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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「勇舞」 勇舞

小説「新・人間革命」

前後
2  勇舞(2)
 同志の中へ、そして、その心の中へ──山本伸一の話の主眼はそこにあった。
 「折伏は相手を幸せにするためであり、それには、入会後の個人指導が何よりも大切になります。
 皆さんが担当した地区、班、組のなかで、何人の人が信心に奮い立ち、御本尊の功徳に浴したか。それこそ、常に心しなければならない最重要のテーマです。
 本年は十二月まで折伏に励み、明年一月は『個人指導の月』とし、人材の育成に力を注いでいくことを発表して、私の本日の話といたします」
 弘教が広がれば広がるほど、信心指導の手も差し伸べられなければならない。信心をした友が、一人の自立した信仰者として、仏道修行に励めるようになってこそ、初めて弘教は完結するといってよい。
 三百万世帯に向かう″怒涛の前進″のなかで、その基本が見失われ、砂上の楼閣のような組織となってしまうことを、伸一は最も心配していたのである。
 また、世界広布といっても、今はその第一歩を踏み出したばかりであり、広漠たる大草原に、豆粒ほどの火がともされた状態に過ぎない。それが燎原の火となって燃え広がるか、あるいは、雨に打たれて一夜にして消えてしまうかは、ひとえに今後の展開にかかっている。そのためにも、今なすべきことは、一人一人に信心指導の手を差し伸べ、世界広布を担う真金の人材に育て上げることにほかならなかった。
 折伏と人材の育成とは、車の両輪の関係にある。この二つがともに回転していってこそ、広宣流布の伸展がある。
 翌十一月一日、会長山本伸一は、新支部結成の冒頭を飾って千葉県体育館で行われた、千葉支部の結成大会に出席した。
 日蓮大聖人御聖誕の千葉で、初の支部結成が行われるとあって、伸一の胸は躍った。
 大聖人が建長五年(一二五三年)四月二十八日の午の刻、清澄寺で、南無妙法蓮華経こそ、末法の衆生を救済する唯一の正法であることを宣言されてから、既に七百七年の歳月が流れている。
 その間、大聖人の正法正義の旭日は暗雲に阻まれ、この千葉の天地を、燦々と照らすことはなかった。しかし、今、いよいよ、その″時″が訪れようとしているのだ。
 伸一はそう思うと、車窓を走り去る田畑も、海も、皆、喜びに震えているように感じられた。
3  勇舞(3)
 車は幕張に差し掛かった。外には、野菜畑が広がっていた。山本伸一の胸には、懐かしい青春の思い出が蘇った。
 それは敗戦の年の九月、伸一が十七歳のことであった。彼は、大きなリュックサックを背に、幕張の駅に降り立った。
 戦災で焼け野原となった東京には、満足な食糧はなく、一家の食べ物を手に入れるために、この幕張の農家まで買い出しに来たのである。
 すし詰めの列車からホームに降りると、伸一は目まいを覚えた。彼は、胸を病んでいたのであった。
 買い出しといっても、訪ねるあてが、あるわけではなかった。畑のなかの道を歩いていくと、買い出し客が、あちこちで農家の人たちを相手に交渉を始めていた。彼も、麦ワラ帽子を被った、一人の農家の主婦らしい人のところに近づいていった。
 その婦人が、伸一の前にいた買い出し客に言った。
 「今日は分けてあげられるものは何もなくてね。朝から、みんなに断っているのよ。悪いね」
 そして、くるりと背を向け、野良仕事を始めた。
 彼は、そこに佇んで、眼前に広がる田園風景を眺めていた。
 一面の焼け野原となり、荒れ果てた東京と比べ、その風景が心を和ませたからである。
 しばらくすると、婦人は伸一の方を見て言った。
 「あんた、どこから来たんだね」
 素朴だが、温かみのある声であった。
 買い出し客にしては、まだ年の若い伸一のことが、気になったようだ。
 「東京の蒲田です」
 「そう。いやに顔色が青いね。疲れているのかい」
 「……結核なんです」
 「まぁ……。少し、うちで休んでいきなさい」
 伸一は、彼女の家に案内された。古い、貧しげな家である。母屋の奥の暗がりの中で、男性の声がした。夫のようだ。
 麦ワラ帽子をとると、丸顔で人なつこそうな、四十前後の婦人であった。
 「兄弟は、いなさるの」
 「はい。八人兄弟の五番目ですが、兄たちは兵隊に行ったままです」
 「それで、あんたが買い出しに来ているんだね」
 「ええ。ところで、こちらのご家族は?
 子供さんはいらっしゃるんですか」
 婦人の顔が曇った。悲しそうな目をしながら、黙って静かに首を横に振った。何かわけがありそうだったが、伸一は、それ以上、尋ねる気にはなれなかった。
4  勇舞(4)
 婦人は、山本伸一の家の様子を聞いた。
 彼は、問われるままに、家は空襲による類焼を防ぐために取り壊され、強制疎開させられたことなどを話した。婦人は何か考えているようであったが、腰を上げると言った。
 「今、うちには余分なものは何もないけど、サツマイモがあるから持っていきなさい」
 「分けていただいて、宜しいんですか」
 「いいよ。……あんたも大変だけど、頑張ってね」 納屋にあったイモを、婦人は出してくれた。
 「また、いつでもいらっしゃい。あんたのことは覚えておくからね」
 婦人は口元に笑みを浮かべた。優しい笑顔だった。
 イモの値段は一貫(三・七五キログラム)十円だと言われたが、彼は、一貫あたり十二円で、六貫ほど分けてもらった。婦人の親切がありがたかったからだ。
 その月のうちに、伸一はまた幕張にやって来た。婦人は約束通り、喜んで彼を迎え、カマスいっぱいのイモを譲ってくれた。
 食糧難で人の心も殺伐としていた時代であっただけに、婦人の素朴な真心は、彼の胸に深く染みた。
 それ以来、幕張に買い出しに行くことも、その婦人と会うこともなかった。それから十五年が過ぎた。しかし、毎年、サツマイモが出回る季節になると、彼はあの婦人の優しい笑顔を思い出すのであった。
 山本伸一が支部結成大会の会場となった千葉県体育館に到着すると、支部長と支部婦人部長が迎えに出ていた。伸一は車を降りると、婦人部長の石山照代に笑顔で語りかけた。
 「さあ、出発だよ!」
 しかし、石山は暗く沈んだ顔で、視線を落として、黙って会釈した。
 彼女は四年前の入信であり、支部の婦人部長としては信心歴は新しかった。
 実は、千葉支部の結成では、支部婦人部長の人事が最も難航したのである。
 当初、彼女よりも入信が古く、経験の豊富な一人の地区担当員が候補にあがっていたが、公平さに欠け、支部の婦人の中心者にすることは心配であるとの意見が大半を占めた。検討の結果、経験不足だが、将来を期待し、石山照代を婦人部長に推すことで、意見の一致をみたのである。
 しかし、九月度の本部幹部会で、人事が発令されると、石山への激しい批判の手紙が何通か学会本部に届いた。″活動の実績もなく、信心の弱い婦人部長にはついていけない″というのである。
5  勇舞(5)
 山本伸一は、北・南米訪問から帰国し、その手紙を目にした。
 いずれの文面も客観性を装ってはいるが、どこか意図的なものが感じられた。
 彼は、事態を深刻にとらえ、千葉支部の関係者に、つぶさに状況を尋ねていった。すると、最初に支部婦人部長の候補にあがっていた地区担当員の周辺から、石山照代の人事に不満が出ていることがわかった。
 しかも、その地区担当員は、表面は平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動して、石山を批判するように仕向けていることがわかった。
 あまりにも愚かしく、情けない話である。
 学会の役職は名誉職ではなく、責任職である。会員への奉仕に徹し、広宣流布の責任を果たし切ることが最大の任務だ。したがって大きな責任を持つ立場になればなるほど、″自分″を捨てて、法のため、広布のため、同志のために尽くし抜こうとの決定した一念がなければ、その任を全うすることはできない。
 自分が支部の婦人部長になれないことで不満をいだき、陰で人を非難したりすること自体、広宣流布よりも、″自分″が中心であることを裏付けている。それは、学会の幹部として不適格であることの証明といってよい。
 その地区担当員は、長年にわたる闘病生活の末に、仏法に巡り合い、病を克服した体験を持っていた。そして、一時は、弘教面でも華々しい成果を上げ、注目を集めていた。
 伸一は、この婦人の行く末を案じた。支部の婦人部長と心を合わせて活動しようとしなければ、ますます自分が孤独になり、信心の歓喜も躍動もなくなってしまう。更に、支部婦人部長についていくことができないことから、やがては組織に対して不満を持つようになり、何かあれば学会の世界からも離反していくことになりかねない。
 また、彼女の行為は、既に仏意仏勅の教団である学会の団結を破壊していることになる。本人は気づいていないかもしれないが、せっかく信心しながら、自ら不幸の悪業をつくり、これまでに積んできた福運までも、ことごとく消してしまうことになる。
 いかなる理由にせよ、広宣流布の使命に生きる同志を嫉妬し、恨み、憎む罪は余りにも重い。ゆえに、日蓮大聖人は「忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか」と、戒められているのである。
6  勇舞(6)
 人の心ほど移ろいやすいものはない。善にも、悪にも、動いていく。偉大な創造も成し遂げれば、破壊者にもなる。仏にもなれば、第六天の魔王にもなる。
 その心を、善の方向へ、建設の方向へ、幸福の方向へと導いていくのが正しき仏法であり、信心である。
 山本伸一は、この問題について、真剣に考えざるをえなかった。
 ──信心によって病を克服した体験を持つ婦人が、なぜ、周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕まれていることは確かだが、どうして、それに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。
 日蓮大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」と仰せである。つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、その原因は自己の生命のなかにあると自覚することから仏法は始まる。
 しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を、他人に見いだし、″己心の外″に法を求めているからにほかならない。そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも、反省もない。ゆえに成長も、人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。
 また、組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うのかである。
 中心者を、陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。そして、どこまでも御聖訓に照らして自己を見つめ、昨日の自分より今日の自分を、今日の自分より明日の自分を、一歩でも磨き高めようと、挑戦していくなかに、人間革命の道があるのだ。そこにのみ無量の功徳があり、福運を積みゆくことが出来るのだ。
 この婦人は、これまで一生懸命に信心に励んでいたように見えても、結論するに、仏法の基本が確立されていなかったのである。伸一は、彼女が、生涯、誤りなく幸福への軌道を歩むために、信心の基本から、懇切丁寧に粘り強く指導していくように、婦人部の最高幹部に頼んだ。
 彼が最も心配していたのは、支部の婦人部長としてこれから戦わねばならぬ石山照代のことであった。
7  勇舞(7)
 石山照代にとって支部婦人部長の就任は、予想もしないことだった。
 彼女は任命を受けたものの、自分が果たしてその責任を全うできるのか不安をいだいていた。その矢先に「幹部としての経験も浅く、たいした信心もないのに、よく婦人部長になったものだ」という批判の声を耳にした。
 しかも、支部結成大会の準備を呼び掛けても、冷淡な反応を示す人が少なくなかった。彼女は完全に自信を失い、悩み抜いた末に、婦人部長の交代を、山本会長に申し出ようと思っていたのである。
 伸一が、体育館の控室で待機していると、石山が寂しそうな顔をしてやって来た。
 「……実は、先生にどうしてもご相談したいことがあるんです」
 彼女は、伸一に勧められてソファに腰を下ろした。
 「どうしたの。何か悩みがあるの?」
 「はい……。私、とても支部婦人部長なんていう大任は、全うできそうもありません。これまで支部結成の準備にあたってきましたが、誰も、私の言うことなんか聞いてくれません。みんな陰で私を批判していますし、面と向かって、『あなたに婦人部長の資格なんてないのよ』って、言ってくる人もいます。確かに私には、なんの力もないんです……」
 石山は、胸のうちを洗いざらい打ち明けた。話しながら、涙が込み上げてきてならなかった。
 伸一は、じっと彼女に視線を注ぐと、強い語調で語った。
 「わかっている。全部、わかっています。誰があなたの悪口を言っているかも知っています。しかし、広宣流布の使命に生きようとする人が、そんなだらしないことで、どうするのですか。批判するものには、させておけばよい。私があなたを守っていきます!」
 石山は、驚いたように、伸一の顔を見つめた。
 「ひとたび任命されたからには、あなたには、支部婦人部長として皆を幸福にしていく使命がある。決して偶然ではないのです。信心も、自身の人間革命も、広宣流布の使命を自覚し、戦いを起こすことから始まります。したがって、今はどんなに大変であっても、退くようなことがあっては絶対にならない。
 仏法は勝負です。常に障魔との戦いです。魔の狙いは広宣流布の前進を妨げることにある。あらゆる手段を使って、巧妙に学会の団結を乱そうとします」
 石山は、食い入るような目で、指導を聞いていた。
8  勇舞(8)
 山本伸一は、諄々と語っていった。
 「魔は、戦おうという人の生命力を奪い、やる気をなくさせようとします。時には、今回のように、同志の嫉妬となって現れることもある。あるいは先輩幹部の心ない発言となって現れることもある。また、病魔となって、組織のリーダーを襲うこともあるだろう。
 こちらの一念が定まらないで、逃げ腰になれば、魔はますます勢いづいてきます。それを打ち破るのは題目であり、微動だにしない強盛な信心の一念しかありません。
 あなたも、今こそ唱題で自分の境涯を大きく開き、本当の広布の戦いを開始する時です。そして、真剣な心で困難に挑み、温かく皆を包みながら、すべてを笑い飛ばして、明るく、はつらつと、悠々と突き進んでいくことです。
 今、学会は大前進を開始した。飛行機でも、飛び立つ時には、揺れもするし、抵抗もある。千葉も、今、新しい出発を遂げようとしている。いろいろと問題があるのは当然です。
 しかし、あなたが支部の婦人部長として見事な戦いを成し遂げ、多くの人から信頼を勝ち取っていけば、つまらない批判なんか、すぐに消えてなくなります。飛行機も上昇し、安定飛行に入れば、ほとんど揺れなくなるようなものです。
 そして、あなたを排斥しようとしたり、仏意仏勅の組織を撹乱しようとした人は、必ず行き詰まっていきます。仏法の因果の理法は実に厳しい。深く後悔せざるをえない日がきます。
 広宣流布のための苦労というのは、すべて自分の輝かしい財産になります。だから学会の組織のなかで、うんと苦労することです。辛いな、苦しいなと感じたら、″これで一つ宿業が転換できた″″また一つ罪障が消滅できた″と、喜々として進んでいくのです。
 最も大変な組織を盤石にすることができれば、三世永遠にわたる大福運を積むことができる。来世は何不自由ない、女王のような境涯になるでしょう」
 石山照代は、心に立ち込めていた霧が、瞬く間に晴れていく思いがした。彼女のに、いつの間にか赤みが差していた。
 この時、組織を撹乱した婦人は、先輩の指導によって、幹部として活動した時期もあったが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。
9  勇舞(9)
 千葉支部の結成大会は、午後六時十五分に開会となった。
 この日、山本伸一の講演は、当時、一部のマスコミによって喧伝されていた、学会は″暴力宗教″であるとの、中傷の虚構を鋭く突いていった。
 「学会に対して、あいも変わらず″暴力宗教″との批判がなされていますが、皆さんのなかに、学会に暴力を振るわれて入信したような方が、一人でもおりますでしょうか。
 創価学会は暴力を振るって折伏したことなど、ただの一度もないと、私は断言しておきます。
 むしろ、さまざまな意味で暴力を被ってきたのは、私たち学会の方ではありませんか。たとえば、墓地問題です。法的にも、何も問題はないにもかかわらず、『創価学会に入るなら、うちの寺の墓地には埋葬させない』などと、脅しをかけてくる。
 また、暴力に訴えた事実もないのに、″暴力宗教″などと書かれること自体がペンの暴力です。
 現在の日本の社会には、首相が刺されたり、社会党の党首が暗殺されたり、あるいはデモ隊と警察官の衝突で、多数の負傷者が出るなど、暴力があふれております。
 学会の運動は、そうした時代のなかで、生命の尊厳が守られる社会を、どこまでも折伏という対話によって築こうとするものです。
 ″折伏″というと、大変に強い響きがありますが、人間の生き方をめぐる本当の対話には、互いの主張をかけた戦いがあります。
 ましてや、友を救おうという慈悲の語らいでは、不幸の原因はなんであり、何が正しく、何が間違っているのかに及ばなくてはなりません。適当に妥協し、お茶を濁すような不誠実な対話からは、新しい創造は生まれないからです。
 日本の平和と幸福を築いていくには、日蓮大聖人の仏法による以外にありません。その大法を流布する創価学会を批判し、倒そうとすることは、日本の柱を倒すことに等しいと、私は申し上げておきたい」
 伸一は、悪意に満ちた学会への批判に対して、自ら先頭に立って戦った。
 善意と使命の健気なる友に浴びせられる、無責任な中傷を放置しておくことは、彼にはできなかった。
 どんなウソの喧伝でも、ただ黙って見ていれば、人々はそれが真実であると思い込んでしまう。戦わずしては正義も敗れる。時に沈黙は、屈服につながることを知らねばならない。
10  勇舞(10)
 千葉支部の結成大会を終えた山本伸一は、十一月四日には、群馬を訪れ、前橋支部の結成大会に臨んだ。
 そして、翌日、東京に戻り、六日には、横浜・三ツ沢の陸上競技場での第九回男子部総会に出席した。
 この会場は、三年前の一九五七年(昭和三十二年)九月八日、戸田城聖の遺訓となった、歴史的な「原水爆禁止宣言」が行われた意義深き場所である。
 戸田は、この時、人間の″生存の権利″を守るうえから、いかなる国であれ、原子爆弾を使用するものは悪魔であり、魔ものであると宣言し、その思想を全世界に広めゆくことを青年たちに託したのであった。
 以来三年、青年たちは、それを自らの使命として、「原水爆禁止宣言」を何度も読み返しては語り合い、思索を重ねてきた。
 そのなかで彼らは、戸田の宣言が、仏法者の生き方の必然的な帰結であり、仏法には、人類が抱える、あらゆる難題を解決する原理が示されていることをつかんでいった。
 たとえば、仏法では、一切衆生に「仏性」があると説いていることは知っていたが、それが現代の社会にあって、いかなる意味をもつか、はかりかねていた。
 しかし、戸田が宣言のなかで語った、「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております」との言葉は、「仏性」という仏法の考えを、現代思想の概念として打ち立てたものであることに気づいた。
 「生存の権利」という考えは以前からあり、「世界人権宣言」などにも示されているが、戸田は、仏法の哲理の裏付けをもって、そこに内実を与えたといってよい。
 青年たちは、こうした仏法の哲理が、現代社会に深く根差していってこそ、人類の幸福と世界の平和の創造が可能になることを、次第に感じ取っていった。そして、世界への仏法流布の使命を、次第に強く自覚するようになっていったのである。
 ことに山本伸一が会長に就任すると、青年たちの弘教に、一段と拍車がかかった。しかも、この年、″雪解け″を迎えたかに見えた東西両陣営が、再び深い亀裂を生じるなか、山本会長の初の海外訪問が行われた直後だけに、青年たちの胸には、世界の恒久平和への誓いの火が、赤々と燃え上がっていた。
 正午、音楽隊の奏でる学会歌の勇壮な調べが轟き、各地の代表一万四千人の分列行進が始まった。第九回男子部総会の開幕である。
11  勇舞(11)
 青年たちの行進は、約一時間にわたって続いた。
 スタンドには、翌一九六一年(昭和三十六年)のテーマである「躍進」の二文字が、それぞれ縦・横十メートルの白布を張った看板に大書されていた。
 思えば、この年の男子部の歩みも、大躍進にほかならなかった。年頭に部員十七万の達成を掲げてスタートを切ったが、既に十月末で二十万を達成していた。
 また、この総会には、五万人の男子部員の結集を目標にしていたが、集った青年は、それをはるかに上回る六万六千人であった。
 山本伸一は、その報告を聞くと、かつて戸田城聖が青年部に贈った「青年よ国士たれ」の一節を思い起こした。
 「青年よ、一人立て! 二人は必ず立たん、三人はまた続くであろう。
 かくして、国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである……」
 ″国士″というと、いかにも大時代的な言い方ではあるが、その意味するところは、日本のみならず世界を救いゆく人材である。
 やがて、その言葉の通りに、日本を、世界の同胞を救済しゆく十万の男子部員が集う日も、もう眼前に迫っていた。
 彼は、戸田の描いた構想の実現に向かって、学会が着実に歩みを運んでいる、確かな手応えを感じることができた。
 総会では、男子部十万の結集への誓いを込め、「青年よ国士たれ」の朗読も行われた。
 会場の一隅には、色鮮やかな、赤や黄などのシャツに身を包んだ青年たちの一団がいた。
 青森県の三沢の米軍基地から、汽車で一昼夜がかりでやってきたアメリカ人のメンバーである。
 彼らは、まず威風堂々たる行進に目を見張った。次から次と、引きも切らずにトラックに姿を現す青年を見て、一人が言った。
 「ワンダフル! 地から涌いてくるようだ。″地涌の菩薩″を見た!」
 学会の先輩に教えられてきた地涌の菩薩の出現を、彼らは、この行進から実感したようだ。
 また「青年よ国士たれ」の朗読を聞くと、別のメンバーが傍らにいた青年部の幹部に尋ねた。
 「『国士』というのは、どういう意味ですか」
 「国のためを思い、行動する立派な人のことです」
 「その『国』とは、どこですか。日本を指すのでしょうか」
 真剣な質問であった。
12  勇舞(12)
 青年部の幹部は少し困惑しながら答えた。
 「戸田先生は、一応は日本の国という意味で使われていますが、それは、日本の青年に対する指導だからです。アメリカの皆さんにとっては、祖国であるアメリカの繁栄と平和ということになります。
 また、世界中の人々が、皆、同胞であるというのが仏法の考え方ですから、世界を一つの国ととらえ、人類の幸福を思い、行動していく人が国士といえるのではないでしょうか」
 アメリカの青年は、念を押すように言った。
 「では、私たちも国士に入るのですね。ベリー・グッド!」
 青年部の幹部は、額に汗を浮かべていた。これまでに考えもしなかった質問を受けたからだ。
 しかし、それは、山本会長に続いて世界の広宣流布に船出しようとする男子部の、国境を超えた広がりを感じさせる質問であった。
 総会であいさつに立った伸一は、胸の思いを率直に語っていった。
 「私は、青年部の出身者の一人として、本日の総会を心から祝福するものでございます。しかし、私が皆さんのこの旅立ちを祝福するのは、皆さんの力によって、創価学会という教団が大きくなり、勢力を増していくことを期待しているからではありません。
 日蓮大聖人の仏法をもって、自分も幸せになり、人をも幸せにしていこうという若き地涌の菩薩である皆さんが、たくましく育っていくことによって、日本、そして、東洋、世界の民衆の幸福と平和の実現が可能になるからであります。
 戸田先生の青年部に対する期待は、筆舌に尽くせぬ大きなものがございましたが、私も、これだけ多くの優秀な青年部の後輩が育っている姿を見て、心から安心し、力強く思っている次第でございます」
 更に、伸一は、広宣流布への流れは、もはや決して止めることのできない時代の潮流であることを宣言した後、次のように述べた。
 「私は、一応、会長という立場にありますが、自分が偉いとか、地位が上であるなどと考えたことは一度もありません。最後の最後まで、諸君と苦楽をともにしながら、諸君の心を心とし、兄弟、家族として広宣流布のために戦い抜いていく決意でございます」
 そして、最後に「家庭、職場、社会にあって、誰からも、尊敬、信頼される模範の青年たれ。人間の正義のために戦う勇者たれ」と訴え、話を結んだ。
13  勇舞(13)
 この総会には、来賓としてアメリカ・アイオワ州の大学で宗教学を教えている教授も出席していた。
 その教授は、男子部総会の感想を、感動を込めて次のように語っている。
 「活気あふれた様子に強く感銘いたしました。私が世界で、今までに見たうちで、最も強く印象に残る光景でした。この会合に出席できたことを光栄に思っております。
 アメリカでは、これだけの人が集まるのは、フットボールの試合の時ぐらいなもので、こうした目的をもった集まりはありません。
 壇上の演説は力がこもっていて、圧倒されました。まったく生命力そのものという感じでした。また、山本会長は、その話から、謙虚な方だと思いました。
 行進もよく統制がとれていることに驚きました。しかも、彼らは宗教家ではなく、それぞれ職業をもっており、背広や学生服などの服装から、あらゆる階層の人たちであることを知り、深い感銘を受けました」
 この教授は、「日本の生きた宗教」を研究するために来日し、学会本部にも訪れている。
 欧米諸国での仏教への理解は、瞑想などの静的なものとしてとらえ、現実社会の力とはなりえないという見方が強かった。ベルクソンにしても、仏教は「力をこめて生存意欲の滅却を説いた」とし、ヤスパースなども、世間を超脱するのみの神秘主義と、仏教を位置づけている。
 確かに、日本の既成仏教を見ても、葬式仏教と化して久しく、人間を活性化させ、新しい時代、社会を創造する力をもたらすものとは、ほど遠かった。そのなかで、創価学会の姿は、それまでの教授の、仏教への認識をことごとく覆すものであったにちがいない。
 集ったメンバーは、僧衣をまとった出家ではない。社会の多彩な分野で活躍する民衆である。若き青年である。しかも、瞑想や座禅にふけるのではなく、社会の現実の苦悩に立ち向かい、人類の幸福と平和を築こうとする情熱と躍動がみなぎっている。そして、大きな理想に向かい、心を一つにして、喜々として行進していたのである。
 教授は、生きた宗教、生きた真実の仏教の存在を発見した喜びを強く感じたようだ。
 このころから、諸外国の宗教学者や研究者の目も、次第に学会に注がれていった。それは「人間の宗教」を待望する、世界の時代の流れを物語るものであったといってよい。
14  勇舞(14)
 ともあれ、広宣流布の指導者には、休息はない。
 法華経の寿量品には「未曾暫廃」とある。これは、「仏は未だかつて少しも説法を怠ったことはない」との意味だ。
 戸田城聖は疲労を押して広布の指揮を執りながら、よく山本伸一に語った。
 「仏は『未曾暫廃』と仰せだから、私も休むわけにはいかないのだ」
 伸一もまた、休みなく法を語り、法のために働き抜いた。彼は、男子部総会を終えた翌日の七日には、沼津支部の結成大会にやって来た。
 午後四時ごろ沼津駅に到着すると、伸一は、支部長の原武司の家を訪ねた。
 原の妻の律子は、夫とともに六年前に入会はしたものの、しばらくは信心に批判的だった。その後、伸一から激励されたこともあり、ようやく二、三年ほど前から、積極的に活動に励むようになっていた。
 伸一は、律子に丁重にあいさつすると、こう切り出した。
 「このたび、ご主人に沼津の支部長をやっていただくことになりました。約一万四千世帯の人たちのリーダーとして、活躍していただくことになります。ぜひ奥さんも、ご了承いただきたいと思います」
 原は驚いて伸一の顔を見た。彼は室内装飾の仕事をしていたが、仕事でも自分でこうと決めたら、妻の意見など聞きもせずに、猪突猛進してきた。しかし、時には、それが失敗し、律子に迷惑をかけることもあった。彼は妻にすまないと思いながらも、口に出して謝ることができなかった。
 信心の面でも同じで、何をするにも、妻の律子に相談することはなかったが、それでいて何かと妻の手を煩わせることが多かった。
 律子の不満もそこにあった。伸一は、それを見抜いたように、律子に尋ねたのである。
 彼女は言った。
 「ウチの人は、自分でやると決めたら、私なんかがやめろと言っても、決してやめる人ではありません。学会で言われた通り、徹底的にやる人ですから」
 半ば投げやりな口調でもあった。原は、ムッとした。しかし、伸一は笑顔で応じた。
 「そうですか。では、奥さんも、了承してくださいますね」
 すると、意外にも、明るい答えが返ってきた。
 「ええ。応援させていただきます」
 わずか一言の相談だが、律子の気持ちは全く異なっていた。
 原は、自分にはこの気遣いが欠けていたことに気づいた。そして、伸一の配慮に感謝するのであった。
15  勇舞(15)
 沼津支部の結成大会は、八幡町の沼津市公会堂(産業会館)で、午後六時から開催された。
 支部長の原武司は燃えた。力いっぱい就任の抱負を語り、皆の決起を促し、沼津支部の歴史的な出発にしようと心に決めた。原稿は二日がかりで、入念に仕上げていた。
 体験発表、新任幹部の紹介などに続いて、原が晴れの舞台に立った。
 長身の彼は、胸を張って演壇に向かうと、参加者に厳かに一礼し、背広の内ポケットに手を入れた。
 ″ない! ……″
 用意していたはずの原稿がないのである。背広の外側のポケットにも手を入れてみた。そこにも入っていなかった。
 彼は焦った。壇上で、ズボン、ワイシャツと、ポケットというポケットは全部探したが、どこにも原稿はない。頭のなかは真っ白になった。顔は見る見る真っ赤になった。万事休すである。しかし、話さなければならない。
 「皆さん、こんばんは」
 こう言ったきり、絶句した。心臓は早鐘のように高鳴り、汗が額に噴き出た。
 「この沼津に支部ができたということは……、大変です」
 どっと笑いが起こった。
 「われわれは、山本先生を沼津に迎え、……怒涛のごとく折伏をしなくてはならない。……今日は出発の日であり、この日を″十年一日″の思いで、いや、あの、″一日千秋″の思いで待っておりました」
 支離滅裂である。
 原は演壇の水差しの水をグラスに注いだ。その手が小刻みに震え、グラスはカタカタと音を立てた。
 その時、後ろから伸一が声をかけた。
 「いつもの通りでいいんだから、気を楽にして」
 それで幾らか心が落ち着いた。原は水を飲むと、深呼吸を一つし、気を取り直して語り始めた。
 「私は、強情なだけで、力もありません。でも、信心で病気を克服することができました。……ともかく一生懸命に頑張ります。一歩も引きません。どんな問題にも、体ごとぶつかっていきます。
 みんな幸せになってください。……団結し、戦い抜いていくしかありません。みんなで沼津支部を、絶対に日本一の支部にしようではありませんか」
 しどろもどろの抱負であった。しかし、それでも原の思いは、参加者の胸に響いた。
 真っ先に拍手をしたのは山本会長だった。そして、嵐のような拍手が、その後に続いた。
16  勇舞(16)
 幹部のあいさつが終わると、会長山本伸一が登壇した。彼は言った。
 「このたび支部長になられた原さんは、かねてから真心の人として、尊敬してまいりました。
 話が上手であるか、ないかといったことで、人を評価することはできません。もし、話がうまい人が立派な人であるというなら、政治家はたいてい立派な人ということになります。しかし、選挙の時に、公約を発表し、支持者に約束をしておきながら、当選すると平気で公約を破り、何も実行しない政治家がたくさんいるではありませんか。
 人間にとって大切なものは、口がうまいかどうかではなく、人々を思う真心であり、誠実さです。
 学会の最高幹部の皆さんは、それぞれ味わいのある、いい話をされますが、初めから話の上手な方は一人もおりませんでした。
 皆、座談会や、さまざまな会合で、どうしても同志を励まし、仏法を語らなくてはならないという状況に置かれて、真心をもって話しているうちに、十年、二十年とたって、自然にすばらしい話ができるようになっていったのです。
 やがて原支部長も、堂々として、理路整然とした感銘深い指導をされるようになることは間違いありません。ですから、話が下手であるとか、批判するのではなく、互いに補い合い、守り合って、この沼津支部を、功徳に満ち満ちた支部にしていっていただきたいのであります」
 晴れの結成大会の席で、支部長としての第一声でしくじってしまった原武司は、いたく落ち込んでいた。壇上に座っていても、顔を上げていることさえ、辛くて仕方なかった。情けなく、恥ずかしくて、穴があったら入りたいような気持ちだった。
 伸一の話は、その彼の心を温かく包んだ。
 原は思わず涙ぐんだ。
 ──先生は、ここまで俺を庇ってくださる。指導者というのは、こうやって人を守っていくものなのか。よし、俺も徹底して支部の同志を守ろう。みんなのために五体を地に投げ出すつもりで戦うんだ。それが、山本先生の、この心に報いる道だ。
 伸一は、その後、難を恐れて退転していった人たちの実例をあげながら、一生涯、信心を全うし抜くなかに、真実の信仰があることを語っていった。
 原は″一人たりとも落後させるものか″と、感涙をこらえながら、唇をみ締めるのであった。
17  勇舞(17)
 東京を発ち、列車が甲斐路を進むにつれて、秋は次第に深まっていった。
 十一月九日、山本伸一は甲府支部の結成大会に出席するため、山梨県の甲府に向かった。
 この甲府に続いて、十日は松本、十一日は長野、十二日は富山、十三日は金沢の各支部の結成大会に出席することになっていた。
 甲府支部結成大会は、午後五時四十分から、山梨県民会館で行われた。
 結成大会では、一人の女子部員の体験発表が感動を呼んだ。
 「私は終戦と同時に、朝鮮から日本へ引き揚げてまいりました。朝鮮では、父が大きな鉱山会社の重役をしており、何不自由なく暮らしていましたが、日本に戻って間もなく、父が重度の結核で倒れてしまいました。母は、私たち兄妹を育てるために、朝早くから、夜遅くまで、真っ黒になって働きました……」
 ところが、兄が非行に走り、家族の苦悩はますます深まっていく。兄は家の乏しい生活費を持ち出したり、人のものに手をつけるようになっていった。病床に伏す父親が、ゼーゼーと苦しそうな咳をしながら諭しても、兄は荒れる一方だった。彼女と母親は救いを求めて、いくつかの宗教を転々とするが、兄の非行は改まらず、遂に少年院に送られていった。
 そのころ、父親の友人から仏法の話を聞き、一縷の望みを託して学会に入会する。苦しい生活のなかにも希望を感じながら、学会活動に励むが、ほどなく父の結核が悪化し、意識不明に陥ったのである。
 母子してひたすら唱題を重ねた。すると、五日目に奇跡的に意識を回復し、やがて、折伏に歩けるまでになった。兄もまた、少年院を出所し、更生の道を歩き始めたかに見えた。
 しかし、喜びも束の間、再び兄は非行に走り、事件を起こして、今度は刑務所に入ってしまった。苦悩に追い打ちをかけるように父親の容体も悪くなり、入院しなければならなかった。
 生活は困窮し、しかも、母の勤務先も倒産。病院で父に支給される食事を、家族三人で分け合うような日々が続いた。
 ″御本尊様、なぜ私たちだけが、こんなに苦しまなければならないのですか″
 母子で唱える、題目の声は、いつしか泣き声に変わっていた。
 しかし、先輩の「蓮の花は、泥沼が深ければ深いほど大きな花が咲く。負けてはいけない!」との真心の激励が彼女たちを支えた。
18  勇舞(18)
 父親はやがて、病床で静かに息を引き取った。安らかな死であった。
 彼女の悲しみは大きかった。しかし、信仰が生きる力を与えた。亡き父の分まで幸せになろうと、彼女は誓った。
 支部結成大会の壇上で、彼女は涙をこらえながら、語っていった。
 「獄中の兄も、父の死を契機に変わりました。
 また、母も収入のよい仕事が見つかり、私も、ある会社の事務員として、本当に恵まれた環境で働けるようになりました。
 更に、バラックのような家から、念願の新築したばかりの家に移ることもできました。そして、母と二人、希望に燃えて、幸福をみ締めながら、日々、友の幸せを願い、楽しく学会活動に励んでおります」
 体験発表が終わると、盛んな拍手が場内を包んだ。
 不幸のどん底から、見事に信仰で立ち上がった、庶民の蘇生のドラマである。
 幹部指導に続いて、山本伸一が登壇した。彼は、ここでも、支部長・婦人部長を称え、団結を呼び掛けた後、力強く訴えていった。
 「学会に対して、さまざまに批判する人がおりますが、では、誰が、いかなる理念をもって、この日本の民衆を救いうるのか。
 口では皆、立派そうなことを言いますが、本当に民衆の幸福を考え、現実に、かくも多くの人々を救ってきた人も、団体も、ないではありませんか。
 学会には、仏法という明確な哲理があります。そして、学会だけが、誰も救済の手を差し伸べなかった民衆のなかに分け入り、人々に勇気と希望を与え、実際に、幸福の道を開いてきました。これは、誰も成しえなかった事実です」
 民衆の勢力の台頭を恐れ、正義を装い、学会を解体せんとする、仮面の権力者がいる。それは民衆の幸福の破壊者にほかならない。いかに巧妙に人々を欺こうとも、民衆を支配し、私利私欲を貪る、その醜悪な本性は必ず暴かれ、騙したはずの民衆によって厳しく裁かれるにちがいない。
 伸一は話を続けた。
 「ゆえに、その最前線で戦ってこられた皆さんこそ、仏の使いであり、いかなる地位や肩書をもった人よりも尊く、偉大な指導者であると、私は申し上げたいのであります。どうか、その確信と信念をもって、仕事のうえでも、家庭にあっても、模範の皆さんであっていただきたいことを念願いたします」
 社会の繁栄といっても、その根本は民衆の幸福である。彼の人生の闘争の目的もまた、そこにあった。
19  勇舞(19)
 山本伸一は、各地の会合に出席すると、時間の許す限り、幹部との懇談の機会をもち、質問を受けた。
 甲府でも、彼は支部結成大会の終了後、地区幹部を会場の控室に招き、懇談の時間をもった。
 聞きたいことは、なんでも聞き、自由に意見を述べ合う、ありのままの語らいのなかにこそ、真実の人間の触れ合いがあり、触発があるからだ。
 一人の地区幹部が真っ先に手をあげて尋ねた。
 「私は、自分を振り返ってみると、みんなのリーダーとしては、器が小さいことを痛感します。どのようにすれば、もっと大きな自分になれるのでしょうか」
 「自分の器とは、境涯ということです。学会の幹部として、みんなの幸せを真剣に願い、祈っていくこと自体が、自分の器を大きく開いていくことにつながります。
 しかし、自分のことしか考えず、″我″を張っていたのでは、自分の器を広げることはできないし、成長もない。自分の欠点を見つめ、悩み、一つ一つ乗り越え、向上させながら、長所を伸ばしていくことです。決して、焦る必要はありません」
 続いて、女子部の幹部が質問した。
 「私の母は信心していないので、家に帰り、母と顔を合わせると、歓喜が薄らいでしまいます。どのようにすればよいでしょうか」
 「家のなかを明るくするために信心しているのに、あなたが暗くなってしまったら、意味がないではありませんか。
 また、お母さんを信心させたいと思うなら、あなた自身が変わっていくことです。『そもそも仏法とは……』などと、口で偉そうに語っても、お母さんから見れば、いつまでも娘は娘です。ですから、そんなことより、お母さんが、本当に感心するような、優しく、思いやりにあふれた娘さんになることの方が大切なのです。
 たとえば、本部の幹部会で東京に行った時など、お土産を買って帰るぐらいの配慮が必要です。また、家に帰ったら、『ただ今、帰りました。ありがとうございました』と、素直にお礼を言えるかどうかです。
 信心といっても、特別なことではありません。あなたの日ごろの振る舞い自体が信心なのです。
 お母さんから見て、″わが子ながら本当によく育ったものだ。立派になった″と、誇りに思える娘になれば、必ず信心しますよ。お母さんの心に、自分がどう映るか──それが折伏に通じるのです」
 伸一は、同志の大成を願い、心を込めて話した。
20  勇舞(20)
 十一月九日は、山本伸一は、甲府に一泊した。
 そして、翌朝、旅館で手にした新聞で、八日に行われたアメリカの大統領選挙の結果、民主党のジョン・F・ケネディが大統領に決まったことを知った。
 次代のリーダーシップを誰に託すのか──激戦を繰り広げた選挙戦は、このケネディの勝利で、二期八年続いた共和党政権から、民主党政権に移行することになった。また、併せて行われた上・下院の改選も、民主党の勝利に終わった。
 十日朝の新聞各紙は、一斉に、このアメリカの″新しい顔″の誕生を報じた。
 ケネディは一九一七年五月二十九日、東部のマサチューセッツ州に生まれた。十九世紀半ば、曽祖父の代にアイルランドから移住した家系で、父ジョゼフは、金融・実業界で重きをなし、駐英大使も務めた新興の名士であった。
 その父の英才教育を受けて、ジョン・F・ケネディは育てられた。
 第二次世界大戦中、彼は海軍に入り、南太平洋で日本軍と戦う。そして、駆逐艦「天霧」の攻撃で魚雷艇が破壊された時には、自らも負傷しながら暗い海を泳ぎ切り、部下を助けて生還し、一躍、英雄となった。
 戦後、ケネディは二十九歳で政界にデビュー。下院・上院議員を経て、四十三歳にして、現職の副大統領であった共和党のニクソン候補を破り、遂に大統領になったのである。
 伸一は、ほんの一カ月ほど前、アメリカ訪問中に肌で感じた変化の予感が今、現実のものとなったことを知った。
 ケネディは、何よりも若きアメリカの開拓精神ともいうべき、清新な息吹をたたえていた。歴代の大統領のなかで、まさに異例ずくめであった。四十三歳という若さは、選挙で選ばれた大統領としては史上最年少であり、しかも、初の二十世紀生まれである。
 また、初のカトリック教徒であり、数少ないアイルランド系の出身であった。
 建国以来の支配的なアメリカ人像については、よくWASP──すなわち人種的には白人(White)、民族的にはアングロ・サクソン(Anglo─Saxon)、宗教的にはプロテスタント(Protestant)、つまり新教徒とされる。
 例えば当時、プロテスタントが成人人口の七〇%近くを占め、カトリックは約二五%で少数派であった。WASP以外の人が大統領になることは、現実的に容易ではなかったのである。
21  勇舞(21)
 世界は動いている。時代も動いている。人間の心もまた動いている。いっさいは、瞬時たりとも、変化しないものはない。
 その本質を見極め、時代を先取りし、新しき建設の道を示していってこそ、真の指導者であると言ってよい。
 ケネディは、自ら「変革の時代」のリーダーとして大統領選に出馬した。その具体的な政策が「ニュー=フロンティア(新たなる開拓の分野の意)」であった。これは、大統領候補に選出された民主党全国大会で公表したものである。
 彼は、今、世界と時代とアメリカ社会がニュー=フロンティアに直面しているとして、未踏の原野を開拓しゆく″革命″を訴えていった。
 「そのフロンティアのかなたには、まだ地図に記入されていない科学や宇宙の分野、まだ解決されていない平和と戦争の問題、まだ征服されていない無知と偏見のポケット地帯、まだ解答の出ていない貧困と余剰の問題などが横たわっている。このフロンティアを回避して、危険のない過去の低俗にたより、観念上の善意と調子の高い修辞に甘んじることは安易であろう。(中略)
 しかし、わたしは、時代がいまや、創造性や刷新や創作力や、そして決断を要求していると信じている。わたしは、皆さんのひとりひとりに、ニュー=フロンティアの開拓者となることをお願いしたい」
 彼の言葉は、格調高く、理想の輝きがあった。そこには、希望があり、アメリカン・スピリットが脈打っていた。
 そして、彼は、人種差別の壁にも挑戦しゆく意志を示した。選挙戦の終盤、公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キングが逮捕される事件が起こると、ケネディは直ちにキング夫人に電話を入れて励まし、釈放に尽力したのである。
 その電光石火の対応は、多くのアフリカ系アメリカ人の心をつかんだ。
 またケネディの周囲に、母校ハーバード大学を中心にした、優れた若き知識人がキラ星のように集まっていたことも注目された。
 国民は、″新しい変化″を選択したのである。
 しかし、選挙の最終結果を見ると、選挙人による投票ではケネディ三百三票、ニクソン二百十九票であり、一般投票では約六千九百万票中、わずか十一万票余りの差にすぎなかった。得票率で〇・一%差という空前の大接戦である。
 現状維持による安定を望むのか、現状を一新し、変化を望むのか、アメリカ国内にあっては、なお多くの議論が渦巻いていた。
22  勇舞(22)
 当時、アメリカ国内も、また世界も、これまで通りでは、対応できない激動の時代を迎えていた。
 当初、雪解けを期待させた一九六〇年も、U2型機(黒いジェット機)によるスパイ事件が起こって以来、米ソの関係は、再び厳冬に逆戻りしてしまった。
 東西の間に横たわる深刻な相互不信は、いつ″熱戦″に発展しないとも限らない危険性を帯びていたと言ってよい。互いに相手を世界制覇の野望をいだく魔物のように敵視し、不信感の赴くままに軍拡競争に狂奔しているのが、″冷戦″の実態であった。
 もちろん、対話の可能性がまったく途絶していたわけではない。事実、ケネディの当選が決まると、ソ連のフルシチョフ首相は即座に祝電を送っている。新政権の誕生を前に、まず、和解の新たな糸口を探ろうとしたのであろうか。
 しかし、その前途には、幾多の困難が予想された。たとえば、ベルリンの統治をめぐる東西の緊張は続いており、また、一九五九年の革命後、社会主義化が進むキューバにも、冷戦の影響が影を落とし始めていた。
 しかも、核軍備や宇宙開発の競争でソ連に遅れをとったアメリカの、対外威信の低下を憂える声も起こっていたのである。
 更に、アメリカ国内に目を移せば、景気は沈滞し、失業者の数も増大しつつあった。その一方で、″人種問題″もまた、社会の随所に亀裂を引き起こしていた。
 ケネディは、まさに多事多難の荒波に、船出しようとしていたのである。
 山本伸一は、じっと新聞を見つめた。やがて、ケネディが抱えるであろう苦悩は、立場こそ違え、そのまま伸一の苦悩でもあった。
 ただし、ケネディは、西側諸国を代表する、アメリカの国家元首として、世界の安全と平和を守るための苦悩であった。
 一方、伸一は、仏法の指導者として、全世界、全人類の不幸を、精神的次元、つまり、いっさいの根源となる、人間の生命という次元から解決しゆくための苦悩であった。
 また、ケネディが四十三歳であるのに対して、彼は三十二歳であった。しかも伸一には、財力も、後見人も、優れた知識人のブレーンもいない。自ら無名の民衆のなかに分け入り、新しき知性を育むことから始めなければならなかった。
 世界は今、新しき指導者を必要とし、″新しき時代″の航海に乗り出そうとしていた。伸一は、その″新しき時代″の開拓のために、民衆の生命の大地を耕し、ヒューマニズムの沃野を開くことを、我が使命としていたのである。
23  勇舞(23)
 十一月十日、山本伸一は甲府から松本へと向かった。車窓に広がる紅葉を眺めながらの旅であった。
 松本駅には、支部の幹部が出迎えていた。
 「出迎えありがとう!」
 伸一は、笑顔を向けた。そして、女子部の中心者を見ると言った。
 「よく頑張ったね」
 彼女の名前は、竹本君子といった。二年前の一九五八年(昭和三十三年)の八月十六日、総務であった伸一が諏訪を訪れた折、激励した女子部員である。
 その時、伸一は、諏訪市民会館で行われた、文京支部を中心とした南信方面の大会に出席。終了後には、近くの旅館を借りて、幹部の指導会を行った。
 竹本君子は、当時、女子部の組長であった。この前日、東京にいる女子部の幹部から、伊の彼女の家に手紙が届いた。
 そこには″山本総務が諏訪の会合に出席するから、自分の部員に会ってもらうようにしてはどうか″と記されていた。
 竹本も、山本総務といえば、学会の事実上のすべての責任を担っている人であることは、女子部の先輩幹部から聞いて知っていた。その山本総務が諏訪に来る機会など、これからも滅多にないにちがいない。そう思った彼女は、喜び勇んで、六人のメンバーを連れて、伊を出発した。
 メンバーのなかには、小児マヒの後遺症で体の不自由な友や、結核に苦しむ友もいた。皆、生活も決して楽ではなかったし、家族のなかで、たった一人で信心をしている人がほとんどだった。
 諏訪までは、乗り換えも含め、列車で一時間余りであったが、病気や体の不自由な同志をいたわりながらの移動は、いたく彼女を疲れさせた。
 それでも、市民会館で山本総務の指導を聞くと、歓喜が込み上げてきた。そして、なんとしても、総務に、メンバーと会ってもらおうとの思いがつのった。
 だが、会合が終わり、控室に駆けつけた時には、山本総務の姿はなかった。竹本は、役員に総務の行き先を尋ねた。そこで、学会員の経営する近くの旅館で行われる指導会に、伸一が向かったことを知った。
 時計を見ると、午後九時を回っていた。
 ──みんなの家庭の事情を考えると、もし、列車に乗り遅れ、この日のうちに帰れなければ、大変なことになってしまう。しかし、このチャンスを逃せば、山本総務とみんなが会える機会は、多分ないだろう。
 そう思うと、行かないわけにはいかなかった。
24  勇舞(24)
 竹本君子は、メンバーを連れて、幹部の指導会にやって来た。
 会場になった旅館の二階は人であふれていた。部屋の奥から、山本総務の指導する声が聞こえた。
 伸一が参加者の質問に答え、次の質問を受けようとすると、人垣の後ろから女性の叫ぶような声がした。
 「山本先生!」
 姿は見えないが、どこか必死な響きがあった。
 「どうしたの?」
 伸一が言った。
 「私の組の部員さんに会ってください」
 「お会いしましょう。連れていらっしゃい。みんな道を開けてあげて!」
 人をかき分けて、体の不自由な友をかばいながら、竹本は伸一の前にやってきた。
 「よく来たね。みんなどこから来たの?」
 「伊から、七人でまいりました」
 「あなたが女子部の組長さんだね」
 「はい!」
 「それじゃあ、あなたから、みんなを紹介してください」
 「はい! 私は、組長の竹本君子です。そして、ここにいるのが私の妹の達枝と申します。その隣にいるのが……」
 彼女は、こう言うと、声を詰まらせた。目には涙があふれていた。自分が責任をもつ同志を伸一に会わせたい一心で、ここまで来たのだ。それが、ようやく実現できたと思うと、嬉しくて仕方なかったのである。
 「組長さんが泣いてしまったんでは、しようがないな……。後の人は自己紹介だね」
 ところが、皆、同じように喜びに震え、声にならなかった。
 伸一は、優しく竹本君子を見つめながら言った。
 「そんなに泣いてはいけないよ。あなたは女子部のリーダーじゃないか。それに、ぼくは、みんなの兄さんなんだよ。兄さんが来たんだから、安心して、なんでも相談しなさい」
 この言葉を聞くと、皆はますます肩を震わせて、泣きじゃくるのであった。
 伸一は、傍らにいた、女子部の幹部である高田カヨを見て言った。
 「そうだ! あの歌を歌ってあげよう。『人生の並木路』だよ」
 高田は、声楽の勉強をしている女性であった。
 そして、「人生の並木路」は、この年の夏季講習会で、皆で仲良く歌った歌であった。
 高田は、「はい!」と返事をすると、よく通る、澄んだ声で歌い出した。
25  勇舞(25)
 泣くな妹よ 妹よ泣くな 泣けば幼い ふたりして
 故郷を捨てた
 甲斐がない
 高田カヨが一番を歌い終わると、山本伸一は呼びかけた。
 「みんなで、一緒に歌おう!」
 伸一も歌い出した。竹本たちも歌い始めたが、声にならない人もいた。
 遠いさびしい
 日暮れの路で
 泣いて叱った 兄さんの
 ………… …………
 皆の歌声のなかで、伸一の力強く、優しい声が、一段と高らかに響き、彼女たちを包んだ。
 生きてゆこうよ
 希望に燃えて
 愛の口笛 高らかに
 この人生の 並木路
 歌い終わっても、竹本たちは、まだ泣いていた。苦悩を抱え、悲しみをこらえて生きてきた乙女たちにとって、伸一のこの歌の励ましは、熱く心に染みた。
 伸一は高田を指差して、竹本君子に言った。
 「この人の歌はうまいでしょ。今度、女子部に合唱団をつくることになっている。この人には団長になって、頑張ってもらおうと思っているんだ。
 では、もう一度、みんなで、泣かないで歌おう」
 再び、「人生の並木路」の合唱が始まった。
 竹本たちも、目を赤く腫らしながら一緒に歌った。それは、美しき魂の合唱であった。
 「じゃあ、今度は『赤とんぼ』だ」
 伸一の提案で、次々と数曲の歌が歌われた。
 同志を思う心が織り成すほのぼのとした調べが、乙女たちの胸に、希望を燃え上がらせていった。
 彼女たちの潤んだ瞳が、生き生きと輝き、口元には笑みが浮かんでいた。
 伸一は、七人の女子部員に視線を注ぎながら、優しく語りかけた。
 「やがて、人生の春は、必ずやって来る。今はどんなに辛く、苦しくとも、負けないで頑張ることだよ。ぼくは、あなたたちの成長を、いつまでも見守り、祈り続けるからね。
 それじゃあ、遅くなるといけないから、早くお帰りなさい。気をつけて……」
 会場を後にした竹本たちは、天にも昇るような気持ちだった。
 彼女たちは、車中、互いに手を取り合い、人生の希望を語り合いながら帰路についた。
26  勇舞(26)
 山本伸一は、この諏訪での大会の翌日、初めて霧ケ峰高原を訪れた。
 緑の草原には、松虫草の薄紫の花が風に揺れ、彼方には北アルプスの峰々が連なっていた。
 伸一は、青年たちと語らい、散策し、馬にも乗ってみた。
 「いいところだね。戸田先生をお連れしたかった」
 彼は、つぶやくように言った。戸田城聖の逝去から四カ月余のことであり、彼が後継の若獅子として、果敢なる信念の闘争を開始した時であった。
 また、多くの青年たちをここに連れて来てあげたいとも思った。美しく雄大なこの景観は、未来に伸びゆく若人の、新しき英気を養うにちがいないからだ。
 この思いは、彼が会長に就任した翌年にあたる一九六一年(昭和三十六年)七月、霧ケ峰高原での水滸会、華陽会の野外研修となって実現するのである。
 更に、それから二十八年を経た八九年(平成元年)八月、ここに長野青年研修道場がオープンし、毎年、多くの青年が訪れ、大自然のなかで研修に勤しみ、心身をリフレッシュする場となっている。
 伸一は、霧ケ峰高原では懇談会をもった。
 彼は語った。
 「島崎藤村の小説『夜明け前』は、日本の明治の夜明けを意味していた。しかし、今、私たちが開こうとしているのは、東洋の、また、世界の夜明けだ。無名の民衆が、人類の歴史の新たな幕を開く戦いが広宣流布なのだ……」
 そして、伸一は、色紙に揮毫し、友に贈った。
 皆を代表して、ある人には「限りなく 霧の高野に 遊びたる 同志の幸を築き進まん」と。また、一人の地区部長には「大軍を 怒涛の如く 指揮ぞとれ
 信濃の広布は 己が舞台と」と認めている。
 懇談会の後、彼は松本に出て、ここでも座談会を開催したのである。
 伸一は、今、約二年ぶりに松本の地に立って、諏訪に自分を訪ねて来た女子部員が、松本支部の女子部の中心者に育っていたことが嬉しくてならなかった。
 また、伸一を迎えた男子部の中心者は、勝田源治という青年であった。彼とも二年前に、この松本で会っていた。温厚で実直な人柄である。
 伸一は、その時、色紙に「勇気」と書いて贈り、青年の健闘に期待を寄せた。その彼も、一段と成長した姿で迎えてくれたのだ。
 伸びゆくものは美しい。育ちゆく青年には、希望の輝きがある。
27  勇舞(27)
 松本支部の結成大会は、十日、午後五時過ぎから、松本市郊外の会場で開催された。
 紅葉に染まる信濃の山々を越え、集って来た一万人余の友で、場外もぎっしりと人で埋まった。
 風は冷たく、肌に染みたが、メンバーは意気軒高であった。
 男子部の勝田源治の抱負には、簡潔ななかにも、力強い決意が脈動していた。
 「我ら男子部は、今、栄えある広布の旗を掲げ、勇気と確信の大闘争を展開してまいります!」
 わずか二年間で、勝田は目を見張るばかりの青年リーダーに成長していた。
 山本伸一は、その凛々しき横顔を見ながら、松本支部の飛躍を信じた。
 伸一は、ここでは学会は御本尊が根本であることを述べ、功徳に輝く生活の姿こそ、「論より証拠」であり、仏法の正しさの証明であることを訴えた。
 彼が支部結成大会と地区幹部の指導会を終えてホテルに帰ると、支部の幹部が訪ねて来た。勝田も、竹本君子もいた。
 彼は、竹本に家庭の様子を尋ねた。父親は事業に失敗し、一年ほど前に信心を始めたが、家族と別居していた。
 「そうか……、大変なんだね。今度、お父さんとお会いしましょう。大切な娘さんを、お預かりしているんだもの」
 竹本は耳を疑った。父親は、入信したとはいえ、まだ勤行さえしていない状態である。その父が山本会長と会うなど、考えもしなかったことであった。
 「本当ですか! お願いいたします」
 人材を育むには、本人だけでなく、その人の環境をも考慮し、さまざまな支援と激励がなされなければならない。それが指導者の責務でもある。
 それから伸一は、男子部の勝田に言った。
 「まず、勝負は三カ月だよ。男子部のリーダーとして法旗を手にした以上、全国一の戦いをしてみせるぞという、気概がなくてはならない。日本中の男子部員から″長野に勝田あり″と言われるようになるんだ」
 「はい!」
 力強い返事だった。
 勝田は、その夜、男子部の旗を仏壇の脇に飾り、″一人立つ″決意を込めて、真剣に唱題した。
 そして、三カ月後の松本支部の男子部の総会には、精鋭一千人を結集し、それまでに、二百世帯を超す折伏を成し遂げたのである。
 彼は口先だけの観念の人ではなかった。実践の闘将であった。
28  勇舞(28)
 翌日、山本伸一は、長野支部の結成大会に出席するため、松本から長野に向かうことになっていた。
 松本駅には、十人ほどの代表が見送りに来ていた。
 そのなかに、父親を連れた竹本君子の姿もあった。
 竹本は、伸一のところへやってくると、父親を紹介した。
 「いつも、お世話になっております。私が会長の山本です」
 伸一は、こう言うと、手を差し出し、固く握手を交わした。ほどなくして、列車がホームに入ってきた。
 「お父さん、長野までご一緒にいかがですか。切符はありますから」
 車中は、竹本の父親との語らいの場となった。彼女は、夢を見ているような思いがしてならなかった。
 「立派な娘さんです。これから娘さんは、学会の女子部のリーダーとして、私どもが責任をもって育ててまいります」
 伸一が言った。それを聞くと、彼女は胸が熱くなった。父親は、緊張した様子で答えた。
 「ふつつかな娘ですが、よろしくお願いします」
 娘を嫁がせる時のような口調である。
 伸一は、父親に、ミカンや飲み物を勧めながら、仕事や健康の状態などを尋ねると、諄々と信心の在り方を語っていった。
 「事業には失敗しても、人生に負けたわけではありません。信心さえ貫いていくならば、最後は必ず人生の勝利者になります。焦らずに、着実に、信心を磨いていくことです」
 伸一と言葉を交わすうちに、父親の顔は次第に精彩を帯びていった。その光景を見つめる娘の目を、あふれる涙が曇らせた。
 竹本の父親は、この日を契機に勤行を始めた。そして、娘の学会活動のためには、どんな協力も惜しまなかった。「私は山本先生と約束したのだ!」──それが父親の口癖となった。
 長野駅に着いた伸一は、竹本親子と別れ、駅長室へあいさつに行った。この日の支部結成大会には、一万人を優に超える参加者が見込まれており、駅も混雑することが予想されていたからである。
 また、長野駅は善光寺詣での乗降客が多いことで知られるが、ここに支部が誕生すれば、学会員の乗降客も増えることになる。
 彼は創価学会の最高責任者として、礼を尽くして駅長にあいさつした。外交といっても人間の出会いから始まり、それはあいさつから始まる。大いなる友情の海原へと船出する、心の交流の門戸こそ、あいさつにほかならない。
29  勇舞(29)
 晩秋の長野に、喜びの花が咲き、希望が躍った。
 十一日の長野支部の結成大会は、一万二千人余が参加し、前進の息吹が脈打つ集いとなった。
 山本伸一は、松本と長野の両支部の結成大会が大成功を収め、新出発を飾ったことが嬉しかった。
 長野県は戸田城聖が、最後の夏を過ごした思い出の地であるばかりでなく、初代会長牧口常三郎も布教に訪れた縁深き地であった。
 なかでも一九三六年(昭和十一年)の二月には、牧口は一週間にわたって、三人のメンバーとともに、下諏訪、上諏訪、伊、松本、長野、上田などを歴訪している。
 その時、長野で開いた座談会の会場が、この日、伸一が泊まった犀北館という旅館であった。
 伸一は大会を終えて、旅館に戻ると、深い疲労を覚えた。考えてみれば、あの海外訪問の疲れをす暇もなく、走り続けていただけに、当然といえば、当然であった。
 しかし、二十数年前、先師牧口が、この旅館で座談会を開き、人々の不幸を救うために戦っていたことを思うと、彼は深い感慨に包まれた。
 ──一九三六年の二月といえば、先生は六十四歳であり、私のちょうど二倍の年齢である。
 信濃路は深い雪に覆われていたにちがいない。そのなかを先生は、折伏の歩みを運ばれた。それを考えれば、若い私が疲れてなどいられるものか。
 彼は、心の底から勇気がわき立つのを覚えた。
 その牧口の第十七回忌法要は、ちょうどこの一週間後に迫っていた。
 しばらくすると、支部の幹部が訪ねて来た。彼の部屋で炬燵を囲んで懇談が始まった。
 男子部の幹部が伸一に質問した。
 「私は、現在、自動車の整備の仕事をしており、学校は国民学校を出ただけで学歴がありません。そんな私が男子部の幹部として指揮をとれるのか、不安なんです」
 伸一は、厳しい視線を向けた。
 「人間は実力だ。学歴がなんだというんです! 自動車の整備士として、油まみれになって働いて、その仕事で、みんなの模範になればよいのです。
 職種は違っても、信心を根本にして社会の勝利者になった体験は、万人に通じます。
 同志は、幹部の信心について来るのです。人柄について来るのです。背伸びをして、見栄を張る必要はいっさいありません」
30  勇舞(30)
 民衆のなかから、民衆のリーダーを育み、民衆が社会の主人となる″民主の時代″を開く──そこに、人類の進むべき、革新の道がある。
 山本伸一は身を乗り出すようにして青年に語った。
 「学歴がないからと、卑屈になるのではなく、自分らしく、自分のいる場所で頑張ることです。それが人生の勝利の道です。
 私も、戸田先生の下にあって、夜間の学校を、途中でやめざるを得ませんでした。学歴がないことは恥でもなんでもない。しかし、学ばないことは卑しい。勉強しないことは恥です。私も毎日、勉強している。一日に二十分でも、三十分でもよい。寸暇を惜しんで読書し、勉強することです。その持続が力になる。
 君も実力を蓄え、本当に力ある民衆のリーダーになっていくんだよ。今日は、君の栄光の未来への出発のために歌を歌おう」
 伸一はこう言うと、自ら「田原坂」を歌い始めた。
  雨はふるふる 人馬はぬれる
  …… ……
 一番を歌い終わると、伸一は言った。
 「みんなで歌おう!」
 皆が唱和した。
  天下取るまで 大事な身体
  蚤にくわせて なるものか
 歌い終わると、伸一は、質問した青年を見つめた。
 「君も、偉大な使命をもった大事な人なんだ。大切な体なんだ。だから、病気になどなってはいけない。健康に留意し、体を鍛えていくのだ。
 また、金銭や酒、あるいは異性との問題など、つまらないことで自分に傷をつけてはならない。『蚤になど、食わせるものか!』という思いで、生きていくんだよ」
 青年は、感無量の表情で頷いた。
 更に、伸一は「女子部のためにも歌おう」と、皆で「故郷」や「紅葉」を歌った。集って来た友の成長と勝利こそ、彼の最大の願いだった。
 外は晩秋の肌寒い夜である。しかし、この部屋のなかには、家族のような人間の温もりがあり、歓喜の歌声が響いていたのである。
 伸一の支部結成大会の旅は、すべてが励ましに彩られていた。
 それは、凍てた心を溶かし、ありのままの人間として、光り輝く幸の道を教える、真心の触発の旅であったといってよい。
31  勇舞(31)
 人生の偉大なる闘争も、一瞬、一瞬の闘争の積み重ねにほかならない。
 山本伸一の心のアンテナは、片時の休みもなく作動し、瞬間を的確にとらえ、敏感に反応した。いっさいの転機は、常に″一瞬″のなかにあるといってよい。
 十二日、伸一は、晩秋の長野を後にして、富山市を訪問した。
 この日は、富山市公会堂での、富山支部の結成大会に臨んだ。
 開会直前のことである。支部長の高松俊治をはじめ、幹部は皆、いたく緊張していた。これから何千人という参加者の前に出るとあって、どの顔も強張り、動作も硬かった。なかには、膝が小刻みに震えている幹部もいた。
 登壇する幹部が緊張していれば、参加者も緊張してしまい、どうしても会合は重苦しい雰囲気になってしまう。伸一は、この幹部の緊張を解きほぐさなければならないと思った。
 彼は言った。
 「みんな怖い顔をしているな。会合が終わったら、なんでも好きなものを御馳走してあげるから、もっと愉快そうな顔をしてよ。さて、幾ら持っているかな」
 彼は、自分の背広のポケットを探ると、握ったをそっと出した。そして、パッと指を開いた。
 そこには、十円玉が一つあるだけだった。
 「なんだ、十円しかないよ。これじゃあ、コッペパン一つしか買えないな」
 周りにいたメンバーは、思わず噴き出した。和やかな笑いが広がり、たちまち空気は一変した。
 「さあ、入場だ。楽しくやろう。気を楽にして。いつもと同じ気持ちでいいんだよ。幹部が怖い顔をしていたのでは、せっかく遠いところから来てくれた人に申し訳ないじゃないか」
 富山の幹部たちは、そこから、深い感動をもって、リーダーの気配りの大切さを学んでいったのである。
 富山支部の結成にあたって、伸一が一番心配していたのは、女子部のことであった。
 富山支部には、五百数十人の女子部員がいたが、谷川ルミ子という女性が支部の女子部の中心者に決まっただけで、そのもとで地区を担当し、活動を推進する女子部の区長が、一人も任命できずにいたのである。
 したがって、女子部は、谷川が二十の班の班長と、直接、連携を取りながら、活動を進めなくてはならないことになる。区長のいない変則的な組織で、他の支部と同じように活動を展開していくのは、並大抵のことではない。
 しかし、伸一は厳しい状況であるからこそ、勝ってほしかった。
32  勇舞(32)
 富山の女子部の勝利は、中心者の谷川ルミ子が、まず一人立つ決意で、必死になって戦うことから始まるといってよい。
 更に、彼女が、女子部の班長たちから、姉のように慕われ、皆が谷川に心から信頼を寄せるようになることが、重要なポイントになる。また、壮年や婦人が、女子部のために、喜んで応援し、協力してくれるかどうかが、成否の鍵を握ることになろう。
 谷川は、負けずいな性格で、責任感は強かった。しかし、その反面、気位が高く、どちらかといえば高慢な印象を人に与えた。皆が喜んで応援するようには思えなかった。だが、それでは、彼女自身がかわいそうだし、女子部の発展を遅らせてしまうことになる。
 伸一は、彼女が誰からも愛され、慕われるリーダーになるために、敢えて厳しく訓練しなければならないと思った。
 支部結成大会は、大成功のうちに幕を閉じた。
 終了後、伸一が会場の控室で、地区幹部の質問会を行うと、谷川が尋ねた。
 「富山支部の女子部の場合、まだ、区長は誰もおりません。そのなかで、活動を進めていくには、どのような手を打てばよいのでしょうか」
 伸一は、今が谷川を指導するチャンスだと思った。
 「手を打つ? 手を打ってどうするんだい?
 手を打つというのは、時代劇か何かで、茶店の人を呼ぶ時にやる、こういうしぐさだよ」
 伸一は、ポンポンと手を叩いて見せた。
 「手を打って、誰かが出て来たら、お団子でも頼むのかい」
 谷川は質問の仕方が悪いのかと思い、言い直した。
 「あのー、中心者としてどうやって、みんなを引っ張ればよいのでしょうか」
 「あなたは、みんなを引っ張っていくのか? もし坂道だったら大変だよ。急な坂道を一人で引っ張るなんて、とても無理だ。誰かに後ろから押してもらわないとだめだね」
 谷川は困惑した。何が悪いのだろうと考えながら、また、言い直した。
 「つまり、どうすればみんなを動かせるのか、お伺いしたいのです」
 「なんだ、あなたは、みんなを動かそうとしているのか。自分が、みんなのために動くのではなくて。そんな幹部は、学会のなかでは聞いたことがないな」
 それは、彼女には、皮肉で意地悪な答えに感じられた。気の強い谷川の目が潤んだ。
33  勇舞(33)
 谷川ルミ子は、困り果てた顔で尋ねた。
 「……どのように、お聞きしたら、よろしいのでしょうか」
 山本伸一は、谷川自身の栄えある未来のためにも、本当の幹部の姿勢を教えておきたかった。伸一は強い口調で言った。
 「自分に力があるなどと思ってはいけない。ましてや、役職の高みに立って、人を機械のように動かそうなどと考えては、絶対にいけません。
 みんなに頭を下げ、『こんな私ですが、よろしくお願いします。皆さんのために、どんなことでもやらせてもらいます』という思いで、何事にも謙虚に、真剣に取り組むことです。
 その健気な姿に心打たれて、人も立ち上がり、周囲の人も協力してくれる。高慢だと思えば、人はついては来ません。策や方法ではない。真剣さです。誠実さです。題目を唱え抜いて、みんなを幸せにしようと、体当たりでぶつかっていけるかどうかです」
 谷川はハッとした。「謙虚」という言葉が、胸に突き刺さった。言われてみれば、確かに自分には欠落していた。
 人間は、自分の欠点は、なかなか自覚できないものである。それを、そのままにしておけば、どんなに優れた力を持っていても、いつか行き詰まってしまう。だからこそ伸一は、こうした形で、彼女の欠点を鋭く指摘し、その根を徹底して断とうとしたのである。
 谷川は、自分の弱点が白日のもとにさらされ、打ちのめされた思いがした。初めて自分の短所を浮き彫りにされた、戸惑いと惨めさを感じた。
 伸一は、谷川の目をじっと見つめた。それから、彼は、支部長の高松俊治を見て言った。
 「女子部がどうやって富山支部を建設しようかと、真剣に悩んでいる。尊いことではないですか。彼女は一生懸命なんです。
 これからは、この人を、私の妹だと思って協力し、応援してあげてください。お願いします」
 そして、伸一は、高松に向かって頭を下げた。
 谷川は驚いて、その光景を見ていた。伸一の真心が激しく胸を打った。彼女は声をあげて泣き出した。
 「リーダーは泣いたりしてはいけない。いつも笑顔で、みんなを包んでいくんだよ。今があなたの勝負の時だ。人間革命の時だよ。富山の女子部の未来を楽しみにしているからね」
 発心の花を咲かせながらの、伸一の旅であった。
34  勇舞(34)
 新設された各支部の幹部の多くは、中心幹部として何を第一に考え、いかに戦うべきであるかが、わからなかったといってよい。
 しかし、行く先々での山本伸一の振る舞いは、それを明確に物語っていた。
 同志を、会員を守り、励ます──すべては、そこに尽きていた。
 十三日午後の、金沢支部の結成大会が終了した時のことである。伸一は表に出ると、空を見上げた。厚い雲が張り出していた。
 彼は宿舎に向かうために車に乗ると、小声で唱題を始めた。車には同行の幹部のほか、金沢支部の婦人部長の浜田栄も同乗した。彼女は最初、なぜ山本会長が題目を唱え出したのかわからなかった。
 車が走り出して、しばらくすると、急に激しい雨が降り始めた。
 「とうとう降ってきてしまったな。みんなが雨に濡れなければよいが……」
 伸一が言った。
 腕時計を見ながら、浜田が答えた。
 「大丈夫だと思います。市内の人は、もう家に着いていますから」
 「市内で一番遠い人も、大丈夫かな」
 「ええ、おそらく今ごろは、帰宅した後ではないでしょうか」
 「能登から参加した人たちは、どうかな」
 「奥能登から来た人たちは、貸し切りバスの中ですし、ほかの人たちも、もう列車に乗っていますから、雨に濡れていることはないと思います」
 「そうか、それならよかった。しかし、役員の男子部と女子部は、雨に濡れてしまうな。風邪をひかなければよいが……」
 それから、伸一は、再び小声で題目を唱えた。
 浜田は、皆が雨に濡れないように、伸一が唱題していたのだと気づいた。
 ──これが、広宣流布の指導者というものなのか。これが、山本先生の思いなのか。
 彼女は、熱い感動を覚えた。そして、自分も支部の婦人部長として、少しでも山本会長の心に近づかなければならないと、決意を新たにするのだった。
 十一月九日から六日間にわたって行われた、山本会長の甲信、北陸方面の支部結成大会の旅は、各地に歓喜と躍動の絵巻を広げ、未来の大発展への布石となっていった。
 彼の指導を聞いた参加者は、実に三万五千人に上り、その多くが、初めて伸一の姿を目にした人たちであった。そして、その同志が、各地にあって三百万世帯達成の原動力となっていったのである。
35  勇舞(35)
 山本伸一の行動は、日を追うごとに激しさを増していった。
 甲信、北陸方面への旅では、宿舎に帰っても、決裁を要する膨大な書類の山が待っていたし、打ち合わせは、しばしば深夜にまで及んだ。しかも、移動の車中も、彼は個人指導の時間にあてていた。
 しかし、そのなかで、伸一は、ますます活力をみなぎらせ、日々、元気になっていくのである。
 その動きに目を見張り、舌を巻いたのは、側近の幹部たちであった。ことに海外指導に同行した幹部は、彼が病魔と闘い、死力を振り絞るようにして指導を続けた様子を、目の当たりにしてきた。
 その後のスケジュールを考えれば、伸一の疲労の度は、更に増しているはずである。それだけに不思議でならなかった。
 伸一が甲信、北陸の指導から戻った翌日の首脳幹部の打ち合わせの折、幹部の一人が伸一に尋ねた。
 「私は、海外での先生の激闘に驚嘆しておりましたが、帰国後の動きは、それをはるかに超えています。そして、動くにつれて、お疲れを見せるどころか、お元気になられる。先生のその力は、いったいどこから出るのでしょうか」
 伸一は笑みを浮かべて答えた。
 「私は十年余にわたって戸田先生のもとで仕えた。それはそれは、激しい戦いの歳月だった。緊張の連続だった。弱い体と闘いながら、そのうえに、先生の事業のいっさいの責任を担ってきた。そのなかで私は、精神的にも、肉体的にも、すっかり訓練されてしまった。それが生命力というものだよ。
 大切なのは、自身の責任と使命の自覚だ。そして、その一念が唱題となって御本尊に結びつく時、泉のようにこんこんと生命力が湧く。だから私は、飛行機や自動車のなかでも、いつも、お題目を唱えようとしているんです」
 「はあ……」
 頼りない返事である。伸一は、更に言葉をついだ。
 「また、生命力というのは、ただ体力のことだけをいうのではない。知恵も含まれるものだ。だから、肝心なことを忘れてしまったり、大事なところで失敗したりすることはない。いざという時に力が出せなかったり、しくじってしまうのは、真剣でないからだ。自分が全部やるのだと思ったら、ポイントを外すわけがないではないか」
 幹部にとっては、耳の痛い話でもあった。
36  勇舞(36)
 同じことをするにも、喜び勇んで行うのと、義務感でいやいやながらやるのとでは、結果は大きく異なってくる。
 仏道修行の要諦は″勇猛精進″にある。「依義判文抄」には「敢んで為すを勇と言い、智を竭すを猛と言う」との釈が引かれている。
 勇んで挑戦するところに生命の躍動があり、知恵も生まれる。そこには、歓喜があり、さわやかな充実感と希望がみなぎる。決して暗い疲労はない。
 山本伸一は、皆の顔を見ながら言った。
 「私はこれから、ますます元気になっていく! みんなついてこれるかい?」
 「はい!」
 一斉に返事をした。
 「よし、勇んで戦うよ」
 皆、決意を込めて、緊張した顔で、山本会長の言葉を聞いていた。
 「そんなに堅苦しい顔をし、しゃちこ張らなくてもいいんだよ。真剣ななかにも、心のゆとりが必要だ。それもまた生命力なんだ」
 こう言うと、伸一は傍らにあった新聞紙の包みを、テーブルの上に置いた。
 「これは折鶴蘭なんだけど、ずいぶん増えてしまったので、みんなに分けようと思って持ってきたんだ。百八十円で買ったものなんだけどね」
 伸一が新聞紙を開くと、婦人部長の清原が言った。
 「かわいいですね!」
 「どんなに忙しくても、花を愛し、生命の神秘に感嘆し、自然の美しさに心和ませる精神の余裕を忘れてはいけない。また、音楽を聴き、文学に親しみ、詩や俳句を詠むぐらいのゆとりが必要だ。
 ただ忙しいばかりでは、学会は殺伐としたものになってしまう。『忙しい』の『忙』の字は、『心』を意味するリッシンベンに『亡ぶ』と書くじゃないか。心が亡んでしまっては、文化なんて育ちはしないよ」
 「忙中閑あり」である。動中にも静はある。何ごとにも″めりはり″が必要であり、リズム、切り替えが大切だ。それによって心も一新され、新たな活力も生まれてこよう。
 いかに一生懸命であっても、伸び切ったゴムのようになってしまえば、価値の創造はない。仏法は即生活法である。
 伸一が激しいスケジュールのなかで、日々活力を増していった一つの源泉は、この「動」と「静」の緩急自在な躍動のリズムを体得していたことにあった。
 そして、何よりも、勇んで広宣流布の天地を走り舞う、″勇舞″の気概にあったのである。
37  勇舞(37)
 富士は白雪を頂き、峻厳な佇まいを見せていた。
 十一月十六日、山本伸一は、幹部二百人とともに晩秋の総本山に向かった。十六、十七の両日にわたって行われる、日淳上人の一周忌法要に参列するためであった。
 法要に臨み、唱題を捧げながら、彼は、日淳上人との最後の語らいが、懐かしく思い返されてならなかった。
 それは、ちょうど一年前の十一月十六日のことであった。この日、日淳上人の要請を受け、当時、総務の伸一は、理事長の小西武雄とともに、東京・大田区の上人の静養先を訪ねた。
 日淳上人は、この年の夏以来、体調を崩していたのである。
 容体は一時快方に向かいはしたが、十一月八日の創価学会第二十一回総会には出席することができず、病床からメッセージを寄せねばならぬ状態であった。そして、十日ごろから、再び病状は悪化した。
 十一月十五日、日淳上人は、常在寺住職の細井精道総監(日達上人)を呼び、十六日午前零時過ぎから、相承の儀を執り行った。自らの死期を悟っていたのであろう。
 伸一が、急きょ、日淳上人から招かれたのは、この日の午後のことであった。
 上人は、やせた体を静かに横たえていた。伸一の姿を認めると、にっこりと微笑んで手招きした。
 彼は、枕元に行き、耳を寄せた。
 「今度、常在寺にあとをまかせることにしたから、よろしく……」
 開口一番、相承が終わったことを告げた。常在寺とは日達上人のことである。
 伸一が頷くと、日淳上人は、安心しきった様子で、戸田城聖への思いを語り始めた。
 「……戸田先生には、私よりもっと長生きしていただきたかった。しかし、残念なことには、あべこべになってしまいました」
 伸一は、日淳上人の体調を気遣い、「お疲れになってはなりません。どうか、お休みください」と言おうとしたが、一心に何かを話し続けようとする姿を見ると、口に出すことはできなかった。
 いつの間にか、上人の顔から笑みが消え、目は鋭い光を放っていた。
 「戸田先生には、また創価学会には大恩があるのです。……登山会もそうでした。そのおかげで、総本山は、観光地化せずにすんだのです」
 振り絞るような声が、伸一の胸を貫いた。
38  勇舞(38)
 戦後、宗門は、農地改革によって土地の多くを失い、財政難に陥っていた。その窮地を脱するために、総本山大石寺を観光地にしようという話が持ち上がったのである。
 背に腹はかえられぬとの考えからか、僧侶たちの間では、それを積極的に推進する動きが見られた。そして、総本山客殿で、宗門側と地元の行政・民間の代表が集い、総本山を中心とする富士北部の観光懇談会が開かれるに至った。
 計画は、ほぼ本決まりのところまで進んでいたといってよい。一九五〇年(昭和二十五年)十一月のことである。
 これには当時、宗務総監だった日淳上人も出席している。席上、観光地化に同意する旨を述べているが、その心中は、断腸の思いであったにちがいない。
 この計画を聞き、「総本山を絶対に観光地にしてはならない」と、断固、反対したのが戸田城聖だった。彼は、日興上人の「謗法の供養を請く可からざる事」との御遺誡のうえから、なんとしても、これに同意するわけにはいかなかった。
 また、他宗の寺院では、観光客に本尊を見せ、拝観料を取っているところも珍しくない。しかし、大御本尊は、どこまでも信仰の根本として尊敬すべき対象でなければならない。
 それを、仮にも、信仰の寸心さえない物見遊山の観光客に、金のために拝観させるようなことにでもなれば、日蓮大聖人の御精神を踏みにじることになってしまう。戦前の神札問題と同じ轍を踏むことになりかねない。
 「この戸田が、正宗の大法を守ります!」
 戸田は、信心を失った姿に、怒りをもって叫び、外護に立ち上がった。
 これを契機に五二年(昭和二十七年)十月から開始されたのが、後に創価学会の伝統行事となった「登山会」であった。
 もし、戸田の決断と学会の赤誠の外護がなかったならば、清浄な信仰に支えられた総本山の復興はありえなかったのである。
 日淳上人は、その経緯をすべて知っていた。今、切々と真情を語る上人の目は、潤んでいるようにも見えた。
 「戸田先生のおかげで、創価学会のおかげで、大法は清浄に、今日までまいりました。本宗は、戸田先生、創価学会の大恩を永久に忘れてはなりません。こう、細井(日達上人)に言っておきました」
 山本伸一は、深く頭を垂れて、厳粛な思いで、その言葉を聞いた。
39  勇舞(39)
 日淳上人は、なおも語り続けた。
 「戸田先生のお言葉は、その精神は、後世永遠に残さねばなりません。したがって、先生の書籍やレコードを御宝蔵に納めたいのです……」
 妙法流布に生涯を捧げた戸田城聖への、上人の敬愛の念が、山本伸一には痛いほど感じられた。
 対面は、二十分ほど続いた。日淳上人は語るべきことを語ると、満足そうに静かに目を閉じた。
 伸一は、丁重にお礼を述べると、早々に辞去した。これ以上、上人が体力を消耗してしまうことを気遣ってのことである。
 これが上人と伸一との最後の対面となった。その言葉は、すべてが遺言にほかならなかった。
 そして、翌十七日の午前五時五十五分、日淳上人は安祥としていた。満六十一歳であった。
 日淳上人は、一八九八年(明治三十一年)、長野県・伊町に生まれ、小学校卒業後、出家得度し、大石寺に登った。その後、早稲田大学文学部の哲学科(東洋哲学専攻)を卒業し、京都の龍谷大学研究科(現大学院)に学んだ。少壮の学究として将来を嘱望されていたといってよい。
 昭和に入り、軍部権力は宗教統制を強め、学会も、宗門も、その嵐に巻き込まれていく。
 そのなかにあって、日淳上人は時局対策局長などの宗内の要職に就き、苦心惨澹したようである。特に悪僧・笠原慈行らが軍部権力と結託して暗躍した身延合同問題では、矢面に立って、文部省宗教局との折衝に当たっている。
 まさに、三類の強敵のなかの僣聖増上慢との戦いであった。これは、最高の権威をもち、最も人格者らしい姿を見せ、内心は嫉妬と貪欲と邪心が渦巻く、聖職者、指導者のことである。当然、高僧もそのなかに含まれる。それらが、讒言をもって国家権力などを動かし、正法の人を迫害するのである。
 この僣聖増上慢との戦いゆえに、日淳上人の懊悩もあった。しかし、宗門は当時の法主自ら神札を容認するなど、権力に迎合し、保身の醜態をさらしていくことになる。
 一方、学会は尊き殉難の道を選び、大聖人の正法正義の命脈を死守した。そして、初代会長牧口常三郎は獄死したのである。
 この偽善の宗教者と権力が与し、正法を滅ぼそうとする迫害の構図は、広宣流布の前進ある限り、未来永遠に続くといってよい。
40  勇舞(40)
 一九四五年(昭和二十年)七月三日──戸田城聖は生きて獄門を出ると、二日後には、中野の歓喜寮に日淳上人を訪ね、広宣流布と総本山再建の決意を確認し合っている。
 日淳上人は、創価学会を最も深く理解し、敬愛し抜いた。創価学会の総会と聞けば、何をさし置いても、喜んで出席してくれた。
 そして、何よりも学会の仏法上の使命と意義を、深く深く洞察していた。
 五八年(同三十三年)、戸田の逝去の一カ月後に行われた第十八回総会では、こう述べている。
 「法華経の霊山会において、上行を上首として四大士があとに続き、そのあとに六万恒河沙の大士の方々が霊山会に集まって、必ず末法に妙法華経を弘通いたしますという誓いをされたのでございます。
 ……(中略)その方々を会長先生が末法に先達になって呼び出されたのが創価学会であろうと思います。即ち、妙法華経の五字七字を七十五万として地上へ呼び出したのが会長先生だと思います」
 上人の透徹した信仰の眼には、学会は、霊山の儀のままに、久遠の誓いのままに、末法の衆生の救済のために出現した、地涌の菩薩の集いであると映じていたのである。
 では、その創価学会の信仰の基盤とは何か──日淳上人は「師弟の道」にあることを明快に語っている。
 同年六月一日、福岡で行われた九州第二回総会でのことである。
 上人は、壇上に立つと、初代会長牧口常三郎の信心を称え、次いで戸田が貫いた「師弟の道」に言及していった。
 「……戸田先生はどうかと申しますと私の見まする所では、師弟の道に徹底されておられ、師匠と弟子ということの関係が、戸田先生の人生観の規範をなしており、この所を徹底されて、あの深い仏の道を獲得されたのでございます」
 そして、この「師弟」の関係が、法華経の本門の根幹であると述べ、こう続けている。
 「創価学会が何がその信仰の基盤をなすかといいますと、この師匠と弟子という関係において、この関係をはっきりと確認し、そこから信仰を掘り下げてゆく、これが一番肝心なことだと思う。今日の創価学会の強い信仰は一切そこから出てくる。
 戸田先生が教えられたことはこれが要であろうと思っております。
 師を信じ、弟子を導く、この関係、これに徹すれば、ここに仏法を得ることは間違いないのであります」
41  勇舞(41)
 一九五八年(昭和三十三年)十一月、学会の第十九回総会に出席した日淳上人は、再び「師弟の道」を主題に、講演している。
 その際、上人は、あらかじめ用意していた原稿を持たずに話をした。今、残された原稿を見ると、大綱は変わらないが、実際の講演よりも、一層、趣旨は明確である。
 歴史を残す意味で、日淳上人の自筆原稿の一部を、紹介しておきたい。
 上人は、法華経の信仰における肝要として、「師弟」の重要性を説き、次のように記している。
 「……大聖人は日蓮が法門は第三の法門と仰せられておりますが、誠に此の仰せを身を以て承けとられたのは会長先生(戸田城聖)であります。大御本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります。それでありますから、そこに種々なる利益功徳を生ずるのであります」
 上人が、学会の「師弟の道」は、「大御本尊」から生じていると明言していることは重大である。
 学会の「師弟の道」は、大御本尊を信受し、広宣流布しゆく使命から発している。そして、日蓮大聖人の御遺命であるこの広宣流布を、不惜身命の実践をもって果たし抜いてきたことに、深い意味がある。
 大聖人は自らを「法華経の行者」と仰せのように、「行動」を最も重視されていた。法華経を信心の規範とされ、その教えのままに戦いを起こし、数々の大難にあい、法華経を身で読まれたのである。
 御聖訓には次のように仰せである。
 「かかる者の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり
 「総じて日蓮が弟子と云つて法華経を修行せん人人は日蓮が如くにし候へ
 いずれも、日蓮大聖人と同じく、広宣流布への「行動」を起こしてこそ、弟子であるとの御指南である。
 更に、「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり」と仰せであることを心しなければならない。この「南無妙法蓮華経と唱え奉る」とは、自行化他にわたる題目であることはいうまでもない。
 つまり、広宣流布に向かって、心を一つにして「行動」する団結のなかに、生死一大事の血脈、すなわち「信心の血脈」が流れ通うとの御教示である。
 創価学会は、それを実践してきた唯一の教団であることを、日淳上人は最も深く、正確に認識していた。
42  勇舞(42)
 信心の一念は、必ず「行動」「実践」となって表れるものだ。
 日興上人が、日蓮大聖人の血脈を受け継ぐ真実の弟子であり得るのも、大聖人に常随給仕され、ともに難を忍ばれ、師の仰せのままに果敢に弘教を展開されたからである。
 根本の師たる大聖人の御指南通りの信心と、不惜身命の実践こそが、後継の正師たる要件といえよう。
 それがなければ、法主、管長といっても、仏法の本義とは掛け離れた、宗内政治の頭目に過ぎず、そこには「信心の血脈」など決してありはしない。
 日蓮大聖人滅後、六百数十年を経て、軍部政府の弾圧に宗門が屈した時、日蓮大聖人の仰せのままに、正法流布に決然と立ち上がったのが、初代会長牧口常三郎であった。
 牧口は、日蓮大聖人の御書を、どこまでも根本とした。弾圧を恐れ、権力に迎合して勤行の際の御観念文を改ざんし、御書の一部を削除し、学会に神札を受けよと迫る、臆病な宗門に、師を見いだすことなど、できようはずがなかった。
 彼は、大聖人への直結の信心に立ち、その仰せのままに、大信力を奮い起こして、破邪顕正の戦いを開始した。
 そして、逮捕・投獄され、獄中に、殉教の生涯を閉じた。まさに、日蓮大聖人の弟子として御書を身読したのである。
 「信心」は、広宣流布への具体的な「行動」となって表れ、そこには、御聖訓に照らして、必ず「法難」が競い起こる。ゆえに「法難」にあい、いかに戦ったかが、真実の「信心」か否かを証明する試金石となるのである。
 日淳上人は、牧口を、「生来全く法華的の方であった」「生来仏の使であられた」と、称賛を惜しまなかった。
 確かに、牧口が御書を師として大難に立ち向かい、法滅の危機の時代に仏法を蘇らせたことを思うと、まことに稀有な、不思議なる先覚者、開道者の出現と言わざるをえない。
 まさに、現代における仏法の正師こそ、初代会長牧口常三郎であった。
 この牧口を師として、ともに法難に立ち向かったのが、戸田城聖であった。
 戸田は師に従うことによって、大聖人の仏法を生命に刻み、獄中にあって「我地涌の菩薩なり」との悟達を得た。彼はこの時、自己の生涯の使命を自覚した。
 そして、出獄すると、恩師の遺志を受け継ぎ、大聖人の御遺命である広宣流布のために、敗戦の焼け野原に一人立った。
43  勇舞(43)
 第二代会長に就任した戸田城聖は、七十五万世帯の弘教の達成を、生涯の願業として掲げた。
 当時、会員数はわずか三千余に過ぎなかった。その成就は、誰もが不可能と思う、困難このうえない目標であった。それは、まさに人類史的実験であったといってよい。
 戸田は、そこに命をかけた。そのための人生であると、彼は自覚していた。
 御聖訓には、「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」と仰せである。
 「人」がいてこそ、対話が成り立つ。死身弘法の「人」がいてこそ、広布の大道は開かれる。ゆえに、「人」という存在が極めて重要な意義をもつことは、当然の理である。
 以来、約六年半のうちに、戸田はその大願を成就した。一国の広宣流布の確かなる基盤をつくり上げ、七百年間、誰も成し得なかった大聖人の御遺命を、初めて現実のものとしたのである。
 戸田城聖こそ、人類史を画した、広宣流布の大師匠にほかならない。
 しかし、戸田は、牧口という師の存在がなければ、仏法に縁することも、まことの信仰の正道を貫き、自らの久遠の使命を悟ることもなかったにちがいない。
 日興上人は、佐渡の門下への御手紙に「このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をただして、ほとけ(仏)にな(成)り候」と記されている。実に仏法の根幹をなすものは「師弟」であり、誰を師とするかによって、いっさいは決定づけられてしまう。
 また、いかなる弟子を持つかによって、未来のすべては決まっていく。
 戸田は生きて、七十五万世帯の大願を成就し、広宣流布に生涯を捧げた。彼も師の牧口も、ともに不惜身命の実践をもって、御書を身読したのである。
 その行動のなかにこそ、大聖人の「信心の血脈」があり、創価の師弟の脈動がある。
 山本伸一もまた、戸田を師として仕えた。広布のために、ともに苦難を忍び、手駒となって戦った。戸田こそ、現代という時代のなかで、仏法を体現した唯一の指導者であり、彼の生き方のなかに信心の規範があると達観したからである。
 その戸田は、既に世を去り、今や、広宣流布のいっさいは、山本伸一という三十二歳の青年会長の双肩にかかっていた。
 伸一は、日淳上人の一周忌法要の唱題のなかで、上人が語った創価学会の「師弟の道」を歩む喜びに、胸が高鳴るのを覚えた。
44  勇舞(44)
 日淳上人の一周忌法要に続いて、十一月十八日、初代会長牧口常三郎の第十七回忌法要が東京・池袋の常在寺で営まれた。
 山本伸一が会長に就任してから、初めての牧口の法要である。彼は、粛然として、広宣流布への深い祈りを込めて読経・唱題した。
 伸一は、牧口と接することはなかったが、戸田城聖から、その生き方、思想、哲学、信念を徹底して教えられてきた。彼の心のなかには、まみえることのなかった先師の姿が、鮮明に焼きつけられていたといってよい。
 戸田は生前、牧口の死を聞いた折のことを語ると、彼の目は赤く燃え、声は憤怒に震えた。
 「牧口先生は、昭和十九年(一九四四年)十一月十八日、冬が間近に迫った牢獄のなかで亡くなった。栄養失調と老衰のためだ。
 私たちは、その前年の秋に警視庁で別れを告げたきり、互いに独房生活で、会うことはできなかった。
 私は、毎日、毎日、祈っていた。″先生は高齢であられる。どうか罪は私一身に集まり、先生は一日も早く帰られますように″と。
 しかし、先生は亡くなられた。私がそれを聞いたのは、先生の逝去から五十日余り過ぎた翌年の一月八日、予審判事の取り調べの時だった。
 『牧口は死んだよ』
 その一言に、私の胸は引き裂かれた。独房に帰って、私は泣きに泣いた。コンクリートの壁に爪を立て、頭を打ちつけて……。
 先生は、泰然自若として、殉教の生涯を終えられたことは間違いない。
 しかし、先生は殺されたのだ! 軍部政府に、国家神道に、そして、軍部政府に保身のために迎合した輩によって……。
 先生がいかなる罪を犯したというのか! 『信教の自由』を貫いたがゆえに、殺されたのだ。
 後で聞いたことだが、先生の遺体は、親戚のところで働く男性に背負われて獄門を出た。戦時中のことでもあり、たった一台の車さえも調達することができなかった。
 奥様は、その遺体を自宅で寂しく迎えた。葬儀に参列した人も、指折り数えられるほど少なかった。皆、世間を、官憲の目を恐れていたからであろう。
 民衆の幸福のために立たれた大教育者、大学者、大思想家にして大仏法者であった先生に、日本は獄死をもって報いたのだ!」
 怒りに体を震わせて語る戸田の姿を、伸一は忘れることができなかった。
45  勇舞(45)
 戸田城聖は、牧口常三郎の死について語ると、いつも、最後に、阿修羅のごとく、言うのであった。
 「私は必ず、先生の敵を討つ! 今度こそ、負けはしないぞ。
 先生の遺志である広宣流布を断じてするのだ。永遠に平和な世の中をつくるのだ。そして、牧口先生の偉大さを世界に証明していくのだ。伸一、それが弟子の戦いじゃないか」
 戸田は、恩師牧口の命を奪った″権力の魔性″に対する怒りと闘争を忘れなかった。邪悪への怒りを忘れて正義はない。また、悪との戦いなき正義は、結局は悪を温存する、偽善の正義に過ぎない。
 山本伸一は、牧口常三郎の第十七回忌法要の席にあって、戸田がいかなる思いで、牧口の法要に臨んできたかをしのぶのであった。
 焼香、牧口門下の代表のあいさつに続いて、山本伸一がマイクの前に立った。彼は、静かに語り始めた。
 「戸田先生を私どものお父様とするなら、牧口先生はお祖父様であります。つまり、戸田門下生は孫弟子にあたります。孫弟子の私は牧口先生にお目にかかることはできませんでした。しかし、その高潔な人柄、そして、社会の救済に立ち上がられた尊きご精神については、戸田先生から常々お聞きしてまいりました。
 牧口先生亡き後は、戸田先生が死身弘法の大精神をそのまま受け継ぎ、国のため、法のため、人々の幸福のために、苦闘に苦闘を重ねられ、今日の創価学会を築いてくださいました。
 私は、この偉大なる先師牧口先生、恩師戸田先生のあとを継いで、第三代会長に就任いたしましたが、余りにも未熟でございます。
 しかし、一日一日を、ただ、ただ誠心誠意をもって戦い抜き、両先生にお応えしていこうとの思いでいっぱいでございます。
 創価学会には、初代会長の大精神が、力強く脈動しております。牧口先生は、かつて『宗教改革造作なし』と叫ばれましたが、今や、宗教革命は眼前にあり、先生の仰せのごとく、広宣流布の桜の花は、爛漫と咲き始めております。
 力のない私でございますが、本日の法要を契機に、また覚悟を新たにし、どんな苦難も厭わず、牧口先生の理想を実現してまいる決意でございます」
 烈々たる誓いであった。
 伸一は、話し終わると、会場の最前列にいた牧口の孫娘を見た。牧口の三男の蓉三の娘・蓉子である。牧口が逮捕される三年半ほど前に生まれた孫であった。
46  勇舞(46)
 牧口常三郎が逮捕された時、三男の蓉三は、徴兵され、中国にいた。牧口は、蓉三には自分の逮捕を知らせぬよう家族に指示した。そして、牧口逝去の二カ月半前の八月三十一日、蓉三は戦病死している。父・常三郎の逮捕を知らぬままの死であった。
 孫の蓉子は、四歳で父と祖父を亡くしたのである。山本伸一は、その彼女が、結婚することになったという報告を聞いていた。
 伸一は言葉をついだ。
 「なお、牧口先生のお孫さんである蓉子さんが、明後日、結婚式を挙げる運びになっております。最も先生が愛情を注がれた、血の通った方でございます。
 本日は清原婦人部長の指揮で、皆で『黎明の歌』を歌って、蓉子さんの前途を祝福したいと思います」
 清原が立つと、伸一は蓉子にも立つように促した。清原は「黎明の歌」の冒頭の一節を歌い始めた。
 「ああ若き血は 燃えたぎる」
 続いて、皆が唱和した。
 この歌は学会の青年たちに愛唱されていた歌で、恩師の心を胸に、日本、世界の広宣流布に馳せる若人の心意気を歌ったものだ。
 清原の横に立つ、まだ少女の面影を残す蓉子のに涙が光った。
 伸一が、「黎明の歌」の合唱を提案したのは、蓉子に牧口の孫娘として、その遺志を受け継ぎ、学会員の誇りを胸に、生涯を広宣流布に生き抜いてほしかったからである。
 孫娘の祝福の場となった牧口の法要は、さわやかな感動のなかに幕を閉じた。
 伸一は、この日のあいさつでは、多くを語らなかったが、彼の胸には、新たな誓いの火が燃えていた。
 それは、先師牧口の遺志である広宣流布を成就するためにも、まず三百万世帯を達成することであった。
 また、現代に人類の救済の光を投じた牧口を、永遠に世界に顕彰しゆくことであった。特に、牧口が日も当たらぬ獄舎で、寒さにさいなまれながら秋霜の季節に逝去したことを思うと、風光明媚な温暖の地に、彼の遺徳を称える記念の園を開設したいと思った。更にいつの日か、牧口の名を冠した学会の中心となる会館を建設しようと決意した。
 そして、牧口の創価教育を実証する総合的な教育機関の、一日も早い開設を深く心に期したのである。
 法要を終えて、伸一が外に出ると、晩秋の夜風は冷たかった。彼は、火柱のごとく燃え盛る、先師への誓いを胸に、木枯らしの道をさっそうと歩き始めた。

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