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日蓮大聖人・池田大作

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第4巻 「凱旋」 凱旋

小説「新・人間革命」

前後
1  凱旋(1)
 会長就任一周年となる五月三日を前にして、山本伸一の動きは、ますます激しさを増した。
 広宣流布の伸展とは、幸福の輪の広がりである。そして、その幸福とは、人間の胸中に、何ものにも崩されない、生命の宝塔を打ち立てることである。
 そのために、伸一は、一人でも多くの同志と会い、励まし、指導することを、常に自身の最大の責務としていた。
 戸田城聖の四回忌法要が行われた翌日の四月三日、彼は上越方面の指導に出発した。
 この日は、高崎支部の結成大会に出席することになっていたのである。
 午後、高崎駅に着いた伸一は、同行の幹部と、高崎支部の支部婦人部長になった柳井信子の家を訪ねた。
 彼女の夫の柳井光次は、鋳物工場を営んでいたが、十カ月前に交通事故で他界していた。
 伸一は、その夫の追善の勤行をするために、柳井の家を訪問したのである。
 伸一は、前年の一九六〇年(昭和三十五年)三月、一般講義と班長・班担当員会のために高崎を訪問している。その折、柳井光次をはじめ、地元の代表と懇談したことが、懐かしく思い出された。
 この席で、伸一は、柳井夫妻に三人の息子と一人の娘がいることを聞くと、光次に尋ねた。
 「その子供さんを、どのように育てようと、思っているのですか」
 「はい。長男は医大にいっておりますので医者に、次男には家業を継がせ、三男は学者にと考えております。娘は、幸せな結婚をしてくれればと思います」
 伸一は、笑いを浮かべながら言った。
 「実に、人間的な答えです。たいてい私がこう尋ねると、『広宣流布の人材に育てます』という答えが返ってくるんです。柳井さんは正直ですね」
 光次に対する、高崎の同志の信頼は厚かった。
 伸一に、ぜひ高崎に来てほしいと要請してきたのも彼であった。
 その三カ月後に、光次は他界した。今、鋳物工場は妻の信子が夫に代わって切り盛りしている。
 伸一は、柳井の家で、追善の勤行をした後、信子に語った。
 「仕事をかかえ、そのうえ支部婦人部長の活動をしていくのは大変でしょう。
 しかし、中心者が大変ななかで頑張っているからこそ、皆も共感し、指導にも説得力が出てくる。また、その懸命に生きる姿が、同志に勇気を与え、希望を与えていくのです。
 今が自身の人間革命の正念場なのです」
2  凱旋(2)
 柳井信子は、夫の亡き後、仕事と家事と学会活動に、懸命に力を注いできたのであろう。しかし、そのためか、服装や身だしなみは、幾分、無頓着になっているようでもあった。
 山本伸一は、柳井に諭すように言った。
 「ご主人に代わって、やらなければならないこともあり、忙しいかもしれませんが、婦人として、身だしなみに気を使うことも大切です。
 なりふりかまわず頑張っている姿に、人は″大変なんだな″とは思うでしょうが、″自分もあの人のようになりたい″とは思わないものです。
 贅沢をして、着飾る必要はありませんが、心だけでなく、姿も輝かせていく工夫を忘れないようにしてください。
 子供さんにしても、母親がいつも若々しく、きれいでいることは嬉しいものですし、ますます誇りに思うようになります。
 周囲の誰からも、あれだけ大変な立場にいるのに、″さわやかでセンスもいいな″と思われる人になることです」
 彼女が全く気づかなかったことといってよい。柳井は、伸一のこまやかな配慮に、心温まる思いがした。
 伸一たちは、それから車で、結成大会の会場に向かった。
 車から降りると、元気な青年たちの笑顔に取り巻かれた。そのなかに、見覚えのある、何人かのメンバーがいた。
 伸一が一年前に高崎を訪問した折、若き中堅幹部として、会場の整理役員をしていた男子部員である。
 彼は、その時、わずかな時間であったが、会場の前で、役員の青年たちと語り合った。
 メンバーは二十人ほどいたが、背広を着ている人は数人にすぎなかった。たいていはジャンパー姿で、背広を着ていても、はズックという人もいた。
 仕事も、小さな町工場に勤めている人が多く、皆、生活はかなり苦しそうであった。
 しかし、彼らは、広宣流布の使命を自覚し、法のため、人のため、社会のために戦う誇りに燃え、生き生きとしていた。
 伸一は、その健気な姿に心を打たれた。
 「かつて、私は貧しいうえに病弱で、人生とは何かに、思い悩んでいました。しかし、信心に目覚めることによって、すべてを乗り越えて来ました。
 皆さんの未来にも、必ずや無限の栄光が待っています。どこまでも信心をやり抜き、悠々と苦労を乗り越え、職場の第一人者として胸張ることのできる、信頼の青年になってください」
3  凱旋(3)
 青年たちは、山本伸一の励ましの言葉に、真剣に耳を傾けていた。
 「青年にとって大事なことは、どういう立場、どういう境遇にあろうが、自らを卑下しないことです。
 何があっても、楽しみながら、自身の無限の可能性を開いていくのが信心だからです。
 もし、自分なんかだめなんだと思えば、その瞬間から、自身の可能性を、自ら摘み取ってしまうことになる。未来をどう開くかの鍵は、すべて、現在のわが一念にある。今、張り合いを持って、生きているかどうかです。
 今日は、皆さんの新しい出発のために、私が青春時代に、未来への決意を込めてつくった詩を、贈りたいと思う」
 伸一は、こう言うと、自作の詩を披露した。
 希望に燃えて  怒涛に向い
 たとい貧しき  身なりとも
 人が笑おが   あざけよが
 じっとこらえて 今に見ろ
 まずは働け   若さの限り
 なかには    侮る者もあろ
 されどニッコリ 心は燃えて
 強く正しく   わが途進め
 苦難の道を   悠々と
 明るく微笑み  大空仰ぎゃ
 見ゆる未来の  希望峰
 ぼくは進むぞ  また今日も
 伸一は、青年たちに視線を注ぎながら言った。
 「つたない詩ですが、若き日の私の心です。皆さんも、同じ思いで、どんなに辛いこと、苦しいことがあっても、決して負けずに、大指導者になるために、堂々と生き抜いてください。
 皆さんの青年時代の勝利を、私は、心から祈り念じています」
 こうして励ました青年たちが、この日の高崎支部の結成大会に、一段と成長した姿で、伸一の前に集って来たのである。
 青年の成長こそ、伸一の最大の希望であり、最高の喜びであった。
 伸一は、この日の支部結成大会では、学会についての批判の大多数は、無認識から起こっており、粘り強く、学会の真実を、勇敢に訴え抜いていくことが肝要であることを語った。
4  凱旋(4)
 山本伸一は、高崎支部結成大会を終えると、翌四日、新潟県の長岡に向かい、午後二時からの、長岡支部の結成大会に臨んだ。
 上越指導が終わると、六日には、総本山に行き、虫払い大法会、大坊の起工式に参列し、八日には、立川・北多摩の二支部合同結成大会に出席した。
 そして、十二日に、大阪の関西本部で御書講義を行い、翌十三日からは、中部に入った。ここでは、十四日には、岡崎支部の結成大会に、十五日には、愛知・熱田の二支部合同結成大会に出席したのである。
 その間にも、行く先々で個人指導に力を注いだ。
 この中部では三重や岐阜にも足を運び、たとえば、岐阜では、支部長の沢井昇の家を訪ねた。
 沢井は数年前に、不況の波をかぶり、経営していた会社が倒産したが、それを見事に乗り越え、前年に岐阜支部長になった、求道心の旺盛な壮年であった。
 岐阜は、ともすれば大都市の名古屋の陰になり、組織的には、光の当たることが少ない地域といえた。東京の幹部も、名古屋まではよく来るが、岐阜まで来ることはあまりなかった。
 だからこそ、伸一は、岐阜で支部旗を掲げ、広宣流布の指揮をとる″民衆の闘将″を励ましたかった。
 奥まった路地の一角にある質素な家が、沢井の自宅であり、そこが支部の拠点にもなっていた。
 玄関には、一台のスクーターが止めてあった。これが彼の大事な″足″なのであろう。友の激励のために、渓谷の道や険阻な山道を、このスクーターで走ってきたにちがいない。
 伸一の姿を見ると、沢井は恐縮して言った。
 「わざわざ、こんな所までおいでいただいて、本当に申し訳ございません」
 「もし、私に時間があるなら、全同志のご家庭を回りたいと思っています。しかし、残念ながら、それはできない。
 ですから、組織の責任を持つ幹部の皆さんに、代わりに激励をお願いする以外にないのです。
 その意味から、今日は、せめてもの御礼に、お伺いしたのです」
 それは、伸一の率直な思いであった。自分が一人で全責任を担おうとすれば、協力してくれる人がいることのありがたさが、身に染みてわかるものだ。
 そうなれば、決して人に対して傲慢にはなれないはずである。
 もし、周囲の人が、自分を支えて当然のように思っているリーダーがいるとするなら、それは、裏返せば、自分がいっさいの責任を担おうとしていないからであると言ってよい。
5  凱旋(5)
 山本伸一は沢井昇に、家庭指導、個人指導の大切さを語っていった。
 「人を育てるには、一人一人に焦点を合わせた激励と指導が大事になります。たとえば、草木にしても、太陽さえ輝いていれば、すべての草木が育つとは限らない。
 日陰になって、光をられている木もあれば、害虫に侵されていることもあるかもしれない。あるいは、養分が不足している場合もある。
 そうした一つ一つの事態に的確に対処し、手入れを重ねてこそ、草木は育つものです。
 信心の世界も同じです。活動の打ち出しや、会合での全体的な指導を、太陽の光とするならば、一本一本の草木に適した手入れをすることが、家庭指導、個人指導といえます。
 その地道な活動がなければ、どんなに組織が発展しているように見えても、人材は育ちません。そして、組織も、やがては行き詰まるものです。
 これからも、支部長として、″岐阜支部の同志を、一人たりとも落としてなるものか″との気持ちで、着実に、信心指導の手を差し伸べていってください」
 伸一は、こう言うと沢井と固い握手を交わした。
 更に、そこに集まっていた同志と懇談した。
 中部の指導を終えた伸一は、四月十八日には東京・神田の共立講堂で行われた第三回学生部弁論大会に出席し、翌十九日には埼玉県の熊谷に飛んだ。熊谷支部の結成大会のためである。
 伸一は、電車が大宮に近づくと、かつて、戸田城聖と二人で、大宮方面にやって来た日のことが、懐かしく蘇った。
 それは、一九五〇年(昭和二十五年)の秋霜のころであった。
 行き詰まった戸田の事業の打開の糸口を求めて、ある人を訪ねたが、不調に終わった。希望をつないだ活路が、断たれてしまったのである。
 当時、戸田は、生きるか死ぬかという窮地に立たされていたといってよい。
 戸田の会社では、給料の遅配が続き、社員も一人去り、二人去りして、ほんの一握りの社員しかいなくなってしまっていた。戸田を守り抜こうと決めた伸一の体も、ますます悪くなっていた時である。
 帰途、戸田と二人で川の流れに沿って歩いた。空には星が冷たく瞬いていた。
 夜空は美しかった。しかし、寒さが身に染みた。それは、世間の冷たさでもあった。
 戸田も、伸一も、黙って川沿いの道を歩き続けた。
6  凱旋(6)
 戸田城聖は泰然としていた。いつもと、なんら変わるところはなかった。
 しかし、山本伸一は申し訳なさに胸を痛めていた。いかに戸田自身の事業のこととはいえ、師匠を奔走させ、人に頭を下げさせねばならないことが、たまらなく悔しく、辛かった。
 彼は、力及ばず、師を守り抜くことができぬ自分が腑甲斐なかった。
 その伸一も、あまりにも疲れ果てていた。
 伸一は、歩くうちに、が脱げそうになった。
 見ると、の紐がほどけていた。
 そのも、既に磨り減って、穴が開いていた。
 伸一は、かがんで紐を結び直しながら、何気なく、当時、流行していた「星の流れに……こんな女に誰がした」という歌をもじって、「こんな男に誰がした」と口ずさんだ。
 その時、戸田が振り返った。彼の眼鏡がキラリと光った。
 「俺だよ!」
 こう言って、戸田は屈託なく笑った。
 明日をも知れぬ苦境のさなかにありながら、悠然と笑い、″責任は俺だよ″と言う戸田の、大確信にあふれた率直な言葉に、伸一は熱いものを感じた。
 彼は思った。
 ″師の確信は、いつでも真実を語る。されば弟子も真実で応えねばならない″
 それは苦闘の時代ではあったが、師弟の一日一日は黄金の輝きに満ちていた。
 以来、十年余の歳月が流れた。
 伸一は、熊谷支部の結成大会では、その体験を思い起こしながら、人生の勝負は、一瞬ではなく、十年、二十年、あるいは、一生という流れのなかで明確になるものであることを述べるとともに、生命力の大切さを語った。
 「人生には、山もあれば谷もある。そして、同じ道であっても、強い生命力がある人は、悠々と歩いていけるものです。
 ある時は桜の花を見て、また、途中でオニギリを食べ、坂道も楽しみながら、朗らかに進んでいくことができる。
 しかし、生命力が弱ければ、疲れ切って、周りの風景も目に入らず、苦しみしか感じることができない。
 私たちは、この世界に、楽しむために生まれてきました。それには生命力が必要であり、その源泉が唱題です。
 ゆえに、皆さんは、唱題を根本に、人がどう見ようが、どう言おうが、自分自身はこう生き抜くのだと決めて、堂々と信心に励んでいってください。その人が幸福者なのです。
 そして、″ああ、楽しいな″といえる人生を、また、支部を築いていっていただきたいのであります」
7  凱旋(7)
 山本伸一は、熊谷に引き続いて、翌二十日は、群馬県桐生市の寺院の落慶入仏式と、桐生支部の支部結成大会に出席した。
 桐生は、戸田城聖が一九四六年(昭和二十一年)九月、戦後の初の地方指導で訪問した地でもある。
 この時、戦争で疎開した牧口時代の会員たちが、近在の正宗寺院の信徒にも声を掛け、戸田を迎えて座談会が開かれたのである。
 しかし、信徒といっても、勤行のできる人は、ほとんどいなかった。また、昔からの信徒であることを鼻にかけている者もあり、純粋な求道の息吹を感じることはなかった。
 戸田は、同行のメンバーに漏らした。
 「ここの信心は濁っているな。すっきりさせなければ、いずれ大変なことになるだろう」
 この座談会で、信徒の一人である、時計店を営む宮田弥次郎が、戸田に指導を求めた。
 宮田は、脊椎カリエスで悩んでいた。病院を転々としてきたが、よくならないと言うのである。
 戸田は、宿命の転換のためには、折伏が大切であることを語り、広宣流布に生きる決意を促した。
 更に、戸田は、座談会の最後に皆に言った。
 「広宣流布は、戸田がやる。誰にも渡さん。みんなしっかりついて来なさい」
 宮田は、戸田の指導を受けて、目から鱗が落ちるような思いがした。古くからの日蓮正宗の信徒であったが、肝心の折伏をしたことはなかった。
 彼は、折伏に励む決意を固めた。
 そして、群馬県の大胡町と、栃木県の豊田村(現在は小山市内)にある、二つの日蓮正宗寺院の信徒と、学会員で構成した「正法会」という組織の会長となって、活動を開始した。
 戸田は、その後も、しばしば桐生に足を運び、指導に当たった。
 「正法会」については、戸田は何も言わなかった。ただ、こう語っていた。
 「諸君たちは『広宣流布は私がやります』と言えますか? 言えないだろう。はっきり言おう。これは私しかできないことなのだ。
 やがて、この戸田が本格的に立ち上がる時には、一緒に広宣流布をやろうじゃないか」
 桐生での折伏は進み、五年後の五一年(同二十六年)ごろには、三百世帯ほどになっていた。
 宮田の家に、学会本部から、五月三日に戸田城聖の第二代会長の就任式が行われることを伝える葉書が届いたのは、その年の三月下旬ごろのことであった。
8  凱旋(8)
 その葉書には、こう記されていた。
 「いよいよ、戸田先生が学会の会長として立たれることになったのです。桐生の皆様も、この時をどれほど待ち焦がれていたことでしょう。新しい出発の決意を固めて、戸田先生のもとに馳せ参じてください」
 宮田弥次郎は、「正法会」の幹部の打ち合わせの席で、この葉書を皆に見せた。
 「こう言って来ているんだが、どう思うかね」
 すると、一人が答えた。
 「同じ御本尊を拝んで、同じように折伏している。我々は、我々で頑張ればよいのではないかね」
 誰も、戸田の会長就任式に参加しようというものはいなかった。
 戸田は、桐生からの便りを待っていたが、なんの音沙汰もなかった。
 彼は、学会本部で幹部たちに言った。
 「今、この戸田とともに旗揚げすることができなければ、一生、後悔することになる。もう一度、連絡をとってあげなさい」
 桐生には、二度、三度と便りが出された。それでも返事はなかった。
 五月三日、戸田の会長就任式を迎えたが、遂に「正法会」からは、誰も参加せずに終わった。しかし、これを契機に、学会員として決意も新たに活動を開始した牧口門下もいた。
 宮田は、戸田に反発しているという気持ちはなかった。それなりに尊敬も、感謝もしていたが、広宣流布の使命を自覚した戸田の獄中の境涯も、仏意仏勅による創価学会の組織の意味もわからなかった。
 つまり、まことの「信心の血脈」がわからなかったのである。
 そして、「正法会」が発展したこともあり、自分たちも学会と同じことができるのだから、学会に入り、戸田に指導を仰ぐ必要などないという思い上がりが生じていった。
 だが、やがて「正法会」には、ほころびが出始めていった。
 仲違いである。二つの正宗の寺院の信徒がいることもあり、いつの間にか派閥がつくられ、それが感情的な対立にまで発展していった。
 会合を開いた時は一緒でも、終われば互いに悪口を言い、陰で足を引っ張り合うようになっていた。
 「正法会」の雰囲気は、暗く、重苦しいものになっていった。功徳の体験も聞かなくなった。
 宮田は焦り始めた。
 ″何かが違う。どこかがおかしい……″
 彼は神経を磨り減らし、体調も崩してしまった。
9  凱旋(9)
 そのころ、「正法会」の青年部長で、呉服の販売をしていた寺田道夫という青年が、出張先の仙台で、学会の仙台支部の総会があることを聞いて参加した。
 一九五四年(昭和二十九年)の四月のことである。
 寺田は会合の迫力、明るさに圧倒された。
 そして、何よりも、仏法の法理に透徹し、大確信にあふれた戸田城聖の指導に感動した。
 ″学会はすごい! 「正法会」とはまるで違う。これが本当の大聖人の仏法の世界だ。信心をするなら、戸田先生の指導を受けなければだめだ″
 彼は桐生に帰ると、「正法会」の会長である宮田弥次郎の家を訪ね、その様子と自分の考えを話した。
 「君もそう思うか……。実は、最近、私もそう考えていたのだよ。
 今になってみて、戸田先生の言われていたことの意味が、ようやくわかりかけてきた気がする。
 やはり広宣流布は、戸田先生にしかできないことなのだろう。決して、私が考えていたような、甘いものではなかった」
 そう語る宮田の顔には、深い苦悩が滲んでいた。
 彼は、取り返しのつかない失敗をしてしまったことに、気づき始めていたのである。
 二人は語り合い、学会に入会させてもらおうということになった。
 このころになると、桐生にも、次第に学会員が増大しつつあった。
 戸田の会長就任後、七十五万世帯の達成に向かって、全国に折伏の波は広がっていたのである。
 しかし、宮田は「正法会」の会長であるだけに、彼個人の問題ではすまない。
 彼は悩んだ。しばらくは悶々とする日が続いた。
 だが、このままでは、会のメンバーに本当の信心を教え、幸せにすることはできないというのが、宮田の結論であった。
 この年の夏、宮田は自宅に、百人ほどの「正法会」のメンバーを集め、自分の決断を伝えた。
 「私は学会について行こうと思う。本当の信心はそれしかないからです。私とともに行動しようという人は、ついて来てほしい」
 宮田たちが、学会に入ろうとしていることを知った「正法会」の副会長らは、寺の住職らと話し合い、新たな会の結成に着手し、メンバーが学会に行くのを、躍起になって阻止しようとした。宮田たちは″裏切り者″とされた。
 しかし、宮田は、学会に入会し、最終的には、百人余りが学会員となったのである。
10  凱旋(10)
 宮田弥次郎は一学会員として、地道に信心に励み始めた。
 彼は″学会に信心のイロハから教えてもらうのだ″と決意していた。
 学会に入会し、登山した折、宮田は総本山の参道で戸田城聖と出会った。
 宮田は、再三、知らせを受けた戸田の会長就任式にも出席しなかったことを思うと、戸田に合わせる顔がなかった。
 申し訳なさに、うなだれるように頭を下げた。
 戸田は、そんな宮田を、一言も責めようとはしなかった。
 「宮田君、苦労したな……。君のことは、この戸田がよくわかっている」
 こう言うと、戸田は、宮田の肩に手を伸ばし、彼を抱きかかえた。
 「先生……」
 宮田は男泣きした。戸田の腕は、このうえなく温かく感じられた。
 以来、彼は、黙々と信心に励んだ。
 学会を深く知るにつれ、彼は、日々、その不思議さを実感していった。
 そして、戦時中、宗門が軍部政府の弾圧を恐れ、謗法にまみれていくなかで、正法正義を守り、初代会長牧口常三郎が殉教していったことの重さを、ひしひしと感じるのであった。
 また、その弟子の戸田が獄中にあって、法華経を身読し、地涌の菩薩の使命を悟り、ただ一人、広宣流布に立ち上がったことの偉大さに、深い感動を覚えた。
 宮田は、創価学会こそ日蓮大聖人の「信心の血脈」を受け継ぐ、唯一の仏意仏勅の教団であることを命で感じていった。
 更に、戸田の獄中の悟達に発する、不惜身命の実践と大確信が、学会の精神の機軸となっているからこそ、金剛不壊の団結があることに気づいた。また、その戸田がいてこそ、初めて広宣流布が成し遂げられることを確信したのである。
 後の話になるが、宗門による、学会への理不尽な攻撃が続いた一九七八、九年(昭和五十三、四年)ごろ、宮田は、真実がわからず、心が揺れる人びとの家を訪ねては、懸命に学会の正義を訴え抜いた。
 彼には、かつて、自分が犯してしまった過ちを、絶対に、同志たちに繰り返させてはならないという、人一倍、強い思いがあったに違いない。
 ともあれ、こうしたいきさつから、桐生は、草創期にあって、戸田が指導に力を注いだ地であったにもかかわらず、広宣流布は紆余曲折をたどらなければならなかったのである。
11  凱旋(11)
 桐生に大発展の兆しが見え始めたのは、一九五五年(昭和三十年)ごろからであった。そして、遂に、この日の桐生支部の誕生となったのである。
 支部の結成大会は、二十日午後五時半から、桐生市内の産業文化会館で開催されることになっていた。
 山本伸一は、午後一時から、市内に新たに建立した無量寺の落慶入仏式に参列した後、引き続き支部結成大会に出席した。
 彼は、桐生の過去の経緯をよく知っていた。会場に向かう途中、地元の幹部に言った。
 「桐生の新時代だね。新生の歴史をつくるために、仲良く団結していくんだよ」
 会場には人があふれ、熱気に満ちていた。
 戸田城聖の戦後初の桐生指導から十五年、この地にも、今、新しき地涌の若芽が萌え、広宣流布の沃野が開かれたのである。
 伸一は、ここでは、十四誹謗の話をした。
 彼は、桐生の団結を願い、語っていった。
 「御書に十四誹謗ということが説かれていますが、そのなかに、軽善、憎善、嫉善、恨善とあります。
 わかりやすく言いますと、正法を持っている人を軽んじ、憎み、嫉妬し、恨むことです。
 この四つは、ともすれば犯しがちな誹謗であり、こんな怨嫉なんかに振り回されてしまえば、せっかく強盛に信心に励んできたとしても、無量の大功徳を受けきっていくことはできないと教えています。
 たとえば、どんなに立派なテレビやラジオを買っても、チャンネルやダイヤルの回し方を間違ってしまえば、テレビは映らないし、ラジオの音も正しくは聞こえてこない。それと同じことです。
 信心に励んでいる私たちは、どのような役職や立場にあろうが、皆、仏子であり、平等であります。互いに、仏を敬うがごとく、尊敬し、信頼していくのが、本来の姿です。
 もし、誤りがあれば、それを戒めるのは当然ですが、陰で同志を謗るようなことがあっては絶対になりません。
 また、組織の中心者だからといって、周囲の方々を手下のように使うことも、決してあってはならない。
 学会はどこまでも、信心のつながりであり、慈悲のつながりであります。
 ゆえに、私たちは、麗しい家族のように、温かく励まし合いながら、明るく、仲良く、前進してまいろうではありませんか」
 桐生は蘇生し、未来への出発を遂げたのである。
12  凱旋(12)
 この四月二十日は、聖教新聞の創刊十周年にあたっていた。
 十周年を祝い、会長山本伸一は、「創刊十周年に寄せる」と題する一文を、同紙に寄稿した。
 それは四月二十二日付の一面に掲載された。
 「会長就任一周年にあたって、聖教新聞の創刊十周年を迎えることは、私にとって感慨深いものがある。
 聖教新聞は、広宣流布という未曾有の大事業の歴史を綴るものであり、刻々と展開される広布の活動を正確に報道し、幹部への指導、一般会員への指導、その他あらゆる面において、学会の原動力となっている。
 『文は武よりも強し』。かの明治維新において、長い鎖国の夢からさめて、文明開化の希望に燃えて立ち上がった若き世代の力は、武力に代わるべき言論の力であった。権力や武力に対抗し、にわかに台頭した力こそ言論であった。
 そして、新聞が衆望をになって登場したのである。
 今や創価学会は、全世界にその存在を示すようになった。我々はなんの権力ももたない。また財力ももたない。ただ一つ純粋な心から、仏の金言を奉じ、民衆の不幸を嘆き、楽土建設のために、不幸の根源と戦い抜いてきた教団である。
 これほど純粋な、力強い団体がほかにあろうか。
 不幸の根源である宗教の誤りを正し、一人の人を救う行為、すなわち折伏もまた、真実の言論の力によってなされる」
 伸一は、ここで、広宣流布の大業は、言論によって進められるものであり、学会は言論を最も重んじてきたことを述べた。
 そして、その学会に対して世間は、曲解や批判、暴言をもって報いてきたことを指摘していった。
 「その嵐のなかを、我々は柔和忍辱の鎧を着て進んできた。
 そのなかにあって聖教新聞は、ある時は誤った宗教に真っ向から鉄を下し、ある時は日蓮大聖人の仏法の正義を堂々と主張してきた。そして、内にあっては会員を擁護し、外にあっては、不当な権力の横暴を粉砕する、言論戦の最も大事な武器としての力を、いかんなく発揮してきた」
 伸一は、創刊十周年にあたって、聖教新聞の原点を確認しておきたかったのである。
 寄稿文には、この後、一九五〇年(昭和二十五年)の夏、戸田の事業が行き詰まった苦境のさなかに、戸田と伸一の間で、新聞の発刊の構想が練られたことが綴られていた。
13  凱旋(13)
 山本伸一の原稿は、次のように結ばれている。
 「以来十年、日夜をわかたず、新聞制作に、広告などの業務に、購読推進に、そして、配達にと、懸命に努力を尽くしてくださった皆様に、心より敬意を表したい。
 かつて、恩師が『願わくは、一日も早く、日本中の人に、この新聞を読ませたいものである』と言われた確信を、今こそ強く思い起こしたい。
 そして、直接、新聞にたずさわる人だけでなく、全会員が、この恩師のお心を体して、聖教新聞を守り育てゆかれんことを願うものである」
 聖教新聞は旬刊二ページ建てで五千部からスタートした。それが、水曜日が四ページ建て、土曜日が八ページ建ての、週二回刊となり、百八十五万世帯の会員の機関紙になっていた。まことに飛躍的な発展である。
 また、一九五六年(昭和三十一年)に、「東京版」「北日本版」「西日本版」の三版から始まった地方版も、この時には七版の体制になっていた。
 それにともない、地方支局も、拡充、発展し、五九年(同三十四年)七月には、関西、北海道、東北、中部、中国、九州の、全国六支局の体制が整えられた。
 更に、通信員制度も、五四年(同二十九年)に設けられ、この時点で、全国に通信員四十九人、準通信員二百十五人の陣容となっていたのである。
 しかも、学会本部から徒歩数分の、新宿区信濃町十八番地に建設を進めてきた新聞社の新社屋もほぼ完成し、五月四日に落成式が行われることになっていた。
 新社屋は地上三階、地下一階建ての鉄筋コンクリート造りで、当時の学会の建物のなかでは、最も優れた設備の建造物といえた。
 新聞が創刊されて間もないころ、編集室は、東京・市ケ谷のビルの狭い一室であり、編集部には、カメラは旧式のものが一台あるだけであった。
 ある時、編集部員の一人が、戸田城聖に、もっと高性能のカメラの購入を要望した。
 すると、戸田は笑いながら言った。
 「高性能のカメラで、うまい写真を撮るのは誰だってできる。安い旧式なカメラを使って、優れた写真を撮るところに、カメラマンの真価があるのだよ」
 戸田は、出来るものなら立派なカメラを、何台でも買ってやりたかった。しかし、当時の学会には、そんなゆとりなど、全くなかったのである。
 聖教新聞の発展は、まさに隔世の感があった。
14  凱旋(14)
 山本伸一は桐生支部の結成大会に続いて、中国指導に向かった。
 四月二十二日には、岡山の中国本部での地区部長会に出席し、翌二十三日には、島根県の松江にやって来た。
 この日に行われる、松江支部の結成大会に出席するためである。
 伸一にとって、松江は初めての訪問であった。彼は駅に出迎えてくれた、支部長の浜田厳介の顔を見ると、笑顔で語りかけた。
 「とうとう松江にやって来たよ! さあ、いよいよ新しい出発だね」
 「はい。ありがとうございます」
 恰幅のよい浜田が、緊張した顔で答えた。
 浜田の家は、駅のすぐ前である。自宅の一階が、会社であり、そこで自動車の修理工場を営んでいた。
 彼は、尋常小学校を終えると働きに出た。苦労を重ねた末に、戦後、会社を興し、二、三十人の従業員を抱えるまでになった、町の成功者の一人である。
 しかし、仕事が軌道に乗ってくると、道楽にのめり込んでいった。
 浜田は、日が暮れ始めると、″付き合い″だと言って家を出て行き、外泊してくることが多かった。
 妻の由紀子の、夫への不信は深まり、夕方になると、決まって、二人は言い争いになった。
 会社の経営には支障はなかったものの、家庭の不和は、日を追うごとに、深刻になっていった。
 由紀子は、夫のことで悶々とするうちに、夕方になると、動悸がして、まるで、棒でも飲み込んだような息苦しさを覚えるようになった。発作が起こると、体はこわばり、顔が土色になるのである。
 厳介も初めは驚いて、心配していたが、慣れてくると、仮病ではないかと口にするようになった。
 病院に行くと、由紀子はノイローゼであると診断された。
 そんな時、知人から仏法の話を聞いた。彼女は藁をもつかむ思いで入会した。一九五七年(昭和三十二年)の三月のことである。
 由紀子は、紹介者に指導を受けながら、折伏に励んだ。必死であった。
 周囲の人は好奇の目を向け、「あんなことで病気が治るものか」と陰口を叩いたが、彼女は日増しに元気になっていった。
 その姿を見てきた夫の厳介も、由紀子の勧めで入会した。また、三人の娘たちも、従業員も、次々と信心を始めた。
 由紀子は思った。
 ″夫は信心をしたのだから、これで、きっと私のもとに帰ってくる。もう大丈夫だ!″
15  凱旋(15)
 浜田厳介は、入会はしたものの、勤行一つするわけではなかった。外泊も、相変わらず続いていた。
 妻の由紀子の、淡い期待は空しく消えていった。再び絶望に打ちひしがれた。
 入会から四カ月が過ぎた七月、由紀子はあらぬことを口走り始めた。
 「主人のことが心配で、肩が凝って、とうとう首の筋が切れてしまった。もう、私は死んでしまう」
 それでも、体調のよい時には、「私の宿業は、信心で転換するしかない」と、唱題に励んでいた。
 由紀子は、激しい不安にさいなまれ、自分を卑下し、死ばかり考える日が続いた。
 八月のある日、彼女は、押し入れの中で、カミソリで舌を切り、自殺を図った。幸いにして、家族の発見が早かったために、大事にはいたらなかった。
 娘たちの戸惑いと苦しみも深かった。刃物はいっさい隠し、ガスのにも心を配らねばならなかった。
 由紀子は、その後も自殺を企てた。九月には農薬を飲んだが、この時も死ぬことはできなかった。
 そして、十月には、床下に隠れて、餓死しようとした。数時間後に、見つけ出された時には、既に言うことも、目付きも、完全におかしかった。
 翌朝、家族は由紀子を、大学病院へ入院させた。医師からは「精神分裂病」と告げられた。
 病院でも、彼女はしばらくは、幻覚に襲われ、意味不明な言葉を叫んだりもした。しかし、そのなかでも、この苦しみを乗り越えるのだと、唱題を続けた。
 不思議なことに、十日、二十日とたつうちに、彼女の心は、少しずつ平静さを取り戻し、薄紙をはぐように快方に向かった。
 医師も驚くほど、治療は効果を上げ、約百日で、彼女は退院できたのである。
 その姿を見て、厳介も、心から信心に目覚めた。外泊もいっさいやめ、家族って、真剣に勤行するようになった。
 それとともに、一家は明るくなり、由紀子も生き生きとして、完全に健康を回復した。
 近隣の人たちの驚きは大きかった。
 「浜田のおやじは、道楽もキッパリとやめてしまったし、女房も病気を乗り越えた。あれだけ喧嘩ばかりしていたのが、最近は仲も良くなっている。信仰のおかげなのだろうか」
 浜田は、妻に連れられ、折伏に歩いた。
 功徳の実証に輝く夫妻を見て、仏法の話を聞いた人たちは、相次ぎ入会していった。
16  凱旋(16)
 浜田厳介は、自宅を会場に提供し、妻の由紀子と一緒に、会合にも参加するようになった。
 山本伸一が初めて浜田と会ったのは、一年前の一九六〇年(昭和三十五年)の二月のことであった。
 浜田は、松江の地区部長になっていた。
 伸一は、この日、岡山での中国総支部幹部会に出席した後、総支部長の岡田一哲の家で、何人かの地区部長と懇談の機会を持った。そのなかに、浜田もいたのである。伸一は、浜田一家のことについては、岡田から聞いていた。
 浜田は、地区部長とはいっても、地区担当員になっていた妻に引っ張られての活動であり、自ら懸命に活動に励んできたといえる状態ではなかった。
 また、道楽者で学歴もない自分が、地区部長として皆のリーダーになっていることに対して、申し訳ない思いもあった。
 岡田が、浜田を紹介すると、伸一は言った。
 「松江の浜田さんですか。いつも、ありがとう。松江に行けずに申し訳ありませんが、同志のことをお願いします。
 あなたがいれば、松江は大丈夫です」
 そして、伸一は、自分が手にしていたミカンを、浜田に差し出した。
 「浜田さん、私とともに広布に生きましょう。いつか、私も松江に行きます」
 浜田はミカンを受け取ると、両手で握り締めた。思わず目頭が熱くなった。
 ″こんな俺のことを、心から心配し、励ましてくださる……″
 翌日、浜田は、鳥取市での大会に向かう伸一と、同じ列車に乗り、車中、指導を受けた。
 浜田は、伸一に語った。
 「私は地区部長をさせていただいていますが、小学校しか出ていないし、力もありません。何よりも、読み書きが苦手なんです」
 「人間の価値は、学問や地位で決まるものではありません。学会は信心が根本です。また、人柄を磨いていけば、みんな、ついてきます」
 車窓には桜の木が、黒々とした枝を広げていた。
 伸一は、それを指さして言った。
 「浜田さん、あの桜の木は、今は裸だが、間もなく、木のなかから芽が出て、人びとを魅了する花が咲く。私たちも、心のなかは見えないが、一人一人に仏の生命がある。その生命が、やがて、自己を最高に輝かせ、人生の幸福の花を咲かせていく。その確信を持つことです」
 伸一の指導は、深く浜田の胸に突き刺さった。
17  凱旋(17)
 浜田厳介は、山本伸一がくれた一つのミカンを、大事に、松江に持ち帰った。
 彼は家に着くと、そのミカンを仏壇に供えて、真剣に唱題した。浜田は、心から伸一の期待に応えたいと思った。そして、地区の班長たちに、伸一の思いを伝え、皆で、そのミカンを分けて食べた。
 浜田は、決然と立ち上がった。根は誠実な人間であった。伸一の言葉を胸に、同志に、どう尽くすかを、日々考え、行動し始めた。
 松江地区は、月ごとに、五十世帯、六十世帯、七十世帯と折伏を伸ばし、それが支部結成の原動力となっていったのである。
 浜田が松江支部の誕生の話を聞いたのは、支部結成大会の二、三カ月ほど前のことであった。東京から数人の幹部がやって来て、浜田の家で打ち合わせが行われ、その席で聞かされたのである。
 後に退転した一人の幹部が言った。
 「支部長は、浜田さん、あんたがやることになる」
 浜田は、自分が支部長と聞くと、さすがに戸惑いを覚えた。
 彼は、広宣流布のために頑張ろうという決意はあったが、自分には、地区部長が精いっぱいであると思っていたからである。
 「いや、私は教育も受けておりませんし、地区部長としても、事務的なことなどは、家内に全部やってもらっておるような状態でございますから……」
 彼は辞退した。
 すると、その幹部は、大声で怒鳴りつけた。
 「なに! 聞いていればつべこべ抜かしやがって、何様のつもりなんだ。これまで、功徳を受けてきたんだろ! それなら、報恩感謝の心で『お受けします』というのが当たり前だ。
 支部長がいやなら、貴様なんか退転してしまえ!」
 あまりにも人の心情を無視した、傲慢この上ない、一方的な言葉であった。
 「退転してしまえ!」という心ない言葉に、妻の由紀子は顔色を変えた。
 ″もし、主人が退転してしまったら、私たちは幸福にはなれない。また、あの地獄のような生活に逆戻りしてしまうかもしれない。主人に支部長を引き受けさせなくては……″
 夫の厳介に代わって、彼女が答えた。
 「主人が支部長として戦えるように、私が応援します。どんなことでも、助けていきます。ですから、退転はさせないでください」
 彼女は必死であった。
 「そうだよ、そうでなければいかん。……奥さんはこう言っているが、あんたはどうなんだ」
18  凱旋(18)
 浜田厳介は、理不尽で傲慢な幹部の言葉ではあったが、それを信心で、純粋に受け止めていた。そこに、浜田の強さがあった。
 ″幹部の方がここまで言われるということは、私が読み書きが苦手なことも、すべてを知ったうえで、山本先生が私を支部長にしようとされたのであろう。
 それならば、お引き受けするのが信心だ……″
 浜田も心を決めた。
 この席で、浜田が支部長になるとともに、妻の由紀子が支部の婦人部長になることが内定した。
 その後、由紀子は、山本会長の関西指導の折、伸一に指導を受ける機会があった。
 彼女は、夫は支部長になる決意を固めてはいるが、本当に、その責任を果たせるのかと、悩んでいることを伸一に告げた。
 「浜田さんを支部長に推薦したのは私です。ご主人に『よろしくお願いいたします』と伝えてください。
 また、ご主人のことが心配なら、ご夫婦で一緒に勤行し、一緒に御書を拝することです。ともかく、あなたが片腕となって、ご主人を支えてあげてください」
 この指導で、浜田夫妻の心は完全に決まった。
 そして、三月二十七日の本部幹部会で、松江支部が誕生したのである。
 山本伸一は、今、浜田厳介の意欲に満ちあふれた姿に接して、喜びを覚えた。
 伸一は、まず浜田の家に立ち寄り、そこから車で、支部結成大会の会場に向かった。
 結成大会には約一万人が集い、場外にも人があふれていた。山本会長の初訪問でもあり、会場は歓喜のるつぼとなった。
 万雷の拍手のなか、支部長の浜田が登壇した。
 彼は、懐から原稿を取り出し、参加者に向かって一礼すると、元気な声で話し始めた。
 「このたび、支部長になりました!」
 拍手がわき起こり、やがて場内は静かになった。
 しかし、浜田は次の言葉を発しなかった。じっと、壇上に立ち尽くしていた。
 演壇の上には、前日、可愛い長女の和江に清書してもらった原稿があったが、読み書きの苦手な浜田は、上がって、字が読めなくなってしまったのである。
 静寂が続いた。
 参加者は、固唾を飲んで浜田を見つめた。彼の額には汗が滲んでいた。長い沈黙であった。
 その時、会場の一角から唱題の声が聞こえた。浜田の母親であった。それに先導されるように、場内のあちこちから、題目の声が響いた。
19  凱旋(19)
 参加者は、浜田厳介が口べたであることも、その人柄もよく知っていたが、皆、彼を慕っていた。
 それが、壇上で立ち尽くす、浜田への応援の唱題となって、会場に響いたのである。
 その声は、次第に大きくなっていった。
 彼の沈黙は二、三分であったのかもしれない。しかし、参加者には途方もなく長く感じられた。
 浜田は、しばらく立っていたが、手で額の汗を拭うと、全生命力を振り絞るようにして言った。
 「支部は今、七千二百世帯……。今年中には一万一千世帯にします……。よろしくお願いします!」
 これだけ言うと、浜田は深く礼をし、席に戻った。
 割れんばかりの大拍手に包まれた。それは、同志の温かな心と心の結合が織り成した、和楽と歓喜の名画であった。
 山本伸一はその光景を、微笑みながら、じっと見守っていた。
 ″これなら、松江支部は大丈夫だ!″
 彼は、そう実感した。
 やがて、式次第は会長講演となった。
 伸一は、仏法は勝負であり、自己自身の幸福境涯を築いていくには、勇気ある信心の行動が肝要であることを訴えた。
 そして、支部結成大会が終了すると、伸一は浜田とともに場外に出て、会場に入れなかった同志を激励した。そこで、台の上に浜田と一緒に上がって、彼の肩を叩きながら言った。
 「皆さん、浜田さんは、私がお願いしてなってもらった支部長です。どうか、みんなで守ってください」
 この後、伸一は、再び浜田の家を訪問した。
 浜田は、支部結成大会で満足に話もできなかったせいか、元気がなかった。
 伸一は、浜田に尋ねた。
 「あなたは今、何を悩んでいますか」
 「はい。私は、みんなを納得させられるような話もできません。どうやって活動を進めればよいのかと思うと……」
 すると伸一は、同行した幹部に紙と墨を用意するように頼んだ。そして、筆を手にすると、「声仏事」と認めて、浜田に贈った。
 「御書には『声仏事を為す』とあります。語ることが仏法です。お題目を唱えて、人を励まし続けていくことです。そうすれば、ちゃんと話せるようになります。
 しかし、長い話をすることはない。一言でもよい。ともかく、信心と真心の一念の声を発することです」
20  凱旋(20)
 この時の山本伸一の言葉を、浜田厳介は、決して、忘れることはなかった。
 彼が支部長として活動を始めると、方針の打ち出しや説明は、彼を補佐する、ほかの幹部がしてくれた。浜田の人徳でもある。
 そして、彼は一言、全魂を込めて、こう呼びかけるのであった。
 「やらこいな!」(やろうじゃないか)
 しかし、その浜田のたった一言が、いつも皆の胸に響いた。その言葉で、同志は奮い立ち、島根の広布の大発展が築かれていくことになるのである。
 伸一は、浜田の家で、妻の由紀子に話しかけた。
 「苦労をされましたね。しかし、もう心配はいりません。ご主人は立派な支部長になります。あなたの一念であり、勝利です」
 更に、三人の娘たちにも丁重にあいさつした。長女の和江は十八歳、次女の波子は十四歳、三女の香は十歳であった。
 「今度、お父さんには支部長として、お母さんには支部の婦人部長として、活躍してもらうことになりました。皆さんには、何かと苦労をおかけすることになりますが、よろしくお願いいたします」
 伸一は、頭を下げた。
 それから、笑顔で優しく語りかけた。
 「これからは、何も心配しなくてもいいからね。みんな私の家族です。何かあったら、私がご家族を守ります。みんなも福運を積んで、一生涯、幸福になっていくんですよ」
 両親の不和、母親の病気というなかで、最も苦しんできた娘たちである。それゆえに、伸一は彼女たちを励ましたかったのである。
 瞳を輝かせて、明るく頷く姉妹を見ながら、彼は心で、幸多かれと祈った。
 夕方、伸一は宿舎の旅館に向かった。
 夕日に映えて宍道湖が金色に燃えていた。それは、松江支部の出発を、諸天が祝福しているかのようにも思えた。
 翌四月二十四日は、広島の福山支部の結成大会であった。朝、伸一は松江を発ち、倉敷を経由して福山に向かった。倉敷の駅には、何人もの学会員が待っていてくれた。
 彼が山陽本線に乗り換えると、メンバーも同乗した。そこで伸一を囲んで懇談会が始まった。幸い車内は空いており、ほかの乗客はほとんどいなかった。
 伸一は、メンバーに視線を注ぐと言った。
 「仕事を休んで来たのではないでしょうね。
 仕事をやらないで、いくら信心に励んでいるといっても、それは本当の信心の姿ではありません。信心は即生活ですから……」
21  凱旋(21)
 山本伸一は、仕事と生活の大切さを語った後、笑顔で言った。
 「せっかくですから、聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください」
 即座に一人のメンバーが尋ねた。
 「なかなか折伏ができないのです……」
 「みんな、そうなんです。折伏は最も困難な仏道修行なんですから、簡単なものではありません。
 仏法の力を教えるというのは、千年も前に、原子力のことを教えたり、ラジオやテレビのことを説明するようなものなんです。
 だから、一生懸命に話をしても、なかなかわからないかもしれない。しかし、実際に信心をしてみれば、そのすばらしさがわかる。なぜ、もっと早く信心をしなかったのかと思うようになります。皆さん方も、そうだったでしょう。
 ですから、友情を大切にしながら、諦めずに、粘り強い対話を重ねていくことです」
 今度は、年配の婦人が質問した。
 「息子が、いくら言っても信心をしないものですから、困っているんです。どうすれば、信心するようになるでしょうか」
 「あなただって、その年まで、信心をしなかったのでしょう。焦る必要はありません。やかましく言ってもだめです。
 まず、お母さんであるあなたが、しっかり信心に励み、立派な生活をしていくことです。あなたが、いつも明るく、何があっても負けることなく、思いやりあふれる姿で家族に接していくならば、その姿を通して、息子さんも信心を理解していきます。
 結局は、母親としての、人間としての振る舞いが、家族への折伏になる。息子さんが母親を誇りに思えるようになれば、黙っていても、信心をするようになりますよ」
 短時間ではあったが、伸一は全魂を傾けて指導し、最後にこう語った。
 「皆さんの求道の姿に敬意を表します。もっと、ゆっくり、お会いしたいが、それができないので、心苦しく思っています。
 ところで、私の方から、一つお願いがあります。それは、壮年があらゆる意味で、全責任をもって戦い、ご婦人に楽をさせていただきたいということです。
 婦人は、本当に一生懸命であり、健気です。たまには、ご婦人方にはお休みいただき、『私たちがやります』というのがナイト(騎士)の精神です。その模範を皆さんに示していただきたいのです。よろしく」
 語らいに次ぐ、語らいの伸一の旅であった。彼は、同志のために、もっと時間が欲しかった。いくつも体が欲しいと思った。
22  凱旋(22)
 福山に山本伸一が到着し、しばらくすると、小雨がパラついた。福山支部の結成大会に参加する同志のことを思うと、天候が気掛かりでならなかった。しかし、彼が会場に着いた時には、空は晴れ、美しい夕焼けであった。
 伸一は安堵し、結成大会に臨んだ。この席上、彼は、功徳と罰について語った。
 「御本尊には、『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』、また『若し悩乱する者は頭七分に破れん』とお認めであります。
 これは、御本尊の偉大なる功徳を示されているとともに、正法を誹謗するならば、罰があることを示されております。
 仏法は生命の因果の法則であり、幸福への方程式です。その法則を否定し、逆らうならば、当然、行き詰まらざるを得ません。ゆえに、正しく、力のある教えであるならば、功徳と罰という二つの現証が必ず生じるのです。
 また、大聖人は、この功徳について、『悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり』と、仰せになっています。これは、自身の生命の悪を滅して、善を生じていくことが功徳であるとの意味です。
 つまり、功徳といっても外から与えられるものではなく、自分の生命のなかから、泉のごとくわき出してくるものです。そして、依正不二という仏法の原理で、自分の環境を変え、幸いを万里の外から集めることができるのです。
 更に、人の悪を滅し、善を生じさせていく行為が折伏です。ゆえに、折伏を行ずること自体が、人に功徳の道を開くことであり、同時に、それによって、自分自身も功徳を受けていくことになります。これが日蓮仏法です。
 さて、仏法は、人びとの幸福を願う慈悲の教えですが、慈悲には、悪と戦う勇気が不可欠です。
 もし、悪を放置しておけば、結局は悪がまかり通り、皆が不幸になってしまうからです。
 したがって、邪悪と戦ってこそ慈悲であり、本当の仏法者であると、申し上げておきたいのであります」
 広宣流布とは、人間を不幸にする悪を滅し、善の勝利を打ち立てる、人間の凱歌の時代を建設することでもある。
 伸一は、福山の同志に、形式仏教ではなく、真実の生きた仏法を知ってほしかったのである。
 結成大会が終了すると、彼は、支部婦人部長の石広枝に言った。
 「さあ、会場に入れなかった人を激励するよ」
 すると、石は嬉しそうに答えた。
 「はい! よろしくお願いします」
23  凱旋(23)
 石広枝は、山本伸一に場外の友の激励を頼んでいたのである。
 三月の初めに、伸一は、関西本部で、福山支部の発足を前にして、支部婦人部長に内定していた石と会った。
 その時、彼女は言った。
 「先生、お願いがあるんですが……。
 福山には、支部結成大会にふさわしい、大きな会場はありません。今、考えている会場ですと、中には二千人ぐらいしか入れませんので、何千人もの人が、場外で、先生のお話を伺うことになると思います。そこで、会合の後に、外でもお話ししていただけないでしょうか」
 伸一は、会合では可能な限り、場外の友の激励を心掛けていたが、自分だけでなく、支部の婦人部長となる婦人が、同志を気遣っていることが嬉しかった。
 「大事な意見です。記念に何か差し上げましょう」
 彼は、書籍に「和楽」と揮毫して贈った。
 人を思いやること──それが学会の心である。思いやりが幾重にも交差して、織り成された人間の共和の世界が仏法の世界である。
 したがって、幹部の最大の要件も、人への思いやりにあるといえよう。
 伸一は支部結成大会の終了後、場外で参加者を励ました。″福山を福運の大山に″との祈りを込めて、彼は一人一人の参加者の労をねぎらい、健闘を呼びかけるのであった。
 五月三日を目前にしたある日、山本伸一は、一人、学会本部にあって、深い思索を重ねていた。
 彼の頭には、総本山の大客殿の建立をはじめ、各地の寺院や会館の建設計画など、今後の広宣流布のための展望が広がっていた。どれ一つとっても、広布の伸展を考えれば、必要不可欠なものばかりである。
 しかし、それを実現していくには、財源をどうするかが、最大の課題となる。
 大客殿を建立するためには、大講堂と同じように、全会員に呼びかけ、供養を募ることになろうが、それで本当によいのかという迷いが、彼にはあった。
 また、そのほかの寺院や会館の建設のためには、更に財務部員の枠を広げ、協力を要請しなければならない段階にきていたが、それにも、伸一は、ためらいを覚えていた。
 同志は、功徳を受けたとはいえ、生活苦や病苦に悩み、信心を始めた民衆である。経済的に豊かといえる人は決して多くはない。会員には、なるべく負担をかけたくないというのが、彼の気持ちであった。
24  凱旋(24)
 山本伸一は、学会の活動の費用が、いかにして賄われてきたかを考えてみた。
 もともと学会の財源は、牧口初代会長の時代は、理事長の戸田城聖がいっさいの責任を担ってきた。
 戦後、学会の再建が始まってからも、戸田は私財を投じて経費にあて、会員には、金銭的な負担はかけさせなかった。
 しかし、戸田が会長に就任して間もなく、何人かの会員から、自分たちにも、学会の経費の一端を担わせてほしいとの、強い要請があった。確かに、未来の広宣流布の広がりを思うと、いつまでも、彼一人で賄いきれるものではなかった。
 また、学会の活動の経費を担うことは、広宣流布への供養である。戸田は同志の要請から、その門戸を、いよいよ開くべき時が来たことを感じた。
 だが、戸田は、極めて慎重であった。広宣流布の財源は、どこまでも真心の浄財でなければならないとの考えから、彼はメンバーを厳選した。信心が強盛で、経済力もある七十八人を選び、財務部員として、学会の財源を担う使命を託したのである。
 そして、一九五一年(昭和二十六年)七月三日に、財務部の結成式を行っている。以来、財務部は次第に陣容を増し、学会の経済的な基盤を支える大きな力となった。
 財務部員には、選ばれて広布のために浄財を拠出できる、誇りと喜びと感謝があった。
 戸田は、財務部員に脈打つ、その精神が何よりも嬉しかった。学会の財務は、世間一般の寄付とは違う。どこまでも、信心から発するものでなければならないからである。
 そして、この燃え上がる信仰がある限り、無量の功徳が現れないはずはない。日蓮大聖人が、御称賛されないはずはない。
 彼は、できることなら、より多くの同志に、供養の機会を与えたいと思った。
 だが、なかには、経済苦と闘っている同志もいる。その人たちのことを考えると、供養を呼びかけることに胸が痛んだ。
 しかし、だからといって、全く供養の機会が与えられないとするなら、それは、信仰の眼から見れば、かえって、無慈悲になってしまう。
 彼は、やむなく意を決して、総本山の五重塔の修復や奉安殿の建立などに際しては、一応、皆に供養を呼びかけることにした。
 特に、戸田の願業の一つであった大講堂の建立の時には、支障のない限り、全会員が供養に参加できることにした。
25  凱旋(25)
 山本伸一は、戸田城聖が、かつて、こう語っていたことが思い出された。
 「水戸光圀は、『大日本史』を編纂したが、そのために、藩の財政は苦しかったといわれる。
 光圀ほどの人物ならば、大事業のためとはいえ、庶民の血税を注ぎ込まねばならないことに胸を痛め、心で泣いたであろう。
 私も貧しい学会員に供養を勧めるが、これをしなければ、功徳を受けることもできないし、広宣流布もできなくなってしまうからである。しかし、そのたびに、私は泣いている……」
 伸一には、戸田のその心がよくわかった。彼も同じ思いであったからである。
 しかし、供養の功徳は、計り知れないものがある。
 それを物語る一例として、祇園精舎を寄進した須達長者、すなわち、須達多(スダッタ)の話がある。
 幾つかの仏典では、須達多は大長者となった後に、釈尊に帰依したとされているが、別の仏典には、次のような説話がある。
 ──昔、インドに、須達多と妻が住んでいた。
 彼らの生活はいたって貧しかった。しかし、二人には深い信仰心があった。
 ある時、須達多は、わずかな米を手に入れることができた。妻は、夫が家に帰ってきたら、ともに食べようと、その米を炊いた。
 すると、そこに仏弟子の一人である阿那律(アヌルッダ)が、托鉢にやって来た。妻は阿那律を見ると、礼拝し、彼の鉢に、炊き上がった飯を盛って渡した。
 更に、須達多の家に、釈尊の高弟である須菩提(スブーティ)、摩訶迦葉(マハーカッサパ)、目連(モッガラーナ)、舎利弗(サーリプッタ)などが、次々と托鉢にやって来た。
 妻は、そのたびに飯を盛って渡していった。
 最後にやって来たのは、釈尊自身であった。釈尊が食を求めると、妻は喜んで、残っていた飯をすべて供養した。喜捨である。仏を求め、敬う彼女の信心の発露であった。
 もし、須達多が家にいれば、当然、彼女は夫に相談していたし、夫も喜んで供養していたにちがいない。
 しかし、夫が不在であっただけに、彼女には一抹の不安があった。
 しばらくして、須達多が家に帰って来た。彼は、たいそう腹を空かしていた。
 「腹が減った。さあ、食事にしてくれないか」
 妻は、じっと夫の顔を見つめて、尋ねた。
 「もしも、釈尊の弟子である阿那律様が托鉢に来られたとしたら、あなたなら、供養をなさいますか」
 「もちろん、食べ物があれば供養する。たとえ、自分は食べなくとも……」
26  凱旋(26)
 須達多(スダッタ)の妻は、重ねて夫に尋ねた。
 「それでは、須菩提(スブーティ)様や、摩訶迦葉(マハーカッサパ)様や、それに釈尊ご自身が来られて、食をお求めになられたら、どうなさいますか」
 須達多は答えた。
 「言うまでもないことだ。当然、食べ物があれば、供養させていただくに決まっているではないか」
 妻は笑みを浮かべた。
 「実は、今日、釈尊のお弟子の方々、そして、釈尊が次々とお出でになったのです。私は嬉しくなって、あなたが苦労して手に入れた食べ物を、すべて供養してしまいました。
 でも、あなたが、なんと言われるか心配でした。しかし、今、自分は食べなくても、供養すると聞いたので、安心いたしました」
 須達多も、微笑を浮かべて言った。
 「そうか。本当によいことをしてくれた。これで、私たちの罪業も消すことができ、きっと幸福になるに違いない」
 この供養の功徳によって、須達多は、大長者となったという。
 妻の一途な決心と、それを喜ぶ夫──そこには、いつの世も変わらぬ、純真な信仰から生まれた、夫妻の喜捨の姿がある。そして、この喜捨の心こそ、まことの供養であり、そこに偉大なる福徳の源泉がある。
 さて、大長者となった須達多の、祇園精舎の寄進はあまりにも有名だが、仏典には、次のような話が残されている。
 ──須達多は、釈尊のために、立派な精舎の建立を決意する。
 彼は場所の選定にあたって、都の舎衛城(サーヴァッティー)から遠すぎず、また、近すぎもせず、行き来に便利な、静かな場所にしようと決めた。
 思案を重ね、彼が選んだのは、陀(ジェータ)太子の園林であった。
 須達多は陀太子に会って、ぜひ、その土地を譲り受け、精舎を建てたいと申し出た。しかし、太子はその申し出を拒んだ。
 「あの園林は、私が最も気に入っている場所だ。たとえ、あの土地に黄金を敷きつめても、譲ることはできない」
 だが、須達多はあきらめなかった。二人は押し問答となり、話は裁判を担当する大臣のもとに持ち込まれた。そこで、両者の言い分を聞いて、結論が下されることになった。
 大臣は、須達多が黄金を敷きつめた分だけ、太子は土地を譲ってやるべきだとの結論を出した。
27  凱旋(27)
 須達多(スダッタ)は、急いで家に帰ると、車に黄金を積んでやって来た。そして、厳かに園林に敷きつめていった。
 だが、車一台の黄金で得られる土地は、ほんの少しでしかない。
 彼は家にある黄金を、すべて運ぼうとしていた。
 陀(ジェータ)太子は、その真剣な様子に驚き、考えた。
 ″なぜ、須達多は、これほどの黄金を投げ出そうとするのか。釈尊とは、それほど偉大な方なのか。仏陀の出現というのは、真実であったのか″
 太子は、黄金を敷きつめている須達多に言った。
 「もうよい。黄金を並べる必要はない。この園林はあなたに譲ろう」
 須達多の真剣さと、揺るがざる信念に、太子は心を動かされたのであった。
 更に、太子は、園林を須達多に譲るだけでなく、自らもそこに荘厳な門をつくり、寄進することを申し出た。須達多の喜捨の姿に、共感したのである。
 こうして出来上がった精舎が、「祇樹給孤独園精舎」である。
 須達多は、よく身寄りのない人びとに食を給したことから、給孤独長者と呼ばれていた。その彼が、陀太子の樹林に建てた精舎であることから、こう呼ばれたもので、略して祇園精舎と言われるようになった。
 やがて、須達多から、完成した精舎の寄進の申し出を受けた釈尊は、威儀を正して言った。
 「この精舎は、私のためだけではなく、広く僧団に供養し、修行僧が皆で使えるものにしてほしい」
 かくして、祇園精舎は、修行者全員のためのものとなった。
 この考え方が、その後の寺院に受け継がれ、現代における学会の会館へとつながっていくのである。
 祇園精舎の寄進は、須達多の更に大きな功徳、福運となっていったことは間違いない。
 喜捨の心は、境涯を高め、無量の功徳をもたらし、それがまた、信心の確信を深める。そこに、幸福の軌道を確立する、仏法の方程式がある。
 山本伸一は、手元にあった御書を開いた。供養の本義を、もう一度、御書に照らして、熟慮したかったからである。
 彼は、まず「白米一俵御書」を拝した。身延にいらした日蓮大聖人に、一人の信徒が白米などを供養したことへの御手紙である。
 大聖人は、その真心を称えられ、「凡夫は志ざしと申す文字を心て仏になり候なり」と仰せになっている。
 つまり、信心の志、仏法への至誠の一念が、成仏の要諦であることを示されているのである。
28  凱旋(28)
 この「白米一俵御書」では、命をつなぐ食べ物を供養したことは、過去に、雪山童子や薬王菩薩、聖徳太子などの賢人、聖人が、仏法のために命を捧げた功徳にも劣らぬものであると称賛されている。
 山本伸一は、更に御書の別のページを開いた。
 弘安三年の十二月二十七日、南条時光に与えられた「上野殿御返事」(1574㌻)であった。
 当時、時光は、熱原の法難によって、夫役の人手などを過重に負担させられ、経済的に苦境に立たされていた。自分が乗る馬も、妻子が着るべき着物もないなかで、身延で冬を過ごされる大聖人の身の上を案じて、鵞目(銭)一貫文を供養したことに対する御手紙である。
 諸御抄に記された時光の供養の品々を見ると、多くは食べ物である。しかし、この時、銭を送っているのは、大聖人に供養する物が、もはや、何もなくなってしまったからではないだろうか。
 おそらく、いざという時のために取っておいた銭を、供養したのであろう。
 大聖人は、その真心を尊び、絶賛されたのである。
 時光の身なりは貧しくとも、その心は気高く、金色の光を放っている。
 供養の根本は、どこまでも信心の志にある。
 「松野殿御消息」(1380㌻)には、釈尊に土のを供養した徳勝童子が、その功徳によって阿育(アショカ)大王として生まれ、やがて、成仏していったことも述べられている。
 まだ小さな徳勝童子にとって、土のは、自分にできる、最高の供養であった。精いっぱいの真心を尽くしての供養であったがゆえに、たとえ、土のであっても、大王となって生まれたのである。
 山本伸一は、続いて「衆生身心御書」を拝した。
 その後段で、彼の視線は止まった。
 そして、何度もそこを読み返した。彼は、深い意味を感じた。
 「……設いこうをいたせども・まことならぬ事を供養すれば大悪とは・なれども善とならず、設い心をろかに・すこしきの物なれども・まことの人に供養すれば・こう大なり、何にいわんや心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや
 <たとえ、功徳善根を積んでも、真実でない人を供養すれば、大悪とはなっても善とはならない。たとえ、信心が薄く、少しの物の供養であっても、真実の人に供養すれば功徳は大きい。まして厚い志をもって、真実の法を供養する人びとの功徳は、どれほど大きいか計り知れない>
29  凱旋(29)
 一言に供養といっても、何に対して供養するかによって、善にもなれば、悪にもなってしまうとの御指南である。
 山本伸一は、「衆生身心御書」のこの御文に基づいて、学会の供養、財務について考えていった。
 学会が推進する供養、財務は、すべて日蓮大聖人の御遺命である広宣流布のためのものである。大聖人の立てられた大願を成就するために行う供養は、御本仏への供養に通じよう。
 ならば、これに勝る供養もなければ、大善もない。ゆえに、これに勝る大功徳もないはずである。
 そう思うと、伸一自身、一人の学会員として、その機会に巡り合えたことに、無量の福運と喜びを感じるのであった。
 この御書では、最後に、身延の山中に供養の品々を送った一人の門下の志を称えられて、次のように述べられている。
 「福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず
 <福田に、すばらしい善根の種を蒔かれたのか。厚い志に涙もとまらない>
 広宣流布に尽くすことは、福田に善根の種を蒔くことである──それは、伸一が青春時代から、強く確信してきたことでもあった。
 彼は、戸田城聖の事業が窮地に追い込まれ、給料の遅配が続くなかで、懸命に広布の指揮を執る戸田を守り、仕えてきた日々を思い起こした。
 伸一は、広宣流布に一人立った獅子を支えることは、学会を守り、広布を実現する道であると自覚していた。
 彼は、自分の生活費は極限まで切り詰め、給料は、少しでも、広布のため、学会のために使うことを信条としてきた。それは伸一の喜びであり、密かな誇りでもあった。
 そのために、オーバーのない冬を過ごしたこともあった。ようやく出た給料の一部を、戸田の広布の活動のために役立ててもらったこともあった。
 そして、その功徳と福運によって、病苦も乗り越え、今、こうして、会長として悠々と指揮を執れる境涯になれたことを、伸一は強く実感していた。
 彼は人に命じられて、そう行動してきたわけではない。それは、自らの意志によって、喜び勇んでなした行為であった。また、広宣流布のために生涯を捧げようと決めた伸一の、信心の至誠にほかならなかった。
 彼は、長い思索の末に、御聖訓に照らし、また、自らの体験のうえからも、大客殿の建立に際しては、生命の福田に善根を蒔く供養の門戸を、全同志に開こうと、決断したのである。
30  凱旋(30)
 今、大客殿の建立の時を迎え、同志は供養に参加することを待ち望んでいた。
 山本伸一も、全国の行く先々で、そうした会員の声を耳にしてきた。
 同志は、広宣流布のために、生活費を切り詰めてまで、供養しようとしてくれている。
 それは、かつて、学会の財源を自ら支えた戸田城聖と、同じ決意、同じ自覚を持つ、あまたの同志が誕生したことを意味しているといってよい。
 伸一は、そこに、尊い菩薩の姿を見る思いがした。
 彼は誓った。
 ″その同志たちこそ、現代の須達長者であり、徳勝童子であり、南条時光といえよう。たとえ、今は貧しくとも、未来は必ずや大長者となることは間違いない。また、断じてそうさせていくのだ。
 私は、仏を敬うように、この人びとに接し、その真心を称え、励ましていかねばならない″
 広宣流布の新たな夜明けを象徴する大客殿を、真に荘厳するものは、法友の至誠と歓喜という、信仰から発する″美しき魂の光彩″であると、伸一は思った。
 それには、何よりも、供養の意義と精神を誤りなく伝え、一人一人が広宣流布の使命を、深く自覚していくことである。
 彼は、この大客殿の供養について、自分の意見を理事会に諮り、皆の賛同が得られれば、五月三日の総会で発表しようと考えた。
 一九六一年(昭和三十六年)五月三日──。
 伸一の会長就任一周年となる本部総会が東京・両国の日大講堂で開催された。
 開会は正午の予定であったが、午前九時には、場内は、同志の喜びの笑みの花で埋め尽くされた。
 伸一が会場の日大講堂に到着したのは、午前十一時過ぎであった。
 「おめでとう! ありがとう!」
 車から降りた伸一は、出迎えた幹部や役員の青年たちに、手をあげて応えた。
 彼の全身に、会長就任第二年への、新たな大前進の気迫がみなぎっていた。
 伸一は一年前の総会で、この同じ会場で、「若輩ではございますが、本日より、戸田門下生を代表して化儀の広宣流布を目指し、一歩前進への指揮をとらさせていただきます」と宣言し、新会長として、スタートを切った。
 その一歩は、激闘の三百六十五日であったが、広布の未聞の歴史を開く、大飛躍の一歩となった。
 そして、今、再びここに戻って来たのである。
 それは、まさに広宣流布の大勝利を飾っての凱旋であった。
31  凱旋(31)
 山本伸一は、既に全参加者の入場が終わっていることを聞くと、開会時間を繰り上げるように提案した。
 午前十一時四十分、会場の大鉄傘を揺るがさんばかりの「威風堂々の歌」の大合唱のなか、学会本部旗を先頭に、山本会長をはじめとする幹部の入場で、総会は幕を開けた。
 「開会の辞」に続いて、「経過報告」では、この一年の学会の前進の歩みが語られた。
 ──山本会長誕生の喜びは、全国に折伏の波動となって広がり、就任三カ月後の、前年の八月には、一カ月で六万七千三百八十四世帯という過去最高の折伏成果を記録。現在、学会の総世帯は百九十一万余となり、二百万世帯の達成は目前に迫ったのである。
 また、支部は六十一支部から百三十九支部へと発展した。海外でも、ロサンゼルスとブラジルに支部が結成され、アジアでは香港に地区が誕生。広布の新時代を画したのである。
 更に、教学の大旋風が巻き起こり、教学試験の受験者は十二万数千人に上った。その結果、教授から助師までの教学陣は、四万人を突破するに至った。
 一方、新寺院の建立も着々と進み、既に六カ寺が建立され、七月中には、移転新築も含め、更に六カ寺が完工の運びとなっていた。
 また、この時点で、新たに三十カ寺ほどの寺院の建立が予定されており、土地の選定も、ほぼ終了していたのである。
 すべてが、何年分にも相当する大事業であり、世紀の大伸展であった。
 参加者は、改めてその歩みに驚嘆し、込み上げる感動をみ締めていた。同時に、それは、山本会長と心を合わせ、スクラムを組んで進んでいくならば、新しき民衆の時代の創造も、決して夢ではないという、自信と勇気になっていった。
 続いて、学会の機構の拡充が発表された。
 それによると、これまでの文化部が文化局となり、そこに、政治部、経済部、教育部、言論部の各部が所属し、新たな文化の建設を担っていくことになった。
 仏法によって、人間の生命の大地が耕されていくならば、その帰結として、真実の人間文化が開花していくものだ。そして、新しき文化の創造にこそ、宗教の真価が表れるといえよう。
 文化局の設置は、学会の大文化運動の、開幕を告げるものであった。
 また、学会本部の機構として、事務総局が設けられ、そのもとに事務局と、これまで部であった海外、編集、出版の各部が局として置かれることになった。
32  凱旋(32)
 更に、この日、沖縄が総支部となり、新たに南西、那覇、南海の三支部が誕生し、これまでの沖縄支部と合わせて、四支部の布陣となったことが発表された。
 総支部長は沖縄支部長の高見福安が、総支部婦人部長は沖縄支部婦人部長の上間球子が兼任することになった。
 沖縄は、十カ月前に、会長山本伸一が出席して、支部結成が行われたばかりであった。その時、七千世帯であった沖縄が、一万七千世帯に発展したのである。
 この後、支部旗などの返還授与が行われた。
 総会には、前年の十月に伸一が初めて訪問した、アメリカ、ブラジルの同志の代表も参加していた。その折に結成された、アメリカのロサンゼルス支部、ブラジル支部にも、支部旗が授与された。
 「ロサンゼルス支部!」
 司会の声が響くと、参加者は、いっせいに壇上に視線を注いだ。聖教新聞の報道などで、海外の同志の活躍は知っていたが、その姿を直接見るのは、皆、これが初めてであった。
 次いで「代表抱負」に移り、青年、婦人、壮年の代表が会長就任第二年への出発の決意を述べた。
 なかでも、青年部長の秋月英介の抱負は、学会の推進力たる青年部が、時代、社会に仏法思想のうねりを巻き起こそうとする、先駆けの気概にあふれていた。
 秋月は、この一年間で、女子部が部員数十二万から十八万に、男子部は十八万から二十五万となり、青年部は部員四十三万へと未曾有の飛躍を遂げたことを紹介した。
 そして、戸田城聖が青年に贈った「国士訓」(青年よ国士たれ)に触れて、次のように語った。
 「『国士訓』のなかで、恩師戸田先生は『青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである』と述べられております。
 このお言葉のごとく、一人立たれた青年が、会長山本先生でございます。そして、その後に続くのが、私たち青年部であります。
 その時は、今まさに到来いたしました。私たちは、いよいよ恩師のお言葉を実践し、苦悩する民衆を救う国士十万の結集を、断固、行ってまいる決意でございます。
 山本先生のもと、十万の男子部の精鋭が一堂に集って、広宣流布の新時代の幕を開くことを誓い、代表抱負とさせていただきます」
33  凱旋(33)
 男子部十万の結集を誓った秋月英介の抱負に、真っ先に拍手を送ったのは、山本伸一であった。
 伸一は、青年たちが、恩師戸田城聖の言葉を、決して虚妄にすることなく、実現しようとする心意気が、何よりも嬉しかった。
 「代表抱負」の後、アメリカ総支部の幹部の紹介があり、代表から近況が報告された。
 アメリカでは、山本会長が訪米した時は、会員は三百世帯ほどにすぎなかったが、以来、同志は広宣流布への決意に燃えて立ち上がり、これまでに三百五十世帯の人を折伏。また、渡米する学会員も増え、現在では、千五百世帯の同志が、活動に励んでいるという。
 次いで、理事の森川一正が「東南アジア広布を目指して」と題して話をした。
 森川は、山本会長のアジア訪問の後を受け、本部からの海外指導の第一陣として、この五月十六日から十日間にわたって、台湾、フィリピン、香港などを訪問することになっていた。
 彼は、その訪問計画を紹介するとともに、力強く抱負を語り、こう話を締め括った。
 「東南アジアに、総支部が結成される日も間近であります。東洋広布の時は来ております。私は、その基盤をつくるために、全力で戦ってまいる決意です」
 建設には希望があり、躍動がある。伸一の会長就任以来の学会の前進は、まさに、澄み渡る大空に若鷲が舞い上がるように、希望の天空へ人びとをいざなう、飛の日々であった。
 しかも、その希望は、ますます大きく広がろうとしていた。
 総会はこの後、日達上人の講演となった。
 更に、理事の清原かつが登壇し、大客殿建立の御供養を発表した。
 清原は、はつらつとした声で語り始めた。
 「山本先生は、第三代会長に就任された昨年の総会の席上、恩師戸田先生の七回忌までに、総本山に大客殿を建立する旨、宣言されました。
 大客殿は、広宣流布の祈願の場所となるばかりでなく、広宣流布が達成された折には、荘厳な儀式が行われる殿堂となります。
 その建立は、戸田先生のご構想を実現するために、山本先生が一大決意されたものであり、今、着々とその準備が進んでおります。
 大客殿は、諸国の来賓を迎え、仏法の威光を知らしめるにふさわしい、内容と規模の、近代的な大建築を目指しております。
 それは、仏法の偉大さを世界に示し、新たな広宣流布の基盤を確立する、第一の重要なポイントとなります」
34  凱旋(34)
 清原かつの話に、一段と熱がこもった。
 「その大客殿の建立という一大事業が、現在、わが創価学会の手によって、成し遂げられようとしているのです。
 私も、昨年の大客殿建立の発表以来、ぜひとも御供養に参加させていただきたいと、その日の来るのを待ちに待っておりました。
 このほど、いよいよ、その具体的な計画がまとまりましたので、本日のこのよき日にあたり、発表させていただきます!」
 期せずして、場内には、大拍手がわき起こった。同志は皆、この発表を待っていたのである。
 広宣流布のためには、自分にできることなら、精いっぱい尽力させてもらいたいというのが、同志の心情であり、決意であった。
 また、それが創価の精神であり、そこに、学会の強さがあった。
 清原は、供養の納金は七月の下旬に行われることを述べた後、供養の精神について訴えていった。
 「御供養は、あくまでも信心を根本にした真心の表れであります。したがいまして、決して、無理強いするようなことがあってはならないと思います。
 また、せっかく御供養をしても、歓喜もなく、お付き合いで、ただ参加するのと、喜び勇んで参加するのとでは、功徳にも大きな違いがあります。
 どうか幹部の皆さんは、皆が誇りと喜びをもって臨めるように、御供養の意義と精神を、よく話していただきたいと思います。個人指導、対話によって、一人一人が心から納得し、御供養への自覚を深めていくことが、歓喜ある行動の源泉となります。
 ともどもに力を合わせ、広宣流布の新しい歴史を担ってまいろうではありませんか」
 続いて、理事長などのあいさつがあり、万雷の拍手のなか、会長山本伸一の登壇となった。
 伸一は、ゆっくりと立ち上がった。一年前、この会場に高く掲げられた戸田城聖の写真を仰ぎながら、第三代会長として立ったあの日の光景が、彼の胸をよぎった。
 思えば、瞬く間の一年であった。なすべきことはあまりにも多く、激闘に次ぐ激闘の日々であった。
 そして、今、広布の未曽有の上げ潮はつくられたのである。彼は、確かな勝利の手応えを感じることができた。
 伸一は、戸田の弟子らしく、高らかに凱歌を奏で、ここに凱旋したのである。
35  凱旋(35)
 山本伸一が演壇に立ち、参加者に一礼すると、嵐のような拍手がやんだ。
 静寂が一瞬、場内を包んだ。大勝利を飾った凱旋将軍の、再びの出発の大獅子吼を、人びとは固唾を飲んで待った。
 伸一は、冒頭、日達上人の総会への出席に、深く感謝の意を表した後、力強い声で語っていった。
 「第二十三回総会を、全国の同志を代表して集まられた幹部の皆様方と、元気いっぱいに開催できましたことを、心より喜び合いたいと思います。
 霊山におられる恩師戸田城聖先生も、この様子をご覧になって、『あっぱれ、わが弟子よ!』と、莞爾としておられることを、私は強く確信する次第でございます。
 創価学会のごとく、大哲学を掲げ、不幸な人びとの真実の味方となって、慈悲と確信と鉄の団結を持って、人類の平和のために前進している団体が、教団が、世界のどこにあるでしょうか。
 私は、創価学会こそ″日本の柱″であり、″世界の太陽″であると、宣言したいのであります」
 伸一の胸中には、どこまでも民衆の味方となって、日本を救い、世界を救いゆく団体は、創価学会しかないという、強い自負と確信があった。
 彼は、ここで、涅槃経に説かれた覚徳比丘と有徳王について言及していった。
 覚徳比丘は、過去世に歓喜増益如来という仏が出現し、その滅後、あと四十年で正法が滅んでしまうという時に、正法を守り、持ち抜いた僧である。
 覚徳比丘は、決然と立ち上がり、正法を説き、戒律を破る者たちを戒めた。すると、悪僧たちは、刀や杖を持って、彼を殺そうと迫っていった。
 正法の外護者である国王の有徳は、それを知ると、法を守り、覚徳比丘を助けるために果敢に戦った。
 それによって、覚徳比丘は難を免れたが、有徳王は戦いのなかで殺されてしまう。
 有徳王の体には、傷のないところは芥子粒ほどもなかった。それほど壮絶な戦いを展開したのである。
 この功徳によって、有徳王は、やがて阿閦仏あしゅくぶつの国に生まれて第一の弟子になり、覚徳比丘は第二の弟子となったと説かれている。
 有徳王は、釈尊の過去世の修行中の姿を示すものであるが、現代で言えば、現実の社会のなかで戦い、生きる、死身弘法の在家の仏法指導者と言ってよい。
 また、これは、まさに仏法が滅せんとする時の、信仰者の心構えを説くとともに、正法を守ることの功徳の大きさを教えている。
36  凱旋(36)
 山本伸一は、この有徳王と覚徳比丘について述べ、こう語っていった。
 「私ども創価学会は、日夜、朝な夕な、不幸な人びとを救おうと折伏に励み、教学に、座談会にと、懸命に取り組んでおります。また、総本山、日達上人をお守り申し上げております。
 この創価学会の姿、精神こそ、仏法の方程式のうえから、有徳王の姿であり、有徳王の精神であると、私は強く信ずるものでございます」
 伸一は、話しながら、戦時中、宗門が謗法に染まり、腐敗、堕落していったなかで、正法正義を貫いて殉 教 した牧口常三郎のことが頭をよぎった。
 牧口の振る舞いは、有徳王のみでなく、覚徳比丘の姿でもあったのではないかと、彼はふと思ったが、それには触れなかった。
 伸一は、将来、いかなる時代、いかなる状況に置かれたとしても、学会は死身弘法の精神で、日蓮大聖人の仏法の正法正義を守り抜くことを決意していた。
 彼は、言葉をついだ。
 「思えば、昨年の五月三日、この壇上において、日達上人より、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』との御聖訓を頂戴いたしました。
 今、その御聖訓を、もう一度、胸に刻んで、勝って兜の緒を締めて、親愛なる皆様方のご協力を賜りながら、来年の五月三日を目指し、更に、一歩前進の指揮をとっていく決意でございます。
 願わくは、皆様も私とともに、御本尊様を抱き締めて、広宣流布への勝利の歩みを、貫き通していっていただきたいのであります。
 以上で、私のあいさつに代えさせていただきます」
 歓声と大拍手がドームにこだました。
 黄金の凱歌の年輪を刻んだ学会は、今、再び第二年へと船出したのである。
 学会歌の大合唱のなかを退場する伸一の胸には、闘魂の炎が鮮やかに燃え盛っていた。
 彼が進もうとする広宣流布の道は、失敗も、後退も許されなかった。いかなる困難が待っていようが、連続勝利をもって踏破しなければならない。
 伸一は、それが、避けることのできない自己の使命であることを、深く自覚していた。
 彼は、大鉄傘の高窓から差し込む光を仰いだ。
 ″暗雲の上にも、いつも太陽は燦然と輝いている。私の太陽は戸田先生だ。その太陽を心にいだいて、先生の弟子らしく、この一年もまた、走りに走ろう″
 光に照らされた彼の顔に、さわやかな微笑が浮かんだ。

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