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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「仏陀」 仏陀

小説「新・人間革命」

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1  仏陀(1)
 空に浮かぶ雲が、金色に染まり始めた。
 埋納を終えた山本伸一の一行は、辺りを散策した。
 大塔の西側に回ると、伸びやかに枝を広げた、大きな木があった。堂々たる菩提樹である。
 もともと、ピッパラ樹ともアシュヴァッタ樹とも呼ばれていたが、釈尊がこの木の下で悟り(菩提)を得たことから、菩提樹と呼ばれるようになったものだ。
 しかし、今、生えている菩提樹は、当時のものではなく、後に新しく植えられたものであるという。
 その木陰に、石造りの台座があった。「金剛宝座」である。釈尊が悟りを得た場所につくられたものだ。
 大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の境内を離れ、しばらく行くと、尼連禅河(ネーランジャラー川)に出た。
 乾期のために、川に水はなく、白い川底がグラウンドのように見えた。
 対岸は川に沿って木が茂り、その向こうにラクダの背のような形をした岩山がそびえていた。
 ブッダガヤの管理委員会の係官が教えてくれた。
 「あのラクダのコブのような形をした山が、仏陀が修行した前正覚山と言われる山です。
 また、苦行をやめた仏陀は、この川の対岸で沐浴をします。そこで、断食などの激しい修行のために力尽き、やせ細った仏陀に、スジャーターという娘が乳粥を供養するのです。それによって仏陀は蘇るのです」
 今は岩山となった前正覚山には、当時は、もっと緑が茂っていたのかもしれない。しかし、視界に広がる景観は、釈尊の在世当時と、さほど変わっていないように、伸一には思えた。
 彼は、釈尊に思いを馳せた。人類を生命の光で照らし出した聖者の生涯が、臨場感を伴って、伸一の脳裏に浮かんだ。
 ──釈尊の生きた年代については定かではない。入滅についても、古くから、中国の『周書異記』による紀元前九四九年説や、『春秋』による紀元前六〇九年説があった。しかし、近代に入ると、入滅を紀元前四、五世紀とする説が有力になってきているが、それにも諸説がある。
 釈尊は、釈迦(シャーキャ)族の王子として生まれた。姓は「ゴータマ」(漢訳では「瞿曇」)である。
 長じて悟りを得ると、「ゴータマ・ブッダ(仏陀)」、あるいは、釈迦族出身の聖者(牟尼)の意味で、「シャーキャムニ(釈迦牟尼)」と呼ばれることになる。「釈尊」とは、その訳語である。
2  仏陀(2)
 釈尊の父は浄飯王(スッドーダナ)、母は王妃の摩耶(マーヤー)である。
 摩耶は迦毘羅城(カピラヴァットゥ)から里帰りする途中、藍毘尼(ルンビニー)で、釈尊を出産した。
 通説では、母の摩耶は、釈尊が生まれると一週間で亡くなり、彼は叔母の摩訶波闍波提(マハーパジャーパティー)によって育てられたという。
 まさに釈尊の波乱の生涯の幕開けであった。
 当時のインドは、仏伝などによれば、摩訶陀(マガダ)国や拘羅(コーサラ)国など、十六の大国が互いに覇を競い合っていたようだ。
 しかし、釈迦(シャーキャ)族は、この十六の大国には入らず、小国に過ぎなかった。だが、自らを「太陽の末裔」と名乗る、誇り高き一族であった。
 小国ではあっても、釈尊は、一国の王子として、何不自由ない生活を送り、文武両道にわたる教育を受けて育った。
 季節ごとに彼のための宮殿があり、また、炎暑などにさらされることがないよう、侍者は常に彼に傘蓋を差した。
 更に雨期ともなれば、女性だけの伎楽が用意され、外に出ることもない、安楽な暮らしがあった。
 しかし、感受性の豊かな彼には、深刻な悩みが生じていく。
 彼は、王宮の池のほとりを歩きながら、哲学的な思索を重ねた。
 ″人間は、いかに若く、健康であっても、やがて老い、病み、死んでいく。これは、誰も免れることのできない定めだ″
 彼は、老・病・死を、自身のなかに見いだし、凝視していた。
 ″しかし、世間の人は、他人の老・病・死を見て、厭い、っている。なぜなのだろう。愚かなことだ。それは、決して、正しい人生の態度ではない″
 こう考えると、彼は青春の喜びも、健康であることの誇りも、音を立てて崩れていくのを覚えた。
 そして、それを他人事としか見ない、人間の本質に潜む差別の心、傲慢さを痛感するのであった。
 釈尊は、万人が避けることのできない、この老・病・死の問題を解決せずしては、人生の幸福はあり得ないと思うようになる。
 彼の深き藤が始まったのである。
 ″自分は世継ぎとして王となり、社会の指導者とならねばならない。しかし、出家して聖者となって、この問題を解決し、精神の大道を開くべきではないか″
3  仏陀(3)
 伝説では、釈尊の出家の動機に「四門遊観」のエピソードがあげられている。
 ──釈尊が城から遊びに出ようとする。東の門から出ると、そこに、老人の姿を見る。南の門から出ると病人を見る。西の門では死人を見る。ところが、北の門では、出家した者が歩いている姿に出会い、それに心を打たれて、出家を決意したというのである。
 「四門遊観」の挿話は、後の時代に加えられたものと考えられている。だが、仏教の内容からすれば、釈尊の出家の動機には、老・病・死という人間の根源的な苦悩を、いかに乗り越えるかが深くかかわっていたことは間違いない。
 父の浄飯王(スッドーダナ)は、王子の釈尊が、出家を考えていることを感じていた。
 一説によれば、父王は、彼を引き止める策として、耶輸多羅(ヤソーダラー)を妃に迎えたともいう。
 やがて二人は一子をもうける。それが、後に釈尊の弟子となり、密行第一といわれた羅睺羅ラーフラである。
 周囲の目には、次の世継ぎも生まれ、釈尊は安定した人生を歩むかに見えた。
 しかし、釈尊の葛藤は続いていた。むしろ、王となる自己の責任を思えば思うほど、彼の苦悩は深まるばかりであった。
 ″人は争い、殺し合い、武力によって他を支配しようとする。
 しかし、栄栄華を極める権威権力も、また、いつの日か武力によって滅ぼされてしまう。
 更に誰人たりとも、老・病・死の苦しみから逃れることはできない。その苦しみから脱する道を求めることこそ大切ではないか″
 彼は、武力主義の覇道の世界に生きることより、人間主義の正道を求めた。そして、永遠なる精神の世界の探求のために、出家を決意したのである。
 釈尊は、父の浄飯王に、その意志を打ち明けた。父王の衝撃は大きかった。
 ″遂に予期していた事態になってしまった。大事な跡取りだというのに。
 わしは、王子には何不自由ない暮らしをさせてきたではないか。いったい何が不服だというのか!″
 浄飯王は、戸惑い、おののき、憤った。
 ともかく、息子の出家をやめさせなければならないと思った。以前にも増して豪奢な環境を与え、臣下に、王子をもてなすように命じた。
 しかし、釈尊の決意は変わらなかった。
 王は、遂に釈尊が城を出ることを、いっさい禁じたのである。
4  仏陀(4)
 釈尊の求道の炎は、何をもってしても、消すことはできなかった。
 ある夜、彼は愛馬に乗ると、一人の従者を連れて、厳重な警戒の網の目をくぐり抜け、迦毘羅城(カピラヴァットゥ)を後にした。
 時に十九歳とも、二十九歳ともいわれている。
 恩ある父を、また、愛する妻子を捨てて旅立つ彼の胸は苦しかった。
 しかし、それをも焼き尽くす激しい炎が、彼の胸には燃え盛っていた。
 城を出た釈尊は、拘利(コーリヤ)国などを通って南へ進み、阿奴摩(アノーマー)川を渡った。
 そこで、彼は身に着けていた、王子であることを示すいっさいの装身具と、愛馬を、従者に託した。
 そして、自ら、刀で髪を切り、こう告げた。
 「ここからは、私一人で行く。お前は城に帰って、父と妻に伝えてほしい。私は出家の目的を果たすまでは、決して迦毘羅城には戻らぬと……」
 そこからは托鉢をしながらの旅である。王家に生まれ育った王子が、この先、一人で、どんな旅を続けていくのかと思うと、従者の目頭は潤んだ。
 「さあ、帰って、私の言ったように伝えるのだ」
 釈尊は強い語調で命じると、それから、優しい笑みを浮かべた。
 やむなく従者は、後ろ髪を引かれる思いで、王子と別れた。
 釈尊は摩訶陀(マガダ)国の首都・王舎城(ラージャガハ)を目指した。迦毘羅城から王舎城までは、およそ六百キロメートルの道のりといわれる。
 摩訶陀国は、強大国であり、新しい文化の中心地である。
 当時は、時代の変革期であった。それまでは、バラモン教の聖典ヴェーダをもとに、祭祀儀礼を行う司祭階級のバラモンが大きな権威と権力をもって、社会を支配してきたが、それが揺らぎ始めていたのである。
 その原因の一つは、バラモン自体の腐敗、堕落であった。
 更に、領土の拡大という戦いを通して、軍事・政治を担う王族・武士(クシャトリヤ)と、貿易などによって富を蓄えた商工業者(ヴァイシャ)が勢力をもち始めたことである。
 王族や武士、商工業者たちは、人間の運命が神や祭祀によって決定づけられるとする、伝統的なバラモンの思想に否定的であっただけでなく、バラモンの権威そのものに批判の目を向け始めていた。
 また、バラモン教のなかにも、人間の運命は行為の善悪によって決定されるという、新たな思想も出始めていたのである。
5  仏陀(5)
 時代が変動する時には、必ず新しい思想、哲学の勃興がある。
 バラモンの教えを否定する新しい自由思想家たちの台頭も目立ち始めていた。彼らは、バラモンと区別され、沙門(サマナ)と呼ばれていた。沙門とは、「道のために精進努力する人」の意味である。
 仏典では、この沙門の代表的な六人の指導者を「六師外道」と記している。
 彼らは、祭祀を司り絶対神聖とされたバラモンの権威をはぎ取っていった。
 ある人は、善悪は人間が決めたものであるとして、道徳否定論を説き、ある人は、徹底的な宿命論を唱えた。また、ある人は、人間は死によって無に帰すとして、唯物論を説いていた。
 それまでのバラモンの教えを否定するものだけに、彼らの主張は極端に先鋭的であり、概して、虚無的な「否定の哲学」の要素が強かったといってよい。
 釈尊は、その極端な思想には、どうしてもなじめなかった。
 摩訶陀(マガダ)国の首都・王舎城(ラージャガハ)に着いた彼は、誰を師として、老・病・死という根本の苦悩を解決する悟りを得ればよいのか、考え続けていたにちがいない。
 ある日、摩訶陀国王の頻婆娑羅(ビンビサーラ)は、城下を托鉢に歩いている一人の青年を目撃した。
 青年の顔は、柔和で気品をたたえているが、眼光は鋭く、英知と勇気が輝き、全身に威風が満ちていた。
 国王は、その青年に魅せられ、彼がいるという白善山(パンダヴァ山)を訪ねた。この青年こそ釈尊であった。王は丁重に、礼儀を尽くして釈尊に言った。
 「あなたは、高貴な王族の方とお見受けしました。実はあなたのような方に、わが軍の指揮を執っていただきたいと思い、お訪ねした次第です。ところで、あなたは、どのような生まれの方なのでしょうか」
 当時のインドを代表する摩訶陀国の王の、たっての要請である。しかし、釈尊は毅然として答えた。
 「私は、雪山(ヒマラヤ)の下にいる太陽の末裔の種族・釈迦族の出身ですが、出家した身でございます。世間的な栄誉は捨てておりますので、申し訳ありませんが、お引き受けするわけにはまいりません」
 そして、釈尊は、人生の無常が生み出す苦悩の解決のために、法を得ることが自分の目的であることを語った。
 頻婆娑羅王は、釈尊の決意を聞くと、諦めざるをえなかった。
6  仏陀(6)
 釈尊は思案した末に、禅定の大家といわれるバラモンの仙人を訪ねた。
 禅定とは、瞑想によって清浄な精神を、物質の束縛から解放する修行である。
 釈尊が最初に師事したのは、「無所有処」、つまり、所有を離れた、自身の執着に縛られない境地を得た仙人であった。
 彼は、修行に励み、ほどなく、その境地に至ることができた。しかし、それだけでは、人間の生死の問題の本源的な解決にはならないことを感じた。
 彼は新たな師を求めた。次に師事したのは、「非想非非想処」(想うに非ず、想わざるに非ざる境地)、いわば無念無想を体得した仙人であった。彼はその境地も得ることができた。だが、それも、彼の出家の目的を満足させるものではなかった。
 老いも、病も、死も、人間をさいなむ現実の苦悩である。しかし、禅定自体を目的とするような禅定家の悟りは、生死という問題の根本的な解決のためには、あまりにも無力であることを、釈尊は痛感した。
 ″私の求める悟りは、こんなものではない。老・病・死の苦しみから人間を解き放つ、真実の悟りを得たいのだ″
 釈尊は禅定家のもとを去り、まことの悟りを求め、静寂の地を探して旅した。
 彼は、王舎城(ラージャガハ)の西方を流れる尼連禅河(ネーランジャラー川)に沿った、ウルヴェーラーのセーナー村にやって来た。
 その村落には、緑したたる美しい林があった。
 彼は、この林を修行の地と定め、苦行を始めたのである。
 そこには、多くの修行者が苦行に励んでいた。
 当時のインドには、肉体は不浄なものであり、精神こそ清浄なものであるとする思想があった。そして、苦行によって精神を束縛する肉体を苦しめ、その力を弱めることによって、精神の自由が獲得できるとされていたのである。
 釈尊は苦行に入った。透徹した悟達を得んとして、自身との厳しい対決を開始したのだ。
 時に長い断食を続けた。の上に伏したこともあった。あるいは、墓地で死体の骨を寝床とし、汚物を食べることもあった。
 息も絶え絶えになり、動かなくなった彼を見て、周囲の修行者が、釈尊は死んでしまったのではないかと思ったことさえあった。
 釈尊の苦行は徹底していた。誰も真似のできぬほどの激烈さであった。
7  仏陀(7)
 釈尊の体は、無残なほどせ衰えていった。
 胸には、あばら骨と血管が浮き出ていた。肌は傷つき、化膿し、垢にまみれ、髭も、髪も伸びるにまかせていた。そして、充血した目だけが、異様に鋭い光を放っているのである。
 苦行は何年にもわたり、極限まで続けられた。
 しかし、悟達することはなかった。
 彼は思う。
 ″官能のおもむくままに欲望の快楽にふける。もとより、それは、卑しく、愚かで、無益なことだ。しかし、激しい苦行をし、自分を苦しめることに夢中になっても、本当の悟りを得ることはなかった。それも、ただ苦しむばかりで、下等で無益なことだった…″
 極端な苦行主義からは、自分の求める悟りは得られぬことを自覚した釈尊は、苦行をやめた。
 彼とともに修行に励んでいた人びとは、苦行に徹し抜いた釈尊は、間もなく悟りを得るものと思っていた。その釈尊が、突然、苦行をやめてしまったのである。周囲の驚きは大きかった。
 「瞿曇(ゴーダマ=釈尊の姓)は堕落した!」
 周囲の信望と尊敬は、失望と侮に変わった。
 苦行を捨てた釈尊は、尼連禅河(ネーランジャラー川)のほとりに立った。
 太陽の光に、木々の緑が鮮やかに映え、金波銀波が躍っていた。
 彼は、沐浴するため、足を引きるようにして、よろめきながら川に入った。
 川の水が、疲れ果てて、もうろうとした彼の意識を蘇らせた。釈尊は苦行の垢を清めた。それは、彼の新しい出発であった。
 しかし、彼の体は、自力では川からい上がるのも難しいほど衰弱していた。
 釈尊が、ようやく川から上がり、髪を整えると、乳粥を差し出す村の乙女がいた。スジャーターという娘である。断食をやめた彼は、喜んでそれを口にした。
 五体に、新たな生命の息吹がみなぎっていった。しばらくの休息の後、体力を回復した彼は、新しき悟りへの道を歩み始めた。
 やがて、釈尊は尼連禅河を渡り、菩提樹の下に来ると、座って足を組んだ。
 ″私は、たとえ自分の体が干上がったとしても、正しい悟りを得るまでは、決して、この組んだ足を解くまい″
 こう誓願すると、彼は静かに目を閉じた。
 吹き渡る風に、菩提樹の葉が、時折、カサカサと音を立てた。
 しかし、釈尊は深く思念を凝らし、身じろぎ一つしなかった。
8  仏陀(8)
 菩提樹の下で、釈尊の思惟は続いた。
 仏伝によれば、この時、悪魔が釈尊を誘惑したとある。
 その誘惑の方法は仏伝によって異なるが、優しく語りかけたとしているものもあることは興味深い。
 ″お前はやせ細り、顔色も悪い。まさに死にしている。このまま瞑想を続ければ、生きる望みは千に一つしかない……″
 悪魔は、まず生命の危機を説き、生きることを促した後、バラモンの教えに従っていれば、そんな苦労をすることなく、多くの功徳を積むことができると説得する。そして、釈尊のやっていることは、無意味であると語るのである。
 それは、己心の激しい藤劇であったととらえることができる。
 釈尊は迷い、心は千々に乱れた。
 体力も消耗し、衰弱のなかで、死への恐怖も湧いてきたのであろう。
 また、あの激しい苦行からも、何も得られなかっただけに、今の努力も、結局は無駄ではないかという思いも、頭をもたげてきたであろう。
 ともあれ、欲望への執着が、飢えが、眠気が、恐怖が、疑惑が、彼を襲った。
 魔とは、正覚への求道の心を悩乱させようとする煩悩の働きである。それは、世俗的な欲望への執着の心となって生じることもあれば、肉体的な飢えや眠気となって現れることもある。あるいは、不安や恐怖、疑惑となって、心をさいなむこともある。
 そして、人間はその魔に惑わされる時には、必ず自己の挫折を、なんらかのかたちで正当化しているものである。しかも、それこそが、理に適ったことのように思えてしまう。
 たとえば、釈尊の″こんなことをしても、悟りなど得られないのではないか″という考えは、それまで大悟を得た人などいないだけに、一面、妥当なことのように思えよう。
 魔は「親の想を生す」と言われるが、往々にして魔は、自分の弱さや感情を肯定する常識論に、すがる気持ちを起こさせるものだ。
 だが、釈尊は、それが魔であることを見破り、生命力を奮い起こし、雑念を払うと、高らかに叫んだ。
 「悪魔よ、怯者はお前に敗れるかもしれぬが、勇者は勝つ。私は戦う。もし敗れて生きるより、戦って死ぬほうがよい!」
 すると、彼の心は、再び平静を取り戻した。
 辺りは、夜の静寂に包まれ、満天の星が、澄んだ光を地上に投げかけていた。
9  仏陀(9)
 魔を克服した釈尊の心はすがすがしかった。
 精神は澄み渡り、晴れた空のように一点の曇りもなかった。
 不動な境地が確立され、彼の思念は、自身の過去を照射していった。
 これまでの人生を思い起こすと、次いで、前の生涯が思い浮かんだ。二つ、三つ、四つと、過去の生涯が蘇り、それは幾百、幾千……の生涯へと至った。その時々の自身の過去の姿が、鮮やかに彼の脳裏に描き出されていった。
 そして、更に幾多の宇宙の成立と破壊へと及んだ。
 釈尊は、今、菩提樹の下で瞑想している自分は、久遠の昔から生じては滅し、滅しては、また生まれるという、その連続のなかにいることを知った。
 彼は三世にわたる生命の永遠を覚知したのである。
 その時、生まれて以来、心の底深く澱のように沈んでいた、あらゆる不安や迷いが消え去っていた。自己という存在の、微動だにしない深い根にたどりついたのだ。
 彼は、無明の闇が滅して、智の光明がわが生命を照らし出すのを感じていた。そして、山頂から四方を見渡すかのように、彼の境地は開かれていった。
 釈尊の研ぎ澄まされた思念は、更に、一切衆生の宿命に向けられていった。
 彼の胸中に、諸々の衆生が、生き、そして、死に、また、生まれてくる姿がありありと映し出された。ある人は不幸の身の上となり、ある人は幸福の身の上となっていた。
 彼は、一念を凝縮させ、その原因をたどった。
 ──不幸の宿命を背負った人たちは、前世において、自らの行動で、言葉で、あるいは心で悪行をなし、正法の人を謗っていた。そして、邪な見解をいだき、それに基づく邪な行為をしていた。そのために、死後は不幸の宿命を背負って生まれてきているのである。
 それに対して、行動、言葉、心で善行をなし、正法の人を謗ることなく、正しい見解をいだいて、正しい行為をするならば、死後は幸福になっていた。
 現在世は、過去世の宿業によって決定づけられ、未来世もまた、現在世の行為によって決まっていく。
 今、釈尊は、それを、明らかに覚知することができた。彼は、変転する衆生の生死のなかに、厳とした生命の因果の理法を明察したのである。
 夜は、深々と更けていった。釈尊は、無限の大宇宙と自己との合一を感じながら、深く、深く思惟を突き進めていった。
10  仏陀(10)
 いつしか、明け方近くになっていた。東の空に明けの明星が輝き始めた。
 その瞬間であった。
 無数の光の矢が降り注ぐように、釈尊の英知は、不変の真理を鮮やかに照らし出した。
 彼は、胸に電撃が走るのを覚えた。体は感動に打ち震え、は紅潮し、目には涙があふれた。
 ″これだ、これだ!″
 この刹、この一瞬、釈尊は大悟を得た。遂に仏陀となったのだ。
 彼の生命のは、宇宙に開かれ、いっさいの迷いから解き放たれて、「生命の法」のうえを自在に遊戯している自身を感じた。この世に生を受けて、初めて味わう境地であった。
 釈尊は知ったのだ。
 ──大宇宙も、時々刻々と、変化と生成のリズムを刻んでいる。人間もまた同じである。幼き人も、いつかは老い、やがて死に、また生まれる。いな社会も、自然も、ひとときとして静止していることはない。
 その流転しゆく万物万象は、必ず何かを縁として生じ、滅してゆく。何一つ単独では成り立たず、すべては、空間的にも、時間的にも、連関し合い、「縁って起こる」のである。
 そして、それぞれが互いに「因」となり、「果」となり、「縁」ともなり、しかも、それらを貫きゆく「生命の法」がある。
 釈尊は、その不可思議な生命の実体を会得したのであった。
 彼は、自身が、今、体得した法によって、無限に人生を開きゆくことが確信できた。迫害も、困難も、逆境も、もはや風の前の塵にすぎなかった。
 彼は思った。
 ″人はこの絶対的真理を知らず、自分は単独で存在しているかのように錯覚している。その錯覚が、結局は人間を欲望の虜にし、永遠不変の真理である「生命の法」から遠ざけてしまう。そして、無明の闇をさまよい、苦悩と不幸に沈んでゆく。
 しかし、その無明とは、自身の生命の迷いである。まさしく生命の無明こそが諸悪の根源であり、生老病死という人間の苦悩をもたらす要因にほかならない。
 ゆえに、この迷い、無明という、己心の悪と対決するところから、人倫の道、崩れざる幸福の道が開かれるのだ!″
 彼方には、朝靄を払い、まばゆい朝の太陽が昇ろうとしていた。それは、人類の幸福と平和の夜明けの暁光にほかならなかった。
 法楽に包まれながら、彼は朝焼けの大地を見た。
11  仏陀(11)
 釈尊の出家後の、成道にいたる歳月については、いくつかの説がある。
 彼の成道は、十九歳出家説によれば三十歳、二十九歳出家説によれば三十五歳といわれる。
 法楽を味わった釈尊は、しばらくすると、深い悩みに沈んだ。それは新しい苦悩であった。彼は木陰に座り、何日も考えていた。
 ″この法を説くべきか、説かざるべきか……″
 彼の悟った法は、いまだかつて、誰も聞いたこともなければ、説かれたこともない無上の大法である。光輝満つ彼の生命の世界と、現実の世界とは、あまりにも掛け離れていた。
 人びとは病を恐れ、老いを恐れ、死を恐れ、欲望に身を焼き、互いに争い合い、苦悩している。それは「生命の法」を知らぬがゆえである。しかし、衆生のために法を説いたとしても、誰一人として、理解できないかもしれない。
 釈尊は孤独を感じた。それは未聞の法を得た者のみが知る、「覚者の孤独」であった。
 彼は考えた。
 ″誰も法を理解できなければ、無駄な努力に終わってしまうだけでなく、人びとは、かえって悪口するかもしれない。更に、わからぬがゆえに、迫害しようとする人もいるであろう。
 もともと私が出家したのは、何よりも、自身の老・病・死という問題を解決するためであった。
 それに、自分が悟りを得たことは、誰も知らないのだ。ただ、黙ってさえいれば、人から非難されることはない。そうだ。人には語らず、自分の心にとどめ、法悦のなかに、日々を生きてゆけばよいのだ……″
 ある仏伝によれば、この時も悪魔が現れ、釈尊を苦しめたとされる。それは、法を説くことを思いとどまらせようとする、己心の魔との戦いと解せよう。
 釈尊は布教に突き進むことに、なぜか、逡巡と戸惑いが込み上げてきてならなかった。
 彼は悩み、迷った。
 魔は、仏陀となった釈尊に対しても、心の間を突くようにして競い起こり、さいなみ続けたのである。
 「仏」だからといって、決して、特別な存在になるわけではない。悩みもあれば、苦しみもある。病にもかかる。そして、魔の誘惑もあるのだ。
 ゆえに、この魔と間断なく戦い、行動し続ける勇者が「仏」である。反対に、いかなる境涯になっても、精進を忘れれば、一瞬にして信仰は破られてしまうことを知らねばならない。
12  仏陀(12)
 仏伝では、逡巡する釈尊の前に、梵天が現れ、あまねく人びとに法を説くように懇請したとある。
 それは、自己の使命を自覚し、遂行しようとする釈尊の、不退の意志の力を意味しているといえよう。
 彼は、遂に決断する。
 ″私は行こう! 教えを求める者は聞くだろう。汚れ少なき者は、理解するだろう。迷える衆生のなかへ、行こう!″
 釈尊は、そう決めると、新しき生命の力が込み上げてくるのを感じた。
 一人の偉大な獅子が、人類のために立ち上がった瞬間であった。
 聖者は林を出て、さっそうと歩き始めた。
 その時、まばゆい光が走り、空を、雲を、森を、川を、金色に染めた。一陣の風が吹き、木々の葉が軽やかな音をたてた。それは、門出を祝うの調べを思わせた。
 釈尊は、この法を誰に説こうかと考えた。まず、恩義ある禅定の二人の師を思ったが、風の便りに、既に世を去っていることを聞いていた。
 彼は一路、バーラーナシー(ベナレス)の近郊にある鹿野苑(ミガダーヤ)を目指した。
 そこは、古来、多くの修行者が集まる聖地とされていた。
 そして、この鹿野苑には、かつてセーナー村の苦行林で、一緒に苦行に励んだ五人の修行者もいることを耳にしていた。
 ″彼らに、最初に法を説こう″
 釈尊は、その友人たちに、まず、自分の悟った「生命の法」を教えてやりたかった。それは、極めて自然な、真心と友情の発露であった。
 鹿野苑への道程は、優に二百五十キロはあったにちがいない。しかし、彼は胸を高鳴らせながら、歩みを運んだ。
 鹿野苑では、五人の友が修行に励んでいた。
 その一人が、遙か彼方に一つの人影を見つけた。釈尊であった。
 「おい! あれは、瞿曇(ゴータマ=釈尊の姓)じゃないか。何をしに、ここへ来たのだろう」
 別の一人が吐き捨てるように言った。
 「瞿曇だけは、激しい苦行に耐え、悟りを得ると思っていた。それが、突然、苦行を捨ててしまった。結局、贅沢を欲したのだ。
 瞿曇は脱落者だ。そんな男が何をしに来ようが、我々とは関係のないことだ。立って、礼儀を尽くして迎える必要などない」
 五人の修行者は、冷淡な目で、次第に近づいて来る釈尊を見ていた。
13  仏陀(13)
 五人の修行者は、近づいて来る釈尊に冷ややかな視線を向け、おし黙って座っていた。
 釈尊は堂々としていた。
 彼が歩み寄り、笑みを浮かべて話しかけると、思わず五人は立ち上がっていた。無視することのできない、吸引力ともいうべき力が、その声にはあった。
 釈尊は、自らが大悟を得たことを語った。そして、一緒に苦行に励んだ友に、まず、その大法を伝えようと、ここまでやって来たことを告げた。
 だが、彼らは信じなかった。瞿曇(ゴータマ=釈尊の姓)は、苦行を捨てた人間である。そんな人物が大悟を得るわけがないと、思ったからだ。
 不信の眼を向ける五人に、釈尊は悠然として、偉大なる確信を語った。
 しかし、話は平行線をたどった。
 釈尊は言った。
 「私の話を信じようと、信じまいと、それは構わない。しかし、かつて、これほど輝き、はつらつとした私を見たことがあるか。この輝きこそ、大悟を得た歓喜によるものなのだ」
 確かに、釈尊は以前とは全く異なっていた。目には大確信の光がみなぎり、その姿は、威厳と自信と誇りにあふれていた。
 人びとの不信と迷いの雲を打ち破るものは、人間自身の光彩であり、それ自体が、一つの厳たる実証といえる。
 釈尊の「人間の輝き」を前にして、遂に五人の修行者は苦行を捨て、仏陀の教えを求める決心をしたのである。
 釈尊は鹿野苑(ミガダーヤ)にとどまり、五人に法を説くために共同生活を始めた。
 彼が悟った法は、あまりにも偉大である。それを、この五人がわかるように、いかに説くかに、彼は苦慮した。
 釈尊は根気強く、論理を組み立て、平易な実践論とし、彼らの機根に即して、具体的に法を語っていった。それゆえに、この時の教えは、多分に随他意的であった。
 釈尊の説法は、来る日も来る日も続けられた。
 彼は快楽主義と苦行・禁欲主義という両極端を排し、「中道」に生きることを教えていった。そのための修行法を説き、基本となる思想を説いた。
 そして、遂にある日、修行者の一人、憍陳如コンダンニャがその教えを領解し、悟りを開いた。
 釈尊が悟った法は、彼一人に限らず、万人が悟ることのできる法であることが実証されたのだ。
 それは、自利にとどまらない、慈悲の行としての仏教の誕生を意味していた。
14  仏陀(14)
 釈尊は、鹿野苑(ミガダーヤ)にあって、弟子となった五人の比丘たちに法を説いて日々を過ごした。
 ある時、釈尊が休息していると、一人の若者が「苦しい……」「辛い……」と、溜め息まじりにつぶやきながら、歩いて来た。
 彼は長者の息子で、耶舎(ヤサ)という若者であった。耶舎は、たくさんの侍女にかしずかれ、何不自由ない豪奢な暮らしをしていた。しかし、彼の心は満たされなかった。耶舎は、その華やかな生活に、むしろ、はかなさを感じ、まるで墓場のようにさえ思えるのであった。
 そして、家を飛び出して来たのである。
 釈尊は、耶舎を呼び止めて言った。
 「あなたは、何を悩んでいるのですか。私のいる所には、何も煩わしいことはない。さあ、こちらにいらっしゃい」
 釈尊は、自分が座っていた敷布に耶舎を招いた。だが、すぐには「生命の法」を説かなかった。彼を包み込むように、人間の生き方について語っていった。そして、欲望に翻弄されて生きることの愚かさを教えるのだった。
 話を聞くうちに、耶舎は心が洗われる思いがした。
 若者が穏やかな心を取り戻したことを見て取ると、釈尊は、彼の会得した法の一分を説いた。
 を紅潮させ、教えに耳を傾けていた耶舎の胸に、帰依の心が芽生えた。
 釈尊は、この時、憂いに沈んだ耶舎を、励まし、勇気づけることから始めている。悩める人に、一個の人間として、いかなる言葉をかけるか──その慈愛のなかに、布教の原点があるといってよいだろう。
 さて、耶舎の家出を知った屋敷は、大騒ぎになっていた。父の長者は、八方に使いを走らせ、捜索にあたらせた。しかし、それでもいたたまれず、自ら捜しに歩き、鹿野苑にやって来たのである。
 そこで、息子を教化した釈尊と出会った。
 釈尊は、父にも法を説いていった。
 父も、その教えに、強く心を打たれた。富と名声だけが人生ではないことを、自覚したのである。そして、人間の永遠なる道に目覚め、釈尊に帰依しようと思った。
 しかし、家業を捨てて出家するわけにはいかなかった。彼は在家信者として、仏道を志すことになった。更に、父は耶舎の出家も許したのである。
 釈尊は、長者の家に招かれた。仏陀に会った長者の妻と耶舎の妻も、ともに帰依することになる。
15  仏陀(15)
 一人の発心は、一人にとどまらない。一波が十波、百波となって広がっていくように、そこに連なる幾多の人間へと波動していく。
 耶舎(ヤサ)は人柄のよい青年であった。その彼の出家は、瞬く間に、友人から友人へと伝えられた。
 彼らは、耶舎がそこまで魅了された釈尊とは、いかなる人か、また、その法とはどのような教えかと、強い関心を寄せ、釈尊を訪ねた。そして、青年たちは相次ぎ出家し、その数は五十余人に達したのである。
 一人を大切にし、一人を育てるところに、広宣流布の永遠不変の方程式があるといえよう。
 これによって、釈尊を師と仰ぐ、六十人の出家者が、鹿野苑(ミガダーヤ)に集まったことになる。それは小さいながらも、一つの教団を成していた。
 釈尊は、ある日、弟子たちに言った。
 「比丘たちよ。さあ、弘教の旅に出よう!
 人びとの幸福のため、世の平和のために、諸国を巡って、法を説くのだ」
 皆、驚いて釈尊を見た。誰も予想していなかったことであった。
 釈尊は弟子たちの決意を促すように、強い口調で言葉をついだ。
 「その弘法の旅は、二人で連れ立って行くのではなく、それぞれ、一人で行かねばならない。
 そして、道理正しく、明瞭に法を説き、高潔な振る舞いを示しながら、布教にあたってほしい」
 皆の驚きは増したが、釈尊の射貫くような視線を浴びると、いよいよ自分たちが、巣立つべき時が来たことを自覚した。
 最後に、彼は告げた。
 「私も法を説くために、悟りを開いたあのセーナー村に行く」
 彼は、弟子たちを一人で布教に旅立たせることに、ためらいも感じていた。
 しかし、仏法は、単なる哲学や、瞑想の世界に閉じこもることではない。法を求めて、その理を得たならば、法の流布を自己の使命とし、衆生を教化、救済する実践のなかに、真実の仏法がある。
 また、釈尊は弟子が一人で法を説くことで、受動的な受け止め方を排し、自立した信仰を身につけさせようとしていたのかもしれない。布教の責任を持ってこそ、信仰も磨かれ、深められていくからだ。
 ともあれ、一人一人に独自で法を説かせ、民衆のなかへ入ることを促した釈尊の育成の方法には、実践を第一義とする仏法の特色が鮮明に示されている。
16  仏陀(16)
 弟子たちは布教の決意に燃えて、鹿野苑(ミガダーヤ)から、各地へと散っていった。
 釈尊も一人、成道の地であるウルヴェーラーへと歩みを運んだ。
 摩訶陀(マガダ)国の首都である王舎城(ラージャガハ)には、著名な宗教家、思想家が多く、新しい文化の都でもあった。その王舎城に近いウルヴェーラーは、広宣の旗を掲げる弘教の天地としては、最もふさわしかった。
 釈尊の布教は、道中から既に始まっていた。
 とある森のなかで、彼が座していると、血眼になって誰かを追っている何人もの男女に出会った。
 そのうちの一人の若者が釈尊に尋ねた。
 「女が一人、逃げて来るのを見ませんでしたか」
 彼らは妻を伴い、森に遊びに来ていたが、独身の仲間の青年は遊女を連れて来た。ところが、皆が遊戯に熱中しているうちに、その遊女が金品を盗んで逃げてしまった。そこで、遊女を捜しているというのだ。
 話を聞くと、釈尊は質問には答えず、静かに青年たちに聞いた。
 「逃げた遊女を捜すことと、まことの自分を探すことと、人間としてどちらが大切だと思うか」
 意外な問いであった。
 釈尊は青年たちを黙って見すえた。
 彼らは、穏やかななかにも、凛然とした聖者の前に立つと、享楽にばかり目を奪われ、追い求めている自分たちが惨めで、恥ずかしく思えてきた。
 青年の一人が答えた。
 「……それは、当然、本当の自分を探すことの方が大切だと思います」
 釈尊は頷いた。
 「それならば、私が、まことの自己自身を探す方法を教えよう」
 彼は、快楽を追い求める人生から、永遠の幸福を築く人生の在り方に目を向けさせようと、親身になって話していった。それは慈愛と触発の対話であった。
 この語らいで、青年たちは全員、釈尊に帰依することになった。
 彼は、ちょっとした機会も逃さずに法を説いた。すべての衆生に「生命の法」を教えようとする彼にとって、人との出会いは、そのまま弘教の対話となった。
 釈尊は、久し振りに、尼連禅河(ネーランジャラー川)のほとりに立った。あの成道の朝と同じように、木々の緑は、鮮やかに太陽の光に映えていた。
 いよいよここで、彼の本格的な弘教の戦いが始まるのだ。
17  仏陀(17)
 ウルヴェーラーにやって来た釈尊は、最初に、著名な三人の宗教家に法を説くことにした。
 三人は兄弟で、バラモンの指導者であり、それぞれ五百人、三百人、二百人の弟子を持っていた。釈尊はいわば当時の宗教界の権威に法論を挑んだのだ。
 日蓮大聖人も「強敵を伏して始て力士をしる」と仰せになっているように、最も強い敵と戦い、勝ってこそ、法の真実と正義は証明される。
 釈尊は法のために、何ものをも恐れぬ、戦う勇者であった。
 三兄弟の長兄の優樓螺葉(ウルヴェーラ・カッサパ)は、法論を通して、釈尊の正しさに気づいた。しかし、その教えを受け入れようとはしなかった。
 彼には、多くの弟子を従える身である自分が、釈尊に屈服したとなれば、沽券にかかわるとの思いがあった。釈尊への話し方もぞんざいで、見下したような態度を取り続けていた。
 だが、釈尊はどこまでも礼を尽くし、確信を込め、理路整然と、そして、誠心誠意、法を説いていった。
 語り合ううちに、釈尊の人格、人柄に、優樓螺葉は傾倒していった。そして、立場や体面にばかりこだわる自分の卑しさが浮き彫りにされる思いがした。
 とうとう彼は、釈尊に帰依を誓う。まさに人格の勝負であった。布教は単なる理論の闘争ではない。人格を通しての生命と生命の打ち合いである。
 釈尊は、優樓螺葉の弟子たちのことを考えて、こう語った。
 「あなたは五百人の弟子の指導者です。あなたの考えを弟子たちに伝え、彼らには、それぞれの思い通りに行動させるべきです」
 信仰は強制ではない。どこまでも自発である。
 優樓螺葉は、弟子たちと協議を重ねた。釈尊から聞いた話を、彼が伝えると、五百人の弟子は、皆、釈尊に帰依する意思を固めた。彼は自ら、バラモンの祭祀の道具などを、すべて水に流してしまった。
 更に、長兄が釈尊に帰依したことを聞き、二人の弟も、それぞれ弟子を連れて帰依した。これによって、一時に千人余の弟子が誕生したのである。
 釈尊は、それらの弟子とともに、王舎城(ラージャガハ)に向かった。
 バラモンの権威であった三兄弟が帰依した話は、王舎城にも広がっていった。
 悟りを開いた釈尊が、弟子たちを連れて、王舎城へ来る──そのは、摩訶陀(マガダ)国の国王・頻婆娑羅(ビンビサーラ)の耳にも届いた。
18  仏陀(18)
 釈尊がやって来た──。
 国王・頻婆娑羅(ビンビサーラ)の心は躍った。
 彼は、かつて釈尊と初めて会った日のことが、懐かしく思い返された。
 あの日、頻婆娑羅が、摩訶陀(マガダ)国の軍隊の指揮を執ってくれるように要請すると、釈尊はそれを辞退し、聖者の道を目指すことを告げた。
 以来、国王は、釈尊が一日も早く悟りを開き、仏陀となることを楽しみにしてきた。そして、その時には喜んで釈尊に帰依しようと決めていたのである。
 頻婆娑羅は、躍る心を抑えて、釈尊を訪ねた。
 悟達を得た釈尊は、精悍ななかにも、一段と威厳と柔和さを増し、生命の輝きを感じさせた。
 王は、釈尊に深く礼をし、一隅に座った。
 仏陀の説法が始まった。
 王は教えを聞くと、在家信徒として、生涯、帰依することを誓った。
 更に、都城からほどよい距離にあり、行き来に便利な竹林園に、比丘たちのために精舎を建てて寄進することにした。これが有名な竹林精舎である。
 そこは、特に雨期の間、雨を防ぎ、居住する、格好の拠点となった。これによって釈尊は、その後も幾度となく、ここにやって来て、王舎城で布教にあたることになる。
 新しい思想家が集う王舎城には、六師外道の一人で懐疑論を説いた刪闍耶(サンジャヤ)もいた。彼は、二百五十人の弟子を持っていた。
 その弟子たちのなかで、特に優秀さを高く評価されていたのが、後に釈尊の十大弟子の双璧となり、智第一といわれる舎利弗(サーリプッタ)と、神通第一といわれる目連(モッガラーナ)であった。
 二人は師の刪闍耶の教えに満足できず、真実の法を求め、″どちらかが信頼できる師に出会ったら、ともに同じ道を進もう″と約束していた。
 その舎利弗がある時、釈尊の弟子と会い、釈尊の教えの一句を耳にした。聡明な彼は、そこから釈尊の人格と法の偉大さを実感することができた。
 舎利弗は、直ちにそれを友である目連に伝えた。目連も、同様に釈尊の人格と法の深遠さを理解した。
 二人は、釈尊には会ったことさえなかったが、弟子になろうと思った。それを刪闍耶の弟子たちに打ち明けると、全門下が、ともに行動すると言い出した。
 彼らは、師の刪闍耶よりも、むしろ、弟子の中心になっていた、舎利弗と目連に敬服し、修行に励んでいたからである。
19  仏陀(19)
 刪闍耶(サンジャヤ)の二百五十人の門下は、舎利弗(サーリプッタ)、目連(モッガラーナ)と一緒に、全員が釈尊の弟子となってしまった。
 人は立場や肩書についてくるのではない。実力であり、人格についてくるのである。
 これは、大ニュースとして、王舎城(ラージャガハ)を駆け巡った。
 人びとは、優秀な青年たちが、相次ぎ釈尊に帰依していくことに、不安を感じ始めていた。
 「釈尊は、刪闍耶の弟子を、皆、引き連れていってしまった。このうえ、誰を誘おうというのか」
 人びとは囁き合った。
 それを耳にした釈尊は言った。
 「私は、正法をもって、皆を教化している。法という道理を説く智者を妬んでどうするのだ」
 釈尊は、自分の勢力を拡大するために、法を説いているのでもなければ、卑劣な手段で青年たちを誘っているわけでもない。
 「法」という道理に共感し、皆、自主的に帰依を誓って集まってきているのである。
 釈尊への非難は、真実を知らぬがゆえに生じた誤解にほかならなかった。
 彼は、悠然として、弟子たちに語るのであった。
 「そんな批判は、やがてすぐに消えていってしまうだろう」
 事実、しばらくすると、そうした非難の声は収まっていった。
 この王舎城を中心とした布教によって、後世に名が伝えられている、多くの弟子たちが誕生した。
 十大弟子となり、頭陀第一といわれた摩訶迦葉(マハーカッサパ)も、その一人である。
 また、「須達長者」として知られる、拘羅(コーサラ)国の舎衛城(サーヴァッティー)の大富豪・須達多(スダッタ)も、ここで釈尊と出会い、帰依を誓った。
 須達多は、たいそう慈悲深く、孤児などの貧しく孤独な人びとに、私財を投じて衣食を与えたところから、「給孤独長者」とも呼ばれている。
 そして、舎衛城の近くの園林に祇園精舎を建て、釈尊に寄進する。
 拘羅国は摩訶陀(マガダ)国と並ぶ当時のインドの二大強国であり、首都である舎衛城は北方インドの交通の要衝であった。その間近に拠点として祇園精舎ができたことは、弘教の大きな力となった。
 釈尊が、ここで雨期を過ごしたことは、二十回以上といわれ、やがて、国王の波斯匿(パセーナディ)も、正法に帰依するようになるのである。
20  仏陀(20)
 この王舎城(ラージャガハ)から、舎衛城(サーヴァッティー)に向かう途中に、釈尊の故郷の迦毘羅城(カピラヴァットゥ)があった。
 彼は、故郷の迦毘羅城にも、何度となく立ち寄り、布教に励んだ。
 誓い通り大悟を得て、仏陀となったわが子を迎えた父の浄飯王(スッドーダナ)の喜びは、大きなものがあったにちがいない。
 この地でも、釈尊の説法を聞いて、浄飯王、息子の羅睺羅ラーフラ、弟の難陀ナンダ、また、阿難アーナンダ阿那律アヌルッダ優波離ウパーリ提婆達多デーヴァダッタなどが帰依している。
 釈尊の説法は、決して一方的に訓戒を垂れるといったものではなかった。相手に即し、人情の機微を的確にとらえながら、いかなる場所でも、臨機応変に、自由自在に法を説いていったのである。
 ある時、舎衛城で、愛児を亡くし、その亡骸を抱き締めて、町をさまよう母親に出会った。
 彼女は釈尊に、すがりつくように言った。
 「この子を救う薬をください」
 彼女の目は異様に血走っていた。
 釈尊は、その様子を見て取ると、力強く言った。
 「わかった。私がその薬をつくってあげよう。町へ行って、芥子の種をもらってきなさい」
 母親の目が輝いた。
 「……ただし、その芥子の種は″死人を出したことのない家″から、もらってこなければならない」
 彼女は急いで、町に行くと、一軒一軒、くまなく訪ねて回った。しかし、芥子の種を持っている家はあっても、死人を出したことがない家など、ただの一軒もなかった。
 母親は次第に、どの家の人も、子供や親を亡くした悲しみを、そっと胸に秘めて生きていることに気づき始めた。
 そして、人生は無常であることを知るとともに、自分の悲しみだけが、決して特別のものではないことを知ったのである。
 こうして、彼女は釈尊の弟子となり、後には聖者の一人として仰がれるまでになる。
 狂乱せんばかりに苦しんでいた母親の心は、通り一遍の励ましでは、とうていすことなどできなかったにちがいない。
 それを十分に察知したうえでの、釈尊の対応であったのだ。
 彼は苦悩に打ちひしがれた病める精神を蘇らせる、「生命の名医」であった。
21  仏陀(21)
 また、釈尊の弟子に、いつも、「世界は無限か、有限か」「霊魂と肉体は一体か、別々か」といった観念的な質問をする修行者がいた。
 釈尊は、それには取り合わなかった。自らがいかに生きるかを離れ、思考の遊戯に終始しても、なんら人生の問題の解決にはつながらないことを、知悉していたからであった。
 しかし、この哲学好きな修行者には、それが不満であった。
 ある時、この修行者が、いきり立って言った。
 「世尊! いつまでも私の質問に答えてくださらないなら、私は世尊のもとを去ります」
 すると、釈尊は、諭すように語り始めた。
 「毒矢で射られて苦しんでいる人がいた。そこへ、親友や親族が駆けつけ、矢を抜こうとした。
 ところが、その人は、矢を射た人間の名や素性、体の特徴などを尋ね、それがわからぬうちは、矢を抜いて治療してはならないと言った。
 更に、矢の材質などを、あれこれ問いただしているうちに、遂に、その人は死んでしまった。
 あなたの場合も、世界が無限か、有限かわからなければ修行に励まないなどと言っているうちに、何も会得せずに死んでしまうであろう」
 釈尊は毒矢の譬えを使って、観念的な議論に振り回されることの無意味さを、修行者に教えたのである。
 それはまた、いかなる論議よりも、まず人間に慈悲の光を当て、苦しみを抜き、楽しみを与えていくことを優先する、仏法の本来の在り方を鮮やかに示したものであった。
 釈尊の説法には、巧みな譬えが実に多いが、それは相手が最もわかりやすいように法を説いた、工夫の産物であったといえる。
 釈尊は友の苦悩や問題を直視し、ともかく、それを取り除くことに力を注ぎ、時には生活の指導もした。
 ある時、拘羅(コーサラ)の国王の波斯匿(パセーナディ)がやって来た。彼は美食家で、大食漢でもあり、体は、はち切れんばかりであった。
 その姿を見ると、釈尊は詩をつくって朗詠した。
 「常に 注意を怠らず 適量知って 食する人は 苦しみ少なく 老い遅くその命こそ守られる」
 それを聞くと、王は家臣に、食事のたびに、この詩を諳んずるように命じた。
 王は、食事時に必ず詩を聞いて、釈尊の注意を守った。そして、肥満は解消され、健康を取り戻した。
 釈尊は、詩をもって友を励ます、「桂冠詩人」でもあったようだ。
22  仏陀(22)
 人間王者・釈尊は、常に人びとに質問の機会を与え、自由な語らいのなかで法を説いていった。
 しばしば意地の悪い質問もあったが、当意即妙の譬喩や明快な道理をもって、敢然と切り返し、それに答え、納得させている。まさに、釈尊は座談の達人であったといってよい。
 ドイツの哲学者ヤスパースは、釈尊のことを、「言葉を自在に使う人」と表現しているが、釈尊の言葉は友への慈愛の一念から発する、魂の言葉であった。
 こうしたヒューマニズムにあふれた語らいと触発と和気こそが、釈尊の教団の大きな発展の源泉となっていたにちがいない。
 しかし、破竹の勢いで発展する釈尊の教団を目の当たりにした、バラモンの指導者や新思想を唱える六師外道たちは、心穏やかではなかった。彼らの心には、釈尊への嫉妬と憎悪が渦巻いていた。そして、排斥するための、さまざまな謀略が練られ、釈尊の迫害の人生が始まるのである。
 祇園精舎が寄進された時には、外道たちが国王の波斯匿(パセーナディ)に、こう讒訴している。
 「瞿曇(ゴータマ)は、未熟な若僧に過ぎず、なんの力もありません」
 「彼が王族の生まれというのは偽りです」
 「あの男は、幻術をもって人びとを惑わす危険な人物です」
 嫉妬と怨念による讒言である。
 また、こんなこともあった。ある日、釈尊が托鉢のために、舎衛城(サーヴァッティー)に入ると、一人のバラモンの男が、罵りの声をあげた。
 「止まれ、偽沙門め! 賎しいやつめ! お前など、ここに来るな」
 釈尊は悠然として切り返した。
 「あなたは、『賎しいやつ』と言われたが、賎しいとはどういうことですか。また、何によって、人は賎しくなると思うのか」
 バラモンという座に安住し、人を見下すことへの、本質的な問いであった。
 男は、答えなかった。いや、何も答えられなかったのである。彼は、ともかく、釈尊が憎く、侮したかったにすぎない。
 当惑する男の額には、汗が噴き出していた。しばらく考え込んでいたが、答えは出せなかった。
 男は意を決して言った。
 「教えてください……」
 釈尊は生命の因果の理法を説き、こう結論した。
 「つまり、人間は生まれによって賎しくなるのではない。行為です。何をなすかによって、賎しくもなれば、尊くもなるのです」
23  仏陀(23)
 釈尊は、人間の貴賎が、前世から定まった、「生まれ」によって決定するという、バラモンの運命論を打ち破ったのである。
 それは、過去に縛られて生きるのではなく、現在の行動、振る舞いをもって、未来を開いていくという、ヒューマニズムの哲学にほかならなかった。
 バラモンの男の衝撃は大きかった。初めて耳にする斬新な、深い思想である。彼は、バラモン階級という社会的な立場を誇示し、威張っていた自分が、賎しくさえ思えた。
 男はを紅潮させ、深く頭を垂れた。そして、釈尊の弟子になることを申し出たのである。
 これは、むしろ痛快なエピソードであるが、釈尊に対するいやがらせは、数限りなかった。
 彼の生涯のなかでも、大きな法難として伝えられているのが、いわゆる「九横の大難」であり、そのうちの二つが、女性をめぐるスキャンダル事件であった。
 その一つが「旃遮(チンチャー)女の謗」である。
 釈尊が舎衛城(サーヴァッティー)の祇園精舎にいた時、人びとが説法を聞いて帰るころ、艶やかな衣服に身を包んで、精舎に向かう女性がいた。美貌を誇る遍歴行者で、名前は旃遮といった。
 翌日、人びとが精舎にやって来るころ、彼女の帰って行く姿が見られた。
 それから一カ月ほど過ぎたころ、彼女は「私は釈尊の部屋に泊まった」と言い出したのである。
 最初のうちは、皆、一笑に付し、本気にする者はいなかった。
 しかし、そのうちに旃遮の腹は、次第に大きくなっていった。
 すると、彼女は「釈尊の子供を身篭もった」と吹聴して歩いた。
 人びとのなかには、釈尊に疑いの目を向ける者も出始めた。
 ある日、大きく腹を膨らませた旃遮が、釈尊の説法を聞きにやって来た。
 そして、皆の前で、瞳を潤ませ、大声で叫んだ。
 「あなたは、私を弄んでおいて、おなかの子供の面倒は見てくださろうとはしない! せめて、着る物と食べ物だけでも、与えてください……」
 集った人びとは、驚いて旃遮を見た。
 彼女は、声を上げて泣き崩れた。
 釈尊は泰然自若として、黙っていた。
 しかし、それは、見ようによっては、その場を取り繕っているかのようにも見えた。
24  仏陀(24)
 釈尊は、大きな、落ち着いた声で言った。
 「あなたの話が、本当かかは、私とあなたしか、わからないことだ」
 旃遮(チンチャー)は顔を上げると、怒りに燃えた目で釈尊を睨みつけた。
 「そうです。知っているのは、私とあなたしかおりません。そして、二人しか知らないことによって、私は、こんな姿になってしまったんです」
 腹をさする彼女のに、大粒の涙が流れた。
 誰もが絶句した。一座の沈黙のなかに、旃遮のすすり泣きが響いた。
 近くにいた人びとの反応はさまざまであった。
 横を向いて、舌打ちする者もいれば、旃遮に哀れみの目を向ける者もいた。
 彼女は、激しい口調で言った。
 「おなかの子供は、あなたの子ではありませんか。これ以上、騙すことは、おやめください」
 その時、一陣の強風が吹いた。彼女の衣服が風にられ、腹に巻いていた紐が切れた。衣服の下に隠していた鉢が転げ落ちた。
 「これがお前の子か!」
 弟子の一人が、鉢を指さして言った。爆笑が広がった。
 旃遮は、すごすごと逃げ帰るしかなかった。
 これは、外道の者たちによって、巧妙に仕組まれた罠であった。
 国王をはじめ、長者や武士など、多くが釈尊に帰依し、自分たちには供養する者さえなくなりつつあったことから、釈尊への尊敬と名声を打ち砕くために、仕組んだのである。
 人びとは、どこまでも民衆の救済のために生きる、釈尊の崇高にして純粋な無私の精神と行動に、深い尊敬と信頼を寄せていた。
 信仰によって結ばれた人間の絆は、利害によるものではなく、「信頼」を基本にした良心の結合である。
 それゆえに、その絆は、最も強く美しい。しかし、ひとたび「信頼」が失われれば、心は離れ、絆は破壊されてしまうことになる。
 したがって、教団を破滅に追い込むために、その指導者の異性や金銭をめぐるスキャンダルを捏造し、不信をいだかせるという手法が、古くから使われてきたのである。それは、今も同じである。
 更に、もう一つ「孫陀利(スンダリー)の謗」という事件がある。
 祇園精舎に、日々通って来る、孫陀利という名の美しい女性がいた。
 やがて、彼女は、釈尊と情を通じたと吹聴するようになった。
 その孫陀利が、突然、姿を消したのである。
25  仏陀(25)
 「このごろ孫陀利(スンダリー)の姿が見えないが、どうしたのだろう」
 舎衛城(サーヴァッティー)のあちこちで、そんな声が囁かれた。
 孫陀利が行方不明になったと訴えがあり、国王が捜査を命じた。すると、祇園精舎から彼女の遺体が発見されたのである。
 「釈尊の弟子たちが、師の悪行を隠そうとして殺したのだ! あいつらは、善行を口にしながら、平気で悪行をしていたのだ」
 その流言に、多くの人びとが同調し、釈尊の一門は非難の集中砲火を浴びた。
 実は、この事件も、外道たちが孫陀利をたぶらかして仕組んだ罠であった。
 しかし、やがて、真犯人が見つかり、彼らが人を使って、孫陀利を殺し、祇園精舎に捨てさせたことが判明する。そして、釈尊一門の無実が明らかになるのである。
 自分たちが罪を犯し、それを聖者の犯行に仕立て上げる──これは古来、弾圧に用いられてきた、常套手段といってよい。
 もともと、釈尊には、社会的に罪となる行為などいっさいないだけに、排斥するには、自分たちが事件を捏造して、讒言によって罪を被せるしか方法はない。そこに、罪による法難の構図がつくられていくのである。
 日蓮大聖人も、念仏者たちの讒言による、迫害を受けている。
 文永八年(一二七一年)九月、平左衛門尉ら幕府の権力者は、大聖人を不当に捕らえ、竜の口で斬首に及んだが果たせず、いったん相模の依智の本間六郎左衛門の屋敷に移送した。
 本来、大聖人は「世間の失」など一分もなかった。当然、無罪は明らかになり、事態は放免の方向へと動き始めたかに見えた。しかし、それを知った念仏者たちは、謀略を企てた。鎌倉で七、八件の放火や、殺人が発したのである。
 「これは日蓮の弟子たちの仕業だ!」
 すべての罪は、日蓮門下に被せられた。
 大聖人の弟子を追放すべきだとの声があがり、二百六十余人がブラックリストに載せられた。
 また、門下の流罪や斬首を主張する強硬意見も出された。
 無罪放免されるはずの大聖人も、佐渡に流罪されたのである。
 ──釈尊のこの二つの難は、経典によって、内容も微妙に異なっているが、これに類する出来事は、実際にあったにちがいない。
 ともあれ、釈尊の教団は、これらの試練を乗り越えて、信仰を深め、金剛不壊の団結を築き、発展していったのである。
26  仏陀(26)
 舎衛城(サーヴァッティー)での釈尊の布教は、急速に進んでいった。
 舎衛城および、その周辺には、一説によれば九億の家があったとされる。一億というのは、現在の十万で、九十万の家があったことになる。
 釈尊はここで、二十五年間にわたって説法をしたといわれるが、仏を見たのは九億のうちの三分の一であった。ほかの三分の一は直接、仏を見ることはなかったが、仏の偉大さを耳にすることはできた。
 しかし、残りの三分の一の三億は、仏について見ることも聞くこともなかった。この人びとを「舎衛の三億」といった。
 本来、この話は、仏法に縁することの難しさを語ったものだが、″仏を見た人″とは、仏にまみえ、帰依もしくは尊敬した人ととらえることもできよう。
 すると、見方を変えれば、舎衛城の三分の二の人が、仏法の帰依者、あるいは理解者であったということになる。いわば、「舎衛の三億」とは、仏教流布の一つの模範を示すものといえよう。
 さて、弘教が進むにつれて、釈尊には、更に大きな難が競い起こっていく。そのなかでも、特筆すべきは、提婆達多(デーヴァダッタ)の反逆である。
 提婆達多は釈尊と同じ釈迦族の出身で、阿難(アーナンダ)と兄弟といわれている。
 提婆達多は釈尊とほぼ同年代とする説もあるが、種々の経典から考えると、釈尊より、はるかに若かったらしい。そして、青年時代に帰依し、しばらくは純真に修行に励んできた、聡明な若者であったようだ。
 釈尊を見つめる提婆達多の目は、燃えるような輝きを放っていた。自在に法を説き、仏陀として多くの人びとの尊敬と信頼を集める釈尊に、彼は強い憧れをいだいていたのである。
 ″自分も、いつか釈尊のようになりたい″
 釈尊と同じ釈迦族の出であることに、彼は誇りを感じ、話し方や身振りも、いつの間にか、釈尊に似ていった。そして、提婆達多は、弟子たちのなかでも、次第に頭角を現し、周囲から智者として、崇められるようにもなっていった。
 しかし、壮年期に入ると、その誉れ高い世評の風が、彼の名聞名利の心をっていった。
 ″俺も世尊のように、仏陀として、大衆の尊敬を集めたい″
 釈尊は、人気を得るために法を説いたのではない。ただ、人びとの幸福のために法を説いているのだ。
 しかし、彼は、今や、その根本の一点を凝視することができなかった。
27  仏陀(27)
 退転、反逆も根本の一点の迷い、狂いから始まる。
 提婆達多(デーヴァダッタ)は、自分が釈尊の第一の弟子であるかのように、吹聴するようになった。また、自分も悟りを得た仏陀で、最も厳格な修行者であるかのように振る舞った。
 名利を貪る欲望は、あらゆる役柄を演じさせる。彼は、人びとの前では、見事な「聖者」であった。
 その一方で提婆達多は、自分を庇護し、後ろ盾となる、権力ある人物を探していた。そして、目をつけたのが、摩訶陀(マガダ)国の王子の阿闍世(アジャータサットゥ)であった。
 彼は考えた。
 ″阿闍世は有能な人物であり、いずれは、王位を継ぐことになる。次期の国王が私に帰依することになれば、私の未来は安泰だ。更に、人びとの尊敬も高まるであろう″
 彼は、釈尊が弘教に出掛けたを突くように、阿闍世に近づいていった。
 阿闍世は、父の頻婆娑羅(ビンビサーラ)王のもとにあって、なかなか王位に就くことができずに、悶々としていた。
 提婆達多は、巧妙に王子に取り入り、手厚いもてなしと供養を受けるようになった。連日、車五百台もの供養の品々が、彼のもとに届けられた。
 彼は、その供養を貪った。もはや、それ自体が出家としての堕落であった。
 やがて、彼は、自分が釈尊に代わって、教団の中心になろうとの野望をいだき始めるのだった。
 そのころ、既に釈尊は七十歳前後であったようだ。
 釈尊は、そんな提婆達多の野望を見破っていた。弟子の大成を思い、心を痛めたにちがいない。
 しかし、釈尊が善導しようとしても、彼は聞く耳を持たなかった。敢えて自分の優秀さを誇示して、何も言えない雰囲気をつくり出していた。
 それは求道を放棄した、慢心のなせる業にほかならなかった。もし、厳しくその姿勢を正そうとすれば、彼は反逆するにちがいないと、釈尊は深く思った。
 ある日、釈尊は、弟子の一人がこうつぶやくのを聞いた。
 「提婆達多も大したものだ……」
 提婆達多への阿闍世の庇護に、羨望を感じての言葉でもあった。
 釈尊は、厳とした口調で言った。
 「決して羨むようなことではない。芭蕉や竹も、花を結んだ途端に枯れてしまう。人間も同じだ。人は名利によって、自ら崩れていく。だから、私は提婆達多のことが心配なのだ」
 それから間もなく、一つの出来事が起こった。
28  仏陀(28)
 その日、釈尊の周りには、大勢の弟子が集い、求道の語らいが弾んでいた。
 すると、おもむろに、一人の弟子が立ち上がり、釈尊の前に進み出た。提婆達多(デーヴァダッタ)であった。
 彼は、釈尊に向かって慇懃に合掌すると、こう語りかけた。
 「世尊! ご相談申し上げたいことがございます」
 丁寧な口調であったが、どことなく不な響きがあった。
 「今や世尊は、お年を召されました。お体も衰えておられます。ご無理をなさってはいけません。
 速やかに閑居され、悠々自適の生活に入られてはどうかと思います。そして、後のことは、この私にお任せください」
 提婆達多は、釈尊の体を気遣っているように見せかけながら、教団の統率の権限を、自分に譲れと、引退を迫ったのである。
 釈尊は、彼が本性を現したことを知った。
 「提婆達多よ、私に代わって、教団を統率しようなどという考えを起こすのはやめなさい」
 「世尊には、末永くお元気で、私どもを、見守っていただくために、閑居をお勧めしているのです。私に教団の指導をお任せ願えれば、これまで以上に、発展させてまいります」
 提婆達多は、執拗に引退を迫った。
 釈尊は、今、ここで厳しく彼を弾呵し、一念の狂いを正しておかなければならないと思った。そうすれば反逆するであろうことはわかっていた。しかし、弟子の悪を責めることは、師としての慈悲である。
 釈尊から、火のような言葉が発せられた。
 「もう、やめなさい! お前の魂胆は見え透いている。私は、あの舎利弗(サーリプッタ)や目連(モッガラーナ)にも、教団の指導を任せないのだ。
 それが、どうして、お前のような、人のつばきを食うものに、教団の指導を任せることができようか!」
 容赦のない、呵責の言葉であった。「人のつばきを食う」とは、提婆達多が阿闍世(アジャータサットゥ)の庇護に甘えて、私利私欲を貪ってきたことを指している。
 釈尊の言葉は、提婆達多の胸に突き刺さった。毒矢に射られたように、彼の心に激痛が走り、熱湯のような憤怒が噴き上げた。
 彼は、釈尊が人びとの面前で、舎利弗や目連よりも自分の方が劣っていると公言したのみならず、「人のつばきを食う」と、最大の侮の言葉を浴びせたことに我慢がならなかった。
29  仏陀(29)
 提婆達多(デーヴァダッタ)の体は、怒りに、わなわなと震えていた。
 しかし、平静を装い、釈尊に合掌すると、そそくさと立ち去っていった。
 彼は固くを握り、憤怒に燃えた目で天を睨んだ。
 ″瞿曇(ゴータマ)は、俺を皆の前で怒鳴りつけ、恥をかかせた。あれが聖者のやることか! 悟りを得た仏陀の振る舞いか!
 もし、俺に悪いところがあれば、内々に呼んで、諫めればよいはずだ。
 また、俺は、阿闍世(アジャータサットゥ)から供養を受けた。しかし、供養なら、あいつだって受けているではないか。何が悪いのだ!″
 釈尊に対する供養、寄進は、精舎をはじめ、膨大なものがあった。しかし、それは、すべて教団のために使われ、釈尊はボロ布をまとい、托鉢して歩き、清貧に甘んじていた。提婆達多のように、供養を私利私欲のために使うことは決してなかった。
 だが、もはや、彼には、それもわからなかった。
 ″結局、瞿曇は供養を独り占めしたいのだ。教団のものは全部自分のものだと思っている。だから、いつまでも、統率の権限を手放さず、居座っているのだ。
 教団の発展は、あいつ一人の功績ではない。弟子たち皆の力ではないか。しかし、あいつは、それを認めようとはしない。あの男は弟子たちを、自分のために利用しているのだ!
 瞿曇は老いた。身も心も……。昔は、そんな人間ではなかった。だから、俺も仕えてきた。しかし、今や強欲な、老残の身をさらすだけの人間になってしまった。そんな男に、いつまでも操られてなるものか!″
 彼にとって、既に釈尊は怨念の対象でしかなくなっていた。
 名聞名利にまれ、自己の野望のために生きようとする者にとっては、いかなる聖者も、自分と同じようにしか見ることはできない。歪んだ鏡には、すべてが歪んで映るように、人間は自己の境涯でしか、物事をとらえることができないものだ。
 一方、釈尊は、提婆達多が去っていく姿を見て、思った。
 ″提婆達多は反逆するにちがいない。彼一人が去っていくことは仕方がない。しかし、それによって、真面目で純粋な弟子が、信仰の道を踏み外したり、何も知らない民衆が惑わされたりするようなことがあってはならない″
 釈尊は、辛い決断ではあったが、弟子と民衆を守るために、提婆達多と戦う心を固めた。
30  仏陀(30)
 釈尊は、集っていた弟子たちに言った。
 「遂に提婆達多(デーヴァダッタ)の本性は明らかになった。王舎城(ラージャガハ)で彼の正体を皆に伝え、こう宣言するのだ。
 『彼は、以前の提婆達多ではない。私利私欲を貪る者である。彼の行動や発言は、仏陀の教えでも、教団の指導でもない。それは彼の我見にすぎない』と。
 もし、これに反対のものは、意見を言いなさい」
 釈尊のこの提案に、戸惑う弟子もいた。
 提婆達多は釈尊の引退を迫ったが、表面上は、釈尊の健康への気遣いを理由にしていた。それだけに、まだ、彼の邪悪な本性がわからなかったのだ。
 また、釈尊の意見は、同志を追い込む、冷酷な仕打ちのような気がしていたのである。
 彼らは、事態の深刻さが理解できていなかった。悪と戦うことをためらう、その感傷が、多くの仏弟子を迷わす結果になることが、わからなかったのだ。
 それは、すべての人を成道させようとする、釈尊の大慈悲を知らぬがゆえの、迷いでもあった。
 しかし、真っ向から異論を唱える人はいなかった。
 釈尊は居並ぶ弟子たちに視線を注ぐと、舎利弗(サーリプッタ)に言った。彼は教団の長老であった。
 「舎利弗! 長老であるあなたが、王舎城で提婆達多を糾弾してくるのだ」
 舎利弗は困惑した。
 「世尊、私には、それはできません。私は、かつて王舎城で、提婆達多は偉大な力があると、称賛してきました。その私がそうしたことを言うのは……」
 「本当に提婆達多を称えてきたのか!」
 「はい……」
 釈尊は、強い力を込めて言い放った。
 「だからこそ、戦ってくるのだ! あなたが出向いて、提婆達多の本性を暴き、仏陀に違背したものであると宣言してくるのだ」
 悪と徹底抗戦する心が定まらなければ、悪人に付け入るを与え、正義も破られてしまう。釈尊は、それを弟子たちに教えようとしていたのである。
 舎利弗は、何人かの比丘とともに、王舎城に向かった。そして、提婆達多の悪心を糾弾した。
 人びとの反応はさまざまであった。舎利弗たちが、提婆達多への、供養と、尊敬と、名声に嫉妬していると見る人もいた。また、世尊があそこまで言わせているのは、提婆達多がよほど邪悪であったにちがいないと、考える人もいた。
31  仏陀(31)
 提婆達多(デーヴァダッタ)は、舎利弗(サーリプッタ)によって、王舎城(ラージャガハ)で自分の本性が暴かれてしまったことを知ると、狂乱せんばかりに憤った。
 彼は心に決めた。生涯、師の釈尊と戦い、大怨敵となろうと。
 それから、提婆達多は、阿闍世(アジャータサットゥ)を訪ねた。
 「王子! 人間の一生というのは短いものです。あなたは、国王になることなく、王子のままで亡くなるかもしれません。それで、よろしいのでしょうか」
 「いやじゃ。それでは、なんのための人生かわからぬではないか」
 「それならば、王を殺すことです」
 阿闍世は驚いて、提婆達多の顔を見つめた。彼は口元に笑みさえ浮かべ、悠然として言った。
 「あなたが王位に就くには、それしかありません。そして、私は瞿曇(ゴータマ)を殺して、新しい仏陀となりましょう……」
 提婆達多には、国王の頻婆娑羅(ビンビサーラ)を殺してしまえば、釈尊への供養が断たれ、打撃を与えられるという計算もあったのかもしれない。
 いずれにせよ、頻婆娑羅がいなくなれば、阿闍世が王となり、自分が最高の権力者を、自在に操れるようになるのだ。
 阿闍世は、提婆達多の言葉に、一条の光明を見いだした。
 国王の座を狙う王子と、教団の指導者の座を狙う提婆達多は、結託して、非道の暴走を開始したのである。
 阿闍世は、父の頻婆娑羅を幽閉し、遂に餓死させ、王位を継いだ。
 一説には、頻婆娑羅がクーデターを事前に察知し、阿闍世を捕らえるが、息子の気持ちを知って、王位を譲ったともいわれる。
 提婆達多の謀略によって王位に就いた阿闍世は、彼の要請をことごとく聞き入れた。
 そして、釈尊に、王の家来が刺客として放たれた。しかし、仏陀の姿を見た刺客はたじろぎ、行動に移すことはできず、暗殺は失敗に終わった。
 だが、提婆達多は諦めなかった。新王・阿闍世の権力を背景に、次々と釈尊殺害の陰謀を練り上げ、実行していった。
 ある時、王舎城の町を歩いていた釈尊に、砂煙をあげて象が向かって来た。
 象は凶暴だった。いたく興奮し、気が立っていた。
 幸い、事なきを得たが、これも、事故死に見せかけて、釈尊を殺そうとする陰謀であった。
32  仏陀(32)
 釈尊は、霊鷲山でよく弟子たちに説法をした。
 その山の山頂付近は、ゴツゴツとした巨岩が奇観をつくっていた。
 提婆達多(デーヴァダッタ)は、今度はそこに目をつけ、殺害を計画した。
 釈尊は弟子たちと連れ立って、霊鷲山の頂を目指して歩いていた。
 すると、山頂付近の大石がグラリと揺れ、斜面を転がり始めた。
 「危ない!」
 弟子が叫んだ。
 大石は速度を増して、樹木の枝をへし折りながら、釈尊を目がけて、転がって来た。
 とっさに、彼は身を翻した。大石は体を掠るように、転がり落ちていった。弟子が駆け寄った。
 「世尊! お怪我は!」
 釈尊の足の指から血が出ていた。だが、それには構わず、釈尊は、じっと頂を見上げた。怪しげな人影が動くのが見えた。
 彼は静かに言った。
 「大丈夫だ……。案ずることはない」
 弟子が傷口を布で縛り、手当てをすると、釈尊は、何ごともなかったかのように歩き出した。
 岩陰に身を潜め、その様子をうかがっていた男が、憎々しげに舌打ちした。提婆達多であった。
 男は頭を抱え込んだ。企てた殺害の計画が、皆、失敗に終わってしまったのだ。次はいかなる方法をとるべきか、彼は考えた。
 提婆達多は思案を重ねながら、″釈尊の命を狙うことは無理があるのかもしれない″と思った。釈尊の周りにはいつも弟子たちが付いているし、今後、警護も厳重になると考えられた。
 それに、自分の犯行であることが、明らかにならないとも限らない。そうなってしまえば、仮に釈尊を亡き者にしても、人びとの非難は、自分に集まることは間違いない。
 彼は作戦の変更を余儀なくされた。殺害計画はやめて、教団を分裂させることを考えたのである。
 提婆達多が目をつけたのは戒律であった。
 当時のインドでは、苦行など禁欲主義を尊ぶ伝統があり、厳格な生活の規律が重んじられていた。しかし、それは、釈尊の考えとは相反するものであった。彼は、苦行にしても、悟りへの真実の道ではないと捨て去っていたのである。
 確かに、釈尊の教団にも戒律はあったが、それは、集団生活を維持し、修行に専念しやすくするために設けられたものであり、かなり柔軟なものであった。
 したがって、それぞれの事情や状況において、例外も認められ、決して、人間を縛りつけるような絶対的なものではなかった。
33  仏陀(33)
 戒律は修行のための手段であって、それ自体が目的ではない。しかし、その戒律が目的となり、人間を縛るようになれば、まさに本末転倒という以外にない。
 釈尊の教えの根本は、何ものにも紛動されない自分をつくることであり、戒律はあくまでも、それを助けるものにすぎない。
 釈尊には、厳格な戒律で人を縛るという発想はなかった。だからこそ、彼は、後に、死を間近にして、″自分の死後は細かい戒律は廃止してもよい″と、阿難(アーナンダ)に言い残しているのである。
 真の戒律とは、「自分の外」に設けられるものではなく、「自分の内」に育まれるものでなければならない。仏教の精神は、外からの強制による「他律」ではなく、「自律」にこそあるからだ。
 だが、釈尊への反逆の意志を固めた瞬間から、提婆達多(デーヴァダッタ)の思考は、既に常軌を逸していた。いや、思考だけでなく、人格も崩壊していた。
 かつて、「智者」と称えられていたころの、清純な理知の輝きは失せて、嫉妬と憎悪の怨念の炎が、「邪智」の妖火となって、その目を異様に燃え上がらせていったのである。
 彼は、教団を分裂させ、混乱に陥れるための、周到な計画を練り上げた。
 ある時、提婆達多は、自分を慕う何人かの比丘を引き連れ、釈尊のもとに向かった。
 提婆達多は、釈尊から離れ、別行動をとってはいたが、反逆を明らかにしていたわけではなかった。
 釈尊は、久し振りに訪れた提婆達多を迎え入れた。彼は、提婆達多が自分の命を付け狙ってきたことも知っていたであろう。しかし、それでも、可愛い弟子の一人であった。いな、心が毒された弟子であればあるほど、釈尊は不憫に思い、この不肖の弟子のために、心を砕いていた。
 折あらば、善導し、悔い改めさせたいと思ってきたのである。
 提婆達多は、恭しく釈尊に合掌すると、こう切り出した。
 「世尊は、欲望を制御して、満足を知り、衣食住に対する貪欲な執着の心を捨て、精進に励むところに、仏道があると説かれた。
 ならば、これから私の申し上げることは、あらゆる面で、世尊も賛同されるものと思います。
 つまり、新たに五つの戒律を設けて、それを出家した者に厳守させるのです」
 提婆達多は、のぞきこむように、釈尊の顔を見た。
34  仏陀(34)
 提婆達多(デーヴァダッタ)は、五つの戒律を述べ始めた。
 「一、修行者たるもの、命ある限り、人里から離れた林のなかに居住すべし。もし、人里に入る者は罪となる。
 一、修行者たるもの、命ある限り、乞食行をなすべし。もし、食のもてなしを受けたる者は罪となる。
 一、修行者たるもの、命ある限り、ボロ布の衣を着るべし。もし、衣の布施を受けたる者は罪となる。
 一、修行者たるもの、命ある限り、樹下に住み、屋根の下では暮らさぬこと。もし、屋根のある家に近づく者は罪となる。
 一、修行者たるもの、命ある限り、魚、鳥獣の肉を食べざること。もし、これを破れば罪となる」
 これらの内容は、経典によって、微妙に異なっているが、いずれも、殊更に、生活を厳しく規定するものであった。
 「世尊、いかがでございましょう?」
 提婆達多は尋ねた。
 釈尊は、言下にこれを退けた。
 「提婆達多よ、そんなことを定めて、なんになるのだ。林に住みたいものは林に住めばよいし、人里に住みたいものは、人里に住めばよい。そのように自由でよいではないか」
 その答えを聞くと、提婆達多は、ほくそ笑んだ。
 「世尊がそうお考えならば、仕方ありません」
 彼は、呆気ないほど簡単に、自分の意見を引っ込めた。それは、彼が計画していた通りの結末であった。
 当時、苦行を尊ぶ風潮から、釈尊の教団が、竹林精舎や祇園精舎などの精舎を安息所としていることが、しばしば批判の対象になっていた。その背後には、釈尊の教団が多くの在家信徒の供養を得ていることへの嫉妬があった。
 いずれにせよ、釈尊への非難をるうえで、五つの戒律の提案を否定されたことは好都合であった。それは釈尊が贅沢を欲して、腐敗、堕落したと証明できる切り札となるからだ。
 提婆達多は、意気揚々として、自分の手下を引き連れ、王舎城(ラージャガハ)に向かった。
 そこには、ちょうど、釈尊の弟子たちが集まっていた。その大多数は、まだ新参の弟子であった。
 彼は、皆の前に立つと、厳かに語りかけた。
 「諸君! 世尊はこれまで、なんと説いてきたか、知っているか。
 世尊は、欲望を制御して、満足を知り、衣食住に対する執着の心、貪欲を捨て、精進せよ──こう説いてきたのだ。しかし……」
35  仏陀(35)
 聴衆は、提婆達多(デーヴァダッタ)の話に、一心に耳を傾けていた。
 彼は、釈尊に、新たな五つの戒律を設け、厳守するよう提案したことを話していった。
 「私の提案は、清浄なる出家者としては、当然のことではないか。いな、世尊自身が、これまで説いてきたことでもある。
 だが、世尊は、それを拒んだ。
 なぜか──。厳しき修行を厭うているからだ。贅沢が身についてしまったからだ。それは、腐敗し、堕落した姿ではないか。もはやそこには、まことの仏陀の姿はない。
 そこで、私は新しき仏陀の道を開くために、この五つの戒律を打ち立て、修行に励むことにした。本当の仏陀の道を極めんとする者は、私とともに来れ!」
 彼の話は熱を帯び、怨念の放つ、異様な迫力をもっていた。
 新参の修行者たちの心は動いた。
 ″釈尊は、堕落し、栄華を求めていたのか!″
 彼らは、釈尊に帰依して日も浅く、提婆達多の策謀など知るよしもなかった。
 しかし、心ある弟子たちは憤った。
 ″提婆達多は、世尊の教団を分裂させようとしているのだ!″
 結局、その場にいた比丘たちのうちの五百人は、提婆達多に付いて、彼が本拠地としていた象頭山に行ってしまった。後に残ったのは、ほんの一握りの弟子たちであった。
 ″正義″が″邪悪″となり、″邪悪″が″正義″と見えるように仕向ける、提婆達多の巧妙なトリックが功を奏したのである。
 釈尊は、舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)から、この報告を受けると、言った。
 「あなたたちは、あの五百人の比丘たちが、かわいそうだとは思わないのか。彼らが不幸になる前に、連れ戻してあげることだ」
 釈尊は、何もわからぬままに、和合僧を破壊しようとする提婆達多に騙され、仏道を踏み外そうとしている比丘たちが、不憫でならなかった。
 舎利弗と目連は、急いで象頭山へと向かった。
 まことの時に、敢然と立ち上がり、戦ってこそ、本当の弟子である。
 釈尊は、弟子たちの行動をじっと見ていた。
 二人は必死であった。どんな危険が待ち受けているかもわからない。
 しかし、釈尊の正義を証明するためにも、また、五百人の比丘のためにも、断じて戦い、勝たねばならないと思った。
36  仏陀(36)
 釈尊がいかに正しく、まことの仏であっても、弟子の多くが提婆達多(デーヴァダッタ)に従っていくならば、提婆達多こそが、正義となり、仏であるということになってしまう。
 現実のうえで、正義を証明するためには、弟子たちを連れ戻さなければならなかった。
 舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)は息を弾ませ、象頭山への道を急いだ。
 提婆達多は、勝利の快感に酔いしれていた。
 彼は、二人が山に登って来るのを見ると、にやりと笑い、仲間に言った。
 「ほら、見てみなさい。瞿曇(ゴータマ)の最高の弟子である舎利弗と目連でさえ、私の教えを求めて、喜んでやって来たではないか。これで、私の教えが、どれほどすばらしいか、よくわかったであろう」
 釈尊の最高の弟子である二人が、自分を慕って来たと思った彼は、嬉しくて仕方なかった。
 仲間の一人が答えた。
 「いや、彼らを信じてはなりません。何を考えているかわかりません」
 「心配は無用だ。私の指南を求めているからこそ、ここまで来たのだ」
 傲り高ぶった彼には、何も耳に入らなかった。そこに慢心の落とし穴もある。
 提婆達多は、努めて鷹揚に振る舞い、喜んで二人を迎え入れた。そして、得々として、従ってきた比丘たちに説法した。彼の話は、実は、ことごとく釈尊の受け売りであった。
 しかし、比丘たちは目を輝かせ、真剣に提婆達多の説法を聞いていた。
 彼は、熱を込めて語りに語った。
 舎利弗と目連は、反撃のチャンスを待っていた。
 やがて、疲れ果てた提婆達多は、舎利弗に言った。
 「ここにいる比丘たちの求道の姿を見よ。眠ろうとさえせずに、真剣に法を求めているではないか。
 舎利弗、彼らのために、私に代わって説法してやってほしい。私は背中が痛くなった。少し休もう」
 それは、高齢の釈尊が、疲れた折に、しばしば行っていたことであった。彼はその振る舞いを、まねてみたかったのかもしれない。
 舎利弗が説法を始めた。
 提婆達多は、そのまま横になり、眠ってしまった。
 いよいよ反撃の好機は到来した。
 二人の戦いが始まった。
 舎利弗と目連は、苦行に等しい五つの戒律を守ることは、本来の仏陀の道ではなく、提婆達多が教団を分裂させるために画策したものであることを語り、釈尊の教えの正義を叫んだ。
37  仏陀(37)
 舎利弗(サーリプッタ)と目連(モッガラーナ)は、更に、和合僧の重大な意義を訴え、それを破らんとする提婆達多(デーヴァダッタ)の反逆を、鋭く暴いていった。
 五百人の比丘たちの智の目は、次第に開かれ、自分たちに分別がなかったために、提婆達多に騙されてしまったことに気づいた。
 彼らは、舎利弗と目連に促され、再び、釈尊のもとに帰っていったのである。
 やがて、眠りから覚め、仲間から事の末を聞いた提婆達多は、憤怒に震え、その場で熱血を吐いて死んでいったと、ある仏典は伝えている。
 弟子の戦いが、釈尊の、そして、教団の窮地を開いたのである。
 舎利弗、目連の偉大さは、ただ、智や神通力に優れていたことにあるのではない。まことの時に、その力を発揮し、勝利の旗を打ち立てたことに、彼らの真価があった。
 釈尊の教団は、見事に分裂の危機を脱した。
 一方、提婆達多にそそのかされて、釈尊に敵対し、父の頻婆娑羅(ビンビサーラ)を死にいたらしめた阿闍世(アジャータサットゥ)は、重病にかかってしまった。そして、深い反省の末に、遂に釈尊に帰依したのであった。
 釈尊滅後、阿闍世は、経典の結集に協力するなど、仏法の興隆に尽力したことは、よく知られている。
 大きな試練を乗り越えた釈尊であったが、彼には、まだ、いくつも怒涛が待ち受けていた。
 あの舎利弗が病に倒れ、摩訶陀(マガダ)国の故郷の村で療養生活に入り、ほどなく他界したのである。
 釈尊はその訃報を、弟子の阿難(アーナンダ)から聞いた。阿難は舎利弗の遺品である、鉢と衣を手にし、悲しみに体を震わせ、彼の死を告げたのである。
 舎利弗は釈尊の後継者ともいうべき人物であった。
 最愛の弟子を失った釈尊の胸は、張り裂けんばかりに痛んだ。しかし、彼は、阿難に言うのであった。
 「阿難よ。いつも私が言っているではないか。人間は愛する者とは、いつか別れなくてはならないのだ。この世には、何一つ、変化せぬものはない。
 ここに大樹があったとしよう。その一つの大きな枝が枯れ落ちた。しかし、大樹はなお堅固に生き続けるものだ」
 釈尊は、悲しみのなかでも、揺るぎなき自己自身であれと、阿難を励まし、法を説いた。
 最も悲しいのは、釈尊自身であったはずだ。
 それは、自らを鼓舞する言葉でもあったにちがいない。
38  仏陀(38)
 悲しみは津波のごとく、釈尊を襲った。
 舎利弗(サーリプッタ)の死と、ほぼ時を同じくして、目連(モッガラーナ)も他界したのだ。
 目連は外道の一派に、幾度か庵室を襲われ、とうとう命を落としたのである。殉教であった。
 友として舎利弗の後を追うかのような死であった。
 釈尊は弟子の双璧ともいうべき二人を、日ならずして失ってしまった。
 その衝撃は、あまりにも大きかった。さすがの彼も生気を失っていった。衆会に臨んでも、心は虚ろになっていた。
 釈尊は、つぶやくように言った。
 「……今は、あの二人の思い出だけが、私を支えている」
 更に、悲劇は彼に追い打ちをかけた。釈迦族の滅亡という事件に遭遇するのである。
 なお、釈迦族の滅亡の時期については、舎利弗、目連の生前の出来事とする経典もあれば、釈尊滅後とするものもある。
 事件は、釈尊が祖国を訪れていた時から始まった。そこに、彼を訪ねて、拘羅(コーサラ)の国王の波斯匿(パセーナディ)がやって来た。
 波斯匿は、国も家族も友人同士も、互いに争いに明け暮れている現状を嘆き、釈尊に教えを求めに来たのである。
 波斯匿王の息子の波瑠璃(ヴィドゥーダバ)は、既に壮年に達しており、いつまでも王子の座に甘んじていることに我慢がならなかった。そして、王が釈尊を訪ね、留守にしたこの時、クーデターを起こして、王座を奪い取ってしまった。
 王位に就いた波瑠璃は、釈迦族の国への侵攻を開始したのである。そこには、波瑠璃の出生にまつわる怨念があった。
 ──波斯匿王は、釈尊に帰依して以来、釈迦族の王女を妃として迎えたいと望んでいた。拘羅は大国ではあったが、新興国であり、釈迦族の国は小国ながら、「太陽の末裔」を名乗る由緒ある国柄でもあった。釈迦族には、その誇りがあり、新興国の拘羅を、決して快くは思っていなかった。
 波斯匿王の要請を受けた釈迦族は、王族の娘を差し出すことを厭い、王族が下婢に産ませた娘を、王女と偽り、嫁がせたのだ。
 その娘と波斯匿王の間に生まれたのが、波瑠璃であった。しかし、その後、彼女は、下婢の出であることから、妃の座を外されたのである。
 波瑠璃は、自らに流れる血を呪い、釈迦族を恨み続けてきた。彼は、その恨みを晴らさんとしたのだ。
39  仏陀(39)
 釈尊は、王の波瑠璃(ヴィドゥーダバ)が釈迦族の国へ出兵することを聞くと、彼が通る道に出て、枯れ木の下に座って待った。
 大軍を率いた波瑠璃がやって来た。釈尊を見ると、王は尋ねた。
 「なぜ世尊は、この炎天のなか、枯れ木の下におられるのか。枝葉の茂る木の下なら涼しいものを……」
 釈尊は静かに答えた。
 「一族というものは、枝葉のようなものです。その枝葉が危機にしているというのに、どこに身を隠すところがありましょう」
 波瑠璃は、釈迦族を守るために、自分を思いとどまらせようとする、釈尊の必死さを感じた。
 波瑠璃も、釈迦族の血を引くものであることは間違いない。血気にはやる王も、仏陀の姿に接すると、人の情けが、心の底に、滲むように湧いてくるのであった。生命の触発といってよい。
 「世尊も釈迦族ですな。……討つわけにはいきますまい」
 波瑠璃は引き返した。
 ところが、彼は、再び釈迦族の国に向かって兵を出した。その時も、釈尊は彼をとどめた。
 しかし、三たび(四たびとする経典もある)、波瑠璃が兵を率いてやって来た時には、もはや制することはできなかった。
 釈尊の祖国は、戦場となり、釈迦族は無残にも波瑠璃の大軍に滅ぼされた。
 釈尊は最愛の弟子に続いて、同胞をも失った。諸行は無常であった。それはまた、無情の風となって、高齢の彼の心に染みた。
 しかし、釈尊は負けなかった。無常なるがゆえに永遠の法に生き、それを伝え抜こうとした。
 彼は、長年、「生命の法」を説いてきた霊鷲山に立つと、阿難(アーナンダ)に告げた。
 「さあ、行こう!」
 彼は弘教の旅に出ることを、呼びかけたのだ。
 人は苦しみを避けることはできない。仏陀にも苦しみはある。その苦しみの淵から立ち上がり、使命に生き抜く力が信仰である。そこに仏陀の道、聖者の道、まことの人間の道がある。
 既に、釈尊の年齢は八十歳に達していた。彼自身、肉体の衰えは、十分に自覚していた。
 だが、彼は命尽きる日まで、各地を巡り、法を語り説いて、生涯を終えることを決意したのである。
 多くの弟子たちは、驚きもした。師の体を気遣い、止めねばならないと思った者もいた。
 しかし、師の厳たる心を知ると、誰も、それを口に出すことはできなかった。
40  仏陀(40)
 釈尊の足取りはおぼつかなかった。肉体は黄昏の時を迎えていた。しかし、彼の精神は、常に旭日の輝きを放っていた。
 彼は、ボロ布をまとい、ゆっくりと歩みを運んでいった。財宝もなかった。世上の地位もなかった。権力もなかった。
 人目には、顔に幾重にも皺を刻んだ、貧しい一老人にすぎなかった。
 しかし、その胸中には、無量の精神の財宝が輝いていた。彼の一足一足の歩みは、黄金の慈悲の大道となって広がっていった。
 弟子たちとともに、王舎城(ラージャガハ)を発った釈尊は、行く先々の村で法を説いた。
 そして、ガンジス川のほとりまでやって来た。ここまでが摩訶陀(マガダ)国である。彼を見送りに来た人びととも、この渡し場で別れなければならない。
 見送りの人のなかには、大臣たちもいた。これで釈尊とは、もう二度と会えないかもしれないと思うと、皆の目に、惜別の涙があふれた。
 誰もが″その人″の人格を慕っていた。″その人″の説く法を求めていた。
 ガンジス川を渡ると、そこは跋耆(ヴァッジ)国であった。
 釈尊は、この国の首都である毘舎離(ヴェーサーリー)の園林で、一人の遊女のために法を説いた。彼女は感激し、食事に招待したいと申し出ると、彼は、それを受けた。
 そこに、釈尊が来たことを聞きつけて、貴族の息子たちがやって来た。彼らの求めに応じて、釈尊は法を説いた。
 彼らも感激し、食事に招待したいと申し出たが、釈尊はそれを断った。遊女との先約があったからだ。
 釈尊は、すべてに平等であった。彼には、貴族も庶民も、男も女も、貧富の差も、関係なかった。王に法を説く時も、遊女に法を説く時も、彼の態度は決して変わらなかった。どんな人に対しても、同じ人間として接した。
 やがて雨期に入った。
 釈尊と阿難(アーナンダ)の二人は、ほかの弟子たちとしばらく別れ、毘舎離の近郊の竹林村にとどまることにした。
 釈尊は、ここで病の床についた。旅の疲れに加え、インドの雨期の暑気と湿度が、衰えた老をさいなんだのであろう。病名は不明だが、彼は死ぬほどの激痛に苦しみ、悶えた。
 しかし、釈尊は思う。
 ″弟子たちに別れも告げずに、ここで、死ぬわけにはゆかぬ!″
 釈尊は、生命力を奮い起こして、病に挑んだ。
41  仏陀(41)
 病に伏す師匠・釈尊を前に、阿難(アーナンダ)はなす術もなかった。
 釈尊は激痛をこらえ、不屈の精神力をもって、病魔を退けた。
 そして、久し振りに病の床から立って、外に出た。
 阿難は、喜びを隠せなかった。
 「世尊が病床にあった間は、私は心配で、何も手につきませんでした。でも、お元気な姿を見て、安心いたしました。世尊は、最後の大法を説かれない限り、亡くなるはずはないと、確信できました」
 釈尊は静かに言った。
 「阿難よ。お前は、何を期待しているのだ。私は、皆に、わけ隔てなく、いっさいの法を説いてきた。まことの仏陀の教えというのは、奥義や秘伝などといって、握りのなかに、何かを隠しておくようなことはないのだ。全部、教えてあるではないか」
 当時のバラモンたちは、大切なものを握りに隠すように、奥義は明らかにせず、死の直前に、気に入った弟子にだけ教えるのが常であった。
 しかし、釈尊は、そうした考えにとらわれていた阿難の心を打ち砕くように、万人に対して、真実の法を説いてきたことを宣言したのであった。
 教団の混乱は、後に弟子たちが自らを権威づけるために、秘伝や奥義など、何か特別な教えを、自分が授かったと主張し始めるところから起こっている。
 この話は、本来、仏法には、そうした特別な法の伝授などないことを明確に物語っている。
 すべての法が説かれた限り、後は、その実践しかない。行動しかない。また、それが弟子の戦いである。
 それから、釈尊は、自分の体は衰え、余命いくばくもないことを告げた。
 阿難は、この師が亡くなった後、自分は、何を頼りに生きていけばよいのかと思うと、たまらない不安と悲しさを覚えた。
 すると、それを見透かしたように、釈尊は言った。
 「阿難よ、強く生きよ。強くなるんだ。自分が弱ければ、どうして幸福になれようか。悩める人を救っていけようか。
 そのために、自分を島とし、自分を頼りとし、他人を頼りとしてはならない。そして、法を島とし、法を拠り所とし、ほかのものを拠り所としてはならない」
 揺るぎなき島のごとく、確かな「自己」によって、「法」によって生きよ──それは、釈尊が、生涯、説き続けてきた、核心ともいうべき教えであった。
42  仏陀(42)
 涼風がそよぎ、木々の葉が揺れた。
 既に雨期は明けていた。
 健康を回復した釈尊は、阿難(アーナンダ)に向かって言った。
 「さあ、旅立とう!」
 釈尊は、また、新しい村へと向かった。一つの村から、更に次の村へと、彼の布教の歩みは続いた。
 パーヴァーという村に来た時、釈尊は、鍛冶職人の在家信徒が供養したキノコ料理を食べた。すると、激しい下痢をした。下血もしていた。
 しかし、彼は、それでも旅を続けた。喉の渇きを訴え、よろけながらも足を運んだ。
 彼が目指したのは、故郷の迦毘羅城(カピラヴァットゥ)に向かう道筋にある拘尸城(クシナーラー)であった。故郷をひと目、見たいという思いもあったのかもしれない。
 拘尸城に着くと、釈尊は、沙羅双樹の木と木の間に寝床を用意するように、阿難に頼んだ。
 「私は疲れた。横になりたい……」
 つぶやくように言うと、阿難の整えた寝床に、身を横たえた。
 阿難は、釈尊の死期が迫ったことを感じた。彼は泣いた。諸行は無常であることは、幾度となく釈尊から教えられてきた。しかし、師が永遠の眠りについてしまうかと思うと、泣かずにはいられなかった。
 釈尊は、そんな阿難を気遣い、傍らに呼んで励ますのであった。
 釈尊の死が間近に迫ったことを聞きつけ、釈尊を知る町の人たちが、次々と訪ねて来た。人びとはそっと礼をし、目頭を拭いながら帰っていった。
 そこに異教の遍歴行者の須跋陀羅(スバッダ)がやって来た。
 釈尊に会って、教えを請いたいというのである。
 阿難は断った。
 「世尊は疲れ切っておられる。重体なのです。世尊を悩ませるようなことは、おやめいただきたい。どうかお引き取りください」
 しかし、須跋陀羅は引き下がらなかった。二人は押し問答になった。
 そのやりとりを耳にしていた釈尊は言った。
 「やめなさい、阿難。その方をお連れしなさい。聞きたいことは、なんでも尋ねればよい」
 釈尊は、須跋陀羅の質問に答えて、諄々と法を説いていった。命を削っての説法であった。
 須跋陀羅は、釈尊の話を聞くと、感激して、弟子となることを申し出た。
 これが釈尊の最後の布教であり、須跋陀羅は最後の直弟子となった。
43  仏陀(43)
 沙羅双樹の間にしつらえた寝床の上で、釈尊は、うっすらと目を開けていた。
 その木には、時ならぬ花が咲いていた。
 周りには弟子たちが心配そうに集っていた。
 釈尊は静かに言った。
 「私に聞きたいことがあったら、なんでも聞きなさい。今後、どんな疑問が起こるかもしれない。その時になって、聞いておけばよかったと、後悔しないように、今のうちに、なんでも聞きなさい……」
 釈尊は、三たび繰り返したが、質問するものは誰もいなかった。臨終を前にして、なお、自分たちを教え導こうとする師の心に、弟子たちは感涙を抑えるのに精いっぱいであった。
 阿難(アーナンダ)が、やっと口を開いた。
 「これまで、世尊からさまざまな教えを賜ってまいりましたので、誰も、疑いや疑問はございません」
 「そうか……。疑いの心がなければ、皆、退転することなく、正しい悟りに達するであろう」
 それから、最後の力を振り絞るようにして言った。
 「すべては過ぎ去ってゆく。怠りなく励み、修行を完成させなさい……」
 こう告げると、釈尊は静かに目を閉じた。そして、息絶え、安らかに永久の眠りについた。
 「世尊! ……」
 弟子たちは、口々に彼を呼んだ。
 沙羅双樹の淡い黄色の花が、風に舞い、釈尊の体の上に散った。
 これが、人間・仏陀の、偉大なる「人類の教師」の最期であった。
 山本伸一は、釈尊の生涯に思いを馳せると、新たな勇気がわいてきた。
 その生涯は、日蓮大聖人には及ばぬまでも、法難に次ぐ法難であった。試練に次ぐ試練であり、激動に次ぐ激動であった。
 そのなかで釈尊は、命ある限り法を説き、語りに語って、波乱の大生涯の幕を閉じた。その大闘争があってこそ、仏教は東洋に広まった。
 伸一は思った。
 ″ましてや自分は、凡夫の身にして、悪世末法に、仏法の精髄の法を、世界に広めんとしている。経文に照らし、御書に照らして、弾圧の嵐もあるだろう。撹乱の謀略も、非難中傷もあって当然である。
 私も自分らしく、どこまでも法のままに、わが使命の旅路をゆく。命の燃え尽きる時まで、人間の栄光の旗を掲げて……″
 振り向けば、太陽の光に大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の大塔が金色に燃えていた。

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