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日蓮大聖人・池田大作

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第3巻 「仏法西還」 仏法西還

小説「新・人間革命」

前後
1  仏法西還(1)
 「時」は来た!
 待ちに待った、悠久の歴史の夜は明け、遂に船出の太陽は昇った。
 帆を上げよう。好機は一瞬にして過ぎ去り、再び帰ることはない。
  元朝に
    祈るアジアの
       広布かな
 会長山本伸一のアジアへの旅立ちとなる、一九六一年(昭和三十六年)「躍進の年」の元旦、彼は自宅でこう認め、妻の峯子に贈った。
 元日の東京は、朝から青空が広がり、街は、新春の光に包まれていた。
 午前十時、学会本部の広間では、伸一を導師に初勤行が始まった。
 広間を埋め尽くした同志の声が、一つに唱和し、力強く、すがすがしい音律が広がった。
 伸一は、大宇宙と冥合しゆく自身を感じながら、この一年の広宣流布の大勝利と、全会員の健康と一家の繁栄を念じ、真剣な祈りを捧げた。
 勤行が終わると、彼は新年のあいさつに立った。
 窓には、太陽の光が降り注ぎ、参加者の顔を明々と照らし出していた。
 彼は、厳粛な表情で、一言一言み締めるように、力を込めて語り始めた。
 「ただいま、皆様とともに、勤行いたしました御本尊様は、昭和二十六年(一九五一年)五月三日に恩師戸田城聖先生が会長に就任され、人類の救済への決意をもって立ち上がられて間もなく、日昇上人より授与された、創価学会常住の御本尊様であります。
 この御本尊の脇書には、『大法弘通慈折広宣流布大願成就』とお認めでございますが、ここに学会の使命は明白であります。
 私どもの目的は、どこまでも、人類の平和と幸福のために、広宣流布を実現していくことです。事実、この七百年の間に、日蓮大聖人の御遺命のままに、広宣流布を現実に成し遂げてきたのは、創価学会だけであります。
 その使命を果たしゆくには、まず皆様方ご自身が、物心ともに幸せになりきっていくとともに、友の幸福を願う、強き慈愛の心を持たねばなりません。人々の幸福を祈り、願う心こそ、学会の精神であります。
 戸田先生は『一家和楽の信心』『各人が幸福をつかむ信心』『難を乗り越える信心』の三つを、学会の指針として示されましたが、そこに広宣流布の道があります。
 どうか幹部の皆さんは、この指針を深く胸に刻んで、全同志の幸福のために献身しゆく一年であっていただきたいと思います」
2  仏法西還(2)
 山本伸一は簡潔に話を終えた。
 それから、戸田城聖をしのび、代表の人が、恩師の和歌を朗詠した。
  雲の井に
    月こそ見んと
       願いてし
  アジアの民に
     日をぞ送らん
 この和歌を聞くと、伸一の心は躍った。それは、一九五六年(昭和三十一年)の年頭に、戸田が詠んだ懐かしい和歌であった。
 ──雲のもれ間に、ほのかな幸の月光を見ようと願うアジアの民衆に、それよりも遙かに明るく、まばゆい太陽の光を送ろう、との意味である。
 ここでいう「月」とは釈尊の仏法であり、「日」とは日蓮大聖人の仏法を指すことはいうまでもない。
 戸田は、「諫暁八幡抄」などに示された、大聖人の仏法西還の大原理をふまえ、東洋広布への決意を詠んだのである。この戸田の決意は、そのまま、愛弟子である伸一の決意であった。
 そして、今、伸一は、その実現のために、この一月には、インドをはじめとするアジアの地に、東洋広布の第一歩を印そうとしていたのである。
 更に、この後、「躍進の年」の新出発の決意を込めて、全員で「躍進の歌」を合唱した。
 一、恩師の御旨を
      しっかと抱き
   やるぞ やろうぞ
       広宣流布を
   波が騒げば
        血は躍る
   日本男児は
       意気でゆく
       意気でゆく
 この歌は、「中国健児の歌」として、中国総支部の友に愛唱されてきた。
 前年の十二月、岡山の中国本部の落成入仏式に出席した伸一は、この歌を聴くと、直ちに提案した。
 「力強い歌だ。率直な表現のなかに、広宣流布への心意気があふれている。全国で歌っていくようにしてはどうだろうか」
 総支部長の岡田一哲をはじめ、中国の同志は、手を取り合って喜んだ。
 伸一は、更に皆に同意を求めた。
 「しかし、『中国健児の歌』では、ほかの地域の人が抵抗を感じると思う。そこで、来年は『躍進の年』でもあるし、『躍進の歌』にしてはどうか」
 皆、賛同した。そして、十二月度の本部幹部会で、正式に「躍進の歌」として発表されたのである。
3  仏法西還(3)
 「躍進の歌」の大合唱をもって、午前十一時過ぎ、初勤行は終了した。
 山本伸一は立ち上がり、退場しようとしたが、足を止めて、もう一度、皆に向かって言った。
 「昨年は、皆さんの大奮闘で、大勝利を飾ることができましたが、本当の勝負はこれからです。今年は、『勝って兜の緒を締めよ』を合言葉とし、胸に刻んで進みたいと思います」
 「はい!」という、明るい元気な声が響いた。
 「力の限り、戦いましょう! 私は、この一年で百年分の歴史をつくります」
 気迫にあふれた言葉であった。
 参加者は、会長山本伸一の並々ならぬ決意を感じとった。
 二日の朝、伸一は総本山に向かった。翌三日にかけて、全国の支部幹部以上の幹部が登山することになっていたのである。
 ちょうど、この年から、月例登山会の日が増え、毎月、二十日間にわたって、登山が実施されることになった。二日は、その新たな月例登山会の、最初の日でもあった。
 登山会は、前年の八月までは、毎週、土曜から月曜にかけて、一泊と日帰りで行われていた。しかし、会員の増加にともない、参加希望者も増し、前年の九月からは、火曜にも登山を実施した。だが、それでも、まだ、間に合わず、新年から、月に二十日間としたのである。
 この月例登山会の期間中、総本山には、一泊と日帰りの登山者を合わせ、一日約六千人が、北は北海道、南は九州からやって来ることになる。
 一日の夜、山本伸一は床に就いても、なかなか眠れなかった。まどろんでも、すぐに目が覚めた。夜中も登山者の乗った列車やバスが運行し続けていると思うと、眠ることができないのである。彼は、目覚めるたびに、無事故を念じて、心で唱題するのだった。
 二日の正午前、伸一は総本山に到着した。
 大御本尊に参拝した後、彼は、胸を高鳴らせて、戸田城聖の墓に詣でた。
 墓前に立ち、合掌しながら、彼は万感の思いで語りかけた。
 ″先生! 伸一は、この二十八日に、先生のご遺言である東洋広布の旅に、いよいよ出発いたします。先生に代わって、アジアの民に幸福の光を送り続けてまいります……″
 彼の胸には、東洋の民衆を思い続けた恩師の顔が、鮮烈に浮かんでいた。
4  仏法西還(4)
 二日の夕刻からは、理事会が開かれ、続いて御書講義、青年部の指導会などが行われた。翌三日には、全国の支部幹部が一堂に会して、全国幹部会が開催されることになっていた。
 このうち、二日の理事会では、青年部の最高幹部である秋月英介と吉川雄助の二人が、新たに理事に就任することが理事室全員の賛成で決定。三日の全国幹部会で、山本伸一会長から発表された。これによって理事室は、会長を含め、二十三人の陣容となった。
 彼らを理事に推薦したのは山本伸一であった。組織の発展のためには、常にマンネリの古い殻を打ち破る斬新な発想と、みずみずしいエネルギーが必要だ。そして、それは若い力に期待する以外にない。
 伸一は、新しき創価の時代を開くために、青年たちが一日も早く、学会のいっさいの責任を担い立つことを願っていた。総本山にあっても、彼は青年たちと語る機会を持ち、生命を削る思いで育成にあたった。
 その懇談の折、水戸の女子部のリーダーが、思い詰めた顔で、伸一に言った。右足の不自由な中川正子という女性であった。
 「先生、私は、どうしても、ほかの人のようには活動することができません。自分なりに精いっぱいやって来ましたが、思うような成果を収めることもできませんでした。やはり、私が支部の中心となって活動するのは、無理ではないかと思います……」
 彼女は三歳の時に丹毒に罹り、右足を膝から切断していた。伸一は前年の九月、水戸支部の誕生にあたって、その中川を女子部の中心者に任命した。中川に一途な信心の姿勢を感じたからである。また、彼女には妹がいて、何かにつけ、よき補佐役として応援してくれていることも考慮してのことであった。
 人事の面接の際、伸一は、こう指導した。
 「体が不自由だからといって、決して退いてはいけない。勝利の力は決定した一念にある。また、知恵を働かせることです。妹さんにも応援してもらい、姉妹で力を合わせ、車の両輪のように頑張ることです」
 それから三カ月余が過ぎていた。
 足の不自由な中川にとって、女子部の中心幹部として活動することが、いかに大変かを、伸一は十分に承知していた。
 彼はこの時、中川を称え、庇い、休ませてやりたいとさえ思ったが、あえて厳しい口調で言った。
 「それでは、まるで任命した方が悪いみたいではないか!」
5  仏法西還(5)
 山本伸一は、中川正子を鋭く見つめて言った。
 「女子部の幹部として、あまりにも情けない。私はそんな弱虫は嫌いだ!」
 こう言ったきり、伸一は何も答えず、次の質問に移った。
 彼女は呆然としていた。中川にしてみれば、悩み抜いた末の相談だった。
 メンバーの家庭指導にしても、ほかの幹部は一日に何軒も回っているのに、彼女の場合は、一、二軒が精いっぱいだった。そんな自分が女子部のリーダーでよいのかという疑問に、彼女はさいなまれ続けてきた。
 また、女子部員の折伏の応援に出掛けても、不自由な足に、無遠慮な冷たい視線を浴びせられることが少なくなかった。彼女は、いつも、そのまなざしに、蔑みの色を感じとった。そして、自分が中心者でいることによって、学会に対する周囲の評価を、低いものにしているように思えてならなかったのである。
 だが、伸一の指導は、意外なほど厳しかった。中川は、自分の考えの、どこが間違っているのか、わからなかった。ただ「弱虫」という言葉だけが、鋭く突き刺さり、いつまでも頭の中にこだましていた。
 伸一は、彼女の気持ちが痛いほどよくわかった。しかし、単なる感傷や同情は、彼女にとって、なんのプラスにもならないことを、彼は知り抜いていた。
 中川に必要なものは、人間としての強さである。彼女は、これからも、体が不自由であることで、差別や偏見にさらされることもあるだろう。現実は決して甘いものではない。
 そのたびごとに、自らが傷つき、卑屈になってしまえば、人生の勝利はない。その自分の生命を磨き、強め、弱さを克服していくのが信仰である。
 仏法は平等だ。体が不自由であっても、人間として無限の輝きを放ち、最高の幸福境涯を開くことができる。それを実証するための彼女の戦いであるはずだ。
 それゆえに伸一は、中川が、何があっても負けない強さを身につけるために、あえて厳しく訓練しようとしていたのである。
 伸一の鍛錬とは、その人の力を引き出すとともに、それぞれの生命に潜む不幸の″一凶″を断つ、精神の格闘にほかならなかった。
 彼は、懇談会が終了した後も、中川のことを考え続けた。伸一は、彼女ならばあの指導の意味を理解し、必ず、新しい挑戦を開始するだろうと信じていた。彼の厳しさは、信頼に裏打ちされていたのである。
6  仏法西還(6)
 青年たちは、会長山本伸一を、仏法と人生の師として慕い、集って来ている。
 ゆえに、伸一は、皆の生命を錬磨し、崩れざる幸福境涯へと導くために、時として厳しい指導もした。
 それは、一念を凝縮して相手のことを考えに考えた末の、厳愛であった。言葉が厳しければ厳しいほど、彼の心には涙があふれた。
 青年たちも、それをよく知っていた。だから、どんなに叱られても、彼の指導を全身で受け止め、食らいつくようにして、伸一にぶつかってきた。それが師弟という信頼の絆に結ばれた世界の強さでもある。
 この会合が終わると、伸一は、茨城を担当してきた理事の鈴本実に語った。
 「私は、今日、あの女子部の幹部を叱ったが、彼女は、決して弱虫なんかじゃない。本当によくやっている。もう一歩、自分の殻を破れば、幸福の大道が開かれる。今は悲しみでいっぱいだろうが、やがて新たな気持ちで、地元に帰って、きっと頑張るはずだ。
 彼女は、誰よりも宿命と戦い、苦労を重ねてきている。それだけに人の苦しみがよくわかる、立派なリーダーになるだろう。大切な宝だ。君からも、よく激励してやってほしい」
 一方、中川正子は、宿坊に帰ると、泣きながら唱題した。すると、人事面接の折に、山本会長から、「決して退いてはいけない」と言われながら、役職を辞めたいなどと考えた自分の惰弱さに気づいた。
 ″私は、なんて弱虫なんだろう。自分に負けて、卑屈になっていた。先生はそれを見破られ、弱い心を打ち破ってくださった。……でも、先生は、怒っていらっしゃるにちがいない″
 そう思うと、いたたまれない気持ちになった。
 そこに、理事の鈴本がやって来た。彼は励ましの言葉をかけながら、伸一が語っていたことを漏らした。
 「先生は、あなたのことを″弱虫ではない。きっと頑張るはずだ″と期待されています。あなたの奮起を促そうとして、先生は、あえて、あのような指導をされたんです」
 鈴本の話に、中川は、閉ざされた心に、光が差し込む思いがした。彼女の顔に笑みが広がったが、その目には、また、大粒の涙があふれた。清らかな歓喜と誓いの涙であった。
 この日から、中川は感傷の淵から、決然と立ち上がった。
 伸一の青年たちへの訓練は、年の初めから、寸暇を惜しんで、真剣勝負で行われていたのである。
7  仏法西還(7)
 人生の戦いも、広布の活動も、すべては強き決意の一念によって決まる。
 敗北の原因も、障害や状況の厳しさにあるのではない。自己自身の一念の後退、挫折にこそある。
 山本伸一が会長に就任して以来、未曾有の弘教が成し遂げられてきた源泉も、彼の確固不動なる一念にあった。それは戸田城聖の弟子としての、誇り高き決定した一心であった。
 ″先生の構想は、必ず実現してみせる!″
 それが、伸一の原動力であり、彼の一念のすべてであったといってよい。
 伸一には、障害の険しさも、状況の難しさも、眼中になかった。困難は百も承知のうえで、起こした戦いである。困難といえば、すべてが困難であった。無理といえば、いっさいが無理であった。
 人間は、自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。
 そして、それが動かざる″現実″であると思い込んでしまう。
 実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。
 伸一は今、一人一人の一念の変革を成そうとしていた。人間革命といっても、そこに始まるからである。
 一月三日の朝、彼は総本山の未来の構想を思い描きながら、日達上人と境内を散策した。
 大化城の横を通りかかると、一本の杉の巨木が横たわっていた。
 上人が伸一に語った。
 「山本先生、この木は、伊勢湾台風の時にも微動だにしなかったのですが、木食虫に食い荒らされて、あえなく枯れ死してしまったんです」
 「そうですか。用心すべきは身中の虫ですね……組織も、個人も。常に、身中の敵、己心の賊と戦うことを忘れれば、そこからやられてしまいます。この杉は令法久住のための大事な戒めのように思います」
 日達上人は、笑いながら頷いた。
 この日、新年初の全国幹部会が行われた。
 伸一は、ここでも幹部自らの一念の変革を訴えた。勝利の太陽は、わが胸中にあり。臆病という、己心の敵を討て──と。
 更に、呼吸を合わせることの大切さを強調した。
 「組織の強さは、どこで決まるか。それは団結であり、幹部が呼吸を合わせていくことです。幹部同士の呼吸が合わない組織というのは、一人一人に力があっても、その力が拡散してしまうことになります」
8  仏法西還(8)
 「たとえば、会合で支部長が『学会活動をしっかりやって、功徳を受けていきましょう』と指導する。それに対して、隣にいる副支部長が『生活を離れて信心はない。仕事を一生懸命にしよう』と言えば、まとまる話も、まとまらなくなってしまう。
 あるいは、支部長が『わが支部は教学をしっかり勉強していきたい』と言った時に、『実践のない教学は観念です。折伏しなければ意味がない』と支部の婦人部長が言えば、聞いている人は、何をやればよいのかわからなくなってしまう。
 これは呼吸が合わない典型です。どの人の話も学会が指導してきたことではありますが、これでは、指導が″対立″して混乱をきたすことになる。
 これは、呼吸を合わせようとしないからです。呼吸が合えば、同じ趣旨の発言をしても、自然に言い方が違ってきます。
 たとえば、支部長が『教学をやりましょう』と言ったら、『そうしましょう。そして、実践の教学ですから、題目を唱え、折伏にも頑張っていきましょう』と言えば、聞いている人も迷うことはない。これは″対立″ではなくて、″補う″ことになります。
 野球でも、強いチームは巧みな連係プレーができます。一塁手が球を追えば、誰かが代わりに一塁に入っている。これも呼吸です。一塁を守るのは彼の仕事だから、自分には関係ないといって何もしなかったら、試合には勝てない。
 また、ランナーが出て、得点のチャンスとなれば、自分がアウトになっても、送りバントや犠牲フライを打つこともある。
 大切なのは、自分を中心に考えるのではなく、勝利という目的に向かい、呼吸を合わせていくことです。そこに、自分自身の見事なる成長もある。
 ともかく、今年もまた、鉄の団結をもって、未聞の凱歌の歴史を開いていこうではありませんか」
 幹部会終了後、伸一は、この一年の大勝利への誓いをとどめ、全参加者と記念のカメラに納まった。
 ここに、新しき躍進のエンジンは、轟音を響かせて回転を開始したのである。
 全国各地に散ってゆく友の顔は、闘志に燃え輝き、胸には革新の鼓動が脈打っていた。
9  仏法西還(9)
 まだ松の内の一月七日、山本伸一は、空路、大阪を経由し、福岡に向かった。
 九州は、十二月度の本部幹部会で、第一、第二、第三の三総支部に分割され、その合同の結成大会に出席するためであった。
 九州の三総支部結成大会は、八日、午前十一時二十分から、小倉の三萩野体育館で行われた。
 開会前から、会場には、「東洋広布の歌」の力強い歌声が響いていた。
  一、久遠の光 妙法の
    広宣流布の
        時来たる
    決然起ちて
        今ここに
    この大地をば
        踏みしめて
    東洋広布は
        我等の手で
 会長山本伸一のアジア指導に相呼応して、東洋に幸と平和の光を注がんとの決意を込めての、友の合唱であった。
 この歌は一九五四年(昭和二十九年)に九州の友の愛唱歌として誕生した。その後、東京の小岩支部でも愛唱されてきた歌である。
 歌が誕生したころ、九州の友のスローガンが「九州制覇は我等の手で」であったことから、当初、歌詞の最後の一節は「東洋広布」ではなく、「九州制覇」となっていた。そして、題名も、「九州制覇の歌」となっていたのである。
 「制覇」とは、いかにもものものしい、戦闘的な表現だが、そこには、全九州に妙法を広め、人々の幸福を実現しようとの、燃え立つばかりの意気が託されていた。
 ところが、五七年(同三十二年)の四月、第一回九州総会に出席した戸田城聖は、このスローガンを聞いて、こう語った。
 「さきほどから、『九州制覇は我等の手で』と言っているが、そんな了見の狭いことは言わん方がよいと思う。
 どうも九州には、自分のことにばかりこだわる傾向があるようだ。
 たとえば、九州では、よく『九州男児』というが、ほかの地域では、あまりそんな言い方はしない。『北海道男児』や『関東男児』『大阪男児』などというのは、聞いたことがない。
 この『九州制覇』というのも、自分たちのことしか考えないようで、スケールが小さい。どうせなら『東洋広布は我等の手で』と言ってほしいものだ」
 戸田のこの指導を契機にして、九州では、愛唱歌の歌詞も「東洋広布は我等の手で」と改め、歌の題名も「東洋広布の歌」としたという経緯があった。
10  仏法西還(10)
 古来、大陸と交流の深かった九州に、戸田城聖は、東洋広布への大きな期待を託していた。
 逝去の半年前、九州総支部の結成大会に出席した戸田は、アジアの実情について触れ、創価学会の使命を語り、こう話を結んだ。
 「願わくは、今日の意気と覇気とをもって、日本民衆を救うとともに、東洋の民衆を救ってもらいたい」
 それが、戸田の、九州での最後の指導となったのである。
  九州の同志は、戸田のその言葉を胸に刻んできた。それだけに、会長山本伸一のアジア訪問を、どこよりも喜び、この日の三総支部結成大会を、伸一とともに東洋の平和のための旅立ちの日にしようとしていた。
 伸一は、この席上、恩師をしのびつつ、アジア訪問について、語っていった。
 「私は、今月の二十八日から、日達上人とともに、インド及び東南アジアに行ってまいります。
 日達上人は、『三大秘法抄』(三大秘法禀承事)を書写され、これを釈尊の成道の地であるブッダガヤに、埋納することになっております。
 日蓮大聖人の独一本門の肝要である三大秘法について述べられた、この御書を埋納することは、真実の仏法がいよいよ日本から西還しゆく、先駆けの証であります。
 また、学会としては、三十センチメートル四方、厚さ五センチメートルの御影石に、私が書いた『東洋広布』の文字が刻まれた石碑などを埋納してくることになっております。これは恩師戸田先生が念願された、アジアの平和と幸福を成就する、弟子としての私の誓いであります」
 伸一は、この石碑の脇書の日付を、「立宗七百九年一月二十八日」とした。
 これをインドのブッダガヤに埋納する日は、二月四日の予定であったが、日付を出発の日にあたる一月二十八日にしたのは、日蓮大聖人の立教開宗の日が、建長五年(一二五三年)の四月の二十八日であったからである。
 このほかに、日達上人の一閻浮提広宣流布への願文、方便品・寿量品の勤行要典、総本山の土で焼いた湯飲み茶碗、また、東洋の平和実現のために戸田の具体的な指導を受けた水滸会員の寄せ書き、学会を代表して理事室らの署名の寄せ書きが、埋納されることになっていた。
 理事室の寄せ書きには、牧口常三郎と戸田城聖の名も記されていた。牧口の名は牧口門下の代表が、戸田の名は伸一が代筆したものであった。
11  仏法西還(11)
 「東洋広布」の石碑をはじめとする埋納品は、やがて、いつの日か、東洋の民衆の幸福と平和が実現された広宣流布の暁に、再び掘り出すことになっていた。
 いわば、未来の広宣流布への道標を打ち立てる儀式となるのが、この埋納であった。
 山本伸一は、場内を埋め尽くした同志に、烈々たる声で語っていった。
 「私は、戸田先生の弟子らしく、皆様方の先駆として、東洋の民衆の″幸福の橋″″平和の橋″を築いてまいる決意です。
 そして、私に続いて、その橋を渡る人こそ、『東洋広布は我等の手で』との自覚をもっておられる九州の皆さんであっていただきたいと、念願するものであります。
 アジアは、アフリカとともにAA諸国として、世界の未来の鍵を握っております。しかし、いずれも開発途上にあり、経済問題や民族問題など、深刻な課題をかかえております。
 また、東西両陣営の狭間にあって、その対立の構造が持ち込まれ、内戦に発展しかねない状況にある国もあります。そうしたアジアの友と、心と心を結び合い、生命と平和の哲学を分かち合うことは、同じ人間として、同胞としての務めでもあります。
 東洋広布とは、表現を変えれば、人間の尊厳を守り抜き、永遠の幸福と平和を創造するヒューマニズムの精神の種子を、アジアの人々の心に、植えゆくことにほかなりません。
 私たちの活躍の舞台は、日本だけでなく、アジア、世界であります。私どもはそうした大きな理想をいだきながら、そして、現実の大地をしっかりと踏み締めて、信心即生活の勝利者として、一歩一歩、足元を固めて前進してまいりたいと思います。そこに、偉大なる理想の実現につながる道があるからです。
 本年一年のますますの健闘と、麗しい人間の絆で結ばれた、仲のよい各総支部の建設をお願い申し上げ、私の話といたします」
 九州三総支部の結成大会の終了後、伸一は、九州の幹部と懇談会をもった。
 そこで、彼は提案した。
 「九州で誕生した『東洋広布の歌』を、全学会で愛唱し、東洋の平和の建設に邁進していきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 大拍手が起こった。
 「では、今月の二十七日の本部幹部会で、みんなにこの歌を紹介します」
 これによって、この歌は日本全国へ波動していくことになるのである。
12  仏法西還(12)
 今回の山本伸一のアジア訪問の目的は、日蓮大聖人の御予言である、″仏法西還″の第一歩を印し、東洋の幸福と恒久平和への道を開くことにあった。
 日蓮大聖人は、「諫暁八幡抄」に、次のように仰せである。
 「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり
 <月は、輝き始める位置を、一日ごとに西の空から東に移していく。これは、月氏、すなわちインドの釈尊の仏法が東へと流れていくしるしである。また、太陽は東から出る。これは日本の仏法、つまり、日蓮大聖人の仏法が月氏に還るという兆しである>
 この「諫暁八幡抄」のほか、「顕仏未来記」などにも、同様の趣旨の御文がある。いずれも、日蓮大聖人の仏法の西還を予言され、東洋、世界への広宣流布を示されたものである。
 戸田城聖は、その御聖訓の実現を、創価学会の使命として、伸一をはじめとする青年たちに託した。
 もしも、創価学会がなければ、この仏法西還の御本仏の御予言も、虚妄となってしまったにちがいない。
 その先駆けの歩みを、伸一は会長に就任して迎えた新しき年の初めに、踏み出そうとしていたのである。それは仏法の歴史を画し、東洋に生命の世紀の旭日を告げるものであった。
 また、アジア各国の国情の視察と併せて、総本山に建立寄進する大客殿の建築資材を入手することも、この旅の目的であった。″大客殿は世界の名材を集めて建設せよ″というのが、戸田の遺言であったからだ。
 訪問地は香港、セイロン(現在のスリランカ)、インド、ビルマ(現在のミャンマー)、タイ、カンボジアの五カ国一地域である。
 期間は、一月二十八日から二月十四日までの、十八日間の予定である。かなりの強行スケジュールといってよい。
 メンバーは、学会からは会長の山本伸一のほか、理事の関久男、森川一正、婦人部長の清原かつ、青年部長の秋月英介、そして、通訳と案内を兼ねて、学生部出身の男子部の幹部である三川健司が同行することになっていた。三川は、東京外国語大学で英米語を学び、卒業後、ビルマのラングーン大学(現在のヤンゴン大学)に留学したこともある青年である。
 一方、宗門からは、日達上人と同行の僧侶一人が渡航することになっていた。
13  仏法西還(13)
 ともあれ、御書の「三大秘法抄」や「東洋広布」の石碑などの埋納の方法については、山本伸一に同行する森川一正と秋月英介を中心に、「水滸会」のメンバーと男子部の幹部で検討することになっていた。
 石碑は、御影石だからそのまま地中に埋めても問題はないが、それ以外のものは、百年、二百年たっても腐食することのない、丈夫なケースにいれて埋納する必要がある。
 森川と秋月は、男子部長の谷田昇一に相談し、石油会社に勤める、化学に詳しい男子部の幹部の青田進たちに、埋納の方法を研究してもらうことにした。
 青田らは真剣に検討を重ねた。その結果、通常、手に入るもののなかでは、クロム一八パーセント、ニッケル八パーセントの一八─八ステンレス鋼が、最もに強く、保護ケースの素材に適しているとの結論に達した。
 そこで、このステンレス鋼で高さ三十センチメートル弱、直径十五センチメートルほどの筒型のケースをつくることにした。
 蓋はネジ式にし、水の侵入を防ぐために、ネジの部分に「非硬化性」のボンドを塗るようにした。
 ボンドを「非硬化性」にしたのは、「硬化性」では掘り出した時に、固まって蓋が開かなくなってしまうからである。
 更に、ケースの外側を腐食防止剤で覆い、蓋の周りは、腐食防止剤を塗ったテープを巻くことにした。
 また、埋納品は、一つ一つ入念にポリエチレンで包んで、三重に密封することになった。
 これで、収納の問題は解決したが、ここでまた難問に出くわした。インドに入るまでには、香港、セイロン(現在のスリランカ)、インドの税関を通らなくてはならない。密封したままのステンレスの円筒のケースが、そのまま持ち込めるとは思えなかった。
 もし、税関でケースを開けられてしまえば、元通りに密封することは難しい。そうなれば、腐食しやすくなるだろうし、水も入ることになりかねない。
 また、無事にインドまで運んだとしても、ブッダガヤの釈尊ゆかりの地に、埋納を許可されるかどうかも、大きな問題であった。
 青年たちは、外務省に出掛け、事情を説明した。そして、外務省の方から、事前に、ブッダガヤでの埋納の正式な許可を取ってほしいと要請した。更に、各国の税関を無事に通過できるように、手配してもらえないかと、必死に頼んだ。
14  仏法西還(14)
 外務省で応対に出た係官は首を捻った。
 「ブッダガヤに埋納するんですか? ともかく、私どもの方では、手の打ちようがありません。そんな前例はありませんから。
 また、ケースを開けずに、各国の税関を通過できるかどうかも、外務省の権限外の問題です。
 むしろ、インド大使館をはじめ、関係の大使館に相談してみてはどうですか」
 青年たちは、思案した末に、まず羽田空港の税関に、埋納の品物とケースを持ち込んで事情を説明した。そして、その場で写真を撮ってから、品物をケースに収めて密封し、中身がなんであるかを示す証明書を出してもらった。しかし、この証明書が、他国の税関でどの程度、効力を発揮するかは疑問であった。
 更に、通関の審査が厳しいと聞いていたセイロン(現在のスリランカ)とインドの大使館にも出掛けていった。
 セイロンの大使館では、「それは、現地で交渉してみてください。話が難航した場合には、現地の日本大使館にも協力をお願いしてみたらどうでしょうか」とアドバイスしてくれた。
 また、インド大使館は、青年たちの熱意が通じたのか、インドの税関あてに、ケースの中は日本の税関が証明しているので、開封せずに通関させるように記載した文書の発行を、約束してくれた。
 しかし、ブッダガヤでの埋納の許可の件は、インドへ行って相談してほしいとの返事だった。
 最大の課題は、先に持ち越されてしまった。また、インドの税関あての、大使館の文書もなかなかできなかった。
 出発の日が近づくにつれて、森川一正たちの不安はつのっていった。
 ある日、森川が、山本伸一のところに、準備状況の報告にやって来た。
 「先生から、埋納の準備をお任せいただきましたが、埋納についても、通関についても、まだ、最終的な許可は出ておりません。申し訳ございません」
 森川の顔には、苦悩の色が浮かんでいた。
 伸一は言った。
 「もし、ケースが開けられてしまったら、それはそれで仕方がない。
 また、埋めるのは、ブッダガヤならば、釈尊の成道の地から、少しぐらい離れていてもいいではないか」
 森川の胸に、彼を励まそうとする伸一の思いが熱く染み渡った。彼は大事な勝負どころで心配をかけ、かえって慰めてもらっている自分が情けなかった。
 ″なんとしても、成功させなければ……″
 森川はを握り締めた。
15  仏法西還(15)
 山本伸一は、渡航前の多忙な日が続いていたが、各地の活動を軌道に乗せるため、支部の結成大会を中心に指導に駆け巡っていた。
 一月十三日には、東京・墨田区の両国公会堂で行われた、両国支部の結成大会に出席した。
 伸一は、この席で、学会がさまざまな非難と中傷を浴びながらも、なぜ、広宣流布の輪を広げてきたかに言及していった。
 「リンカーンは″すべての人々をしばらくの間、騙すことや、少数の人々をいつまでも騙すことはできても、すべての人々をいつまでも騙すことはできない″と語っています。私もその通りだと思います。
 誤った宗教であれば、一時的には隆盛を誇っても、長い目で見た時には、必ず滅びていかざるをえない。
 学会がますます勢いを増して、前進しているのは、仏法が真実であり、皆が心から納得するだけの裏付けがあるからです。事実、本当に信心し抜いた人は、皆、大功徳を受けているではありませんか。
 先日もある識者が『学会は、これだけ力があり、真面目な団体である。日本を支える底力となっている。その学会を、なぜ、日本の社会は、正しく評価しようとしないのか、不思議でならない。私は学会に大きな期待を寄せています』と語っておりました。
 更に、その方は、『ちょうど、中華人民共和国があれだけ大きな力を持ちながら、まだ、世界が、その存在を正式に認めようとしないことに似ている。日本における学会への対応も、それと同じものがあるのではないか』と言うのです。
 結局、新しい力の台頭に対する恐れがあるのです。
 私も、この識者の考えに同感です。中華人民共和国は実際に大きな力を持ち、多くの民衆を抱える大国家となっている。当然、世界はその存在を認め、国連に迎え入れるべきであると思います」
 当時、国連は、中華人民共和国の加盟を認めず、台湾の国民党政府を中国の代表としていた。そこには、冷戦構造のなかでのアメリカの思惑が、色濃く反映されていたのである。
 伸一は、東洋の未来に思いをめぐらす時、隣国である中国のことを考えないわけにはいかなかった。なかでも、日本との国交については、一日も早く回復すべきであり、そうでなければ双方の国民にとって不幸だ、との固い信念をいだいていたのである。
 彼は、このあと、両国支部の一人一人が、社会の信頼厚きリーダーに育つことを訴え、指導とした。
16  仏法西還(16)
 寒風をついて、山本伸一の指導は続けられた。
 一月十八日には、宇都宮支部の結成大会に出席した。栃木は、戸田城聖が戦後初めて、地方指導に訪れた地である。伸一の激励にも、力がこもった。
 どこの支部の結成大会に臨んでも、彼は、わずかでも時間があれば、青年たちと懇談するように心掛けた。未来への構想が広がれば広がるほど、必要となるのは、次代を担いゆく若き人材であるからだ。
 また、学会本部にあっても、青年を見れば、すぐに声を掛けた。
 「教学は、しっかり勉強しているかい」
 そして、「ハイ」という声が返ってくると、すかさず言うのだった。
 「では、どのぐらい勉強しているか、質問するよ。
 大聖人と天台の一品二半の相違は?」
 質問は、矢継ぎ早に出された。
 見事に答える青年もいたが、時には、しどろもどろになる人もいた。
 すると、伸一は微笑みながら言った。
 「カレーライスがあっても、スプーンがなければ食べることはできない。またビールがあっても、抜きがなければ、飲むことはできない。同じように、中途半端な勉強では、何事も身につかないし、結局、力にはならない。徹底して学んでいくことだよ」
 彼は、教学だけでなく、ダンテ、ゲーテ、ユゴー、トルストイなどの文豪について、それぞれの作品の内容を聞くこともあれば、彼らが生きた時代背景を尋ねることもあった。
 そして、それを糸口にして、文学論や人物論を展開していった。
 それゆえに、青年たちは山本会長の前に出ると緊張もしたが、何よりも触発の大きな喜びを感じていた。彼のいくところは、さながら現代の松下村塾の観を呈した。
 また、彼は、青年のどんな相談にも、兄のように応じた。健康の問題から、仕事、結婚などの問題まで、全魂を傾けて指導した。
 そして、少しでも励ましになればと、ポケットマネーで買い求めた、心づくしの記念品を贈った。
 時には、自分が身につけていた万年筆やネクタイ、更には、ベルトまでプレゼントしてしまうことさえあった。
 伸一は、学会の宝である愛する青年たちを、人格にも教養にも秀でた、世界を担いゆく一流の指導者にするために、心を砕いていたのである。
17  仏法西還(17)
 一月二十三日、山本伸一は総本山に向かった。
 宗門の主催で行われる、アジア歴訪の歓送会に出席するためであった。
 青い空に、白雪の富士が美しく映えていた。
 歓送会は、午後一時過ぎから大講堂で行われた。
 あいさつに立った日達上人は、感無量の表情で、語り始めた。
 「今回、創価学会会長・山本伸一先生の道案内によりまして、東南アジア方面へ、まいることになりました。まことに身にあまる光栄と存じておるのでございます。
 思いますれば、仏法がインドから発祥いたしまして……」
 日達上人は、釈尊の仏法が、インドから、中国、朝鮮半島(韓半島)を経て、日本に渡ってきた「仏法東漸」の歴史に触れ、中国の名僧も、インドに仏法を求めて旅したことを語った。
 そして、七百年前、日蓮大聖人が、日本にあって末法の民衆の救済のために、真実の仏法を打ち立てられたことを述べ、この仏法のアジア、世界への広宣流布を、大聖人が宣言されていることを訴えた。
 「……その広宣流布が、世界、一閻浮提の広宣流布がいつになるかというと、大変、難しい問題でございます。大聖人は『時を待つ可き』と仰せになっております」
 上人は、時期についての言及は避けて、こう話を結んだ。
 「……不肖、私が創価学会の案内で、今、あの釈尊の悟りを開いたブッダガヤの地へまいりまして、大聖人様の『三大秘法抄』(三大秘法禀承事)をもってそこに埋蔵し、再び、化儀の広宣流布がそのインドに到達する時をこいねがって、今回、行ってきたいと思うのでございます。
 皆様が、今日、全国からお集まりくださいまして、この壮途をお祝いくださいましたことに、私は、実に感激をもって、お礼を申すのでございます」
 最後に、山本伸一のあいさつとなった。
 「高いところから、失礼とは存じますが、一言、ごあいさつをさせていただきます。
 創価学会の目的は、申すまでもなく、全世界の広宣流布に進んでいくことでございます。世界の民衆を一人も漏れなく幸福にすることこそ、私どもの念願であり、決意であります」
 彼は、広宣流布の「時」をつくり、大聖人の御遺命を成就する誓いに燃えていた。前途に待つ、いかなる困難も覚悟のうえで。
18  仏法西還(18)
 山本伸一の声には、厳粛な響きがあった。
 「恩師戸田城聖先生が第二代会長に就任して間もない、昭和二十六年(一九五一年)の七月十一日の水曜の夜、旧学会本部の二階で男子青年部の結成式が行われました。
 外は、激しい雨でありましたが、約百八十人の青年部員が、師のもとに集ったのでございます。
 その席上、戸田先生は、『今日、ここに集まられた諸君のなかから、必ずや次の創価学会会長が現れるであろう。必ず、このなかにおられることを、私は信ずるのです。その方に、心からお祝いを申し上げておきたい』と言われました」
 彼の脳裏に、戸田城聖の顔がありありと浮かんだ。
 「その時の話のなかで、戸田先生は、こう言われたのであります。
 『広宣流布は、私の絶対にやり遂げねばならぬ使命であります。……われわれの目的は、日本一国を目標とするような小さなものではなく、日蓮大聖人は、朝鮮、中国、遠くインドにとどまることなく、全世界の果てまで、この大白法を伝えよ、との御命令であります』
 更に、先生は『諫暁八幡抄』『顕仏未来記』の御文を拝され、こう言われたことがございます。
 『どうしても、東洋の広宣流布をしなくてはならないのである。もしも、私が東洋の広宣流布を成就できずに終わったならば、君たちが、私の遺志を継いで、この大聖人の御遺命を達成せよ、どんなことがあっても達成せよ』
 その言葉を、私は、片時も忘れたことはございません。今も、鮮明に、私の生命に焼きついております。
 その東洋広布を、必ず成し遂げるために、私は、先駆けとして、今回、皆様方を代表し、アジアの地に、第一歩を印すことになりました。
 日達上人をお守り申し上げつつ、東洋の事情をつぶさに視察し、未来の広布の糧にしてまいることを、申し上げ、あいさつに代えさせていただきます」
 参加者は、彼の広宣流布への決意に深い感動を覚えた。ひときわ大きな拍手がわき起こった。
 伸一は、東京に戻ると、二十四日には城西支部、二十五日には都南支部、二十六日には江戸川支部と、連日、支部結成大会に臨み、新たな出発を祝い、指導、激励を重ねた。
 間断なく自ら動き、風を呼び、波を起こして、彼は躍進の新しきうねりを広げていったのである。
19  仏法西還(19)
 アジアへの出発の前日にあたる一月二十七日は、本部幹部会であった。
 この日の午後、森川一正が、息を弾ませて、山本伸一のもとに、報告にやって来た。
 「先生、さきほどインド大使館から、ブッダガヤに埋納するケースについての文書ができたという連絡があり、早速、もらってまいりました。これを見せれば、インドの税関ではケースを開けられることなく、通過することができます」
 「それはよかった。そうなると、問題は、セイロン(現在のスリランカ)の通関と、埋納の許可だね。ほかに何か心配なことはあるかい」
 「心配といえば、すべてが心配です。日本との気候や風土の違いや、治安の問題など、かなり注意が必要です。旅行会社の話では、水があわず、下痢をする人も多いとのことです。また、国によっては、スリなどの被害にもよく遭うそうですし、貧しい人が、旅行者に物をねだることも多いそうです」
 「そういう不幸な人々を救うために、私たちは行くのだ。だから、苦労など恐れず、厳然と使命を果たし抜いてこようじゃないか。
 特に、仏法の発祥の地であるインドは、私たちにとって大恩ある国だ。私は恩返しをするつもりで、インドに行こうと思っているんだよ」
 森川は、伸一の決定した心に触れた思いがした。
 本部幹部会は、この日の午後六時から、東京体育館で開催された。
 幹部会では、冒頭、一月度の折伏の成果が発表された。学会全体では、三万一千百八十五世帯であり、前年の七月に結成された沖縄支部が、堂々、第一位の成果をあげていた。
 沖縄支部が第一位であることが伝えられると、場内にはどよめきが起こった。それから、雷鳴のような大拍手がわき起こり、しばらく鳴りやまなかった。
 結成から、まだ半年しかたっていない新支部が、蒲田や小岩、足立などの伝統ある大支部を、見事に追い抜いてしまったのである。
 伸一の布石は、半年にして、早くも大きな効果を表したのであった。
 しかも、日本本土の支部ではなく、アメリカの統治下にあり、東南アジアへの玄関口ともいうべき沖縄支部が、最優秀の成果を収めたのだ。
 それは、新しい広布の時代の幕開けを告げるとともに、彼の初のアジア訪問を祝うにふさわしい快挙となった。
20  仏法西還(20)
 沖縄の同志は、山本伸一が出席して行われた前年の七月の支部結成以来、愛する故郷・沖縄を″広宣流布の要石″にするのだという悲願をいだいて、折伏に汗を流してきた。
 その同志の誓いを更に鼓舞してきたのが、「沖縄健児の歌」であった。
 沖縄では、伸一の訪問前から、沖縄の歌を作ろうという機運が盛り上がっていた。そして、支部結成大会の席上、歌詞を募集することが発表された。
 ある壮年が作成した歌詞をもとに、支部長の高見福安と、その壮年が一緒に考え、完成させたのが、この「沖縄健児の歌」の詞であった。
 作曲は、琉球大学で音楽の教師をしていた女性のメンバーが担当した。
 彼女は音楽を教えているといっても、声楽が専門であり、作曲の経験はほとんどなかった。
 しかし、高見支部長の、「沖縄の私たちの手で、私たちの歌をつくりたい」との訴えに心打たれ、作曲に挑戦した。
 曲が完成し、この歌が発表されたのは、九月半ばの支部の幹部会であった。
 一、正法流布の
       朝ぼらけ
   打ちくだかれし
       うるま島
   悪夢に目覚め
       勇み立つ
   伝統誇る 鉄は
   沖縄健児の
       誇りなり
 勇壮な歌詞であり、曲であった。そこには、沖縄の同志の誓いと心情が、見事に表現されていた。
 皆、こぞって、この歌を歌い始めた。それは平和の楽土を築こうとする、折伏の歌声となり、前進の調べとなっていった。「沖縄健児の歌」の歌詞と譜面は、早速、山本会長のもとに届けられた。
 伸一は、この一月度の本部幹部会の前に、統監部長の山際洋から、一月の折伏は、沖縄支部が第一位であったことを聞くと、即座に提案した。
 「すごい。よく頑張ってくれた。沖縄の同志の健闘を称えて、あの『沖縄健児の歌』を聖教新聞で紹介してはどうだろうか」
 彼の提案に、聖教新聞の編集部も大賛成し、二月四日付の二面に、この歌の楽譜と歌詞が掲載された。
 新しき建設には、新しき希望があり、そこには、新しき歌がある。
 「躍進の歌」「東洋広布の歌」「沖縄健児の歌」と各地で誕生した歌が、このころ、互いに触発し合うかのように、全学会で愛唱されていったのである。
21  仏法西還(21)
 本部幹部会は、山本会長一行のアジア訪問の壮行会となった。
 同行の幹部を代表して、理事の森川一正が旅の日程を紹介し、抱負を語ると、割れんばかりの拍手が、場内を包んだ。
 前年十月の北・南米訪問に続いてのアジアへの訪問に、参加者は広宣流布の世界への確かな広がりを実感していた。
 何人かの幹部の指導、そして、日達上人のあいさつなどの後、いよいよ山本伸一の登壇となった。
 「大変にしばらくでございます。私は、皆様方の代表といたしまして、日達上人とともに、明日、アジアの旅に出発いたします。
 留守の間は、理事長を中心に、しっかり団結して、元気いっぱいに活動を進めていただくよう、お願い申し上げます。
 あれは昭和二十七年(一九五二年)のことでした。当時は、戸田先生が第二代会長になられて、学会が本格的な前進を開始して間もないころであり、学会も、戸田先生も、非難と中傷の集中砲火にさらされておりました。
 しかし、先生は悠然としておられた。そして、ある時、私が隣にいましたところ、先生は扇子を出され、そこに、こういう歌を書かれました。
  東洋へ
    広宣流布への
       旅なれば
   雨も嵐も
     なにかおそれん
 嵐のような悪口雑言を歯にもかけず、先生は、壮大な東洋広布への決意を固めておられた。これが信念の勇者です。本当の王者の生き方です。
 学会には、これからも、当然、御聖訓の通り、三類の強敵が競い起こるでありましょう。しかし、私たちはこの戸田先生の決意で、あたかも、少年が海に出て波乗りを楽しむように、喜び勇んで、あらゆる難を乗り越え、東洋、そして、世界の広宣流布に邁進してまいろうではありませんか。
 また、二月度の本部幹部会では、ともに精進し抜いた、元気いっぱいの姿でお会いしたいと思います」
 本部幹部会は、「東洋広布の歌」の大合唱で幕を閉じた。歌いながら、誰もが仏法の新しい歴史が開かれゆく喜びを感じていた。
 伸一の平和への旅の広がりは、そのまま同志の心の世界の広がりとなった。皆が東洋を、世界を、身近に感じつつ、歓喜の歌声も高らかに、会長山本伸一を送ったのである。
22  仏法西還(22)
 諸天も祝福するかのように、青空が広がっていた。
 一月二十八日、いよいよアジアへの出発の日がやって来た。
 山本伸一が、羽田の東京国際空港に着いたのは、午前八時半ごろであった。
 控室で、学会の幹部、並びに宗門の代表と出発のあいさつを交わした一行八人は、九時半、空港ビルから姿を現した。
 送迎デッキから、歓声と拍手がわき起こった。
 一行は搭乗するBOAC(イギリス海外航空)のジェット機の前で一列に並ぶと、大きく手を振った。
 そして、タラップを上がると、再び振り返った。
 「行ってらっしゃい!」
 風に乗って、見送る友の声が聞こえた。
 定刻の午前十時、ジェット機は轟音を響かせ、青い空に吸い込まれるように、最初の訪問地の香港へと、飛び立っていった。
 白雪の富士に別れを告げて二時間ほどすると、窓の下には、東シナ海が広がっていた。この海の向こうには、広大な大陸が広がり、妙法の宝光を待ち続けてきた友がいると思うと、伸一の胸は躍った。
 香港には、十世帯ほどの会員がいることがわかっていたが、ほかの訪問地にはほとんど会員はいない。いても一人か二人のメンバーにすぎなかった。
 伸一は、心で題目を唱えていた。彼は、今度の旅でも、行く先々で、地涌の菩薩の出現を願い、大地に題目を染み込ませる思いで、唱題し続けることを決意していたのである。
 日本を発って約五時間、窓の下には、島と半島が海を囲み、林立するビルが太陽の光に映えていた。東洋の真珠・香港だ。
 香港は、中国広東省の南端に接する九竜(カオルン)半島と香港島などから成る地域である。
 香港島は阿片戦争で一八四二年に、九竜市はアロー戦争で六〇年にイギリスに割譲。更に、九八年に九竜半島をイギリスが租借した。
 天然の良港に恵まれた香港は、自由貿易港として栄え、東洋と西洋を結ぶ交通の要衝となってきた。
 搭乗機は、九竜半島にある啓徳(カイタック)空港に着陸した。
 外は春のように暖かかった。厳冬の日本から来た一行には、まるで別世界のように思えた。
 タラップの下には、遊園地の電車のような運搬車が待機していた。これで空港ビルに移動するのである。
 運搬車を降り、空港ビルに入ろうとすると、上の方から、「先生!」と呼ぶ声がした。
23  仏法西還(23)
 見上げると、送迎デッキで十人ほどの人が、盛んに手を振っている。
 山本伸一たちも、手を振って、それに応えた。
 「会員の方ですね。これは心強い!」
 日達上人が目を細めた。
 一行は入国審査を終え、税関に向かった。
 税関で係官は、一行が日本人だとわかると、片言の日本語で尋ねた。
 「ピストル、麻薬、持ッテマセンネ」
 皆、この質問に驚いた。森川一正が、憮然とした顔で答えた。
 「私どもは、そういうものは、いっさい持っておりません!」
 それで通過できるかに思われたが、通訳の三川健司が持っていた、埋納品を納めたステンレスのケースが問題になった。
 四人の係官が集まって来て、これは何かと、盛んに尋ねた。
 三川は、英語で質問に答えていたが、係官たちは、ケースの中身がよく理解できないようだった。彼は、バッグの中から、ケースに納める前に撮った、埋納品の写真を出して説明した。
 係官の険しかった顔が柔和になり、「オーケイ」と言って、封を開けることなく通してくれた。
 三川の額には、汗がにじんでいた。
 一行がロビーに出ると、十人余りのメンバーが、駆け寄って来た。
 「山本先生!」
 「ありがとう! ご苦労様!」
 伸一は、手をあげてメンバーの出迎えに応えた。
 「先生! 日本を発つ時には、ご指導をいただき、大変にありがとうございました」
 一人の婦人が、一歩前に進み出て、あいさつした。岡郁代という四十歳前後の婦人である。
 「元気そうでよかった。今夜は座談会だね。楽しみにしています」
 この言葉を聞くと、岡は涙ぐんだ。座談会は彼女の家で開催されることになっており、岡は全力で準備にあたってきたのである。
 「はい。お待ちしております」
 彼女は、こう答えるのが精いっぱいだった。
 「ご主人に、くれぐれもよろしくお伝えください」
 伸一に言われて、岡はハッとした。岡の夫は、商社の香港支店長代理をしており、未入会であった。
 この日も、一緒に空港にやって来たのだが、伸一がロビーに出て来る直前に、「私は会員ではないから」と言って、どこかへ行ってしまったのである。
24  仏法西還(24)
 岡郁代は、五年前の一九五六年(昭和三十一年)に東京で入会した。
 彼女は膠原病であった。信心してしばらくすると、病状は、回復に向かい始めた。岡は初信の功徳を実感しはしたが、活動には積極的に取り組めなかった。
 三年余りが過ぎたころ、夫の益男の香港への転勤が決まった。最初は単身赴任だが、一年後には郁代をはじめ、家族全員が香港に移ることになる。
 その話を聞いて、一番、心配したのが、岡の班担当員の伊原あさ子という年配の婦人だった。
 ″あの人は、香港の広宣流布をする使命があるから行くのだ。しかし、今の信心のままでは、きっと退転してしまう。自分の班から海外に雄飛する人を退転させるわけにはいかない″
 伊原は岡を、香港を担って立つ人材に育てなければならないと、足しげく激励に通った。そして、毎日のように、座談会や指導会、折伏、家庭指導にと連れて歩いた。
 六十半ばの伊原の熱心さに心打たれて、岡も真剣に信心に励むようになっていった。
 やがて、岡が渡航する時がやって来た。昨年の十二月のことだ。
 その直前、岡は伊原に連れられて、学会本部を訪ねた。そこで、会長の山本伸一と会ったのである。
 岡が香港に行くことを報告すると、伸一は言った。
 「私も来年の一月の末に香港へ行きます。今度は向こうでお会いしましょう。活躍を期待しています」
 そして、岡が入会してから、今にいたるまでの経緯を尋ねた。
 彼女は、膠原病で苦しんだ末に信心を始め、その後は、伊原に励まされ、活動に参加するようになっていったことを話した。
 伸一は、伊原に言った。
 「あなたが、この人の面倒をみてくれたんですね。よくここまで育ててくれました。ありがとう」
 一人の人が成長し、人材に育っていく陰には、親身になって、育成してくれた先輩が必ずいるものだ。たとえ、光があたることはなくとも、その先輩こそが、まことの功労者であり、三世にわたる無量の功徳・福運を積んでいることは間違いない。
 岡は、伸一と会った後、海外部を訪ね、香港の様子を聞いた。向こうでは平田君江という、しっかりと信心に励んでいる女性がいることがわかった。また、海外部で把握している、香港のメンバーの名前と住所を教えてもらった。
25  仏法西還(25)
 岡郁代は一九六〇年(昭和三十五年)の十二月十三日に、飛行機で日本を発つことになった。
 彼女は出発を前にして、伊原あさ子に軽い気持ちで言った。
 「おばちゃん、もし、飛行機が海に落ちたら、どうしよう?」
 すると、伊原は真剣な顔で語った。
 「そうだね。その時は御本尊様を背中にくくりつけて、題目を唱えながら泳ぐんだよ。絶対に死んじゃいけない。あんたには香港の広宣流布をする、大事な使命があるんだから……」
 涙さえ浮かべて語る伊原の真剣さから、岡は自分の使命を、おぼろげながら感じることができた。
 香港での生活が始まると、岡は平田君江と連絡を取り、数日後に、日本人クラブで会うことにした。
 平田は、もう一人の日本人のメンバーを連れてやって来た。三人で話し合い、香港に居住するメンバー全員と連絡を取ったうえで、皆で集まり、会長一行を迎える打ち合わせをしようということになった。
 一月の半ばに、数人のメンバーが集って、打ち合わせ会がもたれた。そこで、出迎えの際の集合時間や、どこで座談会を開くかなどが検討された。
 今、空港で山本会長を迎えて、香港の友の胸には、将来への建設の鼓動が弾んでいた。
 伸一の一行はメンバーと握手を交わして、尖沙咀のホテルに向かった。
 大通りには二階建てのバスが走り、街は人で賑わい、活気に満ちていた。
 ホテルに着くと、山本伸一は同行の幹部に言った。
 「香港でも、地区を結成したいと思う。アジアで最初の地区だ。さあ、戦いが始まるぞ」
 その言葉に、皆の表情が引き締まった。
 伸一は、早速、日本に香港安着の電報を打つよう、森川一正に指示した。
 「会長一行 香港無事つく 地区結成の予定でがんばります 森川」
 電報は、この日の夜、学会本部に届いた。本部にいた幹部は、「地区結成」の言葉に、山本会長の香港での新しき戦いの歯車が、うなりをあげて回転し始めたことを思った。
 事実、ホテルに着いて休む間もなく、インドネシアから香港に来ている、二人の学会員の留学生が、伸一を訪ねて来た。
 彼は、若き友の来訪を、心から歓迎した。そして、″自らを磨き、使命に生きよ″と、全魂を傾けて励ますのであった。
26  仏法西還(26)
 夕食を終えると、座談会が待っていた。
 日達上人と同行の僧は、夜は市内見学をすることになった。
 午後六時過ぎに、岡郁代や平田君江たちが、山本伸一の一行を迎えに来た。
 伸一と同行の幹部は、フェリーで香港島に渡った。
 岸に沿って宝石をちりばめたように、街の明かりが広がり、それが海に映り、波に揺れていた。
 「ワー、きれい!」
 清原かつが、夜景を見て声をあげた。
 「ここは、百万ドルの夜景と言われているからね。香港島のヴィクトリア・ピークから見る夜景が、一番、美しいらしい」
 関久男が答えた。
 伸一は、小声で題目を唱え続けていた。
 座談会の会場となった岡の住まいは、香港島の高台にあり、ケネディ・ロードと呼ばれる通りに面した、ビルの三階であった。
 「お世話になります」
 こう言って伸一が会場に入ると、十数人の友がソファやイスに腰掛けていた。参加者の多くは、日系人であった。
 彼は題目を三唱すると、笑みを浮かべて言った。
 「どうもご苦労様です。まず、日本からまいりましたメンバーを、皆さんにご紹介します」
 伸一は、同行の幹部を紹介していった。続いて、参加者の自己紹介となった。
 それが終わると、伸一は言った。
 「日蓮大聖人は、真実の仏法を東洋に、世界にと広め、いっさいの人に幸福の道を教えていきなさいと仰せです。私たちは、そのために、香港にやって来ました。そして、これからインドへ行き、東洋広布の誓いの証として、経本などを埋納してくることになっています。
 今日は皆さんへのお土産として、その同じ特製の経本と袱紗をお贈りします。袱紗に染め抜いてある『純心』の文字は、私が毛筆で書かせていただきました」
 伸一は、参加者全員に自ら袱紗を手渡していった。
 それから、彼は会長就任を記念してつくったメダルを手にして言った。
 「岡さんには、会場もお借りしておりますし、ご主人とお友達になろうと思いまして、お土産にメダルを用意してまいりました。これを、ご主人にお渡しください。また、『東京に来られた折には、ぜひ本部の方にお立ち寄りください。くれぐれも、よろしく』と、お伝えください」
 伸一の心遣いに、岡は目頭を潤ませた。
27  仏法西還(27)
 「さあ、自由に語り合いましょう。聞きたいことがあれば、どんなことでも遠慮せずに聞いてください」
 山本伸一が言うと、一人の婦人が話し始めた。
 「私は信心をする時に、生命が永遠であると聞きましたが、人は死んだ後、どうなるのでしょうか。またキンコウの時に、先祖供養をするようになっていますが、それはどんな意味があるのでしょうか」
 「キンコウ?」
 皆、不可解な顔をした。
 伸一は笑顔で言った。
 「ああ、お経を読むことですね。あれはゴンギョウ(勤行)と読むんですよ」
 「あら、キンコウじゃないんですか……」
 爆笑が広がった。
 日本で入会はしたが、しっかりとした指導を受けることもないままに、香港にやって来た人たちがほとんどであった。組織もなく、それぞれが細々と、自分なりの信心を続けてきたのであろう。
 伸一は、笑いが静まると力を込めて語り始めた。
 「これは極めて大事な問題です。死の解明は、人間の、そして、宗教の重要なテーマです。いくら語っても、語りつきない問題ですので、今日は、その一端だけ、お話ししましょう。
 現代人のなかには、生命というのは、今世限りだと考えている人も多いようですが、もしも、生命が永遠でなければ、生まれながらの不公平を、どうとらえればよいのかという問題が残ります。
 日本の国に生まれる人もいれば、香港に生まれる人も、アメリカに生まれる人もいる。あるいは、戦火や飢餓の国に生まれる場合もあります。
 更に、金持ちの家に生まれる子もいれば、貧困の家に生まれる子もいる。生まれながらにして、不治の病に侵されていたり、不自由な体で生まれてくる子供もいます。生まれる境遇も、顔や姿も、千差万別です。まさに持って生まれた宿命という以外にありません。
 もし、神が人間をつくったのであるならば、皆、平等につくるべきです。
 また、生命が今世限りなら、不幸な星の下に生まれた人は、親を恨み、無気力にならざるをえません。あるいは、何をしようが、おもしろおかしく生きていけばよいと考え、刹那主義に陥ってしまうことになる。
 この宿命が、どこから生じたのかを、徹底して突き詰めていくならば、どうしても、今世だけで解決することはできない。生命が永遠であるという観点に立たざるをえません」
28  仏法西還(28)
 山本伸一は、参加者に視線を注いだ。皆、真剣な顔で耳を澄ましていた。
 「三世にわたる生命の因果の法則のうえから、この宿命の根本原因を明かし、宿業の転換の道を示しているのが仏法なのです。
 では、仏法では、宿命はいかにしてつくられると、説いているのか──。
 自分以外のものによってつくられたのではなく、過去世において、自分自身がつくり出したものだというのです。少し難しくなりますが、身、口、意の三業の積み重ねが、宿業となるのです。つまり、どのような行動をし、何を言い、何を思い、考えてきたかです。
 たとえば、人を騙し、不幸にしてきたり、命を奪うといったことが、悪業をつくる原因になります。更に最大の悪業の因は、誤った宗教に惑わされて、正法を誹謗することです。これは生命の根本の法則に逆行することになるからです。
 さて、人間は、死ねばどうなるのかという問題ですが、生命は大宇宙に溶け込みます。
 戸田先生は、その状態を、夜になって眠るようなものであると言われている。更に、眠りから覚めれば新しい一日が始まる。これが来世にあたります。生命は、それを繰り返していくのです。
 ここで大事なことは、死後も、宿業は消えることなく、来世まで続くということです。たとえば、一晩、眠っても、昨日の借金がなくなりはしないのと同じです。今世の苦しみは、また来世の苦しみとなります。
 今世で、七転八倒の苦しみのなかで死ねば、来世も同じ苦を背負って生まれてきます。人を恨み抜いて、怨念のなかで死を迎えるならば、来世も、人を恨んで生きねばならない環境に生まれることになる。死んでも、宿命から逃れることはできない。ゆえに、自殺をしても、苦悩から解放されることはないのです。
 反対に、幸福境涯を確立し、喜びのなかに人生の幕を閉じれば、来世も、善処に生まれ、人生の幸福の軌道に入ることができます。
 こう言うと、なかには、来世も宿業で苦しむなら、生まれてこないで、ずっと眠ったままの状態の方がいいと思う方もいるでしょうが、そうはいきません。
 生まれる前の、大宇宙に溶け込んだ状態であっても、生命は苦しみを感じているのです。ちょうど、大変な苦悩をかかえている時には、寝ても、悪夢にうなされ続けているようなものです」
 彼は、生死という根本の問題を、わかりやすく、噛み砕いて語っていった。
29  仏法西還(29)
 現代の思想や哲学は、今世のみに目を奪われている。それは、地表の芽を見て、根を見ないことに等しい。ゆえに、人間の苦悩の根源的な解決の方途を、見いだせずにいるのだ。
 山本伸一は話を続けた。
 「それでは、その宿業を転換し、幸福を実現する方法はあるのか。
 あります。それを、末法の私たちのために説いてくださったのが日蓮大聖人です。そして、その方法こそ御本尊への唱題であり、折伏です。それが、生命の法則に則った最高の善の生き方であり、歓喜に満ちた永遠の幸福という境涯を確立する唯一の道なのです。
 こう申し上げると、初代会長の牧口先生は、牢獄で亡くなったではないか、不幸ではないかと言う人がいます。
 しかし、一番大切なことは、死を迎えた時の心であり、境涯です。苦悩と不安と恐怖に怯えて息を引き取ったのか、獄中であっても、安祥として歓喜のなかに死んでいくかです。牧口先生は獄中からの便りに、経文通りに生き抜いた大歓喜を記されている。
 また、学会員でも、病気や事故で死ぬ場合があるではないかと、思う人もいるでしょう。
 その場合でも、信心を全うし抜いた人は転重軽受であることが、仏法には明確に説かれております。
 つまり、本来、何度も生死を繰り返し、長い苦悩を経て、少しずつ宿業を消していくところを、今生で過去世の宿業をことごとく転換し、成仏しているのです。その証明の一つが臨終の相です。
 大聖人は、御書のなかで経文のうえから、体も柔らかいなど、成仏の相について論じられています。
 戸田先生も、微笑むような成仏の相で亡くなりました。私は数多くの同志の臨終を見てきました。
 ともあれ、広布のために、仏の使いとして行動し抜いた人は、いかなる状況のなかで亡くなったとしても、恐怖と苦悩の底に沈み、地獄の苦を受けることは絶対にない。経文にも、千の仏が手を差し伸べ、抱きかかえてくれると説かれている。臨終の時、一念に深く信心があること自体が成仏なのです。
 まさに、生きている時は、『生の仏』であり、死んだ後も『死の仏』です。
 更に、その証明として、残された家族が、必ず幸福になっています。
 だから、信心をし、難に遭い、いかに苦労の連続であったとしても、退転してはならない。難に遭うことは宿業を転ずるチャンスなのです。
 永遠の生命から見れば、今世の苦しみは一瞬にすぎない。未来の永遠の幸福が開けているのです」
30  仏法西還(30)
 日蓮大聖人は「されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と述べられている。
 「死とは何か」の正しい究明がなければ、人間として「なんのために死ぬか」「いかに死ぬか」を考えることはできない。そうであれば、「いかに生きるか」という答えも導き出すことはできない。生と死とは、本来、表裏の関係にほかならないからである。
 現代人は、葬儀の形式などには、強い関心を持ち始めているが、死という問題自体を、徹して掘り下げようとはしない。実はそこに目先の利害や虚栄、快楽に流されがちな風潮を生み出している、根本的な要因が潜んでいると言えよう。
 山本伸一は、ここで、先祖供養に話を移した。
 「さて、苦悩を背負ったまま亡くなった先祖は、どうしているかというと、既に生まれ、宿業に苦しんでいることもあれば、まだ、生まれていない場合もあるでしょう。
 あるいは、生まれていても、人間に生まれているとは限りません。宿業のいかんによっては、畜生、つまり動物に生まれることもある。これは、経文に明確です。むしろ、人間に生まれることの方が、はるかに難しい。
 しかし、先祖が何に生まれ、どこにいて、いかに苦しんでいても、生者が正しい信仰をもって、その成仏を願い、唱題していくならば、それが死者の生命に感応し、苦を抜き、楽を与えることができる。
 南無妙法蓮華経は宇宙の根本法であり、全宇宙に通じていくからです。
 ましてや、畜生などに生まれれば、自分では題目を唱えることはできないわけですから、私たちの唱題だけが頼みの綱になります。また、先祖が人間として生まれてきている場合には、私たちの送る題目によって先祖が誰かの折伏を受け、仏法に縁し、信心をするようになるのです。
 したがって、先祖を供養するには、真剣に唱題する以外にありません。お金を出して、塔婆を何本立てれば成仏できるというものではない。もし、そうだとするなら、金の力で成仏できることになってしまう。
 一方、信心を全うし、成仏した人は、死んでも、すぐに御本尊のもとに人間として生まれ、引き続き歓喜のなか、広宣流布に生きることができる。
 そして、先祖が成仏したかどうかを見極める決め手は、さきほども申しましたように、子孫である自分が、幸福になったかどうかです。それが、先祖の成仏の証明になります」
31  仏法西還(31)
 人間は、過去世も未来世も見ることはできない。しかし、三世にわたる生命の因果の理法を知る時、いかに生きるかという、現在世の確かなる軌道が開かれる。そして、それが未来世を決定づけてゆく。
 山本伸一は、情熱を込めて訴えた。
 「私たちは今、人間として生まれてきた。しかも、大宇宙の根本法を知り、学会員として、広宣流布のために働くことができる。これは大変なことです。
 たとえば、森に足を踏み入れると、その足の下には、数万から数十万の、ダニなどの小さな生物がいるといわれています。
 すると、細菌まで含め、全地球上の生命の数を合わせれば、気の遠くなるような数字になります。
 そのなかで、人間として生まれ、信心することができた。それは、宝くじの一等が、数えきれないほど当たることより、遙かに難しいはずです。
 まさに、大福運、大使命のゆえに、幸いにも、一生成仏の最高のチャンスに巡り合ったのです。
 ところが、宝くじで一回でも一等が当たれば大喜びするのに、人間と生まれて信心ができた素晴らしさがなかなかわからないで、退転していく人もいます。残念極まりないことです。
 私たちにとっては、この生涯が、一生成仏の千載一遇のチャンスなのです。どうか、この最高の機会を、決して無駄にしないでいただきたい。
 永遠の生命といっても、いっさいは『今』にあります。過去も未来も『今』に収まっている。ゆえに、この一瞬を、今日一日を、この生涯を、感謝と歓喜をもって、広宣流布のために、力の限り生き抜いていってください。
 ザッツ、オーケイ?(よろしいですね)」
 伸一が英語で話を締めくくると、弾けるような声と明るい笑いが広がった。
 彼が、この質問に、かなり長い時間をかけて答えたのは、生死という人生の根本のテーマを明確にしておきたかったからである。
 彼は引き続き、二、三の質問に答えた後、こう提案した。
 「今日は、理事が何人も一緒に来ていますので、男性と女性に分かれて、ゆっくり懇談をしたいと思います。個人的な相談があれば遠慮なくしていただいて結構です。そして、一時間ほど懇談したら、最後に皆で一緒に勤行しましょう」
 男女に分かれ、懇談が始まった。
 伸一は部屋の端に置かれたソファで、岡郁代の三人の子供たちと語り合った。
32  仏法西還(32)
 山本伸一は、十四歳だという、岡郁代の子息に尋ねた。
 「どんな学校に通っているの?」
 「ロイデンハウス・ジュニア・スクールといって、イギリス人やアメリカ人の多い学校です。授業は英語でやっています」
 「英語はわかるの?」
 「初めは全くわかりませんでしたが、このごろは、少しならわかるようになりました。でも、香港でみんなが話しているのは、広東語なんです」
 「広東語は難しい?」
 「ええ。ぼくが驚いたのは、広東語では、あいさつの時に、『ご飯をたべましたか』って聞くことです」
 「そう。どう言うの?」
 「『セッ・チョウ・ファン・メイ・アー(食■飯未呀)?』って言うんです」
 ちょっと詰まりながら、少年は答えた。
 「上手だね。しばらく香港にいたら、広東語も、英語も話せるようになるよ。それは、将来、すごい力になるんだから、しっかり勉強するんだよ。ところで、趣味はなんなの?」
 「切手集めです」
 「じゃあ、今度、切手を買ってあげよう」
 それから伸一は、長女に声を掛けた。彼女は、少年の姉で、二歳ばかり年上であった。
 「今は、香港にいる女子部は、あなたと妹さんしかいないけれど、これから、どんどん増えていくでしょう。そこで、あなたには、この香港の女子部の中心者になってもらおうと思っています」
 彼女は、キョトンとした顔で伸一を見つめた。
 「香港にいて、信心をしているということは、香港の若い女性たちを幸せにしていく使命を持っている。あなたが、香港に来たのは、お父さんの仕事の関係で、たまたま来たのではない。その広宣流布の使命を果たすために来たんです。頑張れるかい」
 彼女は、しばらく困った顔をしていたが、意を決したように頷いた。
 伸一が、あえて子供たちと語り合ったのは、二十年、三十年後を考えると、やがて、この世代が、世界の広宣流布の中核として、育っていかなければならないからだ。彼は、未来を見すえていた。
 また、父親が海外に派遣された場合、一緒にやって来た子供たちの悩みや気持ちを、知っておきたかったからでもある。
 男性と女性に分かれての懇談の後、一行は別室を借りて、香港の人事の検討を行った。
33  仏法西還(33)
 人事検討は、十分ほどで終わった。
 山本伸一は、皆の前に姿を現すと、笑顔を向けながら、語り始めた。
 「人間が成長していくには、独りぼっちではなく、互いに切磋磨していくことです。特に信心の世界にあっては、常に連携を取り合い、励まし合っていける同志が大事になります。
 また、皆で力を合わせれば、大きな力になる。団結の力は足し算ではなく、掛け算なのです。
 その意味から、香港にも組織をつくりたいと思いますが、いかがでしょうか」
 会場から賛同の拍手が起こった。
 「皆さんが賛成してくださいましたので、組織をつくり、香港に地区を結成いたします。東南アジアでは初めての地区となります」
 彼は、その人事を発表していった。地区部長には、製菓会社の社員として香港に派遣されていた壮年が就任した。また、地区担当員に岡郁代、婦人部の地区幹事に平田君江、そして、女子部の班長に岡の長女が任命された。
 「ほかの方は、全員、組長の自覚で頑張っていただきたいと思います。
 この香港地区は、本部直属とします。今後の連携は本部の海外部が取っていくようになります。また、森川理事と清原婦人部長、そして、青年部の三川君が、担当幹部として、皆さんをバック・アップしていくことになります。全力で応援しますので、よく相談しながら進めてください。
 役職に就くということは自分の使命なのです。″忙しくなっていやだな″と思う方もいるかもしれませんが、私たちは、大勢の人を救い、功徳を受けさせるために、地涌の菩薩として生まれてきたのです。
 広宣流布のために力を尽くし、この世の使命を果たし切っていくところに、最高の人生が開けます。どうか、皆で力を合わせて、来年ぐらいには、支部をつくるような決意で前進していってください」
 伸一が言うと、間髪を入れず、「はい!」という元気な声が返ってきた。
 地区担当員になった岡がためらいがちに言った。
 「先生ご一行は、インドからのお帰りの際にも、香港にお寄りくださると伺っておりますが、その時にも、どなたか幹部の方に出席していただいて、座談会を開くわけにはいかないでしょうか」
 「了解しました」
 伸一は、打てば響くような反応が嬉しかった。そこに新たな決意を感じた。
34  仏法西還(34)
 香港の地区結成式となった座談会は、最後に山本伸一の導師で勤行・唱題し、終了となった。
 一行はタクシーで船着場へ出て、フェリーで九竜(カオルン)に渡ると、歩いてホテルに帰った。
 伸一は、すぐに日達上人の部屋を訪ね、座談会の模様を報告した。
 それから、夜更けて机に向かった。『大白蓮華』の編集部から依頼されている三月号の「巻頭言」を執筆するためであった。
 彼はから取り出した原稿用紙を開くと、「東洋広布」とタイトルを記した。
 そして、冒頭に、「諫暁八幡抄」の、あの仏法西還を予言された御文を書くと、一気に筆を走らせた。
 「インドに生まれた釈尊の仏法は、中国から、朝鮮を経て、日本に伝来した。それは、あたかも、月の輝き始める位置が、西天から次第に東天へ移る自然の道理と合致している……」
 彼は、更に末法に入り、日本に日蓮大聖人が出現して、三大秘法の大仏法を打ち立てられたことを述べ、今、その大法が新しき平和の哲理となって西に渡ることは間違いないと、烈々たる確信を記した。
 そして、日本と東洋諸国との交流の歴史を振り返っていった。
 「長い歴史の間には、兵火を交えるような不幸な事態も、幾度か繰り返された。なかでも、太平洋戦争中は、惟神の道をもとにした超国家主義が横行し、創価学会の幹部は弾圧をうけて投獄され、全東洋にわたって、多くの日本人が地獄の使いと化し、互いに悲しまなければならないこともあった」
 伸一は、そこから、いかなる思想、宗教、哲学が、人間に幸福をもたらすかを論じた。そのなかで彼は、共産主義についても、生命の根本的な解決を図ろうとしない限り、行き詰まらざるをえないことを指摘していった。
 次いで、過去に、釈尊の仏法が東洋に広く流布され、民衆の幸福と平和に大きく寄与してきたことを述べ、今、日蓮大聖人の仏法が、東洋に流布される時が来たことを訴え、こう結んでいる。
 「東洋広布は、大聖人の御予言であらせられるとともに、じつに、われら末弟に与えられた御遺命なりと拝し、東洋広布への重大な一歩を踏み出さんとするものである」
 伸一は、恩師の遺言通りに、東洋広布の第一歩を印した感慨をみ締めながらペンを置いた。既に時刻は午前一時を回っていた。
35  仏法西還(35)
 翌二十九日には、次の訪問地であるセイロン(現在のスリランカ)に向かわなければならなかった。
 搭乗便の出発は、午後三時過ぎである。
 山本伸一の一行は、この日の午前中、岡郁代と平田君江の案内で、香港を見学することになっていた。東南アジア初の地区が結成された、この香港の天地を、よく知っておきたかったのである。
 香港島に渡るフェリーのなかで、伸一は岡に話し掛けた。
 「今回、岡さんのご主人とお会いできなかったのは残念だったね」
 「申し訳ありません。仕事が忙しいようなんです。それに、まだ信心ができずにいるものですから……」
 「ご主人に信心をさせようと決意するのは当然ですが、家のなかで、信心のことでケンカをするようなことがあっては、絶対にいけませんよ。
 ご主人に対しては、どこまでも妻として愛情をもって接していくことです。
 壮年の場合は、会社での立場や、自分なりの人生観もあるから、すぐには入会しないかもしれない。しかし、信心によって奥さんが健康になり、子供さんがすくすく育っていく姿を見ていけば、必ず信心します。
 家族間の折伏は、理論ではなく、実証がことのほか大切になる。特に人間的な成長が肝要です。つまり、あなたが、どれだけ、思いやりにあふれた良き妻となり、良き母となるかにかかっている。
 そして、根本は祈りしかありません。お題目の目標を決めて、願い切っていくことが大事です」
 伸一は、岡が香港の婦人のリーダーとして、自在に力を発揮できるように、彼女の夫のことを、気遣っていたのである。
 香港島に着くと、タクシーを拾い、島内を回った。
 いたる所で、新しいビルの建設のツチ音がこだましていた。未来に伸びゆく力が感じられた。
 裏道に入ると、山の上まで、ひしめくように小屋が立ち並ぶ一角があった。
 「難民の人たちです」
 平田の説明を聞きながら、伸一は幸せを祈った。
 ヴィクトリア・ピークにもケーブルカーで登った。
 山頂の展望台に立つと、林立するビルの彼方に、海が銀色に輝き、大小さまざまな船が行き交っていた。
 伸一は海を眺めながら、岡と平田に語った。
 「香港を東洋の幸福の港にしていこう。ここから幸と平和の光を、アジアに送っていくんだよ」
36  仏法西還(36)
 香港島の見学を終えた一行は、昼食をすませ、午後一時過ぎに九竜(カオルン)にある啓徳(カイタック)空港にやって来た。
 空港には、十数人のメンバーが見送りに来ていた。山本伸一は、皆と一緒に記念撮影をした。
 彼は、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」との御聖訓を思い起こしていた。
 ″香港の地にも、今こうして、地涌の菩薩が出現し、地区を結成することができた″
 伸一は、東洋広布を叫び続けた戸田城聖が、この姿を見たら、どれほど喜ぶだろうかと思った。
 彼はメンバーに言った。
 「まだ、香港にいるのは十数人の同志に過ぎない。しかし、二、三十年もすれば、何万人もの同志が誕生するはずです。皆さんが、その歴史をつくるのです。
 一生は夢のようなものです。一瞬にして消えてしまう、一滴の露のように、はかないものかもしれない。しかし、その一滴の水も、集まれば川となって大地を潤すことができる。
 どうせ同じ一生なら、広宣流布という最高の使命に生き抜き、わが人生を、そして、社会を潤し、永遠の幸福の楽園を築いていこうではありませんか。
 アメリカの同志も立ち上がりました。ブラジルの同志も立ち上がりました。今度は、香港の皆さんが、東洋の先駆けとして立ち上がる番です。私と一緒に戦いましょう!」
 伸一は、搭乗間際まで、力の限り、メンバーを励ました。信心の経験豊かな、柱と頼む幹部がいるわけでもない。明日からは、またメンバーだけで、互いに励まし合いながら、新たな活動を築き上げていかねばならない。それだけに、伸一は、一人一人の胸に深く、信仰の不動な楔を打ち込もうとしていたのである。
 搭乗の時刻になった。
 「では、また、帰りにお会いしましょう」
 彼は手を振り、微笑を残して、ゲートへと急いだ。
 やがて、飛行機は飛び立った。飛する機の窓に、そそり立つ色の岩肌の山が見えた。獅子山(ライオン・ロック)である。
 今、香港の天地に、獅子の子らが目覚め、立った。だが、その力は、まだ、あまりにも小さかった。
 しかし、いつの日か香港は、新しき東洋の世紀を開く広布の大獅子となることを、伸一は確信することができた。希望に胸の鼓動を高鳴らせながら、彼の仏法西還の旅は続いた。

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