Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第2巻 「先駆」 先駆

小説「新・人間革命」

前後
2  先駆(2)
 山本伸一は、決然と立ち上がった。
 唱題を終えた彼は、本部の応接室で、理事長の原山幸一をはじめ、最高幹部と打ち合わせに入った。
 原山は、五月三日の本部総会で、小西武雄に代わって理事長に就任し、小西は本部の最高顧問となっていた。また、この時、十条潔が副理事長に就任したのである。
 「原山さん、三十一日の本部幹部会の式次第の案はどうなっていますか」
 伸一が尋ねた。
 「はあ、先生のご意見をお伺いしてから、検討しようと思いまして……」
 「では、一日の千葉から始まる、関東や甲信越などの各支部の結成大会の派遣幹部は決まっていますか」
 「いえ、まだ……」
 「そうですか。結成された支部の、地区の編成は、本部では誰が責任をもって進めているんですか」
 「総支部長がそれぞれ見ているので、特に誰ということは……」
 こう言ったきり、原山は押し黙った。伸一は険しい顔で原山を見た。
 「この支部結成大会は、今後の戦いの鍵を握る、最大のポイントです。
 年内の行事については、すべて理事長を中心に、万全の態勢で臨むことになっていたはずです。指示がなければ、何も考えず、行動もしないというのは無責任ではないですか。
 広宣流布は、急ピッチで進んでいる。第一線の同志は、皆、新たな決意で、真剣に戦っています。それなのに、肝心の本部が惰性化してしまえば、中枢から腐っていく。怖いことです」
 原山は、「はあ……」と言って、伸一を見た。彼には、多少、打つべき手が遅れてしまったという感覚しかなかった。
 伸一が一番恐れていたのは、中心となる最高幹部の意識の遅れであった。
 最高幹部のなかには、牧口の時代からの幹部も何人かいた。彼らには、長い信仰歴のなかで積み重ねた経験と、戸田城聖とともに、学会の基盤を築いてきたという自負があった。
 しかし、伸一の目指す新しき広宣流布の流れは、もはや、彼らの経験をはるかに超えた、新たな局面を迎えようとしていた。
 だが、彼らは、それに気づかず、これまで通りに、指示があって初めて重い腰を上げ、自らの経験の範囲で対処すればよいという安易な考えを、どうしても拭いきれなかった。
 惰性とは、気づかぬうちに陥るものだ。現状をよしとし、日々、革新を忘れた時から、既に惰性は始まっている。
3  先駆(3)
 山本伸一は、応接室に集った幹部を見回すと、厳しい口調で言った。
 「私は、いよいよこれから、日本の本当の戦いを始めます。しかし、その本陣である本部の空気は、緩み切っている。しかも、それにさえ気づかないことが怖いのです。
 道を行くにも、ゆっくり歩くのと、車で、猛スピードで行くのとでは、気構えも、神経の使い方も違ってくる。猛スピードで車を運転しているのに、歩いているような感覚で、よそ見をしていれば、大事故につながってしまう。
 三百万世帯を目指して進む今の学会は、時速百キロを超すスピードで走っている車のようなものです。一瞬の脇見も、運転ミスも許されません。本部に、その緊張感がみなぎっていなければ、全会員を守り、未聞の大前進を期すことなど、とてもできない。だから、私は厳しく言うのです」
 原山幸一をはじめ、留守を守っていた幹部とは、わずか二十数日離れていたにすぎない。
 しかし、海外という新天地の広布を開くために、死力を尽くしてきた伸一との間には、目には見えない、大きな使命感の隔たりが生じていた。それが呼吸のずれとなって、露呈したといってよい。
 伸一は、残留の幹部が陥ってしまった、惰性の殻を打ち破っておきたかったのである。
 彼は、話を続けた。
 「今後の活動の最大の焦点となるのが、新支部の結成大会です。新たに誕生した支部が軌道に乗れば、三百万世帯は達成できます。
 私は、今日からは日本の指導にやって来たつもりで戦います。全国各地を回り、海外と同じように、いや、それ以上の働きをします。したがって、皆さんもその決意で臨んでいただきたいのです」
 伸一は恩師との三百万世帯の達成という誓いを果たすために、全国各地に新支部を結成し、戦いの布陣を整えることから着手した。
 まず、会長就任の五月三日の総会で、一挙に全国に二十三支部を新設。これによって、学会は、全国六十一支部から八十四支部の陣容となり、″怒涛の前進″が開始されたのである。
 しかし、広布の盤石な基盤をつくるためには、更に、全国各地に支部の新設を急がねばならなかった。
 組織は、間違いなく信行学を加速させていく道である。また、人々が、安心して伸び伸びと大樹に成長していく、大地であらねばならない。
4  先駆(4)
 山本伸一は、信心と幸福の人華と咲き薫りゆく根を、各県に、そして、各地域に、張りめぐらしていきたかったのである。
 それゆえに、彼は新支部の結成に最も力を注いでいった。
 当時の学会の組織は、タテ線と呼ばれ、居住の地域を問わず、折伏してくれた紹介者と同じ組織に所属することを原則としていた。
 たとえば、日本全国、どこに住んでいても、紹介者が蒲田支部の所属なら、蒲田支部員となり、紹介者が文京支部なら、文京支部員となった。
 そして、新しく入信した友から、弘教の輪が地域に広がると、やがて、そこに組、班、地区がつくられていった。東京や関西などの古くからの支部には、各県ごとに、地区や班を持つ支部も少なくなかった。
 したがって、一つの県にいくつかの支部に所属する友が混在していた。
 各地の友にしてみれば、自分の所属する支部の幹部会などに出席するには、東京や関西まで、わざわざ出掛けていかなければならなかった。
 また、支部の側からすれば、各県に支部員がいても、人数が少なく、班や地区もない場合には、指導の手が十分に行き届かないこともあった。
 それを解消するために、一九五五年(昭和三十年)には、ブロック組織がつくられ、月のうち数日をブロック活動にあて、各地域ごとに連携を取り合うように努めてはきたが、それは、あくまでも補完的なものにすぎなかった。
 各県に新支部が誕生すれば、そこに居住するメンバーは、東京や関西などの各支部の所属から地元の支部に移り、多くの便宜が図られることになる。
 伸一は、この問題を重視し、全国どこにあっても、きめ細かな指導の手が差し伸べられ、同志が一人ももれなく、広宣流布の聖業に参加できる組織の体制を、つくりあげようとしたのである。
 また、三百万世帯の達成は、全員の力を総結集してこそ、初めて成就できる目標であったといってよい。
 彼は、五月三日の本部総会での支部結成に続いて、七月には、沖縄に飛び、沖縄支部を結成した。
 更に、九月の本部幹部会では、千葉、水戸、前橋、沼津、甲府、松本、長野、富山、金沢、室蘭、帯広、山形、南秋田、盛岡、徳島、大分の十六支部を誕生させた。この十一月からは、その支部の結成大会が控えていたのである。
5  先駆(5)
 山本伸一は、会長に就任すると、直ちに全国各地を回り、会員の指導、激励に奔走してきた。
 それは、一人でも多くの会員と会い、ともに新たな出発をするためであった。また、誕生した新支部の旅立ちを祝福し、活動の流れを速やかに軌道に乗せるためでもあった。
 会長就任後、伸一が最初に訪れたのは、大阪であった。就任の日から五日後の五月八日には、彼は、大阪府立体育会館での関西総支部幹部会にやって来た。
 伸一が、関西の法戦の最高責任者として、大阪の地を踏んだのは、一九五六年(昭和三十一年)の一月四日のことであった。メンバーはいずれも、入信の日も浅く、活動の経験も乏しかった。
 しかし、伸一の指揮のもと、関西の友は、どこまでも純真に、懸命に戦った。そして、その年の五月の弘教で、一支部で一万一千百十一世帯という、広宣流布の歴史に永遠の輝きを放つ不滅の金字塔を、ともに打ち立てたのである。
 更に、七月の参議院議員選挙でも、大阪地方区は、「当選は不可能」といわれたなかで、見事に勝利し、「″まさか″が実現」と、新聞が大々的に書き立てたほどの壮挙を成し遂げた。
 しかし、翌年四月の参院大阪地方区補選では、東京からやって来た心ない会員が買収事件を引き起こし、終盤戦に乱れが生じたこともあり、惜敗を余儀なくされた。
 そして、伸一は、この選挙の最高責任者であったことから、買収と戸別訪問という無実の罪を着せられ、不当逮捕された。
 そこには、学会の前進を阻もうとする権力の、悪質な意図が働いていた。
 その時、彼の逮捕を最も悲しみ、怒り、邪悪な権力との闘争に立ち上がったのが関西の同志であった。
 無実を勝ち取る伸一の法廷での戦いは、会長に就任したこの時も、まだ続いていた。
 彼は、その庶民の英雄たちを真っ先に励まし、ともに船出しようと、勇んで大阪の地を踏んだのである。
 新会長山本伸一を迎えた同志の喜びは、一気に爆発した。会場に伸一が姿を現すや、雷鳴のような拍手と歓声が轟き、いつまでも鳴りやまなかった。
 なかには立ち上がって手を振る人もいれば、帽子を天井に投げる人まで出るほどだった。
 誰もが伸一の会長就任の喜びと新出発の決意を、率直に五体で表現せずにはいられなかったのである。彼は、その虚飾のない、庶民の王者たちを愛した。
6  先駆(6)
 関西の友にとって、山本伸一は、どこまでも「ワテらのセンセ(先生)」であった。
 一人一人の同志と、伸一との間に介在するものなど何もなかった。立場や役職といった関係を超えて、ともに広宣流布の使命に生きようとする、人間と人間の絆に結ばれていたといってよい。それが関西の強さであり、また、学会の強さともなった。
 伸一は、壇上で友の体験発表や決意を聞きながら、この数年のうちに、関西の同志が大きな成長を遂げたことに目を見張った。
 ことに彼とともに戦った幹部たちは、それぞれが自己の境涯を大きく開き、確信と自信に満ちあふれた、堂々たるリーダーに育っていたのである。
 しかし、関西の友の実感としては、ともかく、伸一の後について、無我夢中で走り抜いてきたにすぎなかった。
 御聖訓には「蒼蠅そうよう驥尾に附して万里を渡り碧蘿へきら松頭に懸りて千尋を延ぶ」と仰せである。戸田の分身として、広宣流布のいっさいの責任を担う若き闘将とともに、ひたぶるに駆け巡った彼らも、自らは気づかぬうちに、一騎当千の闘将に育っていたのである。
 自己の境涯を大きく開く要諦は、広宣流布という行動の本流に身を置いて進むところにある。
 関西には、五月三日の総会で、岸和田、和歌山、尼崎、布施、浪速、西成、阪神、淀川、都島、西宮の十支部が誕生し、これで関西の総支部は十八支部になった。
 総支部の幹部会では、新たな旅立ちを期す、支部旗と男・女青年部の旗の返還、授与が行われた。
 これらの旗は広宣流布の前進の象徴であった。日蓮大聖人も「妙法五字の旗を指上て」と、弘教の姿を旗で表現された。
 そして、戸田城聖も「同志の歌」で、「旗持つ若人 何処にか」と、広布の使命に立つ青年像を、旗に託して詠んでいる。
 伸一は、自ら支部旗を握ると、この一瞬に、無量の思いを凝縮し、満腔の敬意と期待を託して、新支部長たちに励ましの言葉をかけながら、手渡していった。
 「支部旗は平和の旗印です。健闘を期待します」
 「嵐のなかでも、私と二人で、この旗を掲げて戦いましょう」
 「渾身の力で、民衆の凱歌の名指揮を頼みます」
 その一言一言は、新任幹部の希望となり、新しき指標となって、生命に刻まれていった。
7  先駆(7)
 やがて、会長山本伸一の講演となった。
 伸一は、関西の地で、戸田と過ごした懐かしき日々を思いながら語り始めた。
 「戸田先生は、かつて関西で、こう指導されたことがあります。
 『なぜ私は関西にやって来るのか。それはこの関西から、大阪から、貧乏人と病人をなくすためである』
 先生は、この一言で、広宣流布の目的が、どこまでも宿命に泣く人々の救済にあることを教えてくださった。そして、今、関西の幹部を見ると、皆、本当に幸福になっています……」
 学会が貧乏人と病人の団体であるとの批判は、戸田の生前から何度も繰り返されてきた。戸田は、その批判をむしろ喜んで受け、こう言明したのである。
 当時、戸田は、呵々大笑しながら、よく、会員たちに語っていた。
 「学会のせいで貧乏や病気になったのなら、学会が悪口を言われても仕方ないが、もともとそうだった人々が信心を始めたんです。君たちだってそうだろう。そして、その人たちが、今では見事に生活革命を成し遂げ、また、健康になっている。これほど素晴らしいことはないではないか。
 学会を貧乏人と病人の集まりだなんて悪口を言うものがいたら、こう言ってやりなさい。
 『それでは、あなたは、貧乏人と病人を、何人救ったのですか』と」
 「貧乏」と「病気」は当時の日本の″時代の不幸″を象徴していたといってよい。戸田は、その不幸に、真っ向から挑戦することを宣言したのである。
 仏法は、現実から目をそらし、慰めや観念の幸福を説くものではない。眼前の不幸に挑み、現実社会のなかで、勝利の実証を打ち立てていくのが、本来の仏法の在り方である。
 この日、伸一が、敢えてその戸田の言葉を引いたのは、今、彼がなそうとしている三百万世帯の達成もまた、どこまでも友の救済にあることを、知って欲しかったからである。
 人間は意味に生きる動物である。人は″なんのため″かが明らかにならなければ、そこに、本気になって力を注ぎ込むことはできない。
 それは、広宣流布の活動においても同じである。皆が、なんのための運動か、なぜ、今、それを行うのかを、よく納得、理解するならば、自主的に行動を開始していくものだ。
 そして、そこから、さまざまな創意工夫も生まれていく。それが、″現場の知恵″である。知恵は知識を動かす力でもある。
8  先駆(8)
 いかなる運動も、絶えず″なんのためか″という根本目的に立ち返ることがなければ、知らず知らずのうちに、手段や方法が独り歩きし、本来の目的から外れてしまうものだ。
 そうなれば、一時期は華々しい前進を遂げたように見えても、結局は空転し、最後は停滞する。
 また、皆が意義、目的を心の底から納得していないにもかかわらず、目標の数や方法ばかりが強調されれば、押しつけられているような思いをいだくにちがいない。
 すると、活動に取り組む姿勢が受け身になる。受け身の行動には歓喜も躍動もなくなる。それでは、いかに高邁な運動も、やがては行き詰まってしまうにちがいない。
 意義、目的の理解と合意ができたならば、目標の設定である。目標は、組織としても、個人としても、より具体的でなければならない。目標があれば、張り合いも出るし、達成できた時の喜びも大きいものだ。
 そのうえで、いかにしてそれを達成するかという、方法の検討が大切になってくる。
 山本伸一は、まず、三百万世帯達成の根本目的を再確認することから語り始めた。そして、その達成の道は、座談会の充実にあることを訴えていった。
 「全幹部が勇んで座談会に参加し、信心の確信あふれる、和気あいあいとした座談会を開催していくならば、弘教の輪は必ず広がっていきます。座談会は、学会の縮図です。職業も、立場も異なる老若男女が、幸福への方途を語り合い、励まし合う姿は、現代社会のオアシスといえます。
 牧口先生も戸田先生も、座談会で不幸に泣く人々と同苦し、広宣流布の戦いを起こされた。この草の根の運動が、今日まで学会を支えてきたのです。
 どうか、座談会の充実に力を注ぎ、関西の皆さんが先駆けとなって、新しき広宣流布のうねりを巻き起こしていただきたいのであります」
 闇の彼方に暁の光が走り、朝の到来を告げるように、広宣流布の運動にも、先駆けの光がなくてはならない。
 伸一は、全国各地のなかで、関西の同志に学会の先駆けとしての戦いを期待していた。そして、各部のなかにあっては、彼はそれを、青年部に託そうとしていたのである。
 これまで、その先駆の道を開いてきたのは、山本伸一という青年一人であったといってよい。戸田は、どこかの地域で、広布の歩みに停滞が生じ始めると、常に彼を派遣し、突破口を開くように命じたのである。
9  先駆(9)
 戸田城聖の大願であった七十五万世帯への歩みが遅々として進まず、前途は低迷の雲に覆われていた時、山本伸一は、支部幹事として、蒲田支部の指揮を託された。
 一九五二年(昭和二十七年)一月、伸一が二十四歳の冬である。
 彼は敢然と戦い抜いた。そして、二月度の弘教で、大支部でも百世帯前後が限界といわれていた成果を大きく塗り替え、二百一世帯の弘教を成し遂げた。
 それが起爆剤となって各支部に広布の火が燃え上がり、七十五万世帯達成の突破口が開かれたのである。
 彼は、東京の文京で、大阪で、山口で、そして、広布のあらゆる局面で、先駆けの道を開き続けてきたのである。
 思えば、戸田の指示を受けるや、仕事をやりくりして、各地に出かけていくだけでも、決して容易なことではなかった。時には旅費も底をつき、自宅の電話の債券を売って列車の切符を手に入れたこともあった。
 しかし、戸田は、その伸一を称えることは、ほとんどなかった。むしろ、厳しい叱責に終始し、未曾有の成果を残して当然という態度を取り続けた。
 伸一は、そこに、本物の獅子に育て上げようとする師の厳愛と、全幅の信頼を感じていた。戸田の険しい目の奥に宿る、深い慈愛の光を、彼は知っていたのである。
 彼は、勇んで先駆の道をひた走った。それは、歓喜に包まれた誇り高き、青春の大道であった。
 先駆けの勇者によって突破口が出来れば、流れは開かれる。
 伸一は、戸田の手駒として、先駆の道を開き続けたことによって、まことの″後継の人″たりえたのである。
 ″後継″と″後続″とは異なる。後方の安全地帯に身を置き、開拓の労苦も知らず、ただ後に続く″後続の人″に、″後継″の責任を果たすことなど出来ようはずがない。″後継の人″とは、勝利の旗を打ち立てる″先駆の人″でなければならない。
 伸一は、今後の重層的な広宣流布の未来を展望し、各地に、各分野に、先駆の使命を担う友が、陸続と登場しなければならないことを痛感していた。そのために、彼は、全魂の激励を続けたのである。
 関西での総支部幹部会の翌九日には、伸一は、東京・台東体育館で行われた五月度の女子部幹部会に出席した。一瞬の休息もない電光石火ともいうべき戦いを、彼は自らに課していたのである。
10  先駆(10)
 女子部幹部会の壇上に立った山本伸一は、ここでも恩師戸田城聖について語っていった。
 彼は、日蓮大聖人の仏法を体現した恩師の精神を、正しく全同志に伝え切ることを、自らの使命としていたのである。
 「戸田先生が会長になられた後、いろいろな新聞社や出版社の記者が、取材にまいりました。
 そして、よく、『あなたは神様ですか』といった質問をしておりました。その時、先生は、『いや、私は立派な凡夫だ。自分を神だなどと言う宗教の教祖は、インチキだ』と、答えていたことが忘れられません。
 同志が戸田先生を心から尊敬し、慕い、渇仰する姿を見て、記者たちは、他宗の教祖と同じように、先生が神秘的な宗教の権威を振りかざし、専制君主のように、人々の上に君臨していると思ったのでしょう。
 しかし、そんなことで、多くの人々が、懸命に働くことなどありません。仮に、権威や権力を振りかざして、人を動かすことができたとしても、同志のあのさわやかな笑顔を見ることなど、決してできないはずです。
 先生は、一人一人を励ますために、陰でどれほど心を砕いていたか計り知れない。生涯を通じて、連日、個人指導に何時間も時間を費やし、また、手紙で、電話で、あるいは人を介して、さまざまな指導、激励の手を差し伸べられた。
 先生に、直接、指導を受け、幸せになっていった人は、何万、何十万にのぼります。
 つまり、一人一人が先生につながり、人間として、師匠として、敬愛していたから、皆が自主的に、喜び勇んで、広宣流布に挺身してきた。
 だからこそ、学会は、花のような明るい笑顔に包まれ、ここまで発展を遂げたのです。それが学会の秘密です。学会は、戸田先生との人間の絆で結ばれた、自立と調和の共同体であると言えましょう。
 その学会の真実を見極めようとせず、戸田先生のことを、命令一つで組織を動かすカリスマのように思っている。なかには、敢えてそのように喧伝し、学会の悪印象を植えつけようとするマスコミも一部にありました。
 戸田先生は、そうしたなかで、自分は凡夫であると言い切られた。それは、宗教の神秘主義、権威主義への挑戦です。また、大聖人の人間仏法の本義もそこにあります」
 伸一は、恩師と学会への見当違いな批判を、打ち砕いておきたかった。
11  先駆(11)
 「戸田先生が、ご自身を″立派な凡夫″と言われた意味は、仏法のうえでも、深いものがあります。ただ現実の振る舞いに即して言えば、自己の人間完成に向かって、常に学び、磨き高めていく、向上、求道の生き方と言えます」
 山本伸一は、ここから″日々の実践″へと、話を移していった。
 「初代会長の牧口先生も、常に勉強され、バスを待たれている時も、寸暇を惜しんで本を読まれていたといいます。また、あの獄中にあっても、カントなどを精読されていました。
 戸田先生もそうです。総本山にあって、逝去の間際まで『十八史略』を学ばれていた。
 ゆえに、どんな環境にあろうが、自分を磨き高めるために、常に学び抜いてこそ戸田先生の弟子であり、学会の女子部であると、申し上げておきたいのであります。
 信心の修行の根本は、信・行・学ですが、戸田先生は女子部に対して、『教学で立て』と言われた。
 それは、仏法の大哲理を自己の生き方の哲学とし、人生の骨格にしてこそ、崩れざる幸福を打ち立てることができるからです。
 また、宗教の高低浅深を見極めるとともに、何が真実の大聖人の教えであり、御精神なのかを明らかにしていくには、教学という裏付けが不可欠になります。
 戸田先生は『理は信を生み、信は理を求む』と言われている。つまり、教学という理が深まれば、信心も深まり、信心が深まれば、教学も深まっていきます。
 更に、人間の心は移ろいやすいものです。燃えるような歓喜も、歳月が経過すれば冷めていってしまう。
 ましてや、ひとたび法難が起これば、信心に疑いをもってしまうのが、残念ながら人の常です。
 戦時中のあの大弾圧の時にも、牧口門下生は、戸田先生を除いて、ほとんどが退転してしまった。自分たちは、幸せになるために信心をしたのに、なぜ、こんなに苦しい目にあわなければならないのか、わからなくなっていったのです。
 しかし、難が競い起こることは、大聖人が御書で明確に御教示されている。結局、教学がないがゆえに、退転していったのです。教学は、仏弟子として、自らの進むべき信心の軌道を、照らし出してくれます。
 今後、学会は、座談会とこの教学を、二つの柱としていきますので、特に女子部の皆さんは、しっかり教学に取り組んでいただきたいのであります」
12  先駆(12)
 山本伸一が「座談会」と「教学」という二大方針を打ち出したのは、既に会長就任が決定していた四月二十六日の本部幹部会のことであった。
 偉大なる構築のためには、堅固な柱がなくてはならない。彼は、学会の新出発に当たり、まず柱となる運動の基本を決定したのである。
 そして、会長に就任すると、教学研さんの具体的な指針を提案し、決定をみた。
 それは、五月十三日付の『聖教新聞』の一面に発表された。
 <一般会員>
 『大白蓮華』『聖教新聞』『折伏教典』の熟読。
 <助師>  右の目標に加えて、『方便品寿量品精解』と御書のなかで特に御消息文をマスターすること。
 <講師>  右の目標に加えて、御書、特に十大部及び文段を完全にマスターすること。
 <助教授> 右の目標に加えて、御書全編と『六巻抄』を全部勉強し、その奥底を極めておくこと。
 <教授>  御書並びに『富士宗学要集』をマスター。
 これを修得の基準とし、同志は、日々着実に研さんに励んでいった。
 その教学が同志の確信の裏付けとなり、民衆の覚醒をもたらし、時代を創造する平和と文化の創価の大運動を巻き起こしていったのである。
 九日の女子部の幹部会に引き続き、翌十日は、男子部の幹部会が、学会本部に近い千駄ケ谷の東京体育館で開催された。
 青年会長山本伸一は、烈々たる気迫で、男子部の友に呼びかけた。
 「御本仏日蓮大聖人は、『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』と仰せになっております。
 私はこの御聖訓を胸に、最後まで、諸君とともに戦い、諸君とともに苦しみ、諸君とともに悩み、そして広宣流布即世界の平和のために、一生を捧げてまいる決意でございます。
 かつて、恩師戸田城聖先生は、『青年は国の柱である』『青年は日本の眼目である』『青年は日本の大船である』と指導されましたが、日本の未来も、世界の未来も、青年の双肩にかかっている。
 なかんずく、仏法という最高の生命哲理を持った諸君たちこそ、混迷する社会を開き、次代の世界を担う柱であると、強く確信するものであります」
13  先駆(13)
 創価の青年の目指すべき道を、山本伸一は端的に語っていった。
 「新たな社会の建設のためには、一人一人が、科学、経済、教育、政治などあらゆる分野で、一流の人材に育っていくことです。
 そして、狭い日本だけにとらわれるのではなく、広く世界に雄飛し、人類の幸福と平和のために貢献していくことが、諸君の使命であります」
 彼は、壮大な使命を語ると同時に、足元の課題を明らかにすることを忘れなかった。
 「青年は、獅子王のごとき心で、邪悪に対しては一歩も退かぬ勇気がなくてはなりませんが、同時に、礼儀正しく、思いやりにあふれた真摯な態度の人でなければなりません。
 そして、地区にあっては座談会の推進力となり、若々しく、はつらつとした息吹で、同志を優しく包んでいただきたい。青年は地区の希望であり、活力であります。壮年、婦人から『あの人は、わが地区の誇りである』『あの青年がいるからわが地区は大丈夫だ』といわれる存在になってこそ、本当の次代のリーダーといえます。
 座談会は、広宣流布という民衆運動の生命線です。それを決して疎かにすることなく、青年の手で座談会を大成功させていこうではありませんか」
 伸一の呼びかけに、集った青年たちは、大拍手で応えた。
 最後に、彼は言った。
 「私は、皆さん方を、心から信頼しております。もしも、私が倒れることがあったならば、青年部の皆さんが、私の意志を継いで、広宣流布に邁進していっていただきたいと思います」
 一瞬、静寂が流れた。
 自らが倒れることまで考えながら、広布に走る伸一の心情を垣間見た感動に、誰もが呆然としたのである。そして、万雷の拍手がわき起こった。
 この講演には、後継の青年たちに寄せる、伸一の深い思いがあふれていた。広宣流布を永遠ならしめるには、人材の育成しかない。伸一は、何よりも創価の精神を受け継ぐ、本当の獅子が育つことを願っていた。
 自らの地位と権力の安泰のために、伸びゆこうとする青年の成長の芽を摘みとる指導者もいる。また、自分のために青年を利用し、その犠牲のうえに、自身の栄誉を築こうとする指導者もいる。
 しかし、彼は、「従藍而青」を願い、自らが青年のために、喜んで犠牲になるつもりでいた。
14  先駆(14)
 山本伸一の会長就任の日から、三百万世帯達成への大波は広がっていった。
 それは、彼が全国を駆け巡り、自ら水中に身を投じて起こした大波であった。
 彼は走った。
 五月十三日には総本山に赴き、大御本尊に創価学会の新たな出発を祈念し、東京に戻ると、十六日には、台東体育館で行われた、小岩・江東・飾の三支部合同幹部会に出席した。
 そして、翌十七日には、川崎市民会館での鶴見・京浜・横浜の三支部合同幹部会にやって来た。
 鶴見は、伸一にとって、懐かしい思い出の地であった。
 戸田城聖の事業が暗礁に乗り上げた、あの試練の時代に、彼は仕事で、この地に、毎日のように足を運んだ。胸を病み、体も最も憔悴していた時代である。
 彼は、その思い出から語り始めた。
 「戦後の学会の最初の難は、戸田先生の事業が窮地に陥ったことです。先生は最も苦しまれていた。その時、かつて、先生にお世話になった三人の幹部が言ったことが忘れられません」
 そのなかの一人は、伸一にこう語ったのである。
 「戸田なんかに使われるのはやめ給え。体まで壊してしまって、つまらないじゃないか」
 恩知らずな、厚顔無恥な言葉であった。伸一は、胸が煮えたぎるような憤りを覚えながら、毅然として言った。
 「戸田先生は私の師匠です。師に仕え抜くのが弟子ではないですか」
 更に、別の一人は、ささやくように語った。
 「もう戸田になど付かないで、俺に付いて商売をやらんか。うんとかるぞ」
 卑劣な生き方である。
 伸一は、そのずる賢い男を睨みすえた。
 しかし、ある一人の幹部は、彼にこう言ったのである。
 「今こそ信心で立つべき時だ。決して御本尊様を疑ってはいけない。また、戸田先生を守り切ることだ」
 戸田は、これらの幹部の言動をじっと見ていたにちがいない。
 ある日、戸田は言った。
 「伸一、今が勝負だぞ。難があった時に、信心し抜いていけば、後は功徳が大きい。題目を唱え切れ。お前の体も必ずよくなる」
 伸一は、戸田とともに戦い抜いた。前の二人は、やがて学会から去り、そのうちの一人は病に侵され、また一人は事業に行き詰まり、無残な姿をさらしていた。
 しかし、戸田を守れと語った人は、悠々自適の境涯で、学会の幹部として元気に活躍し、皆の尊敬を集めていた。
15  先駆(15)
 山本伸一は、三人の幹部の現在の姿を伝えた後、力を込めて訴えた。
 「大聖人は『邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし』と仰せです。広宣流布の団体である学会が難を受け、窮地に追い込まれた時、師子王のように敢然と一人立ってこそ本当の信心です。
 現在の私があるのは、広宣流布の総帥であられた戸田先生が最大の苦難にあわれた時に、一心に仕え抜いた福運であると確信しております。
 人間の真価は、いざという時にすべて現れる。学会が難を受け、非難と中傷の集中砲火を浴びた時に、いかに行動するかが、いっさいの分かれ目です。難こそ自身の成長のチャンスであり、大飛躍の時です。
 ゆえに、ひとたび難があったならば、それを喜びとし、また、誇りとして、敢然と戦う師子王の如き皆さんであっていただきたい」
 伸一が、敢えて難に触れたのは、学会の未来に競い起こるであろう法難を、ひしひしと感じていたからである。
 学会は三百万世帯の達成に向けて、怒涛の前進を開始した。しかも、それは最初の一波であり、その波は更に勢いを増し、早晩、未聞の広布の時代を開く大波と化していこう。
 そうなれば、御聖訓に照らして大難が競い起こることは間違いない。「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」である。
 その時に、一人たりとも脱落させてはならないとの、願いを込めての指導であった。しかし、単なる彼の追憶談として、話を聞いていた人もあった。
 伸一の指導は続いた。
 「では、いざという時に頑張れば、普段は、どうでもよいかというと、そうではありません。常日頃からいい加減な信心の人が、大変な時に戦えるわけがありません。スポーツでも、普段から練習を重ね、鍛えてこそ、勝負の時に力を発揮できるのです。
 大切なのは今です。永遠といっても、一瞬一瞬の連続です。今、戦わずして、いったい何年後に戦おうというのですか。
 ゆえに大聖人は、『臨終只今にあり』と、今、この時を懸命に信心に励むよう、仰せになっておられる。ゆえに、この一瞬を、そして、今日という一日を、最善を尽くして戦い、悔いなき人生の、一ページ一ページを開いていってください」
16  先駆(16)
 第三代の会長就任から、わずか二カ月間のうちに、山本伸一の行動は、ほぼ日本全国に及んだ。
 五月二十二日は北海道・札幌での北海道総支部幹部会、二十九日は福岡での九州総支部幹部会、六月四日は福島県・郡山での東北総支部幹部会、十日は名古屋での中部総支部幹部会、十二日は、岡山での中国総支部幹部会に臨んでいる。
 そして、その間に、東京をはじめ、首都圏の各支部幹部会に、連日のように出席していった。
 彼は、「使命」を果たすために、文字通り命を使っていたのである。
 また、伸一は、会長就任の日から、全同志に題目を送ろうと、常に唱題しながらの指導行を続けていた。
 そのさなかの五月二十四日未明、大津波が、東北、北海道などの太平洋岸を襲った。津波の高さは、最高四、五メートルに達した。
 これは、南米のチリで、前日の二十三日午前四時過ぎ(日本時間)に起きた地震によるもので、それが太平洋を越えて、一昼夜をかけ、日本の岸辺を襲ったのである。死者は、全国で百三十九人、被害家屋は、四万六千戸余りとなり、特に被害が大きかったのは三陸、北海道南岸であった。
 伸一は、早朝、目覚めると、すぐにラジオのスイッチを入れた。前日、チリで大規模な地震があったことをニュースで知った彼は、現地の被害を憂慮するとともに、それに伴う津波を懸念していたのである。深夜にも、何度か目を覚まし、ラジオのスイッチを入れたが、午前三時の段階では、津波警報は出されていなかった。
 しかし、この時は、臨時ニュースとして、岩手の釜石市などで、津波が発生したことを告げていた。
 伸一は、急いで本部に向かった。本部はまだ閑散としていた。職員もほとんど出勤していなかった。
 しばらくすると副理事長の十条潔がやってきた。一旦緩急の際に、どう反応するかに、その人の責任感が表れるといってよい。さすがに午前八時過ぎには、大半の職員が顔をえた。
 伸一は、ワイシャツの腕をまくり、次々と被災地に見舞いと激励の電報を打っていった。
 更に、被災地の各支部に被災状況の調査を依頼する一方、最も被害の大きい地域に、直ちに幹部を派遣することを決めた。
 あわせて、災害対策本部を設け、救援活動を行うように指示し、津波の被害のなかった地域に、救援を呼びかけた。
 迅速にして、的確な手の打ち方であった。
17  先駆(17)
 山本伸一は、同志がどんな状況にあるかと思うと、食事もほとんど喉を通らなかった。
 打つべき手を打つと、彼は、広間の御本尊の前に座り、人々の無事を祈った。
 間もなく被災地から、続々と報告がもたらされた。
 市の中心部まで津波が及んだ宮城県塩釜市からは、興奮した声で、こう伝えてきた。
 「幸いにして学会員は全員無事です。みんな『守られた。功徳だ』と言っています。そして、先生の激励の電報に、同志は元気いっぱい頑張っています。
 また、船が、津波のために陸の上に押し上げられているような状態です」
 岩手県宮古市からは、簡潔にして、力強い報告の電報が寄せられた。
 「功徳顕著。御本尊の流失なし。浸水四、床下浸水七。今夜御授戒、前進の意気高し」
 幸いなことに、どの地域でも、会員の被害は極めて少なかった。
 被災地には、全国の同志から続々と救援物資が届けられた。
 また、現地で指揮をとる幹部たちも、学会員であるなしに関係なく、全力で人々に激励と援助の手を差し伸べた。この学会の迅速な救援は、全被災者にとって、大きな復旧の力となったのである。
 しかし、この時、政府の対応は極めて遅かった。それは、衆議院で自民党が新安保条約を強行単独可決したことから、社会党が国会審議を拒否し、国会が空白状態にあったからである。
 とりあえず内閣に津波災害対策本部を設置することが決まったのは、津波から三十数時間が経過した二十五日の昼であった。
 だが、国会がその機能を果たしていないために、抜本的な対策は何一つなされなかった。
 被災地の人々にしてみれば、迷惑このうえない話である。
 二十七日には、岩手県の副知事らが上京。この津波災害に対して、特別立法による国庫補助の要請も出された。
 津波自体は自然災害であるが、適切な措置を講ずることができず、人々が苦しむのは、人災以外の何ものでもない。
 政治家の第一義は、国民を守ることにある。災害に苦しむ人々の救援こそ、最優先されねばならない。
 伸一は、被災者の苦悩を思うと胸が痛んだ。そして安保をめぐる党利党略に固執し、民衆という原点を見失った政治に、怒りを覚えるのであった。
18  先駆(18)
 津波の被災地に対する、政府の杜撰な対応を目の当たりにして、山本伸一は立正安国の実現の必要性を、痛感せざるを得なかった。
 「立正」とは「正を立てる」すなわち仏法の「生命の尊厳」と「慈悲」という人道の哲理の流布であり、仏法者の宗教的使命といってよい。また、個人に即して言えば、自らの慈悲の生命を開拓し、人道を規範として確立していく人間自身の革命を意味している。
 創造の主体である人間の生命が変革されるならば、その波動は社会に広がり、人間を取り巻くあらゆる環境に及んでいく。そして、政治に限らず、教育、文化、経済も、人類の幸福と平和のためのものとなり、「安国」すなわち「国を安んじる」ことができよう。
 それは、ちょうど、一本の大河の流れが、大地を潤し、沃野と化した大地に、草木が豊かに繁茂していくことに似ている。仏法は大河、人間は大地であり、草木が平和、文化にあたる。
 日蓮仏法の本義は、立正安国にある。大聖人は民衆の苦悩をわが苦とされ、幸福と平和の実現のために、正法の旗を掲げ、広宣流布に立たれた。
 つまり、眼前に展開される現実の不幸をなくすことが、大聖人の目的であられた。それは、「立正」という宗教的使命は、「安国」という人間的・社会的使命の成就をもって完結することを示していた。
 そこに仏法者と、政治を含む、教育、文化、経済など、現実社会の営みとの避け難い接点がある。
 しかし、それは、政治の場に、直接、宗教を持ち込んだり、政治権力に宗教がくみすることでは決してない。宗教は人間を鍛え、磨き高め、人材を育み、輩出する土壌である。
 ゆえに学会は、全国民のために政治を任せるに足る人格高潔な人材を推薦し、政界に送り出すことはしたが、学会として、直接、政策などに関与することはなかった。
 新安保条約をめぐって、学会が推薦した参議院議員が、伸一に政策の決定について相談を持ちかけると、彼は、きっぱりと言った。
 「それは、あなたたちが悩み、考え、国民のために決めるべき問題です。私の思いは、ただ全民衆のため、平和のために、戦って欲しいということだけです」
 伸一の願いは、どこまでも民衆の幸福と平和にあった。そのために、社会の各分野に、どこまでも民衆のために戦う力ある人材を育て、送り出すことに、心を砕いていたのである。
19  先駆(19)
 若き翼は、未来の大空に勇敢に羽ばたいてゆく。そこには、金色の希望の輝きがある。
 六月二十六日、山本伸一は、東京・世田谷区民会館で開かれた第三回学生部総会に臨んだ。
 学生部は、北海道・夕張で、学会員が炭労から締め出されるという、夕張炭労事件のさなかの一九五七年(昭和三十二年)六月三十日に誕生した、戸田城聖が最後に結成した部である。この時、伸一は、不当な炭労の弾圧を粉砕するために、友の窓辺に勇気の灯をともしながら、北海の原野を駆け巡っていた。
 つまり、炭労という、当時の大きな組織権力の横暴から、民衆を、信教の自由を、人々の人権を守らんとする戦いの渦中に誕生したのが、学生部であった。
 それは、次代の社会のリーダーとなって、民衆を守りゆく学生部の使命を物語るものである。
 伸一は、その結成大会に万感の思いを託して、北海道の地から祝電を寄せた。
 その時、集ったメンバーは約五百人であったが、以来、三年の歳月を経て、部員数は二千八百人に達していた。
 この日の総会では、有志が作った学生部の歌が披露された。
 そこには、山本新会長とともに、三百万世帯の達成に向け、世界平和への新出発を遂げんとする、学生たちの躍動の息吹がみなぎっていた。
 大号令はとどろきて
 いま師子王はひとり征く
 生命にめざめし若人が
 雄叫びあげて集いたり
 つづけ二万のわが学友よ
 清きまことをつらぬかん
 歌声は意気天を突く勢いである。
 この二万というのは、戸田の七回忌までの目標として、学生たちが立案した、部員増加の目標であった。
 それは、総会の席上、前年の十一月に学生部長に就任した渡吾郎のあいさつのなかで、活動方針として確認された。
 渡は、そのなかで、三百万世帯の達成を目指す学会にあって、学生部は二万人に拡大を図り、この大法戦の先駆を切りたいと抱負を語った。
 場内は嵐のような拍手に包まれた。
 男子部も立った。女子部も立った。そして、今、知勇兼備の若き学徒が立ち上がろうとしていた。
 広布の山河に、法旗を高く翻し、いよいよ英知の友が躍り出ることを思うと、伸一は頼もしさを覚えた。彼は学生たちの心意気が嬉しかったのである。
20  先駆(20)
 会長山本伸一の講演となった。彼は、参加者に深く一礼してから話し始めた。
 「大変にしばらくでございました。私は、学生部の皆さんにお会いすると、希望がわいてきます。また、私は、皆さんを信頼し、尊敬いたしております」
 社会の大リーダーに語りかけるような、丁重な口調であった。
 彼は、学生たちの一人一人を、一個の完成された人格として遇した。
 教育とは、人格による人格の触発である。若き人格を尊重できぬ人には、既に人間を育む資格はないといってよい。
 「……私の青春時代は、貧しく、そのうえ病弱で、いつ死ぬかわからぬ体であり、十分に勉強することもできませんでした。
 しかし、戸田先生という偉大なる師と巡り会い、訓練を受け、信心を全うし抜いてきたために、今は、これほどの幸福者はいない、という境涯になりました。
 その先生のご恩に報いるためにも、先生の示された広宣流布の構想は、全身全霊を打ち込んで、命をかけて実現してまいる決心でございます。
 ただ、私が倒れた場合、あるいは、私に力なくして、それが実現できない場合があったならば、皆さん方が私以上の力で、私を乗り越えて、恩師戸田先生の構想を果たし、先生の大思想を世界に宣揚し抜いていただきたいと、お願い申し上げるものでございます」
 彼は、永遠不滅の広布の流れをつくるために、体力の限界を超えた戦いを開始していた。
 いつ倒れても決して不思議ではない敢闘であった。それゆえに、未来を青年たちに託しておかねばならなかった。
 伸一の話は、宗教と文化の関係性に及んだ。
 彼は、政治も、経済も、科学も、その根底には偉大なる哲学、偉大なる宗教が必要であることを述べ、色心不二の生命哲理である日蓮大聖人の仏法こそ、真実の人間文化を創造する源泉であると訴えた。そして、偉大なる文化を建設する担い手には、偉大なる信仰、偉大なる情熱がなければならないと語り、青年の生き方に言及していった。
 「今、皆さんが成すべきことは、大情熱をたぎらせ、人の何倍も勉強し、信仰の実践に取り組むことです。鍛えを忘れた青春の果てには、砂上の楼閣の人生しかない。決して、焦ることなく、未来の大成のために、黙々と学びに学び、自らを磨き抜いていっていただきたいのであります」
21  先駆(21)
 総会に集った学生のなかには、あの″安保闘争″に参加した闘士たちも少なくなかった。
 しかし、この三日前に新安保条約が発効し、激しかった反対運動も、潮の引くように終焉を迎えた。そして、″安保闘争″に情熱を傾けた学生たちの心には、挫折感が重くのしかかっていたのである。
 山本伸一は、最愛の学生部員たちに、無用な回り道をさせたくはなかった。
 真実の平和と民主主義の社会の建設は、急進的で、破壊的な革命によって築かれるものではない。
 それは人間一人一人の生命の大地を耕す人間革命を基調とし、どこまでも現実に根差した、広宣流布という漸進的な″希望の革命″によって実現されるのである。
 伸一は、最後に、祈るような思いで語った。
 「皆さん自身が幸福になるとともに、人々を幸福にしていく社会のリーダーになっていただきたいのであります」
 彼は、学生部の未来に限りない期待を寄せていた。彼らこそ、新しき哲学の旗を掲げ、人間主義の文化を建設する使命を持った先駆者にほかならないからだ。
 伸一は、人間という座標軸を定め、そこから、人類の凱歌の未来図を描いていた。その実現に何よりも必要なのは人材であった。
 彼はその思いを、七月二日に創刊された文化部の理論誌『潮』に、「世界に貢献する人材に」と題して、次のように綴っている。
 「いずれの時代、いずれの国、いずこの社会でも、最大、根本の大事は『人材』である。かつて、戸田城聖先生は、仙台の指導におもむいて、青葉城址に立ち『武人は城をもって戦いにのぞんだ。今、学会は、人材の城をもって広宣流布に進むのだ』と。
 『法妙なるが故に人貴し』の御書に照らされ、文化部の同志の人々には、学会内でも、社会にあっても、各自の特性を生かし、偉大なる人材に育っていただきたい。(中略)また国際的にも、重大な、日本民族の岐路に立つ。願わくは、この時代に、全世界に最大の貢献をなしゆく人材の羽ばたく日を、待つものである」
 そこには、広く人材を渇望する、彼の切実な叫びが込められていた。
 なお、文化部は一九五四年(昭和二十九年)に、多角的な文化活動の展開に備えて設けられた部である。
 また、その理論誌の『潮』は、後に出版社として独立し、同誌は、新たなヒューマニズムを創造する総合月刊誌へと発展し、世論をリードしている。
22  先駆(22)
 飛行機の窓の外には、エメラルドの瑚礁の海が広がっていた。
 彼方には、美しき緑の島が見える。
 七月十六日の夕刻、会長山本伸一は、悲しき歴史に挑み立つ、雄渾の人々のいる沖縄の天地に、訪問の第一歩を印そうとしていた。この訪問を、彼は会長就任前から念願としていたのである。
 伸一は、沖縄の悲劇の歴史に心を痛め続けてきた。
 沖縄は、戦時中、本土決戦を引き延ばす″捨て石″とされ、日本で唯一、住民も巻き込んだ凄惨な地上戦が展開された地である。
 ここでの戦闘は、三カ月以上も続き、″鉄の暴風″といわれる激しい砲爆撃にさらされ、地形までも形を変えてしまった。この沖縄戦で、約六十万人といわれた県民のうち、十二万余の人たちが犠牲となったのである。
 更に、戦後はアメリカの軍政下に置かれ、人々の自由は著しく拘束された。
 そして、一九五二年(昭和二十七年)四月二十八日に、サンフランシスコでの対日講和条約の発効によって、日本が独立した後も、沖縄は、アメリカの施政権下に置かれることになった。この条約の第三条で、それが謳われていたのである。
 戦後の東西冷戦構造のなかで、アメリカにとって沖縄は、軍事戦略上、″太平洋の要石″として、必要欠くべからざるものとなっていたのだ。
 いわば、沖縄を差し出すことを条件に、日本は独立を果たしたともいえよう。沖縄の人々にとっては、戦時中と戦後の二度にわたって、日本のために犠牲を強いられたことになる。
 沖縄でのアメリカの施策は、すべてに基地が優先された。基地建設のための土地の強制収用をはじめ、人々の権利は、深く侵害されていった。
 また、伸一が沖縄を訪問した、この年の三月には、沖縄に八カ所のミサイル・ホーク基地を新設することが発表された。
 そして、五月になると、ミサイル・メースB基地を建設することが、米下院で承認されている。
 その後、更に基地建設は急速に進み、施政権が返還される前年の一九七一年(昭和四十六年)には、沖縄本島の総面積のうち基地の占める割合は二六・五%に達し、嘉手納村(現在は嘉手納町)では八割以上を占めるに至った。「基地のなかに沖縄がある」と言われるゆえんである。
 伸一は、この″うるま島″の宿命を転じ、永遠の楽土を建設するために、支部を結成することを、深く、強く決意していた。
23  先駆(23)
 山本伸一は、沖縄を眼前にして、深い感動のため息をついた。
 それは、奇しくも、この日が、日蓮大聖人が「立正安国論」をもって、国主諫暁された一二六〇年(文応元年)七月十六日から、ちょうど七百年にあたっていたからである。
 打ち続く、大火、大風、大地震、大旱魃、疫病の惨状を目にして、大聖人は、民衆の救済のために、時の最高権力者・北条時頼に、正法である法華経に帰依するよう諫めた。
 当時、念仏の教えが人々の間に広く流布していた。その教えは、この世の中は穢土であり、ただ南無阿弥陀仏と唱えれば、死して後に、西方十万億の仏国土の彼方にある極楽浄土に行くことができる──というものであった。
 宗教は、人間の生き方の根本の規範である。この世を「穢土」とする念仏の思想からは、現世の希望が生まれることはないのみか、世をはかなみ、無気力にならざるを得ない。
 そして、死して後に「彼方」の「極楽浄土」に行けるとする教えは、現実から目を背け、逃避とあきらめのなかで、死を渇仰させることにもなろう。
 そこからは、人間完成へと向かう生き生きとした意欲も、社会建設の力も生まれはしない。
 大聖人は「立正安国論」をもって、社会的に最も大きな影響を持つ為政者を諫め、その生き方を改めさせようとされた。そして、念仏を不幸の「一凶」と断じて、正法への帰依を説いたのである。
 宗教は、人間の意識を変え、精神を変え、生命を変える。宗教のいかんで、人は強くもなれば、弱くもなる。愚かにもなれば、賢明にもなる。建設にも向かえば、破壊にも向かう。
 創造の主体である、その人間の一念が変化すれば、環境、社会も大きな転換を遂げていく。それが立正安国の原理である。
 また、この七月十六日という日は、一九四五年(昭和二十年)、アメリカがニューメキシコ州の砂漠で、人類初の原爆実験に成功した日でもあった。
 この実験の成功の知らせは、直ちにトルーマン米大統領に報告された。そして、翌十七日、ポツダム会談に出席した、チャーチル英首相にも伝えられた。「赤ん坊たちが生まれた。つつがなく」との表現で。
 それは、まさに人間の生命の魔性が生み落とした、忌まわしい子供にほかならない。
 その核ミサイルが、今、沖縄に次々と配備されようとしていたのである。
24  先駆(24)
 山本伸一は思った。
 ──戦争に苦しみ、不幸の歴史を刻んできた、この沖縄の人々が、真正の仏法によって救われることは、日本国中の民衆が幸福になっていく証明となろう。
 彼は、この沖縄の地に、平和の楽土の建設を誓いながら、那覇国際空港に降り立った。
 伸一が、七月半ばに沖縄を訪れたのは、酷暑の太陽の下で生きる友の苦労は、暑い盛りに行かなければわからないとの思いがあったからである。
 最高幹部のなかには、伸一の健康を気遣い、もっと涼しい季節に沖縄を訪問してはどうかと進言する人もいた。だが、彼は計画を変えようとはしなかった。
 この日は、さわやかな涼風が一行を迎えてくれた。
 那覇では、六月二十日以来、ほとんど雨が降らなかった。しかし、伸一たちの到着前に、スコールがあったのである。この恵みの雨によって、芝生の緑は蘇り、吹き渡る風も涼しさを増していた。
 空港のターミナルには、二百人ほどの同志が詰めかけていた。伸一がタラップに立つと歓声が上がった。
 一行は空港でパスポートを出し、入国の審査を受けた。沖縄がアメリカの施政権下にあることを実感させた。伸一の初の海外訪問は厳密にいえば、この沖縄であったといえる。
 伸一がロビーに姿を現すと、沖縄地区部長の高見福安が待っていた。
 「先生! ……」
 高見は満面に喜びをたたえて叫んだ。
 彼の顔を見ると、伸一は笑顔で語りかけた。
 「とうとう来たよ」
 その言葉に、高見の目頭が潤んだ。
 彼はこの日の来るのを、一日千秋の思いで待ち侘びていたのである。
 高見は、沖縄の一粒種であった。彼は、戦時中、中国大陸で日本軍の関係者として特務機関の仕事をしていたが、戦後、日本に引き揚げると、東京の立川で、進駐軍相手に、土産物店を始めた。ところが、やがて米軍の数が減り、仕事は不振に陥った。
 彼は、米軍の多い沖縄で商売を始めることを思い立った。そして、沖縄を本拠地にして、将来は、東南アジアにも事業を広げたいと考え始めた。
 そのころ知人から学会の話を聞かされた。最初は信心に抵抗を感じていたが、紹介者の熱心さに負けて、「半年、信心に励んで功徳がなかったらやめる」という″契約″で、半信半疑で信心を始めたのである。
25  先駆(25)
 高見福安の初信の功徳はすぐに現れた。
 沖縄に移転するために売ろうとして売れなかった家が、予想外の高値で売れたのである。
 沖縄では、幸いにも那覇市の繁華街に、好条件の店舗が見つかった。一九五四年(昭和二十九年)のことである。
 功徳を実感した高見は、東京の幹部に手紙で指導を受けながら、素直に信心に励んだ。
 また、沖縄の″苦悩″を知るにつけ、彼の広布への使命感は深まっていった。沖縄の宿命の転換を願い、彼は、先駆けとなって弘教の旗を掲げた。
 高見が驚いたのは、「ユタ」と呼ばれる巫女や「三世相」といわれる占い師の託宣で物事を決めるという習慣が、根強く定着していたことであった。
 ──これではいかん。民衆が賢明になることだ。
 彼は『折伏教典』をむさぼり読み、宗教には正邪や高低浅深があることを、知り合った人たちに語っていった。やがて入信を希望する人が出てきたが、大きな関門が待ち受けていた。
 先祖を神と崇める祖先信仰が根深いうえに、本土への不信感が強く、学会も本土から来た宗教ということで、受け入れようとしないのである。
 「ヤマトンチュウ(日本本土の人)の神様など拝めるものか」
 高見は、何度もこんな言葉を聞かされた。
 しかし、彼は、粘り強く対話を続け、同志は次第に増えていった。また、各支部も沖縄に弘教の手を伸ばし、四年が過ぎた時には、同志は千世帯を突破していた。そして、前年、蒲田支部・沖縄地区が結成され、高見は地区部長になった。このころから、沖縄では、毎月、数百世帯の人が入会するまでになっていた。
 五月三日に山本伸一が会長に就任すると、高見は会長の沖縄訪問を真剣に祈り始めた。彼は沖縄中を駆け巡り、決起を呼び掛けた。
 「山本先生は広宣流布の指導者だ。だから、弘教の波を起こして迎えよう」
 そして、上半期の弘教で、沖縄地区は、全国トップの成果を出すに至ったのである。
 高見にとって伸一が沖縄の地を踏んだ喜びは、筆舌に尽くせぬものがあった。
 「先生、ようこそ……」と言ったきり声が詰まり、後は、もう言葉にはならなかった。
 「働くよ。三日間で三年分は働くからね」
 伸一は、こう言って高見の肩をポンと叩いた。
26  先駆(26)
 山本伸一をはじめとする一行七人は、空港から車で宿舎に向かった。
 そこは、学会員が経営する小さな旅館であった。
 伸一は、旅館に着くと、高見福安らの地元幹部と懇談し、沖縄の様子を詳細に尋ねていった。
 高見は、基地建設にともなう土地の強制収用など、人々がいかに忍従を強いられてきたか、そして、祖国への復帰が沖縄の人々の痛切な願いであることを語っていった。
 伸一は、そのなかで、今や同志は七千世帯に至り、無数の功徳の体験が生まれていることを聞くと、心から友の健闘を称えた。
 「尊いことだ。皆、よく頑張ってくれた。これだけの仏子が誕生すれば、沖縄は変わるよ。十年後、二十年後が楽しみだね」
 平和の戦士たちの顔は、生き生きと輝いていた。
 夜は四会場に分かれて、同行の幹部が担当して指導会が、更にその後、班長・班担当員以上の幹部が集って幹部会が行われることになっていた。
 地元のメンバーが帰っていくと、伸一は、同行の幹部と急いで夕食をとった。
 同行幹部は、理事長の原山幸一、副理事長の十条潔、指導部長の関久男、青年部長の秋月英介、婦人部の本部常任委員の田岡治子、女子部長の谷時枝であった。
 食事をしながら、十条が伸一に尋ねた。
 「沖縄の同志は、本当にはつらつとしているし、功徳と歓喜にあふれている。また、大変な発展をしています。海外ということで、本部の指導の手もあまり入らなかったのに、どうしてなんでしょうか」
 「沖縄のメンバーは、沖縄を幸福にするのは、自分たちしかいないと自覚して頑張ってきた。人に言われてやっているのではなく、それぞれが広宣流布の主体者の使命と責任を感じている。だから、歓喜がわき、功徳も受け、発展もするんだよ」
 「なるほど。主体者の自覚の如何ですね」
 相を打ちながら、十条が語り始めた。
 「実は、海軍兵学校の時に、よくカッターの帆走をやりましたが、どうしても舟に酔うものが出ます。ところが、カジをとらせると酔わないのです。
 自分がやるしかないという責任感と緊張感によるものと思えます。結局、舟に酔うのは、自ら舟を操ろうというのではなく、舟に乗せられているという、受け身の感覚でいるからだということを学びました」
27  先駆(27)
 山本伸一は十条の話を聞くと、面白そうに頷いた。
 「そうかもしれない。広布の活動を推進するうえでも、自らが責任をもってカジをとろうとするのか、それとも、ただ舟に乗せられている乗客になろうとするのかによって、自覚も行動も全く違ってくる。
 乗客のつもりでいれば、何かあるたびに舟が悪い、カジ取りが悪いということになって、グチと文句ばかりが出る。それでは、自分を磨くことはできない。
 私は戸田先生の会社に勤めた時から、先生の会社も、学会のことも、すべて自分が責任をもつのだと決意した。当時は、職場でも一介の社員に過ぎなかったし、学会でも役職はなかった。しかし、立場の問題ではない。自覚の問題です。
 そう決意した私には、給料が遅配になっても不平など微塵もなかった。また、自分の部署を完璧なものにするだけでなく、常に全体のことを考えてきた。それが現在の私の、大きな力になっていると思う」
 それから伸一は、青年部長の秋月英介を見て、話を続けた。
 「戸田先生が、こんな話をされたことがある。
 ──ある工場が倒産し、機械が差し押さえられ、競売に出された。そして、落札者が機械を運び出すことになった時、その工場で働いていた一人の職人が必死になって叫んだ。
 『この機械は、俺が何年も可愛がってきた機械なんだ。この機械を持っていくんなら、俺も一緒に連れていってくれ』
 戸田先生は、この話をされて、こう言われた。
 『見上げたものじゃないか。職人魂がある。月給いくらで雇われているというような根性ではなく、機械と心中しようというのだ。機械に対する彼の愛情は、仕事に対する情熱の表れにほかならないだろう』
 先生は″雇われ根性″を最も醜いものとされた。特に青年で、そういう根性のあるものは、将来は見込みがないと断定された。これは、広宣流布という″仕事″にも通じることだよ。
 何ごとも″雇われ根性″では、習得などできない。青年は、万事、自分が主人のつもりで、何事にもぶつかっていくことだ。
 『習得する』ことを『マスター』と言うが、英語の『マスター』には『主人』の意味があるじゃないか」
 伸一は、愉快そうに笑った。彼は、学会の後継者となる青年部に、まず広宣流布の「主体者」「主人公」の自覚を植えつけておきたかったのである。
28  先駆(28)
 創価学会の会長としての山本伸一の責務は、人々を学会丸という大船に乗せ、幸福と平和の広宣流布の大陸まで、無事に運ぶことにあった。
 それには彼とともに、濃霧の日も、波浪すさぶ嵐の夜も、友を幸の港に運ぶために船を守る、さまざまな乗組員が必要である。
 いな、船長ともいうべき自分が、いつ倒れても不思議ではないだけに、彼と同じ決意、同じ自覚に立ち、大船を担える人材を、彼は必死になって育成しようとしていたのである。
 しかし、そんな彼の胸中を、正しく理解する幹部はいなかった。
 彼らには、伸一の考える壮大な広布の構想が理解できずにいたし、三十二歳という彼の年齢から、まだ先のことは何も心配はいらないという、安易な安心感があった。
 ましてや、戦いに臨む烈々たる伸一の気迫に触れると、すべて伸一に任せてさえおけば、大丈夫だとの思いを強くするのであった。
 夕食を終えた一行は、それぞれ各部別の指導会に出席し、その後、那覇市内の正宗寺院・光明寺での幹部会に臨んだ。
 光明寺は、この年の三月に、落慶入仏式を迎えた寺であった。増大する入信者への御本尊下付のために、寺院の建立を熱願する同志の要請に応え、創価学会が建立寄進したのである。
 寺院の建設用地は、高見福安をはじめとする地元の同志が、足を棒にして歩いて見つけ出した。更に、沖縄がアメリカの施政権下にあるため、日本から資材を搬入するにも許可が必要であり、何度となく役所に通わなければならなかった。
 そうした同志の献身的な努力によって、海外初の寺院が、沖縄に誕生したのである。
 この幹部会の席上、伸一は沖縄支部の結成を皆に提案した。
 「実は、もし、皆さんが宜しければ、明日の大会で沖縄支部を結成したいと思っています。現在、沖縄の皆さんは、蒲田支部の沖縄地区をはじめ、四十余りの支部に所属していますが、一本化して沖縄支部にしようと考えております。
 太陽が東から昇り、西を照らしていくように、この沖縄に始まり、やがて、台湾、香港、インドなど東洋の各地に、支部が誕生していくことでしょう。
 その先駆けの使命を、沖縄の皆さんに担っていただきたいのですが、いかがでしょうか」
 場内に、賛同の大拍手が沸き起こった。
29  先駆(29)
 拍手をする誰もが、沖縄支部の結成の喜びに心を躍らせた。
 山本伸一は、更に、言葉を継いだ。
 「支部長については、これまで、沖縄地区部長として活躍してこられた高見福安さんにお願いしたいと思います。
 沖縄は、高見さん一人から始まった。道を開いた人がいるから道がある。その功績を考えると、高見さんこそ適任であると思いますがいかがでしょうか」
 またしても、大きな拍手が渦巻いた。
 「後の人事は、今夜、これから検討いたしますが、私どもを信頼して、任せていただきたい。
 また、高見支部長を、みんなでしっかりと守っていただきたい。中心者を守れば、やがて、自分が守られます。それが仏法の因果の理法です。
 陰で幹部になった人の悪口を言ったり、怨嫉をしたりすれば、仏勅の団体を内から壊すことになります。最後は、自分が不幸になります。
 そして、幹部になった人は、私に代わって、温かく皆を包み込むように、面倒をみてあげてください。
 そうして麗しく、美しい人の輪をつくりあげていくことが、そのまま広布の姿を示すことになります。今後、沖縄支部が発展するかどうかの鍵は、団結にあります」
 山本会長の話を聞きながら、高見は目を潤ませた。彼が沖縄に渡ってから、わずか六年で、この慟哭の島に、支部旗が翻るまでになったのだ。
 ──沖縄中の人々を幸せにしてみせるぞ!
 高見は唇をみ締めた。
 彼は、戦時中、大陸で、何度も死ぬような目にあってきた。運転していた自動車が地雷に触れて、車ごと泥水の川に吹き飛ばされたこともあった。ようやく水面に顔を出すと、今度はピストルを乱射された。しかし、幸運にも、九死に一生を得たのである。
 戦争の悲惨さは、いやというほど、自らの体で感じてきた。そして、やって来た基地の島・沖縄では、東西の冷戦という戦争がまだ続いていることを思い知らされた。
 高見は、自分の生涯は、この沖縄の広宣流布のためにあるのだと、今、心の底から感じることができた。
 一行は、その後、宿舎で高見らを交え、地区・班の体制づくりと人事の検討に入った。
 検討の最大の焦点となったのは、支部婦人部長の人事であった。
30  先駆(30)
 沖縄支部の人事の大綱については、既に学会本部で検討されていた。その結果、支部の婦人部長には、上間球子が推薦された。
 彼女は、一九五二年(昭和二十七年)に、東京で夫とともに入信した。夫は、有名な大学を出ていたが、事業に失敗し、そのうえ結核を患っていた。
 信心して四年後、彼女は夫の故郷である沖縄にやって来た。そして、地道に活動にも励み、功徳の体験もつかんできた。夫も真面目な人柄であったが、仕事などの関係で、活動にはあまり参加できなかった。
 もし、彼女が支部婦人部長になれば、沖縄中を駆け巡らねばならず、多忙を極めることになる。夫の理解と協力がなくてはできるものではない。したがって、夫の了解を得たうえで、支部婦人部長にと、山本伸一は考えたのである。
 伸一は、その夜、上間夫妻を宿舎に招いた。夫の俊夫は、暑いさなかにもかかわらず、威儀を正して、きちんとネクタイを締めてやって来た。彫りの深い顔立ちの紳士であった。
 あいさつを済ますと、伸一は単刀直入に尋ねた。
 「私たちは、宿命の島・沖縄を、妙法の力で、二度と戦争の犠牲になることのない平和の島にする決心でおります。この理想を実現するために、奥様を、沖縄の婦人部の中心者にと考えています。ご家庭の事情もおありかと思いますが、いかがでしょうか」
 伸一が話し終わると、上間俊夫は、即座に答えた。
 「けっこうです。了解いたしました。
 愛する妻が沖縄の人々のために働くのですから、私は妻を応援します。どんなことをしても守っていきます。ご安心ください」
 俊夫は、弟を沖縄戦で亡くしていた。それだけに故郷の平和への思いは、人一倍強かったにちがいない。彼は、隣にいた妻に視線を向けると、そっと手を差し出した。
 「球子、頑張るんだよ」
 妻は頷きながら、その手を握り、固い握手が交わされた。球子の目に、大粒の涙があふれた。それは、一幅の名画を思わせた。
 友のリーダーとなって広布を推進するには、大きな辛労がともなう。しかし、その人を陰で支える家族の努力も、計り知れないものがある。
 伸一は、その陰の人に常に目を向けることを忘れなかった。それは、彼の広布への強い責任感から生まれる配慮といえよう。
 この日、支部結成に関する一行の協議が終わるころには、空が白々と明け始めていた。
31  先駆(31)
 翌七月十七日──。
 沖縄支部の結成大会の会場となる那覇商業高校前には、朝から長い人の列ができていた。
 この日を待ち侘びてきた友が、沖縄全土から続々と集まって来たのである。沖縄本島の北の国頭、名護からも、また、宮古や八重山の島々からも、友は喜々としてやって来た。
 開会一時間前の午前十時には、その列は、琉球政府(現在の沖縄県庁)前にまで至った。
 この琉球政府前は、ひと月前の六月十九日、アメリカのアイゼンハワー大統領が訪れた際、沖縄祖国復帰要求デモの波に埋まったのである。
 当初、同大統領は、この十九日に日本を訪れる予定でいたが、新安保条約の批准をめぐって国内が騒然としていたため、日本政府は延期を要請。訪日を中止した大統領は、台湾から韓国に向かう途中、沖縄に立ち寄ったのであった。しかし、それは、わずか二時間余りの滞在であった。
 沖縄の祖国日本への復帰を願う気持ちは、支部結成大会に集った人たちも同じであった。
 しかし、単にアメリカの統治下からの解放のみを目指すのではなく、その奥にある、不幸に泣いてきた沖縄という国土の宿命からの解放に、彼らは立ち上がろうとしていたのである。
 まさに、一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にすることを、立証しようとしていたといってよい。
 山本伸一は、会場に向かう車中、ちょうど三年前のこの日が、大阪事件で無実の罪で逮捕された彼の、出獄の日であることを思い起こしていた。
 彼は、あの日、十五日間にわたる勾留の末に大阪拘置所を出所した。彼にとってこの投獄は、民衆を守り抜くために、権力の魔性との生涯の戦いを誓った、原点となったのである。
 思えば、創価の歴史は、権力の魔性との壮絶な闘争の歩みであった。初代会長牧口常三郎も、その跡を継いで後に第二代会長となった戸田城聖も、ともに軍部政府の弾圧によって牢獄にがれ、高齢の牧口は獄中で去した。
 その権力の魔性が引き起こした戦争の、最大の犠牲となったのが、この沖縄である。
 伸一は今、沖縄の同胞のために、永遠の幸福と平和の道を切り開く決意を深く心に秘めつつ、会場の門を潜った。
32  先駆(32)
 会場の那覇商業高校体育館は人であふれ、校庭も立錐の余地もないほど、大勢の人で埋まっていた。
 この日の参加者は、学会員だけでなく、未入信の家族をはじめ、友人も数多く出席していた。
 山本会長の話を、ぜひ聞かせたいと、同志は、友人や知人にも出席を呼び掛けてきたのであった。
 伸一は、車を降りると、開襟シャツ姿で扇を手に、人込みのなかを進んだ。
 途中、父親らしい壮年に手を引かれた四、五歳くらいの子供を見つけると、ツカツカと近づいていった。
 「坊や、よく来たね。お父さんと来たの。しっかり勉強して、立派な人になるんだよ」
 彼は、笑みを浮かべてこう言うと、子供の頭をなでた。子供は、ニッコリと頷いたが、傍らの壮年は怪訝な顔で、押し黙って、伸一をじっと見ていた。
 一部の幹部を除いては、これまで、伸一を目にする機会がなかっただけに、開襟シャツを着て、気さくに声をかけて歩いている青年が、山本会長とは、ほとんどの人が気づかなかったのである。
 午前十一時、沖縄支部結成大会は開会された。
 開会の辞、体験発表に続いて、指導部長の関久男が沖縄支部の結成を発表すると、拍手と歓声がしばし鳴り止まなかった。
 更に人事が紹介され、高見福安支部長、上間球子支部婦人部長をはじめ、十三の地区の地区部長、地区担当員が任命になった。
 新任幹部の代表抱負に移った。
 支部長の高見福安は、感無量の面持ちで、こう決意を締め括った。
 「……私たちは、全国の皆さんに先駆けて、この沖縄に広宣流布の、また、平和のモデル・ケースをつくってまいります。先生、見ていてください!」
 それは、この日集った同志全員の魂の叫びであったにちがいない。
 やがて、会長山本伸一の登壇となった。
 「沖縄の同志の皆さん、日夜の闘争、まことにご苦労様でございます……」
 伸一の声が響いた。若々しく、力強い声であった。
 彼はまず、初代会長牧口常三郎、第二代会長戸田城聖が、果敢に軍部政府と戦い抜いた、創価学会の歴史を語っていった。
 そして、学会の目指す広宣流布とは、決して一宗一派の繁栄のためではなく、この世から悲惨の二字をなくし、世界の平和を実現するものであることを、強く訴えた。
33  先駆(33)
 南国・沖縄の空に真っ赤に輝く太陽にも増して、同志の胸には、喜びの太陽が燃え盛っていた。
 メンバーは、今、若き山本会長を迎えた歓喜のなかで、我らの祖国沖縄の平和を建設するために、この信心の素晴らしさを、一人でも多くの友に伝えたいとの思いをいだいていた。
 しかし、惜しむらくは、メンバーの大半は、その仏法の正しさを客観的に論証する術を知らなかった。
 伸一は語っていった。
 「それでは、なぜ人々が幸せになるには、日蓮大聖人の仏法でなければならないか。私どもは、自分たちが信心しているから、大聖人の仏法が正しく最高であると主張しているわけではありません。そうであるならば、独善にすぎないことになります……」
 ここで、彼は、「文証」「理証」「現証」について述べ、この宗教批判の尺度に照らして、日蓮仏法が真実の民衆救済の大法であることを、理路整然と論じたのである。
 そして、呼びかけた。
 「この三つのなかで、一番大切なのは現証です。現実の生活のうえに、功徳の実証を示し、皆さんが幸福になることが、最大の証明です。あり余るほどの功徳を受け、今世の人生を楽しく、有意義に暮らしていただきたいのであります」
 この指導は、沖縄の同志に強い確信を与えるとともに、教学の大切さを痛感させた。
 沖縄支部結成大会は、午後一時、歓喜のなかに幕を閉じた。各地に散っていく友の足取りは弾んでいた。
 この後、代表が参加し、近くのビルのホールで祝賀の集いが行われた。伸一は、苦労を重ねてきた同志を、心から労いたかった。
 メンバーは、支部結成の喜びを託して、琉球舞踊や空手を披露していった。彼は一つ一つの演技が終わるたびに、称賛と励ましの言葉をかけた。それを見ている人たちも、いかにも踊りたい様子である。
 「ほかの皆さんも、自由に踊ってください」
 伸一が言うと、待ってましたとばかりに、飛び入りで民謡や歌などを披露する人が相次いだ。皆、嬉しくて仕方ないのである。
 賑やかに舞い踊る友を目にすると、伸一も嬉しくてならなかった。
 「みんなも一緒に踊るんだよ」
 彼は、同行の幹部に言った。しかし、気恥ずかしさが先に立つのか、誰も自ら進んで、前に出て踊ろうとはしなかった。幹部には、同志のためなら、どんなことでもしようという姿勢がなくてはならない。
34  先駆(34)
 幹部として、今、大事なことは、ともに沖縄の新出発を祝うことであった。しかし、その配慮が欠けていることが、山本伸一は残念でならなかった。
 「さあ、原山さんも、十条さんも、みんな踊って」
 伸一は、再び同行の幹部に促した。すると、十条潔が意を決したように、立ち上がった。
 「では、私は『田原坂』を踊らせていただきます」
 皆が『田原坂』を歌い始めた。
  雨は降る降る
  人馬はぬれる……
 十条は懸命に踊り始めたが、しゃちこ張った不自然な動作になってしまった。
 「だめだなあ、ロボットの踊りみたいで。もっと、にこやかに。せっかくのお祝いなんだから」
 伸一が言うと、爆笑が広がった。
 「はい。もう一度、初めからやります」
 今度は、十条は、笑みを浮かべて踊り出したが、ますます体はぎごちなくなっていった。
 「それじゃあ、お地蔵さんみたいじゃないか」
 その言葉に、皆、腹をかかえて笑い出した。
 十条は、また、初めから踊り始めたが、途中から手と足の動きが合わなくなってしまった。それが更に笑いを誘った。
 「しようがないな。それでは私が舞いましょう」
 伸一は、扇を手に『黒田節』を舞い始めた。
  酒は飲め飲め
  飲むならば……
 それは、悠々として力強く、流麗な舞であった。皆、息を飲んで、彼の舞に見入った。
 踊り終わると、盛んな拍手が起こった。
 「先生、もっと踊ってください」
 会場から声がした。
 「踊りましょう。皆さんが喜んでくれるなら」
 彼は、また舞い始めた。
 その姿に目頭を潤ませる人もいた。同志を思う伸一の真心が、熱く友の胸に染み渡っていったのである。
 この夜、宿舎の旅館に戻った一行は、伸一の提案で、支部結成を祝って寄せ書きをした。伸一は「沖縄の同志よ団結せよ」と記した。
 平和の楽土・沖縄の建設は、そこにいる人たちの手で行うしかない。これまで所属していた支部は異なっていても、使命は一つである。心を一つにして、団結することから、新しき建設は始まるのである。
35  先駆(35)
 その日の夜は、四カ所に分かれて、御書の講義が行われた。
 そして、翌十八日は東京に帰る日であった。一行は午前中、バスを借りて、地元の同志の代表とともに南部戦跡を視察した。
 ──一九四五年(昭和二十年)三月二十三日、フィリピン、硫黄島を攻略したアメリカ軍は、沖縄諸島への総攻撃を開始した。
 沖縄には、南西諸島の防衛のために第三二軍が守備隊として配置されたが、既にその任務は、沖縄を守ることではなかった。戦いを持久戦に持ち込み、本土決戦のための時間をかせぐことにあった。
 つまり、犠牲をものともせずに戦い、米軍の戦力を消耗させ、本土の捨て石となって玉砕することを余儀なくされていたのである。そのため、沖縄県民もまた多大な犠牲を強いられることになる。
 三月二十六日、遂に米軍は、那覇沖合の慶良間諸島に上陸した。
 守備隊は、米軍が上陸すると、住民の乏しい食糧を供出させた。しかも、彼らは、ガマと呼ばれる自然壕に身を潜めたが、住民が一緒に逃げ込むことを認めなかった。
 身を隠す場所さえなく、米軍に包囲され、追い詰められた住民に残された最後の道は″集団自決″しかなかった。
 手榴弾を使って爆死する人もいた。クワ、カマ、ナイフ等で互いの首や手首を切る家族もいた。凄惨な光景であった。
 守備隊は、軍人ばかりでなく、住民にも皇民として″自決″を強いてきたのである。また「鬼畜米英」と教えられてきただけに、米軍に投降することなど思いもよらなかった。
 米軍が沖縄本島に上陸したのは四月一日であった。米軍は、約千五百隻の艦船と、延べにして五十四万八千人の兵員をこの沖縄に投入した。それに対して日本側はわずか約四分の一の陣容でしかなかった。
 米軍は、一週間で沖縄本島の西北部をほぼ制圧し、宜野湾、浦添、首里へと進撃を開始した。首里城の地下には、第三二軍の司令部があり、ここで激しい壮絶な攻防戦が展開された。
 約二カ月にわたる戦いで、守備隊は六万人を超す死者を出し、五月末、首里は米軍の手に落ちた。
 一方、米軍の死者は約五千三百人であった。
 しかし、それでも、まだ沖縄戦は終結しなかった。玉砕のための、血で血を洗う凄惨な戦いが、続けられたのである。
36  先駆(36)
 生き残った守備隊の兵士は、南部の喜屋武半島に撤退し、持久戦に入った。
 これに対して、米軍は、空と海と陸からの総攻撃を続けた。″鉄の暴風″と呼ばれた砲爆撃によって、丘は削られ、大地は波のようにうねっていった。
 また、守備隊が潜んでいそうな所を、火炎放射器で焼き尽くしたり、人々が逃げ込んだ自然壕の出入り口を占領し、ガス弾などを投入する、″馬乗り攻撃″と言われる戦法がとられたのである。
 六月十一日、米軍司令官バックナー中将は攻撃を中止し、日本側に降伏を呼びかけたが、第三二軍の牛島満司令官は、それを拒否した。
 そして、十八日、戦況視察中のバックナー中将が戦死すると、米軍の攻撃は更に激しさを増した。
 ここに至って、牛島司令官らの司令部首脳が自決し、沖縄での組織的な戦闘は終結することになる。
 しかし、その後も掃討戦などが続き、いっさいの戦いが終わるのは、なんと、終戦の八月十五日から二十余日が過ぎた、九月七日のことであった。
 沖縄戦がとりわけ悲惨な戦いとなったのは、持久戦に持ち込み、時間をかせぐために、住民を巻き込んだ戦闘が行われたことにあった。
 そのために、沖縄守備隊は、住民を根こそぎ召集していった。
 一九四五年(昭和二十年)に入ると、満十七歳から四十五歳の健全な男子は、ほとんど召集された。三月には「国民勤労動員令」が公布され、満十五歳から四十五歳の男女が動員されるに至った。
 更に、中等学校等の生徒で学徒隊も編成され、男子生徒は「鉄血勤皇隊」として、女子生徒は「ひめゆり学徒隊」など看護要員として戦場へ送られた。これは、それまでの陣地構築などの勤労動員と異なり、戦火のなかへの投入であった。
 こうして、沖縄県民の戦没者は、軍人軍属二万八千余人、一般住民約九万四千人(推定)という、膨大な犠牲を払うことになったのである。
 この犠牲者のなかには、守備隊にスパイとして、殺された住民も少なくなかった。沖縄の方言や外国語を話したというだけで、スパイとされた人もいれば、守備隊が食糧を略奪するために、スパイの汚名を着せて処刑するケースもあった。
 また、食糧がなくなり、飢餓のために死んだり、山に逃げ込んでマラリアに罹り、命を失う人も続出したのである。
37  先駆(37)
 山本伸一は、「ひめゆりの塔」の前に立った。
 そこは、県立第一高等女学校と師範学校女子部の生徒・職員を合掌する慰霊塔であった。
 塔の前には、壕がポッカリと口を開けていた。
 伸一の傍らで、沖縄戦で生き残った関係者が、当時の模様を説明してくれた。
 ──両校の生徒は、米軍の攻撃が始まると、動員され、負傷者の看護にあたった。置かれた死体からは腐臭が漂い、負傷者の傷口にはウジがわいた。薬も包帯もなく、「水をくれ」とうめく破傷風患者にも、水に浸したガーゼで、口を潤すことしかできなかった。
 やがて、首里城の攻防が始まると、彼女たちは、南部の喜屋武半島に撤退し、激しい攻撃のなかで、自然壕で看護を続けた。
 六月十八日、米軍が包囲するなか、学徒隊の解散命令が出された。
 それは、勝つと信じ込まされて戦ってきた乙女たちにとって、寝耳に水のような命令だった。皆、茫然自失していた。
 壕を脱出しても、敵の砲撃のなかに身を投じるしかなかったのである。
 彼女たちのある一団は、戦場をさまよい、荒崎海岸にたどりついたが、そこで目にしたものは、海に浮かぶ無数の敵艦だった。
 岩穴にじっと身を潜めていると、近くで、米兵の発砲が始まった。一緒に逃げていた教師は手榴弾を取り出すと、そこにいた九人の生徒を道連れに自決したのである。爆発音とともに瑚礁は鮮血に染まった。
 また、別の壕にいた乙女たちは、壕から脱出しようとした時、投降を勧める米軍の声を聞いた。しかし、誰も壕からは出なかった。
 ほどなく黄燐弾が投げ込まれ、続いてガス弾が炸裂した。
 一瞬にして、そこにいた四十六人の乙女らの命が奪われ、生き残ったのはわずか五人に過ぎなかった。
 伸一の足下に口を開け、ゴツゴツとした岩肌を覗かせているのが、その壕であった。
 彼は、関係者の説明を聞き終わると、つぶやくように言った。
 「残酷だな……、あまりにも残酷だ」
 そして、合掌すると、題目を三唱した。それは平和への深い一念を込めた祈りであった。
 一行は、更に摩文仁丘に向かった。
 バスを降りて、岩山に沿って下って行くと、青年というにはまだ若すぎる三人の像が目についた。「健児之塔」であった。
38  先駆(38)
 「健児之塔」は、「鉄血勤皇隊」として部隊に配属された十五歳から十九歳の学徒隊の慰霊塔である。
 彼らは、伝令や、食糧調達の任務を負わされ、砲爆撃のなかを奔走した。従軍した男子生徒のうち、約半数が戦死している。
 しかも、これらの学徒隊は、法的な根拠もないままに、組織されていったのである。
 山本伸一は、人々が身を隠したという洞窟や、いくつかの慰霊碑を見た後、摩文仁丘に立った。
 切り立った断崖の向こうには、青く澄んだ瑚礁の海が広がっていた。
 太陽の光を浴びて、岸の緑は鮮やかに映え、海の彼方は、銀色に輝いていた。
 この美しい島で、わずか十五年前に、凄惨な地獄絵が展開されていたかと思うと、無残さは、なおさらつのった。
 「戦争は悲惨だな……」
 伸一は、誰に語るともなく、しみじみとした口調で言った。
 彼は、生前、恩師戸田城聖が、「もう、二度と戦争を起こしてはならん。そう誓って、私は敗戦の焼け野原に一人立ったのだ」と、しばしば語っていたことを思い起こしていた。
 まさに、戸田の生涯は、その戦争を遂行しようとする権力の魔性との、壮絶な闘争であった。
 信教の自由を貫き、正法正義を守り抜いたがゆえの二年間にわたる獄中生活。過酷な軍部政府の弾圧は、彼の体を衰弱の極みにいたらしめたのみならず、敬愛してやまぬ恩師牧口常三郎の命をも奪った。
 そして、出獄した彼は、焼け野原に立って、「大悪をこれば大善きたる」と、御聖訓に照らして広宣流布の時の到来を自覚したのである。
 彼の起こした戦いは、人間の生命の魔性の爪をもぎとり、一人一人の胸中に平和の砦を打ち立てる戦いであった。
 その波は、一波が万波を生むように、戸田の晩年には、彼の念願であった七十五万世帯の民衆の平和のうねりとなって、日本全国、津々浦々にまで広がったのである。
 その戸田の遺訓が、逝去の前年の九月八日、横浜・三ツ沢の競技場で発表された「原水爆禁止宣言」であった。
 彼はこの宣言で、世界の民衆は生存の権利をもっており、原子爆弾を使用するものは、それを脅かす魔もの、サタンであると断じ、その思想を、全世界に広めゆくことを、青年たちに託したのであった。
39  先駆(39)
 今、戸田城聖の起こした平和の大潮流は、慟哭の島・沖縄にも波の花となって広がり、友の歓喜は金波となり、希望は銀波となったのである。
 山本伸一は、その恩師の偉業を永遠に伝え残すために、かねてから構想していた、戸田の伝記ともいうべき小説を、早く手掛けねばならないと思った。
 しかし、彼には、その前に成さねばならぬ誓いがあった。戸田の遺言となった三百万世帯の達成である。伸一は、それを恩師の七回忌までに見事に成就し、その勝利の報告をもって、恩師の伝記小説に着手しようとしていた。
 戸田は「行動の人」であった。ゆえに弟子としてその伝記を書くには、広宣流布の戦いを起こし、世界平和への不動の礎を築き上げずしては、恩師の精神を伝え切ることなどできないと彼は考えていた。文は人である。文は境涯の投影にほかならないからだ。
 伸一は、恩師の七回忌を大勝利で飾り、やがて、その原稿の筆を起こすのは、この沖縄の天地が最もふさわしいのではないかと、ふと思った。
 彼の周りに、見学を終えた友が集まって来た。
 伸一は語りかけた。
 「かつて、尚泰久王は、琉球を世界の懸け橋とし、『万国津梁の鐘』を作り、首里城の正殿に掛けた。沖縄には、平和の魂がある。その平和の魂をもって、世界の懸け橋を築く先駆けとなっていくのが、みんなの使命だよ」
 高見福安が答えた。
 「必ずそういたします。沖縄はアメリカの統治下にあるので、海外に行く手続きは本土より簡単なため、世界に羽ばたこうとしている人がたくさんいます。また、基地に働くアメリカ人で、信心する人も増えております」
 「そうか。そこからまた広がっていくね。沖縄は広宣流布の″要石″だ。この美しき天地を、永遠の平和の要塞にしていこう。
 仏法には三変土田という原理がある。そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ。やろうよ、力を合わせて」
 「はい!」
 決意を込めた友の声が、潮騒のなかに響いた。
 伸一は、ニッコリと頷くと、彼方を仰いだ。
 ここに、新しい沖縄の、輝く未来への歴史のページが開かれたのである。
 それは、″汝自身″の使命を自覚した人間による、民衆のための平和と文化を創りゆく戦いの始まりであった。
 彼は、沖縄の天地に、生命の世紀の太陽が昇るのを見る思いであった。

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