうのである。
 なんという狂気か。なんという惨劇か。
 ヒトラーの政権に抗議し、アメリカに亡命していた物理学者のアインシュタインは、その迫害者の心理を、次のように鋭く分析している。
 「ユダヤ人についての憎悪感は民衆の啓蒙を忌みうべき理由をもつ人々によるものなのです。この種の人々は、他の何物にもまして知的独立の精神に富む人々の感化を恐れています。
 (中略)彼らはユダヤ人をドグマを無批判に受け入れるように仕向けることのできない非同化的な一要素と見なしており、したがってユダヤ人なるものが存在するかぎり、それが大衆の広範な啓蒙を主張し続けることによって彼らの権威を脅かすものと考えているのです」
 この指摘のように、権力の亡者は、民衆が賢くなり、自分たちの思い通りにならなくなることを、何よりも恐れる。
 それゆえ、民衆を目覚めさせ、自立させようとする宗教や運動を、権力は徹底的に排除しようとするのである。それは、いつの時代も変わらざる構図といえよう。
23  大光(23)
 ヒトラーが権力を掌握すると、それを待っていたかのように、ユダヤ人に対する暴行や略奪が相次いだ。
 当然、国際的な非難が強まり、ドイツ製品のボイコットまで起こった。
 すると、ナチスは、この責任はユダヤ人にあると言い出し、″懲らしめ″のために国内のユダヤ人ボイコット運動に移った。
 更に、次々に、反ユダヤ立法が行われる。ユダヤ人を狙い撃ちし、追い詰めるために、道理を曲げ、″民主憲法″を踏みにじり、悪法を量産していった。ナチス政権の誕生から五年ほどで、そうした法律や規定は、実に一千件を超えるといわれている。
 まさに、白昼堂々、ユダヤ人は、人間として、ドイツの市民として、生きる権利を制限され、自由を奪われていったのである。
 また、ナチスは、ユダヤ人の経済力の破壊と収奪を目論んだ。一九三八年に、ユダヤ人の財産登録を義務化すると、これをもとに、情け容赦なく、財産を没収していった。
 いったい「生き血」を吸っていたのはナチスか、ユダヤ人か。真実は明らかであろう。
 なかでも、ユダヤ人の運命に、決定的な影響を与えたのは、一九三五年に制定された、悪名高いニュルンベルク法であった。
 これによって、ユダヤ人は、法的に、ドイツ人に従属する別の人種、″二級市民″と規定され、公民権を奪われたのである。
 その際、ナチスが定めた″ユダヤ人の定義″では、祖父母の代までって、ユダヤ教徒かどうかが基準になっていた。
 このことからも、「ユダヤ人は人種である」とのナチスの主張がウソであったことは明白であろう。結局、それは、特定の宗教を信じる国民への、合法的な差別であった。
 一九三八年十一月には、ユダヤ系青年による、ドイツ外交官の暗殺事件をきっかけに、ドイツ全土で、ユダヤ人に対する大迫害が起こる。
 夜陰に乗じて、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)や、ユダヤ人商店が壊され、百人近いユダヤ人が殺された。更に、二万から三万人が逮捕され、強制収容所に送られた。
 いわゆる「水晶の夜」である。
 破壊の嵐の後、ガラスの破片が散乱していたことから、こう名付けられた。ユダヤ人にとって、最悪の″ポグロム(迫害)の夜″であった。
 これらは、すべて、一九三九年の九月一日、ドイツがポーランドに電撃的に侵攻し、第二次世界大戦が勃発する前のことである。
24  大光(24)
 山本伸一は、ヒトラーのユダヤ人迫害の経緯を語った後、強い口調で言った。
 「忘れてならないのは、ヒトラーも、表向きは民主主義に従うふりをし、巧みに世論を扇動し、利用していったということだ。
 民衆が、その悪の本質を見極めず、権力の魔性と化した独裁者の扇動に乗ってしまったことから、世界に誇るべき″民主憲法″も、まったく有名無実になってしまった。これは、歴史の大事な教訓です」
 十条潔が、憤りを浮かべながらつぶやいた。
 「こんなにひどいことが行われていたのに、ナチスに抵抗する動きはなかったのでしょうか……」
 伸一は言った。
 「もちろん、抵抗した人たちもいる。しかし、本気になって抵抗しようとした時には、ナチスは、ドイツを意のままに操る、巨大な怪物に育ってしまっていた。結局、立ち上がるのが遅すぎたのだ。
 多くの人びとは、ナチスのユダヤ人迫害を目にしても、黙って何もしなかった。無関心を装うしかなかった。それが、ナチスの論理にくみすることになった。
 牧口先生は、『よい事をしないのは悪いことをするのと、その結果において同じである』と言われているが、『悪』を前にして、何もしないで黙っていたことが、悪に加担する結果になってしまったわけだね」
 たとえば、ドイツのキリスト教会からは、後に、強い抵抗運動も起こっているが、ナチスの政権ができた当初は、むしろ協力的であった。
 キリスト教会における、反ナチ闘争の中心的人物となった牧師マルティン・ニーメラーは、ナチスの暴虐が進んでいくのを目の当たりにして、自分がどう思ったかを、概要、次のように回想したという。
 ──ナチスが共産主義者を襲った時、不安にはなったが、自分は共産主義者ではなかったので抵抗しなかった。ナチスが社会主義者を攻撃した時も不安はつのったが、やはり抵抗しなかった。次いで、学校、新聞、ユダヤ人……と、ナチスは攻撃を加えたが、まだ何もしなかった。
 そして、ナチスは、遂に教会を攻撃した。自分はまさに教会の人間であり、そこで初めて抵抗した。しかし、その時には、もはや手遅れであった──と。
 こうした悲惨な時代を生きた人びとは、すべてが起こってしまった後に、その教訓として、次のような格言を、苦い思いでみ締めたという。すなわち「発端に抵抗せよ」「終末を考慮せよ」と。
25  大光(25)
 ラインの川面は、金波から赤紫に変わり、街の明かりを映し始めていた。
 山本伸一は、静かに言葉をついだ。
 「最初から迫害のターゲットになっていた、ユダヤ人たちにとっては、ナチスの本性はあまりにも明白であったはずだ。
 ところが、一般のドイツ人にしてみれば、ナチスの暴虐も、自分たちに火の粉が降りかかるまでは、対岸の火事でしかなかった。その意識、感覚が、『悪』を放置してしまったんです」
 谷田昇一が、深い感慨を込めて言った。
 「人間は、他の人が迫害にさらされていても、それが自分にも起こり得ることだとは、なかなか感じられないようだ」
 伸一が答えた。
 「そうかもしれない。
 しかし、ナチスにとっては、ユダヤ人への偏見や悪感情が広がり、ユダヤ人と他の人びとの間に、意識的な隔たりが大きくなればなるほど、迫害も、支配も容易になり、好都合ということになる。
 それは、ある意味で、民衆自身の意識の問題といえるかもしれない。
 ともかく、民衆の側に、国家権力の横暴に対して、共通した危機意識がなかったことが、独裁権力を容易にした理由の一つといえるだろうね。
 今、学会がなそうとしていることは、民衆の心と心の、強固なスクラムをつくることでもある」
 伸一の話に頷きながら、谷田が言った。
 「今のお話は、本当に大事な問題だと思います。
 日本にも平和と民主のすばらしい憲法があっても、それが踏みにじられることにもなりかねないですね」
 「そうなんだよ。たとえば、明治憲法でも、条件付きながら、信教の自由は認められていた。
 それが、なぜ、かつての日本に、信教の自由がなくなってしまったのか。
 政府は、神社は『宗教に非ず』と言って、神道を国教化していった。やがて、治安維持法によって、言論、思想の自由を蹂躙し、宗教団体法によって、宗教の統制、管理に乗り出した。
 そして、いつの間にか、日本には、信教の自由はおろか、何の自由もなくなっていた。小さな穴から堤防が破られ、濁流に流されていくように。
 こうした事態が、これから先も起こりかねない。しかも、『悪』は最初は残忍な本性は隠し、『善』や『正義』の仮面を被っているものだ。
 だからこそ、『悪』に気づいたら、断固、立ち上がるべきだよ。それを、私たち日本人も、決して忘れてはならない」
26  大光(26)
 日の落ちたラインの川面を渡る風は、肌寒かった。
 山本伸一は、同行のメンバーと一緒に、岸辺を歩き始めた。彼は、しみじみとした口調で語った。
 「ヒトラーの蛮行が残したものは、結局、無数の死と破壊であった。犠牲になった人たちのことを考えると、胸が痛んでならない。
 また、最も苦しんだユダヤの人びとが幸福になれないなら、人間の正義はいったいどこにあるだろうか」
 この後、伸一は、皆と一緒に、河畔のレストランで夕食をとった。
 明日は、いよいよベルリンへ行く日である。
 伸一が、ベルリンの現状について、同行してくれることになっている駐在員の壮年に尋ねた。
 すると、その壮年は、まじまじと伸一の顔を見つめて言った。
 「山本先生、どうしてもベルリンに行かれるおつもりですか」
 「はい。それが今回の旅の目的の一つですから」
 駐在員は、身を乗り出すようにして語っていった。
 「おやめになった方がいいと思いますがね。はっきり言って、今は危険です。
 新聞を見ても、ベルリンの境界線では、毎日のように、発砲事件が報じられています。東側から逃亡を企てた人が、東ドイツの兵士たちに射殺されているんです。
 周囲は警戒も厳重で、写真一つ撮るにも、警官の指示に従わなければ、大変なことになります。
 そんなところには、あまりお連れしたくないというのが、私の正直な気持ちなんです」
 伸一は、微笑みを浮かべながら、しかし、情熱を込めて語り始めた。
 「お気持ちは、よくわかります。また、大変にありがたいお心遣いであると思います。
 しかし、私は、仏法者として、不幸に泣く人びとを救い、世界の恒久平和を築かなくてはなりません。
 そのためにベルリンの壁の前に立ち、分断された悲惨なドイツの現実を、生命に焼きつけておきたいのです。
 そして、魂魄を留めて、東西ドイツの融合を、いや世界の東西冷戦の終結を祈り、それをもって、私の、また、創価学会の平和への旅立ちとしたいのです。
 ご苦労をおかけすることになりますが、よろしくお願いいたします」
 こう言って、深々と頭を下げた。駐在員の壮年は、驚いたように伸一を見た。
 「よくわかりました。ご案内いたします」
 伸一は、皆の顔を見て言った。
 「さあ、明日は、世界平和への幕を開こう!」
27  大光(27)
 翌十月八日の午前十一時二十五分、一行は、デュッセルドルフの空港を発ち、西ベルリンに向かった。
 機中、山本伸一は一人、ベルリンの、ドイツの分断の歴史を思った。
 ──第二次世界大戦で敗れたドイツは、占領政策に基づき、ソ連、アメリカ、イギリス、フランスの四カ国の管理下に置かれた。
 そして、ドイツのほぼ半分にあたる東部地域をソ連が、また、北西地域をイギリスが、南西地域をアメリカが、西部地域をフランスが管理し、分割統治されることになった。
 更に、それまでのドイツの首都であったベルリンについては、同じく四管理地域に分けられ、やはり、東半分をソ連が受け持ち、西半分についても三分割し、北から仏、英、米の三国が受け持つことになった。
 しかし、ベルリン全体に関わる諸事項については、四カ国の軍司令官からなる管理委員会が、共同で対処し、統治にあたることになっていた。
 このベルリンは、ソ連の管理地域、すなわち、東ドイツのほぼ中央に位置していた。
 いわば、ソ連にとっては、自分たちの管理地域の中心に、自由主義陣営の地域が存在し、他国の軍隊が居座っていることになる。
 それが、ドイツの戦後の問題を、一層、複雑なものにしていったのである。
 また、ドイツのソ連管理地域では、土地改革や大企業の人民所有などが行われ、盛んに社会主義化が進められていった。
 一方、米、英、仏の三国の管理地域では、マーシャル・プランによる経済復興の計画が進められており、三管理地域の統合へと、事態は動き始めていた。
 この占領政策の違いが、両地域のを深めていったといえよう。
 そして、ドイツは東西の分断へと加速していくことになる。東西両陣営の亀裂と対立の構図が、そのままドイツに持ち込まれていったのである。
 一九四八年の三月、米、英、仏の三国とベネルクス三国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)は、西側管理地域を西側陣営に組み込むことを決め、経済統合に着手し、六月には新通貨のドイツ・マルクが発行された。
 すると、ソ連は、自国の管理地域で独自の通貨改革を行うとともに、報復措置として、米、英、仏の三国管理地域から、ソ連管理地域を通過してベルリンに至るいっさいの道路や鉄道、水路を封鎖した。
 これによって、西ベルリンへの、食糧、物資の西側からの補給路が断たれてしまったのである。
28  大光(28)
 西ベルリンの市民の心は、暗闇に包まれた。
 東西の″冷戦″は、″熱戦″に変わり始めるかに見えた。
 アメリカ、イギリス、フランスの三国は、道路や水路の封鎖によって、西ベルリンが孤立させられると、大空輸計画を練り、空路、あらゆる食糧や物資を西ベルリンに送った。
 そのため、封鎖は功を奏さず、やがて、ソ連は封鎖を解除するが、市民の不安は消えなかった。
 人びとの願いは、祖国ドイツが一つの国として、再建への道を踏み出すことであった。
 だが、そんな悲願をよそに、一九四九年、ドイツは分断され、自由主義国のドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、社会主義国のドイツ民主共和国(東ドイツ)が誕生したのである。
 そして、東ベルリンは、東ドイツの首都となった。
 しかし、それでも、ベルリンのなかでは、東西の行き来は比較的自由であり、東ベルリンに住んで、西ベルリンに働きに出る人もあれば、その逆のケースもあった。
 また、それだけに、西側陣営にしてみれば、西ベルリンは、東側陣営に対する自由主義の「ショーウインドー」として、貴重な意味を持っていた。
 一方、ソ連にすれば、東ドイツが社会主義国として出発したにもかかわらず、その領内に、依然として、自由主義の「ショーウインドー」が存在し、しかも、西側諸国の軍隊が駐留していることを、放置しておくわけにはいかなかった。
 更に、当時、東ドイツを脱出して、西ドイツに亡命する人が後を絶たなかったのである。
 東ドイツを脱出した人の数は、一九四九年から六一年までで、およそ二百五十万から三百五十万人にも上るという。そして、そのうちの約半数が二十五歳以下の青年層であり、それが、東ドイツの深刻な労働力不足をもたらしていた。
 しかも、その脱出の際、多くは、東ベルリンから西ベルリンに入り、そこで、西側の機関に申し出て、航空機で西ドイツに送ってもらうという方法をとっていたのである。
 一九五八年の十一月、ソ連のフルシチョフ首相は、米、英、仏の三国に対し、ベルリンの四カ国共同管理権を破棄し、六カ月以内に駐留軍を撤退させ、ベルリンを「非武装の自由都市」とする提案を突きつけた。
 その狙いは、西ベルリンから三国の軍隊を引き揚げさせ、やがては、東ドイツに編入することにあったと言われている。
29  大光(29)
 一九六一年六月、ソ連のフルシチョフ首相とアメリカのケネディ大統領による首脳会談が、オーストリアのウィーンで行われた。
 フルシチョフ首相は、ここでも、ベルリンの自由都市化の要求を突きつけた。しかし、このベルリン問題では、両者の意見は真っ向から食い違い、なんの進展も見られなかった。
 ケネディは、七月二十五日に演説を行い、ベルリンの米、英、仏の駐留権を維持すると訴えた。そして、西ベルリンは、西側陣営にとって、自由のショーウインドーや、東ドイツの共産主義政権からの避難口である以上の、重要な意味を持っているとし、断固、守り抜くことを宣言した。
 それから一週間余りが過ぎた八月三日、モスクワでワルシャワ条約機構の首脳会議が開かれ、東側諸国は東西ベルリンの境界を、通常の国境と同様の管理下に置くことを決定した。それは、ベルリンの「壁」の建設を意味していた。
 一九六一年の八月十三日は日曜日であった。
 この日の未明から早朝にかけて、東ドイツの人民軍と人民警察が、戦車、装甲車、トラックなどで、続々と、東西ベルリンの境界にやってきた。
 夜明け前の闇のなかで、彼らは、手際よく、境界線に沿って鉄条網などでバリケードをつくり始めた。また、東西を結ぶ地下鉄、高架線、道路を次々と封鎖していった。
 東西ベルリンが、完全に分断されたのだ。
 地下鉄などは、境界で折り返しとなり、自動車、通行人が通れるのは、ブランデンブルク門など、十三カ所に限定され、そこには、検問所が設けられた。
 そして、東ドイツ国民、東ベルリン市民が、西ベルリンに入るには、東ドイツ政府の発行する特別許可証が必要となり、西ベルリンで働くことも禁じられた。
 一方、西ベルリン市民は身分証明書を提示すれば、東ベルリンに入ることはできるが、西ドイツ国民が東ベルリンに入るには、東ドイツ政府が発行する、有効期間一日の特別許可証が必要となったのである。
 そこには、権力の魔性の恐怖があった。権力の傲慢と偽善と狂気が渦巻いていた。
 東西ベルリンの境界線が封鎖されたことを知った市民は、驚き、戸惑い、そして、憤った。
 ブランデンブルク門の前には、約五千人の西ベルリン市民が抗議に押し寄せ、それを、西ベルリンの警官隊が引き戻すという一幕もあった。また、東ベルリン側でも、封鎖に憤った人びとが街路に集まり、逮捕者も出る騒ぎとなった。
30  大光(30)
 ベルリンの人びとは、長く同じベルリン市民として暮らしてきた。
 ところが、この「壁」によって、同胞が、愛し合う恋人同士が、家族が、一夜にして、完全に引き離されてしまったのである。
 人間と人間の絆を、権力が、生木を裂くように、無残にも断ち切ったのだ。
 山本伸一は、分断によって、ドイツの人びとが、いかに苦しんでいるかと思うと、心が痛んだ。
 デュッセルドルフの空港を発った時には、晴れていたが、飛行機が東ドイツの上空に差しかかったころから、外は厚い雲に覆われ始めた。
 伸一には、それが、ベルリンの人びとの悲しみを表しているかのようにも感じられた。
 午後一時前、飛行機は西ベルリンのテンペルホーフ空港に着陸した。
 ベルリンは雨であった。
 伸一の一行は、空港からホテルに向かい、打ち合わせを済ませると、市内に車を走らせた。
 しとしとと、雨が降り続き、空は暗かった。
 通称″クーダム通り″といわれる繁華街を行くと、買い物などを楽しむ大勢の人たちで賑わい、活気にあふれていた。
 しばらく走ると、削られた歯のように、塔の一部が破壊されたネオ・ロマネスク風の教会があった。ヴィルヘルム皇帝記念教会である。
 第二次世界大戦で、戦火を浴びて崩れ落ちたものだが、戦争の悲惨さを伝えるために、そのまま残してあるという。
 間もなく″六月十七日通り″と呼ばれる大通りに出た。彼方に、古代ギリシャの神殿を模した石の門が見えた。
 それが、ブランデンブルク門であった。この門の手前までが西ベルリンであるという。
 門の上には、四頭立ての古代ローマの二輪戦車を駆る、平和の女神の彫刻の後ろ姿が、かすかに見えた。
 十八世紀の終わりに、本来は、「平和の門」として建てられたブランデンブルク門が、今や東西冷戦による分断の象徴となっているのである。
 車で、門の四、五百メートルほど前まで行くと、が設けられていた。
 伸一たちは、一度、ここで車を降り、霧雨に煙る通りに立った。
 空は、次第に明るくなりつつあった。
 そこから先は、歩行者は入れないという。ただし、外国人に限り、自動車に乗ったままなら、二百メートルほど手前まで行くことができるとのことであった。
31  大光(31)
 ここには、全く平和はなかった。
 周囲には、機関銃を備えつけたイギリス軍の装甲車が走り、要所要所に西ドイツの警察官が立っていた。
 そして、ブランデンブルク門を挟んで、その向こうには、東ドイツ側の兵士らしき人影が見える。緊張した雰囲気が伝わってくる。
 周りには、何人かの見物人がいたが、皆、声を押し殺すようにして、何かを囁き合っていた。
 山本伸一たちは、車で、行けるところまで行くことにした。
 門に向かって左側に、第二次世界大戦のソ連の戦勝記念碑があり、その脇にはベルリンに一番乗りしたという戦車が飾られている。ソ連の戦勝記念碑が、自由主義陣営となった西ベルリン側にあることが、事態の複雑さを感じさせた。
 そのすぐ近くの木立のなかには、イギリス軍の野営テントが見える。
 ブランデンブルク門に近づくと、周囲にはや鉄条網が張り巡らされていた。
 警戒は、一層、ものものしさを増し、門の向こうには、銃を持って立つ東ドイツ側の兵士の姿を、はっきりと見ることができた。
 道路に、ドイツ語で書かれた立て札があった。案内の駐在員が、それを指さして、教えてくれた。
 「あそこには『注意! あなたは、今、西ベルリンを離れる』と書かれているんです」
 かつては、誰も意識することなく、ここを通り、西側から東側へ、また、東側から西側へと、行き来していたのであろう。しかし、今や、その立て札は、まさに危険を伝える警告となってしまった。
 伸一は、車を降りて、ブランデンブルク門の真下に立ちたかったが、それは許されぬことであった。
 一行は、そのまま車で、フランス軍の管理地域にあたる、ベルナウアー通りに向かった。
 ここは、境界線にあり、沿道の建物は東ベルリンに属しているが、その手前にある歩道は、西ベルリンに属している。
 建物の上の方の窓は、そのままだが、出入り口や、一、二階の窓は、レンガで塞がれていた。
 閉ざされた一つの出入り口の前に、一抱えほどもある花束が置かれてあった。
 伸一は、ドライバーから、西ベルリンに逃亡しようとして、老婦人が四階の窓から飛び降り、死亡したのだと聞かされた。
 更に、そこから百メートルほど先の路上にも花束が置かれ、五、六人が、それを囲むようにして、東側の建物を見上げていた。
32  大光(32)
 ドライバーの壮年が、車を止めて、山本伸一たちにドイツ語で教えてくれた。
 「数日前に、この建物の屋上で、西ベルリンに脱出しようとした東ドイツの人が、東ドイツの警官と格闘し、飛び降りたんです。
 西ベルリンの警官が、手当てをしたんですが、即死でした。
 壁がつくられてからというもの、境界線では、いつもこんなことばかりです。
 警備の兵士が目をそらしているすきに、赤ん坊を鉄条網越しに、西側に住んでいる夫に手渡した婦人もいました。
 彼女は、夫とも、子供とも別れて、これから先も、東ベルリンで暮らしていくんでしょう。でも、怪我一つせず、子供だけでも西側に脱出させることができたんだから、まだ、よかったんですよ。
 三階の窓から、綱を垂らして逃げようとして、壁にこすられて手足が血だらけになっていた婦人もいたし、足を挫いてしまった男性もいましたからね。
 しかし、それでも、射殺されないだけ、幸運だったんです。
 見てください。その角の柱を。銃弾の跡があるでしょう。東から西に逃げようとして、撃ち殺されてしまったんです。まるで、虫ケラみたいにね」
 通訳を通して聞くドライバーの話に、伸一の胸は詰まった。
 ドライバーは、更に話し続けた。
 「ドイツは、確かに戦争に負けた。敗戦国です。しかし、同じドイツ人が、親戚が、家族が、一緒に暮らす権利はあるはずだ。
 私たちは、もともと国の中を自由に行き来して、一緒に、仲良く暮らしてきたんだ……」
 こう語るドライバーの目には、涙が潤んでいた。
 「東ベルリンに、どなたか、ご家族の方がいるんですか」
 伸一が尋ねた。
 「伯母がいます。もう、高齢です。私の大好きな伯母です……」
 ドライバーは涙を拭い、上着のポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
 伸一たちは、ここで車を降りることにした。
 街角のコンクリートの柱には、ドライバーが言ったように、弾痕がくっきりと刻まれ、そこにチョークで印がつけられていた。
 警察官が、それを指さして教えてくれた。
 伸一は、弾痕を見ていると、自分の胸が弾丸で撃ち抜かれたような思いにかられた。
 「酷いものだな……」
 誰に言うともなく、彼はつぶやいた。
33  大光(33)
 しばらく行くと、レンガ塀越しに、東ベルリンのなかが見える一角があった。
 そこには、二、三十人ほどの人が集まり、東ベルリンの方に向かって、時折、手を振っていた。
 山本伸一が、東ベルリンの方を眺めると、彼方の建物の窓に小さな人影が見えた。ここに集まっている人の縁者なのであろう。
 その人影は、こちらに向かって、盛んに手を振っていたかと思うと、サッと隠れるように、建物のなかに姿を消した。
 東ベルリンで警備に当たっている兵士らに見つかると、西ドイツに内通している者と見なされてしまう恐れがあるからであろう。
 分断の現実を思い知らされ、同行のメンバーは、言葉を失っていた。
 また、ベルナウアー通り近くの境界通路では、数人の西ベルリン市民が、検問所の東ベルリンの警察官に、通路の向こうでたたずむ老婦人へ、伝言を頼んでいる光景に出あった。
 若い警察官は、その依頼を聞き入れ、老婦人に伝言を伝えた。
 老婦人は、こちらを見ながら、何度も頷いた。すると、それを見ていた、傍らの兵士が彼女に歩み寄り、犬でも追い払うように、立ち去るように命じた。
 西ベルリンの人たちは、老婦人の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも、傘や手を振っていた。寂しく、悲しい光景であった。
 この後、一行は、車で境界線を回った。レンガやコンクリートの壁が、どこまでも続いていた。その壁の前で、じっとたたずむ人びとの姿があった。
 眼前に立ち塞がる壁の高さは、わずか、三、四メートルに過ぎない。取り除こうと思えば、すぐに、壊すことができよう。
 だが、その壁が、自由を奪い、人間と人間を、同胞を、家族を引き裂いているのだ。
 何たる人間の悪業よ!
 人間は何のために生まれてきたのかと、伸一は炎のような強い憤りを感じた。
 ──人間がともに生き、心を分かち合うことを拒否し、罪悪とする。それは、人間に、人間であるなということだ。そんな権利など誰にもあるわけがない。
 だが、壁はつくられた。まぎれもなく人間によって。東西の対立といっても、人間の心に巣くう権力の魔性がもたらしたものだ。
 そして、このドイツに限らず、韓・朝鮮半島も、ベトナムも、分断の悲劇に襲われた。いや、それだけではない。ナチスによる、あのユダヤの人びとの大量殺戮も、あらゆる戦争も、核兵器も、皆、権力の魔性の産物にほかならない。
34  大光(34)
 山本伸一の脳裏に、戸田城聖の第一の遺訓となった「原水爆禁止宣言」がまざまざと蘇った。
 ──あの宣言の精神も、″人間の生命に潜む魔性の爪をもぎ取れ″ということであった。魔性に打ち勝つ力はただ一つである。それは、人間の生命に内在する仏性の力だ。
 仏性とは慈悲の生命であり、破壊から創造へ、分断から融合へと向かう、平和を創造する原動力である。人間の胸中に、この仏性の太陽を昇らせ、魔性の闇を払い、人と人とを結びゆく作業が、広宣流布といってよいだろう。
 車は、再び、ブランデンブルク門を望む、の前に出た。伸一は、もう一度、ここで車を降りた。
 いつの間にか、雨はすっかり上がり、空は美しい夕焼けに染まっていた。
 荘厳な夕映えであった。太陽は深紅に燃え、黄金の光が空を包んでいた。
 それは、緊迫の街に一時の安らぎを与え、心を和ませた。
 一行が夕焼けを眺めていると、近くにいた、ドライバーの壮年が、笑みを浮かべて教えてくれた。
 「こんな美しい夕焼けの時には、私たちは、こう言うのです。『天使が空から降りて来た』と……」
 辺りの塔も、ビルも、そして、閉ざされた道も、ブランデンブルク門も、金色に彩られていた。
 伸一は思った。
 ″太陽が昇れば、雲は晴れ、すべては黄金の光に包まれる。
 人間の心に、生命の太陽が輝くならば、必ずや、世界は平和の光に包まれ、人類の頭上に、絢爛たる友情の虹がかかる……″
 彼は、ブランデンブルク門を仰ぎながら、同行の友に力強い口調で言った。
 「三十年後には、きっとこのベルリンの壁は取り払われているだろう……」
 伸一は、単に、未来の予測を口にしたのではない。願望を語ったのでもない。
 それは、平和を希求する人間の良心と英知と勇気の勝利を、彼が強く確信していたからである。また、世界の平和の実現に生涯を捧げ、殉じようとする、彼の決意の表明にほかならなかった。
 一念は大宇宙をも包む。それが仏法の原理である。
 ″戦おう。この壁をなくすために。平和のために。
 戦いとは触発だ。人間性を呼び覚ます対話だ。そこに、わが生涯をかけよう″
 伸一は、一人、ブランデンブルク門に向かい、題目を三唱した。
 「南無妙法蓮華経……」 深い祈りと誓いを込めた伸一の唱題の声が、ベルリンの夕焼けの空に響いた。

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