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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「青葉」 青葉

小説「新・人間革命」

前後
2  青葉(2)
 山本伸一の言葉には、次第に力がこもっていった。
 「戸田先生の時代、青年部は学会の全責任を担い、常に学会の発展の原動力になっていた。
 戸田先生の言われた七十五万世帯は、誰がやらなくとも、青年部の手で成就しようという気概があった。
 そして、各支部や地区にあっても、青年が布教の先頭に立ってきた。また、何か問題が生じた時に、真っ先に飛んで行き、対処してきたのも青年部であった。すべてを青年部の手で担ってきました。
 だから、戸田先生も、『青年部は私の直系だ』と言われ、その成長に、最大の期待を寄せてくださっていたのです。
 しかし、学会が大きくなり、組織が整ってくるにつれて、青年が壮年や婦人の陰に隠れ、十分に力が発揮されなくなってきているように思えてならない。
 端的に言えば、自分たちだけで小さくまとまっていく傾向にあることが、私は心配なんです。
 青年部に、学会の全責任を担うという自覚がなければ、いつまでたっても、後継者として育つことなどできません。
 今、かつての青年部が学会の首脳となって、縦横無尽に力を発揮して戦っているが、皆、青年部の時代から、全学会の責任を持つ決意で、私とともに必死になって働いてきた。
 その自覚と行動があったからこそ、今、学会の首脳として、立派に指揮をとることができるのです」
 それは、伸一の実感であった。
 彼は、一部員であったころから、戸田の広宣流布の構想を実現するために、学会の全責任を持とうとしてきた。その自覚は班長の時代も、青年部の室長の時代も、常に変わらなかった。
 もちろん、立場、役職によって、責任の分野や役割は異なっていた。しかし、内面の自覚においては、戸田の弟子として、師の心をわが心とし、学会のいっさいを自己の責任として考えてきた。
 それゆえに、戸田の薫陶も生かされ、大いなる成長もあったのである。
 この見えざる無形の一念こそが、成長の種子といってよい。
 種子があれば、養分を与え、水をやり、光が注いでいけば、やがて芽を出し、大樹に育っていく。
 だが、種子がなければ、どんなに手をかけても、芽が出ることはない。
 伸一は、愛する青年たちの胸中に、全学会を担い立つ″使命の自覚″という、成長の種子を植えたかったのである。
3  青葉(3)
 全国に先駆け、青年部の方面総会の幕を開いたのは九州であった。
 五月七日、福岡スポーツセンターで、まず午前十時前から、一万一千人が参加し、女子部の九州総会が開催された。
 山本伸一は、若い女性たちのために、わかりやすい譬えを引いて、仏法とは何かを話していった。
 「たとえば、道路交通法という法律があります。これは、円滑に車が走り、また、人命を守るために、つくられたものです。
 そして、私たちは、たとえば、信号が赤になれば止まり、青になれば進むことができると教わり、それを守ることによって、安全に往来することができます。
 しかし、もし、それを知らずに、あるいは、せっかく教わっても、聞き入れようとせず、歩行者が赤信号を渡れば、どうなるか。いつかは、車に、はねられるなどの事故に遭うことになってしまいます。
 道路交通法以外にも、国で定めた法律は、たくさんあります。それを破って、窃盗や詐欺を働いたりすれば、裁きを受けなければならない。そうなれば、被害者だけでなく、自分も不幸になってしまう。
 また、人が定めた法律ではありませんが、自然界にも、自然界の法則があります。たとえば、日本の国に四季があるのも、その一つです。この法則を知り、活用して、米なども田植えの時期を決め、秋に収穫してきました。
 しかし、それを知らないで、秋に田植えをしても、収穫は望めません。
 同様に、大宇宙を貫く、生命の根本の法則というのがあります。それが仏法であり、その根源の力が南無妙法蓮華経なんです」
 参加者は瞳を輝かせ、山本会長の話を聞いていた。
 「人びとは、国法については知っている。また、自然界の法則も学び、そこから、科学の進歩も生まれてきました。
 しかし、人間が幸福になるための、大宇宙の根本法則、生命の因果の理法は知りません。真実の幸福を創造していくには、その根本の法則を知り、それに則して生きていくことです。
 その仏法を、人びとに教えていくのが、私たちの広宣流布です」
 笑顔で頷く参加者の姿が目立った。
 伸一は、最後に、信心によって、自己自身を人間革命し、幸福境涯を築くとともに、日本、世界の民衆を救いゆく日まで、前進の歩みを運んでいこうと訴え、話を結んだ。
4  青葉(4)
 午後からは、同じ会場で男子部の総会が行われることになっていた。
 女子部の総会が終わり、男子部の入場が始まると、瞬く間に、場内はいっぱいになり、参加者は外にもあふれた。
 午後二時、男子部の総会が開会された。
 九州第一部長の川中弘法があいさつに立った。
 「本日、ここに九州の男子部員二万三千八百人のうち、一万七千人が結集いたしました!」
 場内には嵐のような歓声と拍手が轟いた。
 実に、全九州の男子部員の七割以上が、一堂に会したことになる。見事な大結集といってよい。
 それは、九州の男子部の幹部全員が、一丸となり、一人も落とすまいとの思いで、きめ細かな個人指導を重ねてきた結果であった。
 川中は、その中核の一人であった。
 彼の出身は、熊本県の天草である。一九四八年(昭和二十三年)に、十九歳で福岡県の戸畑に出て来た。ガラス工場で働きながら、夜は定時制高校に学んだ。
 やがて、塗装店の営業の仕事に移り、更に、夜間の大学に進んだ。
 入会は、五五年(同三十年)のことである。
 信心を始めた彼は、広宣流布という理想をわが使命とし、人生をかけた。そして、仕事に、学業に、学会活動にと、徹して挑んだ。
 「人生とは闘争なり」との言葉を座右の銘とし、燃えるような求道の心で、すべてに体当たりでぶつかっていった。ひとたび、こうと決めたら、どこまでも一途に突き進んだ。
 裏表のない、朗らかな、さっぱりとした気性の青年であった。
 営業の仕事でも、新たな取引先を開拓するなど、目覚ましい実績をあげ、職場の第一人者となった。
 また、学会活動に闘志を燃やし、少ない時間をやりくりしては、布教と友の激励に奔走した。
 川中への、組織での信頼は厚く、男子部の班長と地区の班長を兼任していたこともあった。当時、一つの班の折伏は、平均して月に五、六世帯であったが、彼の班では、五十世帯、六十世帯という記録的な成果をあげていった。
 更に、支部の男子部の責任者となった川中は、山本伸一が第三代会長に就任した年の八月、男子部の手で五百十四世帯の折伏を成し遂げたのである。
 これは、支部の全折伏数の三分の一にあたり、男子部の歴史に金字塔を打ち立てる快挙となった。
5  青葉(5)
 川中弘法は、山本伸一が九州に来ると、いつも真っ先に出迎えてくれた。
 伸一は、よく彼と、広宣流布の未来を語り合った。
 ある時、会長となった伸一に、川中は言った。
 「人間が自分を高めようとすれば、人生の師が必要です。私は、山本先生の弟子として、生涯、戦い抜いていこうと思います。これは、私が自分で決めたことです。
 そして、戸田先生と山本先生の姿をもとに、弟子の在り方とは何かを考えてみました。しかし、正直なところ、深遠すぎて、私にはその奥底までは、とてもわかりません。また、私は、いつも山本先生の身近にいることもできません。
 ただ、先生の振る舞いから、″人類の幸福″と″世界の平和″という、師の構想を実現していくのが弟子だということは、私にもわかります。
 ですから、先生の示された広宣流布の目標は、すべて成就し、勝ち取っていこうと思います。その勝利の結果をもって、先生にお応えしていくつもりです」
 事実、川中は、必ず勝利の報告をもって、伸一のもとにやって来た。
 また、会合の折などに、伸一は、よく「皆さんは、今日は早く家に帰って、ゆっくり休んでください」と語ることがあった。
 しかし、川中は、部員は休ませても、自らは休もうとはしなかった。
 彼の行動は、師と仰ぐ伸一を基準にし、伸一の側に立って物事を考えていた。つまり、自分を「皆さん」の一人ととらえて、師と向かい合うのではなく、師と同じ方向を見ながら、師とともに生きようとしていたのである。
 それは、弟子としての彼の哲学であった。
 この九州男子部の総会の大結集の原動力となったのも、川中であった。
 彼は、方面総会を前にして、同志に訴えた。
 「このたびの青年部の方面総会の先駆を切るのが、わが九州です。ということは、私たちが、全国の勝敗の鍵を握ることになる。最初に、九州が勝利すれば、ほかの方面も九州に負けるものかと、全力で取り組まざるをえないからです。
 今回は、九州男児の熱と力を、全国の青年たちに見せてやりたいと思うがどうだろうか。
 そのためには、徹底的に家庭訪問し、信心指導をしていく以外にありません。
 私は、全男子部員は山本先生の弟さんであると思っています。したがって、いかに小さくとも、組織の責任者になることは、先生から、最愛の弟さんの面倒をみるように、託されたことであると考えています」
6  青葉(6)
 川中弘法は、自分の心情を、皆に率直に語った。
 「山本先生から、『弟をよろしく』と頼まれれば、信心はもとより、仕事や食事のことまで心配し、毎日、足を運んで、励ましていると思う。もし、その弟さんが、勤行もしていないと聞いたら、徹底して話し合っているはずです。
 でも、実際には、各組織を見ていくと、勤行もしていないメンバーが、何人もいると思います。それを放っておくというのは、無責任であり、無慈悲です。
 もちろん、個人指導は、決して簡単なものではありません。まだ仏法の偉大さがわからずに、信心に対して否定的な人もいれば、なかには、怒鳴り出す人もいるかもしれません。
 しかし、皆、先生の大切な弟さんなのだという思いで、粘り強く対話して、全九州の男子部員を、一人残らず、一騎当千の人材に育て上げ、この総会に勢いさせたいのです」
 川中の訴えは、同志の心を打った。皆、新たな思いで、個人指導に取り組んでいった。
 川中もバイクを駆って、同志の家々を巡った。そして、帰宅すると、一人一人の同志の総会への参加を念じて、唱題を続けた。彼は、文字通り、″止暇断眠″の活動を展開したのである。それは、自己自身への″挑戦″であった。
 その彼の決意と実践が、全九州に燃え広がり、火の国・九州は大勝利を飾り、更に、それが、全国に燃え広がっていくのである。
 勇気は波動する。生命力も伝播していく。
 山本伸一は、この九州男子部の総会の席上、こう語った。
 「先ごろ、ソ連が人類初の有人宇宙飛行を成し遂げましたが、その宇宙飛行士のガガーリン少佐も、皆さんと同じ青年であります。
 私どもは、ガガーリン少佐のように、新聞やテレビで報じられることもなければ、脚光を浴びることもありません。しかし、世界の人びとを救おうと、日夜、弘教に励み、広宣流布を目指す私どもの活動は、ガガーリン少佐の壮挙に、勝るとも劣らない大事業であると、申し上げておきたいのであります」
 ひと月前の四月十二日、ユーリー・ガガーリン少佐を乗せたボストーク1号が打ち上げられ、一時間四十八分で地球を一周することに成功していた。これが人類の有史以来、初の宇宙旅行となったのである。
 飛行を終えたガガーリン少佐の「地球は青かった」との言葉は、あまりにも有名だが、当時、彼は二十七歳の青年であった。
7  青葉(7)
 今、山本伸一のもとに集った青年たちは、大多数が貧しい無名の若者である。いわゆる″エリート″は、ほとんどいなかった。
 しかし、彼らは、民衆の心を知っていた。不幸に苦しむ友を救おうとする一途な情熱があった。それこそが、真の指導者の最大の要件といってよい。
 その青年たちを、次代のリーダーに育て上げることが、伸一の念願であった。
 続いて、伸一は、人生の大成の道は、決して遠い彼方にあるのではなく、今、自分がいるところにあると語り、各人の仕事で、各人の世界で、第一人者、大勝利者になることを訴え、この日の指導とした。
 九州の青年部総会を終えた伸一は、福岡から空路、大阪に飛び、九日には京都の舞鶴に向かった。
 この日、学会の建立寄進による実度寺の落慶入仏式と、舞鶴支部の結成大会が行われたのである。
 舞鶴は、伸一にとって、三度目の訪問である。彼が最初に舞鶴に来たのは、一九五八年(昭和三十三年)の一月のことであった。
 当時、療養中であった戸田城聖の名代として、舞鶴の地を踏んだ伸一は、指導会をはじめ、同志の激励に全力で臨んだ。
 二度目の訪問は、その年の六月であった。戸田の逝去から、二カ月後のことである。
 京都まで来た伸一は、時間をやりくりして、急遽、舞鶴まで足を運んだ。恩師の逝去の悲しみに沈む同志に、希望と勇気を与えたかったのである。
 この時は、わずか四時間ほどの舞鶴の滞在であったが、彼は、拠点となっている地区部長の家で質問会を行い、メンバーの指導、激励にあたった。
 舞鶴は、戦時中は軍港として栄え、大陸への出兵の港ともなった。そして、戦後は、大陸からの引揚港に指定され、約六十六万の人が、この港に帰って来た。
 三年ぶりに舞鶴の地を訪問した伸一を、雲一つない五月晴れの空と、同志の笑顔が迎えてくれた。
 彼は、まず午後一時から行われた、実度寺の落慶入仏式に参列した。
 あいさつに立った彼は、戦時中、舞鶴が軍港であったことから、軍部政府と戦ってきた創価学会の歴史に触れ、学会こそ、真実の平和を創造しゆく宗教であると訴えた。
 そして、かつては、この舞鶴から、兵士たちが戦争に出掛けていったが、これからは仏法を持った皆さんが、″仏の使い″″平和の使者″として、世界に羽ばたいていただきたいと呼びかけ、話を結んだ。
8  青葉(8)
 実度寺の落慶入仏式が終わると、山本伸一は、ワイシャツ姿で庭に出た。そして、役員の青年たちを見ると、彼は手招きした。
 伸一の周りを、二、三十人の青年が囲んだ。
 「私は、これまで以上に青年と会って、語り合おうと思っているんです。
 みんな、勉強はしているかい」
 彼は、青年たちを見回した。頷く人もあれば、を赤らめて、視線を落とす人もいた。
 「ともかく勉強だよ。どんなに忙しくても、月に一冊や二冊の本は読まなくてはならない。社会でも偉くなった人は、仮に、学校は出ていなくても、皆、懸命に勉強している。今、苦労して真剣に学び、力をつけることです。
 特に教学が大事だよ。教学は、人生、生き方の軌道をつくる。教学の研鑚がなくなると、なんのための信心か、わからなくなり、感情や利害に左右され、策略で動くようになってしまうものです。
 ところで、何か質問はないかい」
 すると、一人の男子部員が尋ねた。彼の顔には、疲労の色が滲み出ていた。
 「先生、私は現在、仕事が多忙なために、学会活動に思うように参加できません。仕事と学会活動は、どのように両立させていけばよいのでしょうか」
 それは、かつて、伸一自身が悩み抜いてきた問題でもあった。
 彼は、即座に答えた。
 「結論を先に言えば、いかなる状態にあっても、必ず、すべてをやりきると決め、一歩も退かない決意をもつことです。
 人間は、厳しい状況下に置かれると、ともすれば、具体的にどうするかという前に諦め、もう駄目だと思い込んでしまう。つまり、戦わずして、心で敗北を宣言しているものなのです。実は、そこにこそ、すべての敗因がある。
 自分は仕事も学会活動もやり切るのだと決め、時間を見つけて、ともかく真剣に祈ることです。そして、生命力と知恵をわかせ、工夫していくことです。
 その工夫の仕方は、仕事の内容や状況、立場などによって、異なってきます。
 たとえば、幹部で、出張が多くて、メンバーを回ることができないような場合には、出張先から繁に手紙で激励するという方法もある。更に、平日は、深夜まで残業があるが、日曜日は休みであるような場合には、その日曜日に、一週間分の活動をするのです。
 工夫には、百人の人がいれば、百通りの方法があるが、原理は同じです」
9  青葉(9)
 質問した青年の目は、次第に輝きを増していった。
 山本伸一の指導は具体的であった。
 彼は、更に話を続けた。
 「特に、自分が組織の中心者である場合には、自分がいない時に、代わりに活動の指揮を執ってもらえる後輩を育成することです。
 そして、組織として皆で決め、掲げた目標は、何があっても達成し、結果を出していくという決意が大事です。自分が十分に動けないからといって、組織を停滞させるようなことがあってはなりません。
 不思議なもので、青年にしても、あるいは壮年にしても、見事な戦いをしている組織のリーダーというのは、むしろ、仕事が多忙な人が多い。そのなかで、必死になって活動している姿が、みんなの心を打ち、周囲も、本気になって頑張ってくれるのです」
 伸一は、この問題は、重要なテーマであるだけに、さまざまな角度から語っておこうと思った。
 「また、仕事と活動の両立といっても、時という問題も考えねばならない。学生ならば、試験の前には、一生懸命に勉強するのが当然ですし、仕事にも勝負時というのがある。その場合には、しばらくは、仕事に大半の時間を割くのは当然です。
 したがって、両立といっても、ケース・バイ・ケースで考えなければならない。また、短い単位でとらえるのではなく、長い目で見ていく必要もあります。
 しかし、いかなる場合でも、青年時代に、仕事も、学会活動もやりきったといえる戦いをすべきです。それが人生の基盤になるからです。戸田先生も、よく『信心は一人前、仕事は人の三人前働きなさい』と言われていた。
 こう言うと、一日は二十四時間しかないし、体も一つしかないのに、仕事も頑張れ、学会活動も頑張れというのは、矛盾しているのではないかと、思う人もいるでしょう」
 伸一が言うと、頷く青年もいた。
 彼は、笑みを浮かべながら、話を続けた。
 「もし、それを矛盾というなら、すべてが矛盾になってしまう。現実の生活のなかで要請されていることも、考えてみれば、相反していることばかりです。
 仕事で何かを生産する場合も、よい製品を作れと言われる。それには、より多くの時間がかかるのに、早く作ることが求められる。
 ことわざなどもそうです。『武士は食わねど高楊枝』とあれば、『腹が減っては軍は出来ぬ』というのもある。『人を見たら泥棒と思え』というかと思えば、『渡る世間に鬼は無い』という」
10  青葉(10)
 青年たちは、山本伸一の話に、一つ一つ頷きながら、真剣に耳を傾けていた。メモをとる人もいた。
 「御書にも、一見、相反するかのように思える御指導もあります。
 たとえば、ある御手紙のなかでは、たった一遍の題目でも成仏できると仰せになっています。しかし、別の個所では、どんなに題目を唱えても、謗法があれば、全く功徳はないという意味の指導をされている。
 また、ある御手紙では、百二十まで生きても、名を汚して死ぬよりは、一日でも名をあげることが大事であると述べられている。ところが、ほかのところでは、若死にしてしまえば、なんにもならないとの仰せもあります。
 何事にも両面があり、一方に偏らないからこそ、人間的なのです。
 つまり、人間が生きるということは、相反する課題を抱え、その緊張感のなかで、バランスを取りながら、自分を磨き、前へ、前へと、進んでいくということなのです。
 だから、仕事なら仕事だけ一本に絞れば、すっきりすると思うかもしれませんが、何かを投げ出そうとするのは誤りです。
 仕事、勉強、そして、学会活動と、大変であることは、よくわかっています。しかし、苦労して、それをやり遂げていくところに、本当の修行があり、鍛えがある。また、その苦労が、諸君の生涯の財産になるのです。
 苦しいな、辛いなと思ったら、寸暇を見つけて祈ることです。祈れば、挑戦の力がわいてくるし、必ず事態を開くことができます。
 そして、やがては、自由自在に、広宣流布のため、活動に励める境涯になっていきます。
 皆、苦労をすることは損だと思っているが、長い目で見れば得なのです。それが、全部、人生の財産になる。だから、うんと苦労し、苦労を楽しもうよ」
 青年たちの顔に、さわやかな微笑が浮かんだ。
 青年に知識や技術を教える学校はある。しかし、人生や生き方を教え、生命を錬磨する教育機関はない。だが、そこにこそ、人間教育の基本がある。
 伸一は、人間をつくることを忘れた、日本の高学歴化のもたらす偏頗さを心配していた。彼は、学会という校舎なき″民衆大学″で、人間の教育を、人格の教育を行おうとしていた。
 そのようにして、磨き、鍛えられた青年たちが、各地で、各界で、社会を支えていくなかに、一国の、世界の本当の繁栄がもたらされるからである。
11  青葉(11)
 青年との語らいの後、山本伸一は、舞鶴支部の結成大会に出席し、更に、地区幹部の指導会に臨んだ。
 翌日、彼は、支部長の多川兵造と一緒に、車で市内を一巡した。
 多川は、運送業を営む壮年で、妻の恵子が支部の婦人部長であった。
 伸一は、多川の案内に耳を傾けながら、車窓の景色を眺めた。新緑の山々に囲まれるように、穏やかな青い海が広がっている。
 伸一は、舞鶴湾がよく見える場所で、車を降りた。
 彼は多川に言った。
 「舞鶴は、天然の良港だね。すばらしい港だ。この舞鶴を、日本一の広宣流布の港にしよう。
 京都に支部があるのに、なぜ、舞鶴にも支部をつくったかわかりますか」
 多川は黙っていた。
 「それは、互いによきライバルとなって競い合い、触発し合うところから、発展が生まれるからです。
 舞鶴が立ち上がれば、それが刺激となって京都も頑張る。すると、兵庫も、大阪も力を発揮する。そして、関西が力を出せば東京も立ち上がり、それは全国に波及することになる。
 だから、舞鶴が大事なんです。ここから、全創価学会を動かしていくのです」
 伸一の話を聞いて、多川は、自分の世界が開かれていく思いにかられた。
 ″そうか、私の活動の舞台は、山と海に囲まれた一港町ではあるが、それは全国にがる、先駆けの港だったのか″
 多川は、胸中に、闘志が燃え上がるのを覚えた。
 伸一は、それから、奈良の指導に向かい、この日は奈良で一泊すると、翌十一日には、神戸の王子体育館で行われた、神戸、兵庫の二支部合同の結成大会に出席した。
 この神戸で、彼は、ある一つの発表をしようとしていた。それは、記録映画の製作であった。
 学会の広布の歩みは、その一こま一こまが、永遠不滅の黄金の輝きを放っている。しかし、どんなに大きな会合でも、そこに参加できるのは、二百万世帯になんなんとする会員からすれば、ほんの一握りの人たちでしかない。
 また、広宣流布の波は、世界に広がっているが、ほとんどの会員は、その様子を、直接、目にすることはできない。
 伸一は、全同志が、その学会の躍動を実感し、共有するためには、どうすればよいのかを、既に、青年部の室長のころから考えてきたのである。
 そして、学会の大きな行事や活動の様子を映画に記録し、皆が観賞できるようにしようと、着々と計画を進めてきた。
12  青葉(12)
 学会の主要行事は、一九五六年(昭和三十一年)九月の青年部体育大会以来、山本伸一の提案で、十六ミリや八ミリの映画フィルムに収められていた。
 これによって、戸田城聖の原水爆禁止宣言や大講堂落慶の記念式典、更に、インドのブッダガヤでの東洋広布の石碑などの埋納も、映画として記録することができたのである。
 映画の力は実に大きい。「百聞は一見に如かず」とのがあるが、居ながらにして、万人に一見の機会を与えることができる。そして、優れた映画は、事実を映し出すだけでなく、その底に潜む真実を、また、思想、哲学を表現する。
 この映画の力を最も輝かせた一人に、あの喜劇王チャップリンがいる。
 なかでも、第二次世界大戦中の一九四〇年に公開された「チャップリンの独裁者」は、ヨーロッパを席巻していた独裁者ヒトラーを痛烈に批判し、笑い倒し、その本質を鋭くえぐり出していった。
 当時、チャップリンがいたアメリカは、まだ参戦前で、公然たるヒトラー批判は憚られる雰囲気があり、そうした行為には非難も多かった。
 しかし、彼は、たった一人で戦いを挑み、独裁者ヒトラーの虚勢とウソを、一本の映画に、見事に描き出して見せたのである。
 二十世紀は、一面、「映像の時代」といってよい。伸一は、早くから、その大きな可能性に関心を寄せていた。
 そして、広宣流布という学会の大民衆運動の真実の姿を、映像にとどめるために、彼はこの春、理事会で記録映画の製作を提言していた。以来、検討が重ねられ、それが具体化しつつあったのである。
 伸一が、その話を神戸の地でしようと思ったのは、古くから、海外との貿易の基地となってきた神戸は、新しき文化の都であると考えていたからである。
 また、東京、大阪、京都、名古屋、神戸、横浜の日本の六大都市のなかで、これまで、支部がなかったのは神戸だけであった。そこに、いよいよ支部が誕生しただけに、伸一は、希望につながる発表をもって、その新たな出発を祝いたかったからでもあった。
 神戸、兵庫の二支部合同の結成大会の会場は、熱気に満ちていたが、外は激しい雨であった。
 伸一は、壇上に立つと、その雨雲を払うように、希望の光を注いだ。彼は、まず、神戸に会館を建設することを発表した。
13  青葉(13)
 皆の拍手が静まるのを待って、山本伸一は言葉をついだ。
 「さて、皆さんは、北海道の本部はどのような建物なのだろうか、また、どんな環境のなかで活動をしているのかと、考えることがあると思います。
 あるいは、沖縄の同志はどんな人たちなのか、東北や中部の活動はどんな様子なのか、更には、アメリカ、ブラジル、東南アジアなどの状況を知りたい方も、数多くいらっしゃると思います。
 そこで、学会に撮影班ともいうべきグループをつくって、そうした各地の模様を十六ミリフィルムなどに収め、ニュースとして皆さんにお見せしたいと考えておりますが、この点はいかがでしょうか」
 再び大歓声と拍手が、場内を包んだ。
 「兵庫の皆さんが賛成してくださいましたので、私は、自信をもって、これを進めてまいります。
 どうか、この記録映画の完成を楽しみにしていてください」
 この後、伸一は、信心の世界にあっては、不純な利害ではなく、どこまでも純粋な心で広宣流布の活動に取り組んでいくことが大切であると強調。一人一人が幸福な人生を築き上げてほしいと望み、指導とした。
 彼は、十二日に、神戸から東京に戻ると、翌十三日には沖縄に向かった。
 十四日には、沖縄総支部の結成大会が行われることになっていたのである。
 前年の七月の訪問以来、まだ十カ月しかたっていなかったが、沖縄の盤石な未来を構築するために、彼はしばらくは、毎年、沖縄に行こうと思っていた。
 伸一は、那覇の空港に到着すると、迎えてくれた同志に言った。
 「いよいよ沖縄にも春が来たよ」
 沖縄の、この十カ月の飛躍的な発展は、メンバーの顔を一変させていた。どの顔にも、自信と喜びがあふれ、屈託のない笑みの花が光っていた。
 人が変われば、社会も変わる。人が輝けば、国土世間も輝く。依正は不二なると、仏法は教える。
 伸一は、今、沖縄の栄光の未来を、確信することができた。
 彼の、この沖縄の滞在は、わずか一泊二日であったが、地区幹部との懇談会など、分刻みで同志の激励にあたった。
 また、総支部結成大会では、沖縄に会館を建設することを発表し、その落成入仏式には、三たび沖縄にやって来ることを約束したのである。
 それは、まさに、新しき希望が芽吹く、沖縄の広布の春の到来でもあった。
14  青葉(14)
 沖縄総支部の結成大会の後、総支部長の高見福安は山本伸一に言った。
 「先生、いよいよ明日から、東南アジアの指導に行ってまいります」
 この東南アジア指導は、伸一が一月から二月にかけてアジアを訪問した折に、彼が構想したもので、その後、理事会で検討し、決定を見た計画であった。会長の海外訪問を除いては、本部からの海外への幹部派遣の第一陣となる。
 伸一は、その派遣メンバーのなかに、高見たち沖縄の幹部を入れるように提案していたのである。
 「そうだったね。ご苦労様。
 沖縄はアジアの玄関だ。これからも、沖縄の人びとがどんどん東南アジアに出て行って、メンバーを激励していく流れをつくりたいと思っています。
 沖縄は、あの戦争で、最も辛酸をなめた地域です。東南アジアの国々もそうです。それだけに、その沖縄に平和の楽土を築きながら、皆が激励に行ってくれれば、一番、説得力があります。
 ところで、最初に行くのは、台湾だったね」
 「はい、そうです。私は十五日に台北(タイペイ)に入り、翌日の夕方に、森川理事たちと合流するようになっております」
 「私も、台湾に行って同志を励ましたい。しかし、今は、それができないので、私の代わりに、一人一人に会って、しっかりと激励してきてください。そして、何があっても負けずに、生涯、信心を全うできるように、深い魂の楔を打ってきてほしいのです。
 やがて、学会は、日本からたくさんの同志が世界各国に行き、また、世界中の同志が日本にやって来るという″広布の大航海時代″を迎えます。
 その先駆けとなるのが、今回の皆さんの東南アジア訪問です。ですから、理事の森川さんを中心に団結して、無事故で、新しい広宣流布の流れを開いてきてください。私も題目を送っています」
 高見は、伸一の話に、自分たちの東南アジア指導の、深い意義を感じ、発奮した。
 彼は、翌十五日に沖縄を発ち、台北で森川らと合流した。そして、一行は、高雄(カオシュン)などを回り、約百三十世帯の同志を激励。台北に三地区、高雄に二地区を結成した。
 また、その間に、大客殿の資材となる、台湾の桧の購入のための調査も行っている。これは、戸田城聖の「大客殿には、台湾の檜も使いなさい」との、遺言によるものであった。
15  青葉(15)
 森川一正や高見福安ら、東南アジア派遣メンバーの一行は、台湾の後、フィリピンのマニラ、タイのバンコク、香港を訪問し、五月二十五日に帰国することになる。
 その間に彼らは、フィリピンにマニラ地区を、タイにバンコク地区を結成。また、訪問はできなかったが、インドネシア、ベトナム、ビルマ(現在のミャンマー)のメンバーを招いて打ち合わせを行い、それぞれの国に地区を結成した。
 山本伸一が切り開いた東洋広布の道は、大きな広がりを見せ、民衆の幸福と平和への布陣が整えられていったのである。
 一方、沖縄から帰った伸一は、理事たちと、当面する今後の活動の検討を重ね、新たな前進のための布石に力を注いだ。
 最初のテーマは大客殿の供養の推進であった。
 清原かつが、協議してきた計画の細目を報告した。それによると、供養の受け付け期間は七月の二十一日から四日間で、全国の各地区ごとに実施されることになっていた。
 それを聞くと、伸一は尋ねた。
 「その受け付けの責任者は誰ですか」
 「はい。それは地区部長ということになります」
 伸一の目が光った。
 「理事のあなたたちは、責任は持たないのですか。
 全部、地区部長や地区担に任せればよいと考えているなんて、とんでもないことです!
 地区部長、地区担は、同志に御供養の意義を伝え、激励して歩くのに、精いっぱいです。
 御供養の受け付けの責任は、当然、理事をはじめとして、支部の幹部以上が持つべきです。
 そして、御供養を持参してくださる方々を丁重にお迎えし、私に代わって、御礼申し上げ、最大に励ましていかなくてはならない。
 同志の皆さんは、日々、生活に追われ、忙しいなかで、学会活動に時間を割いて、広宣流布に尽力してくださっている。
 しかも、そのなかで、汗水流して働いて得たお金を供養するために、足を運んでくださる。尊いことではないですか。
 その同志の姿は、それ自体、菩薩であり、仏の振る舞いです。その方々に仕えて、奉仕していくのが幹部であり、そこに、功徳もあるし、福運もつくのです。
 幹部というのは、いつも、″どうすれば、みんなが元気になるのか″″どうすれば、みんなに喜んでもらえるのか″を、考え続けていなくてはならない。その発想からは、今のような他人任せの計画は、生まれるわけがない」
16  青葉(16)
 山本伸一の最高幹部への指導は、常に厳しかった。
 その双肩には、学会のいっさいがかかっているからである。
 続いて、議題は、五月三日の総会で新設された文化局の活動に移った。
 伸一は、この総会で言論部長になった、青年部長で理事の秋月英介を見ると尋ねた。
 「言論部の活動大綱などは、どうなっていますか」
 秋月は、申し訳なさそうに答えた。
 「はい。ただ今、検討しておりますが……」
 伸一は、鋭い口調で秋月に言った。
 「遅い。言論部を設けた意味は明らかなのだから、どんどん具体的な計画を練り、相談に来るべきです。
 私から指示がなければ、何も考えないし、動こうとしないというのは、無責任だ。青年が受け身であっては、社会のなかでの戦いは負けです。
 積極的に何かしようとして叱られるのは恥ではないが、青年が失敗を恐れて、何もしないで叱られるのは恥です」
 「申し訳ありません。
 実は、言論部の方向性については、二つの考え方があり、どうすべきか、結論が出せずにおりました。
 一つは、現在、社会で既に活躍している、小説家やシナリオライターなどを部員とし、信心の育成を行うという方向です。
 また、もう一つは、未来のために、広く青年に対して、言論人としての教育を行うというものです。
 今後、言論部としては、どちらを基調にすべきか、先生のご意見を、お伺いできればと思います」
 「両方、必要です。仏法を根底にした、大文筆家も育てなくてはならないし、また、青年部員一人一人を、立派な言論人に育成していくことも大事です。
 これからのリーダーには書く力、語る力が大切になる。青年部の最高幹部になって、原稿一つ書けず、話にも説得力がなければ、社会をリードしていくことなどできません。
 その意味でも、青年部の幹部は、言論活動を特別な人だけに任せようとするのではなく、全員が言論の力を磨いていく必要がある。
 したがって、たとえば、青年部の幹部で言論第一部を構成し、文筆の専門家で言論第二部を構成して、二段構えで進んでいくようにしてはどうだろうか」
 伸一の考えは、至って柔軟であった。
 方向性をめぐる秋月の悩みは、一気に解決してしまった。
17  青葉(17)
 山本伸一は、続いて教育部について尋ねた。
 教育部長は、婦人部長で理事の清原かつである。
 清原は、教育部の準備状況を伝えた。
 「現在、各組織から、教師を紹介してもらい、名簿を作っておりますが、間もなく終了する予定です。
 それをもとに、連絡を取り、牧口先生のお誕生の月である六月に、結成式を行いたいと思っております」
 「それはよい考えだ。結成式は学会本部でやることにしよう。
 牧口先生は、民衆の救済のために、まず、教育改革を掲げて立ち上がられた。そして、その教育の根底となる哲学を、日蓮大聖人の仏法に求められた。
 本来、仏法というのは、最高の人間教育なのです。私の最後の事業も、教育であると思っています。
 日本は、確かに、豊かになりつつある。しかし、非行化など、青少年問題は、ますます深刻化している。国にも、学校にも、教師にも、人間をどう教育するかという、明確な教育理念がないからです。
 もし、このままいけば、日本の将来は、二十一世紀は、どうなるのか、それが心配なのです。
 教育には、施設などの環境条件を整えることも大事ですが、子供にとって最大の教育環境は、教師自身です。教育部は、その教師を育てていくのです」
 清原は、山本会長の教育部への限りない期待と、大きな使命を感じた。
 伸一は、理事長の原山幸一を見ながら言った。
 「今日は、私の方から一つ提案があります。それは次代の中核を育成するために、青年部の最高幹部のなかから、更に理事を誕生させたいということです。
 青年は、ただ、育て、育てと言っていれば育つものではない。活躍の場と責任を与えることが大事です。
 経験の豊富な理事の皆さんから見れば、若手は心配であると思うことが少なくないでしょう。しかし、責任を与えなくては成長はないし、できるかどうかは、実際にやらせてみなければわかりません。
 その方向で、今後、人事の検討をお願いします」
 それから、伸一は、秋月英介に視線を注いだ。
 「ところで、秋月君。実は君に、これまで検討してきた記録映画の、製作の責任者をやってもらおうと思う。これは新しい分野の仕事だから、青年が挑戦していってほしい。いろいろ仕事を抱えて大変だろうが、未来のためにも、青年がすべてを担い、道を開いてもらいたいのです」
 「はい!」
 秋月の返事には、決意がこもっていた。
18  青葉(18)
 五月十六日は、五月度の男子部幹部会であった。
 当初、山本伸一は、この会合に臨む予定はなかった。しかし、青年の育成のために、スケジュールを調整して、会合の途中から、出席することにし、会場の台東体育館に向かった。
 伸一の男子部幹部会への出席は一年ぶりであった。
 彼の乗った車が浅草駅に差しかかると、何人かの青年たちが、会場を目指して走っていた。
 既に、幹部会は開会になっている時刻である。仕事を片付け、急いでやって来たのであろう。
 皆、額に汗を滲ませ、肩で息をしながら、走っていた。だが、いくら急いだところで、幹部会はもう始まっているし、たとえ、駆けても、時間にすれば、ほんの五分か十分ほど、早く着くにすぎない。
 それでも、懸命に走る青年の姿に、伸一は、熱い求道の息吹を感じた。
 社会性という面から見れば、事故など起こさないためにも、走って会場に向かったりするべきではない。
 しかし、大切なのは、その心である。たとえ、会合は始まっていても、一分でも、一秒でも早く、会場に到着し、少しでも多くのものを吸収しようという一念が、人を成長させるのである。こうした姿勢を忘れてはならない。
 伸一は、現代という合理主義の時代にあって、その精神というものを、どのようにして、一人一人に教えていけばよいか、思いをめぐらしていた。
 幹部会は、山本会長の出席で、爆発的な盛り上がりを見せた。青年たちは、会長の幹部会出席という事実から、五月三日の本部総会の後に伸一が言った、″今年は「青年の年」だ″との言葉の意味を強く実感した。
 この日、伸一は、講演のなかで、次のように、自らの心情を語った。
 「私は力もない、未完成な人間であります。諸君から見れば、欠点もたくさん目につくと思います。しかし、諸君を信頼し、その前途に期待を寄せ、日本の国を救い、広宣流布を目指して戦う心は、誰にも負けないと確信しております。
 また、今年も、私自身、四十余万の学会青年の一人として、青年部の真っただ中に入って戦い、前進していく決意ですので、よろしくお願いいたします」
 伸一は、会長という役職の高みから、青年にものを教えようとはしなかった。同じ一人の人間として、自らの魂と行動とをもって、彼らを触発しようとしていたのである。人間を育む最大の力は、触発力にほかならない。
19  青葉(19)
 山本伸一は、翌十七日には、福島県の郡山に向かい、東北の三総支部の結成大会に出席した。
 その帰途、彼は、同行した青年部の幹部に語った。
 「言論部の件だが、ともかく青年部を中心に、動き出すことが大事だと思う。
 言論部員は、まず、男女青年部の支部の中心者としてはどうだろうか。
 次に、そのメンバーが集まる日は、確か十九日の夜だったね」
 青年部の幹部は答えた。
 「はい。首都圏の男女両部の支部の中心者が、学会本部に集うようになっております」
 「では、そこに私も出席し、その会合を言論部の結成式としよう」
 彼は、どこにあっても、青年たちのことが、頭から離れなかったのである。
 十九日、学会本部に集ってきた青年たちに、伸一は語った。
 「日蓮大聖人は、身に寸鉄も帯びず、権力、財力も持たずに、言論をもって、国をあげての弾圧と、敢然と戦われた。
 言論には、時代を創り、時代を左右し、時代を決定しゆく力がある。しかし、現在の言論界の実態は、無責任と退廃の風潮に流されています。世相の腐敗の病根も、まさに、ここにあると私は思う。
 そのなかにあって、真実の人間の道を示し、民衆を守り、世界の平和への流れを開く言論を展開していくのが、わが創価学会言論部です。
 私は、言論部の出発にあたり、その先駆けとして、あえて、青年部の幹部である皆さんに、言論部員の使命を担っていただくことにしました。
 今後の具体的な活動については、言論部長である秋月青年部長を中心に検討していってもらいたいが、ともかく、一人一人が各種の機関紙誌をはじめ、あらゆるところで、民衆のための言論を、更に、学会の正義の主張を、力の限り展開していってほしいのです。
 私も書きます。先頭に立って戦います」
 事実、伸一は、『大白蓮華』の巻頭言の執筆を続けたほか、月刊誌『潮』などにも筆を執っている。
 会長就任第二年に入った伸一は、青年の育成を機軸にしながら、全国各地を巡り、動きに動き、語りに語った。
 五月二十一日には、札幌で行われた北海道総支部の幹部会に出席していたかと思うと、二十四日には、名古屋での中部三総支部の結成大会に姿を見せた。そして、その三日後には、東京での本部幹部会の壇上にいるという具合であった。
20  青葉(20)
 五月度の本部幹部会は、二十七日、台東体育館で行われた。
 この席上、新たに六人の理事が誕生したが、そのうちの三人が、男子部長の谷田昇一など、青年部の幹部であった。
 その若々しい人事は、参加者に、青年の時代の到来を感じさせた。
 また、海外に、東南アジア総支部が結成された。
 総支部長には森川一正が、総支部婦人部長には本部常任委員の中原涼子が、総支部幹事には三川健司が就任した。
 更に、本部に広報局が新設され、秋月英介が広報局長になった。これが学会の記録映画を担当していく部門であり、いよいよ映画製作という、山本伸一の構想が、具体化していったのである。
 一方、言論部も、青年部の幹部からなる言論第一部と、文筆の専門家からなる言論第二部の体制が、正式に発表された。
 青年の育成のための、伸一の布石は、あらゆる場で次々となされていった。
 五月二十九日には、六月の活動をめぐって、理事会が開催されたが、その折、伸一は提案した。
 「青年部を育てるためには、男子部、女子部の幹部だけに任せていてはならないのではないか。
 というのは、人生の問題になれば、同世代の幹部では、どうしても対応できないこともあるからです。
 また、男女青年部が、自分たちだけで小さくまとまっていると、全学会という視野には立てなくなってしまう場合もある。
 そこで、六月度から、男女青年部の幹部会は、本部幹部会と同格とし、青年部の支援の一環として、私をはじめ、全理事室が参加するようにしたいと思う」
 そこには、青年を思う、伸一の烈々たる決意があった。理事の皆が同意した。
 青年の育成は、ようやく全理事室の共通の課題となりつつあったのである。
 このころ、伸一が最も心を砕いていたのは、記録映画の製作であった。
 広報局には、局長の秋月英介のほかに、二人の青年が正規の職員として配属になり、六月上旬の映画の公開を目指して、作業は急ピッチで進められていた。
 映画の題名は「聖教ニュース」と決まった。また、第一号の企画は、会長就任一周年となる五月三日の本部総会をはじめ、沖縄の総支部結成大会など、五月度の諸行事が収録されることになった。
 そして、当面は、毎月、約三十分のニュース映画を一本ずつ、製作していくことになったのである。
21  青葉(21)
 映画製作の担当者は、広報局の設置の発表前から、既に作業を進め、五月の諸行事については、山本伸一の指示を受けて、フィルムに収めていた。
 したがって、それを編集すれば、二、三十分程度のニュース映画にまとめることは可能であった。
 しかし、現像されたフィルムを映してみると、各地の総支部結成大会などの室内の行事は、光が足りなかったらしく、大部分が暗くなっていた。
 広報局の職員には、飯坂芳夫という映画の監督を務めたこともある青年がいたが、撮影の専門家ではなかった。また、学会には、撮影に必要な、十分な照明器具もなかった。
 しかし、もはや、後には引けなかった。彼らは、ともかく、映画の第一号の編集を行いながら、第二号の撮影にも着手していった。
 したがって、それぞれが撮影、録音、編集、ナレーションの原稿執筆など、一人で何役もこなさなければならなかったのである。
 ある夜更けに、伸一が作業室に顔を出した。
 二人の青年が、黙々と仕事をしている。会長の伸一がやって来たことさえ気づかなかった。
 伸一が声をかけると、驚いて、二人が顔を上げた。連日、遅くまで仕事をしているのであろう。その顔には疲労の色が滲んでいた。
 席を立とうとする、二人を制して、伸一は言った。
 「いや、そのままでいいよ。ところで、今、一番困っていることは?」
 飯坂が答えた。
 「実は、撮影のためのフィルムが底をついてしまったことです。既に、予算は使い切ってしまっておりますので……」
 広報局は新設の部局でもあり、十分な予算もないために、彼らは節約に節約を重ねていた。
 たとえば、約三十分のニュース映画は、千フィート(一フィートは約三〇・五センチ)ほどのフィルムになるが、撮影段階では、通常、その十倍にあたる一万フィートほどのフィルムを回すことになる。
 しかし、彼らは、切り捨てる分を、極力、少なくするように工夫しながら、撮影をしてきた。それでも、フィルムが足りなくなってしまったのである。
 「そうか、苦労をかけてすまないね」
 伸一は、当面、必要なフィルムの費用を飯坂に聞くと、自分のポケットマネーをはたいて寄付した。
 「飯坂君、今は大変だと思うが、開拓には苦労はつきものだよ」
 こう言って、伸一は、ニッコリと笑った。
22  青葉(22)
 飯坂芳夫は、深夜に、自分たちのことを気遣い、訪ねてくれた山本伸一の真心に、熱いものを感じた。
 伸一は、静かに語っていった。
 「予算の面でも、何かと窮屈な思いをさせて申し訳ないが、各総支部に映写機も設置しなければならないし、経費もかかっている。
 それに、学会の経費は、すべて学会員の浄財で賄われているのだから、節約を心掛けるのは当然です。
 そのうちに、人数も増やすから、しばらくは我慢して、知恵を働かせ、工夫しながら頑張ってほしい。最悪の条件のなかで、最高の作品を作ってみせるぞという気概で挑戦していってこそ、本当の青年です。
 人手もない、金もない、機材もない、時間もないという、ないないづくしのなかで、見事な作品を作り上げることができれば、人生の最大の財産になる。また、それが開拓者だ。生涯の最高の思い出をつくっていると思えば楽しくなるよ。
 ところで、体の方は大丈夫かい」
 「はい!」
 「体調は、自分でうまくコントロールしていくんだよ。それも知恵です。
 ともかく、大変だなと思ったら、出来上がった映画を見て、歓喜して立ち上がっていく同志の姿を思い描くことだ。
 映画作りは、目立たないし、陰の力であるけれど、その影響力はすごい。
 家でも、土台というのは見えない。車でも、エンジンは人の目には触れない。人間の体にしても、心臓を見ることはできない。ものごとを支えている、本当に大切な力は、いつも陰に隠れているものなんだよ。
 この映画が完成すれば、学会の新しい歴史が開かれる。そして、何十万もの人が、奮い立つはずだ。その使命を担っているのが、君たちだ。
 その意味からすれば、君たちは、大指導者と同じ働きをしているのです」
 伸一は、更に、広報局の未来構想を語っていった。
 「近いうちに、総天然色(カラー)のニュース映画も作っていこう。これからは、映画は、カラーの時代だからね」
 当時、ニュース映画のほとんどは、まだモノクロ(白黒)であった。
 「それから、将来は、同志の体験談をもとにした劇映画やドキュメンタリーも作るようにしよう。
 映画によって、社会の人びとが、学会の真実の姿を理解していけば、広宣流布の大きな力になるからね」
 伸一の激励に、飯坂たちは疲れが吹き飛び、勇気がわくのを感じた。二人は、部屋を出ていく伸一の後ろ姿を、涙で見送った。
23  青葉(23)
 「聖教ニュース」の上映に向かって、各総支部には男子部を中心に映写班が組織されていった。
 「聖教ニュース」第一号の試作品が完成したのは、六月初旬のことであった。
 映像が暗く、鮮明でない部分もあったが、苦心の末に、なんとか作品にまとめ上げたのである。
 山本伸一は、その試写を見ると、広報局のメンバーに言った。
 「いいじゃないか。短期間でよくできた。本当にすばらしい内容だよ。歴史を創ったね」
 疲労のためか、少しやつれた局員の顔に、明るい微笑が浮かんだ。
 ニュース映画の出来栄えとしては、今後、改善し、努力すべきことはたくさんあった。しかし、伸一は、何よりも、青年たちが彼の期待に、必死になって応えようとしてくれたことが嬉しかったのである。
 この「聖教ニュース」の初上映は、六月九日に、東京・大田区の大田産業会館で開催された、関東第一総支部の地区部長会の後で行われた。
 会場のライトが消え、軽快な音楽とともに、スクリーンに「聖教ニュース」の文字が浮かび上がると、大きな拍手がわき起こった。
 画面には五月三日の本部総会の模様が映し出され、ナレーションが流れた。
 「……会長就任一年にあたる第二十三回総会は、好天に恵まれ、東京・日大講堂で盛大に行われました」
 参加者は皆、真剣な表情で、食い入るようにスクリーンを見ていた。
 会場の一隅で、映画よりも、その参加者の表情を、じっと見ている二人の青年がいた。
 広報局の飯坂芳夫たちであった。彼らは、人びとの反応を自分の目で確かめるまでは、作業も手につかず、いたたまれずにやって来たのである。
 スクリーンでは、山本会長が映し出され、就任第二年への決意を、烈々たる気迫で語っていった。するとスクリーンに向かって大拍手が起こり、伸一が共戦を呼びかけたシーンでは、場内に元気な返事が響いた。
 更に、画面は、沖縄総支部結成大会に移った。
 ″悲劇の島″を″平和の島″にしようと、奮い立つ友の姿を、皆、真剣なまなざしで見つめていた。
 伸一がメンバーの敢闘を称え、同志の代表の胸に、学会の金のバッジをつける光景が放映され、「沖縄健児の歌」の調べが流れた。
 映画を観賞している人たちの目頭が潤み、すすり泣きが聞こえてきた。
24  青葉(24)
 「聖教ニュース」を観賞する人びとの様子を見ていた飯坂芳夫の目にも、涙があふれていた。いや、誰よりも彼自身が、一番、感激し、熱い涙を流していた。
 「す、すごいよ……」
 飯坂は、隣にいた広報局員に話しかけたが、後は声にならなかった。
 映画が終わると、嵐のような拍手が轟いた。
 二人は目を赤く腫らしながら、喜びの固い握手を交わした。
 飯坂は、学会の動きを映画にする大きな意味を肌で知り、その作業に携われることに、無量の喜びと誇りを感じた。
 以来、彼は、肩に食い込む撮影機材の重さが、自分たちの使命の重さのように思えてならなかった。
 ところで、この映画製作の部門は、後年、独立し、やがて「シナノ企画」となり、学会の真実の姿を伝える数々の映画を生み出し、仏法への理解の波を、社会に広げていくことになる。
 こうして、言論部も、広報局も、青年の力で広布の未来へと船出していった。
 山本伸一は、六月五日には東京・台東体育館で行われた女子部の幹部会に、翌六日には、同じ会場で開かれた男子部の幹部会に出席した。
 創価の若人の成長は、目覚ましかった。
 五月度の活動で、男子部は、一万二千四百世帯の弘教と一万二千九百人の部員増加を成し遂げ、部員数は二十七万人に達した。また、女子部は、六千三百世帯の弘教と一万人の部員増加を行い、部員数は二十万人に迫ろうとしていた。
 しかも、この六月度から男女青年部の幹部会は、本部幹部会と同格になり、山本会長も、毎回、出席するとあって、青年たちの広宣流布の主体者の自覚は、更に一段と深まっていった。
 青年の育成の要諦は、第一に、いかに使命の自覚を促すかにある。
 そして、第二に、挑むべき目標の明確化である。
 青年部の目標は明確であった。各方面ごとの総会の開催と、男子部の場合ならば、代表十万の結集に向け、弘教を推進し、部員の増加を図っていくことであった。
 そのうえで、指導者は、活動が円滑に進むように、こまやかな配慮を重ねていくことが大切になる。
 たとえば、伸一は、幹部会の開始時刻にも心を配った。当初、男子部、女子部ともに、午後六時過ぎに開会となることがしばしばあったが、それまでに参加者が会場に来るには、かなり無理があった。伸一は、それを知ると、午後六時半の開会にしてはどうかと、提案したのである。
25  青葉(25)
 六月十一日、山本伸一は名古屋で行われた中部の青年部総会に出席した。
 九州に続いて、中部も、大成功の総会となった。
 午前十一時半から行われた女子部の総会には一万六千人が、午後三時からの男子部総会には一万八千人が参加したのである。
 十三日、中部の青年部総会を終えて、総本山に参詣していた伸一のもとに、訃報が入った。
 九州第一総支部の婦人部長である柴山美代子が、この日、熊本市内の正宗寺院で開かれた婦人部の会合に出 席 中、心臓マヒのために急したのだ。
 九州からの電話での報告によれば、彼女は、御書講義をした後、いくつかの質問に答えているうちに、急に机に体を伏せた。そして、そのまま、御本尊の前で、多くの同志に囲まれて、眠るように、安らかに息を引き取ったというのである。四十九歳であった。
 彼女は、夫の邦夫とともに、九州の中核として活躍してきた婦人であった。
 伸一が指揮を執った山口の開拓指導の折にも、乳飲み子を連れて参加していた姿が、彼の頭に浮かんだ。
 いつも質素な服を清楚に着こなし、髪も自分できれいにセットし、さわやかな笑顔で人に接していた。
 そして、もの静かな語り口のなかにも、信心への強い確信が貫かれ、同志の信頼は厚かった。
 伸一が、何よりも感心していたのは、彼女の、家族への配慮であった。
 夫妻で東京の本部幹部会などにやって来る時も、寝台車の中で、夫のズボンを寝押しすることを忘れなかった。
 また、学会活動で家を空けた時には、帰宅すると、夫に三つ指をついて、「ただ今、学会活動させていただいて帰ってまいりました。ありがとうございました」と、あいさつするように心掛けていたという。
 彼女には、四人の子供がいたが、留守にする場合には、それぞれの子供に菓子を用意し、一人分ずつ、紙で巾着の形に包んで置いていった。子供たちは、母の心の温もりを感じたに違いない。
 周囲の人は、彼女がグチや文句を口にしたのを聞いたこともなかったし、疲れた顔をしているところを見たこともなかった。
 家庭にあっても、主婦としてやるべきことはきちんとやり、友のため、広布のために、九州を駆け巡ってきたのである。
 思いがけない訃報に接し、伸一は愕然とした。彼にとって、ともに広布に生きる同志の死ほど、辛く、悲しいことはなかった。
26  青葉(26)
 山本伸一は、一年前に、福岡を訪問した折のことが思い出された。
 その時、伸一が居合わせた同志に、十月の北・南米指導の予定を伝え、皆はどこに行きたいかを尋ねた。
 すると、柴山美代子は言った。
 「私の夢は、ヨーロッパに仏法を広めに行くことです。……でも、来世になってしまうかもしれません。
 ともかく、先生がアメリカを訪問されている間、福岡は日本の広布の先駆を切って、立派に留守をお守りします」
 事実、この年の十月、彼女が婦人部長として指揮を執っていた福岡支部は、二千三十世帯の弘法を成し遂げ、全国第一位の、見事な成果を残したのである。
 柴山は、九州の″広布の母″ともいうべき婦人であった。
 彼女の死は、宿命といえば宿命であろうが、この世の使命を果たしての臨終に違いないと、伸一は思った。だが、それにしても、柴山が元気に活躍し続けるために、自分にできることはなかったのだろうかと、彼は自身に問い続けた。
 伸一が柴山の訃報を聞いた時、彼女の夫の邦夫は、ちょうど、月例登山のために総本山に来ていた。
 伸一は、邦夫の心中を案じながら言った。
 「男性にとって妻を亡くしたことは、最も辛く悲しいことでしょう。
 しかし、あなたが気弱になれば、一番悲しむのは、きっと亡くなった奥さんです。奥さんは、あなたのことも、子供さんたちのことも、じっと、見守っているはずです。どうか、強い心で、この悲しみを乗り越えてください。私も、すぐに、そちらにまいります」
 伸一は、彼女の成仏を強く確信することができた。彼が心配していたのは、残された四人の子供たちのことであった。長女は十九歳で、次女は十七歳、三女は十五歳、一番下の男の子は六歳である。
 六月十六日、伸一は、福岡での告別式に参列した。
 彼は、そこで、関係者から、柴山美代子の臨終の模様を、詳しく聞くことができた。
 知らせを受けて、熊本に駆けつけた長女は、既に帰らぬ人となってしまった母に向かい、こう語りかけたという。
 「お母さん、よく頑張ったね……。戦いのなかで、こんなにたくさんの同志の方に見守られて死ぬなんて、お母さんも、きっと、きっと本望だったよね」
 伸一は、長女が母の死を、どう受け止めているかを知り、幾分、安心することができた。
27  青葉(27)
 葬儀は厳粛に、そして、盛大に営まれた。
 全九州から、多くの同志が弔問におとずれた。
 その参列者の人波は、長く、長く続き、約一万人にのぼった。
 告別式では、婦人部長の清原かつが弔辞を読んだ。
 「美代子さん、ゆっくりお休みなさいね。……私もあなたのように、戦いのなかで、みんなのなかで死んでいきたい」
 それは、清原の率直な思いであったに違いない。
 あまりにも早い人生の終幕であったが、柴山美代子は、不惜身命の精神を、身をもって教えているかのようでもあった。
 参列者は彼女の遺影に、その遺志を継いで、広宣流布に生き抜くことを誓うのであった。
 葬儀の後、山本伸一は、三人の娘を呼んで言った。
 「お母さんは、偉大な方でした。あなたたちが、終生、誇ることができる立派な母親です。
 今、皆さんが、悲しく、辛い気持ちであることは、よくわかります。
 しかし、お母さんの最大の願いは、子供たちが、挫けたりすることなく、すくすくと育ち、幸せになっていくことだと思います。
 また、お母さんと同じ心で、生涯、多くの人びとの幸福のために尽くす人になってほしいと、願っていたはずです。
 これから先、まだまだ、苦しいことや大変なこともあるかもしれませんが、御本尊から離れずに、信心を貫いていくならば、必ず幸せになれます。だから、何があっても負けずに、信心し抜いていくんですよ。
 あなたたちに、何かあったら、同志がみんなで守っていきます。また、遠慮しないで、私の所へ、相談にいらっしゃい。
 お母さんのお墓も、つくりましょう」
 三人の娘は、涙をこらえて、何度も頷きながら、伸一の話を聞いていた。
 伸一は、彼に出されたテーブルの上のビワを勧め、「さあ、元気を出して」と励ましながら、一人一人に手渡していった。
 翌日、関西に向かう伸一を、遺族が空港に見送りにやって来た。
 彼は、搭乗時刻まで、祈るような気持ちで、柴山の娘たちと語り合った。
 「生命は永遠なんだよ。だから、お母さんは、すぐに生まれてくる。きっと、みんなの近くに生まれてきて、みんなを見守ってくれるよ。何も心配することはないからね」
 そして、出発が迫り、歩き出してからも、何度も振り返っては手を振り、「大丈夫、大丈夫だよ」と声援を送った。その姿に、″この娘たちを幸せにせずにおくものか″との思いが滲み出ていた。
28  青葉(28)
 山本伸一は、関西では、十七日夜、京都市内で行われた、京都、平安、京洛、舞鶴の四支部からなる、関西第四総支部の結成大会に出席した。
 そして、翌十八日は関西青年部総会であった。
 総会は男女ともに、大阪の港体育館で開催された。女子部総会には三万人が、男子部総会には四万人が集い、関西の底力を、いかんなく発揮した若人の大総会となった。
 伸一は男子部総会では、今後のために、労働運動に対する、学会の基本的な態度を明らかにした。
 社会には、学会の目指すものと労働運動とは、互いに相いれざるものであるかのような認識があったし、男子部員からも、学会員としての労働運動への取り組みについて、しばしば質問を受けていたからである。
 「よく、男子部の皆さんから、自分は労働運動をしたいのだが、学会員としてどうすべきかと、聞かれることがあります。
 学会員は、労働運動をやってはいけないように思うのは錯覚です。当然、やることはいっさい自由です。
 日蓮大聖人は『一切法は皆是仏法なり』と仰せである。
 幸福になる根本は信心以外にありませんが、ほとんどの青年部員は労働者なのですから、皆さんが労働運動や組合運動で活躍するのは、自然なことであります。また、それは、決して仏法と相反するものではありません。
 かつて、戸田先生は、こう言われておりました。
 『もし、自分の子供が赤旗を持って、社会のため、自分たちの正しい権利のために立ち上がるならば、私も、赤旗を持って運動に駆けつける』
 一方、今日の労働運動の世界にあっては、いわゆる″労働貴族″と言われるような人たちが、労働者の上に君臨しているという現実もあります。
 したがって、皆さんが信心を根本として、それぞれの職場にあって、労働者を守るために、労働運動を展開し、ある場合には、組合長や委員長、書記長となっていくことも、いっこうにかまいません。
 社会のあらゆる事柄を、人間の幸福のために機能させていくことが、広宣流布の運動であるからです」
 伸一は、仏法は、人間を一つの枠のなかに閉じ込めておくような、偏狭なものではないことを、教えておきたかった。社会のため、人間のために、主体的に行動し、貢献するなかに、仏法の実践もある。
29  青葉(29)
 山本伸一の人材育成の腕は、男子部、女子部だけでなく、若き俊英・学生部へと伸びていった。
 六月二十日、東京の日比谷公会堂で行われた第四回学生部総会に、伸一は勇んで出席した。
 この学生部総会は、前年の六月の第三回総会で、一年間の目標として掲げた「部員六千人」を、見事に達成しての集いであった。
 一年前、学生部員は二千八百人にすぎなかった。まさに、二倍以上の拡大である。比率から見れば、男子部、女子部に勝る、飛躍的な大発展といってよい。
 しかも、学生部は、この一年、新たに雑誌『第三文明』を発刊するなど、独自の運動を展開してきた。
 そして、三月の教学試験でも好成績を示し、たとえば、助教授合格者五百七十一人中、学生部が四十五人を占めていた。
 三月末の時点では、学会世帯百八十五万のうち、学生部員は、わずか四千六百余人にすぎなかった。その学生部が、約十三分の一にあたる助教授の合格者を出したことは、大健闘といわざるをえない。
 学生部総会の席上、学生部長の渡吾郎は、第五回総会までの一年間の目標として、「部員一万二千人」の達成を発表するとともに、全員が教学部員になることを呼びかけた。
 伸一は、学生部の盛んな意気と、目覚ましい成長に喜びを感じた。
 会長講演になると、彼は懇談的に話を進めた。
 「最近、本部にもたくさんの外国人がやって来ますが、私は語学もできないものですから、大変に困っております。
 そこで、アメリカ人が来た場合には、『私はドイツ語ばかり勉強したものですから、英語はわからないのです』と言おうかと思っています。しかし、そこにドイツ人がやって来たら、これは困ったことになる」
 爆笑が広がった。
 「昨日も、夜遅くまで、青年部長や学生部長たちと打ち合わせをしていましたが、皆、おなかが空いてきて、元気がなくなり、話が湿っぽくなってしまった。
 そこで、私は『もう少しユーモアのある、ウエットに富んだ話をしようじゃないか』と言いました。
 すると、すかさず、学生部の幹部から、『会長、″ウエット″というのは、英語で″湿った″ということです。会長は″機知″を意味する″ウイット″と、おっしゃりたいのではないでしょうか』と言われてしまいました」
 伸一には、虚栄も、虚飾もなかった。裸の人間として語りかけていった。
30  青葉(30)
 笑いに次ぐ笑いの渦を巻き起こしながら、山本伸一の話は続いた。
 「さて、諸君にお願いしておきたいことは、語学を磨き、世界にたくさんの友人をつくっていただきたいということであります。
 日蓮大聖人の仏法が、世界に流布されていくことは歴史の必然です。ですから海外にあっては、焦って、布教をする必要はありません。それよりも、世界に大勢の友人をつくり、皆さんが、人間同士の信頼を築いていくことです。
 今、学会は、弘教の大波を広げていますが、それはただ教勢の拡大のために行っているのではありません。どこまでも、人びとの幸福の実現であり、世界の平和のためです。
 平和といっても、人間と人間の心の結びつきを抜きにしては成り立ちません。
 皆さんが世界の人びとと、深い友情で結ばれ、そのなかで、友人の方が、皆さんの生き方に感心し、共感していくなら、自然と仏法への理解も深まっていくものです。
 この課題を担うのは、語学をしっかり学んでいる人でなければ難しいと思われますので、特に、学生部の皆さんにお願いしたいのです。世界の方は、一つよろしくお願いいたします。
 私は、この秋、ヨーロッパを回る予定でおります。しかし、語学は皆さんに任せて、私の方は、専ら日本語ですませようと思っています。
 もし、『なんだ会長は、日本語しかできないじゃないか』と言われましたら、『火星語ならできます』と答えるつもりです」
 また、笑いに包まれた。
 世界を友情で結べ──さりげない言葉ではあるが、そこには、仏法者の生き方の本義がある。
 仏法は、人間の善性を開発し、人への思いやりと同苦の心を育む。それゆえに仏法者の行くところには、友情の香しき花が咲くのである。そして、布教も、その友情の、自然な発露にほかならない。
 この総会に集った学生部員の多くは、口角を飛ばして宗教を論ずることのみが、仏法者の姿であると思っていた。もちろん、教えの正邪を決するうえでは、それも必要なことではあるが、一面にすぎない。
 伸一は、次代を担う若き俊英たちが、宗教のために人間があるかのように錯覚し、偏狭な考えに陥ることを心配していた。柔軟にして、大海のような広い心をもってこそ、まことの仏法者であるからだ。
 伸一は、学生部という若木を、おおらかに、すくすくと育てたかった。
31  青葉(31)
 北の大地は、新緑に彩られていた。
 札幌の街路には、花を散らしたライラックの青葉が風にそよぎ、夏の間近いことを感じさせた。
 六月二十五日、山本伸一は、札幌市の中島スポーツセンターで開催された、北海道の青年部総会に出席した。午前が女子部総会、午後からは男子部総会となっていた。
 会場に到着すると、女子部のはつらつとした笑顔が伸一を出迎えてくれた。しかし、彼の視線をとらえたのは、その中心者である北海道女子部の部長・嵐山春子のやつれた姿であった。
 彼は控室に入ると、嵐山に尋ねた。
 「体は大丈夫かい」
 「はい、大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ございません」
 彼女は、胸を張り、笑顔で答えたが、相当、体力が落ちているようであった。
 嵐山は胸を病んでいた。
 「今日の総会で、あなたは何を話すようになっているの?」
 「経過報告をするようになっています」
 「そうか……。無理をしないで、今日は代わりに、副部長に話をしてもらいなさい」
 嵐山は、残念そうな顔をしたが、伸一は隣にいた、北海道女子部の副部長である漆原芳子に言った。
 「急で申し訳ないが、今日は、あなたが代わりにやってください」
 それから、諭すように嵐山に語った。
 「あなたは、少しでも休むようにしなさい。今は、ともかく元気になることを考えるんだ。北海道のためにも、後輩のためにも、健康になって生き抜いてほしい。それが私の願いです」
 彼女は黙って頷いた。その目に涙が光った。
 伸一が、嵐山春子と最初に会ったのは、一九五五年(昭和三十年)三月の小樽問答の折であった。法論が大勝利に終わった翌日、彼女は伸一たちの宿舎に訪ねて来た。
 嵐山は、清楚ななかに、芯の強さを秘めた女性であった。すずやかな瞳には求道の輝きがあり、その小柄な体は、闘志でゴムマリのように弾んでいた。
 彼女は、一男三女の長女であった。嵐山が小学生の時に、父親は戦死していた。以来、母親の手で子供たちは育てられた。そのなかで、彼女は、子供のころから働きながら、小・中学校に通い、高校を卒業している。
 当時、彼女は、入会して一年に満たなかったが、銀行に勤めながら、留萌の女子部の中心として活躍していた。
32  青葉(32)
 小での初めての語らいの折、山本伸一は、嵐山春子に言った。
 「あなたの活躍は、皆から話を聞いて、よく知っています。
 私も全力で応援します。尊い青春を、法のため、友のため、自身のために、力の限り生き抜き、ともに、社会に幸福の花園を築いていきましょう」
 「はい! 頑張ります」
 彼女は、澄んだ声で、元気に答えた。その目には、決意の炎が燃えていた。
 嵐山は、この日から、それまでにも増して、北海の原野を駆け巡った。
 汽車に揺られ、雪をき分けて歩き、羽幌へ、増毛へと、友のために足を運んだ。猛り狂う吹雪も、雪を舞い上げる、身を切るような北風も、彼女はものともしなかった。
 ただ広布、ただ、ただ広布に青春をかけた。
 嵐山には、人への温かな思いやりがあった。彼女の勤める銀行の近くにある病院に、喘息で入院しているお年寄りがいた。家族が見舞いに来ることも、ほとんどない人であった。
 彼女は、その人と知り合いになると、毎日、病院を訪ね、励ましの言葉をかけた。そして、病室に花を飾り、チーズやバターなど、栄養価の高い食べ物を、そっと枕元に置いて帰って来るのである。
 ある日、お年寄りは、彼女の手を強く握り締め、涙で目を濡らして言った。
 「人様に、こんなに親切にしてもらったことはなかった……」
 その嵐山の体も、以前から、結核に侵されていたのである。咳込み、啖に苦しみ、微熱にさいなまれながらの毎日であった。
 しかし、彼女は、人と接する時には、そんなことは少しも感じさせなかった。
 いつも、笑顔で友を包み、一生懸命に仏法を語り、温かく励ましていったのである。
 やがて、彼女の広布の活動の舞台は札幌に移る。
 一九五六年(昭和三十一年)の八月、北海道に、札幌、函館、旭川、小の四支部が結成された。嵐山はこの時、札幌支部の女子部の中心者になった。二十一歳の若きリーダーの誕生である。
 このころ、彼女は、母親が始めた飲食店を手伝っていた。仕事と学会活動の問題では、相当、悩んでいたが、時間をやりくりしては活動に飛び出し、北の大地に広布の春風を巻き起こしていった。
 活動を終えて、疲れ切った体に鞭打つように、唱題に励み、毎日のように、同志に激励の手紙を書いた。
 皆、彼女を姉のように慕い、札幌の女子部は飛躍的に発展した。
33  青葉(33)
 山本伸一は、折々に、嵐山春子に、励ましの便りを送った。
 彼女は、決して、それを無にせず、一つ一つの活動に、必ず勝利の旗を打ち立てていった。
 一九五六年(昭和三十一年)十二月の第四回女子部総会で、嵐山は、代表として、北海道女子部の活動報告をした。
 雪深い北の大地での、乙女たちの活躍は、参加者に大きな感動と衝撃をもたらし、その波動は、全国に広がったのである。
 伸一が北海道に行くと、嵐山は体当たりするように指導を求めた。しかも、自分だけでなく、次々と、新しい人材を伸一に引き合わせた。
 皆の成長のために、自分は何をするかを、彼女は、いつも考え、行動していた。それがリーダーの姿勢である。
 五七年(同三十二年)に北海道の夕張で炭労問題が起こると、彼女は、同志への炭労の理不尽な仕打ちを許すまいと、決然と立ち上がった。額に汗を滲ませ、友の家々を駆け巡った。
 友のために、力の限り戦おうとする健気な彼女の姿は、さながら、ジャンヌ・ダルクを思わせた。
 その直後に、当時、青年部の室長であった伸一が、大阪府警に選挙違反の無実の罪で逮捕された、大阪事件が起こった。
 嵐山は、怒りと悔しさに打ち震えながら、同志に言った。
 「不幸な民衆の味方となって、幸せを祈り、わが身を削ってきた山本室長が、なぜ、逮捕されなければならないの! 学会を、そして、室長を苛める国家権力が、私は憎い!」
 彼女は祈った。
 ″御本尊様! 正義のために立った山本室長が、無実の罪で投獄されております。代われるものなら、私は牢にも入ります。しかし、今の私には、室長の健康と無事を祈ることしかできません。どうか、室長が一日も早く牢から出られますように……″
 来る日も、来る日も、涙ながらの唱題が続いた。
 そのなかで、室長の正義を、学会の正義を証明するには、広宣流布を進め、民衆の勝利の旗を翻すことだと、彼女は深く思った。
 ″私は戦う。断じて、すべての戦いに勝とう。勝利なくして、正義の証明はないのだもの……″
 烈風に燃え立つ炎のように、彼女の闘魂は激しく燃え上がった。
 彼女は、その思いを手紙に綴り、伸一に出した。
 伸一が出獄して、最初に手にしたのは、烈々たる意気と、健気な決意が文面に滲む、その嵐山からの誓いの手紙であった。
34  青葉(34)
 第二代会長戸田城聖が逝去し、その一カ月後の五月三日の本部総会で、山本伸一が「七つの鐘」の未来構想を発表した時も、嵐山春子は決然と立ち上がった。
 彼女は、同志に語った。
 「山本室長は、戸田先生の弟子として、いよいよ立たれた。今は、ただ悲しんでいる時ではないわ。私たちも頑張りましょう」
 伸一は、この本部総会の翌日、ともに新出発を誓う彼女に、色紙に励ましの言葉を認めて贈っている。
  明日を生きぬき
      世紀を築く
    北海の白華と
      咲きゆけ
 彼女は、その言葉を胸に刻み、六月の二十二日に予定されていた、第一回北海道女子部総会の大成功を目指して、全力で取り組んでいった。
 「北海道女子部は、今こそ立ち上がりましょう!」
 嵐山の叫びは、北の大地にこだました。
 彼女は、なんと、この総会までに、北海道女子部が掲げた一年間の布教の目標を達成することを決意したのである。また、総会を目指して鼓笛隊の結成を提案し、自ら責任をもって、その育成にあたった。
 そして、総会当日には、部員三千五百人を達成し、鼓笛隊の見事な演奏をもって、伸一を迎えた。
 気分の高揚から、その場限りの決意を語る人もいる。しかし、それは空しい言葉の遊びにすぎない。
 嵐山の言葉には、決定した誓いの一念があった。そして、すべてに実証をもって応えた。そこにこそ、人間の真実がある。
 しかし、このころから、彼女の病状は悪化の一途をたどり、体のやつれが目立つようになっていった。
 後にわかったことであるが、既に、安静を要する容体であったようだ。しかし、彼女も、それを決して口にしなかった。
 微熱が続き、朝、起きると、布団は寝汗に濡れていた。咳はますます激しくなり、一束のチリ紙も、すぐになくなってしまうほど啖も出た。
 伸一は、嵐山と会うたびに、心配して言った。
 「会合に出席しなくてもよいから、休むようにしなさい。無理をせず、体をいたわることです」
 それでも、彼女は女子部員に頼まれれば、どこまでも出向いていった。
 みんなのための幹部である──こう決めていた彼女は、自分を待っている友がいると思うと、じっとしてはいられなかった。
 零下十数度の旭川へ、あるいは釧路へ、函館へ、肩で息をしながら、激励に歩いた。
35  青葉(35)
 山本伸一は、嵐山春子の様子を耳にするたびに、心を痛めた。
 ″彼女を休ませなければ大変なことになる″
 伸一は、北海道に行った折、嵐山に語った。
 「あなたは、しばらくの間、活動はやめて、ゆっくり療養しなさい。病魔と闘うということを、甘く考えてはいけない。仏法は道理なのです」
 すると、嵐山は、哀願するように言った。
 「活動させてください。お願いいたします……」
 彼女は不惜身命の心で、広布にいっさいを捧げるつもりでいたのである。
 「いけません。それは、あなたのわがままです!」
 厳しい口調であった。
 伸一は、嵐山の健気な心を、十二分に知り尽くしていた。彼も、同じ病に苦しみ、同じ思いで、青春時代を過ごしてきたのだ。
 彼は、嵐山を、絶対に死なせたくはなかった。
 それから伸一は、穏やかな声で、諭すように語っていった。
 「あなたの気持ちは、私が、よく知っています。しかし、あなたは、ご家族にとっても、学会にとっても、掛け替えのない大切な人なのだから、断じて健康にならなければいけない。生きて、生きて、生き抜くのです。
 そのための休養であり、新しい未来への出発のために休むのです。それは、決して後退ではない……」
 伸一を見つめる嵐山の目に、大粒の涙があふれた。
 「はい。わかりました」
 伸一にとっても、辛い指導であった。
 一九五九年(昭和三十四年)十一月の第七回女子部総会で、嵐山は役職から外れた。
 その直前、伸一は、彼女に励ましの手紙を送った。
 「……広宣流布の旅は、遠く、長い長い道程です。急ぐ必要はありません。
 若いあなた方は、これからの学会を、社会を、日本を担っていく人たちです。それゆえに、今こそ、自分の体を根本的に立て直す時です。
 無理をして、病を重くするより、堂々と闘病生活に入り、また、一つ立派な体験をつくることです。
 戸田先生の子供として、法戦を成し遂げるために、病魔と死魔とを打ち破り、元気な生命になられんことを祈ってやみません」
 伸一は、彼女が健康を回復し、再び、元気に組織の第一線に復帰することを真剣に念じて、題目を送り続けた。
 休養は、嵐山に新たな活力をもたらした。
 彼女は、次第に、健康を回復していった。
36  青葉(36)
 山本伸一が第三代会長に就任すると、嵐山春子の祈りに一段と力がこもった。
 彼女は、自分も一日も早く、病を克服し、広布の庭を駆け巡りたいとの思いでいっぱいであった。
 その願いが通じたのか、この年の秋には、彼女は組織の第一線に復帰することができた。そして、十一月の第八回女子部総会で、晴れて北海道女子部の部長に就任したのである。
 彼女の北海道女子部の未来構想は、大きく広がっていった。
 嵐山の家で、副部長の漆原芳子とともに、北海道の地図を広げて、夜を徹して構想を語り合ったこともあった。
 マッチの軸を使って、小さな日の丸の旗を幾つも作り、「ここにも、女子部の組織を作りましょう」と言いながら、地図の上に旗を立てた。旗は瞬く間に、四十本、五十本と立った。
 嵐山は、瞳を輝かせて言った。
 「必ず、力を合わせて、この構想を実現しましょうね。山本先生が期待を寄せてくださる、私たち北海道女子部が、全国に模範を示さなければ……」
 嵐山は燃えた。
 若駒のように北国の山河を走った。
 そして、活動の最大の焦点として、力を注いできたのが、この一九六一年(昭和三十六年)六月二十五日の、第二回となる北海道女子部総会であった。
 北海道の女子部の陣容は急速に拡大し、この総会の時点で、部員数は約八千五百に達した。三年前の部員数は三千五百余りであることを思えば、飛躍的な大発展である。
 しかも、総会には、七千余の女子部員が参加している。なんと八割を優に超える同志が、この日、一堂に集ったのである。
 嵐山の決意通りに、北海道女子部は、全国に見事な模範を示したのであった。しかし、その嵐山の体に、再び病魔は猛威を奮って、襲いかかったのである。
 総会は、大成功のうちに幕を閉じた。
 伸一は、嵐山の登壇をやめさせたが、彼女の心の内を思うと、身を切られるように辛かった。
 今回だけは、話をさせるべきではなかったかという、後悔もあった。だが、めっきりせ、服もだぶつき、喘ぐように息をしている嵐山に話をさせることなど、とてもできなかった。
 女子部総会に引き続き、午後一時から行われた、北海道男子部総会も、大勝利の集いとなった。
 更に、伸一は、夜には、東札幌と西札幌の二支部合同の結成大会に出席し、ここでも、全力で指導にあたった。
37  青葉(37)
 山本伸一は、会合が終了した後も、嵐山春子と、彼女の今後の問題について話し合いを重ねた。
 東京に戻る飛行機のなかでも、伸一は、彼女のことが気になって仕方なかった。
 ″彼女は、自分の命は、もう長くはないと感じているに違いない。そして、限りある命を鮮やかに燃え上がらせ、この世の使命を果たそうと考えているのであろう……″
 伸一は、胸が締めつけられる思いがした。
 ″生きてほしい。絶対に死なせてはならない……″
 しかし、この北海道での嵐山との語らいが、伸一にとって、彼女との最後の対面となるのである。
 六月二十七日夜、東京の台東体育館で、六月度本部幹部会が行われた。
 幹部会が始まり、理事の山際洋が登壇した。
 六月度の活動の成果の発表である。皆、固唾をのんで、耳をそばだてた。
 「六月度の本尊流布は、三万七千五百五十六世帯でございます。
 五月末の学会総世帯が百九十六万五千世帯でしたので、今月をもちまして、二百万世帯を見事に達成いたしました!
 おめでとうございます。また、大変にありがとうございました」
 大歓声があがり、会場を揺るがさんばかりの拍手がわき起こり、しばし鳴りやまなかった。
 二百万世帯の達成は、この年の一年間の目標であった。それをわずか半年で達成してしまったのだ。
 ここにまた一つ、広宣流布の未曾有の金字塔が打ち立てられたのである。
 地位や財力、権力を使っての勧誘ではない。無名の民衆が、人びとの幸福と平和を願い、誠実と情熱をもって、それぞれの立場で仏法を語り説くという、地道な活動の積み重ねによって成就されたものである。
 それは、伸一と心を同じくした、同志の発心がもたらした壮挙であった。
 そして、各地でその推進力となったのが青年部であった。青年部の手による布教は、実に、毎月の入会者の三、四割を占めていた。
 今、新しき広布の建設もまた、青年が原動力となっていくことが、証明されたのである。それは、永遠に変わらざる広布の方程式といえよう。
 伸一は、創価の大樹に、青年という瑞々しい青葉が茂り、初夏の風にそよぐのを感じた。
 青葉が、熱の太陽や雨から人びとを守り、安らぎをもたらすように、創価の青年たちもまた、民衆を守る壮大な屋根となっていった。
38  青葉(38)
 この本部幹部会では、下半期の活動の大綱が発表された。
 それによると、下半期は、最前線の組織である組単位の座談会の充実を、活動の基本として、進んでいくことになった。
 そして、下半期に各方面ごとに開催が予定されていた、青年部の体育大会は中止とし、青年部が率先して、この座談会に取り組むことが打ち出された。
 組座談会の充実は、二百万世帯の達成が目前に迫ったころから、伸一が強調してきたことであった。
 布教の目的は、ただ会員を増やすことにあるのではない。皆が幸福になっていくことにある。
 そのためには、拡大がなされれば、なされるほど、会員一人一人に光を当て、皆が仏法への理解を深め、喜び勇んで信心に励めるように、きめ細かな指導と激励を重ねていくことが大切になる。
 その人間の交流の場となるのが座談会であり、なかでも、組織の最小単位である組で行う座談会は、忌憚のない人間の語らいのオアシスとなる。
 当時の組は、平均十数世帯で構成されており、いわば、一人一人との膝詰めの語らいが可能な、組織の単位といえた。
 そこには、小人数であるだけに、質問があれば気兼ねなく尋ねることのできる雰囲気もある。また、小回りも利き、形式にとらわれることなく、新入会の友に合わせながら、話を進めることもできる。
 そして、そこに歓喜の輪が広がり、信仰への強い確信がみなぎっていく時、たくましい″草の根″のような、強固な創価の基盤がつくられていく。
 この組座談会を成功させるには、中心となる幹部はもとより、核となって、皆を触発することのできる同志の存在が大切になる。
 男女青年部が、組座談会に本格的に取り組むことになった最大の理由も、そこにある。
 伸一は、このところ、急速に力を増してきた青年たちの、座談会での活躍に、限りない期待を寄せていた。彼らの手で、脈動する広宣流布の息吹を、第一線組織の隅々にまで、送ってほしかったのである。
 はつらつとした若人の姿には希望があり、その一途な情熱の言葉は、人びとの勇気を呼び覚ます。
 青年が、青年部のなかだけでしか、力を発揮できないならば、本当の時代建設の原動力とはなりえない。
 青年部での薫陶は、世代を超えて、各部のメンバーを牽引していく力となってこそ意味をもつ。青年は、人びとを希望の未来へと導く、先駆けの光である。
39  青葉(39)
 本部幹部会は、最後に山本伸一の話となった。
 彼は、参加者に向かって深く礼をすると、力強く語り始めた。
 「本年の目標である二百万世帯が、悠々と半年間で突破できましたことを、まず、皆様方と一緒に喜び合いたいと思います。大変にご苦労様でございました」
 参加者は、大拍手をもって、ともどもに二百万世帯達成の快挙を祝った。
 「しかし、私は御礼申し上げることはできても、皆様に何も差し上げるものはございません。
 どうか、御本尊様から、それぞれ、たくさんの大功徳を頂戴していただきたいと思います」
 朗らかな笑いが、会場に広がった。
 参加者の誰もが、戦い抜いた歓喜を実感していた。
 伸一は、話を続けた。
 「学会が大きくなれば、なかには、うまく学会を利用しようという、悪い考えをもって、入会する人も出てくるかもしれません。
 しかし、どこまでも創価学会は、信心を根本に、純粋に、日蓮大聖人の御精神を精神として進んでいく団体であります。断じて、そうした行為を許してはならないし、撹乱されてはならない。
 したがって、幹部の皆様は、もし、学会を利用しようという不純な動きがあったならば、毅然たる態度で信心指導に臨むとともに、全同志に、清純なる信仰を伝え抜いていただきたいのであります。
 仮に、それによって、二百万世帯の同志が、百万になったとしても、清き信心によって結ばれた同志の団結は、十倍、二十倍の発展をもたらす力となります。
 私どもは、学会の、この清らかな信仰の純粋性を、永遠に守り抜いてまいろうではありませんか。
 では、また、七月度の本部幹部会に、元気はつらつとした姿で、集い合いましょう」
 二百万世帯の峰を越えた学会は、勇躍、三百万世帯達成の新たな峰へ、前進を開始したのである。
 首脳幹部の多くは、二百万世帯達成の喜びに酔っていた。しかし、伸一は、拡大にともなう、あらゆる問題点を、ただ一人、冷静に見すえていた。会長である彼の双肩にかかる社会的な責任も、ますます重さを増しつつあった。
 広宣流布の道は、間断なき闘争である。巧妙な弾圧の策謀も、撹乱もあるに違いない。その道を踏破できるのは、怒涛も、嵐も恐れぬ真正の勇者である。
 伸一は、この二百万世帯の同志を、一人も落とすことなく、いかに幸福の彼岸に運ぶかを考えると、強い緊張を覚えるのであった。

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