Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「錬磨」 錬磨

小説「新・人間革命」

前後
1  錬磨(1)
 盛夏のまばゆい太陽が、″鍛え″の季節の到来を告げていた。その光を浴びて、銀色に輝く隅田川の河畔の道には、日傘の花の列が続いていた。
 七月二十二日、東京・台東体育館で行われる第二回婦人部大会に向かう人たちである。
 婦人部大会が最初に開催されたのは、前年の七月二十八日のことであった。
 これは、当時、ただ一人の総務として、事実上、学会のいっさいの運営の責任を担っていた山本伸一の提案によるものだった。
 彼は、広宣流布をより多角的、重層的に推進していくためには、座談会などの各部が一体となった活動とともに、それぞれの部の特性を生かした活動の大切さを感じていたからである。
 ことに婦人部の場合、専業主婦が時間を有効に活用するためには、昼間を中心とした活動を、更に充実させる必要があった。また、婦人という共通の基盤に立って、独自の運動を展開する機会を増やした方が、より力を発揮できるという利点もある。
 伸一は、それらを考慮して、理事長であった小西武雄や婦人部長の清原かつと協議を重ね、初めての婦人部大会の開催を企画していったのである。
 彼は、女性の生活上の役割を深く考えながら、真実の″女性解放″に心を砕いていた。女性の幸福なくして、本当の社会の繁栄はないからだ。
 第二回婦人部大会は、午後零時半から開始された。盛夏の満員の会場は、うだるように暑かったが、集った婦人たちは、はつらつとしていた。
 大会では、夫が戦死し、男児をつれて再婚した婦人の体験が語られた。
 彼女は、再婚した相手の六人の子供との、人間関係に悩んでいた。しかも、染め物の工場を経営する夫は、仕事に行き詰まり、ギャンブルに走っていった。生活苦と子供との不仲の末に、夫婦喧嘩が続き、死を考えたことさえあった。
 そんな時、知人から仏法の話を聞き、夫妻で入会。唱題を重ねるうちに、夫はけ事をやめ、仕事にも精を出すようになった。
 また、子供との不仲も解消し、念願の一家の和楽が訪れたという体験である。
 そこには、先妻の子供にも隔てなく愛情を注ぎ、夫をも包み込むに至った、一婦人の人間革命の歴史があったといってよい。
 それは、胸中の太陽を輝かせ、不幸の宿命から解放された女性の蘇生の現実の姿であった。
 会場からは盛んな拍手が送られた。
2  錬磨(2)
 その体験は、一つの家庭という小さな世界の出来事に過ぎない。しかし、それは、社会をも変えゆく無限の可能性を物語っている。
 家庭とは、家族が共同でつくりあげてゆく価値創造の「庭」であり、明日への英気を培う、安らぎと蘇生の園である。また、人間を創りゆく土壌と言えよう。
 社会といっても、その基盤は、一つ一つの家庭にある。ゆえに、盤石な家庭の建設なくしては、社会の繁栄もないし、社会の平和なくしては、家庭の幸福もありえない。そこに世界平和への方程式もある。
 また、先妻の子供に惜しみなく愛情を注ぐことのできた婦人は、他人をも等しく愛せるにちがいない。そして、一家の和楽を築いたその力が、社会に向けられれば、平和建設の偉大なる力となろう。
 山本伸一は、いずこの家庭にも、「太陽」のごとき婦人がいれば、社会もまた明るい光に包まれてゆくにちがいないと感じていた。
 活動方針の発表や代表抱負などに続いて、婦人部長の清原かつが登壇した。
 「今日は、少し耳の痛い話かもしれませんが、婦人部の活動の在り方について申し上げます」
 清原は、こう前置きして語り始めた。
 「私たち婦人部は、山本先生のもとで自由自在に活動させていただき、学会にあって、大きな力を発揮してまいりました。しかし、その反面、ともすれば独善的になり、自分たちの殻に閉じこもって、異なった意見には耳を貸さない傾向があるように思います。
 そして、活動の面でも、思い通りに物事が運ばないと、壮年が真剣でないからとか、青年がしっかりしないからだなどと、すぐに周囲の人のせいにしてしまうきらいが、なきにしもあらずという気がいたします。
 家庭でも、母親が、子供の話を全く聞かず、一から十まで自分の思い通りにしようとすれば、必ず子供も反発します。ましてや、何か、うまくいかないことがあるたびに、夫や子供のせいにして怒ってばかりいたら、家族はみんな、やる気を失ってしまいます。
 そうした狭い心で、周囲の人たちに接するのではなく、太陽のように温かく、皆を包み込む包容力を身につけていかなくてはなりません。太陽の光を浴びれば、凍りついた雪も解け、若芽も伸びていきます。
 私たち婦人部は、明るい笑顔で皆を包み、家庭、組織、地域を照らす″太陽″になっていこうではありませんか」
3  錬磨(3)
 清原婦人部長は、歯に衣を着せることなく、核心に迫っていった。
 「また、女性の常としてグチをこぼし、陰で人の悪口を言うきらいがあるようです。
 しかし、信心の世界ではそれは十四誹謗であり、福運を消してしまうことになります。陰で悪口を言うのは、怨嫉以外の何ものでもありません。
 学会の婦人部ならば、そんな湿地帯のような心から脱して、晴れやかな五月晴れのような心で、明るく、朗らかに信心に励んでいこうではありませんか。
 更に、子供さんのいる婦人には、信心を伝え抜いていく一家の責任者の自覚がなくてはなりません。
 先日、女子部の幹部の方たちに、どういう動機で信心をしたのかを尋ねてみました。すると、七人いた女子部員全員が、生活も大変ななかで、グチも文句も言わずに、いつも笑顔で頑張っている母親の姿を見て、信心をしてみようという気になったと言うのです。
 つまり、お母さんの強さや優しさ、また、素晴らしさの源泉が、信心にあることに気づき、若い娘さんが信心を始めているのです。
 反対に、母親が幹部で立派そうに見えても、家に帰って『疲れた』とか『大変だ』などと、グチばかりこぼしたり、主婦としてやるべきこともやらないような場合は、たいてい子供は信心をしなくなっています。
 もう一つ申し上げておきたいことは、皆、それぞれに悩みを抱えていますが、その克服を自分の課題として、学会活動に励んでいこうということであります。
 たとえば、夫の仕事がうまくいかずに悩んでいるなら、今月は、それを願って一人の友人に信心を教えよう、何遍の唱題に挑戦しようというように、悩みを広宣流布の活動のバネにしていくことが大事ではないかと思います。
 広宣流布のために働き、祈るならば、必ず功徳があります。したがって、一つ一つの活動に自分の悩みをかけて、幸福へのステップとしていくことです。個人としての活動の意味が明確になれば、張り合いも生まれ、力も出ます。
 そして、全員が幸福という確かな道を、堂々と歩んでまいりましょう」
 清原の話は、婦人の陥りがちな問題点を鋭く見すえた、婦人部大会ならではの指導であった。
 参加者にとっては、かなり切実な指摘であったようだ。清原のあいさつが終わった時には、皆、幾分、緊張した顔になっていた。
4  錬磨(4)
 幹部のあいさつが続いた後、会長山本伸一の講演となった。
 彼は、開襟シャツ姿で扇を手にして壇上に立つと、参加者の緊張を解きほぐすように、微笑を浮かべ、語り始めた。
 「三日前に発足した池田新内閣で、初の女性の厚生大臣が誕生し、話題を呼んでおりますが、婦人部の皆さんの見事な指導を聞いておりまして、皆さん方なら、総理大臣だって、立派にできるのではないかと思っております。
 また、セイロン(現在のスリランカ)には、世界で初めての女性宰相として、バンダラナイケ首相が誕生いたしました。それは、いよいよ婦人部の時代が到来したことを示すものであると思いますが、いかがでしょうか」
 割れんばかりの大拍手がわき起こった。
 「皆さんが内閣を構成していたら、戦争も決して起こらなかったでしょう。また、税金の無駄遣いなんか絶対にさせないようになるでしょう。それは、日頃のご主人への対応をみていると、よくわかります。
 『また、タバコなんか吸って。体に悪いし、お金もかかるんだから、やめてくださいよ。あら、お酒ですか。勤行まだでしょ。お茶で我慢できないんですか』と、毎日のように言われているご主人が、本当にかわいそうなくらいです」
 笑いが弾けた。
 「それで、ご主人が文句を言うと、『私はあなたのことを思って、慈悲で言っているのよ』と、十倍ぐらい言い返されてしまう。ご同情申し上げます」
 また、爆笑である。なかには、涙を浮かべ、腹を抱えて笑っている人もいた。
 「冗談はともかく、学会の会合に来たならば、いっさいの苦しみが払われ、楽しくて楽しくて仕方がないというようにしていかなければならないと、私は思っているんです。
 信心は峻厳な仏道修行ですから、法を求めるうえで厳しさを忘れることがあってはなりませんが、後は愉快に、明るく、楽しく、和気あいあいとやっていこうではありませんか。賛成の人?」
 「はい!」と、全員が楽しそうに手を挙げた。
 組織や集団を運営していくには、規則や形式が必要な場合もある。しかし、伸一は、学会にあっては、出来る限り、いかめしい形式主義や画一化を打破し、自由なものにしようとしていた。人間が、より人間らしく生きるための信仰であり、仏法であるからだ。
5  錬磨(5)
 山本伸一の話は、青春時代の自分の体験に及んだ。
 「戸田先生が事業の再建のために苦闘されていた時代が、私にとっても、最も苦しい時代でした。健康状態も最悪であり、給料は遅配が続き、無理に無理を重ねていました。
 そして、先生とお会いしていた時に、つい弱音を口にしてしまったことがありました。
 その時、先生が、厳しく言われた言葉が忘れられません。
 『伸一、信心は行き詰まりとの永遠の闘争なんだ。魔と仏との闘争が信心だ。それが″仏法は勝負″ということなんだ』
 人生には、誰でも行き詰まりがあります。事業に行き詰まりを感じている人もいるかもしれない。夫婦の関係にも、行き詰まってしまうことがあるでしょう。子育てでも、人間関係の面でも、あるいは、折伏や教学に励んでいる時も、行き詰まりを感ずることがあるかもしれません。
 しかし、御本尊の力は広大無辺であり、宇宙大であります。また、私たちの生命も、無限の可能性を秘めています。つまり、問題は私たちの一念に、行き詰まりがあるかどうかにかかっています。それを本当に自覚した時には、既に勝利の道が開かれているのです。
 もし、行き詰まりを感じたならば、自分の弱い心に挑み、それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。戸田先生は、それが私たちの『発迹顕本』であると言われたことがあります。
 長い人生には、信心なんかやめて、遊んでいたいと思うこともあるでしょう。病気にかかってしまうこともあれば、家族の死に直面し、悲しみに沈むこともあるかもしれません。
 それは、煩悩魔という行き詰まりとの″闘争″であり、病魔という行き詰まりとの″闘争″であり、死魔という行き詰まりとの″闘争″といえます。
 それを唱題で乗り越え、絶対的な幸福境涯を開き、最高に意義ある人生を創造していくところに、仏法の最大の意味があります。
 ゆえに、何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの″闘争″だ、障魔との″闘争″だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのです」
 婦人は、生活の最前線で戦う、家族の幸福の守り手でもある。伸一は、その苦労をよく知っていた。それゆえに、彼女たちの胸に、勇気の松明をともしておきたかったのである。
6  錬磨(6)
 体育館の屋根を焦がす太陽と、参加者の熱気で、場内は蒸し風呂のような暑さであった。
 しかし、汗にまみれながらも、集った婦人たちの瞳は美しく光り、求道の輝きに満ちていた。
 山本伸一は、後の話は手短にすませた。
 「婦人部の皆さんが、明るく、清らかで、美しく、はつらつとしていること自体が、信心の輝きの証明になります。
 どうか、この一生を楽しく、有意義に生き抜き、たとえば、銀婚式や金婚式を迎えたならば、自由に世界旅行に行けるぐらいの、境涯になっていただきたいと申し上げ、私の話といたします」
 婦人部大会は、嵐のような拍手のなか幕を閉じた。
 会合を終え、地下鉄の浅草駅に向かう婦人たちの足取りは軽やかだった。炎天下の道は、歩き始めると汗が噴き出てきたが、日傘のなかには、さわやかな笑顔の花が咲いていた。
 ──さあ、頑張ろう! 信心は行き詰まりとの″闘争″なのだ。
 三百万世帯という指標に向かって、婦人たちの、はつらつとした行進の足音は一段と高まっていった。
 山本伸一は、この夏から秋にかけて、青年たちの本格的な訓練を開始し、一人一人を一騎当千の闘将に磨き上げねばならないと考えていた。
 ──今の青年たちが成長し、力をつけていけば、少なくとも二十一世紀までの盤石な学会の基盤をつくることができる。そして、この四十年間が、悠久の歴史のなかで、世界の広宣流布を決定づける、最も大事な期間となろう。
 彼は、青年たちを知勇兼備の人材に育てることを、心に誓っていたのである。
 青年の訓練のための、秋までのスケジュールは既に出来上がっていた。
 まず、七月三十日、三十一日にかけて、千葉県の犬吠埼での男子部の「水滸会」の野外研修が、また、三十一日には、同じ千葉県の富津で、女子部の「華陽会」の野外研修が実施されることになっていた。
 更に八月に入ると、五日から九日まで、伝統の夏季講習会が行われる。ここでも、訓練の焦点は青年に合わせようと彼は考えた。
 そして、八月十四日の中部・九州の体育大会を筆頭に、各方面ごとに体育大会を行い、九月二十三日には全国大会の開催が決定していたのである。
 青年は、あらゆる角度から鍛えれば、鍛えるほど、人格も信念も、磨き深まることを彼は知悉していた。
7  錬磨(7)
 七月三十日の関東地方は曇り空であったが、時折、顔を覗かせる太陽が、まばゆい光を投げ掛けていた。
 男子部「水滸会」の野外研修参加者は、午後一時に学会本部に集合した。
 「水滸会」は、一九五二年(昭和二十七年)十二月に、戸田城聖によって結成された、広宣流布の中核を担う男子部の人材育成グループであった。
 当初、第一期生として代表三十八人が選ばれ、毎月二回、『水滸伝』を教材にして、戸田が直接、育成に当たってきた。戸田は彼らに、広布のいっさいを託そうとしていたのである。
 しかし、その翌年の六月に、突如、訓練は打ち切られた。求道心を失ったメンバーの姿に、戸田が激怒したのである。
 山本伸一も「水滸会」の一員であった。彼はメンバーが師の心を知らず、「水滸会」の目的を見失い、惰性化してしまったことを猛省した。
 伸一は悩み考えた末に、「水滸会」が広宣流布に生涯を捧げることをうたった宣誓文を起草して戸田に詫び、新発足の許しを得た。
 そして、男子部約三千人のなかから、新たに四十三人を人選し、七月二十一日に戸田の前で、全員がこの宣誓文に署名した。ここに新生「水滸会」がスタートしたのである。
 そのメンバーを第一期として、以来、第四期を数えるに至っていた。
 その間に、野外研修も四回行われてきた。
 第一回の野外研修は、五四年(同二十九年)九月、戸田を囲んで東京・氷川のキャンプ場で開催された。
 そして、翌年六月には、山梨県の河口湖・山中湖で第二回が行われた。これが戸田の「水滸会」の最後の野外研修となった。
 戸田の逝去後は、伸一の提案で、五八年(同三十三年)七月に再び河口湖で、翌年七月に再度、氷川の地で野外研修を開催してきた。恩師との誓いを新たにし、「水滸会」の使命を果たしゆくためであった。
 「水滸会」での戸田の指導は、伸一の胸に鮮烈に刻まれていた。なかでも、氷川での第一回の野外研修のことは、決して忘れることができなかった。
 あの時、戸田は深い思いを込めるように、じっとキャンプファイアーを見つめながら語った。
 「不思議なことを言うようだが、今夜は、はっきりと言っておこう。今日から十年目に、みんなそろって、またここへ集まろうではないか。私はそのとき、諸君に頼むことがある」
 青年たちの瞳が一段と輝いた。
8  錬磨(8)
 戸田城聖は、一言一言、み締めるような語調で話を続けた。
 皆、厳粛な思いで耳をそばだて、視線を注いだ。
 戸田は、広宣流布が進むにつれて、やがて、必ず三類の強敵が競い起こってくるであろうと述べた。
 そして、いかなる試練が待ち受けていようとも、日本の繁栄も、世界の恒久平和の実現も、帰するところは、仏法による以外にないと宣言して、こう結んだ。
 「私は諸君を心から信頼している。広布の黎明のときに、もう一度、ここに集まってもらいたいのだ。そのときまで、今ここにいる諸君は絶対に退転してはなりませんぞ。いいか!」
 この時の戸田の言葉の通り、三年後、学会は大きな嵐にさらされた。夕張炭労事件、そして、山本伸一が不当逮捕された、あの大阪事件である。
 しかし、恩師は、十年後の集いを待たず、一九五八年(昭和三十三年)四月二日、世を去った。
 戸田が十年後のその時、「水滸会」の弟子たちに何を頼もうとしたのか、伸一には明確であった。
 十年後といえば、奇しくも戸田の七回忌の年にあたる。もし、存命ならば、伸一への遺言にも明らかなように、この時までに、恩師は自らの手で、三百万世帯を達成していたことは間違いない。
 すると戸田は、三百万世帯という広布の確固不動な基盤をつくり上げて、その上に、政治、経済、教育など、あらゆる文化の華を咲かせゆく、日本の広宣流布のいっさいの総仕上げを、伸一をはじめとする「水滸会」の青年たちに託したかったにちがいない。
 今、学会は、その十年後にあたる戸田の七回忌を目指して、伸一を中心に、三百万世帯の達成を掲げてスタートを切った。
 伸一はそう考えると、このたびの野外研修は、「水滸会」の青年が、自分とともに、戸田の分身として立ち上がる、不二の旅立ちの集いとしなければならないと思った。
 恩師がその姿を見たならば、心から喜び、安心してもらえる、広宣の丈夫の雄飛の舞台にしようと、伸一は誓った。
 研修の場所も、彼自ら考えに考えた。そして、太平洋の旭日を仰ぐ、千葉県・犬吠埼としたのである。
 そこには、伸一がこの年の秋に、世界平和への第一歩を印す、アメリカにつながる海がある。広宣流布の大海へ船出する、気宇広大な丈夫の集いにふさわしい景勝の地といえた。
9  錬磨(9)
 「水滸会」の一行は、午後一時半には三台の観光バスに分乗して、学会本部を発ち、犬吠埼に向かった。
 会長山本伸一の指導・激励は、メンバーが集合した時から始まっていた。
 彼は、この「水滸会」の野外研修を記念し、何人かの代表に対して、励ましの言葉を揮毫して贈った。
 そして、彼もメンバーとともに一号車に乗車した。
 バスが両国を過ぎたころから、車内では、一人ずつ順番に、学会歌の指揮をとり、合唱が始まった。
 やがて、二グループに分かれての対抗歌合戦となったが、慰安旅行の余興といった雰囲気であった。
 元気はあっても、音程が著しく外れ、ついには自ら笑い出す人もいた。
 また、次第に声が小さくなってしまったり、歌詞がわからなくなり、途中でやめてしまう青年もいるといった有り様だった。
 伸一は、そんな車内の光景をながめながら、戸田城聖との思い出をたどっていった。
 青年部は、よく戸田の前で歌を歌った。戸田は、その歌に耳を傾け、歌い方に対して、常に厳しく指導してくれた。特に戸田が獄中で作詩した「同志の歌」や″大楠公″など、彼の思いが込められた何曲かの歌に対しては、ことのほか厳しかった。
 「そんな歌い方で、この歌の心がわかるか! 私の目を見すえて、腹の底から声を出して歌うのだ」
 伸一も、戸田の前で、幾度となく、歌を歌う機会があった。
 戸田に「そうだ。その歌い方だ!」と言われるまでに、二十回、三十回と繰り返し歌ったこともあった。
 戸田は一つ一つの振る舞いを通して、学会の精神と広宣流布の指導者としての生き方を、必死になって教えようとしていたのだ。
 そこには、″遊び″など微塵もなかった。すべてが真剣勝負であったといってよい。
 今、伸一は、青年たちの歌を聴きながら思った。
 ──「水滸会」は、大事な訓練の場でなければならない。しかし、ここには、自ら進んで訓練を受け、自己を磨こうという自覚が全く感じられない……。戸田先生がこの姿をご覧になったら、なんと言われるだろうか。特に今回は、恩師の七回忌を目指して、ともに広宣流布へ船出する集いである。
 伸一の顔は曇った。彼は自らマイクを手にした。
 「『水滸会』は、歌を一つ歌うにも中途半端であってはなりません!」
10  錬磨(10)
 山本伸一は言った。
 「たった一曲の歌で人を感動させることもできる。勇気を与え、士気を鼓舞することもできる。
 それには、歌詞の意味をよくみ締め、歌に生命を吹き込む思いで、真剣に歌うことだ。
 また、将来、みんなは、どんどん海外に出ていくようになるかもしれない。世界の各界の指導者と会う機会も出てくると思う。その時に、歌や踊りや楽器の演奏で歓迎してくれたならば、こちらも歌ぐらい歌って、それに応えなければならないことだってある。
 だから、歌を歌うということもリーダーの大切な要件です。そのためにも、しっかり覚えておかなくてはならない。
 歌というのは、こう歌うのです!」
 伸一は、「霧の川中島」を歌い始めた。
  人馬声なく草も伏す
  川中島に霧ふかし……
 感情のこもった、朗々とした抑揚のある歌い方であった。一番では、合戦の前の緊張をはらんだ静寂な川中島の光景が、聴くものの胸に、ありありと描かれていった。
 そして、二番では、勇壮な決戦の様子が広がり、三番では、上杉謙信が敵将武田信玄を打ち逃がした無念の思いが、切々と伝わってくる。
 歌詞と曲と声とが見事に溶け合い、車内に、川中島の歌の世界が展開されていった。皆、息を飲んで、伸一の歌に聴き入っていた。
 歌い終わると、盛んな拍手がわき起こった。
 彼は、引き続き″一高寮歌″を歌い始めた。
  嗚呼玉杯に 花うけて
  緑酒に月の 影やどし
  ………… …………
 今度は、天下国家を担い立とうとする、一高生の凛然とした気概が脈打つのを誰もが感じた。
 それはまた、広宣流布に生き抜かんとする、伸一自身の気高き決意の表明でもあった。
 伸一の歌は更に続き、数曲を歌い上げた。
 皆は感嘆した顔で、拍手を送っていたが、どこまで今の伸一の心をみ取ったかは疑問であった。
 バスが八日市場を経て、犬吠埼に着いたのは、午後五時半を回っていた。
 太陽は西の空に傾いていたが、盛夏の海はまだ明るかった。
 岬の上には、白い灯台がそびえ、断崖の下には怒涛が白く砕け散っていた。
11  錬磨(11)
 浜辺の松林のなかに、バンガローとテントが並ぶキャンプ場があった。そこが今夜の「水滸会」の一行の宿泊場所である。
 バスから降りたメンバーは、荷物を置きにキャンプ場に向かったが、雑談に夢中で、足の動きは至って遅かった。どことなく浮かれた空気が漂っている。
 広宣流布を双肩に担った若きリーダーの、旅立ちと訓練の集いにしては、いかにも雑然としていた。そこには「水滸会」としての誇りを感じ取ることはできなかった。
 「水滸会」にかける山本伸一の思いとは、大きな一念のずれが生じていたといってよい。
 六時半からは、小高い丘の上の広場で、キャンプファイアーを囲んで、皆で夕食をとりながら、研修を行うことになっていた。
 しかし、豚汁などを頼んでおいた旅館のしたくが手間取ったこともあり、準備は大幅に遅れてしまった。
 伸一は、時間に遅れては皆に申し訳ないと、定刻の五分前には、食事の場所にやって来た。
 そこにはキャンプファイアーの薪が組み上げられ、周囲に敷かれたムシロの上に、大半のメンバーが待機していた。
 伸一の姿を見ると、男子部の最高幹部の一人が慌てて、傍らの青年に言った。
 「遅いじゃないか、食事係は。もう先生がいらしているんだぞ。『急げ!』と言ってきなさい」
 本来ならば、運営の責任を持つ最高幹部は、いち早く全体の状況を把握して、遅れている部署には、すぐに人を増員するなどの対策を講ずるべきであろう。
 しかし、その手さえ打たず、自らは動こうともしないで、ただ、後輩を怒るばかりだった。無責任といわざるをえない。
 手の空いた青年たちは、気楽に雑談をしていた。
 「遅いな……、腹が減ったよ」
 「それより、夜中の方が心配だよ。夜食は出ないだろうからな」
 「大丈夫だよ。俺はちゃんと食料を持って来た」
 そんなやりとりを耳にすると、伸一は残念でならなかった。
 ──今、食事係の青年は遅れを取り戻そうと、必死になって働いている。それなのに、なぜ、先輩は同志の苦境を考えようとしないのか。助けようとしないのか。広宣流布には常に予期せぬ事態が待ち受けている。その時こそ、本当の団結が問われる。ささいな事のようだが、この姿は一つの縮図といえよう。
12  錬磨(12)
 しばらくすると、連絡係の青年が駆けて来て、男子部の最高幹部の一人に報告した。
 「食事は、今、運んでいますが、人手が必要です。二十人ほど、人を回してください」
 話を聞いて、幹部たちは、ようやく手伝いの指示を出した。
 その様子を、数十メートルほど離れた草むらに立って、じっと眺めている人たちがいた。地元の銚子の同志であった。
 そのなかの一人の壮年がやって来て、ムシロに座っている「水滸会」の青年に尋ねた。
 「あのう、山本先生に、わしらも、ごあいさつしたいと思っとりますが、ここに来てもいいでしょうか」
 「それはまずいね。今日は『水滸会』の野外研修だから。先生は銚子の指導に来られたわけじゃない」
 木で鼻をくくったような返事であった。
 ──大切な同志であり、会員である。いかなる理由があるにせよ、あの態度は無慈悲である。
 伸一は、険しい目で、黙って、そのやりとりを見ていた。
 壮年は、しょんぼりとして、皆が待っている小高い丘の方に戻っていった。
 伸一は、立ち上がった。
 壮年の後を追うようにして、地元の同志の方に歩いていくと、微笑を浮かべて皆に呼び掛けた。
 「わざわざおいでくださってありがとう。皆さんにお会いできて嬉しい。さあ座談会を開きましょう」
 山本会長の姿を見て、皆の顔が一斉にほころんだ。
 「先生! ようこそ銚子においでくださいました」
 さきほどの壮年が、一歩前に進み出ると、喜びにあふれた声であいさつした。
 「お世話になります。さあ、お座りください。この雄大な海を眺めながら、語り合いましょう。ここは、いい所だね。すばらしい景色です」
 数十人の地元の会員が、伸一を囲むように座った。
 空には夕焼け雲が、金色に輝いていた。近くに立つ白い灯台も、黄金に染まっていた。吹き渡る風がさわやかであった。
 伸一は、にこやかに語りかけた。
 「今日は、聞きたいことがあったら、なんでも言ってください。友人と友人の語らいですから」
 初めはためらいがちであったが、一人、二人と悩みを打ち明け始めた。仕事の問題や家族の病気などについての質問だった。
 それらの問いに、彼は、誠実に、真剣に、そして、時に、ユーモアを交えながら答えていった。
13  錬磨(13)
 日焼けした初老の男性が手をあげた。
 「私は漁師をしておりますが、戦後、米軍が九十九里で高射砲の演習をするようになってから、漁獲はめっきり減りました。もう、演習は終わりましたが、まだ、魚は戻って来ません。どうすれば、魚が戻って来るでしょうか」
 「それは大変ですね。ただ、結論から言えば、皆さんの一念で、国土世間も変えていくことができると教えているのが仏法です。根本はお題目です。皆で大漁を祈っていきましょう。私も題目を送ります」
 この時、一人の老婦人が言った。
 「先生! 私たちの″大漁節″を聞いてくださいますか」
 「ありがたい。ぜひ、聞かせてください。大漁への決意を込めて、皆で歌ってください」
 「本当ですか! 歌わせてもらいます」
 感無量の顔で、老婦人が歌い出すと、皆が手拍子を打ち、その声に唱和した。
  一つとせ
  一番ずつに積み立てて
  川口押し込む大矢声
  この大漁船
  ………… …………
 歌声は夕空に広がり、潮騒に溶けていった。友の顔も、伸一の顔も、夕焼けに染まっていた。
 皆が″大漁節″を歌い終わると、伸一は、盛んに拍手を送った。
 「ありがとう。すばらしい歌です。感動しました。大漁を願う皆さんの決意があふれています。
 皆さんに何かお土産を差し上げたいが、残念なことに、今日は何も持っていないものですから、花を摘んで贈らせてもらいます」
 伸一は立ち上がると、草むらに咲いていた花を摘み始めた。
 「さあ、皆さん、私からのプレゼントです」
 彼は、一人一人に声をかけながら、摘んだ花を配っていった。
 「おばあちゃん、ご主人は?」
 「はい、もう年なものですから、足が弱っていまして、家におります」
 「そうですか。では、ご主人の分もお渡ししましょう。『お元気で』とお伝えください」
 花は、母親の足にまつわりつく、小さな男の子にも贈られた。
 「しっかり勉強してね」
 頭をなでると、子供は、にっこりと笑みを浮かべて頷いた。
14  錬磨(14)
 銚子の友は、山本伸一の摘んだ真心の野花を、宝物のように抱いていた。
 伸一は笑みを浮かべて言った。
 「それでは、また、お会いしましょう。今日は、私が皆さんをお見送りいたします」
 はや太陽は沈み、辺りは暮色に包まれていた。彼は手を差し出すと、一人一人と固い握手を交わした。
 友は去りながら、名残惜しそうに、何度も伸一を振り返っては手を振った。
 「先生、さようならー」
 伸一も、遠ざかる友に向かって叫び、手を振って応えた。
 「皆さーん、お元気で」
 夕闇のなかに、伸一を呼ぶ友の声が、温かく溶けていった。
 それは名画のような、美しき光景であった。
 そのころには「水滸会」の野外での食事の準備もようやく整い、山本会長がやって来るのを待っていた。
 男子部長の谷田昇一らの中心幹部が、伸一を迎えに来た。
 「先生、食事のしたくが出来ました。いらしてください」
 谷田が言うと、伸一は黙ったまま歩き出した。そして、しばらく行くと、怒りを含んだ声で言った。
 「いったい、なんのための『水滸会』なのだ! 谷田君」
 「はい、申し訳ございません」
 谷田も緩み切った皆の雰囲気を感じていたらしい。
 それだけ言うと、伸一は歩みを速めた。
 彼は、座に着くと、男子部の最高幹部たちに、険しい口調で語った。
 「『水滸会』に広宣流布は頼みません。まるで敗残兵のようではないか!」
 伸一は、決してこんなことを言いたくはなかった。しかし、その腑甲斐なさを目にすると、言わざるをえなかった。
 青年たちは、茫然として伸一を見つめた。その言葉で、すぐに非を悟り、深く反省する青年もいたが、多くのメンバーは、伸一が何を怒り、何を言わんとしているのか、測りかねている様子であった。
 彼は、食事が遅れたことに憤ったのではない。戸田の遺志を受け継ぎ、広布の中核として立たねばならぬ「水滸会」の自覚を忘れていることが、無念でならなかったのである。
 傍らにいた谷田が、深々と頭を下げながら言った。
 「先生、申し訳ありません。『水滸会』の精神とはほど遠い、だらしない姿をお目にかけまして。私の責任です」
 辺りは、次第に深い闇に包まれていった。
15  錬磨(15)
 山本伸一は、厳しい視線を谷田昇一に注ぎ、強い口調で語り始めた。
 「『水滸会』といえば、学会を、そして、広宣流布のいっさいを担って立つ丈夫の集いではないか。しかも、今日は恩師戸田先生の構想の実現のために、私とともに、新たな出発をする日であるはずだ。
 それなのに、今日の皆の姿からは、広宣流布への責任感も、求道の息吹も感じられない。戸田先生が今日の様子をご覧になったら、なんと言われるか。
 先生との誓いを忘れ去った『水滸会』は、もはや烏合の衆に過ぎない。私は君たちと食事をするくらいなら、あの健気な銚子の同志を励ましていたい……」
 青年たちは、緊張した顔で、伸一の言葉に聴き入っていた。
 今回の野外研修には、どれほど深い意義が込められているかは、何度も徹底されてきた。しかし、言葉ではわかっていても、皆、レクリエーションに臨むような気持ちが、心のどこかにあった。それが一つ一つの行動に端的に表れていたことに、青年たちはようやく気づき始めた。
 「私は『水滸会』への恩師の思いを知って欲しいのだ。君たち一人一人を、広布の大指導者に育て上げたいのだ。最高の人生を生き抜いて欲しいのだ。だから厳しく言うのです」
 「はい!」
 皆が答えた。息を飲んで伸一の次の言葉を待った。
 すると、彼は穏やかに言った。
 「さあ、食べよう。みんな、おなかを空かせているだろうから」
 青年たちは、豚汁と缶詰の食事を、ただ黙々と口に運んだ。自分たちの情けなさをみ締めながらの食事だった。
 新しき時代と人生を思い、厳しく叱ってくれる指導者を持つ人は幸せであろう。鉄は熱いうちに鍛えられねばならないからだ。そこに、大成のための鍛錬がある。逆に、青年時代に鍛錬の機会に巡り合えぬとしたら、これほど不幸なことはない。
 食事が終わると、円陣の中央に組まれた薪に火がつけられた。同行した理事たちが順番にあいさつに立った。
 理事長の原山幸一を除いて、皆「水滸会」の出身である。青年部長を務めた理事の山際洋が語り始めた。
 「私は『水滸会』のメンバーですが、青年部を卒業して以来、知らず知らずのうちに、心まで『水滸会』から離れておりました。そのため、本日も、なんの決意もなく、ここに臨んでしまいました……」
16  錬磨(16)
 山際洋は自戒と反省を込めて語っていった。
 「ところが、今日ここで山本先生の指導に接し、目が覚めた思いです。
 『水滸会』は青年部の時代だけのものであってはならない。『水滸会』での訓練を生涯生かし、誓いを果たし抜いていってこそ、まことの『水滸会』であることに、初めて気づいた次第です。本当に申し訳ございません。
 『水滸会』は、生涯にわたって『水滸会』です。それを、単に青年時代の良き思い出のような感じをいだいたならば、その瞬間から後退であり、堕落であり、自ら『水滸会』の資格を放棄した姿であると、痛感いたしました。
 私も本日より、生涯、青年部員の一人であるとの自覚で、山本先生のもと、広布に邁進していく決意でございます」
 未来に向かって希望の炎を燃やしながら、理想と信念に突き進むのが青年だとするなら、人間は生涯、青年でなくてはならない。そこに「生」の充実と真実の人生の完結があるからだ。
 理事たちの話の後、山本伸一の指導となった。
 火はゴーゴーと音をたてて燃え盛り、夜空を焦がしていた。
 伸一は、ゆっくりと、一言一言み締めるように語り始めた。
 「今回の『水滸会』の野外研修に、この犬吠埼を選んだのは私です。それは考え抜いた末のことです。
 ここには灯台がある。灯台は、どんなに海に怒涛が逆巻いても、微動だにすることなく、光を送り、正しき航路へと船を導く。この灯台こそ『水滸会』です。船は世界の民衆です。
 灯台が夜の海を照らし、あらゆる船の指標となるように、『何があっても、水滸会員がいれば大丈夫だ』『心から安心できる』と、全学会員から、全民衆から信頼され、慕われてこそ水滸会員です。諸君たちには人類の未来を担い立つ使命がある。
 『水滸会』で、このようにキャンプファイアーを囲んで野外研修を行うのは、戸田先生以来の伝統です。それには、深い意味があります。
 先生は、この燃える薪は私たちの生命であり、信心の炎であり、学会の精神であると言われていた。
 つまり、私たちが生命を燃やし、信心の炎を燃やし続けてこそ、社会に希望と蘇生の平和の光を送れることを、先生は、教えようとされたのです」
 皆、食い入るように、指導に耳を傾けていた。
17  錬磨(17)
 キャンプファイアーの炎が、青年たちの顔を明々と照らし出していた。
 山本伸一は、一呼吸置くと、語気を強めて言った。
 「御聖訓に照らして、広宣流布は必ずできます。しかし、学会がいつまでも、このまま順調に行くことはありえません。三障四魔が競い起こることは、御聖訓のうえから間違いない。その時に頼りとなるのが水滸会員です。
 戸田先生は『水滸会』を最も信頼してくださった。私も諸君たちを信頼していきたいのです。
 私は、戸田先生の教えを実現していくことが、自分の使命であり、宿命であると定め、広宣流布に命を捧げてまいりました。いずれ死んでいくのが人の一生ならば、最高の目的に人生をかけようと決めたのです。
 先生はそれをご存じだった。だから、私を信頼してくださり、『水滸会』を信頼してくださった。
 その先生が、今から六年前、氷川で行われた『水滸会』の野外研修の折、十年後に、また、みんなそろって、この氷川の地に集おうと提案された。
 そして、こう言われた。
 『私はその時、諸君に頼むことがある』
 この十年後というのは、四年後の先生の七回忌に当たります。つまり、学会が三百万世帯を達成した時にやってくるのです。それは広宣流布の基盤ができあがり、本格的な社会の平和建設の幕開けとなる時です。
 まずは、その日をめざして、一人も退転することなく、偉大なるリーダーとして、自己の人格と力を磨いていっていただきたい。
 私も戦います。これまでの何倍もの力を出して、戦い抜いていきます。やろう、やりましょう。広宣流布を!」
 伸一の指導は、青年たちの胸に深く突き刺さった。皆、自己の使命の深さと自覚の乏しさを痛感した。
 そして、この時、伸一の厳しい叱咤の意味を、心の底から理解することができた。
 青年たちは、生命のシャワーを浴びたようなさわやかさを覚えた。
 キャンプファイアーの炎は、次第に小さくなりつつあった。
 「では、これから質問を受けよう。皆、前に来て、聞きたいことがあれば、なんでも聞きなさい」
 キャンプファイアーを囲んでいた円陣が解かれ、青年たちは、伸一の前に集まって来た。
 夜空には無数の星が瞬いていた。その星にも増して、青年たちの瞳は、広宣流布への美しい誓いの輝きを放っていた。
18  錬磨(18)
 「では、質問がある人はどうぞ」
 司会者の青年が言うと、数人の手があがった。
 どの質問にも、広宣流布への息吹と求道の情熱があふれていた。
 一人の青年が尋ねた。
 「東西両陣営の対立は、ここに来て、ますます深刻化しつつありますが、これは日蓮大聖人が仰せの、自界叛逆難の姿ととらえることができますでしょうか」
 「そう思います。交通や通信の発達によって、現在の世界は狭くなった。もはや地球は一つの国です。そう考えていくと、東西の対立は、日蓮大聖人の時代の自界叛逆難といえます。
 仏法を持った私たちが、世界の平和のために、民衆の幸福のために立ち上がらねばならない時が来ているのです。
 イデオロギーによる対立の壁を超えて、人間という原点に返るヒューマニズムの哲学が、これからの平和の鍵になります。それが仏法です。
 仏法の信仰者として、世界のために何をなすか。それが今後の重要なテーマです。広宣流布の基盤ができたら、私も、本格的にその取り組みを開始します。諸君の活躍の舞台は、限りなく広く、大きいことを知ってください」
 その質問を受けて、別の青年が尋ねた。
 「共産主義国などでは、宗教を否定的にとらえている国や、宗教の自由を認めない国があります。それは、広宣流布の最大の障害になるのではないかと思いますが」
 「大丈夫。長い目でみていけば、いつか必ず、宗教を認めることになります。どんな国でも、真の社会の発展を考えていくならば、人間の心という問題に突き当たる。国家の発展といっても、最後は人間一人一人の心の在り方、精神性にかかってくるからです。
 いかに制度や環境を整えたとしても、人間の悩みを克服し、向上心や自律心をつちかうといった、内面の問題を解決することはできません。もし、宗教をいつまでも排斥していけば、精神の行き詰まり、荒廃を招くことになります。人間の精神をいかに磨き、高めていくかを真剣に考えるならば、真実の宗教の必要性を痛感せざるをえないでしょう。
 そのためにも、大事なことは、各国の指導者との対話です。対話を通し、信頼と共感が生まれれば、自然に仏法への眼を開いていくことになります。
 三十年もたってみれば、今、私の言ったことの意味がよくわかるはずです」
19  錬磨(19)
 山本伸一は、「水滸会」の友の質問から、青年たちが世界の平和への使命を自覚し始めたことを感じ、喜びを覚えた。
 質問は更に続いた。
 「『一生成仏抄』に『仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なりと信心を取るべきなり』とございます。私たちの実践のうえでは、どう拝していくべきでしょうか」
 質問したのは、生真面目そうな性格の、小柄な青年であった。
 「この御聖訓は、御本尊にお仕えする姿勢、また、いっさいの広布の活動への一念の在り方を説かれたものです。
 結論していえば、広宣流布につながることは、すべて大功徳、大福運を積んでいくことになるのだと確信していくことです。そこには、当然、喜びと感謝があります。不平不満や文句など出るわけがない。
 私もその思いで信心をしてきました。どんなに苦しく、大変な課題も、喜び勇んで挑戦してきました。戸田先生のもとで、広布のために必要とあれば、仕事をやり繰りし、どこへでも飛んで行きました。交通費が工面できなければ、歩いてでも行くつもりでした。
 それが今日の私の功徳、福運の源泉であると思っています。
 たとえば、″広布のために、遠く離れた極暑や極寒の地で、生涯暮らさなければならない″となった時に、喜び勇んで行けるかどうかです。その精神と実践がなければ、広宣流布という未聞の大偉業を成し遂げることなど、できるわけがありません。
 そして、その厳然たる信心のなかに、三世永遠の大功徳、大福運を積む道があるのです。厳しいことを言うようですが、『水滸会』の諸君であるがゆえに、まことの信仰の道を教えておきたいのです」
 伸一は、後継の青年たちの生命に、永遠の信心の楔を打ち込む思いで指導を続けた。
 質問会が終了したのは、午後八時過ぎだった。
 灯台の明かりが暗夜の海に一条の光を投げ掛け、波の音が辺りを包んでいた。
 後片付けは手際よく進められた。
 しばらくすると、伸一は懐中電灯を手に、幾つかのバンガローとテントを見て回った。
 皆、目を輝かせ、広布の決意を語り合っていた。
 未来への確かな布石が、この日、また一つなされたのである。
20  錬磨(20)
 翌日、青年たちは午前五時に起床した。
 勤行、朝食を済ますと、七時半にはバスで近くの海水浴場に移動し、スポーツ大会で汗を流した。相撲、ドッジボールと、それぞれ熱戦が繰り広げられた。
 心身の鍛錬に励む青年の姿に、山本伸一は頼もしさを感じた。彼は、よく戸田城聖が、青年たちの相撲に目を細めながら、嬉しそうな顔で観戦していたことを思い出していた。
 伸一には、その戸田の気持ちがよくわかった。未来を託す大樹が、たくましく伸びゆこうとする姿を見ることは、かけがえのない喜びにほかならない。
 午前十時過ぎ、伸一は理事らと一緒に、犬吠埼をあとにし、富津に向かった。富津ではこの日、女子部の「華陽会」の野外研修が行われることになっていたのである。
 伸一の一行が富津の岸に着いたのは、午後一時ごろであった。「華陽会」のメンバーは、午前八時に学会本部を出発し、観光バスで富津にやって来た。
 伸一は、女子部長の谷時枝の顔を見ると、にこやかに語り掛けた。
 「みんな疲れていないかい?」
 「大丈夫です。交通渋滞でバスが遅れましたが、みんな元気です」
 「それは大変だったね。食事をして、ゆっくり休んで、楽しく遊ぶようにしなさい」
 谷は、前日の「水滸会」での指導の模様を、伸一に同行した幹部から電話で聞いていた。彼女は、それを出発前にメンバーに伝えた。そして、この日の野外研修では、「華陽会」にも厳しい指導があるのではないかと、緊張した顔で山本会長の前に立ったのである。
 しかし、意外にも、伸一から発せられたのは、優しいねぎらいの言葉だった。
 伸一は、「水滸会」の模様が、谷時枝に伝えられたことを知っていた。「華陽会」のメンバーは、その話を聞き、野外研修に臨むにあたって、決意を新たにし合い、集って来たにちがいない。
 彼は、同じ指導を繰り返すつもりはなかった。それによって、健気に頑張ろうとしている若い女性たちを、萎縮させるようなことがあってはならないと、考えていたのである。
 人材の育成には、相手に即した臨機応変な対処が求められる。惰性に陥っている場合には、覚醒の鐘のごとき指導も必要だが、張り詰めた心の人には、安らぎと希望の調べとなる励ましがなければならない。
21  錬磨(21)
 メンバーは、昼食を終えると、水泳やドッジボールに興じた。無邪気に歓声をあげながら遊ぶ、乙女たちの姿が微笑ましかった。
 山本伸一は、途中からドッジボールに加わった。
 華やかな生活を求めるのではなく、友の幸せのために、日夜、信仰と社会での生活に取り組んでいる女性たちである。彼は、その青春の一ページに、楽しい金の思い出を印してほしかったのである。
 メンバーは、自分たちと一緒に、山本会長がドッジボールに汗を流しているのを見ると、心の温もりを感じた。
 ──お忙しい先生が、私たちのために時間を費やして、ドッジボールまでしてくださる。
 皆が家族である思いがした。そして、皆が銀の汗を流しながら奮戦した。
 ドッジボールの後はスイカ割りを楽しんだ。
 伸一も目隠しをし、竹の棒を手にしたが、何度も砂の上を叩いてしまった。
 「よし! もう一度」
 こう言って、更に挑戦を重ねる伸一の姿に、皆は兄のような思いをいだき、また、父と会っている気持ちになっていった。
 割れたスイカは、分け合って食べた。皆、「おいしい」「おいしい」と言って、はしゃいでいた。
 メンバーが最後に伸一のもとに集まった時、彼は簡潔に語った。
 「人生の勝負は一生を通して見なければわからないものです。一時期は、いかに華やかに見えても、人生の最終章が無残であれば、悲しい人生といわざるをえない。そして、真実の人間の幸福は、正法正義の信仰を貫いてこそ、築いていくことができるのです。
 ゆえに、生涯、正義とともに生き抜いていただきたい。そして、世界中の女性から、本当に立派な女性であると称えられる人生を飾ってください。それが私の願いです」
 短い指導であった。しかし、そこには、伸一の思いが凝縮されていた。
 帰りは、彼もメンバーのバスに同乗した。
 一行が学会本部に到着したのは、午後七時過ぎだった。伸一は、先に帰っていた「水滸会」の友が、二階の広間で待機していることを聞くと、一緒に勤行をすることにした。
 彼は、一人一人の成長を真剣に祈り念じた。
 ──育て、若き闘将よ。私を超えて雄々しく。友のため、世界のために。
 人材の育成こそが、広宣流布の建設であることを、彼は痛切に感じていた。
22  錬磨(22)
 八月に入ると、伝統の夏季講習会が待っていた。
 山本伸一は八月四日の夜、浜松支部の幹部会に臨むと、翌朝、夏季講習会に出席するため、総本山に向かった。
 富士は、紺碧の夏の空を背に堂々とそびえていた。赤銅色の地肌が、たくましい青年の姿を思わせた。
 戸田城聖が、戦後、夏季講習会を再開したのは、敗戦の翌年にあたる一九四六年(昭和二十一年)のことであった。
 まだ、社会は戦後の混乱期であったが、創価の世紀の夜明けを担いゆく人材鍛錬の場として、戸田はいち早く夏季講習会をスタートさせたのである。
 今回の講習会は、八月の五日から九日までの五日間であった。二泊三日ずつ、前期と後期に分かれ、全国の中堅幹部八千人が参加することになっていた。まさに、三百万世帯達成の原動力となる、中核の人材を育成する最大の好機といってよい。
 この夏季講習会で、伸一は会長講義として、「日興遺誡置文」の講義をすることになっていた。彼がこの御文を研鑚することに決めたのは、熟慮の末のことであった。
 伸一が第三代会長に就任してから、弘法の波は怒涛のように広がっていった。七月二十九日の本部幹部会では、早くも年間目標の百五十万世帯を突破したことが発表されていた。
 また、この席上、関東に五総支部が設置されるとともに、六名の新理事が誕生したのである。
 三百万世帯の達成へ、学会は新しき躍動の前進を開始し、広宣の布陣も、着々と整いつつあった。
 その拡大のうねりを、永遠なる広宣流布の大河にするにはどうすればよいのか──伸一は一人考え続けてきたのである。
 彼は、自分の会長就任とともに戦いを開始した同志の多くが、短期間のうちに生活のうえで苦境を乗り越え、それなりに安定していく姿を目にしていた。そして、その喜びが、更に折伏の力となっていることを実感していた。
 しかし、大難に立ち向かい、広宣流布を成就していくには、個人の小さな満足を追い求めるだけの信仰であってはなるまい。
 日蓮大聖人は「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と仰せである。つまり、全民衆の苦悩をわが苦とし、諸難を覚悟で、広宣流布の戦いを起こされた。その信心をいかに継承していくかである。
23  錬磨(23)
 自己の小さな満足を突き抜け、更に全民衆の救済という大願に生きてこそ、日蓮門下の信心である。
 そこに、永遠にして不滅なる広布の大河も開かれる。また、佐渡に流罪されながらも、「喜悦はかりなし」と言われた、あの大聖人の御境界に連なり、大歓喜にあふれた絶対的幸福境涯を会得しゆく直道もある。
 では、そのための実践はいかにあるべきか。守るべき規範とは何か──。
 山本伸一は、ここまで思いを巡らした時、「日興遺誡置文」の二十六箇条にわたる遺誡の御文が、彼の胸に鮮烈に浮かんだ。
 それは、日興上人が、大聖人に直結した不二の信心を貫くために定められた、永遠不変の規範にほかならない。
 思えば、この御遺誡のままに信心を貫いてきたのが創価学会であった。初代会長牧口常三郎は、正法正義を守り抜いて、獄中で死身弘法の生涯の幕を閉じた。その遺志を継いだ弟子の戸田城聖は、七十五万世帯の大願を立てて、それを見事に成就し、大聖人の御遺命たる広宣流布を現実のものとした。
 そこに、創価学会が、まことの仏意仏勅の教団である証明がある。
 彼は、この夏季講習会では、「日興遺誡置文」を徹底して研鑚することにしようと決めたのである。
 伸一は、正午過ぎに総本山へ到着すると、大御本尊に御目通りした。そして、休む間もなく、理境坊での教学部の教授会に臨んだ。
 ここでは、教授に登用するメンバーの、教学の論文審査が行われた。
 厳格な審査の結果、この日、十四人が新たに教授に登用されたのである。このうち女性二人を含む十二人が、青年部であった。
 伸一は、教学陣にも、着々と若い力が台頭しつつあることが、何よりも嬉しかった。
 夏季講習会の初日のいっさいの行事を終えると、彼は一人、理境坊の二階で、机に向かった。会長講義の準備のためである。
 塔中を流れる小川のせせらぎが響き、蛙の鳴き声が聞こえていた。
 伸一は、静かに室内を見渡した。
 戸田城聖が、逝去前のひと月余を過ごした部屋である。彼もその間、常に恩師の側で仕え、幾たびとなく、師弟の語らいを重ねた。それは黄金の光に包まれた感動の絵巻であった。 伸一は、懐かしさと慕わしさが、胸に渦巻くのを覚えた。
24  錬磨(24)
 戸田城聖は、この理境坊にあって、命の尽きる間際まで、広宣流布の精神を、直弟子の山本伸一に伝えようとした。
 あの三月十六日の広宣流布の記念の式典を前に、伸一が戸田の体を気遣って作った車駕を見た時も、「大きすぎる。これでは戦闘の役にはたたぬ」と、実戦に即した立案、計画が肝要であることを、厳愛をもって教えたのである。
 また、腐敗・堕落した僧侶を、青年たちが戒めた報告をした折には、戸田は最後の力を振り絞るようにして叫んだ。
 「日蓮大聖人の正法を滅ぼすようなことがあっては、断じてならない。そのために、宗門に巣くう邪悪とは、断固、戦え。……いいか、伸一。一歩も退いてはならんぞ。……追撃の手をゆるめるな!」
 その一つ一つの指導は、永遠に正法正義を守り、広宣流布を成しゆくための指標であった。それらはすべて、戸田が生涯の戦いのなかから紡ぎ出した、未来を思う魂の叫びにほかならなかった。命を削っての鍛錬であり、教育であった。
 伸一は、在りし日の師の姿に思いを馳せると、目頭が潤んだ。
 彼は、今、日蓮大聖人亡き後、日興上人が遺誡置文として、大聖人の御精神を誤りなく後世に伝え残そうとされた御胸中を、痛いほど感ずることができた。
 日興上人は、ともに大聖人の弟子として広宣流布を誓いながら、師亡き後の五老僧の無残な姿を目の当たりにされた。彼らは、権力の弾圧を恐れて、臆病にも「天台沙門」を名乗り、御書さえも″漉き返し″にして、正法正義を破っていったのである。
 ことに、身延山にあっては、学頭となった民部日向が、地頭の波木井実長の釈迦仏像の造立など、数々の謗法を認め、日興上人に敵対するに至った。
 そこで、やむなく身延を離山された。その御胸中はいかばかりであったか。
 日興上人は大檀越・南条時光の外護の赤誠を得て、富士に大石寺を建立され、正法正義を守られた。
 しかし、その富士の清流も、信心を失えば濁流と化し、途絶えかねないことを憂慮された。そして、永遠の信心の規範として、遺誡置文を留め置かれたのであろう。
 伸一は、深い感慨に打たれながら、御文に視線を注いだ。令法久住を願う日興上人の烈々たる御遺言が、強く胸に迫った。
 それは、永遠の未来へと流れ通う、広布の大河を開かんとする、熱い誓いとなっていった。
25  錬磨(25)
 講習会は二日目である。
 空は晴れていた。
 山本伸一は、女子部の質問会、男子部の相撲大会など、精力的に青年の鍛錬のために駆け巡った。
 夕刻、彼は全理事をともなって、戸田の墓前に詣でた。三百万世帯達成への誓いを込めて、深い祈りを捧げ、広宣流布の構想をことごとく実現しゆくことを決意した。
 帰途、理事長の原山幸一が伸一に話しかけた。
 「現在、新しい支部が誕生し、組織の発展にともない、多くの幹部を必要としておりますが、それだけの人材がいないというのが実情です。たとえば、支部長にしても、昔の支部長に比べると、格段の差があるような感じがしますが……」
 「いや、人材はいないわけではない。必ずいます。要は幹部が、見つけられるかどうかです」
 「はあ……」
 「人間というのは、どうしても、自分の尺度でしか人を評価できなくなってしまう。たとえば自分が理論的なタイプだと、理屈っぽい人の方が人材に見える。逆に、自分があまりものを考えずに行動するタイプだとすると、同じタイプの人が人材に見える。
 また、自己中心的で、俺が、俺がという思いが強いと、人の功績も、長所もわからず、欠点ばかりが目についてしまうものです。
 結局、人材を見つける目というのは、人の長所を見抜く能力といえるのではないでしょうか。それには、自分の境涯を開いていく以外にありません。
 私には、むしろダイヤモンドのような人材が集って来ているように思える。後はいかに訓練し、磨くかです。ダイヤを磨くには、磨く側もダイヤモンドでなければならないし、身を粉にしなければならない。今、私は、それを全力で行おうと思っているのです」
 夕なずむ杉木立に、涼風がそよいだ。伸一は唇をみ締めるようにして、杉の巨木を見上げた。
 いよいよ午後六時半からは会長講義である。
 大講堂の広間には続々と友が集まり、定刻には、立錐の余地もないほどの受講者で埋まった。
 会長山本伸一が場内に姿を現すと、参加者の顔がほころび、目には求道の光が走った。
 講義が始まった。
 「この二十六箇条は、日興上人が御年八十八歳、元弘三年(一三三三年)の正月十三日に残された御抄であります。日興上人の御遷化は、その年の二月七日でありますから、亡くなる二十数日前の遺言状と拝すべきであると思います」
26  錬磨(26)
 山本伸一の凛とした声が場内に響き渡った。
 「本来、この御遺誡は、富士門流の『僧』に与えられたものです。しかし、創価学会は、日興上人のこの御精神を、厳格に実践してきました。
 その御精神とは何か。
 日興上人は序文に明快に認められております。
 『……後学の為に条目を筆端に染むる事、ひとえに広宣流布の金言を仰がんが為なり
 広宣流布のため──これこそが、日興上人の根本の精神であられた。我が創価学会の目的もまた、そのためにほかなりません。
 広宣流布とは、日蓮大聖人の慈悲の哲理をもって、全人類の幸福、全世界の平和を実現することであり、それが私どもの使命なのであります……」
 彼は、序文について述べた後、「日興遺誡置文」の第一条から、各条を講義していった。
 ──富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
 「この『富士の立義』というのは、日興上人の教えです。それは大聖人の仏法に寸分も相違していない、大聖人の御指南の通りであると仰せなのです。
 つまり、先師大聖人の御弘通に『相違しない』ことこそ、富士門流の根本であり、それは『大聖人直結』の信心こそ、正法正義であることを宣言する文証と拝せます」
 講義は次第に熱を帯びていった。
 ──未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事。
 「第五十九世日亨上人は『富士日興上人詳伝』のなかで、この御文を″万代法則″″重要永遠的の第一法則″として位置づけられ、最重要の条目の一つとされております。
 これこそ、我が創価学会の精神です。学会は、この仰せのままに、広宣流布にまっしぐらに進んでまいりました。
 初代会長牧口先生は、戦時中のあの軍部政府の弾圧のなか、国家諫暁を叫ばれて、秋霜の獄舎で、七十三歳で殉教の生涯を閉じられました。そして、『不惜身命』の精神を現代によみがえらせた。
 それは、まさに滅せんとした大聖人の仏法を、永遠ならしめる光源であり、ここに、創価学会の正義と真実の証明があります。
 更に、第二代会長の戸田先生もまた、二年間の獄中生活を送られ、御自身が虚空会の会座に連なった地涌の菩薩であることを悟り、出獄すると、広宣流布に生涯を捧げられたのです」
27  錬磨(27)
 山本伸一の声に、一段と力がこもった。
 「戸田先生は、敗戦の焼け野原に立たれると、ただ一人、広宣流布を決意された。その胸には、地涌の菩薩の使命の火が、赤々と燃えていたのであります。
 そして、七十五万世帯の大願を立てられ、会長就任後、七年を待たずして、それを成就された。これによって、広宣流布は初めて現実のものとなったのです。大聖人以来七百年、未聞の広宣流布のが、戸田先生の手によって、学会によって開かれたのです。
 日興上人のこの御遺誡を現実に実践してきたのは、創価学会だけではありませんか!
 それは、学会が日蓮大聖人に直結した唯一の団体であり、地涌の菩薩の集いである、何よりの証明であります。
 なれば、私たちの使命もまた、広宣流布こそ、我が生涯と定め、その達成のために生き抜くことにほかなりません。そこに、まことの信心があり、歓喜のなかの大歓喜の人生があることを、知っていただきたいのであります」
 伸一は次に「随力弘通」の意義に触れた。
 「広宣流布を人生の根本の目的とし、おのおのの立場で、おのおのの境遇で、大御本尊のお使いとして、広宣流布に励むことが『身命を捨て随力弘通』することに通じます。
 広布の使命に生きようとするならば、力が出ます。そして、自分のいるその場所で勝ち、幸せになった姿を、社会の人々に示していくことが、自身の広布の証であり、それが、とりもなおさず随力弘通になっていくのです」
 伸一は、額の汗を拭おうともせず、講義を続けた。
 ──身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
 「『身軽法重の行者』とは『身は軽く法は重し』とあるように、正法のためにいっさいを捧げゆく、行動の人であります。
 『当如敬仏』とは、『法華経』の最後の普賢品の一節で、釈尊が普賢菩薩に対して、もしも『法華経』を受持した者を見たならば、『当起遠迎。当如敬仏』、つまり『当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし』と仰せになった言葉です。
 これは『法華経』における釈尊の最後の説法であり、大聖人は、これを法華経の『最上第一の相伝』とされている。まことに意義の深い言葉といえます」
28  錬磨(28)
 大講堂に集った約四千人の友は、全身を耳にして、会長山本伸一の講義を聞いていた。
 「つまり、経文のままに法華経を受持し、弘める人こそ、最も尊く、仏のごとく敬わなくてはならないとの仰せです。
 法のために何をなしたかという、実践、行動が大事なのです。大聖人の仰せのままに行動する人が最も偉大であり、尊いことを示されたのがこの御文です。
 『身軽法重の行者』は、現代では牧口先生であり、戸田先生です。
 そして、その遺志を受け継ぎ、日夜、広宣流布のために戦う、私たち創価学会員であると、私は宣言しておきます。
 ゆえに、敬うべきは権力者でも、高位の人間でも、金持ちでもないのです」
 伸一は、いわれなき非難と中傷にさらされながら、健気に折伏・弘教に励む学会員が、いとしくてならなかった。彼は、その姿のなかに″仏″を感じていた。
 しかし、愚かなことに、宗門の僧侶のなかには、昔ながらの身分意識にとらわれてか、「僧侶は上」で「信徒は下」であるとの錯覚に陥り、学会員を見下し、む態度をとる者も既にいたのである。
 それは、大聖人の御精神を踏みにじる、謗法以外のなにものでもない。僧俗一致といっても、その根本は広布への「心」を一つに合わせることだ。日興上人の門流を名乗る僧侶が、法を弘める人を尊敬しないで、どうして広宣流布ができようか。
 伸一は、僧侶がこの御遺誡に目覚める日を祈り、願いながら、講義を続けた。
 ──時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 この御文の講義に移ろうとした時、伸一は、戸田から幾たびとなく聞かされた戦時中の神札事件が頭をよぎった。
 軍部政府から神札をまつるよう強要された宗門は、それに屈して、一九四三年(昭和十八年)六月、会長の牧口常三郎、理事長の戸田城聖をはじめ、幹部に登山を命じ、法主立ち会いのもとに「学会も一応、神札を受けるようにしてはどうか」と、言い出したのである。
 それは、四一年(同十六年)、御書の一部を削除する通達を出したのをはじめ、保身のために、権力への迎合をなし崩し的に進めてきた宗門の、至るべくして至った帰結といえた。
 しかし、牧口は、その申し出を決然と拒否した。
 また、このころ、軍部に接収された総本山の大書院には、神札がまつられている。
29  錬磨(29)
 牧口常三郎は、「時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との、この遺誡置文の御精神のうえから、「神札は絶対に受けません」と答えたのである。
 当時、牧口は国民の塗炭の苦しみに胸を痛め、国家神道を精神の支柱として、戦争の泥沼に突き進む軍部政府に対して、国家諫暁する好機ととらえていた。
 しかし、それは、牧口個人ではなく、日蓮大聖人の法灯を受け継ぐ門流の代表者である法主がなすべきであり、そのことを僧侶が進言するのが筋であると考えていた。
 だが、宗門の僧侶に、その気はなかった。牧口はやむなく、六月二十八日、再度、登山すると、時の日恭法主に、国家諫暁に立ち上がるべきであることを直諫したのである。
 しかし、軍部政府の権力を、ひたすら恐れる法主には、国家諫暁など思いもよらなかったにちがいない。牧口の至誠の言が受け入れられることはなかった。
 そして、その直後の七月六日、牧口、戸田をはじめとする学会の幹部が、次々と逮捕されていったのである。大法難が学会を襲ったのだ。
 牧口の一門が逮捕されると、宗門は、慌てて学会を登山停止とした。関わりを恐れてのことである。
 まさに「貫首」自らの手で、正法正義はねじ曲げられ、大白法は滅せんとしたのだ。だが、正法護持の勇者・創価学会によって、大聖人の信心の血脈が保たれたのである。
 山本伸一は、「貫首」でありながら正法に背き、我見の邪説を立てる人間が出ることを、既に日興上人が予見されていたと思うと、深い感慨にとらわれた。
 彼は、未来もまた同じ事態が起こるかもしれないことを憂慮した。しかし、この日の講義では、多くは語らなかった。
 「……時の法主上人であっても、大聖人の教えに、仏法に相違して、己義、すなわち自分勝手な教義を説くならば、それを用いてはならないとの仰せです」
 彼は意義だけを簡潔に述べた。宗門が二度と法滅の過ちを繰り返さぬことを、深く願いながら。
 ──衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
 「これは、前の御文と対をなしております。今度は反対に、『衆議』、たとえみんなで決めたことであったとしても、それが仏法に相違するならば、これを打ち破っていきなさいとの御指南です」
30  錬磨(30)
 山本伸一は、コップの水を口にすると、力強い声で講義を続けた。
 「つまり教えの根本は、どこまでも日蓮大聖人の御言葉です。御書でなければならないということです。
 学会は牧口先生以来、御書が根本です。その仰せのままに実践してきたがゆえに、数々の法難も競い起こりました。それによって御書を身で読むことができ、法華経の行者としての、信心の正道を進むことができたのです。
 だからこそ、学会の信心の功徳は無量なのです。永遠の福徳を積むことができるのです。私たちは、これからも、御書を心肝に染めて、広宣流布に邁進していこうではありませんか」
 講義は順調に進み、やがて二十六箇条が終わった。
 時間はあっという間に過ぎていった。伸一は、チラリと腕時計を見た。既に八時半近かった。
 「皆さん、あと、もう少しいいですか。疲れていませんか」
 伸一が聞くと、即座に、「はい」「大丈夫です!」と声が返ってきた。
 「そうですか。あと最後の、御言葉だけですから」
 ──万年救護の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢て疑惑を生ずる事勿れ、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず。
 「……末法万年の衆生を救護、救済するために、二十六箇条を書き置く。後の世の僧侶は疑いをいだくことなく、これを守り、実践していきなさい。このうち一箇条でも破る者は、日興上人の門流ではないとの仰せです。それは、同時に大聖人の弟子でもないことになります。
 この二十六箇条の精神を守り、実践した人こそが真実の大聖人の弟子であり、日興上人の門流です。儀式や形式ではなく、そこにこそ、信心のまことの血脈があるのです。
 私たちは、本日より、この御遺誡を胸に刻み、大聖人の弟子たる誇りと使命をもって、勇んで広宣流布を推進していこうではありませんか!」
 二時間近くにわたる講義が終わると、万雷の拍手が起こった。賛同の拍手であり、決意の拍手であった。
 信心の楔は打たれた。伸一は深い疲労を覚えながらも、確かな手応えを感じていた。
 なお、会長講義は、夏季講習会の後期の参加者のために、八日も行われた。
 こうして、八千人の代表は、信心のエネルギーを充電し、意気揚々と全国各地へ戻っていったのである。
31  錬磨(31)
 八月十四日は、山本伸一が、一九四七年(昭和二十二年)に戸田城聖と運命的な出会いを果たした、忘れ得ぬ日であった。
 彼は、その十三年後にあたる六○年(同三十五年)のこの日、名古屋の瑞穂陸上競技場で行われた、第二回の中部体育大会に出席していた。
 台風十二号の影響から、前夜まで降り続いた豪雨もようやく上がり、薄曇りの空は、かえって爽やかな涼気を漂わせていた。
 この中部体育大会は、九月に開催される第三回「若人の祭典」に向けての、地方大会の幕開けとなる大会であった。同日、福岡でも九州体育大会が雨天を突いて行われていた。
 午前八時過ぎ、瑞穂陸上競技場の空に号砲が轟き、音楽隊、鼓笛隊の勇壮華麗な行進が始まった。
 続いて名古屋・名城・豊橋・静岡・浜松・岐阜の六支部の選手が入場。競技の幕は落とされた。
 色とりどりの旗や扇の、賑やかな応援のなか、青年たちは、生き生きと走り、踊り、舞った。
 時折、小雨が落ちたが、青年たちは、それをものともせず、意気盛んに競技を続けた。そこには、試練を喜びとする若人の気概が脈打っていた。
 伸一は、隣にいた中部総支部長である白谷邦男に言った。
 「中部は強くなったね。勝ったな!」
 白谷も感慨無量の顔で答えた。
 「はい、ありがとうございます!」
 伸一は、一年前の、あの伊勢湾台風の悪夢を忘れることはできなかった。それだけに、今、眼前に躍動する中部の友の姿が嬉しかったのである。
 ──前年の九月二十六日午後六時過ぎ、台風十五号は、紀伊半島の潮岬付近に上陸した。中心気圧は九二九・五ミリバール(ヘクトパスカル)。まれに見る超大型台風であった。
 中部地方は、午後八時過ぎには全域で停電となり、その真っ暗闇を、最大瞬間風速四十五・七メートルもの暴風と豪雨が直撃したのである。
 窓ガラスは割れ、木の葉のように瓦が飛び、電信柱は根こそぎ倒れ、倒壊する家屋も相次いだ。
 また満潮時とも重なり、最高五メートル以上の高潮が防波堤を越えて、あっという間に沿岸一帯を飲み込んでしまったのである。
 その夜、当時、総務であった山本伸一は、月例登山会の担当幹部として総本山にいた。吹き抜ける突風に、各坊の庭の木々は倒れんばかりに搖れていた。
32  錬磨(32)
 ラジオから流れる台風情報を聞きながら、山本伸一は胸を痛めていた。
 ──台風の通り道に当たっている中部の同志は、大丈夫だろうか。
 ラジオのニュースは、時とともに、大きな被害が広がっていることを伝えていた。彼は、友の安否を気遣い、ほとんど眠れぬ一夜を過ごした。
 翌日、伸一は、そのまま名古屋に駆けつけようと思ったが、交通がストップしていたため、やむなく東京に帰った。
 ニュースによると、東京都内でも浸水地域が出たほどで、被害は九州以外の全国に及んでいた。
 伸一は、すぐに全国の会員の被災状況の把握に努めた。しかし、台風の直撃を受けた地域の被災状況は、通信網の途絶えたままの所も多く、詳しい実態がつかめなかった。
 伸一の不安はつのった。
 ──現地に行かなければダメだ。
 だが、救援の総指揮を執らねばならない彼自身が、本部を空けるわけにはいかなかった。伸一は、直ちに青年部の最高幹部を被災地に派遣することにし、救援活動に当たるように指示したのである。
 また、木曾川、長良川などの氾濫のために、愛知・三重の間の交通が断絶していることを知ると、彼は関西本部に連絡し、関西から三重方面へ、直ちに幹部を派遣するよう要請した。
 更に、全国に救援物資の協力を依頼し、輸送手段の検討など、次々と救援の手を打っていった。
 電話が一部復旧し、名古屋の同志から被災状況が学会本部に伝えられたのは、実に二日後の二十八日のことであった。
 その報告によれば、特に名古屋市南部の港・南の両区では、ほぼ全域が水に漬かり、被害は甚大であるという。
 伸一は、名古屋支部長の津山健夫をはじめ、被災地の中心幹部に激励の便りを送るとともに、東京から名古屋入りした青年部の幹部の報告をもとに、派遣メンバーを増員していった。
 名古屋では、愛知会館に設置された災害対策本部を中心に、救援活動が進められていた。ことに青年部は日頃の訓練の成果をいかんなく発揮し、直ちにボートを調達して被災地を回り、オニギリなどの食料を配りながら、会員の安否を確認して激励に当たった。
 最も大きな被害を受けた名古屋市の南部では、自衛隊や行政よりも早く、学会の救援の手が差し伸べられた地域さえあった。
33  錬磨(33)
 山本伸一は、総合的な救援対策を進めると、十月三日、深い心痛をかかえながら、理事長の小西武雄、青年部長の秋月英介とともに名古屋へ向かった。
 名古屋駅に着くと、彼は真っ先に、市の南部の浸水地域に足を運んだ。予想以上の被害である。
 駅から被災地に直行した伸一のには泥水が入り、ズボンも泥だらけになっていた。
 伸一の姿を目にした二、三人の人が近づいて来た。
 「山本総務! 学会の山本総務ですね?」
 年配の男性が半信半疑といった顔で声を掛けた。
 「やあ、皆さん。ご無事でよかった……」
 「こんなところまで、わざわざ、おいでくださったんですか……」
 伸一を見つめる友の目頭が潤んだ。
 「大変なことになりましたが、全国の同志が、再起を願い、お題目を送っています。今が正念場です。見事に信心で乗り越えてください」
 彼は手を差し出すと、一人一人の手を、強く握り締めた。泥水のなかではあったが、金剛の魂をもっての触発の対話であった。
 伸一を見送る友の顔には決意の輝きが走った。
 彼はそれから、この年の二月に入仏式が行われた愛知会館に向かった。会館は瓦が飛ばされ、窓ガラスも割れたが、浸水は免れていた。
 その夜、伸一は、地元幹部を通じて呼びかけた。
 「何か相談したいことがある人は、会館にいらっしゃい」
 翌四日朝から、続々と被災した会員が集ってきた。
 家屋を失った人がいる。全財産を水に流された人もいる。泥に汚れたままの服を着て、玄関でためらっている人もいた。
 「そのままで結構です。上がってください」
 伸一は一人一人、応接間に招き入れ、全力で励ましていった。
 「家が壊され、家財が流されても、信心が壊れなければ、必ず蘇生することができます。信心をしっかり貫いていけば、必ず立ち直ることができるのです」
 今、被災した人々にとって、何よりも必要なのは、失意と落胆を、建設の力に転じゆく勇気であった。いっさいの復興の源となる人間の決心に、希望の燦々たる光を注ぐことであった。
 伸一は懸命に語った。生命を注いで訴え抜いた。
 被災し、会館にやって来た友の表情は、暗く沈んでいたが、帰りには、まるで別人のように決意をみなぎらせ、力強い足取りで、会館を後にするのであった。
34  錬磨(34)
 四日夜には、西春日井郡の西枇杷島町公民館で、緊急の幹部会が行われた。
 被災のさなかでの集いではあったが、同志は、思いのほか元気だった。不幸中の幸いというべきか、被災のなかで、信仰の力を実感している人が多数いた。それぞれに「守られた」という思いが深かった。
 また、学会の青年たちの不眠不休の救援活動に、強い感謝の念と、学会員であることの誇りをいだいて、集って来た人も少なくなかった。
 山本伸一は再起を願い、祈るような気持ちで訴えていった。
 「一夜にして財産をなくされた方も数多くいらっしゃると思いますが、御本尊様さえ持っていれば、これから、その何倍、何十倍という功徳、福運を積んでいくことができます。
 御書には、信心をしていて、こうした災害に出あわなくてはならないのは、未来の大苦が、今生の少苦となってあらわれたと仰せです。つまり、罪障消滅の証といえます。
 いつか、それを実感できる日が必ずきます。『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』です。未来の幸せは間違いありません。
 人間の真価は、最も大変な苦しい時に、どう生きたかによって決まります。
 更に、勇気の人、希望の人がいれば、周囲の人も元気が出てきます。
 学会員である皆さん方には、ご家族をはじめ、近隣の友を励まし、勇気づけていく使命があるのです。
 すべてを信心の飛躍台として、見事に変毒為薬してください。そして、信心の勝利の実証を示し切っていただきたいのです」
 伸一は、この後、被災した同志を見舞うため、三重の四日市方面に向かった。しかし、愛知・三重間の交通網が、なお不通であったために、岐阜を経由して関西へ行き、三重に入ったのは、五日のことであった。
 彼の胸中には、″同志をこのまま不幸になどさせてなるものか″との、強い思いが渦巻いていた。
 伸一は、四日市方面でも泥にまみれ、汗にまみれながら、会う人ごとに、励ましの言葉をかけていった。
 彼は激励を続けながら、関西をはじめ、各地の同志が救援活動に協力してくれていたことに、行く先々で深く感謝した。食料や衣服などの救援物資も、被災地に続々と届けられていた。学会という人間の真心のネットワークが、救援の手となって見事に作動していたのである。
35  錬磨(35)
 この伊勢湾台風による全国の死者・行方不明者は五千九十八人、負傷者は三万八千九百二十一人を数え、まさに大惨事となった。
 これは室戸台風(昭和九年)の死者・行方不明者三千三十六人、枕崎台風(同二十年)の三千七百五十六人と比べても、史上最大規模のものといえる。
 特に愛知、三重の両県の死者・行方不明者は四千六百二十四人で、実に全体の九割にのぼっていた。
 この災害で、学会員のなかでも、尊い生命を失った人が出たことが、一層、山本伸一を苦しめた。
 彼は、犠牲者の冥福を祈りつつ、中部の同志が一日も早く、苦難を乗り越えることを一心に念じながら、一人誓った。
 ──この尊い仏子の幸福のため、栄光のために、我が生涯はあるのだ。
 伸一が会長に就任すると、最初に願ったことは、日本から、大きな災害をなくすことであった。
 その伊勢湾台風から、十カ月余が過ぎた。今、中部の友は、意気高く体育大会で熱戦を繰り広げている。そこには、苦難を乗り越えて、未来に生きようとする同志のたくましさが感じられた。伸一はその姿に、思わず目を細めた。
 体育大会は、午後零時半には全競技を終え、閉会式となった。
 伸一は、はつらつとした友の息吹に、喜びを覚えながら、ユーモアを交えてあいさつした。
 「中部の青年部の皆さんの体力は、健在であるということを、よく認識いたしました。これからは、頭も鍛えて、教学の力も同時につけていただきたい」
 グラウンドも、スタンドも、爆笑に揺れた。
 「私は、皆さんが、体力においても、教学においても、全民衆を立派に指導しゆく、本物の力をもった青年になっていくことを期待しております。
 また、本日の大会のように、明るく、楽しく、勇敢なる団結をもって前進されんことを念願いたします。そして、世界の人々が心からすばらしいと感じる模範の姿を、個人の生活にも、学会の組織のなかにも示しながら、日本に幸福と平和の楽土を建設していこうではありませんか!」
 指導は至って簡潔であった。しかし、″楽土建設″の言葉が参加者の胸に響いた。それは全同志の誓いとなった。
 中部の同志は、伊勢湾台風の暗雲を見事に吹き払い、新たな飛を開始したのである。
36  錬磨(36)
 猛暑のなかでも、会長山本伸一には、束の間の休息さえなかった。
 名古屋から戻ると、すぐに夏季地方指導が待ち受けていた。この年の夏季地方指導は、八月十七日から二十一日までの五日間にわたって、北は北海道から南は奄美大島まで、全国三十九地域で行われた。
 伸一も夏季地方指導の先頭に立ち、十九日には関西の総支部幹部会に出席し、二十日には福岡での幹部会に臨み、最終日の二十一日は、九州本部で各部の指導会を連続して担当した。
 更に、二十六日には札幌に飛んだ。二十八日に開催される、青年部の第三回北海道体育大会に出席するためである。
 翌二十七日朝、伸一は、理事の山際洋、森川一正、鈴本実、青年部長の秋月英介らとともに、車で北海道本部を発ち、恩師の故郷・厚田村へ向かった。
 伸一が初めて厚田を訪れたのは、六年前の一九五四年(昭和二十九年)のことである。
 それは、恩師との忘れがたき″師弟の旅″であった。しかし、その戸田は既に世を去り、はや二年余が過ぎようとしていた。
 車窓には、茫洋たる北の大地が広がっている。車はあの日と同じ道をっていたが、師のいない旅の寂しさが切々と心に迫った。
 車が厚田村に入り、戸田の縁者が営む戸田旅館に着いたのは正午前であった。
 入り口には、伸一の来訪を知った三、四十人の同志が待っていた。
 伸一は車を降り、一礼すると言った。
 「このたび戸田先生の弟子として、第三代会長になりました山本です。今日は恩師の故郷に、会長就任のご報告にまいりました」
 大きな拍手が起こった。
 伸一はその輪のなかに、かつて戸田を迎えた前村長の姿を認めると、手を取って話しかけた。
 「お懐かしい。六年前に厚田を訪れた折には、大変にお世話になりました。決して忘れません」
 前村長は、顔をほころばせて、何度もうなずいた。
 伸一は、戸田の親戚や出迎えてくれた友と、戸田旅館で歓談し、昼食をともにした。恩師と訪れたあの日と同じく、石狩鍋を囲んでの、楽しい語らいとなった。戸田が好きだった歌も、皆で歌った。
 食事が終わると、伸一は言った。
 「おなかが膨れたところで海岸を散歩しましょう。運動になりますから」
 彼は、上着を手にして立ち上がった。
37  錬磨(37)
 地元の友と語らいながらの、散歩が始まった。
 海岸に出ると、山本伸一は、皆と記念の写真に納まった。
 それから、厚田港の防波堤を歩いた。空は、きれいに晴れ渡り、波が静かに寄せ返していた。
 六年前、この防波堤を歩きながら、彼は、恩師の伝記ともいうべき、続『人間革命』の執筆を決意したのである。
 できることなら、たった一人で厚田を訪れ、海を眺めながら、恩師をしのびたいとも思った。しかし、今の彼には、それさえも許されなかった。
 だが、厚田の空気を胸いっぱいに吸うと、戸田に見守られ、見えざる師の腕に包まれながら生きる自分を感じて、心は幸福感に満たされていった。
 あの時、この厚田の浜辺で、夕日を見ながら戸田が語った言葉が、鮮やかに伸一の胸によみがえった。
 「伸一君、ぼくは、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。君は、世界の広宣流布の道を開くんだ……」
 彼は、師の限りない期待と、自己の使命の重大さを感じた。そして、夜明けのこの海に一人誓った。
 「先生! 東洋広布は伸一がいたします。世界広布の金の橋を、かならず架けます!」
 以来、彼は、この時の恩師の言葉を、片時も忘れたことはなかった。
 そして、伸一は会長に就任すると、直ちに世界への平和旅の準備に着手し、十月初めには、アメリカ、カナダ、ブラジルの三カ国九都市の歴訪に出発することが決定していた。また、翌年一月には、アジアへの平和旅の計画が進められていたのである。
 彼が厚田を訪れたのも、恩師の故郷の、この海に立って、その報告をしたかったからである。
 彼は、厚田の友に、万感の思いを込めて語った。
 「戸田先生の故郷の厚田は、私の第二の故郷です。また、私の世界への旅立ちの舞台です。どうか、皆さんで力を合わせて、私に代わって、ここに幸福の花園を築いてください」
 伸一が、短い厚田滞在を終え、車中の人となったのは夕方近くであった。彼は遠ざかる厚田の景色に目をやりながら思った。
 ──戸田先生を永遠に顕彰しゆくためにも、いつかこの地に、恩師の精神をとどめる″記念の城″を築かねばならない……。
 この時、伸一の心に宿った着想は、十七年後(一九七七年)に戸田記念墓園として実現するのである。
38  錬磨(38)
 毎日が暑かった。
 しかし、夏季講習会、夏季地方指導、そして、青年部の各地での体育大会と続いた″人材錬磨の八月″も、間もなく終わろうとしていた。
 三十日には、八月を締めくくる本部幹部会が、東京体育館で行われた。
 その冒頭、統監部長の山際洋から、八月度の本尊流布が発表された。
 「総数、六万七千三百八十四世帯!」
 その瞬間、どよめきと歓声が場内に響き渡った。
 それは、過去最高だった六月の五万六千四百十三世帯を一万以上も上回る、学会始まって以来の大折伏であった。伸一が会長に就任して以来、弘教の波は、もはや、とどまるところを知らなかった。まさに、怒涛の大前進であった。
 会長山本伸一は、会心の勝利の一カ月をねぎらいつつ、青年部の体育大会に参加した来賓の称賛の声を紹介していった。
 「ある方面の体育大会に、一流紙の新聞記者が取材に来ておりました。各種の競技を観戦した後、この記者は、『今まで聞いていた創価学会と、自分が目の当たりに拝見した創価学会とは格段の相違である。まったく違っていた』と感嘆しておりました。
 そして『これだけの大勢の人が、歓喜をもって、更に団結をもって進んでいるということは、その根底に、何か偉大なる哲学があるのであろう』と言って、帰っていきました」
 大拍手が起こった。
 憶測と偏見に満ちた「百聞」も、生きる喜びに輝いた現実の姿を「一見」するならば、はかない露のように消え失せるものだ。
 体育大会は、さまざまな学校や企業などでも、年中行事として行われているものであり、決して、目新しいものではない。
 しかし、学会の体育大会には、マスゲーム一つにしても、青年の生命の躍動感があり、演ずる一人一人に歓喜の輝きがある。更に、その個が個として輝きつつ調和し、心と心の団結の美をもたらしている。
 鉄の規律によって人を縛り、団結をもたらすことはできても、そこには、個人の歓喜の輝きはない。学会の体育大会の個と全体の調和の妙は、信仰による「異体同心」の姿の結実といってよい。
 ジャーナリストの鋭い理性の目は、的確にそれを見抜いたようだ。
 伸一は、更に、社会にあって人格の輝きを放っていくことが、信心の証明であると述べた後、「勝って兜の緒を締めよ」と訴え、心新たな前進を呼び掛けた。
39  錬磨(39)
 青年部の体育大会は、九月に入っても続いていた。
 九月三日には東京で第一回水上競技大会が行われ、翌四日には、第七回東京体育大会が開催された。
 この東京大会は午後四時半の開会で、途中から照明を使用する″ナイター大会″であった。
 山本伸一は、三日の水上競技大会、四日の東京大会に出席すると、八日、九日と兵庫、広島の指導に回り、十一日には、関西の第三回体育大会に臨んだ。各地とも同じように、体育大会に取り組んだ青年たちの成長は目覚ましかった。
 運営の計画を練ることから始まり、演目の練習、会場の確保と設営、安全と無事故を期しての輸送・整理から、食事の調達まで、いっさいの責任を青年たちが担ったのである。
 その作業は膨大であったが、一つ一つの課題に責任をもって取り組むことで、青年たちは広布の後継の使命を自覚していった。
 また、地方によっては人手が足らず、役員を確保するにも、部員の家を訪ねて個人指導し、勤行を教えるところから始めなくてはならなかった。
 更に、学会の体育大会は広布の前進の証でなくてはならないとの思いから、出場者や役員が、それぞれ布教を誓い合い、互いに励まし合いながら、皆がそれを果たして集った地域もあった。
 仕事や勉学に励みつつ、体育大会を大成功させた青年たちの顔は、真っ黒に日焼けし、自信と歓喜と誇りにあふれ、一段とたくましさを増していた。
 伸一は、その姿を見るのが嬉しかった。青年の鍛錬のために、各方面で青年部が体育大会を行うことを提案したのは伸一であった。
 人を育成するには、大きな責任を持たせ、実際にやらせてみることが大切だ。人は責任を自覚し、真剣になることによって、力を増すものだからである。
 また、現実に物事に取り組めば、机上の計画では予想もしなかった事態や、困難に直面することもある。だが、その体験こそ、真実の力を培う貴重な財産にほかならない。
 人を育てるために責任を与えるということは、簡単なように見えて、難しい問題といえよう。それはリーダーに、人を信頼する度量と、もし、失敗したならば、自分がいっさいの責任を負うという覚悟が要請されるからである。
 失敗のリスクを恐れ、保身に々としたリーダーであれば、結局、本当の人材を育てることなく、むしろ、未来の芽を摘んでしまうことになる。
40  錬磨(40)
 朝靄が晴れると、澄み切った秋空が広がっていた。
 九月二十三日、全国体育大会第三回「若人の祭典」が東京の国立競技場で開催された。
 山本伸一は、午前八時過ぎには会場に姿を現した。開会までには、まだ、三、四十分も間があった。
 「やあ、おはよう。ご苦労様!」
 車から降りると、彼は、役員の青年に声を掛けた。
 伸一は控室に向かったが、途中、何度も足を止めては、青年たちに声を掛けていった。
 「ありがとう、朝早くから。朝食はすませたの?」
 「はい!」
 「うまく休みながら、疲れないようにね」
 彼は、暗いうちから準備に当たってきた役員の青年たちを、少しでも励ましたかったのである。
 伸一の目は、華やかなスポットライトを浴びる人よりも、むしろ、その背後で、黙々と働く青年たちに向けられていたといってよい。
 八時四十五分、選手三千人が整然と入場し、開会式が始まった。
 開会宣言、大会旗の″若獅子旗″掲揚に続いて、総本山からリレーで運ばれた「黎明の火」を掲げた走者が入場。沸き起こる大拍手のなか、聖火台に「黎明の火」がともされた。
 開会式が終わった。ヘリコプター三機が上空を旋回し、一千羽の鳩が大空に放たれた。競技の開始である。地方大会の予選に勝ち残った代表選手によって、男子四百メートル走、女子二百メートル走、男子八百メートル走と、激戦が展開されていった。
 男子一万メートルの走者が場外へ飛び出すと、フィールドでは、女子部のダンス「体育賛歌」が始まった。はつらつとした躍動の舞が、赤や黄などの輪になって広がると、フィールドは美しき人華の花園となった。
 続いて男子部の組み体操へと移った。″やぐら″″ブリッジ″″円塔″などが次々に組み上げられていく。そして、目まぐるしく隊形変化すると、「師子王」の人文字が描かれ、更に「祝渡米」の文字が、鮮やかにフィールドいっぱいに描き出された。
 九日後に迫った、伸一の北・南米訪問への、青年たちの真心の祝福であった。
 会場は、いつまでも盛んな拍手に包まれた。
 参加者は、世界への広宣流布の夜明けを告げる伸一の平和への旅が、今、始まろうとしていることをひしひしと感じるのであった。
 伸一は、その人文字をじっと見ていた。青年たちの未来と恩師のことを思いながら──。
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 体育大会は昼休みをはさんで、リレーなどの各種競技や婦人部二千人の舞踊、女子部のダンス「若い力」などが続けられた。
 競技の結果は、男子部は文京支部が、女子部は横須賀支部が優勝を飾った。
 表彰が終わり、最後に、会長山本伸一が演壇に上がった。彼は、青年たちへの敬意と期待を込めて、語り始めた。
 「口で平和を論じ、幸福を論ずることは容易であります。しかし、仏法という生命の大哲理のもとに、現実に自身の幸福を打ち立てながら、友も、社会も、国も、人類も幸福にしている団体は、我が創価学会以外に断じてありません。
 恩師は″青年は国の柱である″と言われ、心から青年に期待をかけておられました。日本の現状を思う時、真実の柱となって日本を救うのは、日蓮大聖人の仏法を、慈悲の哲理を奉持した創価学会青年部以外にないと断言しておきたい。
 私は約十年間にわたって恩師戸田先生に仕え、広宣流布の精神と原理と構想とを教えていただき、広布のバトンを受け継ぎました。
 私は戸田先生の弟子として、その″魂のバトン″を手に、人類の幸福と平和のために、力の続く限り走り抜いてまいる決心でございます。そして、私が『広宣流布の総仕上げを頼むぞ』と、最後にそのバトンを託すのは、ほかならぬ青年部の諸君であります。
 私は、皆さんが東洋へ、世界へと、広布の走者として走りゆくために、先駆となって、道を切り開いていく決心です。
 願わくは、私の意志を受け継ぎ、生涯、人々の幸福のため、平和のために生き抜いていただきたい。
 また、各家庭にあっては両親を大切にし、社会にあっては職場の第一人者となり、支部にあっては年配の方々を優しく包み、周囲の誰からも信頼される青年に育っていただきたいのであります。
 諸君が、日本、東洋、全世界の人々の依怙依託となられんことを心から念願して、あいさつに代える次第でございます」
 すべて伸一の率直な真情であった。短いあいさつを終えると、爆発的な拍手が起こった。
 彼は、ふとスタンドの彼方を見上げた。青空に鳩の群れが舞っていた。
 空に道は見えない。しかし、空を行く鳥はそれを知っている。
 伸一の目には、未来へと伸びる広宣流布の一本の道が、金色の光を放って輝くのが見えた。

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