Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「平和の光」 平和の光

小説「新・人間革命」

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2  平和の光(2)
 水は、汚れを洗い、清める。それは、清浄な仏道の象徴ともされている。
 法華経の開経の無量義経には、「譬えば水の能く垢穢を洗うに(中略)法水も亦復是の如し、能く衆生の諸の煩悩の垢を洗う」(妙法華経並開結88㌻)とある。
 日達上人は、山本伸一に語り始めた。
 「華厳経では、菩提心を泉にたとえているんです。『菩提心は猶涌泉の如し、智の水を生じて窮尽無きが故に』とありましてね。つまり、悟りへの求道心が、わき出る泉のように、くめども尽きない智の水を生じさせると、説いているんです。
 ともかく、その泉が、それも、インドでは珍しい温泉が、霊鷲山のすぐ近くにわいているとは、感動しました。
 そういえば、五年前の総本山のわき水のことを思い出しますね。あの時、戸田先生は、今後の登山会のために、総本山に豊かな飲料水を確保しなければならないと言われ、ボーリングを提案された。
 それまでに、何度も地質調査した結果、あのあたりの溶岩層の下には、水脈はないといわれていました。事実、業者の方がボーリングをしても、水は出ませんでした。
 ところが、戸田先生が真剣に祈られ、業者が別の場所を掘ってみたところ、水源にぶつかった。
 戸田先生は、広宣流布が近い瑞相であると喜ばれ、『水道祭』を行おうと言われた。私はあの時に、正法の興隆があるところ、涌出泉水があると実感したものです」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「ここに温泉があるということは、釈尊も、この温泉を使っていたかもしれませんね」
 「きっと、そうだと思います。ここで、心身を蘇らせて、霊鷲山に登っては法を説いたのでしょう。
 ところで、もう、遅くなってしまったので、霊鷲山には登れませんね」
 日達上人は、残念そうに黄昏の空を見上げた。
 「しかし、御本尊のましますところ、広宣流布のために戦う人びとの集うところが、本当の意味での霊鷲山ですから、私どもは、いつも霊鷲山にいるではありませんか」
 伸一が言うと、日達上人は愉快そうに、声をあげて笑った。
 「ハッハハハ……、その通りです」
 一行がパトナのホテルに着いたのは、既に午後十時ごろであった。
 皆、大任を果たした喜びと安に、心地よい疲労を覚えていた。
3  平和の光(3)
 翌日の午前中、山本伸一たちは、ガンジス川に向かった。ガンジスの砂と小石を採取するためである。
 川岸には、この日も、火葬の火が燃えていた。
 一行が砂と小石を採取し始めると、もの珍しそうに人びとが集まってきた。
 なかには、子供たちもいた。皆、七、八歳くらいだろうか。子供たちは、面白がって、一緒に砂や小石を集めてくれた。
 子供たちの身なりは貧しかったが、キラキラと輝く澄んだ目をしていた。
 伸一は用意してきた、ボールペンなどの土産を、子供たちに配った。無邪気に小躍りして喜ぶ姿が可愛らしかった。
 ここにいる子供たちの置かれた環境は、決して恵まれているようには思えなかった。
 伸一は、この子たちが、どんな教育を受け、いかなる人生を歩むことになるのだろうかと思うと、胸が痛んだ。
 人間にとって、何が幸せであるかは、一概には言えない。しかし、子供たちが貧困にあえぐことなく、それぞれの能力を開花させるために勉学に励み、自在に社会に羽ばたいていける環境をつくり出さなくてはならない。それは、大人たちの義務であるはずだ。
 戸田城聖が、ガンジスの砂や世界各地の名材を集めて大客殿を建立せよと言ったのは、単に大客殿という建物を荘厳するためだけではなかった。そこには、世界各地の繁栄と平和を念ずる、彼の強い思いが込められていた。
 伸一は、そう考えると、自らの双肩にかかる使命と責任の重さを、感じるのであった。
 ガンジス川の砂と小石を採取した後、一行はパトナ博物館を見学した。
 パトナは、古くはパータリプトラと呼ばれ、いくつもの王朝が都とした、由緒ある土地である。博物館には、その歴史をしのばせるインド美術の粋が陳列されていた。
 ことに、マウリヤ朝の第三代の王であるアショカ大王と同時代のものと思われる、獅子や牛の形をした飾りなどが興味を引いた。
 このアショカ大王について、西洋の学者たちは、最初、仏教の伝説上の人物としていた。
 ところが、一八三七年にインドの古代文字が解読され、後年、アショカが残した多数の碑文から、その実在と、彼が法による統治を行っていたことが確認されたのである。
 いわば、哲人王として人類史上に輝くアショカも、ずっと、歴史の土に埋もれていたのである。
4  平和の光(4)
 パトナ博物館の見学を終え、午後一時半にパトナの空港を発った一行は、二時間後には、次の訪問地であるカルカッタに到着した。
 ここは、イギリスの植民地時代に首都であったこともあり、町は人びとで賑わい、活気にあふれていた。
 山本伸一は、カルカッタには特別な思いがあった。彼の敬愛する詩聖タゴールが生まれ、育ち、没した地であったからである。
 ラビンドラナート・タゴールは詩人というだけでなく、小説家、劇作家、音楽家、画家でもあり、更に、偉大な教育者、哲学者としても知られている。
 彼は一八六一年五月、多くの人材を輩出した名家に生まれた。少年時代から詩才を発揮し、イギリス留学も経験した。
 やがて、彼は一族の土地の管理者となり、郷土のベンガル地方の農民の生活を肌で知ることになる。この経験から、無知と貧困と悲惨にあえぐ祖国の現実を実感する。
 それは、タゴールに政治と社会への目覚めを促し、鋭い社会批判に富んだ数々の作品を著す、源泉となっていった。
 一九〇一年、タゴールは、カルカッタから約八十マイルほど離れたシャンティニケタン(平和の郷の意味)に寄宿学校を創設する。
 イギリスに支配された教育ではなく、ベンガルの自然のなかで、自由に、伸び伸びと子供たちの全人格を育む、創造的な教育を目指したのだ。この学園が後のヴィシュヴァ・バーラティ大学である。
 更に、彼は、インドの農民の自立のために、農村の改善運動を進めている。
 彼は現実から離れ、文学の世界にこもることをよしとはしなかった。社会の改革のために、民衆の自由のために戦う詩人であった。
 一九〇五年、植民地政府の総督は、ベンガル州をヒンズー教徒とイスラム教徒の居住地に分割することを発表した。それは宗教と宗教の対立をり、反英運動の機先を制しようとするものであった。
 この策謀にタゴールは激怒した。彼は、人びとに決起を呼び掛け、愛国歌をつくり、抗議のデモの先頭にも立った。
 タゴールが勝ち取ろうとしたのは、植民地支配からの自由だけでなく、まことの人間の自由であった。
 それゆえ、いきり立つ同胞に、暴力でインドは救えないと、訴え続けた。
 しかし、運動は過激なものとなっていった。
 もはや、それは、タゴールの非暴力の信念とは相いれなかった。彼は運動から離れざるをえなかった。タゴールは、激しい非難にさらされた。
5  平和の光(5)
 タゴールは、どこまでも人間愛を志向して、運動を展開しようとしていた。
 その信念の礎には、ウパニシャッドの哲学に通ずる深い哲理があった。
 ウパニシャッドでは、梵我一如を説く。個人の自我を意味するアートマン(我)と、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)の一致を理想とするのである。
 タゴールは、その原理の具体的な実践を仏教に見いだしていた。彼はそれを、『サーダナ』(生の実現)と題する著作のなかで、ランプを譬えに語っている。
 ──油が蓄えられただけのランプは、自分の目的を知らない、光なき自我である。しかし、その蓄えた油を犠牲にして火を燃やし、周囲を照らし出す時、初めてランプが本来持っている意味が明らかになる。ここに仏陀が示そうとした道がある、と。
 彼は、小さな「自我」が永遠なるもの、普遍なるものへと合一し、より大きな「最高自我」を目指す生き方を自らの信念として、人生の苦難に挑んでいった。
 タゴールは一九〇二年に最愛の妻を亡くし、それから数年のうちに、相次ぎ二人の子供を失った。だが、その時も、有限のなかに無限の魂を探りながら、ペンを執り続け、試練を乗り越えている。
 そのなかで書き上げた詩集『ギタンジャリ』(歌の捧げもの)により、彼は、一九一三年、ノーベル文学賞に輝いた。それは東洋人として初の受賞であった。
 周囲の評価は、手のひらを返したように一変した。カルカッタ大学は博士号を贈り、イギリス政府も「ナイト」の爵位を与えた。
 しかし、一九一九年、パンジャブ州のアムリッツァルで、イギリス軍による民衆の虐殺事件が起こると、タゴールは、決然と「ナイト」の爵位を突き返した。その行為は、インドの民衆の自尊心を蘇らせ、勇気を奮い起こさせた。
 また、彼とマハトマ・ガンジーの深き友情は有名である。意見の違いもあったが、″魂の友″であった。
 歴史の転換期ともいうべき激動の時代に、二人の精神の巨人は、民衆の大地を開拓していったのである。
 タゴールの最も大きな怒りは、人間が人間を支配することであり、国家が国家を脅かすことであった。
 彼は日本が中国への侵略を開始すると、軍国主義への怒りを詩に綴った。たびたび訪日もしていた、彼の失望は大きかった。
 しかも、このころ、極東だけでなく、ヨーロッパでもドイツが攻略を開始し、戦火は世界に拡大されていったのである。
6  平和の光(6)
 タゴールの心痛は激しかった。やがて、彼は病床につく。
 それでも、詩人は、常に、ユーモアを忘れることなく、心は生気にあふれ、陽気だった。
 そして、詩を書く体力がなくなってからも、最後の最後まで、戦争という人間の愚行を糾弾する詩を、生命を称える詩を、口述で作り続けたのである。
 一九四一年八月七日、タゴールは祖国の独立を見ることなく、カルカッタの自宅で、静かに息を引き取った。八十歳であった。
 山本伸一は、このインドの精神の王者ともいうべきタゴールに深く共感していた。青春の日に、小遣いをためては古本屋に走り、心の渇きをすかのように読んだ本の一冊が、タゴールの詩集であった。
 それだけに、伸一は、タゴールが過ごしたカルカッタには、深い親近感をいだいていたのである。
 空港から市内に向かう車のなかで、彼は町の雑踏を見ながら、タゴールが愛したベンガルの民衆のエネルギーを感じていた。
 町には路面電車が走り、車と車の間を縫うようにして、人力車も走っていた。
 ホテルに着くと、入り口の前に、時ならぬ人垣ができていた。
 このホテルに泊まっている、ある著名な映画俳優をひと目見ようと、集まって来た人たちだという。
 当時は、日本でも映画が人気を呼んでいたが、インドでも、映画が民衆の最大の娯楽のようであった。
 ホテルにチェック・インした後、一行は夕食を中国料理店ですませた。
 夜更けて、たまたま同じホテルに宿泊していた一人の年配の実業家が、伸一の部屋を訪ねて来た。この実業家は、戸田城聖も懇意にしていた人で、伸一もよく知っている人であった。
 話題は、戸田の思い出になっていった。
 「山本さん、戸田さんのすばらしいところは、学会を組織化したことではないだろうか。
 そうしなければ、学会はここまで発展しなかったと、私は思う。これからは組織の時代だ。組織があるところは伸びる」
 伸一は言った。
 「一面では確かにその通りかもしれませんが、それだけではないと思います。
 組織ならどこにでもあります。会社も、組合も、すべて組織です。そして、組織化すれば、うまくいくかといえば、逆の面もあります。組織は整えば整うほど硬直化しますし、官僚化していくものです」
7  平和の光(7)
 二人の話は、組織論になっていった。山本伸一は言葉をついだ。
 「組織というのは、人間の体にたとえれば、骨格のようなものではないでしょうか。必要不可欠なものですが、それだけでは血は通いません。
 戸田先生の偉大さは、その組織を常に活性化させ、人間の温かい血を通わせ続けたことだと思います。
 具体的に言えば、会員一人一人への励ましであり、指導です。
 私の知っているだけでも、先生から直接、指導を受け、人生の最大の窮地を脱し、人間として蘇生することができたという人が、何万人といます。
 苦悩をかかえて、死をも考えているような時に、激励され、信心によって立ち上がることができたという事実──これこそが学会の発展の源泉です。
 同志が戸田先生を敬愛したのは、先生が会長であったからではありません。先生によって、人生を切り開くことができた、幸福になれたという体験と実感が、皆に深い尊敬の念をいだかせていたのです。ゆえに、それぞれが戸田先生を自身の師匠と決めて、喜々として広宣流布の活動に励んできたのです。
 同志は、決して役職や立場についてきたわけではありません。ですから、もしも、戸田先生が会長をお辞めになっていても、先生は常に皆の先生であり、仏法の指導者であり、人生の師であったはずです」
 実業家は、驚いたように伸一の顔をまじまじと見つめた。そして、静かな声で言った。
 「なるほど……」
 「しかし、社会はそれがわからないのです。この同志の心を知ろうとしないのです。したがって、学会を論ずる評論家も、マスコミも、浅薄この上ない批判に終始してきました」
 「確かにそうかもしれない。私も、学会のことはよくわかっているつもりでいたが、そこまではわからなかった。
 また、そうした学会への批判の背景には、おそらく嫉妬もあったでしょう。戸田さんへの、そして、学会の力に対する……。
 正直なところ、私だって嫉妬したいくらいだ。今の世の中、金の力で動かせぬものはない。しかし、学会は、金の力なんかではびくともしない、偉大な精神の世界をつくってしまったんだから……。
 こんなことは、誰もできやしないだろう。だから、ほかの勢力にしても、また、為政者にしても、悔しいし、怖いようにも感じるのだろうね」
8  平和の光(8)
 実業家は、率直に自分の胸の内を山本伸一に語った。
 「もう一つ、戸田さんのすごさは、あなたという後継者を育てたことではないかと思う。
 戸田さんが亡くなった時は、これから学会はどうなるのかと思った。しかし、山本さん、あなたは見事にその後の流れを開いた。
 学会は、空中分解するどころか、ますます大きくなった。たいていは、先代の中心者がいなくなった段階で、分裂していくものだ。あなたより、古参の幹部もたくさんいたはずだ。
 あなたは、それを一つにまとめ、学会を引っ張り、今やこうして、世界にまで開こうとしている。その経営手腕はたいしたものだ。どうやって、人心を掌握しているのか、ぜひ教えてほしい」
 「私には、そんな策や方法はありません。ただ弟子の代表として、戸田先生の言われた通りに実践し、その構想を実現しようとしているのです。そして、先生に代わって、ひたすら、会員を守ろうとしているだけです。
 そのために自分をなげうっています。もし、学会を利用し、同志を足蹴にするようなものがいれば、誰であろうと、私は命がけで戦います。あえて申し上げるとすれば、無私であるということです。
 そこに皆が共感し、賛同して、ついてきてくれるのです」
 「あなたのような後継者を持った戸田さんがうらやましい。いや、実にうらやましい……」
 この実業家は、山本伸一と二時間ほど懇談すると、「勉強になった。ありがとう」と言い残して、ホテルの自分の部屋に帰って行った。
 翌六日、一行はカルカッタの市内を見学した。
 最初に訪れたのは、インドで最初の博物館として知られる、インド博物館であった。
 そこには、仏伝や、ジャータカと呼ばれる、釈尊の過去世の仏教説話の彫刻が数多く展示されていた。また、さまざまな釈像があり、同じ仏陀の顔が、時代、文化によって異なる様子が興味深かった。
 更に、ジャイナ教の寺院や、ヴィクトリア女王を記念して建てられたヴィクトリア記念堂などを視察してホテルに戻った。
 一行は、この日の夜、大客殿の資材の購入を依頼している商社の、カルカッタの支店長から食事に招かれていた。
 約束の午後七時に、伸一たちは、支店長の社宅を訪れた。
9  平和の光(9)
 支店長は一行を慇懃に迎えたが、どこか、人を見くびっているような態度が感じられた。
 自己紹介が終わると、支店長は山本伸一に言った。
 「会長さん、今や世界ですな。有能な企業は、いずれも世界に人材を出していますよ。ところで、創価学会の皆さんのなかにも、外国に出ている方がいらっしゃるのですか」
 「たくさんおります。アメリカにも、ブラジルにも支部があります」
 「ほう。そうですか。信者さんは、やはり、ご年配の方が多いのでしょうな」
 「いいえ。青年が多く、各地の活動の推進力になっています」
 「ほう。会長さんがお若いからですかね。私は会長さんは、もっと年配の方かと思っていましたよ。
 信者さんは経済的にも大変な方が多いと聞いていますし、会長さんもお若いだけに、何かと大変でしょうな。しかし、若いということは未来がありますから」
 支店長は、更に、尊大な口調で語っていった。
 「まあ、日本が国際舞台で活躍する道は、経済力をつけるしかありません。その基本は貿易ですよ。なかでも、これからはアジアとの貿易が大事になります。
 アジア各国が、日本の経済協力を求める時代も来るでしょう。しかも、資源は豊富だし、人件費もまだ安い。はっきり言って、アジアには″うま味″がある。
 ところが、このカルカッタというのは、非常に商売が難しいところで、なかなか抜け目がない。かなり商売上手でも、ここでは成功しないといいます……」
 話を聞いていると、大手商社などの大企業だけが日本の国を担い、ことに自分が、その最前線でいっさいの命運を握っているといわんばかりである。
 支店長は一方的に話し続けた。
 「こうして現地で仕事をしていますとね、日本の外交官は頼りにならんのですよ。むしろ、私たちが交渉のルートを開き、後から国が乗ってくることも少なくありません。最近の外交官には、自分が国家を背負って立つという気迫がないのですな。
 山本会長さんは、まだお若いのだから、宗教という面だけでなく、広く日本の国家や世界のこともお考えになることが大事ですよ」
 伸一は、しばらく黙って話を聞いていたが、ニッコリ頷くと語り始めた。
 「私は青年です。したがって、青年として、理想と信念を語らせていただきたいと思います」
 支店長は、驚いたように伸一を見た。
10  平和の光(10)
 山本伸一は、強い口調で語っていった。
 「日本の経済の発展のうえでは、確かに商社などの役割は重要でしょう。ただし、アジアの国々を食い物にするようなやり方では失敗します。
 経済協力でアジアに金を出す。それは結構なことです。問題は、その国の民衆に、本当に貢献できるかどうかを考えることです。
 経済力によって優位に立ち、その国をいいように利用し、巧妙に搾取するようなことは、絶対にすべきではない。つまり、アジアの国々の犠牲のうえに、日本の繁栄を考えてはならないというのが私の意見です」
 支店長は、眉をひそめたが、伸一は語り続けた。
 「日本はかつて、軍事力をもって、アジアを支配しました。戦後は、その反省から出発したはずです。
 それを今度は、経済力をもってアジアを支配するようなことをすれば、再び大きな過ちを犯すことになります。
 あなたはインドにいらっしゃるわけですから、日本のことだけでなく、インドの民衆が豊かになるためには、何が必要なのかを、常に考えていくべきです。
 いわば、インドの人びとの幸福を目指し、共存共栄の道を真剣に探し求めていかなくてはならない」
 支店長は、たじろいだ表情をしていたが、それでも虚勢を張って言った。
 「共存共栄は、私どもの仕事の大原則でしてね」
 「ところが、その大原則を忘れているケースがあまりにも多いのです。それが残念なんです。
 仏法は共存共栄の大原理を説いた哲学です。他者を犠牲にして自らの繁栄を考えるような、人間の傲慢さを革命する、生命の変革の哲理が仏法です。
 したがって、私は日本のため、世界のために、その仏法を広めようとしているのです。本当に日本の国家を、世界の未来を憂いているのは私たちです。
 今、私が申し上げたことは、十年後、二十年後に、より明確になっていくでしょう」
 支店長は額に汗を浮かべながら、伸一を見ていた。
 伸一は、同行のメンバーに促した。
 「さあ、いろいろとご意見もお伺いすることができたし、それでは、これで失礼しましょうか」
 慌てて支店長が言った。
 「いや、これから食事ですから、そうおっしゃらずに、ぜひ召し上がっていってください。お願いいたします」
 それは、もはや哀願といってよかった。
 伸一は相手の立場を思い、食事をご馳走になることにした。
11  平和の光(11)
 獅子には誇りがある。
 山本伸一が商社の支店長に、あえて厳しく臨んだのは、学会を見下したような態度に対して、戸田城聖の弟子としてのプライドが許さなかったからである。
 また、アジア諸国への日本人としての傲慢さを、戒めておかねばならないと、感じたからでもあった。
 伸一は支店長の社宅からホテルに帰ると、同行の幹部に語った。
 「私たちは、食事を恵んでもらう必要などありません。相手が学会をどう思おうと勝手だが、こちらも、言うべきことは言い切っていかなければならない。食事をご馳走になるために、学会への誤った認識を正さないというのは、あまりにも卑しい生き方です」
 彼は戦う獅子であった。
 翌二月七日は、インドを出発し、ビルマ(現在のミャンマー)に向かう日であった。
 一行は午前九時半にホテルを出て、十一時半にカルカッタを飛び立った。これで八日間にわたって滞在したインドと別れを告げることになる。
 飛行機の窓の下にガンジス川の河口が見えた。幾筋もの流れが、競い合うようにして海に注ぎ込む様は壮観であった。
 飛行機がビルマ上空に入ると、伸一は心で唱題を始めた。
 ビルマでは、戦時中、多くの戦死者が出ていた。彼の長兄も、徴兵され、ここで命を落としたのである。
 それらの人びとの冥福と、永遠の平和を祈念しての唱題であった。
 午後三時、飛行機はビルマの首都ラングーン(現在のヤンゴン)の空港に到着した。
 空港では二人の現地のメンバーと、漁業会社に勤務し、遠洋漁業でビルマに来ていた絹谷清次という日本人のメンバーが出迎えてくれた。
 現地メンバーの一人は、ミン・モンという、貿易会社の重役の壮年であった。彼は商用でビルマに来ていた日本人の学会員から仏法の話を聞き、前年の十月に日本を訪れ、入会した。
 まだ、入会して四カ月ほどであったが、広宣流布の意欲に燃え、折伏中であるという友人も連れて来ていた。その友人は、ビルマのアメリカ大使館に勤務している壮年であった。
 伸一は、このビルマの地にも、新しい妙法の芽が兆していたことが、たまらなく嬉しかった。
 「出迎えありがとう!」
 彼は、一人一人と握手を交わしながら、心からその労をねぎらった。
12  平和の光(12)
 ラングーン(現在のヤンゴン)は、これまでに訪問したインドの各都市と比べると、緑が多く、静かで落ち着いた感じがした。
 また、道行く人の風貌も、日本人を思わせた。
 ラングーンの市内には、ロイヤル湖とインヤ湖という二つの湖があり、丘の上には、シュエダゴン・パゴダと呼ばれる巨大な黄金の仏塔が建っていた。
 一行の宿は、高楼を持つ、クラシックなカンボザという名のホテルであった。後に、この建物は国立芸術学院となっている。
 その後、山本伸一が創立した「民主音楽協会」の招聘で、一九九二年(平成四年)にミャンマー国立劇場舞踊団が来日することになるが、その団員は、皆、この国立芸術学院の出身者であった。
 一行は翌日、ラングーンから車で二時間ほどのところにある古都ペグー(バゴー)に出掛けた。
 ペグーはかつて、モン族の王朝の都として栄えたところであり、ここには、釈尊の二本の髪の毛を蔵しているといわれるシュエマウダウ・パゴダや、巨大な釈尊の涅槃像がある。
 車窓には、木や竹、ニッパヤシで作った家々が並んでいた。
 また、ビルマ(現在のミャンマー)では、国民の大多数が仏教徒であるだけに、随所で黄色い衣を纏った僧侶の姿が見られた。
 ペグーに着いて、シュエマウダウ・パゴダを見学しながら、伸一は、日達上人に話しかけた。
 「この国もそうですが、東南アジアの仏教の多くは上座部の教え(小乗教)であり、日本にはほとんど伝わらなかっただけに、その実情は知られていません。
 しかし、人びとの間に深く定着し、文化を育んできたことは間違いありません。そこで『随方毘尼』という観点から、それぞれの国の文化や伝統に即して、妙法の流布を考えた場合、この上座部の仏教をはじめ、アジアの宗教、文化について研究する必要があるのではないでしょうか」
 それは、彼が、アジアの国々を回るなかで、感じ続けてきたことでもあった。
 日達上人が頷きながら、答えた。
 「大切なことだと思います。人びとの宗教観も、日本とは大きく異なっているでしょうし、研究が大事でしょうね」
 伸一は、アジアの同胞が願い求める平和の光が、日蓮大聖人の仏法であることを伝えるために、何をなすべきかを、真剣に問い続けていたのである。
13  平和の光(13)
 シュエマウダウ・パゴダを視察した一行は、大涅槃像を安置してある建物の前にやって来た。
 なかに入ると、身長約五十五メートルといわれる釈像が横たわっていた。レンガ造りの上に、漆を塗り固めたものという。
 金色の衣に身を包んだ、柔和な涅槃像の顔は、微笑みかけているようにも見えた。
 山本伸一は日達上人に言った。
 「猊下が来られたので、釈尊も微笑んでいますよ」
 「いや、山本先生が来られたことを喜んでいるのでしょう」
 二人は微笑み合った。
 大涅槃像を見学した後、一行はラングーン(現在のヤンゴン)に戻り、ホテルでしばらく休憩した。
 夕刻からは、市内にある日本人墓地を訪れた。
 ビルマ(現在のミャンマー)で戦死した伸一の長兄の喜久夫の、追善の法要を行うためであった。
 墓地は石の塀で囲まれ、なかには木々が生い茂っていた。
 その墓地の奥に、「大東亜戦争陣没英霊之碑」と彫られた石碑があった。ビルマ戦線で死んだ戦友の冥福を祈って、昭和二十二年五月に、ビルマ方面軍の生存者が建てたものである。
 このビルマで、一九四四年(昭和十九年)の三月八日、太平洋戦争のなかでも「最も無謀」な作戦といわれたインパール作戦が実行されたのである。
 日本軍が、イギリスの植民地であるビルマに侵攻したのは、太平洋戦争の開戦の翌月の四二年(同十七年)一月であった。
 そして、三月には首都ラングーンを占領。ほどなくビルマ全土を支配下に置き、軍政を施行した。
 その時、日本軍とともに戦ったのが、ビルマ独立義勇軍であった。
 この義勇軍の中心的人物が、後に「ビルマ独立の父」といわれたアウン・サンである。一九九一年にノーベル平和賞を受賞したアウン・サン・スー・チーは彼の娘である。
 当初、アウン・サンはイギリスからビルマの独立を勝ち取るために、日本軍に協力し、日本の占領下にあった海南島(ハイナンタオ)で、同志とともに、日本軍に軍事訓練を受けていた。
 初め、日本軍はビルマを占領した後は、独立させることを約束していた。しかし、占領後は時期尚早として、それを延期してきた。
 当然、日本軍への支持は失われ、ビルマ国内には批判が渦巻き始めた。
14  平和の光(14)
 ビルマ(現在のミャンマー)から撤退したイギリス軍は、インドのインパールなどに拠点を置き、ビルマ奪回を計画していた。国境の緊張は高まっていった。
 それに対して日本軍は、防御を固めるより、一気にインパールを攻略し、イギリスに打撃を与えようとする計画を練っていた。インパール作戦である。
 ビルマからインパールを目指すには、険しい山岳地帯を行かねばならない。
 そのなかを、前線の部隊に、必要とする十分な食糧や弾薬、燃料などの物資を輸送することは難しく、補給計画は成り立たないことから、当初は、反対意見が多数を占めていた。
 しかし、作戦の発案者である、ビルマ北部の防衛にあたっていた第十五軍の司令官は、この作戦の実行を強硬に主張した。
 彼は、人一倍、自負心の強い、激しい気性の人物であったといわれている。また、イギリス軍を撃退し、軍功を挙げてきたことからくる、慢心と油断もあったにちがいない。そして、結果的に勝利を得れば、すべては称賛に変わるとの思いもあったようだ。
 作戦の成否への熟慮よりも、過信と功名心が強く働いていたといってよい。
 しかも、彼は反対意見を唱えた参謀長を、消極的だとして更迭さえした。自分と異なる見解を主張する人間を排斥し、ただ、ロボットのように自分に従う者だけを取り立てていく時、組織は安全弁を失い、暴走していくことになる。
 一方、大本営でも、物資を投入できないことから、インパール作戦に反対する者も少なくなかった。
 一九四三年(昭和十八年)八月、日本はビルマの独立を認め、バー・モー政府が発足した。しかし、独立といっても、見せかけにすぎず、実際には日本軍の支配下に置かれていた。
 日本がビルマの独立を認めたのは、大東亜共栄圏の建設という名目を保つとともに、ビルマの人たちの反発をなだめる必要があったからである。更に、それによってイギリス領インドの独立運動をり、イギリスを混乱させようとする狙いもあった。
 当時、大本営には、ビルマを、悪化する戦局を開く突破口にしたいとの期待もあった。それだけに、インパール作戦の無謀さはわかっていながら、強硬に反対できない雰囲気がつくり出されていた。
 結局、反対意見は次第に封じ込められ、誰も責任ある判断を下さぬまま、事態は推移していくのである。
15  平和の光(15)
 やがて、インパール作戦の最終計画案の検討に入った。それは客観的な条件を全く無視し、インパールを三週間以内に陥落させるというものであった。
 しかし、第十五軍の司令官は、インパールの攻略はたやすいと広言して、はばからなかった。そして、直接の決裁権を持つ方面軍司令官も、大本営も、最終的に認可してしまう。
 ところが、その大本営は、現場から出された自動車中隊などの増強の要請を、当初の二割以下に削減した。
 更に、弾丸や食糧などの物資の補給の目処も立たぬまま、作戦は決行されることになるのである。
 物量的にも、理論的にも勝利の公算は全くなかった。まさに裏付けのない精神論が、現実を直視する眼を塞がせ、兵士を死へと駆り立てていったのだ。
 一九四四年(昭和十九年)三月八日、インパール作戦が開始された。
 兵士が携行した食糧は、わずか三週間分にすぎなかった。食用などにするつもりで連れて行った牛も、大半が川でれ死んだ。
 作戦開始から約一カ月で、日本軍はようやくインパールの近くまで来たが、イギリス軍の戦車による猛攻撃で、それ以上進むことはできなかった。弾丸も食糧も、既に底をついていた。
 制空権を掌握し、空輸で食糧などの補給のできたイギリス軍に対し、日本軍の前線は、ほとんど補給の術を断たれていた。
 五月末になると雨期に入った。飢えだけでなく、マラリア、赤痢が兵士たちを襲った。
 しかも、六月一日、作戦に参加した三師団のうちの一人の師団長が、独断で師団を撤退させるという、未聞の事態まで起こった。
 これによって、残りの二個師団は、ますます窮地に立たされることになる。
 もはや、インパール作戦の失敗は明らかであった。陸軍参謀総長も、方面軍司令官も、第十五軍の司令官も、皆、失敗を痛感していたのである。
 しかし、誰も、自分からは作戦の中止を口にしようとはしなかった。もし、それを言い出せば、自らの失敗を認めることになってしまうからである。
 作戦は中止されることなく、ずるずると放置されたままの状態が続いた。
 上層部の保身が、その無責任さが、前線の兵士たちを見殺しにしてしまったのである。
 兵士たちは、戦闘だけでなく、飢えや病のために死んでいった。また、自ら命を絶つ者も続出した。
16  平和の光(16)
 インパール作戦が中止されたのは、作戦開始から実に四カ月後の七月初めのことであった。
 撤退もまた、凄惨を極めた。インパールからビルマに至る道には無数の屍が横たわり、「白骨街道」と呼ばれた。
 まさに、軍上層部の無責任さが、作戦に参加した兵士約十万のうち、戦死者約三万、傷病兵約四万といわれる事態をもたらすに至ったのである。
 それに対して、あのノルマンディー上陸作戦の連合軍最高司令官で、後にアメリカ大統領となったアイゼンハワー将軍の責任感は、まさに対極をなしていたといってよい。
 「史上最大の作戦」として知られるノルマンディーの上陸に際して、彼は万全の準備をもって臨んだ。しかも、そのうえに、もしも、作戦が失敗した場合の、声明まで用意していた。
 それは、鉛筆書きで、こう記されている。
 「上陸作戦は、十分な足場を確保することができず、私は軍隊を撤退した。
 この時期に、この地点を攻撃するという、私の判断は、入手可能な最高の情報に基づいて下されたものである。
 空軍と海軍は、力の限りを尽くして、勇敢に義務を果たしてくれた。
 もし、このたびの作戦に落ち度があり、非難されるべきことがあれば、それは、すべて私一人の責任である」
 ノルマンディー上陸作戦は大成功を収め、失敗の声明が発表されることはなかった。その勝利は、行動に移る前に、失敗した時のことまで考え、事前の準備を進める周到さと責任感がもたらしたものと見ることもできよう。
 ともあれ、インパール作戦の失敗は、ビルマ戦線の日本軍を更に追い込む結果となり、以後、敗走を重ねていくことになる。
 山本伸一の長兄の喜久夫は、インパール作戦で、前線への軍需品の輸送に当たっていた。
 作戦の中止後は撤退部隊の援護などのために、ラングーン(現在のヤンゴン)の北方約六百キロメートルに位置する、古都マンダレー西方のミンジャン付近で、渡河の輸送を担当した。
 ミンジャンは、イラワジ川(現在のエーヤワディー川)とチンドウィン川の合流地点である。
 そして、一九四五年(昭和二十年)一月十一日、イラワジ川の輸送任務中に、喜久夫の乗っていた船が、イギリス軍の戦闘機の攻撃を受け、戦死したのである。二十九歳であった。
 明朗快活で責任感と正義感の強い兄であり、弟妹からも慕われていた。
17  平和の光(17)
 伸一は、兄たちのなかでも、ことのほか長兄の喜久夫に信頼を寄せていた。この兄とは、いくつもの忘れがたい思い出があった。
 その一つが、長兄と分け合った一枚の鏡の破片である。それは、母が父のもとに嫁いだ時に、持参した鏡であった。
 まだ、伸一が幼い少年のころのことだ。何かの拍子で、その鏡が割れてしまった。長兄と伸一は、破片のなかから、それぞれ手のひらほどの大きさのものを拾った。それは二人の大切な宝物になった。
 長兄は徴兵されると、その鏡の破片を持って出征していった。
 伸一は、兄は戦地にあって、きっと、この鏡を取り出しては母をしのび、自分のことも思い出していたにちがいないと思った。
 伸一もまた、破片を見ては兄をしのんだ。
 最初、長兄は中国大陸に出兵していた。
 そして、一九四一年(昭和十六年)に、一時、帰国したことがあった。
 その時、長兄は憤懣やるかたない様子で、戦争の悲惨さを伸一に語った。
 「日本軍は残虐だ。あれでは、中国人がかわいそうだ。日本はいい気になっている! 平和に暮らしていた人たちの生活を脅かす権利なんて、誰にもありはしないはずだ。こんなことは絶対にやめるべきだ」
 そして、最後に、涙さえ浮かべて言った。
 「伸一、戦争は、決して美談なんかじゃない。結局、人間が人間を殺す行為でしかない。そんなことが許されるものか。皆、同じ人間じゃないか」
 「でも、兄さんは帝国軍人でしょ」
 「そうだ。そして、戦地を見てきたからこそ、私はお前に言うのだ」
 その長兄の話が、いつまでも伸一の心に焼きついて離れなかった。
 当時、伸一は、国民学校に通っていた。この年の四月から、国民学校令によって、彼が通学していた羽田高等小学校も、萩中国民学校に名前が変わっていたのである。
 国民学校令には、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」とあるように、学校は国のために忠義を尽くす、″少国民″を錬成する道場となっていった。
 軍国主義は、幼い魂にも、刷り込まれていったのである。
 伸一も国民学校で、国のために戦い、死ぬことが、臣民としてのまことの道であると教えられていた。
 それだけに、長兄から聞いた戦争の話は、衝撃的であった。
18  平和の光(18)
 やがて、国民学校の卒業が近づいてくると、山本伸一は思い悩んだ。
 自分も国のために役立ちたいとの強い気持ちから、少年航空兵になることを考えていたからである。
 ″兄さんが言うように、戦争は残酷かもしれない。しかし、日本の戦争は東亜の平和を守る聖戦なんだ″
 伸一は、純粋にそう信じていた。
 父も母も、彼が少年航空兵になることには、絶対に反対であった。それでも、伸一は志願した。
 志願書をもとに、彼の留守中に、海軍の係員が訪ねて来た。
 父親は、猛然と言った。
 「うちは、上の三人とも兵隊に行った。間もなく四番目も行く。そのうえ五番目までもっていく気か。もうたくさんだ!」
 父の気迫に、係員は「わかりました」と言って帰っていった。
 伸一が家に帰ると、父親は彼を怒鳴りつけた。
 「俺は、どんなことがあっても、お前を兵隊にはさせんぞ!」
 常にない父の見幕であった。伸一は不満を感じた。
 しかし、長兄が語っていた言葉が、伸一の頭をよぎった。
 「後に残って、一家を支えるのは、伸一、お前だ。親父の力になってあげてくれ。それから、お袋を大事にな……。俺の分まで、親孝行するんだぞ」
 彼は、やむなく家の近くの新潟鉄工所に就職した。
 会社は軍需工場として艦船部門の一翼を担っていった。社内には、青年学校が設けられ、工場実習、勉強のほか、軍事的な教育、訓練も行われた。
 指導員は、生産力を上げることが、戦地で戦う兵士を守る力になると強調していた。
 それを聞くたびに、伸一は長兄の喜久夫をはじめ、戦地にいる兄たちを思い、疲れ果てた体に鞭打って、仕事に全力を注いだ。
 ある時、指導員がネジの切り方に関連して、方程式を黒板に書いて説明した。しかし、大雑把な説明でもあり、伸一は十分に理解できなかった。
 質問すると、指導員は一した。
 「なに! そんなことはわからんでいい! 生意気なことを言うな!」
 問答無用の、強圧的な態度である。
 青年学校では、指導教官や上級生による往復ビンタも、日常茶飯事であった。
 工場、学校も、軍隊同様であり、国民は皆、兵士といってよかった。
 このころから、伸一は咳き込み、発熱することが多くなっていった。
19  平和の光(19)
 それは一九四四年(昭和十九年)の夏、猛烈な太陽が照りつける、昼下がりのことであった。
 山本伸一は、青年学校の軍事教練で、木銃を持ち、蒲田駅近くの工場から、多摩川の土手に向かって行進していた。
 彼は、突然、気分が悪くなって倒れかけた。
 「どうした!」
 「大丈夫か!」
 周りにいた友達が、彼を支えてくれた。
 苦しかったが、その日はどうにか最後まで教練を持ちこたえた。しかし、血痰を吐いた。
 伸一は結核に罹っていたが、無理を重ねながら、仕事と教練を続けてきたのである。三十九度の熱を押して、仕事をしたこともあった。リンパ腺は腫れて、はこけていったが、悠々と医者にかかれる身分ではなかった。
 ただ『健康相談』という雑誌だけを頼りに、せめて自分で健康に気遣うことしか、対応はなかった。といっても、食糧事情も最悪な時代であり、十分な栄養をとることもできなかった。
 その後、やむをえず、事務系の仕事にかえてもらった。しかし、一九四五年(同二十年)の初めごろには、とうとう医師から、地方の結核療養所に入るように言われた。もはや病状は絶望的であったようだ。
 このころになると、日本の敗色は濃厚になっていた。少年航空兵になった友達が、戦死したとの話も、彼の耳に入ってきた。
 国のために戦い、死んでいった友人がいるのに、病に侵され、何もできずにいる自分を、伸一は恥じた。
 やがて、蒲田も大空襲に見舞われた。その時も、伸一は、長兄と分け合った鏡の破片をポケットにしのばせて、焼夷弾の下をくぐり抜けてきた。
 空襲によって、入院の話も、いつの間にか立ち消えてしまった。
 この胸の病は、戦後も、長く伸一を悩ませ続けることになる。
 だが、何よりも彼を苦しめたのは、終戦による精神の空虚感であった。
 天皇に殉じよと教え込まれ、国家を信じてきた伸一にとって、終戦は、すべての価値観の喪失にほかならなかった。
 なんのための戦争であったのか。天皇とは、国家とは、正義とはなんなのか。人間とはなんなのか──敗戦の焼け跡に立って、彼は悩み、考え続けた。
 その確かな答えを得るには、戸田城聖との出会いまで、戦後、二年の歳月を待たねばならなかった。
20  平和の光(20)
 終戦を迎えると、山本伸一が勤めていた新潟鉄工所は閉鎖になった。
 彼は、蒲田区(現在の大田区)の下丸子にある内燃機の会社に勤め、家計を支えた。
 戦後の食糧難は、病身の伸一をさいなんだが、それにも増して、彼は知識に飢えていた。精神を満たしたかったのである。
 伸一は働きながら、夜学に通うことにした。校長の理解もあり、簡単な筆記試験だけで、神田の三崎町にある東洋商業の夜学の二年に編入を許可された。
 翌一九四六年(昭和二十一年)の一月には三番目の兄が、八月には四番目の兄が、九月には二番目の兄が復員してきた。
 子供たちが復員して来るたびに、父も母も明るさを増し、一家は活気づいていった。
 しかし、長兄の喜久夫の消息は、依然としてわからなかった。家族がつかんでいた消息といえば、南方に向かったということだけであった。
 長兄の話が出ると、母はこう言うのが常であった。
 「大丈夫、大丈夫。きっと元気で戻ってきますよ。だって、『必ず生きて帰ってくる』と言って出ていったんだもの」
 そう語ることで、必死に自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
 終戦の日から二年近くが過ぎようとしていた、四七年(同二十二年)の五月三十日のことであった。大森区(現在の大田区)の森ケ崎の家に、役所の人が訪ねて来た。ここは父の家作だったところだが、終戦直後から一家が住んでいた。
 年老いた役所の人は、気の毒そうな顔で、一通の書状を母親に手渡した。長兄の戦死の公報であった。
 母は丁重にお礼を言い、それを受け取ると、家族に背中を向けた。その背が小刻みに震えていた。声を押し殺すようにして、すすり泣く声が聞こえた。
 その公報には「昭和二十年一月十一日、享年二十六歳 ビルマで戦死」となっていた。
 この時点では、戦死の状況は何もわからなかった。また、長兄は二十九歳になっているのに、なぜか、公報では三歳も違っていた。年齢が違っているところから、家族の誰もが、戦死も間違いであってほしいと願った。
 間もなく、遺骨も帰ってきた。それを目にすると、家族のはかない望みは打ち砕かれた。
 伸一は、きっと長兄は、自分と分け合った母の鏡の破片を身につけたまま、息を引き取ったのだろうと思った。
21  平和の光(21)
 母はいつまでも、長兄の遺骨を抱き締めていた。
 母は、どんな時でも気丈であった。その母が打ち沈んでいる姿に、伸一の胸は痛んだ。
 母の芯の強さを物語る、こんな思い出がある。
 ──戦争末期のことだ。蒲田区(現在の大田区)の糀谷にあった家が、空襲による類焼を防ぐために取り壊しが決まり、強制疎開させられることになった。やむなく、近くの親戚の家に一棟を建て増して、移ることにした。
 家具も運び込み、明日から皆で生活を始めることになった時、空襲にあった。その家も焼夷弾の直撃を受け、全焼してしまった。かろうじて家から持ち出すことができたのは、長持ち一つだった。
 翌朝、途方に暮れながら、皆で焼け跡を片付けた。生活に必要な物は、すべて灰になってしまった。ただ一つ残った長持ちに、家族は期待の目を向けた。
 しかし、長持ちを開けると、皆、言葉を失ってしまった。中から出てきたのは雛人形であった。その端に、申し訳なさそうに、一本のコウモリ傘が入っているだけであった。
 長持ちを、燃え盛る火のなかから、必死になって運び出したのは、伸一と弟である。伸一は全身の力が抜けていく思いがした。
 家族の誰もが、恨めしそうな顔で、虚ろな視線を雛人形に注いだ。
 その時、母が言った。
 「このお雛様が飾れるような家に、また、きっと住めるようになるよ……」
 母も、がっかりしていたはずである。しかし、努めて明るく語る母の強さに励まされ、家族は、勇気がわくのを覚えた。
 焼け跡に一家の笑い声が響いた。母の胸には、″負けるものか!″という、強い闘志が燃えていたにちがいない。
 しかし、そんな母にも、長兄の戦死の衝撃は大きかったようだ。遺骨を抱きかかえ、いつまでも背中を震わせて、泣き濡れていた。
 伸一は、その姿を忘れることができなかった。
 以来、父も、めっきりふけこんでしまった。
 それから、十四年の歳月が流れようとしていた。
 山本伸一の一行は、ラングーン(現在のヤンゴン)市内の日本人墓地で、「大東亜戦争陣没英霊之碑」に向かい、日達上人の導師で読経・唱題した。
 伸一は、長兄をはじめ、ビルマ戦線で死んでいった人びとの冥福を願い、真剣に祈りを捧げた。
 唱題の声が、夕焼けの空に広がっていった。
22  平和の光(22)
 山本伸一の唱題は、恒久平和への強い誓いとなっていった。
 追善の唱題を終えると、伸一は、心に長兄の顔を思い浮かべながら、日達上人に言った。
 「ともに勤行していただき、ありがとうございました。兄をはじめ、ここで亡くなった戦没者の方々への最高の追善になったと思います」
 伸一は、戦没者の碑の前に、しばらく佇んでいた。
 彼は思った。
 ──戦争という愚行を、人類は決して犯してはならない。
 しかし、振り返ってみれば、二十世紀は「革命」と「戦争」に明け暮れ、既に三分の二が過ぎようとしている。
 そして、戦時中の日本に限らず、どの国も「民族」や「国民」のためと言いながら、結局は、権力が人間を利用し、手段としてきた。
 伸一は「汝の人格ならびにあらゆる他人の人格における人間性を常に同時に目的として使用し、決して単に手段としてのみ使用しないように行為せよ」(深作守文訳)との、カントの言葉を思い起こした。
 この「人間のために」という原則は、国家権力にも例外なく適用されなければならないはずだ。
 ところが、国家対国家の戦いのもとで、その犠牲になるのは、いつも人間であり、無名の民衆ではなかったか。恐るべき本末転倒といってよい。
 彼は二十世紀という時代が、大量殺戮に明け暮れてきたことを思うと、胸に、怒りと悲しみがあふれた。
 二十世紀の開幕からまもない一九〇三年(明治三十六年)、若き日の初代会長牧口常三郎は、処女作『人生地理学』において、社会と社会、国家と国家の生存競争に触れている。
 そこで、牧口は「軍事的競争」「政治的競争」「経済的競争」「人道的競争」の四つをあげて、人類史が「人道的競争」に向かうことを待望していた。
 日露戦争が勃発する前年のことである。驚くべき、先見といってよい。
 しかし、その後の世界は「軍事的競争」に狂奔し、戦争を繰り返してきた。日本もその当事国であった。
 その戦争によって、膨大な数の人間の血が流され、やがて、日本は敗戦という破局を迎えることになる。
 戦前の日本を軍国主義一色に塗り固め、戦争へと暴走させる大きな要因となったのが、思想統制の問題といえよう。
 なかでも、その代表的な例が、治安維持法の成立である。
23  平和の光(23)
 治安維持法は今日、希代の悪法として知られているが、それはどんな状況のなかで生まれたのだろうか。
 第一次世界大戦は、大戦景気をもたらし、資本家を潤した一方、物価の高騰により、民衆の生活は迫していった。このため、米騒動も起こっている。
 そうしたなかで、民本主義や社会主義、共産主義の運動をはじめ、労働者、農民、婦人など、さまざまな大衆的な運動が広がり始めたのである。
 これらの運動は、言論、出版、結社の自由の獲得や政党内閣制、普通選挙の実施などを主張していた。
 いわゆる「大正デモクラシー」である。
 そして一九二四年(大正十三年)、護憲運動の高まりのなか、政党政治が始まると、加藤高明護憲三派内閣は、二十五歳以上の全男子に選挙権を与える、普通選挙法の制定に踏み切ろうとした。
 しかし、労働者や農民が選挙権を持ち、普通選挙が行われれば、社会主義者などが選挙で当選し、衆議院に進出してくるであろうという恐れがあった。
 更に二五年(同十四年)一月に、日ソ基本条約が調印されると、共産主義思想の流入を防がねばならないとの危機感も広がった。
 そこで内閣は、普通選挙法によって、政治的自由を拡大する一方で、思想統制に乗り出し、同年三月、普選法案の成立に先立って、治安維持法案を可決したのである。
 以来、「国体の変革」を目指したり、「私有財産制度」を否認する「結社」が取り締まりの対象になっていく。
 「国体」とは、明治憲法に定められた、万世一系、神聖不可侵の天皇を中心とした政治体制である。
 普通選挙という「大正デモクラシー」の果実を取り入れるその時、皮肉にも、同じ政党内閣の手で、自由を踏みにじる治安維持法が制定されたのである。
 しかも、多くの国民は、早い時期に、治安維持法の危険な本質を見極めることができなかった。
 そして、この悪法は、二八年(昭和三年)、刑罰に死刑と無期懲役を加えるなどの″改正″が行われ、まさに「蟻の一穴」のごとく、自由と人権の根幹を食い破っていくのである。
 権力が暴走し、猛威を振るう時には、必ず思想や信教への介入が始まる。ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、時代は暗黒の闇のなかに引きずり込まれることを知らねばならない。
 これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。
24  平和の光(24)
 一九二六年十二月、「昭和」の幕が開いた。
 第一次世界大戦後の不況と関東大震災(大正十二年)による大打撃から、いまだ立ち直れずにいるところへ、二九年(昭和四年)の世界大恐慌の嵐が襲った。
 まさに、内外ともに激動の時代であった。
 深刻な社会不安は、国家主義運動を台頭させ、政治の世界では、軍部の圧力が高まっていった。
 創価教育学会が産声をあげたのは、その激動のさなかの、一九三〇年(同五年)のことであった。
 この翌年、いわゆる満州事変が勃発し、日本は以後十五年に及ぶ日中戦争に突入していく。
 国民の多くは、この戦争を支持した。
 それは、マスコミの情報から、真実を知り得なかったことにも、大きく左右されたといってよい。
 「満州事変」の契機となった満鉄の爆破にしても、当時の新聞、ラジオは、軍部のでっちあげた情報のみを伝え、侵攻に異を唱えようとはしなかった。
 たとえば一九三一年(同六年)九月十九日付の東京朝日新聞には、「暴戻なる支兵が満鉄線を爆破し我が守備兵を襲撃したので我が守備隊は時を移さずこれに応戦し……」とある。
 更に同紙は、四日後の二十三日付では、「満州問題早わかり」と題して、解説記事を掲載している。
 その前文には、「この事変の原因が単に支暴兵の我が満鉄破壊の一事件のみに存せず、遠因は満州における正当なる我が条約上の権益に対する支官民の々たる侵害に存して居ります」と記されている。
 こうした報道に接していれば、人びとが中国人に敵意をいだき、関東軍の侵攻は正当なものであると思うのも無理からぬ話である。
 もちろん、当時から軍部による報道管制は行われていた。抵抗すれば、当然、圧力もかかったであろう。
 しかし、もしも、マスコミが真実を伝える本来の使命を忘れなければ、戦争回避の方向へ世論を喚起する可能性も、あるいは残されていたかもしれない。
 ところが、当時のマスコミの多くは、進んで軍部に協力し、軍国美談をつくりあげ、戦争を礼賛していたのである。
 マスコミの発する情報が真実ならば、それは民衆の地図となり、道案内となるものだ。だが、マスコミが国家権力と連携し、真実を覆い隠してしまうならば、民衆はどうなるか。
 ゆえに、言論人の責任は実に重いのである。
25  平和の光(25)
 軍部は、五・一五事件、二・二六事件など、クーデターを巧妙に利用し、着々と独裁への流れをつくっていった。国際連盟の脱退も、耳障りな国際世論から解放されると受け止められた。
 そして、満州国の支配を強化し、一九三七年(昭和十二年)七月、盧橋事件を発端に、遂に日中全面戦争に突入していく。
 八月になると、政府は、国民精神総動員実施要綱を閣議決定した。以後、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」が叫ばれ、神社への参拝、教育勅語の奉読、戦没者慰霊祭、出征兵士の歓送などが強制されていった。
 創価教育学会の発会式が行われたのは、この年の秋のことであった。
 当時の機関誌である『新教』の三六年(同十一年)四月号に掲載された「創価教育学会綱領」によれば、会の目的を次のように定めている。
 「創価教育学体系を中心に教育学の研究をなし、国家百年の大計たる教育の徹底的革新を遂行し、且又それが根底たる宗教革命の断行をなすを以て目的とす」
 それは、教育改革を目指してスタートした創価教育学会が、すべての根底をなす宗教革命に、いよいよ本格的に取り組むことを意味していた。
 三五年(同十年)十二月に始まる、大本教の第二次弾圧事件、翌年九月に始まる、ひとのみち教団の弾圧事件など、宗教弾圧の嵐が吹き荒れるなかで、宗教革命を掲げての創価教育学会の発会式である。
 前途に、いかなる試練をも覚悟のうえで、牧口常三郎と戸田城聖は立ち上がったのである。
 暗黒の時代は、風雲急を告げていた。国家総動員法の公布、大政翼賛会の成立など、一国を挙げての戦時体制は刻々と強化された。
 日米開戦の緊張が高まる四一年(同十六年)の三月には、治安維持法の″大改正″が行われた。
 その第七条では、「国体ヲ否定シ又ハ神宮若ハ皇室ノ尊厳ヲ冒スベキ事項ヲ流布スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」も、処罰の対象となることをうたっている。
 国体の「否定」とは、具体的な行為ではなく、人間の心の領域の問題である。つまり、国体を認めない考えを持ち、結社を組織したとみなされれば、処罰されるということであった。
 それは、人間の精神までも、完全に国家の支配下に置かれたことを意味していた。
 まさに、思想統制も行き着くところまで、行き着いてしまったのである。
26  平和の光(26)
 国家権力の魔性は、今や凶暴なをむき出し、荒れ狂っていた。
 そのさなかの一九四一年(昭和十六年)四月、創価教育学会は、東京・神田の共立講堂で臨時総会を開催した。
 その講演のなかで牧口常三郎は、「自己を空にせよということはである。自分もみんなも共に幸福になろうというのが本当である」と語っている。
 これは、当時、叫ばれていた「滅私奉公」という考え方を、明確に否定するものであった。
 学会は前年の十月、新たに綱領、規約などを決定していたが、その綱領の第一項目にも次のようにある。
 「本会は他を顧み得ぬ近視眼的世界観に基づく個人主義の利己的集合にあらず、自己を忘れて空観する遠視眼的世界観に基づく虚偽なる全体主義の集合にもあらず、自他倶に安き寂光土を目指す正視眼的世界観による真の全体主義の生活の実験証明をなすを以て光栄とす」
 この「近視眼的世界観」とは、自分さえよければ、他のことや全体の繁栄を考えようとしない利己主義的な人生態度をさしている。
 また「遠視眼的世界観」とは、個性や主体性を埋没させ、ただ国家のために自身をなげうつことをよしとする生き方をさしている。つまり、個の尊厳を奪い、死を賛美し、戦争へと人びとを駆り立てようとしている軍国主義への、痛烈な批判であったといってよい。
 そして、「自他倶に安き寂光土を目指す正視眼的世界観」に立つことを目的に掲げたのである。それは、自他ともの幸福を目指す生き方である。この後の「真の全体主義」とは、個人と社会の調和であり、一人一人が仏法によって主体性を開花させ、社会の建設に貢献し、全体の繁栄をもたらしていく意義でもあった。
 更に四一年(同十六年)の七月には、会報『価値創造』を創刊。その第五号(同年十二月発刊)には、「宗教改革造作なし」と題する牧口の論文が掲載されているが、そこには次のように述べられている。
 「いかに古来の伝統でも、出所の曖昧なる、実証の伴はざる観念論に従って、貴重なる自他全体の生活を犠牲にすることは、絶対に誡しめられなければならぬ。これに就ては一番先ず神社問題が再検討されねばならない」
 日本が太平洋戦争に突入したこの時に、彼は戦争遂行のための精神的支柱である国家神道の誤りを、敢然と正そうとしていた。
27  平和の光(27)
 国家神道は、日本の国を「現人神」である天皇の国としていた。
 それは、人類の普遍的な価値や、民主の精神とは、相反するものとならざるを得ない。更に、日本的な「選民」思想を育むとともに、他の国家や民族に対する、差別意識を培っていくことにもなろう。
 実は、ここに、戦争を肯定する精神の土壌をつくる、大きな要因がある。恐るべきは、視の心を育み、それを正当化していく思想、宗教である。
 初代会長牧口常三郎、そして、第二代会長戸田城聖の着眼もそこにあった。
 それゆえに、創価教育学会は、思想統制が激しさを増し、軍国主義の嵐が吹きすさぶなかで、宗教改革の旗を掲げたのである。
 牧口は、一国を戦争へと導く精神の支柱である国家神道を、死を覚悟で破折し、その誤りを正した。そして、天照大神の神札を祭ることを、敢然と拒否したのである。
 当然、牧口には尾行がつき、会合にも特高警察の目が光り、講演の中止を命じられることもあった。
 しかし、彼は恐れなかった。一国が滅びることを憂え、暗黒の時代に「平和の光」を送るために、その根本の思想、宗教の改革を叫び続けた。
 それによって、一九四三年(昭和十八年)七月六日、牧口も、戸田城聖も、不敬罪、並びに治安維持法違反の容疑で、逮捕されたのである。
 人間のための宗教を、国家は許さなかった。
 だが、牧口は、一歩も引かず、取り調べの場でも、こう語っている。
 「天皇陛下も凡夫であって、皇太子殿下の頃には学習院に通われ、天皇学を修められているのである。
 天皇陛下も間違いもないではない」
 それは天皇を「現人神」とすることへの、明確な否定にほかならなかった。
 そして、翌四四年(同十九年)十一月十八日、栄養失調と老衰のため、獄死したのである。
 日蓮大聖人は「王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりとも心をば随えられたてまつるべからず」と仰せである。
 王の支配する地に生まれたがゆえに、身は権力の下に従えられているようであっても、決して、心まで従えられることはない──との御言葉である。
 牧口は、人間を蹂躙する時代の激流のなかで、人間の尊厳の旗を守り抜き、生涯の幕を閉じた。
28  平和の光(28)
 ラングーン(現在のヤンゴン)の空は、紅に燃えていた。
 山本伸一は、しばらく戦没者の碑の前で佇んでいたが、再び題目を三唱すると、静かに歩き始めた。
 吹き抜ける風が、心地よかった。
 木々の間から、差し込む太陽の光が、彼の顔を赤く染めた。
 伸一は立ち止まり、真っ赤な夕日を仰いだ。
 ″兄も、このビルマ(現在のミャンマー)の地にあって、この夕日を見ていたにちがいない″
 時代は変わり、歴史は激動を続けている。しかし、太陽は変わらない。黙々と世界に、平等に光を送る。
 伸一は考えた。
 ──あの戦争は終わり、はや十五年余の歳月が流れようとしているが、いまだ、世界の民衆は戦火にあえいでいる。
 戦後の世界は、イデオロギーによって分断され、冷戦構造がつくられていった。アジアのなかには、その対立が持ち込まれ、内紛、戦争という悲劇に泣いている国々もある。
 「国家中心」から「人間中心」へ、そして、「世界は一つ」と考えていくべき時が既に来ているはずだ。
 そのために必要なのは、人間の多様性を尊重し、調和と融合を図り、人類を結び合う生命の哲学だ。
 また、人間自身が国家や集団の権力に隷属するのではなく、屹立した確固たる自己を築き上げることだ。一人一人がエゴイズムの殻を破り、視や偏見を克服して、人間性の尊き輝きを放つことだ。
 つまり、人間が自己完成へと向かいゆく、人間革命が不可欠である。
 その原理を説き示しているのが仏法であり、広宣流布とは、仏法をもって、人間復興の時代を創造することにあるといってもいいだろう。
 そして、そこにこそ、確かなる平和の光がある。
 今、伸一は、アジアの平和のために、歩み出さねばならぬ使命を、深く自覚していた。
 それは、あまりにも壮大で、遠い道のりであった。しかし、なんとしても成し遂げなければならぬ、避けることのできない、彼の人生のテーマでもあった。
 彼は、そのために何から手をつけるべきかを、真剣に考え始めていた。
 一行は、それからラングーンの市内を見学した。
 夕日を浴びて、シュエダゴン・パゴダが、黄金の光を放っていた。
 市内を巡りながら、伸一の胸には、亡き長兄との思い出が、次々と浮かんでは消えていった。
29  平和の光(29)
 山本伸一は、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死した長兄のことを考えるたびに、いつも、竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』を思い浮かべた。
 ──それは、ビルマ戦線に送られた一兵士が、終戦後、日本に帰らず、僧となり、同胞の遺骨を弔って生きることを決意するという小説である。
 そのなかに、終戦を迎えながらも、それを知らずに敗走する日本軍の一隊が、イギリス軍に包囲される場面がある。
 この隊は、音楽学校出の隊長の影響で、よく歌を合唱した。この時も合唱の最中であった。
 近くには爆薬を積んだ荷車がある。戦闘が始まり、その爆薬が銃火を浴びれば全滅してしまう。まず、その荷車を、移動させなければならない。
 日本兵は、イギリス軍の包囲を知らぬかのように、皆で楽しげに「庭の千草」と「埴生の宿」を歌いながら、荷車を安全な場所へ運んだ。
 荷車を運び、合唱が終わって、日本兵が突撃に入ろうとすると、今度は、周囲から「埴生の宿」の調べが聞こえてきた。
 イギリス兵が歌っているのだ。歌は英語であったが、曲は同じである。
 更に「庭の千草」の調べが響いた。
 「埴生の宿」も「庭の千草」も、イギリスで古くから愛唱されていた歌に、日本語の歌詞をつけたものである。イギリス兵にとっては、なじみ深い曲であった。
 敵も味方もなく、両軍の兵士たちは、声を合わせて歌った。
 戦闘は始まらなかった。互いに兵士が出ていって手を握り合った。
 日本兵は、そこで三日前に戦争が終わったことを知った。
 歌が人間の心と心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。
 音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、普遍的な共感の広がりをもっている。
 ラングーン(現在のヤンゴン)の街を巡りながら、伸一の脳裏に、ある考えが兆し始めた。それは思索を重ねるうちに、次第に一つの明確な像を結び始めていった。
 翌二月九日、一行は、昼前にビルマを発って、タイのバンコクに向かった。二時間ほどの空の旅である。
 バンコクの空港には、二人の日本人のメンバーの壮年が迎えてくれた。
 二人とも信心を始めて間もなかったが、自分たちも、いよいよ折伏に励もうかと、話し合っていたとのことであった。
30  平和の光(30)
 夕方、一行はバンコクの日本食のレストランに食事に出かけた。
 そのレストランで、女性従業員が山本伸一に声をかけた。学会員であった。
 あまり信心に励んではこなかったようだが、伸一や婦人部長の清原かつの顔は、日本にいた時、聖教新聞などの写真で見て知っていたという。
 伸一は、今回の訪問地には、全く学会員のいない国もあると思っていたが、これまでのところ、どの国にもメンバーがいたことになる。
 夕食を終えてホテルに戻ると、空港で迎えてくれた二人の壮年がやって来た。
 皆でホテルの庭で懇談した。二人とも、活動の進め方については、よくわからない様子であった。
 伸一は、んで含めるように指導していった。
 「信心といっても、決して特別なことではありません。まず、朝晩の勤行をしっかり励行し、自分の周りで悩みを抱えて苦しんでいる人がいたら、仏法を教えてあげればよいのです。
 つまり、周囲の人を思いやる友情を広げていくなかで、自然に布教はできていくものです。焦る必要はありません。
 そして、信心する人が出てきたら、互いに励まし合い、守り合っていくことです。そのために、組織が必要になるんです。
 もし、皆さんが希望するなら、近い将来、タイにも地区をつくります。
 また、皆さんを応援する意味から、今後は、幹部を定期的に派遣することも考えていきます。
 ともかく、広宣流布の時が来ている。これからは、タイにもメンバーが、たくさん増えていくはずです」
 メンバーが増えていくと言われても、彼らには、そんな実感をもつことはできなかった。しかし、地区の結成という話は、二人の壮年にとって、大きな目標となった。
 アメリカやブラジルと比べれば、タイにはこの時、広宣流布の小さな小さな種子が蒔かれたにすぎなかった。それは、わずかな雨や風にも、流され、吹き飛ばされかねなかった。
 しかし、その一つ一つの種子を大切に育み、社会に根づかせていってこそ、広宣流布の花園が開かれる。
 学会の広宣流布は、国力をバックにしての布教でもなければ、宣教師を送り込んでの布教でもない。その地に生きる人が信仰に目覚め、使命を自覚するところから始まる、民衆の内発性に基づいている。
 ゆえに、一人一人が使命に奮い立つことに、伸一は全力を注いだのである。
31  平和の光(31)
 このころになると、長旅のせいか、皆の顔に疲労の色が見えていた。
 山本伸一が、夕食を日本食のレストランでとるようにしたのも、日達上人をはじめ、皆が現地の料理に飽き、食欲をなくしつつあったからである。
 タイの二人のメンバーが帰ると、伸一は、引き続き彼の部屋で、同行の幹部と懇談した。
 「御書を拝そう!」
 伸一はバッグから御書を取り出し、「御義口伝」を開いた。
 彼は「廿八品に一文充の大事」の「涌出品」を拝読し始めた。
 「……一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり
 法華経の「涌出品」の「昼夜に常に精進す 仏道を求むるを為っての故に」(妙法華経並開結487㌻)の文について、述べられた個所である。
 伸一は、力を込めて語っていった。
 「これは、南無妙法蓮華経と唱えるわが一念に、億劫にもわたる辛苦、労苦を尽くし、仏道修行に励んでいくならば、本来、自身の持っている無作三身の仏の生命が、瞬間瞬間起こってくるとの御指南です。そして、南無妙法蓮華経と唱えていくこと自体が、精進行であるとの仰せです。
 この御文は、御本仏である大聖人の御境界を述べられたものですが、私たちに即して言えば、広宣流布のために苦労し、祈り抜いていくならば、仏の智が、大生命力がわいてこないわけはないということです。
 したがって、どんな行き詰まりも打ち破り、大勝利を得ることができる。しかし、それには精進を怠ってはならない。常に人一倍、苦労を重ね、悩み考え、戦い抜いていくことです。
 皆、長い旅の疲れが出ているかもしれないが、今回の旅は、東洋広布の夜明けを告げる大切なアジア指導です。一人でもメンバーがいたら、命を削る思いで力の限り励ますことだ。そこから未来が開かれる。
 また、各地を視察しながらも、その国の広布のために、何が必要かを真剣に考えていかねばならない。
 ボーッとしていれば、この旅は終わってしまう。一瞬一瞬が勝負です。大聖人は『法華経の信心を・とをし給へ・火をきるに・やすみぬれば火をえず』とも仰せになっている。
 火を起こそうとしても、手を休めてしまえば火はつかないように、最後になって手を抜き、惰性に流されれば敗北です」
32  平和の光(32)
 山本伸一の御書を拝しての指導に、同行の幹部たちは、目の覚めるような思いがした。
 皆、いつの間にか、スケジュールをこなすだけの旅になっていたのである。
 伸一は、皆の顔に視線を注ぎながら、話を続けた。
 「私は、この旅の間中、東洋の広宣流布を、どうやって進めるべきか、考えてきました。
 アジアには上座部の仏教もあれば、ヒンズー教やイスラム教もある。また、そうした宗教を土壌として、さまざまな民族の文化、伝統が形成されている。
 牧口先生は『認識しないで評価してはいけない』と言われているが、現在の日本では、それらの宗教や文化に対して、ほとんど正しい認識がなされていない。
 そこで、まずアジアの宗教、文化、民族性について研究し、正しく認識していくことが、アジアを理解していくうえでも大切なことではないかと思う。
 更に、日蓮大聖人の仏法を広めるうえからも、法華経を中心に研究を重ね、仏法の人間主義、平和主義を世界に展開していける人材を育む必要がある。
 それらをふまえ、東洋の哲学、文化、民族の研究機関を設立していきたいと思うが、どうだろうか」
 「はあ……、研究機関ですか」
 関久男が不可解な顔で言った。これまでに、そんなことは考えたこともなかったのであろう。
 「これは将来、大きな意味をもつようになっていくだろう。
 名称としては『東洋学術研究所』でもいいし、『アジア文化研究所』でもいいと思う。場合によっては、関東と関西に、それぞれ設けてもいいのではないだろうか。
 そこでの研究の成果は、雑誌を発刊して、発表していくようにする。そして、ゆくゆくは日本を代表する東洋の哲学、民族、文化の研究機関にしていくんだ」
 皆は、伸一の話を聞いていくうちに、次第に、壮大な構想の一端を理解し始めたようであったが、その大切さを本当に知るのは、後年のことである。
 「それに、もう一つ構想がある。真実の世界平和の基盤となるのは、民族や国家、イデオロギーを超えた、人間と人間の交流による相互理解です。そのために必要なのは、芸術、文化の交流ではないだろうか。
 音楽や舞踊、絵画などには国境はない。民族の固有性をもちながら、同時に、普遍的な共感性をもっている。そこで、音楽など、芸術の交流の推進を考えていきたいと思う」
33  平和の光(33)
 同行の幹部たちの頭の中は、毎月の折伏のことだけでいっぱいであった。
 ゆえに山本伸一の話は、すべてが驚きであり、ただ感嘆するしかなかった。
 「音楽の交流と申しますと、音楽隊をインドに派遣したりするのでしょうか」
 森川一正が言うと、伸一は微笑を浮かべた。
 「そういうことも行うようになるかもしれないが、まずは音楽などの交流を目的とした財団の設立です。
 そして、アジアをはじめとして、世界中の音楽や舞踊を、それも、クラシックから現代のものまで紹介していく。そして、民衆が古今東西の音楽、芸術に触れるとともに、人間の心を結ぶ運動を起こしていこうと考えているんです。
 広宣流布というのは、仏法をもって人間の生命を開拓し、平和と文化の花を咲かせていく運動です。つまり、平和、文化にどれだけ貢献し、寄与できるかが、実は極めて重要な問題になってきます。
 『王仏冥合』と言いますが、この平和と文化への貢献が『王法』です。したがって『王法』には、芸術、教育、政治、経済など、あらゆる社会の営みが含まれます。
 その文化創造の大地となる、民衆の生命を耕していくのが『仏法』なんです。
 『冥合』というのは、根底とする、奥深く合一しているということであり、決して制度的に一体化することではない。
 つまり、個人に即していえば、信仰によって磨かれた人格の帰結として、各人が時代建設の使命に目覚め、社会のため、平和のために、積極的に行動していく姿が『冥合』といえる。『仏法』と『王法』を結ぶものは人間自身であり、精神です。
 そして、結論すれば、本来、仏法者の宗教的使命は、人間としての社会的使命を成し遂げていくことで完結される。それができてこそ、生きた宗教です。
 仏法は観念ではない。現実のなかで、人間の勝利の旗を打ち立てていくのが、まことの信仰です。だから、私は、必死になって、平和と文化の道を開こうとしているのです。
 私が東洋の哲学や民族、文化の研究機関をつくろうというのも、また、音楽の財団を設立しようというのも、そのためです」
 伸一のこれらの構想は、やがて、東洋学術研究所(後の東洋哲学研究所)や民主音楽協会などの設立となって実現し、新たな文化創造の原動力となっていったのである。
34  平和の光(34)
 翌日はバンコク市内の視察にあてられた。
 車で市内を走ると、街のあちこちにビルの建設が進み、オートバイや「サーム・ロー」と呼ばれるオート三輪が、クラクションを響かせ、活発に行き交っていた。その喧騒のなかに、山本伸一は、発展しゆくタイの熱気を感じた。
 車中、彼は日達上人に話しかけた。
 「猊下、タイの国名は、『自由』という意味なんだそうです。その『自由』という名の国が、東南アジア諸国のなかで、戦前戦後を通じて、唯一、独立を守り抜いたんです」
 「ほう。名は体を表すと言いますが、まさに、その通りですね」
 しかし、戦時中、そのタイの独立を脅かしたのが、日本の軍国主義であった。
 一九四一年(昭和十六年)十二月八日、日本軍は太平洋戦争の開戦と同時に、ビルマ(現在のミャンマー)侵攻のため、タイに進軍した。その際の戦闘で、数百人のタイ人が亡くなっている。
 日本軍は、一応、タイの独立は保証したものの、駐留を続け、圧迫を加えたのである。
 伸一は、戦時中のアジアの歴史を思うと、鋭い心の痛みを覚えた。
 泰緬鉄道、すなわち、タイとビルマ間の鉄道の建設も、多くの人びとの犠牲のうえになされたものだ。
 それは、日本軍がタイに進駐した翌四二年(同十七年)の七月から、ビルマへの陸上補給路の確保などを目的に建設が始められた。熱帯の密林を切り開いての難工事であったが、わずか一年四カ月という驚異的な速さで、全長四百十五キロメートルもの鉄道を完成させたのである。
 この鉄道建設には、イギリスなど連合国軍の捕虜が約五万五千人、東南アジア各地から強制連行された労働者が約七万人(二、三十万人と見る説もある)も駆り出された。その結果、捕虜の一万一千人が亡くなり、アジアの労働者に至っては、実に半数が故郷に帰らなかったという。
 まさに″枕木一本につき一人が死ぬ″とされたほど、多くの犠牲が出たのである。
 伸一は思った。
 ″アジアを歩けば、いずこの地にも、日本軍による戦争の傷跡がある。日本人は、二度とこんな愚行を繰り返さぬために、決して、この歴史の事実を忘れてはならない。謙虚にならなくてはならない……″
 そして、伸一は、一人の日本人として、アジアの人びとと同苦しながら、今度は「幸福の道」「平和の道」を開いていこうと、決意するのであった。
35  平和の光(35)
 一行は、このバンコクでも、幾つかの主だった寺院を視察することになっていた。それは総本山に建設予定の大客殿や、山本伸一が構想していた正本堂の建設の参考にするためでもあった。
 最初に訪れたのは、チャオプラヤー川にほど近い、″エメラルド寺院″とも呼ばれる、ワット・プラケオであった。
 白い壁に囲まれた境内には、黄金に輝く巨大な仏塔や、プラーンと呼ばれる塔堂がそびえ、橙色や緑色の寺の屋根が太陽の光に、鮮やかに輝いていた。
 ここは、タイ王室に属する由緒ある寺院である。
 山本伸一が、構造様式や装飾を丹念に見て回っていると、案内人が、隣が王宮であると、教えてくれた。
 そして、嬉しそうに、こう語った。
 「国王ご夫妻は、去年の六月から、この一月まで欧米をご訪問になり、帰国されたばかりです」
 その表情に、国王への敬愛の念を感じた。
 王室に対する国民の信頼は厚く、特に若きラーマ九世、すなわちプーミポン国王は、非常に英邁な国王として、尊敬を集めていた。国王は、伸一と同じ三十三歳であった。
 一行はワット・プラケオから、チャオプラヤー川の対岸に立つワット・アルンに回った。
 寺には、天を突き刺すように大塔がそびえ、それを囲むように、四基の小塔が立っていた。塔の表面には色とりどりの焼き物がはめ込まれ、それが夜明けの黄金の光に、最も美しく輝くことから、″暁の寺″と呼ばれている。
 更に、マーブル・テンプル(大理石寺)の名を持つワット・ベンチャマボピットを訪ねた。
 名前の通り、屋根や飾り窓などの一部を除いて総大理石造りである。
 伸一は、日達上人に感想を語った。
 「それぞれ絢爛豪華ではあると思います。しかし、日蓮大聖人の御精神を考えると、総本山の建物は、きらびやかにするよりも、質実剛健なものにして、そのなかから、美を追求していくことが大事ではないでしょうか」
 「そう思われますか。実は、私も、そう考えていたところです」
 「これから、総本山には世界の人びとが集ってくることになります。ですから、ヒューマニズムと世界性をテーマにした最高の宗教建築を考えていきたいと思います。
 そのために、私は総力をあげて応援させていただきます」
 二人は和やかに、総本山の未来図を語り合った。
36  平和の光(36)
 タイでの視察を終えた山本伸一の一行は、二月十一日、午前七時半発の飛行機で、カンボジアのシエムリアプに向かった。
 ここでは、アンコール・ワットとアンコール・トムの視察を予定していた。
 この日は、戸田城聖の誕生日であった。シエムリアプのホテルに着いた伸一は、一人、恩師をしのんだ。もし、戸田が存命ならば、今日で六十一歳になったことになる。
 彼は、戸田が五十八歳で世を去ったことを思うと、深い感慨が込み上げてきてならなかった。
 今世の使命をことごとく成就してのこととはいえ、戸田の死は、伸一にはあまりにも早く感じられた。
 そして、三十までも生きられないと言われていた自分が、こうして元気に、アジアの国々を巡っていることを考えると、恩師が寿命を分け与えてくれたように思えるのであった。
 彼は心で、恩師に語りかけた。
 ″先生! 伸一は、先生のご遺言のままに、東洋に平和の光を送るために、今日はカンボジアに来ております。
 しかし、まだ、ほのかな一条の光にすぎません。でも、いつの日か、必ず、燦々たる幸福の陽光をもって、アジアの民を包んでまいります″
 戸田を思うと、彼の五体には、常に力があふれた。
 それは、彼の青年時代の初陣ともいうべき、一九五二年(昭和二十七年)の二月、蒲田支部の支部幹事として指揮をとった法戦の折から、深く実感してきたことであった。
 伸一は、その初陣の出発の集いで、同志にこう呼びかけた。
 「二月は日蓮大聖人の御聖誕の月であり、また、二月十一日は、戸田先生の誕生の日であります。
 今日、私たちが、この信心に巡り合えたのは、大聖人様が御出現になったからであることは言うまでもありませんが、戸田先生が広宣流布に一人立たれたおかげでもあります。そして、皆さんは、それぞれ功徳を受け、幸せになられた。
 その報恩感謝の思いで、この二月を戦いきり、見事な勝利の結果をもって、戸田先生にお応えし、先生の誕生の月をお祝いしようではありませんか」
 伸一は、自分の率直な心情を語った。
 彼は、この時、弟子として何をもって、戸田の五十二歳の誕生を祝うべきか、考えていた。
 そして、広宣流布の新たな流れを開くことを決意したのである。
37  平和の光(37)
 山本伸一は、戸田城聖の第二代会長の就任の日となった一九五一年(昭和二十六年)の五月三日、戸田が宣言した、七十五万世帯の達成という大指標を、片時も忘れることはなかった。
 それはまた、伸一自身の人生の目標でもあったからだ。しかし、当時、学会の折伏の進展は、戸田のその構想を実現するには、あまりにも緩慢であった。大支部でも、折伏はひと月に百世帯が限界であった。
 ″このままでは、戸田先生の宣言は虚妄となってしまう″
 伸一は悩んだ。しかし、彼は、いまだ思うにまかせぬ戸田の事業を軌道に乗せるために、会社の再建に全力を投入しなければならない日々が続いていた。
 そうしたなかで、戸田から、蒲田の支部幹事として活動の指揮をとるよう、指示されたのである。
 伸一は、戸田の決意を虚妄にしたくはなかった。いや、絶対にしてはならないと、心に深く決めていた。
 戸田に代わって、弟子の自分の責任で、七十五万世帯は成就してみせると思うと、闘志がわき、力がみなぎるのであった。
 その日、集った蒲田支部の同志は、戸田城聖を思う山本伸一の指導に、まことの弟子の心を知った。
 皆、伸一を通して、戸田との一念の距離が近づいた思いがした。すると、戸田とともに広宣流布をしていくのだという使命感が脈打ち、勇気がわいてくるのを覚えるのであった。
 師を求め、師とともに戦おうとする時、広宣流布に生きる、師の生命の脈動が流れ通うといってよい。
 蒲田の友は寒風に胸を張り、喜び勇んで、活動を開始した。そして、この月、蒲田支部は、二百一世帯という未曾有の折伏を成し遂げたのである。
 ″やればできる!″
 誰もが大歓喜のなかに、そう実感した。
 蒲田支部の壮挙は、触発の波動となって全国に広がり、これが七十五万世帯達成への突破口となった。この蒲田での伸一の戦いが、折伏の飛躍を遂げる「伝統の二月」の淵源となっていったのである。
 彼のアジアの旅は、このカンボジアが最後の訪問地であり、後は、タイ、香港を経て、帰国することになる。その最後の訪問地で、恩師の誕生日を迎えられたことが、伸一は嬉しくてならなかった。
 彼は、胸のポケットから戸田の写真を取り出すと、しばらく、じっと見入っていた。
38  平和の光(38)
 午後二時過ぎ、一行は車に分乗して、ホテルを出発した。
 ほどなく、広々とした空間が開けた。アンコール・ワットの遺跡であった。
 ここは、九世紀から十五世紀にかけて栄えたアンコール王朝の最盛期に、スールヤヴァルマン二世(在位一一一三〜五〇年頃)が創建した寺院である。完成までに約三十年を費やしたと伝えられている。古代クメール語で、アンコールは「都市」、ワットは「寺院」を意味するといわれる。
 実にスケールの大きな寺院で、まわりに巡らされた水濠も、幅が百九十メートル、全周が五・四キロメートルにも及ぶという。
 一行は、正面の入り口にあたる、西参道の石畳を進んだ。境内には石造りの回廊と、五基の堂塔からなる本殿がそびえていた。
 アンコール・ワットは、元来、ヒンズー寺院であったが、十五世紀前半に、アンコール王朝が衰亡した後、仏像が持ち込まれ、上座部仏教(小乗仏教)の寺院になっていたのである。
 このアンコール・ワットの存在を世界的に有名にしたのが、フランスの博物学者アンリ・ムオであった。
 一八六〇年に、ここを訪れた彼の記録により、ごく少数の人しか知らなかった遺跡が、一躍脚光を浴びることになったのである。
 建物は中央に進むにつれて次第に高くなり、本殿に入るには、切り立った壁に刻まれた急勾配の石段を上らねばならなかった。
 「猊下、上られますか」
 山本伸一が尋ねると、日達上人は言った。
 「もちろんです。上りましょう。せっかく、ここまで来たのですから」
 皆、息を弾ませながら、一気に石段を上った。
 苔むした本殿に立つと、周囲に緑の森が広がり、吹き渡る風が心地よかった。
 一行は、それから回廊を見て回った。その壁面には、神話や王の事跡、人びとの生活や自然などを描いた彫刻が施されていた。
 しかし、幾百年にわたる暑熱と風雨の浸食作用によって、あちらこちらに、破壊の傷跡が見られた。
 案内人が、石柱を指さして、ここに、昔の日本人の署名の跡があることを教えてくれた。
 そこには、墨書された日本の文字が残っていた。
 清原かつが声をあげた。
 「まあ、本当に書いてあるわ。でも、日本人は昔から落書きが好きだったのかしらね」
 清原の「落書き」という言葉に、明るい笑いが広がった。
39  平和の光(39)
 四角い柱の一面に書かれた日本の文字は、寛永九年(一六三二年)の正月に、森本右近太夫という人が、千里の海を越えて、父の追善と母の後生を祈るために、仏像を奉納した旨を伝えていた。
 関久男が、つぶやくように言った。
 「寛永九年というのは、確か徳川幕府が、鎖国を行う直前になりますね。
 しかし、三百年も前に、なぜ、はるばる、こんなに遠いところまで、来る気になったんでしょう」
 それに答えたのは、日達上人であった。
 「当時の日本人は、ここを、『平家物語』にも出てくる、あの釈尊ゆかりの祇園精舎だと信じていたようなんです」
 「そうなんですか。『平家物語』には、『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり』とありますけど、ここを見ていると、こんなに荒れ果ててしまって、本当に無常を感じますね」
 清原かつが、しみじみとした口調で言った。
 それを受けて、山本伸一が語り始めた。
 「まったく、その通りだと思うね。この遺跡を見れば、いにしえのアンコール王朝が、どんなに栄華を誇り、優れた文化を持っていたかが、よくわかる。まさに人類の遺産でしょう。
 しかし、数百年が過ぎた今日、我々の前に残されているのは、この廃墟です。
 結局、それを受け継いでいく『人』がいなければ、すべて、時とともに滅び去っていくことになる。学会も同じです。その精神を、正しく伝える『人』がいなければ、腐敗し、堕落し、朽ち果ててしまう。
 すべては『人』です。伝持の人、後継の人です。だから、私たちの使命は大きい。仏法を永遠ならしめていくために、戸田先生の精神の炎を、絶対に消してはならない」
 それは、戸田城聖の誕生の日の、弟子としての伸一の誓いでもあった。
 この後、一行は、アンコール王朝の都城であったアンコール・トムを視察し、夕刻、ホテルに戻った。
 そこに、ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)で、企業の駐在員をしているという、学会員の壮年が駆けつけてきてくれた。
 伸一は、その壮年を温かく迎えた。これで、どの国でも、メンバーとの出会いがあったことになる。
 彼は現地の模様を聞き、壮年を励ますと、言った。
 「ベトナムにも地区をつくりましょう。必死の一人がいれば、道は開けます」
 壮年の顔に光が走った。
40  平和の光(40)
 翌二月十二日、一行はカンボジアを発って、タイのバンコクに入り、ここで一泊すると、十三日には香港に戻った。
 空港では、再びメンバーの代表が出迎えてくれた。
 山本伸一がロビーに姿を現すと、皆、元気に跳び上がって手を振った。
 森川一正が言った。
 「不思議ですね。最初に会った時と比べ、みんな見違えるほど明るく、元気になっている」
 伸一は、すかさず同行の幹部に語った。
 「人間は変わっていく。仏法の指導者というのは、常にみんなを元気にし、生命力を豊かにさせ、希望と勇気を与えていくものだ。
 反対に、皆の生命力を奪い、元気をなくさせていくならば、それは『魔』の働きになってしまう。幹部が自分中心の考え方に陥ってしまうと、この『魔』の働きをするようになる。注意しなければいけない」
 伸一は、笑顔でメンバーの方に歩きかけたが、岡郁代の顔を見ると、急に売店に向かった。
 彼が購入したのは、世界の切手のセットであった。岡の家で行われた座談会の際、岡の息子の趣味が切手集めであることを聞き、プレゼントする約束をしていたからである。
 伸一から、息子あての切手セットを預かった岡の驚きは大きかった。
 彼は、恐縮している岡に言った。
 「今晩は座談会を行うことになっていましたね。今日は、ベテランの理事である、関さんに行ってもらいます。みんなで楽しい座談会にしてください」
 一行は、ひとまずホテルに向かい、荷物を置くと、買い物に出掛けた。日本で留守を守ってくれている同志への土産である。
 夕方、関久男が座談会に出発すると、残ったメンバーで、伸一を中心に、今後の活動の打ち合わせが行われた。
 最初のテーマは、アジアの組織を、いかにつくり上げていくかであった。
 秋月英介が発言した。
 「今回、訪問した地域には、カンボジアを除いて、一応、メンバーがいることは確認されましたが、実際に組織をつくるとなると、かなり難しいのではないかと思います」
 すると、森川が頷きながら言った。
 「そうですね。各国に地区をつくるにしても、地区部長となるべき人物がいません。まだ、あまりにも弱いというのが、私の実感です。任命しても、責任を全うできるかどうか……」
41  平和の光(41)
 理事たちは、皆、深刻な顔をして、黙り込んでしまった。
 山本伸一は、微笑を浮かべながら語り始めた。
 「森川さん、まだ弱いと思ったら、それを強くしていくのが幹部の戦いだよ。ましてや、あなたは、東南アジアの総支部長になるのだから、ただ困っていたのではしようがない。
 森川さんは、三十年後には、それぞれの国の広宣流布を、どこまで進めようと思っているのかい」
 「三十年後ですか……」
 森川一正は答えに窮した。
 「私は、たとえば、この香港には、数万人の同志を誕生させたいと思う。また、香港はもとより、タイやインドにも、今の学会本部以上の会館が建つぐらいにしたいと考えている。
 そうでなければ、戸田先生が念願された東洋広布など、永遠にできません。時は来ているんです。
 ともあれ、今回、訪問したほとんどの国に、わずかでもメンバーがいたというのは、大変なことです。『0』には、何を掛けても『0』だが、『1』であれば、何を掛けるかによって、無限に広がっていく。
 だから、その『1』を、その一人を、大切に育てあげ、強くすることです。そのために何が必要かを考えなくてはならない。
 まず、具体化しなければならないのが、本部から幹部を派遣し、指導の手を入れることです。これは早い方がよい。世界に先駆け、五月には実施できるようにしてはどうだろうか。メンバーは理事クラスの最高幹部と、東南アジアに近い沖縄の幹部にしよう。
 そして、順次、アジアにも地区を結成していくんです。それも、焦らずに、着実に進めていくことです」
 アジアの組織建設の青写真が、次第に練り上げられていった。
 更に検討課題は、国内の今後の活動に移った。伸一の会長就任一周年となる五月三日までの、詳細なスケジュールが組み上がった。
 検討が終わると、伸一は語った。
 「これでよし。明日、日本に帰ったら、もう一度、理事会で検討し、直ちに戦闘開始だよ」
 既に、彼の心は、日本に飛んでいた。世界の広宣流布を考えるならば、日本に、広布の模範をつくる必要があったからだ。そして、そのためには、まず、最初の目標である三百万世帯を達成し、堅固な基盤をつくり上げなければならなかった。
 伸一は立ち上がり、窓の彼方を仰いで言った。
 「さあ、前進、前進、また、前進だ!」
42  平和の光(42)
 二月十四日は、いよいよ帰国の日であった。
 午前九時過ぎ、岡郁代と平田君江が、一行をホテルに迎えに来てくれた。
 空港に着くと、山本伸一は、出発を待つ間、終始、二人と語り合い、励まし続けた。
 「当面の目標として、香港は百世帯を目指してみてはどうだろうか。
 こういうと、大変なことになったと思うかもしれないが、たいした努力をしなくても達成できるような目標では、皆さんの成長がなくなってしまう。
 困難で大きな目標を達成しようと思えば、御本尊に真剣に祈りきるしかない。そうすれば功徳があるし、目標を成就すれば、大歓喜がわき、信心の絶対の確信がつかめます。だから、目標というのは、大きな方がよいのです」
 伸一は二人に、地区の幹部としての、本格的な訓練を開始していたのである。
 彼は、岡が御書を持っているのを見ると言った。
 「香港の皆さんを代表して、記念に何か揮毫して差し上げましょう」
 そして、こう認めた。
 「妙法に照らされ 世界一の幸福者に」
 岡は、揮毫された御書を抱き締めて言った。
 「先生、今度はいつ、香港に来ていただけるのでしょうか」
 「来年も必ず来ます。再来年もやって来ます。安心してください」
 伸一は、こう言って微笑み、二人と固い握手を交わして、別れを告げた。
 現地時間の午前十一時過ぎ、飛行機は啓徳(カイタック)空港を飛び立った。
 また一つ、恩師との誓いを果たし、アジアに平和の太陽の光を注いだ伸一の心は、晴れやかであった。
 ″この秋にはヨーロッパだ。そして、来年の今ごろは中近東にも足を運ぼう″
 世界の広宣流布をわが使命とする彼の構想は、止まるところを知らなかった。
 一行の乗った飛行機が羽田に到着したのは、午後三時過ぎであった。
 伸一が空港の控室に姿を現すと、大きな拍手がわき起こった。
 「お帰りなさい!」
 「お疲れさまでした!」
 口々にあいさつする代表の幹部たちに、伸一は力強い声で語った。
 「ありがとう。私は、日本の指導にまいりました。
 東洋広布の道標は打ち立てられた。香港の同志も立ち上がりました。
 さあ、今度は広布の大舞台・日本です!」
 獅子吼は轟いた。
 今、新たな日本の大回転が始まろうとしていた。

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