Nichiren・Ikeda
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第4巻 「立正安国」
立正安国
小説「新・人間革命」
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30 立正安国(30)
九月に入ると、組座談会は次第に軌道に乗り、そこで発心した友の体験が、学会本部にも、続々と寄せられるようになった。
山本伸一は、九月は、十五日に総本山に行き、その後、台風十八号(第二室戸台風)で被害を受けた大阪の同志の激励などのため、関西を訪問した以外は、東京で過ごした。
十月四日から二十日間にわたる、ヨーロッパ訪問の準備があったからである。
主な訪問地は、デンマークのコペンハーゲン、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ、西ベルリン(当時)、オランダのアムステルダム、フランスのパリ、イギリスのロンドン、スペインのマドリード、スイスのチューリヒ、オーストリアのウィーン、イタリアのローマなどである。
訪問の目的は、現地の会員の指導、大客殿の建築資材・調度品の購入、更に、宗教事情などの視察にあった。
伸一が、この時、最も心を痛めていたのは、ドイツの人びとのことであった。
八月十三日の未明、東ドイツ(当時)は、突然、東西ベルリンの境界線に、四十数キロメートルにわたって、鉄条網の「壁」を設置したのである。
ベルリンはドイツが東西に分けられて以来、東ドイツのなかに孤島のように存在していた。そして、ベルリンも西と東に分けられてはいたが、自由に行き来することができた。
しかし、西ベルリンを通って、東ドイツから西側に脱出する人が後を絶たなかったことから、東ドイツ政府は境界線を封鎖したのである。
東西ベルリンを結ぶ道路も大半は封鎖され、戦車、装甲車が配置された。残った道路には、検問所が設けられ、自由な往来は禁じられた。地下鉄も、境界線で折り返し運転となった。
この鉄条網の「壁」は、十三日以降、刻一刻と、拡張され、厳重になっていった。そして、まもなく、コンクリートやレンガの、冷酷な「壁」が築かれるに至ったのである。
突然の封鎖によって、家族、親戚、あるいは恋人同士で、離れ離れになってしまった人もいたであろう。
それは、東西冷戦の縮図でもあった。イデオロギーが人間を縛り、人間を分断させたのである。
伸一は、ヨーロッパ訪問を前に、一人誓った。
″今こそ、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を、広く人びとの心に、浸透させていかなくてはならない。世界の立正安国の道を開くのだ……″
彼は、二十一世紀の大空に向かい、大きく平和の翼を広げようとしていた。