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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「立正安国」 立正安国

小説「新・人間革命」

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1  立正安国(1)
 梅雨は、まだ明けそうになかった。
 総本山の参道には、深い霧が立ち込めていた。
 一九六一年(昭和三十六年)七月三日、山本伸一は総本山にやって来た。戸田城聖の墓参のためである。
 翌四日の朝、戸田の墓前に立った伸一は、深い祈りを込めて題目を三唱すると、しばらく墓石に向かっていた。
 それは、何かを語りかけているようでもあった。
 十六年前にあたる終戦直前の四五年(同二十年)七月三日、戸田は恩師牧口常三郎の広布への遺志を受け継ぎ、生きて獄門を出た。
 軍部政府の弾圧による、戦時下での二年間の獄中生活は、戸田の体を、いたくさいなんだ。彼の体は、やせ細り、地を踏む足元もおぼつかなかった。
 しかし、肋骨の浮き出た彼の胸には、広宣流布への激しい闘志が、炎のごとく燃え上がっていた。それは敬愛する恩師を殺し、民衆に塗炭の苦しみを味わわせた権力の魔性への、怒りの火でもあった。
 あの弾圧によって、同志のほとんどが退転し、頼りとすべき人物は、誰もいなかった。戸田は、広宣流布の命脈は、自分の双肩にかかっていることを自覚していた。
 戸田は、ただ一人、法旗を掲げて立つことを決意した。そして、この日から、地下水が泉となって地表にあふれ出すように、広宣流布の法水が、敗戦の焼け野原を潤していった。
 七月三日──それは、学会の新生の日であり、広宣流布の獅子王が、軍部政府という権力の鉄鎖から、野に放たれた日である。
 伸一は、広宣流布とは、権力の魔性との戦いであることを痛感していた。
 人間の尊厳を脅かす、権力や武力などの外的な力に対して、内なる精神の力をもって、人間性の勝利を打ち立てていくことが、仏法者の使命であるからだ。
 牧口、戸田の逮捕は、天照大神の神札を祭らぬということが、直接の契機であった。だが、それは一つの象徴的な事例にすぎない。
 より本質的には、国家神道を精神の支柱として、民衆を隷属させ、戦争を遂行する軍部政府にとって、万人の尊厳と自由と平等を説く仏法を流布する団体を、放置しておくことができなかったからに違いない。
 時代は移り、戦後、日本は民主主義国家となったものの、民衆を隷属させようとする魔性の力の本質は、依然として変わることはないと、伸一は思った。
 伸一が、それを身をもって感じたのが、彼が選挙違反という無実の罪で逮捕された、あの大阪事件であった。奇しくも、その逮捕の日も、五七年(同三十二年)の七月三日であった。
2  立正安国(2)
 山本伸一は、大阪地検の取り調べを思うと、激しい怒りに震えた。
 無実であるにもかかわらず、罪を認めなければ、戸田城聖を逮捕するなどの、脅迫とも言うべき検事の言動には、なんとしても学会を陥れようとする、邪悪な意図があることは明らかであった。
 新たな民衆勢力の台頭を恐れてのことであろう。
 学会によって、民衆が社会の主役であることに目覚め、現実の政治を動かす力になりつつあったことは、国家権力にとって大きな脅威であったに違いない。
 古来、仏教をはじめ、日本の宗教は、国家権力に取り込まれ、むしろ、積極的に与することによって、擁護されてきた。
 福沢諭吉は『文明論之概略』のなかで、次のように述べている。
 「宗教は人心の内部に働くものにて、最も自由、最も独立して、毫も他の制御を受けず、毫も他の力に依頼せずして、世に存すべきはずなるに、我日本に於ては則ち然らず」
 そして、宗教が政治権力に迎合してきたことに触れて、こう指摘している。
 「その威力の源を尋れば、宗教の威力にあらず、ただ政府の威力を借用したるものにして、結局俗権中の一部分たるに過ぎず。仏教盛なりといえども、その教は悉皆政権の中に摂取せられて、十方世界に遍く照らすものは、仏教の光明にあらずして、政権の威光なるが如し」
 仏教各派にとっても、そうすることが、権力の弾圧を回避し、自宗の延命と繁栄を図る術であったと言えよう。
 学会も、権力の意向に従い、現実の社会の不幸に目をつぶり、単に来世の安穏や、心の平安を説くだけの″死せる宗教″であれば、何も摩擦は生じなかったであろう。
 しかし、それでは、民衆の幸福と社会の平和を実現するという、宗教の本来の目的を果たすことはできない。
 そして、宗教が民衆のための社会の建設に突き進んでいくならば、民衆を支配しようとする魔性の権力の迫害を、覚悟せざるをえない。
 伸一にとって、この投獄は、民衆の凱歌を勝ち取る人間主義運動の、生涯の出発となったのである。
 また、彼が、決して忘れることができないのは、弟子を思う、熱い、熱い、師の心であった。
 羽田の空港で、大阪府警に出頭するため、関西に向かう伸一に、戸田はこう語った。
 「……もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
3  立正安国(3)
 山本伸一は、羽田の空港での戸田城聖の胸中を思うと、感涙に目頭が潤んだ。
 しかも、戸田は、伸一の勾留中、大阪地検に抗議に来ていたのである。
 七月十二日、東京の蔵前国技館で、伸一を不当逮捕した、大阪府警並びに大阪地検を糾弾する東京大会を行った戸田は、その後、やむにやまれぬ思いで、大阪にやって来たのである。
 戸田は、検事正に面会を求めた。
 当時、既に、戸田の体はいたく憔悴していた。同行した幹部に支えられ、喘ぐように肩で息をし、よろめきながら、地検の階段を上がっていった。
 戸田は、可能ならば、伸一に代わって、自分が牢獄に入ることも辞さない覚悟だった。弟子のためには、命を投げ出すことさえ恐れぬ師であった。
 彼は検事正に、強い語調で迫った。
 「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか!
 私の逮捕が狙いなら、今すぐ、私を逮捕しなさい」
 そして、伸一の一刻も早い釈放を求めたのである。
 戸田は、地検から帰る道すがら、何度も、悔しそうに、こうつぶやいた。
 「何も罪など犯していないことは、伸一のあの人柄を見れば、よくわかるじゃないか!」
 伸一が、その事実を知ったのは、出獄後のことであった。
 彼は、師の心に泣いた。
 また、戸田の抗議は、伸一に、民衆を守る指導者の姿を、身をもって教えてくれたようにも感じられてならなかった。
 今、戸田の墓前に立つ伸一の胸には、「権力の魔性と戦え! 民衆を守れ!」との、恩師の言葉がこだましていた。
 彼は、深い誓いを込めて題目を三唱した。
 そして、恩師の心に応えるためにも、いよいよ山場を迎えようとしている、大阪事件の裁判で、断じて、無罪を勝ち取らなければならないと思った。
 伸一は、この日、東京に戻ると、夜には七月度の男子部幹部会に出席した。
 幹部会は、未来を開きゆく、座談会運動に取り組む青年たちの、意欲あふれる集いとなった。
 青年部長の秋月英介が、この下半期は、民衆の語らいの園ともいうべき小単位の座談会に全力を注ぎ、男子部の手で大成功させようと呼びかけると、朗らかな拍手がわき起こった。
 青年たちは法旗を高々と掲げて、民衆のなかへ、人間のなかへ、本格的な前進を開始したのだ。
 広宣流布の主戦場とは、組織の最前線に、民衆のなかにこそある。
4  立正安国(4)
 七月九日、方面別の青年部総会の掉尾を飾って、東北の総会が開催された。
 二日に行われた、中国の青年部総会(四国も含む)も、女子部一万二千人、男子部一万四千人が参加して大成功を収め、これまで、どの方面も、未曾有の大結集を成し遂げてきた。
 それだけに、最後の東北が、いかに有終の美を飾るかが注目されていた。
 山本伸一が午前九時過ぎに、会場の仙台市レジャーセンターに到着すると、既に参加者は、場外にもあふれていた。
 場外のメンバーには、米俵の両端に当てる、藁製の丸いふたの桟俵が配られ、皆、そこに腰を下ろしていた。運営メンバーの配慮であろうが、それにしても、桟俵を使うところが、いかにも農業の盛んな東北らしく、微笑ましかった。
 当初、午前十時から女子部総会が行われる予定であったが、伸一は、場外の友のことを考え、開会を早めるように提案した。この日は晴天に恵まれ、昼ごろには、かなり暑くなることが予想されたからである。
 東北女子部の総会は、午前九時三十分に開会となった。一万二千人の大結集であった。
 伸一は総会が終わると、直ちに場外に出た。炎天下にいるメンバーのことが気掛かりでならなかったのである。水銀柱は三三度になっていた。
 場外は、女子部だけでなく、既に、午後の男子部総会の参加者も詰めかけ、人で埋まっていた。
 彼は、場外に設けられた壇の上に立つと、メンバーに呼びかけた。
 「今日は、暑いところ、大変にご苦労様でございます。今、創価学会の男女青年部員は、約五十万になろうとしております。もはや、日本第一の青年平和集団です。
 この青年の力をもって、日本に、世界に、平和の楽土を築いていこうではありませんか!
 そこに、わが創価学会の尊い使命があります……」
 伸一は、五分ほど話をすると、扇子を右手に掲げて言った。
 「今日は、ここで学会歌の指揮を執りましょう」
 鼓笛隊が、「東洋広布の歌」の調べを奏でた。
 彼は、渾身の力を振り絞って、歌の指揮を執った。
 みちのくの青い大空に、若人の歌声は、高らかにこだました。
 伸一の額には、瞬く間に大粒の汗が噴き出た。
 いよいよ、午後は、東北男子部総会である。
 この日、集った男子部員は一万六千人であった。実に見事な、方面別総会の掉尾を飾るにふさわしい大結集であった。
5  立正安国(5)
 東北男子部の総会の講演で、山本伸一は「広宣流布の総仕上げは、東北健児の手で成し遂げていただきたい」と訴えた。
 広宣流布の大事業は、一朝一夕に出来上がるものではない。それには、大樹がしっかと大地に根を張るように、粘り強く、時をつくり、時を待ち、一つ一つの物事を、完璧に仕上げていく着実さが求められる。
 その忍耐強さ、堅実さは東北人の優れた資質といえよう。ゆえに、伸一は、東北の青年たちに、広布の総仕上げを託したのである。
 方面別の青年部総会は、これで幕を閉じた。これまでに集った青年の合計は、男子部が十一万五千人、女子部が八万八千人である。
 後は、秋に、首都圏を中心に、全国の代表が集うことになる。
 この時、既に、男子部は十一月五日に、東京の国立競技場で代表十万人が参加して行われる総会が決定していた。また、女子部も、男子部に続いて十一月に、首都圏の友と各地の代表が参加し、総会を開催することを計画していた。
 一連の方面別の総会を大成功に終えた今、青年たちの成長は目覚ましいものがあった。
 伸一は、これで、十一月の男女青年部総会を目指して、一段と、組織の拡充が図られれば、青年部の盤石な基盤が確立できると確信した。
 伸一が、各地の総会で青年と接して、強く感じたことは、青年たちが、人生の確かなる大哲学を求め、強い求道の心を燃やしていることであった。
 彼は、その青年たちの心に、どう応えていくかを考え続けていた。
 会長といっても、自分は若輩であり、恩師である戸田城聖に比べ、あまりにも無力であることを、彼は痛感していた。
 しかし、戸田亡き今、学会の柱として、全同志を守り、支えるとともに、青年たちを、自分以上の、広布と社会のリーダーに育て上げる責任があることを、彼は自覚していた。その責任を知るゆえに一人悩んだ。
 およそ、青年を触発する何かを与え続けることほど、難しいことはない。
 伸一は、それを可能にするには、自分が、自身の原点であり、規範である師の戸田を、永遠に見失わないことだと思った。源を離れて大河はないからだ。
 また、求道と挑戦の心を忘れることなく、自己教育に徹し、常に自分を磨き、高め、成長させていく以外にないと感じていた。
 そして、私心を捨て、人類の幸福のために生き抜く自らの姿を通して、青年の魂を触発していこうと、伸一は誓うのであった。
6  立正安国(6)
 創価の青年たちの布教の歩みは、十一月の総会を目指して、更に、勢いを増していった。
 七月十日の七月度女子部幹部会では、女子部は部員二十万を達成したことが発表された。
 一方、男子部は部員三十万の達成を目前にして、猛暑のなかに鍛えの汗を流そうと、弘法の先駆を切って突き進んでいた。
 ようやく梅雨も明けた七月二十一日から、会員待望の大客殿建立の供養の受け付けが行われた。
 納金は、二十四日までの四日間にわたり、各地区ごとに実施された。
 全国各地で、同志は、爪に火をともすように生活費を切り詰め、蓄えた真心の浄財を持って、喜々として会場に駆けつけてくれた。
 この供養に参加した世帯は、百四十一万九千五百三十二世帯であった。全会員世帯の七割が参加したことになる。
 また、供養の総額は約三十二億七千万円となった。当初、本部で立てていた目標は十億円であったので、その三倍以上の供養ということになる。全同志の広宣流布への情熱がもたらした結実といってよい。
 七月二十七日には、七月度の本部幹部会が行われたが、その席上、山本伸一は大客殿建立に対する、同志の真心の尽力に、深く感謝の意を表して、次のようにあいさつした。
 「まず、このたびの御供養の推進につきまして、衷心より御礼申し上げます。本当にご苦労様でございました。また、大変にありがとうございました。
 私ども首脳幹部の責任におきまして、世紀の大殿堂にふさわしい、皆様の期待通りの、見事な大客殿を建立してまいりますので、楽しみにお待ちいただければと思います。
 そして、その落成の暁には、一人も残らず、功徳を受け切って、それぞれが世界一の幸福者であると言える姿で、総登山をしようではありませんか。
 なお、御供養の金額は、既に発表がありましたように、当初の目標を大幅に上回ることができました。
 そこで、今後、登山者の増加が見込まれておりますので、一棟に、千人から二千人ぐらい収容できる、近代的な総坊を、数棟、建設させていただきたいと思います。
 更に、この御供養は、やはり将来のために、総本山周辺の土地の確保や、全国の寺院の建立などに使わせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 皆が、拍手で応えた。
7  立正安国(7)
 参加者の賛同の拍手に、山本伸一は深く礼をして応え、更に、話を続けた。
 「いずれにせよ、この皆様の真心の御供養につきましては、日達上人にご相談申し上げ、すべて、総本山の隆昌のために使わせていただきますので、よろしくお願い申し上げます」
 伸一は、この供養に参加した、同志の信心の赤誠を思うと、胸が熱くなるのを覚えた。
 厳しい生活のなかで、食費などを切り詰めて、蓄えた金を供養した人も少なくない。山間の家から、杖をついて四里、五里と歩いて、供養を持参した年配者もいる。まさに、一人一人に涙ぐましい真心のドラマがある。
 この信心の誠を、大聖人も御照覧になられ、絶賛されているに違いないと、伸一は思った。
 また、僧侶は、その信徒の真心の供養を、当然のことのように思うのではなく、賛嘆と感謝の心を忘れず、慈愛をもって接していってほしいと、念願せずにはおれなかった。
 なお、この本部幹部会では、奄美大島支部など四十二の支部が誕生している。これで、学会は二百五支部の陣容となった。
 更に、この日、各方面に本部長制が敷かれた。これは弘教の伸展に伴い、組織が拡大し、大半の方面に複数の総支部が誕生していたことから、各総支部を統括するとともに、方面の独自性を生かした活動を展開するために設けられたものであった。
 地域広布に向かっての、重層的な組織の布陣といってよい。
 七月二十九日、山本伸一は、長野県の霧ケ峰高原での「水滸会」の第六回野外研修に出席した。
 意気盛んな青年たちと会うことは、伸一にとって最大の喜びであった。
 彼が会場のキャンプ場に到着したのは、午後六時前であった。
 「先生! ありがとうございます」
 先に到着していたメンバーが、元気なあいさつで伸一を迎えてくれた。
 青年たちは、昨年の犬吠埼での野外研修の時より、皆、動作もきびきびとし、一回りも二回りも成長しているように感じられた。
 犬吠埼で伸一から厳しい指摘を受けた彼らは、同じ失敗を繰り返すまいと、水滸会員の自覚を新たにし、この一年、自分自身を磨き抜いて、集って来たのであろう。
 一人一人の表情のなかにも、精鋭十万の結集を目指して戦う、炎のような闘魂がみなぎっていた。
8  立正安国(8)
 山本伸一は、準備に精を出す、役員の青年たちを激励して歩いた。
 小川の側では、炊事係の青年が食事のしたくに励んでいた。
 「ご苦労様! 炊事係のメンバーだね。
 ところで、この場所で作業をするように決めたのは誰だい」
 「はい、私です」
 こう言って進み出たのは館山蔵造という、炊事係の責任者をしていた青年であった。
 「よい場所を選んだね。災害などで大勢の人が避難する場合でも、まず、考えなくてはならないのが水の確保だ。きれいな川があれば、飲料水にすることもできるし、炊事や洗濯もできる。だから、ここを押さえたのは適切だよ」
 伸一の青年たちへの教育は、既にこの時から始まっていた。
 「では、避難所など、たくさんの人が集まる場合、水のほかに、まず考えなくてはならないものは、なんだと思うかい」
 青年たちは考え込んでいたが、一人が答えた。
 「食糧だと思います」
 「うん、もちろん食糧は大事だ。しかし、それは、誰でも考えることだ。それに、いざとなれば、人間は二食や三食は抜かしても我慢することはできる。ところが、トイレというのは、いつまでも我慢するわけにはいかない。
 だから、大勢の人が集まる場合には、トイレの確保を、必ず考えておかなければならない。
 これは、戸田先生が教えてくださったことだが、みんなも、ぜひ覚えておいてほしい」
 辺りには、白いベールのように霧が流れていた。その霧の彼方に、うっすらと山並みが見えた。
 伸一の胸に、三年前の八月、初めて霧ケ峰に来た折のことが蘇った。
 彼は、その時、美しく、壮大な霧ケ峰の景観に感動し、亡き戸田城聖をしのび、″先生をお連れしたかった″と思った。また、浩然の気を養うために、いつか、この地に青年たちを招きたいとも思った。
 そして、戸田が最も信頼を寄せていた「水滸会」の野外研修の地に、この霧ケ峰を選んだのである。
 盛夏ではあったが、高原は肌寒かった。伸一は空を仰いだ。黄昏の空は雲に覆われていた。雨にならなければよいが、と思った。
 メンバーは、互いに協力し合い、手際よく、食事の準備を進めていた。彼らが強い団結の心を持ったことが、伸一は嬉しかった。
9  立正安国(9)
 間もなく、野外で円陣をつくり、食事が始まった。
 中央には薪が組み上げられ、日没とともに、点火されることになっていた。
 山本伸一は、用意された席に着くと、皆に、にこやかに語りかけた。
 「ご苦労様。今日は楽しくやろう!」
 青年たちの顔にも微笑が浮かんだ。
 和やかな雰囲気のなかでの食事であった。
 炊事係が作った豚汁と御飯に、缶詰という質素な献立であったが、広大な自然のなかで、澄んだ空気とともに味わう食事は、このうえなくうまかった。
 食事が始まってしばらくすると、雨が降り出し、次第に激しくなっていった。
 やむなく、早めに夕食をすませて、それぞれのテントに戻り、待機することになった。
 ほどなく、雨は小降りになり、やがて上がった。メンバーは、再び野外に集まった。薪に火がつけられ、キャンプファイアーを囲んでの研修会が始まった。
 青年部の幹部や理事たちが、順番にあいさつに立った。そのころから、また雨が降り始め、時とともに、雨脚は強くなっていった。
 雨に打たれながらも、キャンプファイアーは燃え続けていた。
 伸一は、青年たちが用意してくれた番傘を差し、皆にも、敷いていた筵を被って、傘代わりにするように伝えた。
 降りしきる雨のなかで、伸一の指導が始まった。
 「雨が降っているから、どうか、風邪を引かないように工夫していただきたい。
 私の念願は何か。それは諸君が、将来、人類の平和と幸福のために、世界の檜舞台に雄飛していくことです。また、それが戸田先生の願いでもありました。
 私の行動は、すべて、そのためであり、それを最大の楽しみとして、全力で道を開いているということを知ってほしいのです。
 私は、戸田先生の弟子として、この世から不幸を絶滅せんとされた先生の構想を、ことごとく実現していく覚悟でおります。また、実際に、そうしていかなければならない。
 しかし、それは、私一人ではできないし、また、私の命の時間にも限りがあります。そう考えると、その仕上げの作業は、青年部、つまり、諸君に託すしかありません。
 もし、私が倒れたとしても、その心を受け継いで、諸君が戸田先生の構想を完成させていただきたい」
 激しい雨に、時として伸一の声は消されそうになったが、メンバーは、一言も聞き漏らすまいと、耳をそばだてていた。
10  立正安国(10)
 山本伸一は話を続けた。
 「戸田先生は、かつて、『三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます』と言われた。
 これは、遺言ともいうべき指導であった。
 この先生の指導通りに、大先輩である牧口門下も、私を守り支えてくださっている。ゆえに、私は悠々と指揮を執ることができるのです。
 他教団を見ると、たいてい、中心者が亡くなると、分裂していっている。しかし、学会は、この戸田先生の指導を皆が守ることによって、鉄の団結をもって進むことができた。これこそが、広宣流布を永遠ならしめる道なのです。
 これからの学会は、第四代会長も、第五代会長も、青年部の出身者から出ることは間違いない。その時にも、私の時以上に、皆で会長を守り、支えて、一層の前進をしていっていただきたいのです。
 また、『水滸会』の諸君は、勉強し、苦労して、自分を磨き、それぞれの分野で一流の人材に育ってほしい。そして、学会にあっても、諸君が中核となって、広宣流布のいっさいの責任を担っていただきたい。それが、私の希望であり、念願です」
 彼らは、山本会長の自分たちへの期待の大きさを改めて知り、身が震える思いがした。
 これで、研修会は解散となった。
 横殴りの雨で、伸一も、青年たちも、ビッショリと濡れていた。宿舎に向かう伸一を、メンバーは、学会歌の熱唱で送った。
 伸一は、青年たちと、もっと語り合い、励ましたかった。
 彼は、しばらくすると、宿舎の広間に、メンバーの代表を招いて質問会をもつことにした。
 青年たちは、喜々として集って来た。
 伸一も、理事たちも、雨でシャツが濡れてしまったために、やむなく、下着姿で質問会に臨んだ。
 「みんな、聞きたいことがあれば、気楽に、どんなことでも聞きなさい」
 伸一が言うと、すかさず数人の手があがった。
 質問の多くは、緊迫した世界情勢のなかで、どうすれば恒久平和を実現できるのかという観点の質問であり、また、今後、世界の広宣流布をいかに進めていくかというものであった。
 そこには、世界と広布の未来を真剣に悩み、考える、真摯な青年の使命感と情熱がみなぎっていた。
 伸一は、その気概に頼もしさを覚えながら、一つ一つの質問に、誠実に答えていった。
11  立正安国(11)
 青年たちの質問のなかには、こんな質問もあった。
 「御書を拝しますと、成仏の要諦は、仏法に帰命、つまり、身命を奉ることであるとあります。私も、もし大法難があれば、牧口先生のように死を覚悟で戦いたいと決意しています。しかし、今のところ、そういう状況には、遭遇しそうもありません。
 この帰命ということを、私たちは、どのように、とらえていけばよろしいのでしょうか」
 仏法者として、いかに生きるべきかを、考え抜いた末の質問であったに違いない。
 山本伸一は答えた。
 「今の質問に関連して、まず、最初に申し上げておきたいことは、私は、大事な会員が、法難によって命を失うような事態は、絶対に避けたいという思いで、指揮を執っているということです。
 だからこそ、必死なんです。学会からは、一人たりとも、そんな犠牲者は出したくはない。それが私の心です。
 しかし、いかに聡明に、知恵を働かせて舵をとったとしても、御聖訓に仰せの通り、命に及ぶような大法難が起こるかもしれない。その場合でも、なんとか私一人にとどめたい。
 それが本当のリーダーです。みんなを幸福にするために、現実を見すえ、慎重に、沈着に、また、速やかに、すべてに配慮して、考えに考えながら、広宣流布を進めているのです。
 ただ、勢いだけで進んでいけば、取り返しのつかない失敗をしてしまうことにもなりかねない。指導者の責任は重いのです」
 皆、緊張した顔で、伸一の話を聞いていた。
 「さて、帰命という問題ですが、現代の状況のなかでは、自分の人生の根本の目的は広宣流布であると決めて、生きて、生きて、生き抜くことが、仏法に身命を奉ることになるといえるでしょう。
 広宣流布を自分の人生の根本目的とするならば、学会員として、職場にあっても第一人者とならざるをえない。自分が職場の敗北者となってしまえば、仏法のすばらしさなど証明できないし、誰も信心など、するわけがないからです。
 また、家庭にしても、和楽の家庭をつくらなければならないし、健康にも留意することになる。
 ゆえに、広宣流布を根本にした人生を歩むということは、社会の勝利者となって、幸福になっていくということなのです。したがって、それは、決して、悲壮感が漂うような生き方とはなりません」
12  立正安国(12)
 いつの間にか、屋外の雨の音も消えていた。
 山本伸一は、「帰命」ということについて、更に別の角度から語っていった。
 「見方を変えて語るならば、たとえば、広宣流布のために活動する時間をどれだけ持つか、ということにもなってきます。
 これは、極めて計量的な言い方だが、仮に一日二時間の学会活動を、六十年間にわたってすれば、計算上は五年間の命を仏法に捧げたことになる。
 ともあれ、広宣流布こそわが生涯と決めて、自らの使命を果たそうとしていく生き方自体が、仏法に帰命していることに等しいといえます」
 伸一は、青年たちの率直な質問を大切にした。質問は求道の証である。大勢の人の前で、ものを尋ねるには勇気もいる。しかし、それによって、自分だけでなく、多くの人びとの疑問を解消し、理解を促していくがゆえに、質問する人の存在が大事になる。
 宿舎での質問会が終わるころには、雨もすっかり上がり、空には月天子が輝いていた。
 翌日は、快晴であった。「水滸会」のメンバーは、朝のうちにスポーツ大会を行い、相撲やドッジボールで鍛えの汗を流した。
 午前九時にスポーツ大会が終わると、伸一は、来年も、野外研修を行うことを約束した。
 それから彼は、馬で、女子部の「華陽会」のメンバーが集って来ている、広場へ向かった。この日は「華陽会」の野外研修も行われることになっており、メンバーは、朝早く、霧ケ峰に到着していたのである。
 空は青く澄み渡り、彼方には、緑に染まる、なだらかな起伏の山が広がっていた。さわやかな高原の風に吹かれながら、伸一は、さっそうと駒を進めた。
 彼は、広場に集っている「華陽会」のメンバーの姿を見ると、馬上から手を振った。
 やがて、伸一を中心に懇談が始まった。
 「今日は、心身ともに鍛えて帰ってください。また、存分に遊び、楽しんで、大いに英気を養ってください。人生を最高に楽しむということも、仏法に通じます。
 大聖人は、あの佐渡の地にあっても、『流人なれども喜悦はかりなし』と仰せです。御本仏の大境界、大確信から発せられた御言葉ですが、大聖人は、流罪という大苦難のなかでも、大歓喜を感じておられた。
 どんな環境にあっても、人生を楽しみ切っていけるのが信心です」
13  立正安国(13)
 若き「華陽会」のメンバーは瞳を輝かせて、山本伸一の話を聞いていた。
 「戸田先生は、成仏というのは、生きていること自体が、楽しくて、楽しくてしようがないという境涯であると、よく語っておられた。
 人間の人生には、苦労はつきものです。学生のうちは、勉強しなければならないし、会社に入れば、働かなければならない。では、結婚すれば、楽になるかといえば、家事や子育てに追われ、まるで戦争のような生活になる。
 しかし、そのなかに、意義を見いだし、生きがいをつくり、目標を定め、はつらつと挑戦し、苦労をも楽しみながら、瞬間、瞬間を最高に有意義に、楽しみ切って生きていける人が、人生の達人なのです。
 結局、幸福とは、外にあるのではない。私たちの心のなかにある。それを教えているのが仏法です。
 ましてや、今日は、こんなに恵まれた大自然のなかにいるのだから、最高に楽しんで、有意義な思い出をつくってください」
 野外研修は、懇談の後、スポーツ大会が行われ、メンバーはバレーボールに興じた。いくつかのグループに分かれ、バレーボールの対抗戦が終わると、伸一は提案した。
 「今度は円陣を組んで、ボールのパスの数を競い合おうよ」
 グループごとに、パスが始まった。どのグループも、長くは続かなかった。早いところは、三、四回パスをしただけで、ボールを落としてしまう。
 それを見ていた伸一は、自分も円陣に加わった。
 「どこも、長く続かないようだから、ここは、百回までやろう」
 「えっ、百回ですか!」
 傍らにいたメンバーが驚きの声をあげた。
 「そうだ、百回だよ。必ずやろうと決めて、みんなで団結すればできるよ。
 目標を決めたら、最後までやり通すことが大事だからね。ソラッ、いくよ!」
 伸一はボールを上げた。
 パスをするたびに、皆で声を出して回数を数えた。
 うまくボールをパスできない人がいても、周りがそれをカバーし、ボールは再び空に舞った。
 パスは、二十、三十、四十と続いていった。
 二人の人が、同時にボールをパスしようとして、ぶつかりそうになった。
 「そういう時は、声をかけ合うんだよ」
 伸一はアドバイスした。
 皆、だんだんリズムに乗ってきた。
 「もう大丈夫だよ。絶対に百までいくよ」
14  立正安国(14)
 やがて、パスは八十回を超えた。周囲には、ほかのグループも集まって来て、一緒に回数を数えた。
 パスをしているメンバーは、幾分、緊張し始めた。
 山本伸一は呼びかけた。
 「楽な気持ちでやろう。油断しなければできる。同じことの繰り返しなんだから……」
 九十回を過ぎた。回数を数える声が、一段と高らかに辺りにこだました。
 メンバーには、ここまできたのだから、絶対に落とすものかという気迫が漂っていた。
 落とすか、と思われたボールも、驚くほど上手に受けて、パスしていった。
 「……九十六、九十七、九十八、九十九、百」
 百回を超えても、まだ、パスは続いた。
 「百三、百四、百五、百六……」
 ボールを落としてしまったのは、百十回を過ぎた時であった。
 終わると、一斉に拍手がわき起こった。
 汗を拭いながら、伸一は言った。
 「百回以上できるとは、誰も思わなかっただろう。でも、できたじゃないか。
 みんなが心を一つにして団結した時に、思わぬ力が出るんだ。学会はこうやって進んでいくんだよ」
 それから休憩の後、野外で昼食となった。
 伸一が昼食の場所にやって来た時には、皆は、まだっていなかった。
 伸一の姿を見ると、一人の女子部の幹部がハンド・マイクで、まくしたてるように叫んだ。
 「皆さん、大至急、集まってください!
 急いでください。早くしましょう!」
 伸一は、笑いながら、その幹部に言った。
 「こういう時は、そんなにワーワー言わずに、静かに、一言、『集まりましょう』と言えばよい。
 ワーワー言わなくても、皆がきちんと集まるようにもっていってこそ、本当のリーダーだよ」
 ほどなく、大多数のメンバーは食事の席に着いた。
 しかし、女子部の首脳幹部の一人である、加賀弓枝の姿が見えなかった。
 「加賀さんがいないね」
 伸一が言うと、近くにいたメンバーが答えた。
 「加賀さんは、今、食事の準備にあたっています」
 「そうか、彼女は、裏方に徹しているな。加賀さんは、陰で黙々と頑張る人なんだ。そういうことが大事なんだ。
 みんなもリーダーとして、誰が陰で頑張っているのか、誰が最も苦労しているのかを、常に見抜いていかなくてはならない」
15  立正安国(15)
 生きた教育とは、人と人との、自然な触れ合いのなかにあるものだ。
 山本伸一は、一つ一つの事柄を通し、若い女性たちに、リーダーの在り方を教え、育んでいった。
 彼は、加賀弓枝のことから、陰で努力している人に対する心遣いを語った。
 「華やかな表舞台にばかり目がいき、表面だけしか見ないリーダーでは、後輩がかわいそうです。
 そうなれば、やがて、皆が見せかけだけを考え、要領よく立ち回るようになってしまう。
 たとえば、会合に出席しても、きれいな設営物があったら、誰が、どうやって作ってくれたのかを、すぐに考えなければならない。
 また、場外整理の役員はどうしているのか、寒くはないのか、食事はとっているのかなど、その場にいない人たちのことを、どこまで配慮できるかです。
 結局、見事な組織をつくっていくといっても、人間としての思いやりであり、心遣いがすべてだ。そこに人は心を打たれ、頑張ろうという気持ちにもなる。役職の権威でもなければ、理屈でもありません」
 食事の後、メンバーはフォークダンスを楽しんだ。
 明るく、はつらつとした若々しい友の姿には、花のような舞があった。
 それを見ながら、伸一は女子部の中心幹部たちに語った。
 「女子部は学会の花なんだから、いつも、このように楽しく、そして、常識豊かに、活動を進めていくことです。誰が見ても、明るく、さわやかでいいなと思えることが、信心のすばらしさの証明であるからだ」
 当時、女子部の中核であった「華陽会」のメンバーは、日々、布教に明け暮れていた。それは、三百万世帯という広宣流布の目標を達成するうえでは、やむをえぬことでもあった。
 しかし、伸一は、だからといって、悲壮感を漂わせて、なりふりかまわずに猪突猛進するような女性に育ってほしくはなかった。それでは長続きしない。いな、世間からもわれてしまうことになる。
 人間性を開花させるための信仰である。一輪の可憐な花が、周囲を明るくし、人びとの心を和ませるように、信心に励めば励むほど、思いやりにあふれ、明朗で快活になっていってこそ、本当の信仰といえる。
 野外研修は、午後三時半に終了した。
 メンバーは、霧ケ峰の雄大な自然のなかで浩然の気を養い、楽しく有意義なひと時を過ごした。
 伸一は、もし可能であれば、学会の全青年を、こうして、一人ずつ育てていきたいと、深く思った。
16  立正安国(16)
 青年部は、七月三十一日の男子部幹部会、八月一日の女子部幹部会をもって、勇躍、八月度へのスタートを切った。
 この男子部幹部会で、男子部は部員三十万を突破したことが発表された。
 女子部幹部会の翌日にあたる八月二日から十日にかけて、総本山大石寺で、恒例の夏季講習会が、四期に分かれて行われた。
 山本伸一は、今回の講習会では、日蓮大聖人の重書中の重書である「立正安国論」を中心に、御書講義をすることになっていた。
 彼が、そう決めたのは、七月初旬のことであった。
 学会が二百万世帯を達成したことから、ここで、立正安国という仏法者の目的と使命を、再確認しておきたかったのである。
 「立正」とは「正を立てる」、つまり、正法の流布であり、生命の尊厳、人間の尊重という哲理を、人びとの胸中に確立し、社会の基本原理としていくことといってよい。そして、その目的は「安国」、すなわち「国を安んずる」ことであり、社会の繁栄と平和にほかならない。
 創価学会の使命は、日蓮大聖人が示された、この立正安国の実現にある。
 宗教が、現実社会の人間の苦悩の解決から目を背けるならば、もはや、それは宗教の死といえる。
 敗戦の焼け野原に、広宣流布の旗を掲げて一人立った戸田城聖の願いも、悲嘆に暮れる民衆に、永遠の幸福と平和の光を注ぐことにあった。
 また、伸一が、会長に就任して以来、日々、祈り念じてきたことも、世界の平和であり、大地震などの災害がなくなり、穀物が豊作になることであった。
 そして、戸田も、伸一も、社会の繁栄と平和のために、何をなすべきか、何ができるのかを、常に問い、考え続けてきた。
 戸田城聖が「原水爆禁止宣言」を行い、たとえ戦争に勝ったとしても、原水爆を使用するものはサタンであると断じ、この思想を世界に広めることを青年たちに託したのも、その思索の結果であった。
 更に、同志のなかから有為な人材を、地方議会、参議院に送り出したのも、政治を民衆の手に取り戻し、人びとの生活を向上させ、日本という国の、恒久平和の道を開くためであった。
 今後、学会が、社会のため、平和のために、着手すべき課題は、ますます増え続けていくに違いない。
 その時、立正安国の原理を正しく理解できずにいれば、混乱を生じかねないことを憂慮し、伸一は、今回の夏季講習会で、「立正安国論」を講義することにしたのである。
17  立正安国(17)
 夏季講習会を前にして、山本伸一は、寸暇をさいて「立正安国論」の研鑽に励んできた。
 ある時は、学会本部の執務室で、ある時は、深夜の自宅で、また、ある時は、旅先の宿舎で、御書を拝しては思索を重ねた。
 「立正安国論」は、これまでに、何度となく学んだ御書であった。しかし、伸一は、新たな気持ちで、御述作の由来から、丹念に研鑽していった。
 「立正安国論奥書」には「正嘉しょうかより之を始め文応元年にかんがおわ」とあり、正嘉元年(一二五七年)八月二十三日の夜、鎌倉一帯を襲った大地震を見て、「立正安国論」を著されるに至ったことが記されている。
 大聖人が、この地震に遭遇されたのは三十六歳。鎌倉の松葉ケ谷の草庵におられたころであった。
 四年前の建長五年(一二五三年)の立教開宗以来、地頭に命を狙われ、故郷の安房の国を追われた大聖人は、政都・鎌倉に出て、ここで広宣流布の旗を掲げられていたのである。
 このころ、毎年のように飢饉が続き、疫病が蔓延していた。
 『吾妻鏡』などの記録によれば、この年から文応元年(一二六〇年)までの四年間に限っても、数々の天変地夭が起こっている。
 この正嘉元年の八月の大地震の後も、余震は長く続き、十一月にも、再び大地震が起こる。
 翌正嘉二年(一二五八年)六月には、真冬のような冷え込みが続き、八月には、鎌倉に大風、京都に暴風雨が襲い、穀類に大被害が出る。そして、十月になると、鎌倉は大雨による洪水で民家が流失し、多数の犠牲者を出した。
 更に、疫病が流行し、諸国に大飢饉が広がっていった。
 正嘉三年の三月、災いを転じようと改元が行われ、「正元」となるが、疫病は年が明けても終息せず、四月には、また、改元され、「文応」となる。しかし、その四月に鎌倉で大火があり、六月には大風と洪水が起こっている。
 大聖人は、鎌倉にあって、地震による避難民などの悲惨な姿に接し、胸を痛めてきた。
 飢えに苦しみ、傷ついた体で、あてもなくさまよう人。泣き叫ぶ子供。乳飲み子を抱え、途方に暮れる母親……。
 路上に倒れても助ける人さえなく、夥しい「死」が眼前に横たわっていた。
 幕府は、事態の打開のために、真言の僧による加持祈などを命じていたが、なんの効果もなかった。
18  立正安国(18)
 ″なぜ、これほど苦しまなければならないのか?″
 それが、人びとの共通の思いであった。しかし、それに答えられる人は、誰もいなかった。
 この地獄絵さながらの事態を、いかに転換していくか、日蓮大聖人は、悩み、考え抜かれたに違いない。
 山本伸一は、御書を拝しながら、大聖人の御姿を思い描いた。民衆の苦悩を目の当たりにし、ともに悩み、苦しむ、大聖人の御振る舞いが、彼の胸に、ありありと浮かんだ。
 ──正嘉二年(一二五八年)ごろ、鎌倉から駿河に向かう、一人の僧がいた。
 彼の目は、深い憂いをたたえていた。日である。
 彼は、天台宗の寺院である、岩本実相寺を訪ねた。そこには、一切経が整えられていた。
 日蓮は、この寺の経蔵で一切経をひもとき、人間の根本をなす宗教の乱れに、天変地夭、飢饉疫癘の根本原因があることを、経文のうえからも、また、道理のうえからも、明らかにしようと心に決めていた。
 経蔵に篭ると、彼は、来る日も、来る日も、一心に経典に眼を注いだ。
 大集経を手にした時、日の目は、鋭く光った。そこには、仏法が隠没した時に起こる、天変地夭などの様相が克明に書かれてあった。それは、ことごとく、正嘉の大地震以来の世の中の姿に符合していた。
 ″この通りだ!″
 「仏法の隠没」は、日自身、最も痛感し、憂慮してきたことであった。
 仏教各派の寺院は、鎌倉にあっても甍を連ね、むしろ、ますます隆昌を誇っているかに見えた。しかし、釈尊が説こうとした、真実の仏法も、その精神も、もはや、そこにはなかった。
 経文には、何が釈尊の真実の法かは明瞭である。
 たとえば、法華経の開経である無量義経には、「四十余年未顕真実」(四十余年には未だ真実を顕さず)とある。
 釈尊の五十年の説法のうち、前の四十余年の説法は爾前権教の教えであり、真実を顕していないことが明言されているのだ。
 なぜなら、法華経が生命の真実の姿、全体像を説いているのに対して、法華経以前の教えは、譬えなどによって示した仮の教えであり、生命の部分観を説いたにすぎないからである。
 そして、法華経の譬喩品には「不受余経一偈」(余経の一偈をも受けざれ)とある。根本となるべき教えは、どこまでも法華経であるとの御指南である。
19  立正安国(19)
 当時、仏教界には、天台、倶舎、成実、律、法相、三論、華厳、真言の八宗があり、更に、新興の宗派として念仏や禅があった。
 このうち、天台宗のほかは、爾前権教の経典を拠り所としていた。また、法華経を根本としていた天台宗さえも、伝教亡き後、真言密教や念仏に染まり、本来の釈尊の教えに背いて久しかったのである。
 譬えや部分観でしかない教えに執着し、それが全体像であり、真実であると信じればどうなるか。
 たとえば、虎の尻尾を見て、これが虎というものかと思い、無防備に近づいていけば、襲われてしまうことになろう。
 それゆえに、日蓮は、建長五年(一二五三年)四月二十八日の立教開宗以来、そうした諸宗の、教えの誤りを指摘してきたのである。
 このころ、民衆の間に、最も浸透していたのは、法然の浄土宗であったが、これは爾前権教の浄土三部経をもととしていた。
 法然は、娑婆世界は穢土であり、ただ、ひたすら南無阿弥陀仏と唱えることによって、死んだ後に、阿弥陀仏のいる西方極楽世界に生まれることができると説いた。そして、浄土宗の依経である浄土三部経以外の、法華経をはじめとするいっさいの諸経を否定したのである。
 釈尊が阿弥陀仏の西方極楽世界等、他の世界に仏土があると説いたのは、方便であり、譬えであった。娑婆世界の苦悩に沈む人びとを励ますために、仮に彼方の世界の話として、仏国土を描いたのである。
 釈尊の真意は、この娑婆世界こそ、本来、浄土であると示すことにあった。娑婆即寂光土であり、衆生の心が汚れていれば、住む世界も穢土となり、心が清浄であるならば浄土となる。
 衆生の一念の転換によって、この娑婆世界に浄土を現出させることができるのである。それを説き示したのが法華経であった。
 彼方の世界に救いを求める、念仏の教えは、穢土である現実社会への諦めと無気力と逃避をもたらしていくことになる。
 しかも、天変地夭、飢饉疫癘の相次ぐ、物情騒然たる世相である。この念仏の思想に、一種の終末観として広まっていた末法思想が重なり、人びとの不安や絶望は深まっていった。
 まさに、「念仏の哀音」といわれるように、その厭世的な響きは、疲れ切った人心を、ますます衰弱化させていったのである。
20  立正安国(20)
 日蓮は、岩本実相寺で、寝食を忘れ、経文を次々と精読していった。
 それらの経々から、彼は国中を覆っている不幸の原因は、世をあげて、正法である法華経に背いているがゆえであると、明確に確信することができた。
 人間は、何を信じるかによって、大きな影響を受ける。友人でも、悪友を善友と信じて、ともに行動していれば、いつしか悪の道に入ってしまう。
 ましてや、宗教は人間の考え方、生き方の根本の規範である。したがって、誤った宗教を信じれば、人間の心は濁り、欲望に翻弄され、あるいは、生命の活力も奪われてしまう。
 それは、当然、人間の営みである社会に、争いや混乱、停滞を招いていくことになる。
 更に、人心、社会の乱れは、依正は不二であり、一念三千であるがゆえに、大自然にも、必ず波及していく。本来、宇宙は、それ自体が一つの生命体であり、主体である人間と、自然を含めた環境世界とは、互いに関連し合っていると教えているのが仏法である。
 人びとが塗炭の苦しみを脱するには、誤った宗教を捨て、正しい教えを根本とする以外にない──それが日蓮の結論であった。
 しかも、経文に照らして見れば、三災七難のうち、更に、まだ、起こっていない、内乱を意味する自界叛逆難と、他国の襲来をさす他国侵難が競い起こることは間違いなかった。
 思えば、他宗の僧らも、これらの経文を目にしていたはずである。しかし、彼らは、そこに、世の中の不幸の根本原因を探り当てることはできなかった。
 それは、既に、彼らが、経文を根幹とすることもなければ、民衆の苦悩を直視し、その解決の道を探ろうとする姿勢も失っていたことを裏付けている。
 当時、天台宗をはじめ、真言、華厳、律等の既成宗派は、鎮護国家の仏教に安住し、念仏や禅の新興の宗派も、幕府の要人に取り入ることに腐心していた。
 そして、各宗派は法論を避け、教えの正邪を論議することもなかった。
 つまり、本来、宗教的信念も、信条も異なる者同士が、互いに馴れ合い、権力に寄生し、庇護という美酒に酔っていたのである。もはや、民衆の救済という宗教の大使命は、全く忘れられていた。
 また、幕府は、宗教の庇護と引き換えに、政策への協力を要請するなど、政治権力と宗教とが、完全に着していたのである。
21  立正安国(21)
 日蓮は、救世のために、諫暁の書「立正安国論」を認めた。そして、事実上の最高権力者である北条時頼に、時頼の側近である宿屋入道を通して、この書を上呈した。文応元年(一二六〇年)の七月十六日のことである。
 時頼は、寛元四年(一二四六年)、二十歳で執権になると、次々に敵対者を退け、北条家の権力を固めていった。だが、一方では、政道を模索し、武士の綱紀粛正を進めていた。
 また、禅を信奉し、三十歳の若さで、病気を理由に執権職を譲って入道すると、臨済宗の最明寺に退いてしまった。
 だが、彼の威光は、衰えることなく、幕府内に隠然たる影響力をもっていたのである。しかも、正嘉の大地震以来、打ち続く災害、飢饉、疫病を、為政者として深刻に受け止めていた。
 彼は、ある時、こう嘆いたと言われる。
 「……政道に誤りがあるのか。政治に私心があるからであろうか。天が怒り、地が恨むような過ちがどこにあるのか。いかなる罪のゆえに、これほど民が苦しまねばならないのか」
 日蓮は、時頼のこの嘆きを、人づてに聞いていたであろう。また、「立正安国論」を上呈する以前にも、時頼と対面して、話もしていた。
 こうした経緯から、日蓮は、時頼こそ、国主として諫暁するに足る人物と見たのであろう。
 「立正安国論」は、社会の惨状と民衆の苦悩から書き起こされている。
 「旅客りょきゃく来りてなげいて曰く近年より近日に至るまで天変地夭てんぺんちよう飢饉疫癘ききんえきれいあまねく天下に満ち広く地上にはびこる牛馬ちまたたお骸骨がいこつみちてり……」
 <旅客が来て嘆いて言うには、近年から近日にいたるまで、天変や地夭、飢饉や疫病があまねく天下に満ち、広く地上にはびこっている。牛馬は街の通りに死んでおり、その骸骨が路上に満ちている……>
 この民衆の苦しみという現実こそが、仏法の出発点であり、苦悩からの解放こそが、仏法の目的である。
 日蓮は、同書で「くに」を表現する際に、「国構え」に「玉(王の意)」と書く「国」や、「或(戈を手にして国境と土地を守る意)」と書く「國」という字よりも、主に「国構え」に「民」と書く「■」の字を用いた。
 現存する御真筆では、「くに」を表す全七十一文字のうち、約八割に当たる五十六文字に、「■」が使われている。
 そこには、「民」に、より重きを置く考え方が、象徴的に表れているといえよう。
22  立正安国(22)
 「立正安国論」で、日蓮は、世の中の惨状を嘆く客と、仏法を奉ずる主人との問答形式を用いた。
 それは、正法流布と言っても、権威や権力による強制ではなく、どこまでも人間対人間の、条理を尽くした対話による、触発と合意に基づくものであることを表している。
 日蓮が、北条時頼を諫暁したのも、為政者の立場にあって、悩み苦しむ、一人の人間としての時頼に、真実の仏法を教えるためであった。更に、それによって時頼が、まことの人間の道に目覚め、″民のための政治″を行っていくことを願ってのことであった。
 日蓮は、決して、幕府の庇護を求めようとしていたのではない。
 たとえば、幕府は、日の佐渡流罪の後、彼の予言した他国侵の難が現実となりつつあることに恐れをいだき、御堂の寄進を条件に国家安泰の祈願を依頼してきた。しかし、この時、彼は厳然と、それを断っている。
 もし、権力に与することを考えるなら、この幕府の依頼は、またとない好機であったといってよい。
 また、「立正安国論」には次のような記述もある。
 ──天下の泰平を願うならば、国中の謗法を断絶しなければならないとの、主人の言葉に、客は、謗法を犯し、仏法の戒めに違背する人びと、すなわち、他宗の僧らを斬罪にしなければならないのか、と尋ねる。
 その問いに対して、主人は「布施を止める」ことであると答えている。
 それは、念仏や禅などへの幕府の保護をやめさせ、国家権力とそれらの宗教との癒着を断とうとするものといえる。その意味では、現代的な視点でとらえるならば、″政教分離″に通ずる考え方であると見ることもできよう。
 日蓮は、国家権力の威光によって、宗教の盛衰が左右されることを拒否したのだ。そのうえで宗教対宗教の法論、対話によって、教えの正邪を決して、正法を流布しようとしていたのである。
 もし、宗教が権力の庇護を求めるなら、宗教の堕落以外の何ものでもない。
 また、この書のなかで、日蓮は、誤った教えを断絶しなければ、三災七難のうち、まだ現れていない自界逆と他国侵の二難が必ず起こるであろうと述べている。
 しかし、それは、単に、未来の終末を占うといった類いの予言ではない。経文を通して生命の法理を洞察し、導き出された、深き知恵の発露であった。
 そして、何よりも、これ以上、不幸な事態を、絶対に引き起こしてはならないという、大慈大悲ゆえの警鐘でもあった。
23  立正安国(23)
 「立正安国論」で、日蓮は、こう結論する。
 「汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ
 <あなたは、早く信仰の寸心を改めて、速やかに、実乗の一善である、真実の法に帰依しなさい>
 不幸と苦悩に覆われた社会を変革し、「国を安んずる」直道は何か。日蓮は、それは、一人の人間の心のなかに「正を立てる」ことから始まるのだと呼びかけている。
 「実乗の一善」とは、実大乗教たる法華経であり、一切衆生は本来、仏なりと教える、最高の人間尊厳の大法である。そして、一人一人の人間が、この妙法に則って、胸中の仏の生命を開いていく時、その人の住む場所も、仏国土と輝いていくのである。
 つまり、時代、社会の創造の主体である、一人一人の人間の内発性の勝利を打ち立て、社会の繁栄と平和を創造していこうとするのが日蓮仏法である。
 そして、その原理を説き明かしたのが、この「立正安国論」であった。
 衆生に仏を見る仏法は、すべての人間に絶対の尊厳性と無限の可能性を見いだす。それは、揺るがざる民主の基盤を形成する哲理となるに違いない。
 また、自らに内在する仏の生命を顕していくということは、他者への慈悲の心を育むことでもある。
 いわば、「実乗の一善に帰せよ」とは、「偏頗な生命観、人間観を排して、生命の尊厳に立ち返れ」「エゴを破り、慈悲を生き方の規範にせよ」「真実の人間主義に立脚せよ」との指南といってよい。
 ここに、人類の繁栄と世界の平和のための、普遍の哲理がある。
 ところで、「立正安国論」は、北条時頼のもとに届けられはしたが、時頼はそれを黙殺してしまった。
 一説によれば、「立正安国論」を時頼が手にしたところ、周囲の者が、日蓮は慢心し、他を軽んじ、一宗を興そうとして、この書を書いたものであると告げたことから、放置されたともいわれている。
 いずれにしても、時頼は日蓮の主張に、真摯に耳を傾けることはなかった。
 しかも、側近たちによって、その内容は歪曲され、誹謗されて、念仏をはじめとする、他宗の僧らに伝えられた。
 鎌倉の地にあって、日蓮が他宗派の誤りを正してきたことを、諸宗の僧は、いまいましく思っていた。
 そのうえ、時頼にまで諫暁の書を送り、自分たちを批判したと思うと、彼らの怒りは頂点に達した。
 日蓮の身に、危険が迫りつつあった。
24  立正安国(24)
 日蓮は、「立正安国論」を北条時頼に上呈すれば、激しい迫害にさらされることは十分に予測していた。
 しかし、彼は、大難を覚悟で、この書を上呈し、国主を諫暁したのである。
 それは、民衆の苦しみをわが苦とする、同苦ゆえの行動であった。
 真実の同苦は、ただ、苦悩を分かち合い、ともに嘆き悲しむことだけでは終わらない。また、単に、同情と慰めの言葉だけに終わるものでもない。
 まことの同苦の人には、人びとの苦悩の解決のための果敢な行動がある。慈悲から発する、何ものをも恐れぬ勇気がある。そして、不屈の信念の持続がある。
 この「立正安国論」の上呈から四十日が過ぎた、八月二十七日の夜のことである。鎌倉の松葉ケ谷にあった日の草庵が、念仏者たちによって襲われるという事件が起こった。
 松葉ケ谷の法難である。
 日の予測は現実となった。それは、彼の、本格的な迫害につぐ迫害の人生の始まりであった。
 山本伸一は、「立正安国論」を拝しながら、深い感動を覚えた。
 この一九六一年(昭和三十六年)という年も、自然災害や疫病が猛威をふるった年でもあった。
 五月末には、台風四号の影響によるフェーン現象のため、東北・北海道で火災が発した。
 更に、梅雨期に入ると、六月二十四日から一週間以上にわたって、豪雨に見舞われた。長野県の伊方面をはじめ、本州、四国で大きな被害が出て、死者・行方不明者は、全国で三百五十人を超えた。
 また、当時、ポリオ(小児マヒ)が大流行し、幼い子を持つ親たちを、恐怖に陥れていた。
 ソ連などには、ポリオに効く生ワクチンがあり、既に、前年、ソ連から日本に十万人分の寄贈の話が進んでいたが、日本政府は、それにストップをかけた。
 そこには、反ソ的な政治勢力の意向や、法律(薬事法)をタテにした硬直した役所の姿勢、自社の薬が売れなくなることを恐れた一部の製薬会社の反対などもあったようだ。
 国民の生命よりも、国家の立場や権威、企業の利害が優先されていたのだ。
 しかし、子供たちを救おうと、生ワクチンを求める人びとの声は、国民運動となって広がった。
 その民衆の力の前に、ようやく政府は重い腰を上げ、生ワクチン千三百万人分の緊急輸入を決定。この年の七月、カナダから三百万人分、ソ連からは実に一千万人分の生ワクチンが届けられたのである。
25  立正安国(25)
 国際情勢を見ても、東西冷戦の暗雲が影を落とし、世界のあちこちで、対立と分断のキナ臭い硝煙が漂っていた。
 四月には、社会主義化を進めるキューバに危機感をいだいたアメリカが、亡命キューバ人部隊を後押しして軍事侵攻を企て、あえなく失敗する事件があった。
 いわゆる″キューバ侵攻事件″である。アメリカの前政権が計画していたものとはいえ、平和への希望を担って登場したケネディ新政権は、初めて、国際的な批判を浴びることになる。
 また、インドシナ半島のラオスでは、アメリカの支援を受けた右派、そして、中立派、左派の三派が入り乱れての内戦状態にあった。五月ごろから、ようやく、停戦と連合政権の樹立へ向けて、具体的な交渉が進められるが、その後も混乱は収まらなかった。
 更に、北緯一七度線を境にして、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)に分断されたベトナムでも、統合への民衆の素朴な願いをよそに、対立のは、一層、深まろうとしていた。
 アジアの共産主義化を恐れるアメリカは、南ベトナムを支援する一方、北ベトナムと南ベトナム国内の共産主義勢力の排除に腐心してきた。前年末に結成された南ベトナム解放民族戦線に対しても、アメリカは″北からの侵略″と敵視し、一段と南ベトナム政府への軍事援助を強めていくことになる。
 こうして世界が激動を続けるなか、六月の三日、四日の両日、ケネディが大統領に就任して以来、初の米ソ首脳会談がオーストリアのウィーンで開催された。世界の目は、東西の緊張緩和への期待をもって、この会談に注がれた。
 四十四歳の若き力にあふれたケネディと、六十七歳の熟達した手腕のフルシチョフは、白熱した議論を展開した。
 しかし、ベルリン問題、核実験停止の問題で、フルシチョフが強硬姿勢を崩さなかったこともあり、両国の対立を浮き彫りにする結果に終わった。
 山本伸一は、混迷する世界の動向に、切実な思いをいだいていた。
 立正安国の「国」とは、単に一国に限ったものではない。一閻浮提であり、現代でいえば、広く世界を指すものといえる。
 その世界に、恒久平和の楽園を築き上げるために、人間主義の哲学をもって、人びとの生命の大地を耕していくことが、立正安国の実践であり、そこに創価学会の使命がある。
 彼は、それを、この夏季講習会で、訴え抜いていかねばならないと決心した。
26  立正安国(26)
 夏の講習会が始まった。
 その中心となったのが、山本伸一の「立正安国論」講義であった。
 講義の範囲は、御書の三十ページ十六行目の「主人の云く、客明に経文を見て猶斯の言を成す心の及ばざるか理の通ぜざるか……」から、本文の最後までであった。「立正安国論」の結論部分である。
 総本山の大講堂に集った参加者に、伸一は、気迫と情熱を込めて、講義していった。
 「立正安国とは、わかりやすく言えば、ヒューマニズムの哲理を根本に、一人一人が自らの人間革命を行い、社会の繁栄と、世界の平和を創造する主体者となっていくということです。
 大聖人の御一代の弘法は『立正安国論に始まり、立正安国論に終わる』と言われております。
 大聖人が、この『立正安国論』をお認めになった目的は、地震や洪水、飢餓、疫病などに苦しみ喘ぐ、民衆の救済にありました。
 そして、そのために、まことの人間の道を説く、仏法という生命の哲理を流布し、人間自身の革命を目指されたのです。つまり、一人一人の悪の心を滅し、善の心を生じさせ、知恵の眼を開かせて、利己から利他へ、破壊から創造へと、人間の一念を転換する戦いを起こされた。
 なぜなら、人間こそが、いっさいの根本であるからです。肥沃な大地には、草木が繁茂する。同様に、人間の生命の大地が耕されれば、そこには、平和、文化の豊かな実りが生まれるからであります……」
 彼は、初めに「立正安国論」の概要について語った後、御文に即して、講義していった。
 仁王経の「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」の個所では、三災七難の原因について論じた。
 「鬼神というのは、目に見えない超自然的な働きをもつものですが、現代的に言えば、思想も、その一つといえます。
 つまり、国土、社会が乱れる時には、まず、思想の乱れが生じていきます。そして、この思想の混乱が、人びとの生命をみ、意識や思考を歪め、それが、社会の混乱をもたらす原因となっていくのです。
 たとえば、人びとが、利己主義に陥って、私利私欲のみを追い求め、刹那主義や快楽主義などに走れば、当然、社会は荒廃していってしまう。
 また、別の例をあげれば、ドイツの独裁者ヒトラーの、ナチズムという思想に、人びとが狂わされてしまった悲惨な結果が、あのナチスによる侵略戦争であり、大量殺戮でした」
27  立正安国(27)
 山本伸一は、流れ出る汗を拭おうともせずに、講義を続けた。
 「社会の混乱や悲惨な現実をもたらす原因は、人間という原点を忘れた考え方に、皆が心を奪われていくことにあります。
 現在、日本にあっては、昨年の新安保条約の成立以来、政治不信、政治離れが起こり、人びとの関心は、経済に向かっている。
 確かに、党利党略に終始し、実力行使や強行採決など、議会制民主主義を踏みにじる現在の政治を見ていれば、国民が失望し、不信をいだくのも当然かもしれない。それも、政治家が民衆の幸福を、人間という原点を忘れているからです。
 しかし、だからといって国民が政治に無関心になって、監視を怠れば、政治の腐敗は更に進んでいく。
 また、人間を忘れた経済も冷酷です。ただ利潤第一主義、経済第一主義に走れば、社会はどうなるか。豊かにはなっても、人心はすさみ、自然環境の破壊も起こり、結局、人びとが苦しむことになります。
 科学の世界にあっても、科学万能主義に陥れば、その進歩は、かえって、人間性を奪い、人間を脅かすものになっていきます。
 ヒューマニズムに帰れ──これが、現代的に言えば日蓮大聖人の主張です。そして、政治や経済、科学に限らず、教育も、芸術も、社会のすべての営みを、人間の幸福のために生かしていく原理が、立正安国なのであります」
 更に、伸一は「すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」の御文では、仏法者の社会的使命について論じていった。四表とは、東西南北の四方であり、社会をさす。
 「この意味は、『当然のこととして、一身の安、つまり、個人の安泰を願うならば、まず、四表、すなわち、社会の安定、平和を祈るべきである』ということです。
 ここには、仏法者の姿勢が明確に示されている。
 自分の安らぎのみを願って、自己の世界にこもるのではなく、人びとの苦悩を解決し、社会の繁栄と平和を築くことを祈っていってこそ、人間の道であり、真の宗教者といえます。
 社会を離れて、仏法はない。宗教が社会から遊離して、ただ来世の安穏だけを願うなら、それは、既に死せる宗教です。本当の意味での人間のための宗教ではありません。
 ところが、日本にあっては、それが宗教であるかのような認識がある。宗教が権力によって、骨抜きにされてきたからです」
28  立正安国(28)
 参加者の目は、求道に燃えていた。
 山本伸一は、更に、講義を続け、こう訴えた。
 「世の中の繁栄と平和を築いていく要諦は、ここに示されているように、社会の安穏を祈る人間の心であり、一人一人の生命の変革による″個″の確立にあります。
 そして、社会の安穏を願い、周囲の人びとを思いやる心は、必然的に、社会建設への自覚を促し、行動となっていかざるをえない。
 創価学会の目的は、この『立正安国論』に示されているように、平和な社会の実現にあります。この地上から、戦争を、貧困を、飢餓を、病苦を、差別を、あらゆる″悲惨″の二字を根絶していくことが、私たちの使命なのです。
 そこで、大事になってくるのが、そのために、現実に何をするかである。実践がなければ、すべては、夢物語であり、観念です。
 具体的な実践にあたっては、各人がそれぞれの立場で、考え、行動していくことが原則ですが、ある場合には、学会が母体となって、文化や平和の交流機関などをつくることも必要でしょう。
 また、たとえば、人間のための政治を実現するためには、人格高潔な人物を政界に送るとともに、一人一人が政治を監視していくことも必要です。
 しかし、その場合も、学会の役割は、誕生のための母体であって、それぞれの機関などが、主体的に活動を展開していかなくてはならない。その目的は、教団のためといった偏狭なものではなく、民衆の幸福と世界の平和の実現です。
 また、そうした社会的な問題については、さまざまな意見があって当然です。試行錯誤もあるでしょう。
 根本は『四表の静謐』を祈る心であり、人間が人間らしく、楽しく幸福に生きゆくために、人間を第一義とする思想を確立することです。
 更に、その心を、思想を深く社会に浸透させ、人間の凱歌の時代を創ることが、私どもの願いであり、立正安国の精神なのです」
 伸一の講義を通し、各地から集った講習会の参加者は、仏法者の社会的使命に目覚めていった。それは、社会の平和建設への自覚を促し、新たな前進の活力をもたらしたのである。
 八月三十日には、東京体育館で本部幹部会が行われた。その席上、発表された八月度の本尊流布は、なんと八万七百二十五世帯であった。学会始まって以来の成果である。
 また、この日、四国に総支部が誕生したほか、これまで五総支部の陣容だった関東が、一挙に十五総支部になるなど、組織も大きな飛躍を遂げたのであった。
29  立正安国(29)
 この八月には、アジアに続いて、学会本部から幹部を派遣しての海外指導が行われた。
 メンバーは、副理事長でアメリカ総支部長の十条潔をはじめとする九人で、北米の北部、北米の南部、南米の三グループに分かれ、八月の十三日から二十八日までの十六日間にわたって実施された。
 この派遣メンバーにとっても、山本伸一会長の「立正安国論」講義は、最大のエネルギー源となった。世界平和の礎を築くための派遣だという思いが、彼らの闘志を燃え上がらせた。
 一行は、行く先々で、全力でメンバーの激励にあたるとともに、組織の整備に力を注いだ。
 そして、北米では、サンフランシスコ、シカゴ、ワシントンに支部を、ニューヨークをはじめ、各地に二十三の地区を結成した。
 また、南米では、ブラジルに五地区を結成。更に、パラグアイにも初の地区が誕生したのである。
 南米グループは、このパラグアイに向かうのに、ブラジルのサンパウロから、飛行機でイグアスの滝の近くの空港に出た。
 そして、ジープに乗り継いで、丸一日掛かりで、アルゼンチンのポサダスという町に行き、そこから、パラグアイのチャベスと呼ばれる、日系人の移住地に入った。
 このチャベスには、三十四世帯の日系人メンバーがいたのである。皆、開拓のために入植した人たちであった。組織もないなかで、同志は奮闘していた。
 彼らは、を紅潮させながら、信仰体験を語った。
 当初、入植した地域には、赤く濁った水しかなく、とても飲料には適さなかったため、良質の水が出ることを願い、真剣に唱題したところ、新しい、冷たく澄んだわき水が出たとの体験もあった。
 開拓地とあって、どの家も小さく、柱に、無造作に板を打ちつけた、掘っ立て小屋のような質素な家である。しかし、メンバーは意気軒高であった。日本から送られてくる聖教新聞を、すり切れるまで回し読みしては、信心に励んできた。
 そして、布教にも力を注ぎ、信心をする人も増えてきているという。
 「ここは作物もよく実ります。いいところです。私たちは、この国を幸せの花咲く楽園にしていくつもりです」
 それが、メンバーの決意であった。そのパラグアイに、地区が誕生したのだ。
 幸福と平和の波は、少しずつではあるが、着実に、世界の隅々にまで、広がろうとしていたのである。
30  立正安国(30)
 九月に入ると、組座談会は次第に軌道に乗り、そこで発心した友の体験が、学会本部にも、続々と寄せられるようになった。
 山本伸一は、九月は、十五日に総本山に行き、その後、台風十八号(第二室戸台風)で被害を受けた大阪の同志の激励などのため、関西を訪問した以外は、東京で過ごした。
 十月四日から二十日間にわたる、ヨーロッパ訪問の準備があったからである。
 主な訪問地は、デンマークのコペンハーゲン、西ドイツ(当時)のデュッセルドルフ、西ベルリン(当時)、オランダのアムステルダム、フランスのパリ、イギリスのロンドン、スペインのマドリード、スイスのチューリヒ、オーストリアのウィーン、イタリアのローマなどである。
 訪問の目的は、現地の会員の指導、大客殿の建築資材・調度品の購入、更に、宗教事情などの視察にあった。
 伸一が、この時、最も心を痛めていたのは、ドイツの人びとのことであった。
 八月十三日の未明、東ドイツ(当時)は、突然、東西ベルリンの境界線に、四十数キロメートルにわたって、鉄条網の「壁」を設置したのである。
 ベルリンはドイツが東西に分けられて以来、東ドイツのなかに孤島のように存在していた。そして、ベルリンも西と東に分けられてはいたが、自由に行き来することができた。
 しかし、西ベルリンを通って、東ドイツから西側に脱出する人が後を絶たなかったことから、東ドイツ政府は境界線を封鎖したのである。
 東西ベルリンを結ぶ道路も大半は封鎖され、戦車、装甲車が配置された。残った道路には、検問所が設けられ、自由な往来は禁じられた。地下鉄も、境界線で折り返し運転となった。
 この鉄条網の「壁」は、十三日以降、刻一刻と、拡張され、厳重になっていった。そして、まもなく、コンクリートやレンガの、冷酷な「壁」が築かれるに至ったのである。
 突然の封鎖によって、家族、親戚、あるいは恋人同士で、離れ離れになってしまった人もいたであろう。
 それは、東西冷戦の縮図でもあった。イデオロギーが人間を縛り、人間を分断させたのである。
 伸一は、ヨーロッパ訪問を前に、一人誓った。
 ″今こそ、人間と人間を結ぶヒューマニズムの哲学を、広く人びとの心に、浸透させていかなくてはならない。世界の立正安国の道を開くのだ……″
 彼は、二十一世紀の大空に向かい、大きく平和の翼を広げようとしていた。

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