Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「月氏」 月氏

小説「新・人間革命」

前後
2  月氏(2)
 森川一正が答えた。
 「わかりました」
 すると、すかさず山本伸一は言った。
 「総支部を結成するとしたら、総支部長は、君にやってもらおうと思う。婦人部長は、兼任で清原さんがやる以外にないだろう。そして、その場合は、三川君が総支部幹事だろうね」
 清原かつは、静かに頷いた。通訳の三川健司は「はい」と返事をしたが、緊張のためか、声がうわずっていた。
 「それから、戸田先生は大客殿の建設には、ガンジスの砂も使うようにと言われていたから、インドではガンジス川の砂や小石も採取することにしよう」
 伸一は、こう言うと、自分の席に戻っていった。
 同行の幹部たちは、自分たちが休んでいた時も、山本会長は広宣流布への思索をめぐらしていたのだと思うと、申し訳ない気持ちがしてならなかった。
 香港を発って三時間ほどすると、次第に窓の外は暗くなってきた。やがて、夜の闇に包まれたころ、シンガポールに到着した。
 伸一が外に出ようとすると、見知らぬ二人の日本人の青年が近づいて来た。
 「あのう、学会の山本先生ではないでしょうか」
 「はい……」
 「やっぱり、そうでしたか。写真で見たことがあるものですから」
 青年の一人は、自動車会社に勤務する鹿児島県出身の男子部員で、技術派遣の一員として、クウェートに行くところだという。
 機内のことでもあり、一言、二言、言葉を交わしただけで終わったが、伸一は学会の青年がどんどん海外に出ていく、新しい時代の到来を感じた。
 一行は、待合室で待機することになった。
 赤道に近いシンガポールはさすがに暑く、じっとしていても額に汗が噴き出てくる。待合室の外には、ヤシの木の黒いシルエットが浮かび、南の島へ来たことを実感させた。
 シンガポールは戦前、イギリスの直轄植民地であったが、戦時中は日本軍が占領し、昭南島と呼んでいた島である。あの戦争では、多くの人の血が流され、現地の人々に大きな苦しみと不幸をもたらした。
 そして、戦後は、再びイギリスの直轄植民地となり、一九五九年にはイギリス連邦内の内政自治国の地位が与えられ、当時、人民行動党のリー・クアンユー書記長が首相に就任していた。
 伸一は、窓辺に立つと、シンガポールの未来の発展と幸福を祈念し、真剣に唱題した。
3  月氏(3)
 飛行機は四十分ほど待機した後に、セイロン(現在のスリランカ)のコロンボに向けて出発することになっていた。
 しかし、待合室で待たされたまま、一時間が過ぎても、出発する気配はない。係員の話では、エンジンの調子が悪いとのことだ。
 やがて、再び機内に誘導されたが、なかなか飛び立たなかった。中は冷房もきかず、蒸し風呂のような暑さである。
 離陸したのは、機内に移って、二、三十分してからであった。結局、四十分の待ち時間が、一時間四十分になってしまった。
 しばらくして、セイロンの入国カードが機内で配られた。なんと、そこには、所持金から時計やカメラ、テープレコーダーにいたるまで、詳細に書き込むようになっていた。
 通訳の三川健司が、手際よく皆のカードを英文で記入していったが、それでも三時間を費やした。ようやく書き上がった時には、飛行機は既に着陸体勢に入っていた。
 森川一正が、秋月英介に言った。
 「入国カードの記載事項も、これだけ厳格だから、税関の審査もかなり厳しいかもしれないね」
 秋月が頷いた。
 「ブッダガヤに埋納するあのケースも、開けられてしまうことを覚悟しなければならないでしょう」
 二人は気が重たかった。
 飛行機がセイロンのコロンボの空港に着いたのは、現地時間の午後十時半であった。
 コロンボは、日本の真夏のような暑さだった。入国審査に向かう一行の顔には汗が滲んでいた。しかし、それは、ただ暑さのせいばかりではなかった。ケースを開けられずに通関できるかという、張り詰めた心のせいでもあった。
 森川も、秋月も、心のなかで必死で唱題していた。
 税関の係官の前に立った三川は、深呼吸をすると、元気に英語で言った。
 「私たちは仏教徒のグループです。ここにいるのは日達上人という日本で最高の僧侶で、私の隣にいるのが、創価学会という日本第一の仏教団体の会長です。今回は、仏教の研究、調査のためにやって来ました」
 すかさず、傍らにいた山本伸一が微笑み、手を差し出した。係官も微笑みながら伸一の手を握った。
 係官は、三川が着替えなどを入れていたバッグを調べただけで、ほかのメンバーの荷物にはいっさい触れずに、通してくれた。皆、ほっと胸を撫で下ろした。
4  月氏(4)
 空港では、現地の日本大使館に調理師として勤務している、橋本浩治という青年が迎えてくれた。
 橋本は一年ほど前に、東京で入会した。しかし、なんとか勤行をしているぐらいで、真剣に学会の活動に励んでいたわけではなかった。その青年が、奮起し、歓迎してくれたことが山本伸一は嬉しかった。
 伸一がセイロン(現在のスリランカ)を訪問したのは、現地の実情の視察もあったが、最大の目的は、この国で信心に励む同志の激励にあった。
 ここには、もう一人、漁業会社に勤める日本人男性のメンバーがいたが、この時はマグロ漁のために、航海に出ていた。
 したがって、伸一は、この橋本という一人の青年の激励のために、やって来たといってよかった。
 「わざわざ出迎えてくれて、ありがとう」
 彼は、橋本と固い握手を交わした。
 一行は橋本が手配した三台の車に分乗し、コロンボのホテルに向かった。
 道路に街灯はほとんどなく、車のライトのなかに、道の両側にヤシの木が生い茂っているのが見えた。
 時折、民族衣装の「サロン」と呼ばれる丈の長い巻き布を腰につけて、裸足のまま路上でたたずんでいる男性の姿が見られた。涼んでいるらしい。
 街に入ると、彩色を施した数メートルほどの釈尊の像が、随所に祭られているのが目についた。かなり、仏教が盛んなようだ。
 セイロンは、十六世紀の初めから、ポルトガル、次いでオランダ、更にイギリスの支配下に置かれてきたが、一九四八年に、イギリス連邦内の自治領として独立した。
 しかし、住民の約七割を占めるシンハラ人と、二割余りのタミル人の対立が、次第に目立っていった。
 シンハラ人はシンハラ語を話し、その大多数は仏教徒であった。
 一方、タミル人はタミル語を話し、宗教的にはヒンズー教徒が多かった。そのほかに、イスラム教徒のムーア人や、キリスト教徒などもいた。
 一九五六年の総選挙で、イギリス連邦からの完全独立を訴え、バンダラナイケ政権が発足した。
 政府は、シンハラ語を公用語化する措置をとり、これを契機にシンハラ人とタミル人の対立が激化するに至った。
 その後、五九年の九月にソロモン・バンダラナイケ首相が暗殺されると、未亡人のシリマボ・バンダラナイケ女史が後継者となり、翌年七月の総選挙に勝利。世界初の女性首相となったのである。
5  月氏(5)
 山本伸一の一行が宿泊するホテルは、コロンボ市内の繁華街の一角にあった。
 三階建ての大衆的なホテルである。軒下には、何人もの人が寝ていた。
 チェック・インを済ませると、皆、伸一の部屋に集まった。
 伸一は長イスに腰を下ろし、橋本浩治に尋ねた。
 「あなたの年齢は?」
 「二十七歳です」
 「そうか。すると、まだ青年部だね……。今、セイロン(現在のスリランカ)には、あなた以外には一人しかメンバーはいないが、やがて、ここにも地区をつくろうと思っている。
 その先駆けとして、あなたに男子部の隊長になってもらおうと思うのだが、どうかね」
 当時は、男子部の地区の中心者を、「隊長」と言っていたのである。
 「隊長ですか。私には、そんな厳しそうな役職は、とても、全うできそうもありません。それに、何をすればよいのかも、わかりませんから……」
 「具体的に何をするのかは、青年部長の秋月君に教わればよい。また、やれるかどうかは、実際にやってみなければわからない。
 青年にとって一番大事なことは挑戦です。自分では無理かもしれないと思っても、そこに挑戦していくところに成長があるし、自分の境涯を開いていくこともできる」
 「しかし、私には……」
 橋本は、本当に困ったような顔をした。
 伸一は、無理強いするつもりはなかった。橋本のこれまでの経緯からすれば、本人によほどの決意がない限り、隊長に任命しても、その責任を果たし、組織を建設していくことは難しいにちがいない。
 伸一は言った。
 「ともかく、今のあなたにとって、重要なことは、広宣流布の使命を自覚することです。
 どこの国にいても、どんなところへ行っても、自分に縁した人に仏法を教え、自分のいる場所を寂光土にしていこうという一念をもつことです。それがあなたの人生を荘厳し、揺るぎない幸福を築く、原動力になるんです」
 橋本にとっては、これが人生で初めての、本格的な信心指導であった。彼はしばらく考え込んでいたが、意を決したように、「はい!」と返事をした。
 この時の伸一の言葉を、彼は忘れなかった。
 一年八カ月後、彼は大使の転任に伴い、一緒にノルウェーに移り住むが、そこでも現地の中心者となり、広宣流布の道を切り開いていくことになるのである。
6  月氏(6)
 午前一時過ぎに、山本伸一はベッドに入ったが、なかなか寝つけなかった。
 部屋には冷房がなく、暑いうえに、ベッドもかなり硬かった。そのうちに体が妙に痒くなった。何か虫がいるようだ。
 ようやく、眠りについたかと思うと、明け方近く、ザーザーと水をかける音がした。外で水を浴びている人たちがいるらしい。
 更に、しばらくすると、今度は、大きな礼拝の声が聞こえてきた。驚いて外を見ると、ホテルの裏にイスラム教のモスクがあった。
 この日の早朝、通訳の三川健司は、航空会社の事務所に出掛けていった。インド行きの便を変えてもらうためである。
 当初、一行が申し込んだのは、一月三十一日の朝にコロンボを発って、夜にはインドのデリーに到着する便であった。しかし、一月に航空ダイヤが改正されたことから、日本を出発する直前に、便が変わってしまった。
 その便で行くと、三十一日の午後にコロンボを発って、インドのマドラスで五時間待ち、更にナーグプルで乗り換え、二月一日の明け方に、デリーに入ることになる。これでは、かなりの疲労を覚悟しなければならない。
 伸一は、日達上人の体調を心配し、すぐに便を変更するよう、同行の幹部に頼んだ。
 彼らは、その旨、旅行会社に依頼していたが、新しい便は決まらず、結局、現地で航空会社と交渉することになってしまった。
 三川は、英語で、その日のうちにデリーに着ける便への変更を申し出たが、すべて満席であった。彼はガックリと肩を落とした。
 三川がホテルに戻ると、間もなく朝食だった。食堂で皆と顔を合わせると、山本会長をはじめ、みんな目のあたりが腫れていた。熟睡できなかったようだ。
 それだけに、三川は、飛行機の便のことを口にするのが辛かったが、意を決して、伸一に報告した。
 「空席がなければ、仕方がないよ。昔、中国の僧たちは、仏法を求めて、山を越え、谷を渡って、馬や徒歩でインドまで旅した。それを思えば、なんでもない。楽しい思い出になる」
 伸一は愉快そうに微笑みながら言った。三川の気持ちを察してのことであった。
 青くなっていた三川の顔に、赤みが差していった。
 朝食の後、伸一はホテルを変えることにした。これも、日達上人の健康を配慮してのことであった。
7  月氏(7)
 一行が移ったホテルは、港に面した白壁の五階建てだった。
 この日は、車でキャンディの視察に向かった。キャンディは、コロンボから東北東に百キロ余りの丘陵地帯にあり、十五世紀後半からシンハラ王朝の最後の都として栄えた地である。
 郊外に向かう途中、本とノートを小脇に抱えた少年や少女の姿が目立った。政府が教育に力を注いでいるのがよくわかる。
 やがて、車窓には農村風景が広がり、しばらくすると、木々の生い茂る丘陵地帯に入った。時折、大木を運んでいる象や、翼を広げると数十センチメートルもあるコウモリの群に出くわした。
 キャンディは、緑に囲まれた美しい街であった。小高い丘の上に立つと、眼下にキャンディ湖の青い湖面が広がり、レンガ色をした家々の屋根が、日差しに映えていた。
 一行は湖のほとりにあるホテルで昼食をとると、釈尊の歯が祭られているという、仏歯寺(ダラダ・マリガワ)を見学した。
 石造りの寺のなかは薄暗かった。ひざまずき、真剣に祈る人々の姿が、苦悩の深さを感じさせた。
 セイロン(現在のスリランカ)に仏教が伝来したのは、紀元前三世紀のことである。伝承によれば、インドのアショカ大王が、平和の使節として、彼の息子のマヒンダを、セイロンに派遣したことに始まる。
 更に、娘のサンガミッターも、釈尊が成道した場所に生える菩提樹の枝を持って、セイロンに渡った。この枝はシンハラ王朝の最初の都であるアヌラーダプラに植樹され、今でも堂々と葉を茂らせている。
 マヒンダから仏教の慈悲の教説を聞いた、王のデーヴァーナンピヤ・ティッサは仏教に帰依した。以来、仏教は瞬く間に流布し、その影響は、高度な文明の進歩をもたらしていった。
 なかでも、十二世紀後半のパラクラマ・バーフ一世は、パラクラマ・サムドラと呼ばれる巨大な人工貯水池をつくり、周囲数百平方マイル(一マイルは約一・六キロメートル)にわたって、潅漑できるようにしたことなどで知られている。
 まさに、セイロンは仏教によって、精神の土壌が耕されてきた。それは、戦後の日本への対応にも、端的に表れている。日本は戦時中、この国のコロンボとトリンコマリーを爆撃したが、セイロンは、一九五一年のサンフランシスコ講和会議で、賠償請求権を放棄したのである。
8  月氏(8)
 山本伸一は、賠償請求権を放棄した折の、セイロン(現在のスリランカ)の代表の声明に、深い感動を覚えたことが、忘れられなかった。
 声明には、こうあった。
 「わが国にはこれらの損害の賠償を要求する権利があります。しかし、わが国はそれを要求するつもりはありません。
 なぜならば、私たちは偉大なる師の言葉、アジアの無数の民衆の生命を気高きものにしてきた教えを信じているからです。それは『怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む』との教えです」
 「偉大なる師」とは釈尊であり、その言葉とは、法句経の文である。
 伸一はその時、セイロンの決断に、一人の日本人として、深い恩義を感じ、敬意をいだいた。そして、この国に、仏教のヒューマニズムの精神が、今なお息づいていることを知ったのである。
 彼は、仏歯寺(ダラダ・マリガワ)を後にしながら思った。
 ″日蓮大聖人の仏法は融合と平和の哲学であり、人々に希望と勇気と創造の力を与えゆく源泉である。その大仏法の光が、更にセイロンの民衆の生命を照らしゆくならば、あらゆる問題を乗り越え、新世紀の幸福と平和の花園が開かれるにちがいない″
 一行は、それから、植物園としては東洋一の広さといわれる、ペラデニア植物園を訪ねた。
 大王ヤシの高い並木をはじめ、熱帯地方ならではの珍しい樹木が目を引いた。その種類は、約四千種に及ぶということだった。
 一行が談笑しながら歩いていると、二人の子供を連れた家族らしいグループがやって来た。父親は合掌して、「アーユボーワン(こんにちは)」と、人なつこい笑顔を浮かべた。
 伸一も、同じしぐさで応え、握手をした。そして、近くの売店で売っていたジュースを家族に振る舞い、通訳を通して、しばらく懇談した。
 父親は、一行が日本から来た、仏法を信奉するグループであると聞くと、嬉しそうに頷いた。
 子供は、六、七歳と十歳ぐらいの男の子だった。
 伸一は、子供たちに話し掛けた。
 「大きくなったら日本へいらっしゃい」
 彼らは目を輝かせながら微笑んだ。
 その澄んだ瞳が、未来への希望を感じさせた。
9  月氏(9)
 翌三十一日は、いよいよインドに向かう日である。
 この日の朝、ホテルに、大学の要職にある仏教の研究者と僧が訪ねてきた。漁業会社に勤めている学会員からの紹介であった。
 関久男、森川一正、秋月英介の三人が応対していたが、途中から、山本伸一も会見に臨んだ。
 伸一は、恩義あるこの国の未来のためになればと、誠心誠意語り合った。
 通訳を介して聞く彼らの主張は、″アジアは仏教という思想を中心にして、団結すべきではないか″というものであった。
 伸一は、仏教を中心に団結するといっても、仏教は多様多岐にわたっているだけに、その精髄が何かを見極めていくことが大事であると語った。
 更に、″宗教という枠で人間をくくって、団結を図ろうとするのではなく、仏法を根底にした慈悲と調和の生き方を、一人一人が身につけていくことが肝要ではないか。それが、結果的にはアジアの団結につながる″と訴えていった。
 しかし、通訳の仕方が不明確なのか、どうも、伸一の真意が正しく伝わっていないようだった。
 話が堂々巡りし、どこまで相手が同意し、どこに意見の食い違いがあるのか、よくわからないのである。
 それでも、先方は「大変に有意義でした」と、喜んで帰っていった。
 伸一は、通訳の三川健司に言った。
 「通訳というのは、全体の趣旨をしっかり押さえたうえで、一言一言、正確に翻訳しなければいけない。対話というのは、言葉のニュアンスが非常に大事になる。君が自分だけわかっていても、こちらが判断できなければだめです。
 また、『仏』などの言葉は、一般的に使われる場合と、私たちとでは概念が異なっている。更に、相手が初めて聞く言葉もある。そうした場合には、ただ言葉だけを伝えるのではなく、意味を相手が正しく理解できるように、的確に説明しながら、話をしていくことです。
 そうでないと、哲学的な語らいや、仏法をめぐる深い対話はできなくなってしまう。
 世界の広宣流布といっても、対話から始まる。だから、通訳が大事になる。通訳が勝負の鍵を握る。勉強するんだよ。
 どんな名曲のレコードがあったとしても、プレーヤーが壊れていたのでは音は出ない。それと同じことです」
 伸一は、本格的な通訳の育成を、真剣に考え始めていたのである。
10  月氏(10)
 午前十一時に、一行はホテルを出た。
 飛行機の出発時刻は、午後三時であり、その間に、海辺の保養地として知られるマウント・ラビニアを訪ねることにした。
 ホテルから車で三十分ほどで、マウント・ラビニアに着いた。
 一行は、インド洋に突き出た岬の上に建つホテルのテラスで、食事をした。
 海はどこまでも青く、砂浜には、ヤシの葉が風にそよいでいた。
 山本伸一は、食事をしながら、日達上人に、仏教の研究者と僧が訪ねて来たので、仏法について語り合ったことを伝えた。
 「そうですか。山本先生は、常に対話を心掛けておられるんですね。昨日も植物園で、家族連れと一生懸命に話をされていた」
 「ええ。あの語らいが機縁となって、将来、信心をするようにならないとも限りませんから。私は、いつも、そういう思いで、人との出会いを大切にしているんです。
 また、人々と触れ合い、語り合うならば、民族、文化、習慣の違いを超えて、同じ人間として、わかりあえるものが必ずあります。その人間と人間の共通項を見いだし、どうやって人類を結ぶか、平和を実現していくかを、考えています」
 日達上人は、何度も頷きながら言った。
 「すばらしいことです。山本先生が、そうして広宣流布と平和のことを、いつも考えていらっしゃるからこそ、私たちは何も心配しないでいられる。
 正直なところ、私はこれまで、東洋広布や一閻浮提の広宣流布ということを口にはしてきましたが、具体的には、真剣に考えたことはありませんでした。心のどこかで、現実には無理であると思っていたのです。
 しかし、山本先生は、実際にそれをなそうとされている。先生がいらっしゃれば、世界の広宣流布も本当にできるんだと、実感いたします」
 「世界広布は、戸田先生の私への遺言であり、大聖人の御遺命です。
 何ごとにも『時』があります。大聖人が、人類の救済のために、正法を打ち立てられてから七百年、ようやく、その『時』が到来しました。もし、この『時』を失えば、永遠に広宣流布の機会は閉ざされてしまうかもしれません。だから、私は必死です。真剣なんです。失敗は許されないと思っています」
 こう語る伸一の顔を、日達上人は、じっと見詰めていた。
11  月氏(11)
 海を渡る風が、優しくを撫でる。
 岬の下の岩には、波が砕け、銀のまばゆい飛沫を躍らせていた。
 山本伸一は、日達上人に静かに語っていった。
 「大聖人の御予言も、それを成し遂げようとする人がいなければ、観念になってしまいます。広宣流布は、ただ待っていればできると考えるのは誤りであると思います。
 御予言の実現は、後世の人間の決意と大確信と必死の行動が根本となります。御予言とは、弟子の自覚としては、そう″なる″のではなく、そう″する″ことではないでしょうか。そうでなければ、人間の戦いはなくなってしまいます。
 また、そのようにとらえて戦いを起こしたものにとっては、御予言は、最大の確信となり、勇気となり、力となります」
 「山本先生のおっしゃる通りです。まったく、その通りだと思います。
 ……結局、広宣流布は、山本先生にお願いするしかありません。それが結論です。今後とも、どうか、宜しくお願いします」
 「いえ。私の方こそ、宜しくお願いいたします」
 二人は微笑み合った。
 日達上人は、それから七カ月後の一九六一年(昭和三十六年)八月、会長山本伸一の講演集が発刊された際、その序に、こう綴っている。
 「わが山本先生は、今日この世の中において、遠くは本仏日蓮大聖人の仏法を、近くは先代戸田城聖先生の教えを、よく身をもってこれを得、身をもってこれを実践している人である。
 仏法は、ただ理論の考究によって盛んになるものではない。仏法は信によって体験し、身をもって折伏弘経しなければならないのである。
 その折伏弘経の師をうることは、いつの世においても、はなはだむずかしいのである。しかるに今、大聖人の弟子檀那のなかから一人の山本伸一と名付くる折伏弘経の師を得たことは、われわれにとって無上の幸いというべきである。
 そのゆえは、この師なくして、この世界に妙法を広宣流布せしめる者は他にないからである」
 伸一と、広布と平和への旅をともにし、彼の胸中を知った日達上人の、ありのままの心情であったにちがいない。
 一行は、やがてコロンボの空港に向かった。
 同行してくれたメンバーの橋本浩治に見送られ、機中の人となった伸一は、心で唱題しながら、離陸の時を待った。
12  月氏(12)
 コロンボを飛び立った飛行機は、インド洋に浮かぶ緑の島・セイロン島を後にし、海峡を越え、インド上空を北上していった。
 眼下には、赤茶けた平原が続いていた。
 午後五時、飛行機はマドラスの空港に到着した。いよいよインドだ。
 森川一正たちは、胸が高鳴るのを覚えていた。
 このマドラスの税関が、「三大秘法抄」などを納めた、あのステンレスのケースを、開封することなく持ち込めるかどうかの、最後の関門となるからだ。
 インドの通関は、ともかく厳しいと聞いていた。だから日本で、事前に羽田の税関とインド大使館に掛け合い、ケースの中身を証明する文書を、発行してもらったのだ。
 しかし、それでも心配は拭えなかった。税関に向かいながら、森川も、秋月英介も、三川健司も、皆、心で懸命に唱題していた。
 一行が税関の係官の前に立った。
 三川は英語で、自分たちは仏教徒のグループであることを告げ、世界の平和と民衆の幸福を願う、厳粛な儀式を行うために、インドにやって来たと力説した。
 大きな声で語る三川の説明を、係官は呆気にとられたような顔で聞いていた。
 そして、それが功を奏したのか、所持金を申告した後、係官は、宝石やカメラなどの有無を聞くと、厳かな顔で言った。
 「オーケイ」
 発行してもらった文書も、見せることなく、無事に税関を通過することができたのである。
 「いやー、よかった、よかった」
 「守られましたね」
 森川と秋月は、手を取り合って喜んでいた。
 このマドラスで、ナーグプルを経由してデリーに行く国内線の飛行機に乗り換えである。しかし、飛行機の出発は午後十時で、待ち時間が五時間もあった。
 一行は、マドラス市内のホテルで夕食を取ることにした。空港からバスで、市内にある航空会社の事務所前まで行き、そこから三台のタクシーに分乗して、ホテルに向かった。
 マドラスは、セイロン(現在のスリランカ)に比べ、道行く人も多く、賑わいを見せていた。
 貧富の差はかなり大きいようで、近代的なビルのすぐ横に、土でつくった家があったりする。
 車が猛スピードで走るなかを、時折、牛がゆっくりと歩いていく。その姿が、どことなくユーモラスであった。
13  月氏(13)
 山本伸一は、マドラスの雑踏を眺めながら、約四億(当時)といわれる膨大な人口をかかえ、インドの舵を取るネルー首相の苦闘を思った。
 ネルーが近代化、工業化を進める一方、社会主義的な政策を取り入れていたのも、インドの貧困の克服を最大の課題としていたからであろう。
 一行がホテルに着き、レストランに行くと、午後七時半にならなければ、営業はしないという。その間に買い物をしようということになり、ホテルの売店に行った。しかし、係員がショーケースの鍵を持ったまま、どこかへ行っているので、販売できないと断られてしまった。
 「どうなっているんでしょうね、この国は……」
 清原かつが、呆れたように言った。
 伸一は、笑いながら、彼女をなだめた。
 「清原さん、国民性、民族性の違いだよ。日本のペースで、ものを考えてはいけない。インドの人にしてみれば、日本人は、なんてせわしない人たちだと思っているよ」
 一行は、しばらく辺りを散策した。
 伸一はその間も、ここに地涌の友が出現することを願い、小声で題目を唱え続けていた。
 食事をすませ、一行が空港に戻ったのは午後九時ごろであった。
 飛行機は、定刻の十時にマドラスを出発し、午前一時半に、インドのほぼ中央に位置するナーグプルの空港に着いた。ここで四十五分の待機である。一行は待合室で休憩した。
 しかし、予定時刻が過ぎても、飛行機はなかなか飛び立つ様子はない。
 三川健司が、何度か事務所に、なぜ出発が遅れているのかを尋ねに行ったが、毎回、「そのうちに出るだろう」という心もとない返事であった。
 やがて、皆、待合室のベンチで眠り始めたが、伸一は起きて、心のなかで唱題していた。
 結局、飛行機が出発したのは、二時間半後の午前四時であった。
 そして、午前七時。
 一行は、小雨に煙るデリーの飛行場に下り立った。
 空港で荷物を待っていると、係官が告げた。
 「昨夜からデリーの気象条件が悪いために、ほかの便は、別の空港に到着しています。無事に着いたのは、この便だけです」
 疲労は激しかったが、この便でなければ、スケジュールに大きな支障をきたしていたことになる。伸一は守られていることを、実感した。
14  月氏(14)
 デリーの朝は、肌寒かった。道を行く人を見ると、襟巻をした人もいる。
 山本伸一は、夜間飛行と気温の変化で、日達上人が体調を崩しはしないかと、気掛かりでならなかった。
 ホテルに着くと、森川一正らは、日本大使館に出掛けた。「東洋広布」の石碑などを、ブッダガヤに埋納する許可を、どこに行って取ればよいのか、相談するためであった。
 そこから大使館員を伴い、インド政庁を訪ねた。すると「ガヤに管理委員会があるから、そこの委員長の許可をもらいなさい」とのことであった。
 委員長はガヤ一帯の行政に携わる有力者であると、大使館員から聞いていた。
 結論は、また、先に持ち越されてしまった。
 一行は、この日は午後から、デリーの視察をした。まず、国会議事堂を見学した後、ニューデリーを抜けて、郊外にあるクトゥブの塔に向かった。
 この塔は、十三世紀に、デリーを都としてインド最初のイスラム王朝をつくった、クトゥブッディーン・アイバクのデリー征服の記念として建造されたものだ。アイバクをはじめ何人かの王が奴隷の出身であることから、この王朝は奴隷王朝とも呼ばれている。
 塔は赤色で、五層からなり、高さは七十三メートルもあるといわれる。しかし、案内人の話では、それも、かつて、ここに造営されていたイスラムのモスクの、ほんの一部に過ぎないという。
 一行は、その説明を聞いて、往時の規模の壮大さに目を見張った。
 そこから、再びニューデリーを通って、オールドデリーに入り、南アジアきっての威容を誇るといわれるイスラムのモスクのジャマー・マスジッドを訪ねた。
 ニューデリーの街には、街路樹が植えられ、道路も広く、整然としていたが、オールドデリーに入ると、街は人でごったがえし、民衆の息遣いを感じさせた。
 その雑踏のなかに、絢爛と浮かび上がる、白い大理石の円い屋根が、ジャマー・マスジッドであった。
 これは、十七世紀に、ムガル朝の第五代皇帝シャー・ジャハーンによって造営されたものである。
 ジャマー・マスジッドとは、本来、大モスクの総称として、北インドで使われている言葉だが、デリーでジャマー・マスジッドといえば、シャー・ジャハーンの建てた、このモスクのことになる。
 建物の豪華さに比べ、訪れる礼拝者たちの貧しい身なりが、伸一の胸を締めつけた。
15  月氏(15)
 ジャマー・マスジッドの後は、そのすぐ近くにある、レッド・フォート(赤い城砦)の名で知られるデリー城を見学した。
 壁が赤い砂岩で造られていることから、レッド・フォートと呼ばれるようになった。ここも、ムガル朝の第五代皇帝シャー・ジャハーンの造営である。
 デリー城を出ると、城門の近くに、何人もの恵みを求める人たちがいた。
 関久男が山本伸一に話しかけた。
 「城は立派でも、民衆の貧しさが目につきますね。ここは、まだ終戦直後の日本のような感じだ」
 「確かにインドは、経済的には大変かもしれない。また、多民族、多言語ゆえの問題もあるでしょう。しかし、この国から日本が見習うべきことは多い。
 たとえば、今の日本にマハトマ・ガンジーのような偉大な指導者がいるだろうか。ネルー首相のような哲人政治家がいるだろうか。残念ながら一人もいない。
 戸田先生も、『一度、ネルー首相に会って、話してみたいな』と言われていたが、私も新しいインドをつくりあげた、本物の指導者だと思う。この国には、そうした人物を生み出す、精神の豊かさがある。
 日本人は経済力ばかりを追い求め、その尺度で他国を見るのではなく、それぞれの国のすばらしさを、謙虚に認識していく″眼″をもたなければならない」
 伸一は、「高度経済成長」時代に入った日本が、再びアジア諸国を見下すようなことは、決してあってはならないと思っていた。
 もし、そうならば、大東亜共栄圏などの美名のもと、インド国境にまで侵略の軍を運んでしまった、忌まわしい時代と同じ轍を踏むことになるからだ。
 デリー城から車で少し行くと、レンガの門があった。助手席に座っていた三川健司が言った。
 「先生、ここが、マハトマ・ガンジーが亡くなった時に、荼毘に付したラージ・ガートです。今は記念の聖地になっているんだそうです」
 「そうか。見てみよう」
 一行は車を降りた。
 門を入ると、広々とした芝生が広がっていた。
 その向こうはヤムナー川に続いている。しばらく歩いていくと、レンガで仕切られた一角があった。
 なかに入ると、中央には方形の碑が置かれ、幾人かの市民が、花を捧げていた。ガンジーをしのぶ記念碑である。
 一行は、静かに記念碑の前に進み、厳粛に題目を三唱した。
16  月氏(16)
 ガンジーの記念碑の前に立ち、山本伸一は、深い感慨に襲われた。
 一九四七年(昭和二十二年)の八月十五日、インドは長年のイギリスの植民地支配を脱し、遂に「独立」を達成した。
 その日は、十九歳の山本伸一と戸田城聖との、運命的な出会いの翌日であり、彼にとっても、忘れ得ぬ″時″であった。
 このインド独立の偉大なる″父″こそ、マハトマ・ガンジーその人である。
 彼は、ある時、″私の人生が世界へのメッセージです″と語ったという。
 まさに、彼の人生、彼の行動そのものが、インド、そして、世界に大きな光を投げかけたのである。
 ガンジーの休みなき戦いは、インドから遠く離れたアフリカの地で始まった。
 一八九三年、二十三歳の時、彼はインド人の商人の顧問として、南アフリカに赴く。そこで体験したのが、「人種差別」の分厚い壁であった。
 列車の一等車に乗ったガンジーは、「有色人種」であるというだけで、冬空の下に放り出される。彼は怒りに震えた。生涯にわたる人権闘争の契機となった、有名な「マリッツバーグ事件」である。
 更に、南アフリカでの用件を片付け、帰国しようとした矢先、インド人の選挙権を奪う法案が提出されたことを知る。
 ″この法案は、われわれインド人の柩に、最初の釘を打つものだ!″
 事態の本質を見抜いた彼は、一カ月ほど帰国を延ばし、理不尽な人権侵害と戦い始めた。ところが、その戦いは、実に二十年以上にも及んだのである。
 この闘争でガンジーが組織したのが、「非暴力」の民衆抵抗運動であった。
 一九一五年、南アフリカでの長い戦いに勝利し、帰国したガンジーを、同胞は英雄として迎えた。彼は四十五歳になっていた。
 当時、イギリスの植民地であったインドの独立運動は、次第に水かさを増してはいたが、全国的、全民衆的な規模には程遠かった。多くの民衆は、無知と貧困に打ちひしがれ、誇りも自信も失っていた。
 前年、第一次世界大戦が始まると、多くのインド人は政府に協力した。彼らは、その見返りとして、自治の獲得を期待していた。
 しかし、戦争が終わると、イギリス政府は、インド版の治安維持法(ローラット法)を制定。戦時下と変わらぬ圧政が敷かれた。
 ガンジーは、その闇深き大地へ希望を注ぐ、「一条の光明」(ネルー)のごとく登場したのである。
17  月氏(17)
 「一人の人に可能なことは、万人に可能である」
 ガンジーは、彼一人から万人へ、身近なところから全インド人へと、人権闘争の炎を広げていった。
 たとえば、国産品の愛用運動の一環として、チャルカ(紡ぎ車)を使い、自分たちの手で糸を紡ぎ、衣服づくりを奨励したことがあげられよう。
 それがイギリスの支配から、経済的にも、また、精神的にも、独立していく大きな力となるからだ。
 あるいは、一九三〇年の「塩の行進」である。ガンジーは、約八十人の弟子を連れて四百キロを歩き、インドの西海岸に行く。最後は数千人の大行進になっていたという。そして、海辺で、厳かに天然の塩を拾ってみせたのである。
 イギリスは当時、生活に欠かせぬ塩に税金を掛け、専売制にしていた。「塩の行進」は、その横暴への、ガンジーの体を張った「ノー!」の叫びであった。
 それらは、植民地支配の誤りを万人に教え、民衆の心に、完全独立への意気を燃え上がらせた。
 悪に屈服するな! 悪に協力するな!
 独立運動の先頭には、常にガンジーの身があった。
 彼は幾度となく投獄された。獄中生活は南アフリカ時代も含め、約六年五カ月にわたっている。
 だが、正義によってそびえ立つガンジーを前にすると、迫害者の方が良心を揺さぶられ、戦慄した。
 老いも若きも、男性も女性も、彼に続いた。無数の脅迫が、棍棒が、銃砲が、牢獄が、彼らを待ち受けていた。しかし、だれもが胸を張り、迫害に身をさらした。幾千、幾万の民衆が、進んで投獄された。
 ガンジーにとって、非暴力は、単なる手段や戦術ではなかった。人間の真理そのものであり、全人生を貫く信念であった。ゆえに、彼は、それを「サティヤーグラハ」(真理を堅く守り抜くこと)と呼び、こう断言した。
 「非暴力は臆病をごまかす隠れみのではなく、勇者の最高の美徳である」と。
 ガンジーは、民衆の心の中に「筋金」を入れたのである。インドの独立といっても、民衆自身の「精神の独立」なくしては、真の独立とはいえないからだ。
 彼は、何より民衆の心に染みついた「恐怖」を追い払った。
 民衆が毅然と顔を上げ、背筋をぴんと伸ばした時、民衆の上に君臨する、傲慢なる権力者は転げ落ちていかざるをえない。
 ネルーは、民衆の心から「恐怖」を追い払ったことを、ガンジーの「最大の贈り物」と評している。
18  月氏(18)
 恐怖とは何か。それは、自分の心がつくりだした幻影にすぎない。怯えるものは、自身の心の影に怯えているのだ。
 「恐れるな」──遙かな昔、かの釈尊は、こう説いた。今、ガンジーもまた、「民衆よ、恐れるな」と叫んだのである。
 その叫びに、民衆は立ち上がった。ここに、インド独立の真の夜明けが始まったといってよい。
 政治という現実を見すえて、人権闘争の旗を掲げたガンジーは、しばしば「政治に迷う聖者」と揶揄されもした。
 また、聖職者たちからは、「政治にかかわらず、瞑想生活に専念するべきだ」との忠告も受けた。
 しかし、彼は現実のただ中を歩み続け、民衆に献身し続けた。そして、最も差別された不可触民の人々を「ハリジャン(神の子)」と呼び、その自由と平等のために尽くしている。
 そこには、あふれんばかりの人間愛がある。ヒューマニズムの輝きがある。
 では、いったい何が、ガンジーのその原動力となったのか。
 彼は答えている。
 「純粋に宗教的なものです」と。
 およそ人間は「宗教性」を抜きにして、他者への奉仕に徹し切ることなどできない。彼の言葉は、宗教は人間の精神を培い、人間の営み全般に道徳的基盤を与えることを示していよう。
 ゆえに、こうした「宗教性」をまったく欠いた政治は、ガンジーが「宗教を離れた政治はまったく汚いもの」と鋭く指摘したように、権力と金力のパワーゲームとなってしまうにちがいない。
 彼は「奉仕することが私の宗教です」とも語った。それは、階級や民族を超えて、一人一人の人間に至高の価値を見いだしてこそ、初めて可能になろう。
 そのガンジーが、インド土着のヒンズー思想に根差しながらも、すべての人間に仏性を見いだす仏教の法華経に、接近していったのは、むしろ当然の帰結といってよい。
 ガンジーと交流の深かった東洋学者のラグ・ヴィラ博士を父にもつ、インド文化国際アカデミーのロケッシュ・チャンドラ博士は、こう語っている。
 「一九三〇年代半ばに、マハトマ・ガンジーは、彼の道場(アシュラム)の祈りに『南無妙法蓮華経』の題目を取り入れました。ガンジーは『南無妙法蓮華経』が、人間に内在する宇宙大の力の究極の表現であり、宇宙の至高の音律が奏でる生命そのものであることを覚知していました」
19  月氏(19)
 ガンジーは、祖国の独立とともに、インドという、一つの幹に茂る、ヒンズー教徒とイスラム教徒を融和させようと、最後まで専心していった。
 しかし、独立前夜のインドでは、分離して統治するというイギリスの政策や、政治的利害に影響され、宗教間の対立を広げる嵐が吹き荒れた。
 彼の「一つのインド」の理想は、無残にも引き裂かれ、その結果が、インドとパキスタンの″分離独立″となっていく。
 悲願の独立の日──その晴れの式典に、ガンジーの姿はなかった。彼は、宗教対立の余燼がくすぶるカルカッタのスラム街で、民衆の融和のために働いていたのである。
 ところで、この独立当初から、初代インド首相として立ったのが、ガンジーより二十歳年少のジャワハルラル・ネルーである。
 ネルーは、しばしばガンジーと意見を異にしたが、祖国の独立のためなら命も惜しまないことでは、同志であり、師弟であった。また、彼は、ガンジーをも上回る、延べ九年間もの獄中生活を送っている。
 彼は、新生インドの命運を握る指導者として、内政・外交に献身していった。たとえば、後に、彼が東西冷戦の狭間にあってリーダーシップを発揮した非同盟外交や平和五原則などは、平和を願う世界の人々からを浴びることになる。
 悲願の独立から五カ月半が過ぎた一九四八年(昭和二十三年)の一月三十日のことであった。
 七十八歳のガンジーは、いつもと変わらず、夕刻の祈りを捧げるため、人々のなかへ、民衆のなかへ、その歩みを進めていった。
 その直後、ガンジーは、三発の凶弾に倒れた。
 白衣は血に染まったが、顔は安らかだった。
 犯人は、イスラム教徒への報復を叫ぶ、狂信的なヒンズー教徒の青年だった。憎悪に狂った偏狭な心は、もはやガンジーのあまりにも大きな心がわからなかったのであろう。
 山本伸一は、ラージ・ガートに立ち、しみじみとした口調で言った。
 「ガンジーは『私の宗教には地理的な境界はない』と語っている。彼のその慈愛は、インドの国境を超えて、世界の宝となった。
 戸田先生も、『地球上から″悲惨″の二字をなくしたい』と言われ、そのために戦われた。先生の慈愛にも国境はない。私は、そこに二人に共通した崇高な精神を感じるのです。
 そして、大事なことは、誰がその精神を受け継いで実践し、理想を実現していくかです」
20  月氏(20)
 芝生を渡る風がさわやかだった。
 山本伸一は、彼方を仰ぎ見ながら、話を続けた。
 「ガンジーが行った民衆運動は、それまで、だれもやったことのない闘争であった。だから『出来るわけない』『不可能だ』との批判も少なくなかった。それも当然かもしれない。
 しかし、彼は厳然と言い切っている。『歴史上、いまだ起こったことがないから不可能だというのは、人間の尊厳に対する不信の表れである』と……。
 断固たる大確信です。どこまでも人間を、民衆を信じ抜いた言葉です。
 そして、ガンジーは、この信念の通り、インドを独立に導き、民衆の勝利の旗を高らかに掲げた。
 広宣流布の遠征も、未曾有の民衆凱歌の戦いだ。まさに非暴力で、宿命の鉄鎖から民衆を解放する戦いであり、魂の自由と独立を勝ち取る闘争です。歴史上、だれもやったことがない。やろうともしなかった。
 その広宣流布の道を行くことは、必ず、ガンジーの精神を継承することにもなるはずです」
 同行の幹部は、ただ黙って聞いていた。
 この時、皆が伸一の言葉の真意を、どこまで理解したかは定かではない。しかし、彼はこの時、一個の人間として、ガンジーの″魂の火″を永遠に消してはならぬと、深く心に誓っていたのである。
 一行はラージ・ガートから、遺跡公園として知られるフィーローズ・シャー・コートラに回った。そこに立つ、アショカ大王の法勅を刻んだ石柱を、見学するためである。
 アショカの石柱は、廃墟となった宮廷の建物の上に立っていた。
 この石柱は、デリー・トープラー石柱と呼ばれている。高さは十四、五メートルほどで、砂岩の一本石で出来ていた。七章の法勅が刻まれた貴重な石柱といわれる。
 アショカ大王は、紀元前三世紀に、仏教を根底にした慈悲の政治を行った、世界で最も偉大な王の一人として高く評価されている。
 しかし、彼は、決して最初から優れた王ではなかった。むしろ「暴悪のアショカ」と呼ばれ、恐れられていた。そして、父王にさえも疎んじられ、九十九人の兄弟を殺害して、王位を手にしたといわれる。
 そのアショカに転機が訪れる。彼は即位八年目に大軍を率いて、マガダ国の南のカリンガ国を攻めた。その時、十五万人が捕虜となり、十万人が殺され、更に幾倍かの人が死んだ。カリンガの大虐殺である。
21  月氏(21)
 カリンガでの大虐殺の惨状は、アショカの胸に焼きついて離れなかった。
 暴悪をもって知られたアショカも、さすがに悔恨を覚え、人間のまことの道を求める心が兆し始めた。
 彼は終生、再び戦争を起こさぬことを誓い、仏教を信仰する人たちの集いに精勤するようになる。
 アショカが仏教に帰依した時期は、必ずしも明らかではないが、本格的に信仰に励み始めたのは、この時からである。
 やがてアショカは、武力によるのではなく、法(ダルマ)による統治を決意する。そして、「一切の人々は我が子である」として、民衆の利益と安楽とを願った。それは「一切の衆生は吾が子なり」という釈尊の慈悲の精神を、政治の世界に実現しようとするものであった。
 彼は、国内にあっては、人間のための病院はもとより、家畜のための病院までつくる。また、薬草の栽培を推進し、街路樹を植え、井戸を掘るなど、多くの社会事業を行っていった。
 更に、他国に対しては武力による征服を廃して、平和使節を送っている。
 まさに、一個の人間の、偉大なる人間革命の姿があった。
 山本伸一は、アショカ大王の法勅を刻んだ石柱を仰いだ。それは夕日を浴びて金色に輝いていた。そこには、できうるかぎりの殺生の禁止や、植樹、水飲み場の設置などが、うたわれているはずである。
 伸一は、同行のメンバーに語った。
 「アショカ大王は、仏教を根底にして、慈悲の政治を行った。これは仏法者として実に大事な問題ではないかと思う。
 広宣流布の目的は、人々が仏法を信じ、その結果、民衆が幸福になり、社会が平和になることにある。つまり、仏法の哲理が人間の生き方につながり、それが現実の社会に反映されなければならない。その一つの模範が、アショカ大王の治世だと思う」
 伸一が言うと、秋月英介が口を開いた。
 「ところが、仏法を根底とした社会というと、すぐに、日蓮正宗を国教にするのではないかとか、政教一致ではないかといった批判が出ます。もっとも、これは学会推薦の候補者を政界に送り出した時から、言われ続けていることですが」
 それを受けて、清原かつが言った。
 「本当に変な話よね。ほかの宗教団体だって、保守党の議員を支援し、選挙運動しているのに……」
22  月氏(22)
 山本伸一は、微笑みながら語り始めた。
 「アショカ大王の世を見れば、仏法を根底にした政治とはどういうものか、よくわかるはずだがね。
 『根底にする』ということは、政治の理念にするということだ。わかりやすくいえば、政治を行ううえで哲学をもつということになる。もし、政治家に確固たる哲学がなければ、ただ状況に流されていく、根無し草のような政治になってしまう。
 仏法の慈悲を理念とするならば、多くの新しい着眼点が見いだされ、新しい政策が創造されるはずだ。
 たとえば、社会的に弱い立場の人を守ろうとすることであり、また、それが福祉の推進につながることにもなろう。更に、大企業などの利益を最優先するのではなく、一人一人の生活を豊かにしていこうとする、人間優先の政策も生まれてくるにちがいない。
 また、皆、仏子であるととらえる仏法の思想は、生命の尊厳を守り、確かな平和を実現する基盤になるとともに、人類益の探求という発想を確立していくことになる。
 アショカ大王の政治も、その実例であり、それは、政教一致とは明らかに異なるものです。ちなみに、彼は慈悲の政治を実現し、仏教の流布に力を注いだが、仏教を国教にしようとはしなかった。
 政教一致というのは、国家権力と宗教が、直接、結びつくことを言うのです。その典型的な例が、かつての神社神道と権力との関係ではないかね」
 明治憲法では、その第二十八条に「信教の自由」は規定されていたが、神社神道は国家の祭祀とすべきものであり、″宗教に非ず″として、国家の特別な保護下に置かれた。そして、事実上、国家宗教に仕立て上げられていったのである。
 戦前、戦中と、軍部政府は、この国家神道を精神の支柱として戦争を遂行するために、その考えにそぐわぬ宗教を、容赦なく弾圧していった。そのなかで創価教育学会への大弾圧も起こったのである。
 神札を祭らぬことなどから、「不敬罪」「治安維持法違反」に問われ、会長牧口常三郎、理事長戸田城聖をはじめ、学会幹部が相次ぎ投獄されていった。
 しかし、牧口も戸田も、「信教の自由」を守るために戦い抜いた。「屈服」は人間の「魂の死」を意味するからだ。そして、牧口は獄死したのである。
 こうした歴史を繰り返さないために、現在の憲法で定められたのが、政教分離の原則であった。
23  月氏(23)
 日本国憲法の第二〇条には、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とある。
 そして、それに続いて、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と謳われている。
 この条文は、「信教の自由」を確保するために、国や国家の機関が、その権力を行使して宗教に介入したり、関与することがないように、国家と宗教の分離を制度として保障したものである。
 そのために、特定の宗教団体が、国家や地方公共団体から、立法権や課税権、裁判権などの統治的な権力が授けられることを禁止したものにほかならない。
 一方、宗教団体が選挙の折に候補者を推薦したり、選挙の支援活動を行うことは、結社や表現、政治活動の自由として、憲法で保障されている。
 また、そうして推された議員が、閣僚などの政府の公職に就くことも、それ自体は、決して政教分離の原則に反するものではないことは明白である。
 しかし、それを逆手に取り、条文を拡大解釈し、宗教団体の選挙の支援や政治活動を違法だと言うなら、宗教者の基本的人権を奪うことになってしまう。
 更にそれは、宗教を不当に封じ込め、差別しようとする、宗教弾圧以外の何ものでもない。
 しかし、当時から、学会は政教一致を目指しているといった、意図的な喧伝が行われていたのである。
 山本伸一は話を続けた。
 「こうした類いの学会への中傷が続くことは、覚悟しなければならない。
 これまで権力をほしいままにしてきた人たちにとっては、民衆の側に立った政治を実現しようという学会員の議員が増えれば、自分たちの基盤が失われてしまうという、強い危機感があるからだろう。
 また、宗教界にしても、学会の前進に、大きな脅威をいだいている。教義をめぐっての論議となれば、敗北は明らかだからです。
 そこで、両者が手を結んで、学会を排斥しようとする。そのために、評論家やマスコミを使い、学会が国教化や一国支配の野望をいだく危険な団体であるかのように、喧伝しているというのが実情です。
 たとえ事実無根であっても、『反民主的』というレッテルを張ることができれば、大きなイメージ・ダウンになるからです」
 清原かつが、憤りを込めて言った。
 「それにしても、卑劣な話だわ。島国根性は困ったものね」
24  月氏(24)
 マスコミの力は大きい。それが、ひとたび悪用されれば、無実の人が「悪」の汚名を着せられ、名誉も、人権も、社会的信用も、時には、生活の糧まで奪されてしまう場合もある。
 そして、その非道な仕打ちに対して、個人や民衆の集団は、余りにも無力であると言わざるをえない。
 結局、マスコミを操作しうる権力者や勢力の横暴に対して、民衆は、泣き寝入りを余儀なくされてきたのが、厳しい現実であったと言えよう。
 清原かつは、慨嘆するように言った。
 「考えてみると、学会は昔から、随分いろいろなことを言われてきましたね。『暴力宗教』『香典泥棒』『ファッショ』……」
 山本伸一は愉快そうに声をあげて笑った。
 「大聖人の仰せ通りに、悪口罵詈されてきたということは正義の証明だよ。
 しかし、そのなかで、同志は水かさを増し、学会への共感の輪は、着実に広がってきた。
 皆が真剣に戦い、肉声をもって学会の真実と正義を語り抜き、中傷と偏見を打ち砕いてきたからです。
 肉声の及ぶ範囲は限られている。だが、自らの体験と実感に裏打ちされた肉声の響きに勝るものはない。
 地味なようでも、一対一の深き誠実な語らいこそが、ずるところ、学会への正しい認識と評価をもたらす直道だと思う」
 皆、目を輝かせて、伸一の話を聞いていた。
 森川一正が質問した。
 「アショカ大王が、仏教を国教化しなかったのは、どのような考えによるのでしょうか」
 「当時の宗教事情も詳しく研究してみなければ、確かなことはわからないが、私の推測では、為政者として、今日で言うところの、思想や信教の『自由』を守ろうとしたからではないかと思う。
 それは、精神の独立の機軸であり、人間を尊重するうえで、最も根幹をなすものだからです。
 また、宗教戦争を避けようと考えたからではないだろうか。宗教戦争というのは、単に宗教上の教義の相違からではなく、宗教と政治権力とが結びつくところから起こっています。
 つまり、権力を得た宗教が、武力を背景にして、他の宗教を差別し、排斥すれば、抑圧された宗教もまた、武力をもってそれに抗することになる。
 アショカ大王は、平和を願う仏教徒として、そうしたことも考慮したうえで、いわゆる『政教分離』を考えたように、私には思えてならないのだ」
25  月氏(25)
 山本伸一の話に、熱心に耳を傾けていた日達上人が頷きながら言った。
 「なるほど……。深い考察ですね」
 伸一は答えた。
 「いえ、これはまだ推測にすぎません。もっと研究が必要です。
 いずれにせよ、アショカ大王が、仏教を国教化しなかった意味は大きいと思います。国教化されれば、仏教は、なんらかの強制力をもつことになります。
 そうなれば、人々の信仰も、次第に自発的なものではなくなってくる。
 すると、形式上は仏教が栄えるように見えても、本質的には、仏教そのものを堕落させることになってしまう。
 宗教は、どこまでも一人一人の心に、道理を尽くして語りかけ、触発をもって広めていくものです。それには、それぞれの宗教が、平等に自由な立場で布教できなければならない。
 そのなかで、人々の支持を得てこそ、本物の宗教です。国教化や権力による庇護を願う宗教は、本当の力がない証拠ではないでしょうか。
 学会がこうして折伏し、広宣流布ができるのも、憲法で『信教の自由』が保障されているからです。その意味でも、創価学会は、永遠に『信教の自由』を守り抜かねばなりません」
 伸一の言葉には、力がこもっていた。
 通訳の三川健司が、ためらいがちに質問した。
 「いま、先生は宗教戦争ということを言われましたが、青年部が折伏をしていると、″自分の宗教だけを正しいとし、他宗を否定するのは独善的で危険である。そうした考えは宗教戦争につながるのではないか″という批判に、よく出合います」
 これを聞くと、伸一は即座に答えた。
 「『自分は信じている。ゆえに正しい』と言うのであれば、それは独善です。
 だから、学会は、牧口先生以来、徹底して宗教を研究してきた。文献的な証拠のうえから、道理のうえから、更に現証のうえから、普遍的、客観的な尺度で、あらゆる宗教を検証してきたのです。そして、現実に百何十万世帯もの人が、幸福になった。
 その結論として、私たちは、日蓮大聖人の仏法こそ万人を幸福にできる、最高最大の教えであると主張しているわけです。
 更に、異なる信仰、意見をもつ人と積極的に議論し語り合おうと、座談会という社会に開かれた対話の場をもっている。独善を排するために、語らいの場を大切にしているんです」
26  月氏(26)
 長い旅の途中でもあり、山本伸一の疲労はたまっていた。しかし、彼は三川健司の質問に、真剣に、誠実に答えていった。
 お茶を濁すようないい加減な答えでは、青年を心から納得させ、育成することなどできないからだ。
 「ところが、日本には、正と邪、善と悪をあいまいにする風潮がある。実は、それこそが危険なんです。
 もし、正邪を明らかにしないで、悪を見ても正そうとせず、見て見ぬふりをしていたら、どうなるか。それでは、あまりにも無責任となる。子供が盗みを働くのを見て、黙って見過ごす親はいない。愛が深ければ深いほど、厳しく戒めるのが人情です。
 ましてや宗教は、生き方の根本をなし、人間の幸・不幸を決定づけてしまう。ゆえに、教えの正邪を厳しく検証し、誤りがあれば論議し、正していくのは当然のことではないだろうか。
 そして、その語らいを通して、自分の信ずる宗教の誤りを知ったならば、道理に適った正しい教えを、真摯に受け入れていくべきでしょう。そこに人間としての向上があるからです。
 したがって、人に信仰への確信を語り、宗教の正邪を正していくことが危険だなどというのは、大きな誤りだと思う。道理のうえからみても」
 日本には、宗教の正邪を峻別することを避ける傾向がある。
 その背景には、古来、日本の宗教が多神教であり、日本人には、他宗教を受容するという素地があったことがあげられる。
 それがやがて、教えの正邪を不問に付し、仏教の混乱と退廃を招く結果ともなった。
 そのなかにあって、古くは伝教大師が釈尊の経文のうえから、宗の優劣を明らかにしていった。彼は「法華経第一」との主張を展開し、南都六宗といわれる諸宗をことごとく論破した。
 諸宗は、反論がかなわぬことを知ると、陰湿な弾圧を重ね、伝教大師を「大妄語を説いて教団を分裂させる者」として、大悪人の汚名を着せたのである。
 日本の宗教界では、既にこの時代から、互いの保身のために、教えの正邪や優劣を究明する人を排斥する流れが、出来上がっていたのである。
 鎌倉時代には、日蓮大聖人が御出現になり、四箇の格言をもって、宗教の正邪を徹底して正し、大折伏を展開した。
 すると、他宗は大聖人を無き者にしようと、幕府権力と結託し、迫害につぐ迫害を重ねたことは周知の事実である。
27  月氏(27)
 江戸時代に入ると、徳川幕府は日蓮宗などに「自讃毀他」(自らを讃めたたえ、他宗を毀ること)の禁令を出し、宗論を禁じた。
 檀家制度、寺請制度で寺院を権力の下部構造に組み込み、民衆を管理させようとする幕府にとっては、支配体制の強化と秩序の維持こそが重要であった。
 そのため、離檀につながりかねない宗論を最も恐れ、禁じたのである。それが宗教の形骸化に拍車をかけた。
 その宗教政策は社会に浸透し、「宗論はどちらが負けても釈の恥」と、川柳にも歌われるような、論争を否定する日本人の意識を形成していったのである。
 明治以降、曲がりなりにも、「信教の自由」が認められたが、国家神道を精神の支柱とした軍部政府は、神道批判を許さず、宗教への監視と干渉を強めていった。それによって、宗教対宗教の自由な論争を避ける傾向が助長されていったのである。
 戦後、日本は民主主義国家となり、完全な「信教の自由」が保障されたが、宗教の正邪を論じ合うことを厭う精神風土は、そのまま受け継がれてきた。
 そして、信仰は自由であるのだから、宗教の正邪をめぐる論議など、余計な干渉であるかのように考える風潮をもたらしていった。
 しかし、宗教が民衆の救済や幸福の実現を目的とするというなら、自由な討議の場をもち、自宗の教えの正しさを証明していくことは、宗教の義務である。
 また、自宗こそ最高の教えであることを宣言できぬ宗教であるとしたら、これほど無責任なものはない。更に、そう宣言しながら、万人に布教しようとしなければ、宗教者として無慈悲と言わざるをえない。
 山本伸一は、皆に視線を注ぎながら言った。
 「私たちは、仏法者として、教えの正邪、勝劣を厳格に判別していかなければならない。それは誤った教えを信じ、不幸になる人を見過ごしてはならないからです。寛容というのは、誤った教えや悪を放置することではない。万人を幸福にしようとする慈愛の広さ、深さを意味する。
 それゆえに、人々を不幸にする悪に対しては、敢然と戦うのです。
 ましてや、大善を破壊する大悪、つまり『悪鬼入其身』の魔の働きをするものとは、徹底して戦わなくてはならない。
 それをしないのは、寛容などではなく、宗教者の仮面を被った、保身と妥協の偽善者にすぎない」
28  月氏(28)
 山本伸一は、決然とした口調で語った。
 「涅槃経には、『若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり』とある。
 これは、もし仏弟子として、法を破る者を見て、そのまま弾劾もせず、放置しておくならば、その人は仏法の怨敵であり、誤りを正し、戦ってこそ、本当の弟子であるとの教えです。
 釈尊も、悪の働きをなす者を許さず、提婆達多を厳しく糾弾しています。反逆した提婆達多は、釈尊の命を付け狙い、教団の分裂を画策している。
 しかし、釈尊は恐れなかった。人々が提婆達多の邪義に惑わされて、不幸になることを防ぐために、彼の悪を正そうと、命がけで戦った。それはまた、提婆達多への厳愛でもあった。
 そして、釈尊に敵対し抜いた提婆達多は、最後は地獄に堕ちたと説かれています。
 しかし、そうして悪と戦うことが、宗教戦争につながるなどというのは、大変な認識不足です。
 というのは、仏法では、一切衆生が仏性を具えていると教えている。また、万物は互いに関連し合って存在するという『縁起』の思想に貫かれている。そこからは、いかなる大悪人であっても、抹殺するなどといった発想が生まれることはありえない。
 仏法者の戦いとは、どこまでも非暴力による言論戦です。言論、対話というのは、相手を人間として遇することの証明です。それは、相手の良心を呼び覚ます、生命の触発作業であり、最も忍耐と粘り強さを必要とします。
 牧口先生は、獄中で取り調べの場に臨んでも、一歩も退くことなく、『さあ、討論しよう!』と言われ、堂々と学会の正義を語り、折伏されている。
 過去の宗教戦争を見てみると、この言論による戦いを放棄し、『問答無用』とばかりに暴力に訴えたり、権威権力を振りかざして弾圧したりするところから、起こっている。
 この『言論主義』にも、明らかなように、仏法は最も寛容な宗教です。あの提婆達多にさえも、最後に法華経では成仏の記別が与えられています。これは仏法者の戦いとは、一切衆生を救うという、慈悲に裏付けられたものであることを示しています」
 伸一は、んで含めるように語っていった。
29  月氏(29)
 皆、真剣に山本伸一の話に聞き入っていた。
 「また、大聖人も、権力と着し、邪義を掲げる悪侶と、徹底して戦われた。
 『悪侶を誡めずんばあに善事を成さんや』と仰せられ、『如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには』と、念仏を破された。
 この大確信のもとに、勇猛果敢に悪を責め、そのために、幾たびも命に及ぶ大難にあわれた。
 しかし、それによって法華経を身で読まれ、法華経の行者となられたとされ、こう述べられている。
 『日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信かげのぶ・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんばいかでか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ
 つまり、御自身が仏になるための第一の味方は、東条景信や極楽寺良観などの弾圧者である。これらの人がいなかったなら、どうして法華経の行者になれただろうかと悦んでいる、と仰せになっているのです。
 更に、『願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん』と、御自身を迫害した国主たちを、最初に救おうとも言われている。
 これは、悪と徹底して戦い抜かれた御本仏の御境界からの御言葉です。
 私たちの立場で言えば、悪と戦うからこそ、自身の胸中の悪を滅ぼすことができる。
 したがって、そこに自身の人間革命があり、宿業の転換もできるんです。
 だからこそ、悪人や迫害者の存在にも、結果的に意味を見いだすことができ、救ってあげようという、慈悲の心をいだけるのです。
 更に、仏法の寛容の精神は、法華経に説かれた不軽菩薩の生き方にも、端的に示されています。
 不軽菩薩は、すべての人の仏性を信じ、二十四文字の法華経を説いて、礼拝して歩く。すると、無知の衆生は、彼を杖や木で打ち据え、瓦や石を投げつける。
 しかし、不軽菩薩はそれでも、″あなたたちは、菩薩の道を行じて、仏になる人たちである″と、礼拝することをやめなかった。
 これは、信仰への絶対の確信に裏付けられてこそ、できることです。『法』に対する厳格さゆえに、相手を信じ、『人』への寛容が成り立っているのです。
 たとえば、仏法が最高の教えであると、言い切る確信もない人には、そんな寛容を期待することなどできません。そこにあるのは、寛容ではなく、臆病な妥協でしかありません」
30  月氏(30)
 山本伸一の話を聞いていた日達上人が、感動した様子で語り始めた。
 「戸田先生も、悪に対しては厳格であり、徹底して戦われたが、人間的には本当に寛容でした。私は、戸田先生が笠原慈行を助けられた時に、その広大な慈悲に驚いたものです」
 笠原慈行は、戦時中、軍部政府に迎合し、「神本仏迹論」の邪義を唱えた、日蓮正宗の僧である。
 彼は、天照大神こそ本地で、釈迦如来は垂迹であるとし、また、天照大神は南無妙法蓮華経を世法的に日本に具現した至尊であり、そのことを哲学的に説いた仏が日蓮大聖人とする邪説を立てたのである。
 そして、この「神本仏迹論」をもって神国思想の時流に便乗し、政府が国家総動員の体制づくりのために打ち出した、日蓮宗各派との合同を推進していった。まさに、獅子身中の虫となって、正法を破壊しようとした悪侶である。
 更に、笠原は、大石寺を不敬罪で告訴するなど暗躍を重ねた。これによって、当局は、実際に、果敢に折伏を進めている学会に狙いを定め、牧口常三郎、戸田城聖ら学会の幹部の逮捕に踏み切ることになる。それが、牧口会長の獄死という、大弾圧をもたらしたのである。
 戦後、戸田城聖が会長に就任した翌年の一九五二年(昭和二十七年)四月、僧籍を奪されたはずの笠原が総本山にいることを知った学会の青年部は、笠原に「神本仏迹論」が邪義であることを認め、牧口会長の墓前で謝罪するよう要求した。総本山で行われた、宗旨建立七百年の記念慶祝大法会の登山の折のことであった。
 笠原は、青年たちの追及にあい、ひとたびは罪を認め、謝罪状を書いた。しかし、すぐに言を翻し、謝罪は暴行、脅迫によるものだと、事実を歪曲して主張したのである。
 この時、日蓮正宗の宗会は、非は学会にあるとし、会長である戸田城聖に、謝罪状の提出、大講頭の罷免、そして、登山停止の三項目の処分を求めるという、不当極まる決議をしている。
 また、笠原は戸田を告訴した。戸田は静岡県の吉原署に、一晩、留置され、事情聴取のための取り調べを受けねばならなかった。
 日昇上人は、笠原に誡告文を出したが、笠原は、かえって上人を告訴すると言い出す始末であった。
 この時、笠原の説得に当たり、更に、彼が住職を務める寺の檀信徒とも会い、指導したのが、当時、庶務部長の日達上人であった。
31  月氏(31)
 日達上人から、笠原事件の真相を初めて聞いた檀信徒は、自分たちが笠原慈行に騙されていたことを知ったのである。
 彼らは憤り、笠原を面責した。頼みの綱である檀信徒にも離反され、孤立した彼は、事ここに至って、初めて自らの非を認め、陳謝の意を表した。
 彼は懺悔と滅罪の生活に入り、いっさいの公職につかないことが確約された。
 戦後に至って、再び笠原によって宗門が撹乱されたのは、もともと宗門のあいまいな対応のためである。悪の根を本当に断とうとせず、中途半端に容認してきたところに、その要因があった。
 徹底した戦いなくしては、邪悪を粉砕することなどできない。
 戸田城聖は、決して笠原の邪義を許さなかった。それをあいまいにしておけば、永遠に禍根を残すことになるとの判断からである。そして、ここに、ようやく、笠原の邪義の根は断たれたのである。
 その後、さすがに笠原も改悛の情を見せ始めた。しかし、正法破壊の罪のゆえか、それから一年後に、彼は利殖金融詐欺にあい、生活もままならぬほどの窮状に陥ってしまった。
 それを知った戸田は、なんと、笠原に見舞金を贈るとともに、男子部に援助を提案したのだ。
 これを受けて、男子部の有志が金を出し合い、山本伸一が代表して、支援金を笠原に届けたのである。
 笠原は、それによって窮地を脱することができた。戸田にしてみれば、彼は恩師牧口の死の原因となった人物である。いな、戸田自身、彼の暗躍によって、二年間にわたる獄中生活の辛酸をなめた。また、学会はほぼ壊滅状態に追い込まれたのだ。
 慈悲を口にすることは容易である。しかし、憎んでも憎み足りない相手に、慈悲を施すことは至難であろう。だが、戸田は、仏法の大慈大悲をもって、笠原をも、寛容の腕で温かく包んだのである。
 アショカの石柱の下での語らいは、仏法の深い哲理を学ぶ、有意義なひとときとなった。
 山本伸一は、つぶやくように言った。
 「仏法の慈悲の精神は、このアショカ大王に受け継がれただけでなく、時を超えて、ガンジー、ネルーにも流れているように思う。そこに、インドの大地を潤す、偉大なる一本の精神の水脈があるのではないだろうか」
 真っ赤な夕日が、大地を包むように燃えていた。
32  月氏(32)
 翌二月二日は、かつて、ムガル朝の首都が置かれたアグラを視察することになっていた。
 朝六時に空港へ行ったが、飛行機は定刻の午前七時になっても、飛び立たなかった。アグラに靄が出ているためだという。
 既に、この頃になると、誰もそんなことには、驚かなくなっていた。飛行機が出発したのは、午前九時四十五分であった。
 アグラでは、タージ・マハルやアグラ城などを見学した。
 このタージ・マハルも、デリーのジャマー・マスジッド、デリー城を造営した、ムガル朝の第五代皇帝シャー・ジャハーンが建てたものだ。
 皇帝は、妃を深く愛し、十四人の子をもうけたが、遠征中の一六三一年、その妃が産褥熱のために他界してしまう。妃への思いを込めて、皇帝がとして造らせたのが、このタージ・マハルである。
 膨大な大理石と赤砂岩、そして、世界各地から集めた貴石を材料に、完成までに二十二年の歳月を費やしたといわれる。
 の基壇は高さ約五・五メートル、約九十五メートル四方で、四隅に尖塔がそびえている。その中央に、大ドームを載せた、約五十七メートル四方の本体がある。この大ドームは直径約十八メートルで、頂までの高さは実に約五十八メートルに及ぶという。
 緑の芝生の向こうに、青い空を背景に立つ、左右対称の白亜の建物は、絢爛豪華という以外にない。
 このをアグラ城から見ると、ヤムナー川に浮かんでいるように見える。皇帝が愛妻のを、いつもよく眺められるように、その位置に造ったといわれる。
 タージ・マハルの庭を歩きながら、日達上人が山本伸一に語りかけた。
 「昨日のジャマー・マスジッドも、また、このタージ・マハルにしても、立派で大きな建物ですね。日本とはスケールが違う。まさか、これほどとは思いませんでしたよ」
 「確かに豪華で、立派ですね。しかし、強大な権力をもっての造営です。そこには、人々の苦役という犠牲があります。私は、どうしても、その民衆の苦しみを考えてしまうんです。すると、この絢爛豪華な建物も色褪せて見えます。
 私たちが、これから総本山に造ろうとしている大客殿は、権力によるのではなく、民衆の力によるものです。一人一人が喜びと誇りをもって、建設のための御供養に参加しようとしています。だから、最も尊いのではないでしょうか」
33  月氏(33)
 太陽の光に輝く白亜のタージ・マハルが池に映り、それが、微風の立てるさざ波に、静かに揺れていた。
 日達上人が、微笑んで、山本伸一に言った。
 「確かにその通りです。権力というものは、いつかは必ず滅んでいる。ムガル帝国も、ほぼインド全域に勢力を広げましたが、最後は滅んでいます。
 でも、イスラム教という宗教は、今もこのインドに生き続けている」
 「やはり、深く民衆の心に根差したからであると思います。結局、民衆とともに進むなかに、仏法の永遠の栄えがあるのではないでしょうか」
 「そうです。本当にそうです。私は、そこに学会の強さもあると見ています。
 今、私は五十八歳になりますが、山本先生が私の年になるころには、学会も、宗門も、広宣流布も、どのように発展しているかと思うと、本当に楽しみです」
 日達上人と伸一の語らいは尽きなかった。この天地が興亡盛衰の歴史の舞台であったことから、二人の話は、自然に未来への展望と決意となって、弾んだのであろうか。
 一行が、アグラを後にしたのは、夕刻のことであった。帰途は車で、デリーに向かった。
 車窓には果てしない大平原が広がっていた。
 夕日が雲を七彩に染め、やがて、紅のベールで大地を包んだ。そして、夜の帳がおりると、闇に包まれていった。そのなかに、車のヘッドライトだけが、光を投げかけていた。
 デリーには、午後の九時過ぎに到着した。それから夕食をとった後、翌日のパトナへの移動のための準備をした。
 翌三日、一行は午前六時にホテルを発って、デリーの空港に向かった。
 飛行機は七時半に飛び立ったが、途中、ラクノウ、アラハバード、ベナレスと経由し、パトナに着いたのは午後一時であった。
 空港では、カルカッタにいる日本人のメンバーが、迎えてくれた。
 パトナは、ガンジスの河畔に発達したビハール州の州都である。古くは摩訶陀(マガダ)の国王・阿闍世(アジャータサットゥ)がこの地に城を築いたとされ、後のアショカ大王も、ここを都としていた。
 伸一たちは、ホテルに向かい、午後三時過ぎから、ガンジス川に出掛けた。
 河畔に下りると、いくつも木が組み上げられ、火が焚かれていた。その周囲には、それぞれ十人ほどの人がたたずんでいる。
 ここで、火葬しているのである。
34  月氏(34)
 ガンジス川を、インドの人々は「ガンガー」という女神の名前で呼ぶ。そこには、ガンジスへの憧れと敬いの心が込められていた。
 ガンジスには、こんな神話が伝えられている。
 ──昔、祖先の魂を救うために修行に励んだ王がいた。祖先の魂を救うには、天上の女神であるガンガー(ガンジス川)を地上に導き、その水で遺灰を清めなくてはならなかった。
 王は、長い苦行の末、その功徳で、ガンガーを地上に降下させる許可を得た。
 しかし、ガンガーが一度に水を流せば、地上は大洪水になってしまう。
 そこで、ヒマラヤに座すシヴァ神が、自分の頭髪でガンガーの流す水を受け、それを七つの川に分けて、下界に流すことになった。
 そのなかの一つが、聖なるガンジスの流れであるという。
 また、ヒンズー教徒は、このガンジスで沐浴し、ここで生涯を終え、遺灰をこの川に撒いてもらうことが、願いであるという。
 母なるガンジスは、静かに流れ、火葬の炎を水面に映し出していた。
 山本伸一は、燃え盛る火に向かって合掌し、冥福を祈り、題目を唱えた。
 この季節のガンジスは、乾期のために水量が少ないというが、それでも川幅は果てしなく広く、対岸は遠く霞んでいた。
 「静かな流れだね」
 伸一が言った。
 皆が頷くと、彼は、ゆっくりと言葉をついだ。
 「大河は、静かに悠然と流れる。つまり、静けさとは深さであり、豊かさ、大きさといえる。その流れは大平原を潤し、人々に恵みをもたらす。
 学会は、まだ今は、渓流の時代だが、やがて、大河の時代に入る。
 渓流は谷を駆け、巌にぶつかり、激しく水飛沫を上げて進まねばならないが、その試練を乗り越えて、本当の大河となっていく。今は、ともかく力の限り走ることだ。
 動いた分だけ流れが開かれる。ただまっしぐらに、突き進んでいくのが青年の気概です」
 伸一は、それから森川一正と秋月英介に言った。
 「いよいよ明日はブッダガヤに行く。『三大秘法抄』(三大秘法禀承事)を埋納し、東洋広布の道標を、未来に打ち立てます。その瞬間を、百七十万世帯の同志が祈り、待っている。
 東洋広布は戸田先生の御遺言です。その実現が、師匠の正義を証明し、先生を顕彰することになる。明日は弟子としての誓願の日です。皆で大成功させよう」
 伸一の瞳は、決意に燃えていた。
35  月氏(35)
 夜が明けた。
 東洋広布の歴史に、永遠の光を放つ、「埋納の日」の朝が訪れた。
 一九六一年(昭和三十六年)二月四日。
 午前七時、先発隊として関久男、森川一正、秋月英介、三川健司の四人が、チャーターした車で、ブッダガヤに出発した。車には、埋納品をはじめ、その他の器材が積み込まれていた。
 彼らの今日の最初の仕事は、まずガヤで、ブッダガヤの管理委員会の委員長を訪ね、埋納の許可をもらうことであった。
 道路は、舗装されていないところが多く、車は揺れに揺れたが、皆、一様に押し黙っていた。
 これまで、事前に埋納の許可を得ようと奔走してきたが、それは当日に持ち越されてしまった。もはや失敗は許されない。そう思うと、いやがうえにも、緊張が高まるのである。
 森川一正が不安な顔で、ポツリと漏らした。
 「もし、管理委員会の許可が取れなかったら、どこに埋めればいいんでしょうかね」
 誰もが同じことを考えていたようだ。
 年長の関久男が答えた。
 「ブッダガヤに埋納できなかったら、意義からいえば霊鷲山の辺りだろうな」
 そこで、秋月英介が提案した。
 「途中、霊鷲山の近くを通るはずだから、念のために、どこに埋めればよいかを考えておこうよ」
 パトナを発って三時間ほどしたころ、岩山が見えてきた。霊鷲山らしい。
 「秋月青年部長、だめです。ここには埋められませんよ」
 言ったのは、通訳の三川健司であった。
 「ほら、立札が立っているでしょう。″この辺り一帯は国宝地域なので、一木一草たりとも、取ったり、壊したりしてはならない。もし、これを破れば刑罰に処す″と書いてあるんですよ。こんなところに、勝手に埋めたら、大変なことになってしまいますよ」
 誰も返事はしなかった。重い沈黙が流れた。皆、追い詰められたような気持ちだった。是が非でも、管理委員会の許可をもらって、ブッダガヤに埋納する以外に道はないのだ。
 しかし、委員長が必ずしも、いるとは限らない。もし、旅行でもしていたら、何日も待たされることになる。また、委員長に会えたとしても、断られるかもしれないのだ。いずれにしても、すぐに許可がもらえなければ、いっさいの計画は狂ってしまうことになる。
36  月氏(36)
 正午前、車はガヤの町に着いた。デリーで聞いた住所を頼りに、ブッダガヤの管理委員会を探した。
 ほどなく、管理委員会の事務所は見つかった。白い平屋建ての建物だった。
 入り口にいた男性に、関久男が名刺を出し、三川健司が委員長に面会したい旨を英語で告げた。委員長は執務中らしい。
 案内されたのは、きれいに花が植えられた庭であった。そこに机とイスを出して執務している堂々たる体のインド人がいた。その人が管理委員会の委員長であった。
 委員長はにこやかに一行を迎えた。自己紹介がすんだところで、三川が訪問の目的を告げた。
 「私たちは創価学会という最高の仏教を信奉する団体です。このたび宗教的儀式として、釈尊が成道した聖地であるブッダガヤに、日本から持ってきました石碑などを埋めることになり、そのための許可をいただきにまいりました」
 皆、委員長の答えを、固唾を飲んで待った。
 彼は、おもむろに口を開いた。
 「ここは暑いから、部屋の方へ行きましょう」
 一瞬、拍子抜けしてしまった。
 部屋に通された一行は、埋納するケースと東洋広布の石碑を見せ、更に、ケースの中身を撮影した写真を提示した。
 「埋納するものは、これだけです。東洋の平和と幸福を祈念する品々です」
 三川が説明した。
 皆、緊張して管理委員会の委員長の顔を見つめた。
 委員長は、おだやかな口調で言った。
 「わかりました。埋納に同意いたします」
 その瞬間、森川一正は、喜びというより、全身からフーッと、力が抜けていくような気がした。
 委員長が、大きな目を見開いて、話しかけた。
 「しかし、大切なものを埋めてしまっては、誰も見ることができなくなってしまいます。むしろ、ブッダガヤの寺院に納めて、保管してもらっては、どうでしょうか」
 三川が通訳すると、森川が慌てて答えた。
 「いいえ、結構です。とんでもございません。埋めさせていただければ十分です。埋納は日本で既に決めてきたことですから、変えるわけにはいきません。埋納にいたします」
 「そうですか。わかりました」
 委員長は係官を呼ぶと、一行の案内をするように指示してくれた。
37  月氏(37)
 一行は、管理委員会の委員長の厚意に、心から感謝した。
 関久男が、用意してきた学会紹介書の『ザ・ソウカガッカイ』を、委員長に贈り、謝意を述べた。
 「私たちは、あなたのご厚意を永遠に忘れません。ありがとうございます」
 関が手を差し出すと、委員長は、その手を強く握り締めた。
 「私も、日本の方とお会いできて、本当に嬉しく思っています。
 もし、あなた方の来訪が事前にわかっていたら、もっと十分な準備と協力ができたと思います。
 去年、日本の皇太子と美智子妃がこのブッダガヤに来られた折、私がご夫妻をご案内したのです」
 委員長はこう言って、机の中から、その時の写真を取り出して見せてくれた。
 一行は、委員長と一緒に「東洋広布」の石碑を囲んで、記念写真に納まった。
 それから係官の案内で、釈尊成道の地ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)に向かった。ガヤからブッダガヤまでは、十キロメートルほどの道程であった。
 難問を解決した一行の心は、軽やかだった。車窓の景色も一段と明るく、輝いて見えた。
 彼方には、なだらかな起伏の丘が連なり、緑の茂みが広がっていた。
 道路の並木の間には、土でつくった家が点在し、その壁には、牛フンを乾燥させて燃料にするため、円形に延ばして並べてあった。
 そんな昔ながらの暮らしぶりが、牧歌的で微笑ましかった。
 しばらく行くと、樹林のなかに、真昼の太陽を浴びた大塔が輝き、天を突き刺すかのようにそびえ立っていた。大菩提寺である。
 一行は、大菩提寺の前で車を降りた。境内に一歩足を踏み入れると、大塔の大きさに圧倒された。方錐形の大塔の高さは、約五十メートルもあるという。
 この塔の原型は、紀元前三世紀、ここを訪れたアショカ大王の時代に建てられたといわれる。
 しかし、その後、崩壊して再建され、何度か拡張されたり、改修が加えられ、今日にいたっている。
 境内は、随所に色とりどりの花が植えられ、よく管理が行き届いていた。
 一行はここで、係官から大菩提寺の管理責任者である総監督を紹介された。
 日本人によく似た顔立ちの、白衣を身に着けた三十歳前後の男性だった。
 総監督は、にこやかに一行を迎えてくれた。
38  月氏(38)
 森川一正は、通訳を介して、総監督に訪問の目的を告げた。
 「私たちは、この寺の周辺のよき地を選んで、記念の品を埋納したいのです」
 「わかりました。まず境内をご案内いたします」
 総監督の案内で、一行は境内を一巡した。石の囲いを巡らした大きな菩提樹の下が、釈尊が成道した所であるという。
 埋納場所は、日達上人と山本伸一を中心に日本で検討し、大菩提寺(マハーボーディ・テンプル)の丑寅(北東)の方向と決めていた。その方向には霊鷲山、更に日本があるからである。
 一行が、場所を選定するため、寺の外に出ようとすると、総監督が言った。
 「埋めるのは寺のなかでも構いません。ここは管理もしっかりしているし、聖地ですので、誰も掘り出したりするものはおりませんから」
 嬉しい配慮だった。
 彼らは境内を、もう一度見て歩き、丑寅の方向にあるレンガ塀の角を、埋納場所に選んだ。
 それから埋納の儀式で使用する線香やロウソクなどを購入し、埋納用の穴を掘ってもらう作業者を手配するなど、準備を急いだ。
 一方、伸一は、午前九時過ぎに、日達上人とともにパトナのホテルを出発していた。彼は車中、この儀式が滞りなく行われるように唱題し続けていた。
 伸一たちが大菩提寺に到着したのは、午後二時半過ぎであった。
 彼が車を降りると、森川が駆け寄って来て、経過を報告した。
 「それはよかった。ありがたい」
 伸一と日達上人は、埋納の場所を見た。
 「ここならいい。申し分のない場所ですね」
 日達上人も、微笑みながら言った。
 準備に入り、埋納場所の穴掘りが始まった。
 穴は五、六十センチメートル四方で、一メートルほどの深さに掘られた。
 いつの間にか、塀の周囲には人だかりができ、皆、もの珍しそうに準備を見入っていた。
 その前にイスを並べ、テーブルの上に線香とロウソクが用意された。そして、掘られた穴の傍らに、「東洋広布」の石碑と「三大秘法抄」などを入れた、ステンレスケースが置かれた。
 準備は完了した。
 伸一は、そびえ立つ大塔を仰いだ。青い空に、白い雲がまばゆく映えていた。
 彼は、この空の上から、恩師戸田城聖が、じっと見守ってくれているように思えた。
39  月氏(39)
 午後三時三十分。
 日達上人の導師で、唱題が始まった。埋納の儀の開始である。
 日蓮大聖人の立教開宗から七百余年、その太陽の仏法が、今まさに月氏を照らし、東洋広布の未来への道標が打ち立てられる瞬間であった。
 初めに山本伸一が「東洋広布」の石碑を手にした。
 彼は、石碑の表を、北東の霊鷲山、日本の方角に向けて、地中に納めた。
 続いて、「三大秘法抄」などを納めたステンレスケースが埋納された。
 そして、日達上人、山本伸一、同行のメンバーの順に、クワで土がかけられていった。
 埋納が終わると、その上に用意しておいた板が立てられ、そこに御本尊を奉掲し、読経が始まった。
 方便品に続いて、寿量品に入った。
 「一切世間。天人及。阿脩羅。皆謂今釋牟尼佛。出釋氏宮。去伽耶城不遠。座於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。我實成佛已來。無量無邊。百千萬億。由佗劫……」
 (一切世間の天人、及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏、釈迦氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に座して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり)
 このブッダガヤの地での釈尊の成道は仮の姿であるとして、仏の生命の永遠が明かされていく個所である。
 その法華経の本門寿量品の文底に秘沈された、南無妙法蓮華経という末法の大法が、月氏に還ったのだ。いよいよ、その大法が旭日となって、東洋を照らし出していくのである。
 寿量品の長行に続いて、一閻浮提広宣流布を祈念する「願文」を、日達上人が朗読していった。
 「……虔みて宗祖日蓮大聖人御聖教三大秘法抄一巻と並に法華経要品一冊及び記念品として 大石寺域の土を以て焼ける湯呑一個を 今此の伽耶城の霊跡に納め奉る
 其の意趣如何となれば 夫れ此の地は大聖釈尊始成正覚の妙域なり 法華経を説きて近成を破し久成を立つると雖も畢竟して釈尊は是れ五百塵点本果脱益の教主なり されば即ち霊山虚空会 法華経神力品の時地涌の大士上行菩薩に寿量文底三秘の大法を付嘱して云く日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く 斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅すと云々……」
 その声は、厳かに辺りに響いた。
40  月氏(40)
 日達上人の「願文」の朗読が続いた。
 「茲に於て上行の再誕宗祖日蓮大聖人 本地は久遠元初自受用身 本因下種の本仏として末法日本国に出現し給ひ 三秘の大法を以て普く一切の衆生を利益し給ふ
 是等の仔細則ち此の三大秘法抄に顕然なり 然らば本因下種の仏法閻浮に流るべきこと必定なりと云ふべし……」
 「願文」は、あの「諫暁八幡抄」の仏法西還を予言した御文をあげ、次のように結ばれていた。
 「……この地月氏国印度に到り 東洋広布の魁をなせり 門葉緇素の感激之に過ぐるものあらず
 願くは本仏日蓮大聖人 我等が微意を哀愍せられ 一閻浮提広宣流布の大願を成就なさしめ給はんことを
 一九六一年 日本国昭和三十六年二月四日……」
 再び読経に移り、自我偈を読誦し、題目に入った。
 月氏の天地に、朗々たる唱題の声が響き渡った。
 山本伸一は、東洋の民衆の平和と幸福を誓い念じながら、深い祈りを捧げた。
 埋納の儀式は、やがて、滞りなく終わった。
 その時、儀式を見ていた一人の見物人が、伸一たちの方に、静かに歩み寄って来た。チュパと呼ばれるチベットの民族衣装を身にまとい、頭にターバンに似た布を巻いた老人であった。
 老人は、てのひらに花びらを捧げ持ち、一行の前まで来ると、深く頭を垂れ、それを大地に散らし、手を合わせた。予期せぬ散華の儀式となったのである。
 今ここに、仏法西還の先駆けの金字塔が打ち立てられた。
 伸一は、戸田城聖を思い浮かべた。彼の胸には、恩師のあの和歌がこだましていた。
  雲の井に
    月こそ見んと
       願いてし
  アジアの民に
     日をぞ送らん
 この歌さながらに、空には太陽が輝き、そびえ立つ大塔を照らし出していた。
 彼は、恩師への東洋広布の誓願を果たす、第一歩を踏み出したのである。
 アジアに広宣流布という真実の幸福と平和が訪れ、埋納した品々を掘り出す日がいつになるのかは、伸一にも測りかねた。
 しかし、それはひとえに彼の双肩にかかっていた。
 ″私はやる。断じてやる。私が道半ばに倒れるならば、わが分身たる青年に託す。出でよ! 幾万、幾十万の山本伸一よ″
 月氏の太陽を仰ぎながら彼は心で叫んだ。

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