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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「民衆の旗」 民衆の旗

小説「新・人間革命」

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1  民衆の旗(1)
 民衆!
 あなたこそ、永遠に社会と歴史の主人公だ。
 いかなる理想も、民衆の心を忘れれば、観念と独断と偽善になろう。正義も、真理も、民衆の幸福のなかにある。
 十一月二十日は、第八回女子部総会であった。会場となった東京・両国の日大講堂の周辺には、早朝から長い列が続いていた。
 この日大講堂は、半年前の五月三日、山本伸一の第三代会長の就任式が行われた会場である。以来、学会として、ここを使用して行う初めての行事が、この女子部総会であった。
 午前八時、総会を祝賀する鼓笛隊の街頭パレードが始まり、澄み切った秋空に軽快な希望の調べがこだました。
 午前九時には、会場は満員となり、場内でも、鼓笛隊のパレードと演奏が披露された。
 更に、女子部合唱団も、「歌の殿堂」(ワーグナー作曲)、「ラデツキー行進曲」(ヨハン・シュトラウス作曲)を合唱し、女子部の新出発に花を添えた。
 午前十一時二十分、総会は開幕した。
 開会の辞で、女子部は部員十五万人を達成し、この日の総会を迎えたことが発表されると、雷鳴のような拍手が、しばし鳴りやまなかった。
 思えば、九年前の七月十九日、東京・西神田の旧学会本部で行われた女子部の結成式に集ったのは、わずか七十人余のメンバーに過ぎなかった。
 それが、昨年十一月の総会で部員十万人に達し、更に今年は十五万人に至ったのである。この一年の歩みは、まさに未曾有の大飛躍といってよい。
 女子部総会では、体験発表の後、森川一正から人事が紹介された。ここでは、各総支部ごとに部長制が敷かれることが伝えられ、その人事が発表されたほか、女子部合唱団の団長に高田カヨが就任した。
 この合唱団の結成は、戸田城聖の提案によるものであった。戸田は、一九五七年(昭和三十二年)八月の北海道指導の折、夕張から札幌に向かう車のなかで、つぶやくように山本伸一に語った。
 「青年部に合唱団をつくったらどうかね……」
 伸一は、その言葉を深く胸に刻み、師の構想の実現に全力をあげた。そして、女子部の幹部らと相談しながら準備を進め、翌五八年(同三十三年)十月六日に結成されたのが、女子部合唱団であった。
 その時から、合唱団の中心となって、活動してきたのが、音楽を学んでいた高田カヨであった。
2  民衆の旗(2)
 この総会で山本伸一は、戸田城聖の「女子部は幸福になりなさい」との指導を引き、幸福について語っていった。
 「アランやエマソンなど、さまざまな哲学者や思想家が、幸福について論じていますが、では、それを読めば、絶対に自分も幸福になり、人をも幸福にすることができるかというと、残念ながら、決してそうとは言えません。
 幸福と平和は、全民衆の念願でありますが、その絶対の原理を示した人は誰もおりませんでした。そのなかで、ただ日蓮大聖人のみが、万人に幸福の道を、具体的に開かれたのであります」
 幸福はどこにあるのか。それは、決して、彼方にあるのではない。人間の胸中に、自身の生命の中にこそあるのだ。
 金やモノを手に入れることによって得られる幸福もある。しかし、それは束の間にすぎない。第二代会長戸田城聖は、それを「相対的幸福」と呼んだ。
 そして、たとえ、人生の試練や苦難はあっても、それさえも楽しみとし、生きていること自体が幸福であるという境涯を、「絶対的幸福」とした。
 この境涯を確立するには、いかなる環境にも負けることのない、強い生命力が必要となる。その生命力は、自身の胸中に内在しているものであり、それを、いかにして引き出すかを説いたのが仏法である。
 伸一は、大確信をたぎらせて訴えた。
 「信心の目的は成仏であり、幸福になることであります。それには、仏法の真髄であり、大聖人の出世の本懐である御本尊への信心以外にありません。それを人々に教え、事実の上に、民衆の幸福を打ち立ててきたのが創価学会です。
 私どもの目指す広宣流布とは、一人一人が幸福を実現することであり、そのための宗教革命であります。
 ヨーロッパのある哲学者は、″人を幸福にすることが一番確かな幸福である″旨の言葉を残しておりますが、弘教には歓喜があり、生命の最高の充実があります。どうか皆さんは、この広宣流布という聖業から、生涯、離れることなく、幸福を実現していっていただきたいのであります。
 人の心は移ろいやすく、はかないものです。これからも、学会は大きな難を受け、誹謗されることもあるでしょう。そうなれば、つい弱気になり、信心を離れていく人もいるかもしれません。
 しかし、真実の幸福の道は、信心しかないことを断言しておきます」
3  民衆の旗(3)
 山本伸一は、ここで、難解な幸福論を語るつもりはなかった。
 皆、幸福への確かな道を知った同志である。後は、それを歩み抜くことだ。
 彼は、話を続けた。
 「女子部の皆さんのなかには、『私には折伏なんてできません』という人もいるかもしれませんが、それでも構いません。牧口先生の時代も、戸田先生の時代も、学会では、折伏をしてくださいなどと、お願いしたことは、ただの一度もありません。
 大聖人が、折伏をすれば宿命を転換し、成仏できると、お約束なさっている。ですから、自分の宿命の転換のため、幸福のためにやろうと言うのです。
 しかも、それが友を救い、社会の繁栄と平和を築く源泉となっていく。これほどの″聖業″はありません。
 なかには、一生懸命に弘教に励んでいても、なかなか実らないこともあるかもしれない。こう言うと、女子部長に怒られてしまうかもしれませんが、皆さんは、まだ若いのですから、決して、結果を焦る必要はありません。
 布教していくということは、自身を高める、人間としての最高の慈愛の修行であるとともに、人々を幸福と平和へと導きゆく、最極の友情の証なのです。
 大切なことは、″あの人がかわいそうだ。幸福になってほしい″との思いをいだいて、周囲の人に、折に触れ、仏法を語り抜いていくことです。
 今は信心しなくとも、こちらの強い一念と友情があれば、やがて、必ず仏法に目覚める時が来ます。
 また、幹部は、弘教が実らずに悩んでいる人を追及したり、叱るようなことがあってはならない。むしろ優しく包み、仏の使いとして、懸命に生きようとしている姿勢を称え、励ましてあげていただきたい。
 更に、いろいろな境遇や立場で、思うように活動に参加できない人もいるでしょう。そのメンバーに対しても、『必ず春が来るように、時間的にも余裕が持てる時が来るから、その時はいつでもいらっしゃい』と言って、温かく励ましてほしいのです。
 ともあれ、私たちは、おおらかな気持ちで、麗しい同志愛を育みながら、幸福の道を進んでまいろうではありませんか」
 弘教の意気に燃えている人には大歓喜がある。そこには、地涌の菩薩の生命が脈動するからだ。伸一が心を砕いていたのは、その弘教の波に乗り切れずにいる友であった。
 彼のまなざしは、常に最も苦しみ悩む人に注がれていたのである。
4  民衆の旗(4)
 女子部総会は、午後一時半過ぎには終了した。
 この日は、第二十九回衆議院議員総選挙の投票日であったことから、開始時間も終了時間も、例年より早めて行われたのである。
 この総選挙の結果は、翌二十一日の午後六時過ぎには、すべての議席が確定し、自民=二百九十六、社会=百四十五、民社=十七、共産=三、諸派=一、無所属=五となった。
 自民党の解散時の議席は二百八十三であり、十三の議席を伸ばしたことは、善戦であった。しかも、この直後に、無所属で立候補し、当選した五人のうち四人が入党したことから、自民は三百議席を確保することになる。
 一方、社会党は解散時の百二十二から百四十五へ二十三の議席を増やしたが、民社党は四十から十七議席へと後退した。結局、革新陣営は、改憲を阻止できる三分の一の議席を、やや上回る前回並みにとどまったのである。
 この総選挙の結果、第二次池田勇人内閣が発足するが、自民党三百議席を背景に、長期安定政権への構えをみせていた。
 山本伸一は、選挙結果を見ながら、日本の政治の行方を憂えた。
 それは、中間的な立場に立つ政党が敗退し、あの新安保条約をめぐっての自社両党の対決の構図が、より浮き彫りにされた結果となったからだ。
 この総選挙の焦点は、議会制民主主義の立て直しにあった。
 新安保条約採決の際の国会への警官隊導入、与党側の単独強行可決、また、社会党の″実力″行使などの異常事態が続いたことから、民主政治の確立が、解散、総選挙のテーマとなっていたのである。
 そもそも、この混乱の最大の要因は、自社両党が初めから党利党略に固執し、本当の意味での討議、審議が行われず、歩み寄りも、合意も、全く見られなかったことにあった。
 そして、自民党が、その議席の数を頼みに、強行採決に持ち込み、新安保条約を単独可決したのである。
 案件について、異なる意見があるのは当然である。審議の決定は、最終的に多数決によらざるをえない。
 それゆえに、党利党略を超えて、国民を第一義とし、合意を求めての慎重な審議を積み重ねていくことが、何よりも重要になる。
 だが、この選挙結果で自信を強めた自社両党は、その姿勢を改めそうにもなかった。
 そうであれば、国民は政治への不信をますます深めていくことになる。
5  民衆の旗(5)
 山本伸一は、いかなる政党が、本当に民衆のための政治を実践しているかを、厳しく見ていた。戸田城聖も、「青年は心して政治を監視せよ」と遺言したのである。
 自民党のこれまでの政策を見る限り、その基調は、大企業擁護にあった。
 また、労働組合組織に所属する労働者のための政策を推進してきた政党はあった。だが、下請けの町工場などで働く人々には、どの政党の手も、ほとんど差し伸べられていないのが実態であった。
 しかし、最も生活苦にあえいでいるのは、そうした町工場の経営者であり、そこで働く人たちであった。どこも労働条件は至って悪く、朝から深夜まで、汗と油にまみれて働いても、収入はわずかでしかない。しかも、なんの保障もなく、もし病に倒れたりすれば、生活は破綻してしまうことになる。
 また、経営者といっても、従業員は家族だけのことも多く、ひとたび不況になれば、真っ先にそのりを受け、仕事を失うのも彼らである。
 伸一は、この本当の″庶民″ともいうべき人々を、誰が本気になって守るのだろうかと思うと、学会の使命の重さを、痛切に感じるのであった。
 真の仏法は、最も苦悩する民衆のなかに分け入り、生きる希望と勇気を与え、知恵と力を湧かせていくものだ。そして、創価学会は一人一人の蘇生と、人間としての自立の道を示し、事実のうえに崩れざる幸福を実現してきた。今や、その流れは、日本の潮流になろうとしている。
 更に、学会は、政治の分野にあっても、庶民、民衆の利益と繁栄を第一に考える、人格高潔にして有能な人材を、地方議会と参議院に送り出してきた。
 人々の暮らしに直結し、生活の便宜を図るうえでは、地方議会の果たす役割は大きかったし、国政を厳しくチェックするうえでは、参議院への進出は、重要な意味を持っていた。
 しかし、民衆のための政治の実現を考えるなら、いつの日か、国政の根幹となる衆議院に、人材を送り出すことも必要ではないか──と、伸一は思った。
 この頃から、彼は日本の政治の現状をつぶさに見すえながら、人知れぬ熟慮を重ねていったのである。
 ともあれ、政治が守るべき根本は、常に民衆であることを、決して忘れてはならない。
 池田首相は「所得倍増計画」を掲げ、豊かな日本の建設を約束した。
 伸一は、それが民衆の豊かさにつながっていくことを祈りながら、日本の未来に思いをめぐらせるのであった。
6  民衆の旗(6)
 山本伸一は、第三代会長に就任した直後、近隣へのあいさつに、当時、通産大臣であった池田勇人の自宅を訪ねたことがあった。大臣の自宅は、学会本部のすぐ近くであった。
 伸一は、応対に出た大臣にあいさつした。
 「私は創価学会の山本伸一と申します。このたび会長になりましたので、ごあいさつにまいりました」
 「会長さんになられたって……。この町の青年会の会長さんですか」
 そして、大笑いになったことを、伸一は懐かしく思い起こした。
 この信濃町周辺には、昔から、多くの歴史的な著名人が居住していた。
 たとえば、犬養毅首相は一九二二年(大正十一年)から、三二年(昭和七年)に「五・一五事件」で生涯を終えるまでの約十年間、四谷区南町(現・新宿区南元町)に住んでいた。
 彼は、三〇年(昭和五年)に、牧口常三郎が『創価教育学体系』を発刊した際に、揮毫を寄せてくれた人である。
 その犬養首相の後を継いだ斎藤実首相の私邸も、四谷区仲町(現・新宿区若葉)にあった。
 また、信濃町ゆかりの人々のなかには、江戸後期の小説家で有名な滝沢馬琴、女性運動家の平らいてう、社会運動家の堺利彦等々もいた。
 堺利彦は、日露戦争の直前、反戦を掲げた『平民新聞』を創刊。その後、長年にわたり、四谷区左門町など、信濃町の周辺に住んでいた。
 一方、信濃町は青山練兵場や軍の各学校に近かったため、軍人の家も多く、日露戦争で「秋山騎兵旅団」の勇名を馳せた秋山好古(後に陸軍大将)も、西信濃町の地に居を構えた。
 その弟の真之は、日本海海戦の際に、「天気晴朗なれども波高し」の名文句を残した連合艦隊参謀(後に海軍中将)であったが、彼も兄のこの家に、よく出入りしていたという。
 更に、日中友好の道を開いた先人である高碕達之助の自宅も、犬養邸の並びであった。
 彼は、生前、創価学会に深い信頼を寄せており、中国の首脳にも、山本伸一会長と会うことを促していた。そして、逝去の半年前、伸一と語り合い、日中の懸け橋となるよう、期待を託したのである。
 伸一は、学会本部に会合などで人が来るたびに、隣近所に迷惑をかけないよう心を砕くのが常であった。
 彼は、近隣を大切にする心が深かった。
7  民衆の旗(7)
 十一月の下旬になると、新出発の歓喜の波は、本州を北上し、東北の地に及んだ。二十二日の山形に始まり、南秋田、岩手と、会長山本伸一が出席して、支部結成大会が相次ぎ開催されたのである。
 東北の大地には、人々の血と涙の歴史がある。
 近代に入ってからも、農民は、ひとたび日照りや冷害に見舞われれば、生活の糧を失い、借金にあえぐことを余儀なくされた。娘の身売りといった話も、決して、遠い昔のことではなかった。
 また、収穫が終われば、男たちは都会に働きに出なければならなかった。子供も長男を除けば、中学を卒業すると、集団就職で東京などに出てゆくケースが少なくなかった。
 そして、その人たちが、労働の現場の最前線に立って、過酷な条件のなかで黙々と働き、日本の経済成長を支えていたのである。
 伸一は、寡黙だが、忍耐強い、東北の友を愛していた。その純朴な心が何よりも好きであった。
 彼は、この東北の山河を、幸福の金色の光で包み、民衆の″凱歌の調べ″を奏でようと、山形の大地に立った。
 山形支部の結成大会は、山形市の霞城公園内の県営体育館に、約七千人の同志が集って、午後六時前から行われた。
 伸一は、ここでは、民衆のための仏法について語っていった。
 「インドの釈尊の仏法を振り返ると、どちらかといえば、まだ貴族的であったと言えます。釈尊は王子の地位を捨てて出家し、一切衆生の平等を説きましたが、その後の教団を中心的に担ったのは、多くが上流階級でした。
 また、中国の天台大師や日本の伝教大師の時代も、やはり上流階級が中心になって信仰しております。
 それに対して、日蓮大聖人は、御自身も『旃陀羅が子』と仰せのように、最下層の民衆として、凡夫の姿のまま出現され、最も悩み苦しむ、貧しい民衆を救おうとして法を説かれた。つまり、日蓮仏法こそ、真実の民衆の味方であり、″民主主義″の根幹をなすものであると、私は申し上げたいのであります」
 大聖人は「平左衛門尉頼綱への御状」のなかで「貴殿は一天の屋梁為り万民の手足為り」と仰せである。
 つまり、為政者である平左衛門尉頼綱は、国を支える梁であると同時に、万民の手足であると、言い切られている。
 まさに、民衆あっての為政者であり、どこまでも民衆が主人であるとの大宣言であったのである。
8  民衆の旗(8)
 日蓮大聖人への迫害の要因には、民衆を第一義とする大哲理への、権力者の恐れと警戒があったにちがいない。
 その権力者に、諸宗の僧が擦り寄り、結託して大聖人を亡き者にしようとした。折伏によって、自宗の教えの誤りを、完膚なきまでに破折されたことへの恐れと恨みからであった。
 宗教と権力との関わり方を見る時、その宗教の本質は明白となる。たとえば、当時の高僧・極楽寺良観は、見せかけの慈善事業で人々の目を欺く一方、幕府の手厚い庇護を受けて利権をほしいままにし、主要街道に木戸を設けて通行料を取るなど、民衆の生活を圧迫していたのである。
 多くの宗教が権力の奴隷となっていくなかで、大聖人は一歩も退くことなく、果敢に国主への諫暁と、諸宗への折伏を続けられた。それゆえに、迫害は熾烈を極めた。
 学会は、その大聖人の民主の大哲理を掲げて、民衆のために戦い抜いてきた。そして、戦時中は、信教の自由を守り抜くために、国家神道を精神の支柱とする軍部政府の大弾圧を受け、牧口初代会長は獄中にいた。
 宗教は権力にくみするならば、結局は、権力の支配と管理の鎖にがれ、自立の道を断たれてしまう。そして、遂には、民衆の救済という宗教の本来の使命を捨て、魂を売り渡してしまうことになるのは、当然の理である。
 学会は永遠に民衆の側に立つ。ゆえに、これからも行く手には弾圧があろう。謀略の罠も待ち受けていよう。しかし、民衆の栄光のために獅子王の如く戦い、勝つことが、学会には宿命づけられているのだ。
 山本伸一は、それから「仏」について言及した。
 「世間では、人が亡くなることを『成仏』と言い、亡くなった方を『仏』と言いますが、それは、誤りです。死ねば成仏し、仏になるのであれば、生きている時に仏道修行に励む必要はなくなってしまう。
 本来、仏法では、私たちの胸中に『仏』という生命が具わっていると教えています。その生命は、いかなる環境にも負けることのない最高の生命力であり、価値を創造する源泉と言えます。あるいは、自己の人間完成へと向かう強靭な意志力と言ってもよい。
 それを涌現させていくことが成仏であり、そのために、大聖人は御本尊を御図顕になられた。私たちは、この御本尊を信じ、唱題していく時、死んだ後ではなく、現実の社会で価値を創造し、幸福への道を開いていくことができる。それが信心即生活の原理です」
9  民衆の旗(9)
 山本伸一の話は続いた。
 「『仏』とは、架空の存在では決してない。妙法を広め、人々の幸福のために、一日一日、精進を重ねていく尊い同志こそ、つまり、皆様方こそ、尊極の『仏』なのであります」
 彼は、最後に、山形の友の健闘を呼び掛け、話を結んだ。
 翌二十三日の早朝には、彼は、秋田の大曲市に向かった。さすがに肌寒かったが、雲一つない青空がさわやかであった。
 秋田は″日本海の雄″として、戸田が手塩に掛けた組織であった。伸一も、恩師の心をいだいて、幾度か訪れた思い出の地である。
 その秋田が二支部に分割され、県南に南秋田支部が誕生したのである。
 新支部の結成大会が行われる会場には、朝から歓喜に燃えた参加者が続々と集ってきた。その数は刻々と膨れ上がり、瞬く間に会場は人であふれてしまった。急きょ、周囲にはゴザが敷かれ、更に別の部屋も借りて、ようやくメンバーを収容した。参加者数は、実に一万二千人にのぼった。
 午後一時前、支部結成大会は開会となった。
 彼は、ここでも、学会は「会員第一」「民衆根本」であることを訴えた。
 「……私ども創価学会の精神、また幹部の自覚とは何か。それは、すべて『会員のため』『民衆のため』の学会であり、幹部であるということであります。
 ″壇上にいて、ずいぶん偉そうでいいな″とお思いになるかも知れませんが、私には、自分が偉いと思う心など微塵もありません。また、理事室も、各支部の幹部も、そんな心があってはならないのです。
 その意味で、学会の役職に『先生』を付けて、『会長先生』とか、『理事長先生』と呼ぶことが一部にあるようですが、そういうことは、やめていきたいと思います。
 しかし、『原山』とか、『関』とか、呼び捨てにいたしますと、軍隊か何かのようになってしまいますので、『原山理事長』でも、『原山先生』でも、あるいは『原山さん』でも結構です。私の場合も、同じことであります。
 私どもは御本尊のもとにすべて平等です。いな、むしろ、皆さん方のための幹部であります。
 今回、任命された山本支部長は、私と同じ姓でもありますし、この同じ『心』で、全支部員のなかに飛び込み、全支部員と苦楽をともにし、指揮を執ってくれると信じております。また、それでこそ、まことの創価学会の支部長であると申し上げておきます」
10  民衆の旗(10)
 南秋田支部の支部長になった山本久は、秋田県東部の角館で木材会社を営む、長身の偉丈夫であった。角館は、古来、小京都と言われている所である。
 その新しい幹部に、山本伸一は、まず会員への奉仕の精神を身につけてほしかったのである。
 「民衆に君臨するリーダー」でなく、「民衆に尽くすリーダー」へ──それは「王は民を親とし」と仰せのように、日蓮大聖人の一貫した指導者観にほかならない。
 そこには″民主″の基を成す、根本の思想がある。それは、まさに、偉大なる思想革命であったといってよい。
 伸一は、この後、御本尊の功力について語り、南秋田支部の結成大会での指導とした。
 十一月二十四日は、岩手県へ移動する日であった。
 伸一は、東北総支部長で理事の関久男らとともに、朝早く、車で横手に向かい、寺院の建立の候補地を視察した。それから、横黒線(現・北上線)に乗り、北上駅で乗り換え、盛岡へ向かった。
 盛岡は初の訪問である。南部富士・岩手山の美しい稜線が、薄曇りの空に墨絵のように浮かんでいた。
 岩手支部の結成大会は、午後六時から盛岡体育館で行われた。ここも予想以上の参加者で、急きょ、第二会場として借りた、隣接地の建物も人でいっぱいに埋まっていた。
 岩手は、近年、急速に伸びてきた地域であり、生前の戸田を知らない会員も少なくなかった。
 伸一は、ここでは、「仏法と申すは道理なり」との御文を拝して、日蓮大聖人の仏法は、生命の因果の理法を説き明かした最高の道理であることを述べ、その信仰のなかに、幸福への唯一の道があることを訴えた。
 更に、第二会場へも足を運び、かなりの時間を費やして指導に当たった。
 同志は、皆、時間のないなか、求道心を燃やして集って来る。交通費を工面して、バスや列車を乗り継いで、半日がかりでやって来た人もいる。あるいは、残業を切り上げ、上司や周囲の人を気遣いながら、駆けつけて来た人もいるにちがいない。
 そうした人たちが第一会場に入れず、伸一の顔さえ見ることもなく、帰っていくことを思うと、彼は、身を切られるほど辛かった。
 それゆえ、伸一は疲れ果ててはいたが、友が心から納得し、そのが歓喜と決意に燃えるまで、渾身の力を振り絞って、全魂を込めて指導したのである。
11  民衆の旗(11)
 東北指導から東京に戻ると、山本伸一は、二十六日には、城の水戸に向かい、水戸支部の結成大会に出席した。会場となった県営の体育館は、約八千人の友であふれた。
 結成大会は、百花に先駆けて春を告げる梅の花のように、幸福への決意みなぎる集いとなった。
 指導を終えた伸一が控室に戻ると、一人の婦人がやって来た。家族とともにブラジルのサンパウロに移住するために、明日、日本を発つと言う。
 彼は、開口一番、強い口調で言った。
 「現実にブラジルで生活を始めれば、想像を絶する苦労があるでしょう。楽園のような生活を夢見たら失敗します。どこも生存競争の社会であり、みんな自分が生きるだけで精いっぱいです。誰も応援なんかしてくれません。
 同じ日本人だから周囲が自分を守ってくれるなどと思ったら、大きな間違いです。むしろ、騙そうとする人もいるでしょう。それが現実です。私は、本当のことを言っておきます」
 その言葉に、居合わせた幹部は驚きの色を隠せなかった。優しい励ましの言葉を期待していたのである。
 「結局、最後に頼りになるのは、自分しかいない。だからこそ、その自分の力を引き出すために、御本尊を頼りとする以外にありません。
 したがって、何があっても、絶対に御本尊様を抱き締め、信心を全うしていくことです。それが私のはなむけの言葉です」
 婦人の顔が引き締まり、瞳に決意の光が差した。
 伸一はブラジルで、現地の友との語らいを通し、そこで生きることの厳しさを実感してきた。通り一遍の甘い励ましなど、なんの力にもならないことを、彼はよく知っていた。
 婦人に必要なのは、何ごとにも負けない不屈の覚悟であった。
 彼は、胸のポケットに差していた万年筆を取ると、婦人に差し出した。
 「これを差し上げましょう。これで、あなたの、人生の勝利の″金の日記″を綴ってください」
 それを受け取る婦人の目が潤んだ。傍らにいた婦人部長の清原かつが、婦人の肩をポンと叩いた。
 「よかったわね。ブラジルにも支部が出来たんだから、組織について、しっかり頑張るのよ」
 婦人は、何度も礼を述べると、決意に燃えた顔で部屋を後にした。
 伸一は、この婦人が、幸福の凱歌をあげることを祈り、念じて、その後ろ姿を見送るのだった。
12  民衆の旗(12)
 晩秋の日比谷公園は、黄金の絨毯を敷き詰めたように落ち葉に包まれていた。
 十一月二十七日の正午前、山本伸一は日比谷公会堂にやって来た。学生部の第二回学生祭に出席するためであった。
 会場の前で、学生部長の渡吾郎が出迎えていた。
 車を降りると、伸一は語りかけた。
 「いよいよだね。今日は楽しみにしているよ」
 学生祭に寄せる伸一の期待は大きかった。そもそも、この学生祭は、前年の六月に、彼が提案したものであった。
 伸一は、偉大なる宗教は人間の生命の大地を育み、偉大なる文化、芸術を創造しゆく原動力となることを確信していた。その開拓の使命を、学生部に託したかったのである。
 彼の提案を受けて、一年前の十一月二十三日に、神田の共立講堂で第一回の学生祭が開催された。
 当時、総務として、初の学生祭に出席した伸一は、「この催しこそ、色心不二の哲学を根底とした大文明、文芸復興の夜明けである」と激励している。
 そして、激動の一年が過ぎ、ここに二度目の学生祭の開催となった。
 伸一は、晩秋の日差しに映えた、レンガ造りの公会堂の外観を見上げた。
 一カ月半前、この同じ会場で、十七歳の少年・山口二矢による社会党の浅沼委員長の刺殺事件が起きたのである。
 伸一はその事件を、カナダの地で知った。悲しい事件であった。犯人の少年は、二十五日前の十一月二日、鑑別所の独房で自ら命を絶っていた。
 また、五カ月前の″安保闘争″の混乱のさなかに命を落とした、女子学生・樺美智子の慰霊祭、″国民葬″が行われたのも、この会場であった。
 次代を担いゆく若人の死に心を痛めてきた彼にとって、新しき人間文化の創造に取り組む学生たちの姿に接することは、何よりも嬉しかった。
 正午、学生祭は開演となった。渡学生部長のあいさつに続いて、男声合唱、弁論、関西の有志による剣舞、女子学生の演劇「夕鶴」と、熱演が展開された後、休憩に入った。
 伸一は、すぐ二階ロビーに向かった。そこには、絵画をはじめ、書道、写真、手芸、彫刻、生け花など、学生部員の作品が、所狭しと展示されていた。それは大家に比べれば、いかにも稚拙であり、粗削りであるにちがいない。しかし、どの作品にも、新しき世紀を開かんとする意気と、生命の輝きがあった。
13  民衆の旗(13)
 展示コーナーには、都市計画のパノラマなどに交じって、″未来の総合大学″の模型もあった。やがて創設されるであろう「創価大学」を、想像して製作したものという。山本伸一が折に触れて語っていた構想に、若き俊英たちは敏感に反応してくれたのである。
 更に、ロビーの壁には、現代学生の宗教観、人生観などに関するアンケート調査や、意欲的な研究発表も張り出されていた。
 また、会場の一角に、見慣れぬ雑誌が積み上げられ、周囲には、人の輪ができていた。
 それはA5判、四十八ページのささやかな雑誌であるが、表紙には、峨々たる連峰が描かれ、力強い毛筆の題字が躍っていた。学生部の理論誌として産声を上げた、雑誌『第三文明』の創刊号であった。
 しばらく前、渡学生部長をはじめ、学生部の中心メンバーが伸一の所にやって来た。彼らは、秋の学生祭を記念して、何か出版したいとの意向を伝えた。
 伸一は、その自発的な心に喜びを覚え、笑みをたたえて言った。
 「応援しよう。内容も、タイトルも、みんなでよく検討し、時代を開く新しい潮
 流 をつくっていくんだ」
 二十人ほどが編集スタッフとなり、部員宅を借りて編集会議が始まった。議論は百出した。学生部員の雑誌なのだから、「学生生活と信仰」など、なぜ信仰が必要かを論じようとの意見もあった。また、墓地問題など、学会の前進を妨げようとする動きに対して、その違法性を鋭く突く″戦う雑誌″にしなければならないと、主張する人もいた。
 更に、論壇を設けて、教学への深い考察をはじめ、世界情勢、教育、文学などを、仏法の視座から論じていこうとの企画も出た。
 やがて、構成も決まり、原稿は次第にそろっていったが、肝心の表題の決定が一番難航した。皆、知恵を絞り、議論を重ねた結果、『第三文明』という表題がよいのではないかということになった。学生たちは、その案をもって、伸一のもとに相談にやって来た。
 「先生! 雑誌の題は、『第三文明』でいきたいと思いますが……」
 彼は、ニッコリと頷き、皆に言った。
 「いい名前だ。じゃあ、ぼくが題字を書こう。みんな、墨をすりなさい」
 伸一は、皆が一緒に墨をすることで、青春の建設の思い出をつくってあげたかったのだ。
 彼が、「字が下手で悪いね」と言いながら、題字を書き上げると、学生たちの笑顔が輝いた。
14  民衆の旗(14)
 『第三文明』という表題が決まり、題字も出来上がった。山本伸一は、後の表紙全体のデザインは、編集のスタッフ一同に委ねた。
 彼は、若き編集者たちに語るのであった。
 「この雑誌は、長く長く持続させてほしい。地味であっても、若い人々から、知性のある本である、勇気のある本である、切れ味のよい本である、目が覚めるような本である、と言われる、正しい人生観に生きようとする学生たち、青年たちの味方になる本にしてほしいのだ。
 『第三文明』という題は、一般的には、まだ馴染まないかもしれない。しかし、数十年たった時には、重要な思想をはらむ、深い意味があることを、多くの人が理解するであろう」
 伸一は、この雑誌の発刊を祝して、巻頭言を寄せる約束をしていた。
 しかし、連日の激務で、どうしても執筆の時間が取れなかった。そして、十一月二十二日には、東北指導に向かったのである。
 原稿の締め切りは次第に迫りつつあった。編集スタッフは、伸一のスケジュールを考えると、かなり無理な原稿の依頼であったことが痛感された。
 ところがその夜、山形の伸一から、学会本部にいた副理事長の十条潔に電話が入り、口頭で原稿が伝えられた。彼は、支部結成大会の多忙ななかで、原稿を書き上げ、学生たちとの約束を果たしたのである。
 「新しき世紀の鐘をならす『第三文明』の発刊まことにおめでとう。
 学生の、また若人の人生観、世界観等を思う存分訴えていける機関の書であっていただきたい。
 万人は、唯心思想を越え、唯物哲学を指導してすすむ、この、第三文明の建設を待っている。
 願わくは、この書が大生命哲学を根底とした、諸君の知性と実践への情熱の縮図であられんことを。
 この一書は、将来、多くの学生や青年に、なんらかの価値を与えていくことは間違いない、と、私は確信したい。
 一粒の種が風雪にまけず、大空をおおう大樹となるが如く」
 編集のスタッフは、小躍りして喜んだ。確かに、まだ無名で小さな雑誌だが、この「一粒」が、混迷する時代の空に希望の若葉を広げゆくことを思うと、皆、胸が高鳴るのを覚えた。
 なお、この『第三文明』は、やがて出版社として独立し、正義と人道の言論をもって、新しき時代を創造する雑誌として、多くの青年たちの支持を得るに至っている。
15  民衆の旗(15)
 休憩の後、学生祭は、音楽隊の演奏、女声合唱と続き、男子学生の演劇『三国志』となった。
 小説『三国志』は、山本伸一をはじめとする「水滸会」の青年たちが、戸田城聖から学んだ忘れ得ぬ作品である。戸田は、火花の散るような訓練を通し、人生の道を教え、峻厳なる創価の精神を青年たちに伝え残そうとした。
 その心を、若き学生部員が、三幕三場の舞台に表現しようとしたのである。
 彼らは、衣装や舞台装置も、時代考証に基づき、自分たちの手で製作した。
 『三国志』の第一幕が始まった。民衆のため、天下の平和のために、諸孔明の決起を促す劉備玄徳。三度に及ぶ、その至誠の懇請を受けて、孔明は立つ。歴史に名高い「三顧の礼」の場面であった。
 第二幕では、先帝玄徳の死後、心を分かち合う友も主人もなく、孤独に苦しむ孔明を描く。彼は、ただ一人、玄徳の遺志を継ぎ、天下を治めんと誓う。
 そして第三幕。孔明は、自ら陣頭指揮を執り、未踏の大遠征を決意する。
 「余は死を恐れない。もし余が倒れることがあるなら──よいか、みなの者、我が屍を踏み越えて、二陣三陣と続け!」
 死を覚悟した丞相の真意を知り、ともに雄飛を誓う将軍たち。そこには、恩師亡き後、世界広布の大業に続かんとする後継の決意がみなぎっていた。
 ──皆、本当によく成長した!
 伸一は、真っ先に拍手を送りながら、確かな手応えを覚えた。
 この後、学会の記録映画を観賞した。
 そして、幹部のあいさつに続いて、最後に伸一がマイクの前に立った。
 「今日は学生部の諸君とともに、楽しく、また有意義に過ごさせていただき、心から御礼申し上げます。本当にご苦労様、ありがとうございました」
 彼は、見事な学生祭を称えた後、「仏法」と「世界のさまざまな思想」との関係性に言及した。将来、学生部が真正面から取り組むべき課題として。
 「法華経の開経である無量義経に、『無量義とは一法より生ず』という原理が説かれております。
 この『一法』とは、文底の立場でいえば、南無妙法蓮華経のことであり、即、三大秘法の御本尊様のことでございます。そして『無量義』とは、釈尊のいっさいの教えであり、更には、あらゆる思想・哲学のことであるとも言えます」
16  民衆の旗(16)
 学生たちは、山本伸一の話に、瞳を輝かせ、耳を澄ませた。
 「南無妙法蓮華経とは、生命の根本法であります。それに対して、カントやヘーゲルの哲学、またはソクラテス、プラトン、アリストテレス、孔子、孟子、マルクス等のいっさいの思想家、哲学者の説いた哲理というものは、いわばその一部分を示しているにすぎないと言えます。
 みずみずしい緑の枝葉の広がりも、深く大地に根差した一根を離れてはあり得ません。同じように、あらゆる思想、哲学も、南無妙法蓮華経という生命の究極の『一法』、すなわち大聖人の仏法に立脚してこそ、真の人間の幸福を実現しゆくものとして開花するのであります。
 また、それをなすのが、諸君の使命であると申し上げておきたい」
 続いて、伸一は、十四世紀から十六世紀のヨーロッパに興隆したルネサンスへと話を進めた。
 「また過去においては、有名なルネサンスがあり、文芸復興、人間復興が唱えられました……」
 ルネサンス──この言葉を語るとき、彼の胸には、春の嵐のような熱情とともに、懐かしい記憶が蘇ってくるのであった。
 国破れ、一面の焼け野原と化した戦後、人々は飢えにさいなまれていた。しかし、若者たちの多くは、同時に、精神の空白を満たす心の糧を、未来への希望を切実に求めていた。伸一もまた、不滅の光源を求めて精神の遍歴を始めていた。
 そのころ、友人と、ひもといた一書に、イタリアの詩聖ダンテの『神曲』があった。一万四千余行に及ぶ、この大叙事詩を読んでは、彼はルネサンスの精神を語り合った。
 ルネサンスとは「再生」「復興」の意味である。その歴史的な意義を一言で語ることは難しいが、そこには長い「冬」の時代を超えて、開放的な「春」を迎えようとする決意と喜びが込められている。
 ヨーロッパの中世では、キリスト教の「神」を頂点とするピラミッド型の位階秩序が、強固な世界観として定着していた。たとえば社会は「教会」中心、身分は「聖職者」中心、生活の態度も、僧院に閉じこもる「瞑想生活」が優れたものとされた。
 いわば、その人が「何をしたか」より、身分や地位で、人間の価値が決まったのである。そこには、恐るべき倒錯と欺瞞がある。つまり、額に汗して働く市民より、腐敗、堕落していても僧侶の方が「神に近い」ということになる。
17  民衆の旗(17)
 人々は、神の名の下に定められた不条理な秩序への服従に、強い疑問をいだき、変革の波が起こった。
 最初の舞台は、どこよりも早く金融業や商業が発達し、普通の「市民」が自立した力を持つに至った、あのダンテの故郷のフィレンツェである。
 ──聖職者だから偉いのか。貴族だから偉いのか。神学だけが、僧院生活だけが尊いというのか。現実社会のなかで、「善き人間」として、「善き市民」として、生きている人こそ尊いはずだ。
 市民たちは、堂々と世俗の生活を謳歌し、自分の言葉で、自分の思いを赤裸々に語っていった。その模範としたのが、古代ギリシャ・ローマの「人間性の春」であった。この「春」の再生への人々の願いが、ルネサンスの源泉となった。
 彼らは誇らかに叫んだ。「古代に帰れ! 人間に帰れ!」と。
 その叫びは大波となって社会に広がり、そして、古臭いシキタリの封印をはぎ取り、神と教会のくびきから人間を解き放った。多くの天才たちによる絢爛たる芸術、文化の開花も、その一部にすぎない。
 それは、まぎれもなくヒューマニティーの勝利であった。
 しかし、それによって、人間は真の自由を、真の歴史の主役の座を手にしたであろうか。むしろ意に反して、人間は自らを律する術をなくし、「制度」や「イデオロギー」、あるいは、「科学」や「技術」の下僕と化しはしなかったか。
 自由への道は、いわば複雑な矛盾と背理の迷路であった。それは、人間そのものの不可解さ、複雑さであり、矛盾にほかならない。
 山本伸一は訴えた。
 「真実の人間復興、文芸復興を進めていくには、人間を開花させる、内なる生命の至極の法を求めゆくことが不可欠です。それによって、人間自身の生命の変革、すなわち人間革命がなされてこそ、人間復興も可能になる。
 そして、その哲学こそ、色心不二の日蓮大聖人の仏法であり、それをなすのが私どもであると、宣言するものでございます。
 願わくは、学生部の諸君は、信心を根本として、科学界に、政治界に、あるいは文豪として、また、大芸術家として、世界に羽ばたいていただきたい。
 自分自身も喜びに満ち、最高の幸せを感じつつ、すべての人々に、希望と幸福を与えていける偉大なる人材であられんことを心から切望し、私の話とします」
 若き瞳が光り、拍手が暁鐘のように鳴り響いた。
18  民衆の旗(18)
 街路を吹き抜ける木枯らしが、冬の到来を告げた。
 十一月度の本部幹部会は二十八日、東京体育館で行われた。
 席上、理事の白谷邦男から、折伏の成果が発表された。それによると、この月の本尊流布は、五万五千四百八十五世帯であり、学会総世帯数は約百六十七万五千となった。
 喜びは怒涛の大拍手となって、場内にこだました。
 この年の学会の総世帯数の目標は、百五十万であった。それが、既に十七万五千も上回り、十二月度には目標を二十万もオーバーする、百七十万世帯に達することは間違いなかった。
 しかも、日本国内だけでなく、ロサンゼルス支部が四十二世帯、ブラジル支部が十二世帯の布教の成果を実らせていた。
 日本の支部と比べ、メンバーの数も至って少ないことを思えば、この両支部は大変な健闘と言ってよい。いよいよ海外も回転を開始したのだ。
 また、本部幹部会では、関東に、多摩川、城南、大森、品川、城西、都南、宇都宮、大、豊島の九つの支部の結成が発表された。これで学会は百十二支部の陣容になったのである。
 この日、指導に立った山本伸一は、同志の健闘を心から称えた後、来年度の目標について語った。
 「来年は『躍進の年』を合言葉に進んでまいりますが、弘教は三十万世帯を目標にしたいと思います。本来ならば、五十万世帯ぐらいを目標にすべきところですが、既に本年、年間目標を二十万世帯もオーバーしてしまうことになりますので、ゆっくりと、活動を推進していきたいと思いますが、いかがでしょうか」
 参加者は万雷の拍手でこれに応えた。
 「来年三十万世帯の折伏を成し遂げれば、総世帯は二百万となります。
 これでは、まだ足りないと思われる方は、ご自由にもっと弘教をしてくださって結構ですが、決して焦ることなく、楽しく、着実に活動を進めてまいろうではありませんか。
 また、十二月の本部幹部会の時に、お元気な姿を見せていただきたいと思います。本日は、大変にご苦労様でございました」
 彼の話は簡潔であった。
 学会は今、未曾有の広宣流布の上げ潮をもたらし、大きく水かさを増しつつあることを、伸一は感じた。
 ″戦いは軌道に乗った。……今年も後一カ月。万全の総仕上げをしよう。いよいよ、これからだ。一日一日が真剣勝負だ!″
 伸一は、ますます闘志を燃え上がらせていた。
19  民衆の旗(19)
 師走に入ると、山本伸一の動きは、ますます激しさを増した。
 十二月の三日から八日までは、九州、関西、四国、中国の指導が待っていた。
 三日の午後、大分に到着した伸一は、別府にある宿舎の旅館に向かった。夜には、旅館で翌日の大分支部の結成大会の打ち合わせを行うことになっていた。
 彼は旅館に着くと、同行の幹部に、用意してきた土産などを、全従業員に、一人も漏れなく手渡すように指示した。旅館に地元の幹部を招いて、打ち合わせを行えば、人の出入りも激しくなり、従業員にも迷惑をかけることになる。
 また、もし、従業員の応対が悪ければ、やって来た同志に、いやな思いをさせてしまうことにもなる。そうさせないための、彼の配慮でもあった。
 伸一は、この大分支部の結成大会には、特に力を注ごうとしていた。九州には既に九支部が結成されていたが、大分県には支部がなかった。今回、大分支部が結成大会を行うことで、九州の布陣はすべて整うことになるのだ。
 夜、結成大会の打ち合わせが始まった。
 地元の幹部が、体験発表をする辻堂糸子という四十半ばの婦人を伸一に紹介した。見るからに苦労を重ねてきた感じのする、やせた婦人であった。
 「どういう体験ですか」
 伸一が尋ねた。
 「はい。貧乏を乗り越えた体験です」
 彼女は、かしこまって、体験のあらましを語った。
 「いい体験だ」
 伸一が言うと、同行の幹部が辻堂に語った。
 「それでは、今の話を原稿にまとめなさい」
 彼女は困った顔で、申し訳なさそうに答えた。
 「字の稽古をしちょりませんけん、書けません」
 辻堂は、家庭が貧しく、幼いころから働かねばならず、小学校にも満足に通えなかったようである。
 「それじゃあ、君がもう一度、話を聞いて、原稿に書いてあげることだ」
 伸一が、同行の幹部に促すと、辻堂は首を振った。
 「書いてもろうても、読めません」
 それを聞くと、笑いながら伸一は言った。
 「そうか、それなら、原稿なしでやってしまおう。
 今夜は、明日、話すことを頭のなかで整理し、しっかり唱題して、よく休んでください。明日は、自由にのびのびと、ありのままに話せばいいんです」
 こう励ましたものの、伸一も気掛かりであった。
20  民衆の旗(20)
 四日は晴天であった。
 大分支部の結成大会の会場となった、大分市内の県営体育館の周辺には、朝から長い人の列ができた。
 正午、開会となった。
 ほどなく、体験発表が始まった。
 辻堂は参加者に一礼すると、話し始めた。
 「うちの主人は、頭がおかしかったんです!」
 最初の一言で、爆笑が広がった。その夫は、支部幹事として、この日、壇上に座っていた。
 「主人は、子供の時、病気をしてから、頭がおかしくなりました。兄弟も、友達も、誰もまともに相手にしてくれません。
 結婚したころ、主人は家具を作っていましたが、寸法の違うちょるのを、どんどん作り出すんですわ。作ったもんはぜーんぶ突っ返されて、材料代で借金の山ですわ。それに、満足に計算もでけんし……」
 夫は、うつ病であった。仕事ができない時期が十年以上もあった。彼女は、五人の子供を育てるために、家具の塗装の仕事を見つけて、働きに出た。男性に交じっての辛い仕事である。しかし、それでも生活は楽にならず、食べる米にも事欠くありさまだった。
 そんな生活にいや気がさしてか、反抗的になり、家出を繰り返す子供もいた。希望のない暮らしに、死んでしまおうかと思ったこともあった。
 彼女は、何もかも、洗いざらい話した。話しているうちに涙が出てきた。辛かった日々が思い出され、情けない、惨めな気持ちになっていった。
 ふと、もうこんな暗い話はやめてしまおうと思い、壇上の伸一を振り返った。
 その目に、微笑みながら拍手を送る山本会長の姿が映った。
 ″先生も、喜んで見守ってくれちょる! 途中でやめたらいけんじゃろうな。なんもようならんところで話をやめたら、体験発表にはならんもんな″
 辻堂は気を取り直して、また、マイクに向かった。 三年前の夏、夫妻は学会に入会する。
 福岡から夏季折伏にやってきた学会員が、家出を繰り返していた息子に、「この辺で、貧乏や病気、夫婦ゲンカとかで悩みよる家ば知らんか」と尋ねたところ、「みんな、ウチにあるわ」と、その人を連れて来たのである。
 夫妻は″この信心で本当に幸せになるんなら……″と、その場で、すぐに入会を決意した。既に頼るべきものは、何もなかったのである。
21  民衆の旗(21)
 辻堂夫妻は純粋だった。幹部の指導通りに、真剣に勤行・唱題に励み、何もわからないながらも、懸命に折伏を始めた。
 最初は、貧しい夫妻の言葉に、素直に耳を傾ける人など誰もいなかった。返ってくるのは、「夫婦で南無妙法蓮華経狂いか」とのりの言葉だった。
 しかし、″真剣″と″誠実″に勝る力はなかった。その熱意に打たれて、次々と入会する人が誕生したのである。
 だが、困ったのは、その後の信心指導だった。二人とも、理路整然とした話などできない。
 入会させた同志を成長させるには、先輩に会ってもらうしかないと思った。乏しい生活費を切り詰めては交通費を捻出し、同志を連れて、地区のある福岡県の博多まで、指導を求めて、毎週のように通った。
 入会して、一年ほどしたころ、夫妻で家具店を始めることにした。ところが、工面した現金を手に問屋に向かう途中、掏られたのか、落としたのか、金をなくしてしまった。
 途方に暮れたが、当たってくだけろと、無一文、無担保で問屋に掛け合った。問屋の主人は驚きつつも、「その度胸に惚れた」と言って、希望する品物をすべて渡してくれた。
 店を開いたものの、人通りのない、田圃と池に囲まれた場所である。初めは全く客は来なかったが、唱題に励むと、支払い直前になって、飛ぶように売れた。問屋の借金を返しても、かなりの現金が残った。
 それを元手に、本格的に家具の製造・販売をスタートした。
 ある日、夫が言った。
 「頭が氷で冷やされたような感じがする。気持ちが晴れ、喜びが出てきた」
 それから、難しい仕事も、意欲的にこなすようになっていった。病を乗り越えたのである。
 作った家具の評判もよかった。宣伝もしないのに、客から客へと話が広がり、製造が追いつかないほどの売れ行きである。
 そして、今では貧乏も克服し、一家和楽の幸福な家庭を築いたという体験であった。
 最後に辻堂糸子は、しみじみとした口調で語った。
 「私は学問もないし、誇れるもんはなんもありません。ただ信心だけは素直にやってきました。それで、自分でも信じられんぐらい、幸せになっちょります。御本尊様に不可能はないちゅうことです。その信心を教えてもろうた学会に、心から感謝しちょります」
 素朴だが、切々と心情が伝わってくる、感動的な体験発表となった。
22  民衆の旗(22)
 辻堂糸子は、壇上で万雷の拍手に包まれながら、山本伸一の方を見た。
 目と目が合うと、伸一は大きく頷きながら、祝福の拍手を送り続けた。
 体験発表とは、見方によっては、自分の過去の恥を暴露することとも言える。しかし、その体験談が学会の随所で、喜々として語られているのは、それに勝る苦悩を克服した喜びがあるからだ。そして、同じように苦悩を抱えている人々に対して、早く幸せになって欲しいという慈愛の発露にほかならない。
 更に、どんなに自分の過去をさらけ出しても、それによって蔑まれたり、差別されることはないという信頼の絆があってこそ、成り立つものといえよう。
 ともあれ、無名の民衆が織り成す人生の凱歌の姿のなかにこそ、日蓮仏法の偉大なる法理の証明があり、創価学会の実像がある。
 後のことになるが、読み書きさえできなかった、この辻堂糸子は、学会活動に励むなかで勉強の必要性を痛感して、懸命に学習に励み、やがて、教学部の教授になっていくのであった。
 また、夫妻で車の免許も取り、友の激励に奔走し、県の幹部など、多数の人材を育んでいった。更に、彼女の折伏は二百世帯を超えるに至っている。
 「信仰の道」「幸福の道」の勝者の要件とは、学歴でも、地位でも、肩書でもない。″純真″″素直″に徹して、自ら、法のため、広布のために働く、不惜身命の行動にこそある。
 伸一は、この日の講演では、人間の避けがたい苦悩として、生・老・病・死の四苦があることに触れ、信心によって、金剛不壊の生命を築いてこそ、誰人にも壊されない幸福の確立があることを述べた。
 そして、「私は日本一、功徳をいただいている。日本一、幸福である──と言い切れる皆さんであっていただきたい」と呼び掛け、話を結んだ。
 支部結成大会に続いて、彼は、地区幹部の指導会に出席した。更に、その後、体育館の隣の広場に集まっていた、役員の青年たちを激励した。
 この青年たちは、伸一の指導を聞くこともできず、朝から場外などで″陰の力″に徹し、整理にあたっていたメンバーである。
 しかし、どの参加者よりも、青年たちの瞳は生き生きと輝いていた。たとえ光は当たらなくとも、守られる人より、守る人こそが本当の主体者であり、そこには、生命の躍動と歓喜があるものだ。
23  民衆の旗(23)
 伸一は感謝の思いを込めて、このメンバーをねぎらい、励ましていった。
 「人間には、さまざまな人生がある。一時的な楽しみのみを求め、後悔を残して、生涯を終える人もいる。財産や地位、名声を得るために生き、晩年、その空しさを感じる人もいる。
 そのなかにあって、諸君は、広宣流布という人類の幸福と平和を実現する聖業に、人生をかけようと決め、学会に集って来られた。今は貧しく、労苦の青春であるかもしれないが、そこに、人生のまことの勝利と栄光があることは間違いありません。
 しかし、もしも、途中でその信念を覆し、やめてしまうならば、すべては水に帰してしまう。どうか、今日、集まった諸君は、生涯、信心を貫き通して、自らの使命に生き抜いていただきたいのです。
 人生は、二十代、三十代で、ほぼ決定づけられてしまう。ゆえに、これから十年間を一つの目標として、広布の庭で戦い、自身を磨き、高め、進んでいってもらいたい。
 そして、十年後に、再びこのメンバーで集い合いたいと思う。何人の人が見事に勝利して集まって来れるのか、私は見ております」
 「はい!」という元気な声が返ってきた。燃え上がる挑戦の気概が、青年たちの顔を赤く染めていた。
 青年は、未来に伸びゆく若木である。燦たる希望の光を浴びれば、たくましく枝を茂らせ、すくすくと大樹に成長していくものだ。
 伸一は、大切な青年たちに、未来への指標と希望を与えたかったのである。
 それから十年後の一九七〇年(昭和四十五年)の十月十八日に、伸一は約束通り、福岡の地で再会を果たした。皆、この日を目指して、自らを磨き鍛えて、見事に成長した姿で集って来た。彼は、そのメンバーでグループを結成し、「百七十人グループ」と命名した。
 以来、メンバーは更に切磋磨し合い、このグループから広宣流布を担う幾多の人材が、育っていったのである。
 大分支部の結成大会をもって、九州の建設の基盤は確立した。
 山本伸一は、辻堂夫妻をはじめ、訪れたいずこの地にも、苦境のなかから信仰で立ち上がり、幸福の調べを奏でる、数多くの″庶民の英雄″がいたことが嬉しかった。
 まさに、全国各地に創価の″民衆の旗″は翻り、幸の凱歌がこだましていたのである。
24  民衆の旗(24)
 このころ、山本伸一が深く憂慮していたのは、組織が拡大され、整備されるにつれて、幹部が次第に権威化し、官僚化しつつあることだった。
 学会は、人間と人間の対話と共感と触発によって、広布の輪を広げてきた。それは、上からの命令や号令とは、全く正反対の関係にある。草の根での真心の語らいと励ましによるものであった。
 しかし、つぶさに全国を見ると、一部ではあるが、あたかも、自分が偉くなったように思い、みんなの意見を聞こうともせず、すべて自分の一存で決定し、命令で人が動くかのように、錯覚している幹部も見受けられた。
 当然、中心者には、一人立つ決意と、信心への絶対の確信がなくてはならない。そのうえで、運営に際しては皆の意見を聞き、納得と合意のもとに活動を推進していくのが、幹部の務めである。
 また、なかには、自分を崇める人だけを重用し、時には私生活上の面倒までみさせ、あたかも″親分″と″子分″のような関係をつくるものもあった。
 結局、それは、大事な会員を学会に付けるのではなく、自分に付けようとすることであり、「信心利用」「組織利用」以外の何ものでもない。
 更に、幹部が成果主義に陥り、合意もなく、きめこまかな指導の手を差し伸べることもなく、班や組に、一方的にさまざまな目標の数字だけを割り振り、成果の達成を強引に迫るといったケースも見られた。
 そうした在り方が、どれほど会員の学会への不信感をつのらせ、堅実な広宣流布の構築を基底部から崩していくか計り知れない。
 いずれも、幹部が、会員への献身を忘れ、自己中心主義に陥り、名聞名利に走るところから起こる現象といえよう。そこには、恐るべき慢心と保身がある。
 同志が幹部に敬意を表してくれるのは、幹部はみんなを守り抜く立場にあり、実際にそう行動すると信じているからである。
 この「立場への敬意」と「自分への尊敬」を取り違えるところから、幹部の堕落は始まるといってよい。
 五日、伸一は、大分から関西に飛び、大阪市の港体育館で行われた関西三総支部結成大会(関西総支部幹部会)に出席した。
 この日、関西は三つの総支部に分割され、新体制で出発したのである。
 それは、関西の、全国に先駆けての目覚ましい発展を物語るものであった。
25  民衆の旗(25)
 山本伸一は、関西の新出発にあたり、幹部の在り方について語っていった。
 そして、学会の組織や同志を、自分の私利私欲のために利用し、名聞名利や栄誉栄達を考える幹部は、学会をみ、信心を腐敗させていく要因であると、厳しく断じたのである。
 彼が、ここでこの話をしたのは、関西は、永遠に民衆の味方として、不幸に悩む人たちを救いゆく、日本の模範の組織であってほしいとの思いからであった。
 関西から、伸一は船で徳島に向かった。徳島の小松島港では、同志が喜々として迎えてくれた。
 六日に行われた徳島支部の結成大会でも、彼は幹部の姿勢について指導している。
 「御書には『いよいよよ実なれば位いよいよよ下れり』と仰せです。教えが真実であればあるほど、教えを受ける人の位、つまり衆生の機根はいよいよ低くなるとの意味です。
 そして、その衆生、民衆とともに進む人こそ、真実の法を弘める仏法の指導者です。ゆえに幹部になり、信心が深まるほど、いよいよわが身を低くし、謙虚に、礼儀正しく、同志を敬い、尽くしていくべきです。
 ここに、世間の地位や立場と、学会の役職との大きな違いがあります。
 牧口先生以来、学会の幹部は、悩める人々と苦楽をともにしながら、労り、励まし、自らは大難に向かって敢然と戦ってきた。それが学会の伝統であります。
 真剣な指導もせず、組織の上にあぐらをかくような幹部は、決して本当の学会の幹部ではないと、申し上げておきます……」
 戸田城聖が獄中の体験を経てつかんだ、大確信にあふれる、堂々たる指導を見てきた幹部のなかには、その話し方だけを真似するものもあった。
 しかし、内実が伴わぬだけに、説得力は至って乏しかった。すると焦りを感じるせいか、自分を偉く見せようと、尊大な態度で人に接していった。
 東京の幹部のなかには、傲慢になり、理不尽に人を叱りつけることから、密かに″野犬″と呼ばれているものさえいた。その幹部は都議会議員でもあったが、後に学会を裏切っている。
 幹部は、どこまでも思いやりにあふれ、泥まみれになって献身していく、奉仕の人でなければならない。もしも、その精神を忘れ、わがままになり、同志を見下すようになれば、学会は幹部によってまれてしまう。
 伸一は、断じてそうさせないために、一部の幹部の心に兆し始めた″傲慢″と″わがまま″に対する、闘争を開始したのである。
26  民衆の旗(26)
 晴れ渡った空の下、真新しい弓形の青緑の屋根が、鮮やかに映えていた。
 七日、山本伸一は、徳島から岡山に移動し、中国本部の落成入仏式に臨んだ。
 中国本部は、伸一が会長に就任後、初めて完成した地方本部であり、学会としては、関西、九州、北海道についで、全国で四番目の地方本部となる。
 この年の二月に、伸一が岡山の指導に走った折に、正式に敷地の決定をみて、六月の初めに着工した。しかし、施工上の問題や天候の関係などもあり、九月末の完成が二カ月余りも遅れてしまった。
 建物は鉄筋コンクリート造りで、二階建て部分と、弓形の屋根を持つ八十畳の広間からなっていた。当時としては、比較的大きな会館といってよい。
 これまでは、同志の家が活動の拠点として会合にも使われてきたが、どの家も百人も集まれば、家中が人であふれた。それだけに会館を気兼ねなく使用できると思うと、メンバーの喜びは大きかった。
 落成入仏式は午後二時から開始され、読経・唱題の後、中国総支部長の岡田一哲の経過報告、宗門の布教区の支院長らの祝辞となった。ここには、宗門の総監をはじめ、僧侶の代表の姿も見られた。
 伸一は、前年の秋に、広島支部の結成大会に出席した折、広島の地で、岡田が怒りに震えながら、彼に打ち明けたことを思い起こしていた。
 ──支部の結成大会のしばらく前に、岡田は派遣幹部の宿泊場所に予定していた広島の旅館に、打ち合わせのために出掛けた。すると、そこで、地元の正宗寺院の住職を中心に、何人かの僧侶が酒宴を開いていたのである。
 中国総支部長の岡田の顔を見ると、住職が呼び止めた。
 「岡田さん、今日の寺の行事に、学会員は、ほとんど来なかったな」
 「そうですか。広島支部の結成大会があるもので、皆、結集や準備に忙しかったんだと思います」
 「だいたい寺の行事のある時に、信徒がほかのことで動き回るなんてけしからん。総支部長のあんたが悪いんだよ!」
 支部の結成大会は、広島の同志が何年にもわたって目標とし、念願としてきたものだ。
 最初、岡田は、丁重に答えていたが、酒を飲んで居丈高になる住職に、次第に腹が立ってきた。
 「なにー、大事な支部の結成大会のどこが悪い!」
 二人は言い争いになってしまった。
27  民衆の旗(27)
 岡田一哲は、自分のことしか考えない住職の言い分に、我慢ができなかった。彼は、当時、総務だった山本伸一に、この一件を報告した。
 伸一は、岡田の話を聞くと、なだめるような口調で言った。
 「あなたの気持ちもわかるが、失礼があってはいけない。言うべきことは言わなければならないが、その時は、皆に代わって私が言います。私が矢面に立てばよいことです」
 以来、一年が過ぎた。その間、伸一が各地を回るたびに、これに類する話が繁に耳に入ってきた。
 貧しい同志が、供養を持たずに寺に行くと暴言を浴びせられたこと。僧侶の派手な遊興が地域で話題になり、顰蹙をかっていること……。
 涙ながらに実情を訴える人や、激怒しながら語る人もいた。彼は心を痛めた。
 学会は宗門を外護し、赤誠をもって、その発展に尽くしてきた。伸一も、ますます誠心誠意、宗門に尽力していくつもりでいた。だからこそ、彼は、第三代会長就任の折、戸田の七回忌までの目標の一つとして、大客殿の建立寄進を掲げたのである。
 それは、ひとえに日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を願ってのことである。しかし、僧侶のなかに、その広布への使命を忘れ、私利私欲を貪り、果ては酒色にれるものが各地に出始めていたのである。
 しかも、折伏に汗を流す学会員を、ただ供養を運ぶ奴隷のようにしか考えず、見下すような態度を取る僧侶もあった。
 もし、それを放置しておけば、今後、宗門は腐敗と堕落の坂道を転げ落ち、更には、広宣流布を瓦解させる最大の要因となるにちがいない。また、何よりも同志がかわいそうである。
 御書には、「慈無くしていつわり親しむは即ち是れ彼が怨なり」とある。人の悪を見て、それを取り除こうとする慈悲もなく、馴れ合いとなる姿を戒められたものだ。
 伸一は、この席で、初めて、僧侶の本来の在り方に言及した。彼らが聖僧となることを信じ、願って。
 マイクの前に立った伸一は、中国本部の落成を祝した後、彼がアメリカで見聞した、キリスト教の教会の実態から語り始めた。
 「……教会のなかには、礼拝に来るなら、お金を持って来いなどと言い、貧しい人を寄せ付けず、民衆を救済するという本来の使命を放棄しているところもあるとのことでした……」
28  民衆の旗(28)
 山本伸一の言葉に力がこもった。
 「もしも、日蓮正宗のなかで、寺院の法要や参詣のたびに、半ば命令のように供養を持ってこいなどということがあったら、私は大変な問題ではないかと思います。
 また、信徒を家来や小僧のように思う、ずる賢い僧侶が出たならば、由々しき事態であります。
 日蓮正宗は、世界でただ一つ、日蓮大聖人の教えのままに、広宣流布を、民衆の救済を目指す、清浄なる宗派であるはずです。それゆえに、私たちは寺院を守り、供養し、僧侶を大事にするのです。
 私どもは、皆、平等に大聖人の子供であります。また、学会の誇りは、誰よりも大御本尊様に尽くし、総本山、宗門に尽くし抜いてきたことであります。
 仮に、その学会員を軽んじるような僧侶、悪侶が出たならば、それは、日蓮大聖人の仰せに反し、日達上人のお心にも反するものであり、学会は断固、戦っていかねばなりません」
 伸一は、皆、平等であるべき人間が、″衣の権威″によって差別され、仏法の根本思想が歪曲されてしまうことを、最も懸念していたのである。また、仏弟子である僧侶を、腐敗、堕落させたくはなかった。
 それが、彼の仏法者としての信念であり、良心であった。
 伸一が岡山から東京に戻ると、明年度の諸活動の検討や、本部の決裁事項が山積していた。彼は、精力的にそれらをこなし、「前進の年」の総仕上げに力を注いだ。
 その間、十四日には、多摩川、城南、大森、品川の四支部合同の支部結成大会に臨み、更に十九日には、豊島、大の両支部の合同結成大会に出席した。
 そして、二十一日、一年の掉尾を飾る十二月度の本部幹部会が、東京体育館で行われた。
 十二月度の弘教は、四万九千四百十三世帯であり、これで学会の総世帯数は、約百七十二万四千となった。この年の目標であった百五十万世帯を二十二万四千世帯も上回ったのである。
 更に、この席上、九州が三つの総支部に分割されたほか、八戸、十和田、仙北、石巻、会津、平、江戸川、両国、浦和、三重、豊城、姫路の十二支部が新たに誕生した。
 また、明年の「躍進の年」の活動方針として、「二百万世帯の達成」「ブロックの充実」「人材の育成」の三方針が発表されたのである。
29  民衆の旗(29)
 どの顔にも、歓喜の輝きがあった。どの顔にも、戦い抜いた誇りがあった。
 山本伸一は、本部幹部会のあいさつで、一年間の同志の敢闘を称えた後、こう締めくくった。
 「年末、年始は、特に火災や交通事故などに、くれぐれも注意を払い、無事故で有意義な一年の総仕上げと、新年の出発をしていただきたいと思います。
 どうか、よいお正月をお迎えください。
 そして、来年の十二月の本部幹部会の時にはまた、『こんなに一年間で成長いたしました』『こんなに功徳をいただきました』『家庭革命ができました』と、互いに喜んで報告ができる大飛躍の一年にしてまいろうではありませんか」
 これで、この年の主要行事は、すべて終了したことになる。
 しかし、翌日から、伸一は、「躍進の年」の助走を全力で開始したのである。
 彼は、連日、理事室や各部の代表幹部との懇談を重ねた。そして、時間をかけて、幹部一人一人を指導していった。
 会合などの行事が終了した年の瀬は、彼にとって個人指導のまたとない好機であった。
 中核となる幹部が悩みや行き詰まりを感じて、悶々としていれば、力を十分に発揮することはできない。また、幹部が自分の欠点や誤りに気づかなければ、組織の発展もない。
 しかし、幹部になればなるほど、個人指導を受ける機会は少なくなってしまうものだ。ゆえに彼は、思い切って、そのための時間を割いたのである。
 更に、最高幹部と、各部や各地の組織の実情を詳細に分析して、それぞれの課題と目標を、明確にしていった。
 全体的には大勝利であっても、組織を細かく、個別的に見てゆけば、様々な問題がある。もし、全体の勝利に酔い、その検討を怠るならば、既に、慢心と油断が兆している証拠である。そして、そこにこそ、次の敗因が潜んでいることを忘れてはならない。
 伸一の動きに、驚き、慌てたのは古い幹部たちであった。一息つく間もなく、学会本部のエンジンは全開となり、新しき年への滑走が始まってしまった。彼らも、伸一に付いて、ひた走るしかなかった。
 助走の勢いが跳躍の力を決定づけるように、広宣流布の活動の勝敗も、いかに周到に準備を進めたかによって、決まってしまうといってよい。ジャンプへと踏み切る″決戦の瞬間″には、既に勝負は、ほぼ決まっているものだ。
30  民衆の旗(30)
 暮れも押し詰まったある日、山本伸一は午後九時ごろに自宅に戻った。彼にしては珍しい、久しぶりの早めの帰宅であった。
 ベルを鳴らして玄関のドアを開けると、妻の峯子と三人の子供が、「お帰りなさい!」と、元気な声で迎えてくれた。
 長男の正弘は七歳、次男の久弘は五歳、三男の弘高は二歳である。
 「今日は子供たちが、パパのお誕生日のプレゼントの絵を渡すんだって、起きて待っていたんですよ」
 峯子が、微笑みながら告げた。
 彼の誕生日は一月二日だが、元日は朝から本部に行き、二日は総本山で過ごすことが恒例になっていたので、子供たちは、年末にプレゼントを渡すことにしたのである。
 伸一は、三男の弘高を抱き上げると、仏間に向かった。彼は、既に学会本部で勤行をすませていたが、子供たちと、少しの時間、唱題した。
 唱題を終え、伸一が別室で着替えていると、峯子が小さな包みを持って来た。
 「これは、あなたが子供たちと約束なさったプレゼントです」
 しばらく前に、伸一は、三人の子供たちの求めに応じて、年末に、ボールペンや図鑑などを買ってやる約束をしていた。
 彼は、子供たちからの要求を、たいてい二つ返事で聞き入れてしまうことが多かった。峯子はその品物を、いつも彼に代わって用意してくれた。
 伸一がプレゼントを抱えて、居間に行くと、美しい花が生けられ、テーブルの上には、ケーキが置かれていた。
 彼の顔を見ると、正弘が言った。
 「パパ、お誕生日、おめでとう! ちょっと早いけどプレゼントを贈ります」
 正弘は恭しく、一枚の絵を差し出した。伸一は、両手でそれを受けた。
 続いて久弘と弘高も絵を手渡した。いずれも父親である伸一の似顔絵だった。
 「ありがとう。みんな上手だね。よく出来ている」
 「えー、ほんと!」
 子供たちは嬉しそうに声をあげた。自分たちの描いた絵に、父親が感心していることが、たまらなく誇らしいようだった。
 「一生懸命に頑張って描いたのがよくわかるよ。どんなことでも、一生懸命に頑張り、練習していけば、周りの人がビックリするほど、上手になる。だから優れた人というのは、一番、努力した人なんだよ」
 子供たちが頷いた。
31  民衆の旗(31)
 今度は、伸一が子供たちにプレゼントを手渡した。
 「さあ、みんなと約束したプレゼントだ。お兄ちゃんはボールペンだったね」
 ″お兄ちゃん″というのは、長男の正弘のことだ。彼は、久弘のことは″久ちゃん″、弘高のことは″弘ちゃん″と呼び、呼び捨てにすることはなかった。
 そこには、子供は親の所有物ではなく、小さくとも″対等な人格″であるという、彼の思いが込められていた。
 「パパ、ありがとう」
 子供たちはプレゼントを受け取ると、目を輝かせ、すぐに包みを開いた。
 「ワー、万歳!」
 「やったー!」
 歓声があがった。ケーキを食べながら、家族の歓談が始まった。
 彼は、生来、子供が大好きだった。戸田城聖のもとで少年雑誌の編集に携わっていた時も、読者である子らに会うことを、無上の喜びとしていたのである。
 思えば、会長に就任して以来、家に帰ることができたのは、平均すれば、月に三、四日にすぎなかった。それも、ほとんど深夜であり、起きている子供たちを見たのは、指折り数えるほどしかない。
 会長になる前は、わずかな時間だが、子供たちと接する時間をつくることもできた。三人の子供を連れて、銭湯に行ったこともある。
 物語などを話してやったこともあった。豊かな情操を培い、夢と勇気と正義の心を育みたいとの気持ちからである。もっとも、彼の健気な努力にもかかわらず、「ママの方がうまいよ!」と、正直だが、手厳しい感想を聞かされることもあったが……。
 長男の正弘には、一緒に武蔵野の美しい自然を眺めながら、自ら詩をつくり、詩の書き方を教えたこともあった。
 家にあっても、子供がのびのびと育ち、自然に学習への関心と意欲をもてるように、環境づくりにも工夫をしてきた。
 彼の家には、膨大な蔵書を納めた作り付けの本箱があったが、伸一はある時、それをすべて取り外してしまった。背表紙がむき出しのまま並んだ。
 峯子が、怪訝な顔をしていると、彼は言った。
 「これで、いいんだ。子供が背表紙を見て育てば、本への興味ももつようになるし、抵抗なく書物になじめるじゃないか。
 まだ子供は読まないだろうが、家に本があるかないかで、精神形成のうえでは大きな違いがある」
32  民衆の旗(32)
 山本伸一は、レコードも、小さな子供たちに、自由に使わせていた。
 そのレコードは、伸一が青年時代の貧しい暮らしのなかで、一枚一枚買い集めていった、ベートーヴェンなど、懐かしい思い出の曲であった。彼が購入したころ、レコードや蓄音機は、まだ高価なものといえた。
 もちろん、子供の手にかかれば、レコードが傷つくことも少なくなかった。
 だが、彼は、その代償を払ったとしても、子供が自由に名曲に親しむことの方が、はるかに大切であると考えていたのである。
 伸一にとって心残りと言えば、会長就任後は、子供たちと接する機会がほとんどなくなってしまったことであった。
 しかし、もとより、それは覚悟のうえのことであった。
 伸一は、会長に就任した直後の五月五日の「こどもの日」に、一度だけ思い切って時間をつくり、家族で東京タワーに出かけた。
 今後、そんな時間は持てないことがわかっていただけに、幼い子供たちの胸に、父と一緒に過ごした思い出を、刻んでおいてやりたかったのである。
 峯子には、その伸一の気持ちが痛いほどわかった。楽しそうに子供たちと語らい遊ぶ夫の姿を見ながら、彼女は心に誓っていた。
 ″あなた、子供たちのことは、ご心配なさらないでください。あなたの分まで力を注ぎ、私の手で、立派に育ててまいります。あなたは、山本家のものではなく、全学会の、全同志のものなのですから″
 伸一もまた、峯子の決意をよく知っていた。
 会長として戦いを開始した彼は、多忙に多忙を極めたが、子供との心の交流は怠らなかった。全国を駆け巡りながらも、行く先々で子供たちに絵葉書を送った。文面は今日はどこに来ていて、明日はどこへ行くという簡単なものであったが、宛名は連名にせず、必ず一人一人に出した。
 また、土産を買うことも忘れなかった。それは、決して高価なものではなかったが、そこには彼の、子供たちへの親愛の情が託されていた。
 たとえば、海外指導の際の土産は、使用済みの切手のセットだった。世界を身近に感じる契機になってくれればとの、配慮もあってのことであった。
 直接、言葉を交わす機会は少なくとも、工夫次第で、心の対話を交わすことはできる。
 これらの一葉一葉の絵葉書や土産の切手は、父と子の心を結ぶ、貴重なメッセージであった。
33  民衆の旗(33)
 山本伸一が父親として常に心掛けていたことは、子供たちとの約束は、必ず守るということだった。
 伸一は、せめて年に一、二度は、一緒に食事をしようと思い、ある時、食事の約束をした。しかし、彼は自分がなさねばならぬことを考えると、そのために、早く帰宅するわけにはいかなかった。そこで、学会本部から車で十分ほどのレストランで、ともに夕食をとることにした。
 しかし、その日になると打ち合わせや会合が入り、取れる時間は、往復の移動も含めて、二、三十分しかなかった。だが、それでも伸一はやって来た。ものの五分か十分、一緒にテーブルを囲んだだけで立ち去らねばならなかったが……。
 親子の信頼といっても、まず約束を守るところから始まる。もちろん、時には守れないこともあるにちがいない。その場合でも、なんらかのかたちで約束を果たそうとする、人間としての誠実さは子供に伝わる。それが″信頼の絆″をつくりあげていくのだ。
 峯子は、足早に去っていく伸一を見送ると、子供たちに言った。
 「パパは、来ることなんてできないほど忙しかったのに、約束を守って、駆けつけてくださったのよ。よかったわね」
 まさに、子育ての要諦は夫婦の巧みな連係プレーにあるといえよう。
 峯子は自ら、伸一と子供たちとの、交流の中継基地ともいうべき役割を担っていった。彼女は、夫のスケジュールはすべて頭に入れ、子供たちに、伸一が今、どこで何をしているか、また、それはなんのためであり、どんな思いでいるのかを語って聞かせた。
 一方、伸一と連絡を取る時にも、子供たちの様子を詳細に報告していた。それによって、彼も子供が何に興味を持ち、毎日を、どうやって過ごしているかを知り、的確なアドバイスができた。
 子供の年代に応じて、母親には母親の、また、父親には父親の果たすべき役割がある。山本家では、躾については、日頃、伸一よりも子供とともに過ごす時間の多い峯子が、主に担っていた。
 躾は、親が一緒に行動するなかで、自然に身につくようにすべきものといえるかもしれない。お礼やあいさつをはじめ、″自分のことは自分でする″″散らかしたものは片付ける″といったことなどは、口で教えれば、できるというものではない。
 それは体得させる事柄であり、親が根気強く子供のペースに合わせ、ともに行動しなければならないところに、その難しさがある。
34  民衆の旗(34)
 峯子は、上手に子供の関心を引き出しながら、おおらかな雰囲気のなかで躾をし、のびのびと子供たちを育てていった。
 彼女は、正弘が平仮名が読めるようになると、勤行を教えた。側について、指で経本の文字を一字一字たどりながら、一緒に声を出して勤行するのである。
 こうして勤行の基本を身につけた正弘は、小学校に入ると、自分から進んで、方便品、自我偈と唱題の勤行をするようになった。
 それは、峯子に手を引かれ、座談会や個人指導に連れられて行った影響もあったにちがいない。母親が不幸に苦しむ人のために、懸命に汗を流し、それを誇りとし、喜びとしている姿を見て育てば、子供も、自然に信心に目覚めていくものである。
 正弘は、時には、寝坊して題目三唱だけで家を出て行くこともあった。
 そんな時には、峯子は、こう言って送り出した。
 「心配しなくても大丈夫よ。ママが、しっかり祈ってあげるから、安心して行ってらっしゃい。でも、明日は頑張りましょうね」
 その一言が、どれほど子供をホッとさせるか計り知れない。もし、逆に不安をかきたてるような言葉を浴びせられれば、子供は一日中、暗い気持ちで過ごさねばならない。
 そこには、価値の創造はないし、それでは、なんのための信仰か、わからなくなってしまう。
 山本伸一が子供たちに対して担った役割は、人間の生き方を教えることであった。彼は、をついてはならないということだけは、厳しく言ってきた。あとはまことに鷹揚であった。父親が叱ってばかりいれば、どうしても子供は、萎縮してしまうからである。
 彼は、親の責任として、子供たちを、生涯、広宣流布の使命に生き抜く″正義の人″に育て上げねばならないと誓っていた。
 小学生の正弘には、伸一の会長就任式となった、五月三日の総会にも参加させた。父の広宣流布に生きる決意を、わが子の魂に焼きつけておきたかったのである。また、長男の正弘が父の心を知り、信仰への自覚を深めれば、それは当然、弟たちにも大きな影響をもたらすからだ。
 今、ケーキを張り、無邪気にはしゃぐ子供たちを見ながら、伸一は、しみじみと家庭の幸せをみ締めていた。
 そして、彼は、会長である自分の双肩にかかる、百七十万世帯の家庭の幸福のために、来年も力の限り走り抜かねばならぬと、決意を新たにするのであった。
35  民衆の旗(35)
 夜更けて、山本伸一は、峯子とともに、再び仏壇の前に座った。
 静寂な室内に、二人の唱題の声が響いた。
 彼が、第三代会長に就任し、創価の新生の歴史を開いた「前進の年」は、間もなく終わろうとしている。
 思えば、この一年は、彼の人生を大きく変えた激動の年であった。
 あの五月三日以来、彼は片時の休みもなく、ひたぶるに走り続けてきた。そして、学会は大いなる飛を遂げた。
 一年前の学会の総世帯は約百三十万であり、四月末の段階でも、まだ、百四十万余に過ぎなかった。しかし、それが今、会長就任八カ月で、百七十万世帯を上回るまでになった。
 また、支部も四月末には六十一支部だったが、百二十四支部となり、海外にも支部が誕生した。学会は、見事に新しき広宣流布の大空に飛び立ったのである。伸一の緒戦は、明確に大勝利を収めたのである。
 彼は、この一年を振り返って、いささかも悔いはなかった。自分らしく、使命を果たすべく、まっしぐらに突き進んで来た。恩師にも、胸を張って、報告することができる一年であると思った。
 疲労のゆえか、しばしば発熱を繰り返しはしたが、今、五体には満々たるエネルギーがあふれていた。
 しかし、この勝利は、広宣流布の長い旅路を思えば、まだ、ようやく飛行機が離陸した状態にすぎない。安定飛行に入るには、来年は更に高度を上げ、全速力で上昇していくことになる。
 伸一の胸には、戸田城聖から託された構想の実現のために、新しき年になすべき課題が次々と浮かんだ。
 引き続き、支部結成大会を中心に全国各地を回り、指導に全力を注がなくてはならない。また、来年は、初のアジア、ヨーロッパ訪問の第一歩を印す、更に新しき開拓の一年となろう。
 広宣流布の戦いとは、間断なき飛だ。
 外は、冬の夜の闇に包まれていたが、唱題を続ける彼の胸には、まばゆい「躍進の年」の太陽が輝いていた。その光は、澄み渡る大空に七彩の虹を架け、洋々たる広布の大海原を照らし出している。
 ″先生! 私は戦います。「民衆の旗」を掲げ、狭い日本だけでなく、世界を舞台にして″
 唱題の声に、一段と力がこもった。
 彼は、勝利を誓い、胸の鼓動を高鳴らせながら、決戦の第二幕への飛の朝を待った。

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