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日蓮大聖人・池田大作

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第1巻 「開拓者」 開拓者

小説「新・人間革命」

前後
2  開拓者(2)
 憔悴した山本伸一の顔色は、優れなかった。
 隣の座席に座っていた十条潔が、伸一の顔を覗き込むようにして尋ねた。
 「お体の具合は、いかがですか」
 「大丈夫、心配しなくていいよ」
 伸一は、ニッコリと笑ってみせた。
 「キリスト教の宣教師だって、昔から船に何十日も揺られ、言葉も通じない見知らぬ土地に行き、たった一人で布教に励んできた。それを思えば、多少、体調を崩していても、こうして飛行機で行けるんだから、幸せなことだよ」
 「はあ……」
 「ところで、前々から考えていたことだが、ブラジルでは支部を結成しようと思っているのだがね」
 「支部の結成ですか」
 目を大きく見開き、十条が聞き返した。
 「海外で初の支部だ。まだ世帯数は少ないかもしれないが、南米は、北米とは歴史も、文化も、人々の気質も違う。南米全体を一つの独立した地域として考えていく必要がある。ブラジルはその中心になる国だ。
 また、その方が、現地の同志の自覚も高まるし、何より団結も強くなると思うが……」
 十条は、支部の結成に驚いたのではない。
 最悪の体調であるにもかかわらず、激しく揺れ続ける機内で、ブラジルの広布に深い思いをめぐらしていた、伸一の執念ともいうべき使命感に対する驚きであった。
 夕刻、ジェット機は空港に着陸した。周囲にはヤシの木が見える。
 旅行会社からもらった旅程表では、サンパウロ到着は、午後十時四十五分となっていた。したがって、サンパウロではないはずである。
 機内放送で何か説明していたが、ここがどこで、なんのために着陸したのか、一行には、皆目、わからなかった。
 「ここは、いったい、どこなんだろう」
 伸一の後ろの座席に座っていた山平忠平が、キョロキョロしながら、隣の席の秋月英介に聞いた。
 秋月は、周囲の乗客に、カタコトの英語を駆使して話しかけ、場所と着陸の目的を尋ねた。
 五、六回、同じ質問を繰り返して、ようやく相手は、秋月が何を尋ねているのか、わかったようだ。英語で答えが返ってきたが、秋月には、その意味がよくわからなかった。
 それでも、「ポートオブスペイン」と「ガス」と言っていることは、なんとか理解できた。
3  開拓者(3)
 秋月英介は、手荷物のバッグの中から、英語の辞書を出して引いてみた。
 米語では「ガス」に「ガソリン」の意味もある。
 それから、世界地図を取り出し、ポートオブスペインを探した。
 それは、南米大陸のベネズエラの北東沖に浮かぶ、トリニダード島の中心都市であった。
 さっそく、秋月は、前の座席に座っている山本伸一に伝えた。
 「先生、ここは、トリニダード島のポートオブスペインのようです。着陸したのは、おそらく、給油のためではないかと思われます」
 「そうか。ここがトリニダード島か。ヨーロッパでは、コロンブスが″発見″したといわれている有名な島だよ」
 やがて、ジェット機は、ブラジルに向かって、飛び立った。しばらくすると、窓の外は夜の闇に包まれていった。そして、ギアナ高地にさしかかると、機体の揺れは、ますます激しくなってきた。
 乗客のなかには、気分が悪くなったらしく、蒼白な顔色をしている人もいた。
 サンパウロ時間で、午後十一時過ぎ、ジェット機はようやく空港に到着した。
 「やれやれ、とうとうサンパウロに着いたか」
 山平忠平が、こう言って大きなあくびをした。その時、機内放送が流れた。
 英語の放送を聞いて、秋月は、十条潔に言った。
 「今の機内放送は、ここはブラジリアで、何かが故障したために着陸した、と言っているような気がするんですがね」
 「うん、私も、だいたいそんなことを言っていたような感じがするんだ」
 ほどなく、他の乗客が降り始めた。
 伸一たちも降りたが、どこに行けばよいのかも、わからなかった。
 ターミナルビルの前に、空港の係員が立っていた。東洋人の顔である。十条が日本語で尋ねてみた。
 「私たちは、サンパウロまで行くのですが、どの飛行機に乗るのでしょうか」
 係員はニッコリと笑って答えた。
 「それでしたら、隣の飛行機です」
 日本語である。皆、ホッとした。
 今度は、プロペラ機での旅だった。一行がサンパウロに着いたのは、午前一時だった。到着予定時刻より二時間余りの遅れである。ニューヨークとサンパウロの時差は、プラス二時間であり、移動に約十三時間を費やしたことになる。
4  開拓者(4)
 山本伸一の一行が、空港のロビーに出ると、時ならぬ『威風堂々の歌』が響いていた。
 不安で心細い旅であっただけに、一行の胸に、懐かしさと勇気があふれた。
 ロビーには、二、三十人の人が並び、二本の竿の間に張られた歌詞を見て、一心に歌っていた。しかし、覚えたばかりなのか、リズムも合わず、力強い歌声というには、ほど遠かった。
 アメリカでの出迎えは、ほとんど婦人であったが、ここでは、半数以上が男性である。彼らの多くは、日本から移住し、農業に従事している人たちであった。
 その友が、日焼けした顔を輝かせ、目に涙を潤ませて、習い覚えた学会歌を、一心に歌っている。しかも何時間も前から、待っていてくれたことを思うと、いとしさが込み上げてきてならなかった。
 「ありがとう。遅くなって、すいません。待ったでしょう」
 伸一は、合唱が終わるのを待って、こう言うと、ベンチに腰を下ろした。深夜のために、空港の明かりは大半が消され、薄暗いロビーでの対面となった。
 男性は、たいてい背広姿であったが、着慣れていないと見え、ネクタイがワイシャツの襟の上にはみ出したり、背広のボタンを全部止めたりしていた。
 同行の幹部が自己紹介したあと、伸一が立ってあいさつした。
 到着が深夜になってしまったことを、気にかけていた彼は、簡潔にお礼の言葉を述べた。
 「大変に、ご苦労様でした。皆さんの真心に、深く感謝します。もう、夜も遅いですから、明日、またお会いしましょう」
 メンバーのなかには、日本で激励したことのある、何人かの青年がいた。その一人に、彼は尋ねた。
 「遠い人は、何時間くらいかかって来ているの?」
 「バスで三、四時間ほどです」
 「その人たちは、これからどうするの?」
 「はい、市内のメンバーの家に泊まることになっています。また、先生ご一行のホテルも、こちらで押さえてあります」
 伸一たちは、事前にホテルを予約していたが、それを聞くと、彼は言った。
 「そうか。どうもありがとう。では、今夜は、そのホテルに泊まろう」
 伸一は、現地のメンバーの好意を、無にしたくなかった。彼は、自分たちが予約したホテルをキャンセルし、せめて、一晩だけでもそこに泊まることにした。
5  開拓者(5)
 山本伸一の一行は、タクシーでホテルに向かった。
 深夜の街を走り、到着したのは、午前三時ごろになってしまった。
 そこは、部屋も狭い、質素なホテルであった。
 部屋に入ると、伸一は、顔を鏡に映して見た。目はくぼみ、周囲には隈ができていた。
 ″しまった″と思った。ブラジルの友が、そんな自分を見て、心配することを彼は恐れたのである。
 ブラジルでは、三泊するものの、実際に動けるのはわずか二日にすぎない。
 伸一は、その間になすべきことを、次々と考えていった。
 夜は静かに更け、外は深い闇に覆われていたが、彼の胸中には、ブラジル広布の夜明けを開かんとする熱い闘争の火が、紅の炎となって、燃え盛っていた。
 翌日は、午前十時には、二班に分かれて、現地の視察に出かけた。清原かつ、山平忠平、石川幸男の三人は、サンパウロから北西に百キロほど向かったカンピナスにある、東山農場を見学した。
 一方、伸一は、十条潔、秋月英介とともに、コチア産業組合などを視察した。
 コチア産業組合は、サンパウロ州コチア郡の日系人の手によって設立された協同組合である。当時、日本の青年の移住を積極的に推進し、ブラジル農業の発展に大きな貢献をしていた。
 一行は、夕刻には、サンパウロ市内のメンバーの家で、勤行会を行った。勤行が終わるころには、会場は同志であふれた。
 伸一は、一人一人の仕事や、生活について尋ねていった。メンバーの多くは、戦後の農業移住だが、友の生活は、決して楽ではなかった。
 四年間の契約で農業に従事したが、与えられた住居は、古い家畜小屋で、電気も水道もなく、寝ていると蛇が家の中に入ってくる有り様だという人もいた。しかも、ひとたび凶作になれば、借金だけが残ってしまうという。
 また、ある人は、日本で農業をしていたが、全財産を処分し、サンパウロで農業を始めようと、土地を買い、移住してきた。だが、実際に来てみると、買ったはずの土地の登記がされていなかった。詐欺にあったのである。
 やむなく小作人となり、桃の栽培やジャガイモを手掛けたが、どれもうまくいかず、今は野菜の栽培を始めたという。
 それぞれの話から、ブラジルに渡ってきた友の苦労がしのばれた。
6  開拓者(6)
 そもそも、日本人が「契約移民」として、最初にブラジルに移住したのは、一九○八年(明治四十一年)のことであった。
 「契約移民」七八一名を乗せた笠戸丸は、この年の四月二十八日に神戸港を発ち、五十二日間の航海を経て、六月十八日に、ブラジルのサントス港に到着している。
 ブラジルでは、一八八八年に奴隷制が廃止されたものの、代わりに移住者が奴隷的な待遇を受けることが多かった。その実態を調査したイタリア政府は、当時、ブラジルへの移住を禁止していた。
 また、イタリアのみならず、ヨーロッパ諸国は、ブラジルでの黄熱病やマラリアの問題を深刻にとらえ、移住を控え始めていたのである。
 そのため、サンパウロのコーヒー農場主たちは、人手不足に悩み、かつての奴隷に代わる低賃金労働者を求めていたのだ。
 そのなかで、サンパウロを視察した日本の公使は大歓迎を受け、「天与の楽郷福土」と日本政府に報告している。やがて、ブラジル移住が始まるが、渡航者を募集する″状況書″には、次のようにある。
 ──サンパウロは、極めて肥沃な土地で、コーヒー、砂糖、綿、米穀などの耕作には「肥料ヲ用ユルノ要ナシ」。気候は、欧州南部とほとんど同じで、人種のいかんを問わず「絶対平等ノ権利ヲ有スル……」。
 それは、あたかも、この世のユートピアのごとき印象をいだかせる、文面となっていたのである。
 しかも、ブラジルの字は既に用いられていた「伯刺西爾」でも、「巴西」でもなく、「舞楽而留」という当て字が使われていた。
 当時、日本は、日露戦争後の不況の波が押し寄せ、海外への移住に、活路を求める人たちが少なくなかった。
 しかも、それまで、海外移住の中心になっていたアメリカで排日運動が起こり、政府がアメリカへの移住を自粛したことから、ブラジルは希望の新天地として、人々の関心を集めていたのである。
 移住者は、美辞麗句に飾られたブラジルに、この世の楽園を夢見ていたにちがいない。かの地で一旗揚げて、故郷に錦を飾ることを思い描いて、希望に胸弾ませ、人々はブラジルに渡っていった。
 そして、一九三二年に、「満蒙開拓」が開始されるまで、ブラジルは日本の海外移住の主流となっていったのである。
7  開拓者(7)
 ある人が言っていた。
 ──人間は、賢く騙し、愚かに騙される流転の藤であるかもしれない。
 人々は、夢をいだいて、コーヒー耕地に入って行ったが、そこに待っていたものは、楽園とはほど遠い悲惨な生活であった。
 移住した契約労働者は、「コロノ」と呼ばれ、労働は、想像以上に過酷であった。住居は、寝台づくりから始めなければならず、水道も、電気も、便所もなかった。しかも、″砂ノミ″といわれる、ノミのような虫にも悩まされた。爪に巣くい、膿んで、強烈な痒みに襲われた。
 また、農場のなかには、移住者を、かつての奴隷と同じように扱い、鞭で追い立て、姓名の代わりに、一号、二号と、番号で呼ぶところもあった。
 移住者の夜逃げも相次いだが、逃げ出した人も、その行き着く果ては、「流浪の民」であった。
 いつごろからか、移住者の間で、こんな歌が歌われ始めている。
 ブラジルよいとこ
 だれがいうた
 移民会社にだまされて
 地球の裏側へ来てみれば
 きいた極楽
 見て地獄
 こりゃ こりゃ
 また、自分たちを、″移民″ではなく、″棄民″であるという人もいた。
 しかし、過酷な環境のもとで黙々と働き、雇用労働者から請負作業者となり、やがて、独立して農場主となる人たちも出始めた。
 そして、「コロニア」といわれる日系社会をつくり出すに至る。
 しかし、運命の風は、どこまでも激しく、冷たかった。一九三○年、軍事クーデターによって、バルガス政権が誕生すると、国家主義的政策を打ち出し、排日運動が展開されていったのである。
 排日のために移民制限法がつくられ、更に、日本語など、外国語による学校教育や出版物の発刊なども禁じられた。
 一九四一年、太平洋戦争が起こると、翌年、ブラジルは日本と国交を断絶。四五年六月には、対日宣戦布告がなされた。これによって、日系人はますます辛酸を味わうことになる。
 日系人の三人以上の集会は禁じられ、個人の資産も凍結された。やっと切り開いた土地から、追い出される人も相次いだ。
 そして、迎えた終戦は、ブラジルの日系社会に、予想もしなかった大混乱をもたらすのである。
8  開拓者(8)
 ブラジルの日系人は、日本からの短波放送で、音声は不明瞭ながらも、日本の敗戦のニュースを聞いた。
 しかし、一兵といえども皇軍の兵の降伏は許されない、と教えられてきた人々にとって、大元帥陛下の降伏など、決して信じられないことであった。いや、信じたくはなかったのだ。
 そこに″日本は勝った″とのデマが流された。邦字新聞も発刊を禁止され、情報から断されていたブラジルの日系人は、このデマに飛びついた。
 一方、敗戦を信じた人たちによって、敗戦認識運動も起こった。
 そして、日系社会は、日本が勝ったと信じる、いわゆる″勝ち組″と、敗北を認識している″負け組″に分かれ、同胞同士の対立が始まるのである。この″勝ち組″を主導していったのが「臣道連盟」であった。
 そして、「臣道連盟」の関係者によって組織された″特攻隊″が、敗戦認識派のリーダーを襲うテロ事件が相次ぎ起こった。
 これに対して、敗戦認識派は、彼らを、ブラジルに「害毒を流す徒輩」としてテロの取り締まりを大統領に要請する。それが功を奏して、「臣道連盟」の徹底した取り締まりが行われるが、かえって日系人全体の排撃に拍車をかける結果となるのであった。
 また、このころ、″勝ち組″によって流されたデマが、日系人を大混乱に陥れることになる。終戦直後に流されたデマは、″米国の無条件降伏″という類いのものであった。しかし、それが、やがて″日本軍のブラジル進駐″や、日本人のブラジルからの″総引き揚げ″へとエスカレートしていった。
 そして、これらのデマを背景に、悪質な詐欺が横行していったのである。
 その象徴的な例が、「円売り事件」であった。
 ″日本人はブラジルから総引き揚げする″と聞いた人たちは、家も土地も売り払い、先を争うように、その金を日本円に換えようとした。それに符節を合わせたように、そのころ円が大量に出回り、売られたのである。
 ところが、日本円は新円に切り替わっており、それは、既に無価値となった紙同然の旧円だった。
 その旧紙幣を懐に、決して来ることのない引き揚げ船を、何日も何日も、港で待ち続ける人の姿が後を絶たなかった。
 やがて騙されていたことを知り、自らの命を絶つ人も出たのである。
 時代の混乱に乗じて、同胞を食い物にした、悪質な詐欺事件といってよい。
9  開拓者(9)
 ブラジル日系人の、″勝ち組″と″負け組″の対立は、戦後、数年間にわたって続いた。
 それが治まり、正式な移住が再開されたのは、終戦から七年半を経た一九五三年(昭和二十八年)二月のことであった。
 戦後の移住は、戦前と比べれば環境条件も整い、移住する人々も厳選されていた。また、″出稼ぎ″という意識は希薄になり、永住を希望する入植者が多かった。
 一方、農業移住だけでなく、日本企業の進出にともない、技術指導のために移住する人も増え、日系人はブラジル社会のあらゆる分野で、活躍するようになっていった。それに伴い、日系人への信頼も、次第に深まっていったのである。
 しかし、それでも、異国の地での生活には、数多くの労苦があった。入植地によっては、戦前からの入植者との間に、確執が生じることもあったようだ。
 山本伸一は、勤行会にやって来たメンバーと言葉を交わしながら、一人一人の仕事や信心の状況、更に、個性や人柄まで的確にとらえていった。
 メンバーは、ほとんどがここ四、五年以内に日本で入信した人たちであり、日本で、組長など、第一線組織のリーダーとして戦ってきた人も少なくなかった。
 そのメンバーが中心となって、それぞれの入植地で知り合った人たちに信心の話をし、ともに唱題する人が、各地で一人、二人と生まれ始めていた。また、サンパウロ市内では、座談会も、定期的に開かれるようになっていたのである。
 広宣流布の小さな芽が、ブラジルの大地に兆し始めていた時代であった。
 そこに、第三代会長に就任した山本伸一の一行が、ブラジルを訪問するという知らせが届いた。
 現地の友の中心となって活動に励んで来たメンバーは、小躍りして喜んだ。彼らは、全力で、受け入れの準備に当たった。
 また、会長を迎えるからには、サンパウロ中の学会員を総結集しようと、案を練った。そして、まだまだ連携のとれていない同志がいるはずだと考えた彼らは、知恵を絞り、会長一行の訪問を伝える広告を、邦字新聞に出すことにした。
 それは、思いのほか、大きな効果があった。
 新聞に発表された連絡先に、見知らぬメンバーから続々と連絡が寄せられた。
 友は、大きな喜びと期待に胸弾ませて、会長一行のブラジル入りを待ちわびていたのである。
10  開拓者(10)
 山本伸一は、メンバーの報告を聞き終わると、笑みをたたえて言った。
 「今、ブラジルは、いよいよ広宣流布の夜明けを迎えようとしています。
 私は、このたび、ブラジルに、海外で最初の支部を結成しようと思ってやって来たのです」
 参加者から、驚きと感嘆の声がもれた。
 「ブラジルは、世界広布のパイオニアの使命を担うことになります。皆さんこそ、その開拓者です。
 開拓には、当然、試練や苦労が伴うものです。しかし、それを乗り越えていくならば、幸福の楽園が、このブラジルに広がります。
 この国のためにも、ご一家の繁栄のためにも、ともに広布の道を開いていきましょう」
 伸一は、こう言って、友を励ました。
 夕食の後、一行は、支部結成のための打ち合わせに入った。各地に点在するメンバーの数を割り出し、どこに地区をつくるか、誰を中心者にするのか、綿密な検討がなされた。
 彼が、ホテルの自分の部屋に戻ったのは、深夜だった。伸一の肉体の疲れは、既に限界を超え、めまいさえ覚えた。
 しかし、彼は、バッグから便箋を取り出すと、机に向かい、ペンを走らせた。日本の同志への激励の便りであった。手紙は、何通にも及んだ。
 彼は、衰弱の極みにあったが、心には、恩師戸田城聖に代わって、ブラジルの大地を踏み、広布の開拓のクワを振るう喜びが脈動していた。
 その歓喜と闘魂が、広宣流布を呼び掛ける、熱情の叫びとなってあふれ、ペンは便箋の上を走った。
 ある支部長には、こうつづっている。
 「今、私の心は、わが身を捨てても、戸田先生の遺志を受け継ぎ、広布の総仕上げをなしゆこうとの思いで、いっぱいです。そのために大事なのは人です、大人材です。
 どうか、大兄も、私とともに、最後まで、勇敢に、使命の道を歩まれんことを切望いたします。そして、なにとぞ、私に代わって、支部の全同志を心から愛し、幸福に導きゆかれんことを願うものです」
 日本の同志は、この時、伸一が、いかなる状況のなかで、手紙を記していたかを、知る由もなかった。
 しかし、後日、それを知った友はを振るわせ、感涙にむせび、共戦の誓いを新たにするのであった。
 人間の心を打つものは、誠実なる行動以外にない。
11  開拓者(11)
 翌十月二十日は、座談会の日であった。
 会場は、東洋人街の一角にある、レストランの二階であった。
 そこは「シャー・フローラ」と呼ばれ、日系人の集いや催しに使われていた。
 開会は午後一時であったが、正午前から、メンバーは、三々五々、会場に集まって来た。どの顔も、喜びに輝いていた。
 なかには、千五百キロメートルも離れた地域から、汽車やバスを乗り継いで、三日三晩かかってやってきた友もいた。
 開会三十分前には、会場に用意された数十のイス席は人で埋まり、後ろに立つ人も出始めた。
 山本伸一の一行が、会場に姿を現すと、期せずして拍手がわき起こった。
 多くは、頼るべき同志もなく、町から離れた入植地で、細々と信心の灯をともしてきた人たちである。
 ″会長の山本先生が、わざわざ来てくださった。私たちの先生が、ブラジルに来たんだ!″
 皆、そう思うと、目頭が潤んで仕方なかった。
 しかし、なかには、こうつぶやく婦人もいた。
 「あら、戸田先生の姿が見えないわね。後から来られるのかしら」
 隣にいた婦人が、小さな声で言った。
 「知らないの? 戸田先生は亡くなられたのよ。それで、山本先生が第三代会長になられたのよ」
 当時のブラジルの通信事情は悪く、日本からサンパウロ市内への郵便物でも、三カ月もかかることがあった。更に、そこから遠く離れた入植地となれば、郵便物が満足に着かないことも珍しくなかったのである。
 これまで、同志と接する機会もなかった、そうしたメンバーのなかに、戸田の逝去を知らぬ人がいたとしても、決して、不思議ではなかった。
 伸一は、会場の正面に立つと、軽く会釈をし、長テーブルを挟んで座った。
 「どうもご苦労様です。さあ、始めましょう」
 伸一は、ここでは、どこよりも多く、質問会に時間を当てた。彼は、農業移住者の生活の厳しさをよく知っていた。そのなかで、柱と頼む幹部も、相談相手もなく、必死で活路を見いだそうとしている友に、適切な指導と励ましの手を差し伸べたかったのである。
 「どうぞ、自由に、なんでも聞いてください。私はそのために来たのです」
 彼が言うと、即座に四、五人の手があがった。皆、こうした機会を待ち望んでいたのである。
12  開拓者(12)
 質問の多くは、生き抜くための切実な問題だった。
 四十過ぎの一人の壮年が兵士のような口調で、緊張して語り始めた。
 「自分の仕事は農業であります!」
 「どうぞ、気楽に。ここは、軍隊ではありませんから。みんな同志であり、家族なんですから、自宅でくつろいでいるような気持ちでいいのです」
 笑いが弾けた。日焼けした壮年の顔にも、屈託のない笑みが浮かんだ。
 この壮年の質問は、新たに始めた野菜づくりに失敗し、借金が膨らんでしまったが、どうすれば打開できるかというものだった。
 山本伸一は聞いた。
 「不作になってしまった原因はなんですか」
 「気候のせいもあったように思いますが……」
 「同じ野菜を栽培して、成功した方はいますか」
 「ええ、います。でも、たいていの人が不作です」
 「肥料に問題はありませんか」
 「……詳しくはわかりません」
 「手入れの仕方には、問題はありませんか」
 「…………」
 「土壌と品種との関係はどうですか」
 「さあ……」
 壮年は、伸一の問いに、ほとんど満足に答えることができなかった。この人は自分なりに、一生懸命に働いてきたにちがいない。しかし、誰もが一生懸命なのだ。それだけで良しとしているところに、″甘さ″があることに気づいていない。
 伸一は、鋭い口調で語り始めた。
 「まず、同じ失敗を繰り返さないためには、なぜ、不作に終わってしまったのか、原因を徹底して究明していくことです。成功した人の話を聞き、参考にするのもよいでしょう。
 そして、失敗しないための十分な対策を立てることです。
 真剣勝負の人には、常に研究と工夫がある。それを怠れば成功はない。信心をしていれば、自分の畑だけが、自然に豊作になるなどと思ったら大間違いです。
 仏法というのは、最高の道理なのです。ゆえに、信心の強盛さは、人一倍、研究し、工夫し、努力する姿となって表れなければなりません。そして、その挑戦のエネルギーを湧き出させる源泉が真剣な唱題です。それも誓願の唱題でなければならない」
 「セイガンですか……」
 壮年が尋ねた。皆、初めて耳にする言葉であった。
 伸一が答えた。
 「誓願というのは、自ら誓いを立てて、願っていくことです」
13  開拓者(13)
 山本伸一は、力を込めて語っていった。
 「祈りといっても、自らの努力を怠り、ただ、からボタモチが落ちてくることを願うような祈りもあります。それで良しとする宗教なら、人間をだめにしてしまう宗教です。
 日蓮仏法の祈りは、本来、誓願の唱題なんです。その誓願の根本は、広宣流布です。
 つまり、″私は、このブラジルの広宣流布をしてまいります。そのために、仕事でも、必ず見事な実証を示してまいります。どうか、最大の力を発揮できるようにしてください″という、決意の唱題です。
 これが私たちの本来の祈りです。
 そのうえで、日々、自分のなすべき具体的な目標を明確に定めて、一つ一つの成就を祈り、挑戦していくことです。その真剣な一念から、知恵が湧き、創意工夫が生まれ、成功があるのです。
 つまり、『決意』と『祈り』、そして、『努力』と『工夫』が揃ってこそ、人生の勝利があります。
 一攫千金を夢見て、一山当てようとしたり、うまい儲け話を期待するのは間違いです。それは、信心ではありません。それでは、観念です。
 仕事は、生活を支える基盤です。その仕事で、勝利の実証を示さなければ、信心即生活の原理を立証することはできない。どうか、安易な姿勢はいっさい排して、もう一度、新しい決意で、全魂を傾けて、仕事に取り組んでください」
 「はい。頑張ります」
 壮年の目には、決意がみなぎっていた。
 伸一は、農業移住者の置かれた厳しい立場を、よく知っていた。そのなかで成功を収めるためには、何よりも、自己の安易さと戦わなくてはならない。敵は、わが内にある。
 逆境であればあるほど、人生の勝負の時と決めて、挑戦し抜いていくことである。そこに御本尊の功力が現れるのだ。ゆえに逆境はまた、仏法の力の証明のチャンスといえる。
 質問会も終わりに近づいたころ、会場の最後列で、何度か途中まで手をあげかけていた婦人がいることに、伸一は気づいた。
 彼は、その婦人に声をかけた。
 三十代半ばと思われる、やつれ切った顔の婦人であった。
 「何か、質問があるんですね。どうぞ、おっしゃってください」
 彼女は力なく立ち上がって言った。
 「あのー、私の夫は病気で他界してしまいました。これからどうやって生きていけばよいのか……」
14  開拓者(14)
 婦人の一家は、契約労働者として入植し、農業に従事していた。しかし、働き手の夫を失ってしまった限り、もう農業を続けることはできない。
 彼女には、まだ小さな何人かの子供がいた。いっそ死のうかと思っていたところ、同じ入植地の学会員から仏法の話を聞き、一週間前から信心を始めた。すると、サンパウロ市内の工場に仕事が決まり、住まいも提供してくれることになったという。
 「でも、子供を抱えて、何もわからない異国の地で生きていくことを思うと、不安で仕方ないのです。私は、つくづく業が深い女なんだと思います。でも、そんなことを考えると、これから先、まだ何が起こるかわからなくなり、やり切れない気がするんです……」
 山本伸一は、笑顔を浮かべて言った。
 「大丈夫、信心をしていく限り、必ず幸せになれます。そのための仏法です。
 それに、あなたが今、不幸な目にあい、辛い思いをしているのは、あなたにしかない、尊い使命を果たすためです。宿業なんかに囚われて、惨めな気持ちになっては、いっさいが負けです」
 婦人は、不可解な顔で伸一を見た。彼女は、紹介者の学会員から、夫と死に別れなくてはならないのは、過去世で罪を犯し、悪い宿業を積んだからだと教えられてきたのである。
 確かに仏教では、一面、人に悪をなしたことによって、悪の報いを得、不幸な人生を歩まねばならないと説いている。
 しかし、それだけでは、人間は過去世の罪などわからないだけに、茫漠とした不安をいだきながら、罪悪感をもって生きねばならないことになる。また、運命は、既に定められたものとなり、人間を無気力にしてしまうことにもなりかねない。そして、ただ悪いことをしないようにという、消極的な生き方に陥ることにもなろう。
 日蓮大聖人の仏法は、こうした表面的な因果応報の枠を突き抜けて、根本の因果を明かし、久遠の昔の、清浄な生命に立ち返る方途を示された。それが、地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きるということである。
 伸一は言った。
 「仏法には、願兼於業ということが、説かれています。これは、仏道修行の功徳によって、幸福な環境に生まれてくるところを、自ら願って、不幸な人々の真っ只中に生まれ、妙法を弘通するということです」
15  開拓者(15)
 山本伸一は、更に、噛み砕いて話していった。
 「たとえば、もともと女王のような何不自由ない生活をしていた人が、信心して幸せになりましたと言っても、誰も驚きません。
 しかし、病気で、家も貧しく、周囲からもまれていた人が、信心をすることによって幸福になり、社会のリーダーになれば、仏法の偉大さの見事な証明になります。みんなが、信心したいと思うようになるでしょう。
 貧乏で苦しみ抜いた人が、それを乗り越えることができれば、生活苦に悩むすべての人に、希望を与えることができます。また、病気に悩んできた人が、元気になり、健康になれば、病苦の友の胸に、勇気の灯をともすことができる。
 更に、家庭の不和に泣いた人が、和楽の家庭を築き上げれば、家族の問題で悩んでいる人たちの、模範となります。
 同じように、ご主人を亡くされ、しかも、言葉も通じない外国の地で、あなたが幸せになり、立派に子供さんを育て上げれば、夫を亡くしたすべての婦人の鏡となります。信心をしていない人も、あなたを慕い、あなたに指導を求めに来るようになるでしょう。
 つまり、苦悩が深く、大きいほど、見事に仏法の功力を証明することができる。宿業とは、使命の異名とも言えるのです。
 私も、貧しい海苔屋の息子です。病弱で胸を病みながら、戸田先生とともに倒産の苦しさも味わってきました。庶民としての辛酸をなめてきたからこそ、民衆のリーダーとして、こうして広宣流布の指揮がとれるのです」
 婦人は、何度も頷きながら話を聞いていた。参加者の顔に、次第に赤みが差していくのがわかった。
 皆、苦労に苦労を重ね、日々、あえぐように生きてきた人たちである。
 伸一は、水を飲むと、一段と力を込めて言った。
 「皆さんは、それぞれの事情から、たまたまこのブラジルにやって来たと思っているかもしれない。しかし、そうではありません。
 地涌の菩薩として、ブラジルの広宣流布のために、この国の人々を幸せにし、ここに永遠の楽土を築くために生まれてきたのです。いや、日蓮大聖人に、召し出された方々なんです。
 この偉大なる地涌の菩薩の使命を自覚し、広宣流布に生きる時、胸中の久遠の太陽が輝き、過去の罪障は露のように消え失せ、大歓喜と幸福の悠々たる人生が開かれていくのです」
16  開拓者(16)
 山本伸一は、ここまで語ると、笑顔で、優しく質問した婦人を包んだ。
 「あなたの苦しみも、仏法の深い眼から見れば、本来は富裕な大女優が、舞台で、悲劇のヒロインを演じているようなものです。
 家に帰れば、何不自由ない生活が待っているのと同じです。しかも、人生劇場の舞台の上でも、ハッピーエンドになるストーリーなんです。心配はいりません。必ず幸せになります。私が断言しておきます。
 大女優が、悲劇のヒロインを、楽しんで演じるように、あなたも、堂々と、その悲しみの淵から立ち上がる、人間革命の大ドラマを演じてください。
 人は皆、人生という原野をゆく開拓者です。自分の人生は、自分で開き、耕していく以外にありません。信心というクワを振るい、幸福の種を蒔き、粘り強く頑張ることです。広宣流布のために流した汗は、珠玉の福運となり、永遠にあなたを荘厳していきます。
 どうか、ブラジル一、幸せになってください」
 伸一が話し終わると、婦人から、「はい!」という明るい声が返ってきた。期せずして拍手が沸いた。それは、伸一への共感の拍手でもあり、婦人の発心を祝福する拍手でもあった。
 更に、二、三人の質問を受けた後、いよいよ支部結成の発表となった。
 海外初の支部誕生の瞬間であった。
 「このたび、ブラジルに支部を結成いたします!」
 伸一が告げると、嵐のような拍手に包まれた。
 座談会は、事実上の第一回ブラジル総会であり、また、支部結成式となったのである。
 更に、サンパウロ、カンピナス、アルジャの三地区の結成が発表された。
 支部長、婦人部長に就任したのは、トランジスタラジオの生産・販売会社を営む夫妻であった。また、男子部は、郷野栄治という音楽隊出身の青年が中心者になった。
 伸一は、最後に、こう語り、話を結んだ。
 「ブラジルは、海外広布の先駆けになりました。ここには、無限の未来性があります。皆さんは、平和と幸福の開拓者として、どうか、私に代わって、ブラジルの広布の道を開いてください。お願いします」
 大拍手が起こった。
 くたびれた背広に身を包んだ、開拓者たちの日焼けした顔に、熱い誓いの涙が光った。
 ブラジルの原野に、今、広布の太陽は、確かに昇ったのだ。
17  開拓者(17)
 座談会が終わると、一人の年配の男性が、メンバーとともに、山本伸一のところにやって来た。
 泰然とした、恰幅のよい紳士であった。
 彼は、座談会で、終始、胸を反り、険しい表情で、何かを観察するように話を聞いていた。
 伸一も気にかかっていた人物であった。
 この壮年は、サンパウロに近い、ある地域の日本人会の会長であった。
 「いやー、今日は、いいお話を伺いました」
 彼は、を紅潮させながら、伸一に語りかけた。
 「ブラジルにも、日本からたくさんの宗教が来ています。私も、戦時中は、日本のある宗教団体に入っていましたが、結局、まやかしでした。やったことといえば、あの戦争を賛美したことと、人々に巧みに取り入って、金けをしただけのことです。
 教団の幹部は、たくさん金を出せば、足しげく通って、いろいろ話をしてくれるが、出す額が少ないと、露骨にいやな顔をし、見向きもしなかった。貧しい人たちには、なんの手も差し伸べようとはしません。
 宗教というのは、本来、慈悲をもって、すべての人に奉仕すべきものですよ。それが、そんな有り様です。日本の宗教の堕落は、このブラジルでは、目を覆うばかりです。
 実は、申し訳ない限りですが、あなた方も同じではないかと思いながら、ずっと話を聞いていたんです」
 伸一は、その人に、にこやかに言った。
 「何か御意見があれば、なんでも伺います」
 「いや、感服いたしました。最後まで、話を聞いていて、これは本物だ、間違いないと思いました。
 創価学会のことは、ほかからも聞いていました。会員の人以外は、皆、否定的な意見でした。なかには、『学会は暴力宗教だから、はびこらせてはならない』と警告してきた、他教団の幹部もいました。
 しかし、私は、この集いを見せてもらって、創価学会が、本当に民衆を救おうとしている、正しい宗教である裏付けが取れたと思っています」
 「それは、ありがとうございます」
 「それで、私も今日から、皆さんと一緒に、一生懸命に信心をしたいと思います」
 その紳士は、鋭い目を輝かせて、伸一の顔をじっと見つめた。
 「信心をするとおっしゃいますが、生易しいものではありません。相当な決意が必要です」
 伸一は答えた。
18  開拓者(18)
 壮年は怪訝な顔をした。
 「相当な決意とおっしゃいますと?」
 山本伸一は言った。
 「正しい宗教は、必ず攻撃の対象となります。難があります。それに耐える覚悟がなくては、信心を全うすることはできません。それでも、よろしいのでしょうか」
 相手は、日本人会の要職にある人である。たいていは入会の申し出を、喜んで受け入れるにちがいない。
 しかし、伸一は、本人のためを思い、そうはしなかった。
 信心に特別な道はない。生半可な決意のまま、信心を始めれば、ささいなことで心が揺れてしまう場合がある。それで、信仰を捨ててしまうのであれば、なんの意味もない。かえって、本人を不幸にしてしまうだけだ。
 壮年は、決然とした口調で言った。
 「もちろんです。人々の心がすさんでいれば、正しいものが排斥され、非難や中傷にさらされるのは当然です。ましてや、学会の勢いが強くなれば、恐れと嫉妬から、ますますそうなると思っております。
 恥ずかしいことですが、ブラジルの日系社会では、同胞同士の足の引っ張り合いが、日常茶飯事です。
 これは、もともと、自分たちがよそ者であり、弱い立場であるという意識のせいなのかもしれませんが、すぐに権力に結びつき、その力を借りて、追い落とそうとするんです。嘆かわしい限りです。
 ですから、学会に難があることは覚悟しています。ましてや、周りは、悪い宗教ばかりですからな。しかし、だからこそ、私は正しい信心をしたいのです」
 壮年は、真剣であった。
 「わかりました。揺るぎない決意をお持ちなら、入信して、しっかり信心に励んでください。あなたの新しい人生の出発を、心からお祝い申し上げます」
 こう言って差し出した伸一の手を、壮年は強く握り締めた。
 伸一は、この壮年の見識を、高く評価していた。
 宗教の第一の使命は、悩める友の救済にある。貧しき人や病める人に、救いの手を差し伸べてこそ、真実の宗教である。学会は、この苦悩する人々を救済することに全力を傾けてきた。
 しかし、日本国内にあっては、それを笑うかのように、学会は「貧乏人と病人の団体」と言われ続けてきたのである。
 そのなかでこの壮年が、宗教本来の使命に照らし、創価学会こそ真実の宗教であると結論したのは、まことに卓見といえよう。
19  開拓者(19)
 この日、山本伸一は、新任幹部の代表を、日本料理店に招き、新たなブラジルの出発を祝い、夕食をともにした。彼は、広布の新天地の未来を担いゆく友を、心から労い、励ましておきたかったのである。
 伸一を囲んで、和やかな語らいが弾んだ。彼は、男子部の中心者になった郷野栄治に声をかけた。繊細な感じのする青年であった。
 「君は、今、どんな仕事をしているの?」
 「はい、トランペットを吹いています」
 「そうか、大変だな。それで、ポルトガル語は話せるのかい」
 「日本にいた時に、二、三カ月、ポルトガル語の教室に通ったので、少しはわかります」
 「それだけでは、広布の力にはならないな。しっかり勉強してマスターするんだよ。それが、君の使命を果たす突破口になっていくからね」
 伸一は、日本で、この青年と何度か会い、激励したことがあった。
 郷野は、日本では、音楽隊員として活躍する一方、男子部の班長として活動に励んできた。
 彼には、一つの夢があった。それは、ジャズ奏者になることだった。しかし、当時、日本の社会では、ジャズというと、眉をひそめる人も少なくなかった。このころはまだ、音楽として、正当な評価を得ていなかったのである。
 郷野には、自分が志しているジャズが、果たして、広宣流布にどうつながるのかという疑問があった。
 彼は、将来の進路について悩んだ末に、青年室長であった山本伸一に指導を求めたのである。
 その時、伸一は言った。
 「ジャズが君の心に、本当に響き、どうしてもやりたいというのであれば、挑戦してみることです。
 もし、たとえば、それが実らないことがあったとしても、自分の一念のなかに広宣流布があれば、人生の経験は、すべて生かされるものだ。仏法には、むだはない」
 郷野の心は決まった。
 ジャズを本格的に学ぶには、本場のアメリカに渡る必要がある。しかし、彼には、渡米の費用などなかった。調べてみると、ブラジルに渡るなら、貸付制度があることがわかった。彼はまずブラジルに行き、それから、アメリカに入ろうと思った。
 郷野が、船で横浜の港を発ったのは、伸一が会長に就任して二カ月を経た、七月の半ばのことであった。そして、九月上旬に、サンパウロに近い、サントス港に着いたのである。
20  開拓者(20)
 サンパウロにやって来た郷野栄治が、東洋人街を歩いていると、胸に学会のバッジをつけた、一人の青年と出会った。
 その青年から、郷野は、山本会長が、間もなくサンパウロに来ることを聞かされたのである。
 彼も受け入れの準備に加わった。メンバーに学会歌を教え、空港で指揮をとっていたのは、この郷野であった。
 山本伸一は、郷野を前にして思った。
 ──彼の本当の使命は、このブラジルの広布にあったのであろう。問題はいつ彼がそれを自覚するかだ。
 伸一が、ポルトガル語の習得を口にしたのも、郷野に、その使命を、一日も早く、自覚して欲しかったからである。
 伸一は、皆の食事が終わりかけたころ、深い思いを託して言った。
 「これから、ブラジルの広布は、飛躍的に伸展していくでしょう。幹部として大切なことは、自分が花となり、実となろうとするのではなく、後に続く同志のために、ブラジルの土になるのだという決意です。
 そして、学会とともに、広布とともに生きる人生の素晴らしさを、皆に伝え切っていくことです。同じ一滴の水でも、葉の上の露となれば、はかなく消えてしまう。しかし、大海の水は世界を包む。わが生命を大海のように広げ、境涯を開いていくのが広宣流布の団体である学会です。
 また、皆さん自身が、何があっても、学会から離れないと決意することです。皆を導く立場にありながら退転し、同志を裏切れば罪は重い。
 やがて、学会の行く手には、有形無形の圧迫もあるでしょう。学会の団結を撹乱しようとする動きも必ずある。しかし、試練に磨かれてこそ本当の仏法者です。栄光の人生です。
 北海道の開拓者・依田勉三は、こう歌っている。
  ますらをが 心定めし 北の海 風吹かば吹け 浪立たば立て
 皆さんも、この気概で、どこまでも、広布の道を切り開き、黄金の開拓の詩をつづってください」
 伸一は、食事には、ほとんど手をつけなかった。激しい疲労が、彼の食欲を奪っていたのである。
 しかし、彼の心はさわやかであった。このブラジルで死力を振り絞り、未来の大発展の楔を打ち込んだ充実感が、彼の全身にみなぎっていた。
21  開拓者(21)
 翌十月二十一日は、ブラジルを発ち、アメリカに戻る日であった。
 午前十一時半、二、三十人ほどのメンバーに見送られ、一行はパン・アメリカン航空の事務所前から、バスでカンピナスの空港に向かった。
 空港に着くと、出発が大幅に遅れていることがわかった。飛行機がようやく飛び立ったのは、午後三時であった。
 空が夜の闇に包まれたころ、搭乗機は、給油のために着陸した。コロンビアのボゴタにある、エル・ドラード空港であった。しばらく、待合室で待機することになった。
 空港は閑散としていた。山本伸一は、一人、建物の外に出てみた。
 見上げると、空いっぱいに、無数の星がきらめいていた。空港の名の「エル・ドラード」は、新大陸にあるとされた、伝説上の黄金郷のことである。その美しき″銀の空″を見ていると、確かに、ここは、黄金郷の思いをいだかせた。
 彼は、フランスの思想家・ヴォルテールの小説『カンディード』に、「エル・ドラード」という、南米奥地の不思議な国が描かれていたことを思い出した。
 そこは、子供たちが金の服を着て、宝石を石投げに使って遊んでいる豊かな国であった。そして、物質的な面で豊かであるだけでなく、王から村人にいたるまで、争うことを知らず、訴訟もなく、裁判所も、監獄もなかった。
 つまり、物にも増して人間の心が豊かであり、信頼と善意に満ちた国として、ヴォルテールは描いている。まさに、精神の豊かさなくして黄金郷はない。
 彼がなそうとしている広宣流布とは、その黄金郷の建設にほかならなかった。
 ──今、コロンビアには、同志は誰もいない。しかし、いつの日か、この天地にも、地涌の勇者が出現し、乱舞する時が必ず来る。いな、断じてそうしなければならない。
 彼は、天を仰ぎ、題目を唱えていた。
 伸一は、その後、このコロンビアの平和と繁栄を願い、一民間人として親交に努めた。そして、三十年後の一九九○年(平成二年)には、同国との友情と信頼の証として、日本では初公開の世界最大級のエメラルド原石など、秘宝五百十七点が貸し出され、東京富士美術館で「大黄金展」が開催されることになる。
 更に、三年後の一九九三年には、伸一がコロンビアを正式訪問し、支部の結成をみたのであった。
22  開拓者(22)
 山本伸一の一行が乗った飛行機が、ニューヨークのアイドルワイルド国際空港に到着したのは、翌二十二日の午前二時を過ぎていた。大幅な遅れであった。
 空港には、青田進や正木永安、そして、ユキコ・ニシノらのニューヨークの代表が出迎えていた。
 伸一は友の顔を見ると、笑みをたたえて言った。
 「いやー、待たせて申し訳ないね。元気に帰ってきたよ。ありがとう」
 やつれてはいたが、気迫に満ちあふれた伸一の姿にメンバーは安した。その雄姿を見ると、勇気が湧いてくるのであった。
 「先生、お疲れさまでした。これは、オニギリですが……」
 ユキコ・ニシノが、こう言って、作ってきたオニギリを差し出した。
 「ありがとう。気を使ってもらって。その真心が嬉しいね」
 一行はホテルで、それを口にしたが、梅干しの入ったオニギリは、ことのほかおいしく感じられた。
 この約十時間後には、伸一は、ニューヨークを発って、午後二時半には、ロサンゼルスに到着していた。
 このわずかなニューヨークの滞在時間のなかで、かなりの時間を費やし、ロサンゼルス支部の結成の打ち合わせが行われ、慎重な人事の検討がなされた。
 ロスの空港でも、二、三十人の友が、学会歌の合唱で出迎えてくれた。
 伸一は、熱唱する友の前に立つと、皆と一緒に歌い始めた。メンバーの歌声は、何度もとぎれそうになった。会長を迎えた喜びが、涙となって込み上げ、声を詰まらせるのである。
 この間にも、メンバーが息せき切ってやって来た。友の多くは、空港に初めて来た人であり、広いターミナルビルのなかを、探し回り、遅くなってしまったのである。
 当時は、ほとんどの人が船で十数日を費やして渡米しており、空港は、メンバーにとって、まったく馴染みのない場所であったといってよい。空港に、出発ロビーや到着ロビーがあることさえ知らない人も、少なくなかった。
 合唱が終わると、伸一はメンバーに語りかけた。
 「どうも、ご苦労様!」
 その時、友の輪の後ろの方で、「先生!」と、叫ぶ声がした。
 人波をかき分けるようにして、一人の婦人が男性を連れて、伸一の前にやって来た。
 「先生、主人を連れてきました」
 婦人が、元気に言った。
23  開拓者(23)
 山本伸一は、婦人を見ると、笑顔を浮かべた。
 「やあ、よく来たね」
 彼女の名は、タカエ・ハナムラといった。前年の春に、学会本部で、伸一が激励した女性であった。彼女は、数年前にアメリカに渡り、細々と信心を続けていたが、里帰りのために一時帰国し、母親とともに本部にやって来たのである。
 その時、伸一は、こう約束した。
 「私も、来年の十月ごろに、アメリカに行こうと思っています。向こうで、またお会いしましょう」
 伸一に渡米の計画があることを知って、彼女は、びっくりした。学会の最高幹部が、アメリカにまで来てくれるとは、想像もしていなかったからである。
 彼女は、この時、夫が未入信であることを、伸一に打ち明けた。
 「では、アメリカを訪問した時に、ご主人とも会わせていただけますか」
 「はい、お願いします」
 以来、一年半の歳月が流れていた。
 タカエ・ハナムラは、後ろにいた夫を紹介した。
 「主人のミチアキです」
 「そうですか。よくいらしてくださいました。私が会長の山本です」
 伸一は、丁重にあいさつすると、握手を交わした。
 夫は、驚いたように、ただ、伸一を見つめていた。
 「では、また、座談会でお会いしましょう」
 伸一が笑顔で言うと、ミチアキ・ハナムラは、黙ったまま頷いた。当惑していたのである。
 彼は、創価学会に対して、どこか、うさん臭いものを感じていた。妻から、その学会の会長に会うといわれ、いやいや空港にやって来た。
 しかし、実際に会ってみると、礼儀正しい、精悍な感じの青年であり、自分のいだいていた、権威的な″教祖″のイメージとはあまりにも異なっていた。しかも、何か心引かれるものがある。彼は、その落差に戸惑いを禁じ得なかった。
 人は、偏見をもって捏造された一部のマスコミの報道やをもとに、学会のイメージを作り上げていく。しかも、ひとたび、先入観が出来上がると、公正な目で評価を下すことができなくなってしまう。
 それを打ち破るものは、信仰によって陶冶された人格の人との語らいである。人格の輝きは、悪意の中傷を覆し、真実を雄弁に物語る。百聞は一見に如かずである。そのためにも、幹部は多くの人々と直接会い、対話することを忘れてはならない。
24  開拓者(24)
 一行は、空港からホテルに向かうと、ほとんど休む暇もなく、座談会場に向かわなければならなかった。
 そのわずかな時間に、山本伸一は、人事の面接を兼ね、ロサンゼルスの主なメンバーと会った。
 座談会の会場は、日本人街の″リトル東京″にあるサン・ビルディングであった。会場入り口には、受付が設けられ、若い女性が立っていた。
 彼女は、伸一の姿を見ると、緊張した顔で、あいさつした。
 「お疲れ様です」
 伸一は、微笑みながら答えた。
 「うん、疲れた。くたくただよ」
 彼女の顔にも笑みが浮かんだ。その言葉に、人間的な温もりを、彼女は感じ取ったのである。
 会場には、百人を超す人たちが詰めかけていた。
 会場正面には、白布で覆われた演壇が置かれ、その後ろには、戸田城聖の写真が掲げられ、「団結」の文字が毛筆で書かれていた。
 伸一が「七つの鐘」の未来構想を発表し、戸田の逝去の悲しみの淵から、同志が立ち上がっていった、あの一九五八年(昭和三十三年)五月三日の春季総会の設営を模したものである。
 また、「団結」の文字の左右には、星条旗と日の丸の旗が飾られ、演壇の脇には、松の盆栽まで用意されていた。そして、毛筆で、「羅府決起大会」と書かれた垂れ幕が躍っていた。
 星条旗を除けば、設営はすべて日本と同じである。何もかも日本にならい、画一化する必要はない。むしろ、これからは、その国の伝統や文化、人々の感覚を生かしていくべきではないかと、伸一は思った。
 しかし、準備に当たってきたメンバーがほとんど日本人であったために、こうした形で、戦いの意気込みと喜びを表現せざるを得なかったのであろう。彼は、その気概が嬉しかった。
 ロサンゼルスは、同志の数も多く、日本から渡って来た人々が、互いに連絡を取り合い、座談会もかなり活発に開かれてきた。
 とはいえ、メンバーのなかに、特に優れたリーダーがいたわけではなかった。だが、それぞれが体験を通して、懸命に信心に励めば、必ず功徳があるとの確信をつかんでいた。
 体験は百万言の理論に勝る。その体験を互いに語り合いながら、活動に励んできたのであった。
 ここでも活動の主力は、アメリカ人と国際結婚し、渡米してきた日系の婦人であった。
25  開拓者(25)
 ロサンゼルスのメンバーの一人に、カズコ・エリックという、看護婦をしている婦人がいた。
 彼女は、一九五四年(昭和二十九年)の八月に、日本で入信していた。母親が信心して中風を克服したことが、彼女の入信の動機であった。
 翌年、彼女は、米軍の放送局で働くアメリカ人からプロポーズされ、結婚の意志を固めた。しかし、男性の母親は、結婚に猛反対した。男性の母親から、カズコに来た手紙には、こう書かれていた。
 「息子とジャップが結婚なんて、とんでもない!」
 戦時中の敵国日本への怒りが拭えずにいたのだ。
 しかし、カズコも負けてはいなかった。手紙を受けとると、早速、返事を書き送った。
 「あなたの指図なんて受けないわ。シャラップ・ヤンキー!」
 嫁になる日本人女性と、姑になるアメリカ人の女性の間で、日米の戦争は、まだ続いていたのである。
 夫は、結婚手続きを済ませ、先に帰国した。カズコは、アメリカの入国許可が下りるのを待った。ところが、結核にかかっていることがわかり、入国は許可されなかった。
 当時、結核は不治の病とされていた。看護婦をしている彼女は、結核がどんな病気かをよく知っていた。目の前が真っ暗になったような気がしたが、彼女は、くじけなかった。
 ──私には信心がある。
 カズコは、猛然と信心に励んだ。弘教と友の激励に奔走した。
 姑との手紙での激しい攻防戦は、その後も、しばらく続いていた。しかし、手紙のやり取りを通して、姑は、カズコが看護婦であることを知ると、態度が急変した。姑も、長い間、看護婦をしていたのである。
 「早く病気を治して、アメリカにいらっしゃい」
 姑が心を開き、結婚を許してくれたのだ。その手紙に、カズコは涙した。そして、御本尊の功徳に、心の底から、感謝の思いが湧いてきてならなかった。
 彼女の結核は、日ごとに快方に向かっていった。
 渡航の手続きを進め、神奈川県の米陸軍病院に入院し、検査を受けた。
 容体は、かなりよくなってはいたが、完治はしていなかった。
 そこから、米軍機で、ハワイを経由し、サンフランシスコ近郊の病院に入院させられた。
 ここで治らなければ、アメリカでの新生活を始めることはできない。
26  開拓者(26)
 カズコ・エリックにドクターは、約一カ月の入院が必要であり、経費には約五百ドルかかると告げた。
 彼女の所持金は、全部で百五十ドルしかなかった。先にアメリカに帰った夫は、経済的に窮地にあり、その金は二人の新婚生活のための大切な資金だった。
 ──とても、そんなに入院しているわけにはいかない。信心で、絶対に一週間で治してみせる!
 エリックは、病室で決然と唱題に励んだ。そして、この病院中の人たちに、信心を教えようと決意した。
 しかし、彼女は、英語はわからなかった。和英辞典を引きながら、カードに、弘教のための言葉を書き連ねていった。
 それを持って、病院の庭に飛び出すと、突然、叫び出した。
 「リスン(聞いてください)!」
 庭に出ていた人たちが、然とした顔で、彼女に視線を注いだ。
 「ナンミョウホウレンゲキョウ、ナンバーワン!
 イフ・ユー・ウォント・ゴー・ホーム、スピーク・ナンミョウホウレンゲキョウ!」
 彼女は、「南無妙法蓮華経は、最高の教えです。もし、退院したいと思うのなら、南無妙法蓮華経と唱えることです」と、言っているつもりであった。
 恥も外聞もなかった。学会員として心がけるべき、常識も、社会性も眼中になかった。あるのは、早く結核を治して、退院したいとの思いだけであった。
 そして、意気揚々と部屋に戻ると、また必死で唱題し、心で念じた。
 ──御本尊様、聞いていますか。私は、今、四、五十人の人に下種をしてきました。一生懸命、仏道修行に励んでおります。ご存じですね。ですから、必ず一週間で退院できると約束してください。それから、私は百五十ドルしかもっていません。病院の支払いは、百二十五ドル以内にしてください。残りの二十五ドルは退院したあと、部屋を借りるお金ですから。
 彼女は、真剣であった。毎日、唱題と、この非常識ともいえる″弘教″に明け暮れた。ちょうど、一週間目に検査の結果が出た。
 願った通り、退院となった。彼女は、小躍りして喜んだ。
 そして、費用を精算すると、なんと、百二十五ドルであった。
 迎えに来た夫と、病院を出ようとすると、病室の窓から、みんなが身を乗り出して呼んでいる。
 彼女は「ハロー、ハロー」と、跳び上がって手を振った。
27  開拓者(27)
 病室の人々は、口々にこう叫んでいた。
 「プリーズ、テル・ミー・ザ・マジックワード(あの不思議な言葉を教えてください)」
 「オーケイ、オーケイ」
 カズコ・エリックは、題目をローマ字で紙に書き、各病室に配って歩くと、強い語調で言った。
 「スピーク、ゴー・ホーム」
 彼女は「これを唱えれば家に帰れますよ」と言いたかったのだが、これが果たしてどこまで通じたのか、定かではない。
 ともあれ、念願が叶い、晴れて、アメリカの大地を踏んだエリックは、この体験を原動力に、ロサンゼルスの地にあっても、一心に活動に力を注いできたのである。
 こうした婦人たちのほかに、何人かの壮年と留学生がいた。
 午後六時半、サン・ビルディングでの、ロサンゼルスの支部結成式となる歴史的な座談会が始まった。
 ここでも、山本伸一は、質問会を中心に座談会を進めた。やはり、未入信の夫のことや、病気や生活苦の問題が多かった。
 伸一は、時にユーモアをまじえながら、優しく、包み込むように、質問に答えていった。百人を優に超す座談会であったが、和やかな、ほのぼのとした雰囲気に包まれていった。
 皆、安心したのか、しばしば出身地の方言が思わず飛び出し、場内には爆笑が渦巻いた。馴染めぬ異国での生活に疲れた人々にとって、そこは、オアシスであり、安らぎの園であった。
 伸一は、一通り質問が終わると、渾身の力を振り絞って語った。
 「アメリカは、世界のなかでも、物質的に恵まれた豊かな国です。皆さんも、全員が裕福になり、健康になっていただきたい。しかし、肝心の心が貧しければ、本当の幸せはありません。蔵の財よりも、身の財であり、身の財よりも、心の財こそ大切です。
 今、ようやく、アメリカの人たちも、そのことに気づき始めています。
 では、どうすれば、心を豊かにすることができるのか──それを知っているのは、皆さん方だけです。ゆえに、このアメリカの未来を担うのは、皆さん方なのです。
 私は、その意味から、ここにおられるご婦人の皆さんこそ、アメリカのトップレディーであると申し上げておきます。今は、それぞれ、苦労や悩みがおありでしょうが、この使命を忘れることなく、アメリカに幸福の光を送る太陽となっていただきたいのです」
28  開拓者(28)
 山本伸一は、それから、アメリカの各地で訴えてきた、市民権と運転免許の取得、そして、英語の習得の「三指針」を示した。
 決意を託した万雷の拍手が、場内に響いた。
 そして、いよいよ支部結成の発表である。彼は、一段と力を込めて語った。
 「ロサンゼルスは、アメリカの広宣流布の中心となる大切な地域です。そこで本日、ここに、支部を結成したいと思います」
 賛同の拍手と大歓声が起こった。
 参加者は、アメリカ各地に、地区が結成されたことを聞かされていたが、ロスには、なんと支部が誕生したのだ。嬉しさに、メンバーは躍り上がらんばかりだった。誰もが、新しい″時″の到来を感じていた。
 また、地区は、セントルイス、オリンピック、ファースト、ウエスト、ロングビーチ、サンディエゴの六地区の結成が発表された。
 続いて、その人事の発表である。
 「では、人事を申し上げます。呼ばれた方は、返事をして、前に出て来てください。
 ロサンゼルス支部の支部長は、アキオ・イシバシさんにお願いします。よろしいですか」
 イシバシは四十過ぎの、地道で温厚そうな感じのする壮年であった。
 しかし、彼は、前に出ようとはしなかった。
 「イシバシさん、どうぞこちらへ」
 伸一に、四、五回、こう言われて、イシバシはようやく前に出て来たが、伸一が座っていたイスにしがみつくと、懇願するように言った。
 「私は、とても支部長なんかできません。ほかの人の方がよいと思います」
 それが、イシバシの率直な気持ちだったのだろう。
 伸一は、彼の目をじっと見て言った。
 「私がお願いしても、だめでしょうか」
 イシバシは困惑した顔で立っていた。
 「よろしいですね」
 伸一に念を押されると、観念したらしく、「はい……」と返事をした。
 しかし、いかにも頼りなげな声であった。伸一は、諭すように言った。
 「役職というのは、自分の境涯を開く直道です。やる前に、無理だと決めるのではなく、素直に受けて、力の限り挑戦していくことが大事です。それに、経験豊かな二人の壮年が、あなたを補佐しますから、腹を決めて、戦ってください」
 そして、二人の壮年の支部幹事の名を読み上げた。
29  開拓者(29)
 続いて山本伸一は、婦人部長の人事を発表した。
 「支部婦人部長は、キヨコ・クワノさんにお願いしたいと思います。なお、これまで、婦人の中心的な存在として活躍してくださったカズコ・エリックさんには、セントルイスの地区部長として頑張ってもらうことになります」
 クワノは渡米して十カ月ほどであり、活動のうえで大きな実績を残してきたわけではなかった。彼女は、しぶしぶ立ち上がると、伸一に言った。
 「先生、すいませんが、私、婦人部長なんて無理だと思います。とても、そんな力はありませんから」
 「大丈夫。私が守り、応援します。安心して戦ってください」
 「はい……」
 クワノは頷いた。
 「では、抱負!」
 伸一に促されて、彼女はあいさつに立った。
 「何もわかりませんが、とにかく、力いっぱい、戦わせていただきます。よろしくお願いします」
 婦人部長の人事が発表された時から、カズコ・エリックの顔は曇っていた。そして、伸一とクワノのやり取りを見ると、彼女の胸には、ムラムラと嫉妬の炎が燃え上がった。その目には涙さえ浮かんでいた。
 ──なんで、婦人部長は私じゃないのよ。どうしてあんな人が、婦人部長になるの! おかしいわ。私の方が、よっぽど頑張ってきたじゃない!
 エリックは、心で叫んでいた。
 更に、地区部長の人事が発表された。ここで、再度、セントルイス地区の地区部長としてエリックの名が呼ばれたが、彼女は、返事さえせず、プイと横を向いてしまった。
 支部長のアキオ・イシバシに始まり、婦人部長のキヨコ・クワノ、そして、このエリックと、日本では考えられない、人事発表の光景と言ってよいだろう。
 この日、任命になった地区部長は、いずれも女性であった。
 また、この時、正木永安が、北米全体の男子部の中心者に、やはり、留学生の中原雄治が、ロサンゼルスの中心者になった。
 そして、女子部のロサンゼルスの区長には、受付をしていた、チカコ・ハヤシダが任命された。
 発表が終わると、伸一は、エリックに言った。
 「エリックさん、クワノさんの方が、年齢もあなたより上だし、婦人部長は、お姉さんにやってもらおうよ。いいですね?」
 「ノー!」
 エリックは、吠えるような声で言った。
30  開拓者(30)
 山本伸一は、少し困った顔で言った。
 「わかってもらえないのか、弱ったな……。じゃあ、清原さん、後でよく説明してあげて」
 伸一は、それで人事の話は打ち切った。そして、こう話を結んだ。
 「戸田先生は、学会の組織は、戸田の命よりも大切だと言われた。それは、組織こそ、広宣流布の生命線であるからです。
 組織は、水道にたとえることができるかもしれません。水道が完備されていれば、蛇口を捻るだけで、清浄な水が供給される。その水は、喉の渇きをし、炊事にも、入浴にも使われ、生活を支えるうえで、欠かせないものです。
 同様に、学会の組織は、清らかな信心の息吹を送り込み、人材を育む″信心の水道″といえます。
 もし、中心になる幹部が求道心を失えば、水道管が水源につながっていないようなものです。また、幹部が不純であれば、泥水が流れ、動こうとしなければ、水はよどんで管はサビついてしまう。幹部同士の仲が悪ければ、管がひび割れているようなものです。
 どうか、皆で力を合わせて、この仏意仏勅の組織を守り、育ててください。お願いします」
 伸一は指導を終えると、土産として持ってきた袱紗や、英語版の学会の紹介書の『ザ・ソウカガッカイ』を、全参加者に手渡していった。そして、一人一人に励ましの言葉をかけた。
 彼は、生後二、三カ月くらいの赤ん坊を連れた婦人の前に来ると、その子を抱き上げた。
 「可愛いお子さんだね」
 そして、片手に持っていた袱紗を、そっと、その子の胸に掛けた。
 「これは、このお子さんの分です」
 その時、婦人が言った。
 「先生、実は、来年になると、主人がシアトルに転勤になりますもので、私もあちらに行かなくてはならないのです」
 この女性は、米軍の将校の夫人であった。異国で、更に知らない土地に移転するとあって、心細そうな声であった。
 「そうなの。私もシアトルに行って来たけど、すばらしいところだよ。気候もいいし、自然も美しい。よかったね。あんなにすばらしい所に住めるなんて、福運じゃないか」
 「そうなんですか。シアトルって、そんなによい所なんですか。私、まだ、行ったことがないものですから、どんな所かと思って」
 婦人の目が輝いた。
31  開拓者(31)
 山本伸一は言った。
 「シアトルにも、地区ができたから、向こうでも、しっかり頑張るんだよ。美しき山河を、白馬に乗って女王が駆け巡るように」
 「はい!」
 元気な声が返ってきた。
 彼は、ふと床に視線を落とすと、彼女のバッグからはみだしている一冊の本が見えた。それは、この年の八月下旬に発刊されたばかりの、『戸田城聖先生論文集』であった。伸一は微笑んで言った。
 「この本が、もうアメリカに届いていたのか。記念に、何か書きましょう。あなたのお名前は?」
 「はい、マサコ・クラークと申します」
 伸一は、抱いていた赤ん坊を婦人の手に返すと、ペンを走らせた。
 「妙法に照らされ 女王の如く 舞いゆけ」
 目頭を潤ませて、彼女は言った。
 「どうも、ありがとうございます」
 その顔には、新しき天地で戦う決意がみなぎっていた。人は、心の持ち方によって、物事の受け止め方は違ってくる。
 すべてを、希望へ、歓喜へ、前進へとつなげ、勇気の太陽を、胸中に昇らせていってこそ仏法である。そして、そのための触発が、指導にほかならない。
 彼が揮毫するのを見て、一人の青年がやって来た。
 「すいませんが、私にも記念に何か書いていただけませんか」
 空港で、写真を撮っていた青年であった。彼は一カ月前に信心を始めたばかりだという。
 伸一は、「信行学」としたためた。
 それを契機に、何人もの人が、書籍やノートを持って、伸一を取り囲んだ。
 彼は、一人一人と言葉を交わし、労をねぎらいながら、次々と揮毫していったのである。
 座談会の後、伸一は、この日、任命になった全幹部を別室に呼んだ。カズコ・エリックは、横を向いたまま、前に座っていた。
 エリックの人事は、皆で慎重に検討した結果であった。エリックのこれまでの活躍や一途な情熱は、誰もが評価していた。しかし、組織が発展するには、皆の調和を図り、一人一人の力を最高に生かし、組織の総合力を高めていくことが、大事な要件となる。
 また、リーダーには、良識や冷静さ、緻密さも求められる。それらを考え合わせると、活動経験や実践力では、エリックが勝っていても、婦人部長としてはキヨコ・クワノの方がふさわしいのではないかというのが、一行の結論であった。
32  開拓者(32)
 ロサンゼルスの発展の鍵は、どこまでもキヨコ・クワノとカズコ・エリックの絆にあった。
 組織の力というのは、人と人との組み合わせによって決まるといってよい。むしろ、タイプも、個性も、考え方も違う幹部が力を合わせることによって、多種多様な人材を育み、いかなる問題にも対処できる幅の広い、人間組織が出来上がるのである。
 つまり、人の和こそが組織の強さにほかならない。
 この人事には、二人が互いに欠けているものを補い合えば、最も強力な布陣になるとの期待が込められていた。更に、これまで、中心的な立場で戦い、力もあるエリックが地区部長になることによって、全地区部長の自覚を高めたいとの思いもあったのである。
 伸一は、厳しい口調で言った。
 「学会の組織は、あくまでも日蓮大聖人の御聖訓のままに進みゆく信心と人間の組織です。自分が中心者にならなければいやだというのは、信心ではありません。それでは名聞名利です。わがままです。仏勅の団結を乱すことになる。
 それまで、どんな戦いをし、実績をあげようが、自分の感情によって自身の信心が敗れた姿になる。
 また、役職につかないというのも、同じく、わがままです。謙虚さの仮面を被った怠慢であり、利己主義です。広宣流布のためにはなんでもやろう、みんなのために、奉仕しようというのが、仏道修行なのです。 もちろん、それぞれ仕事の問題など、いろいろな事情があるでしょうから、それは考慮し、相談にも乗ります。しかし、その根本精神を失ったならば、もはや信心の団体ではない。
 大聖人は、『心の師とはなるとも心を師とせざれ』と仰せになっている。
 アメリカは自由の国です。でも、自由だからといって、信心までもわがままになり、自分の心を律する原点を見失ってしまえば、最後は、自分自身の心が乱れる。それは不幸を意味する。
 自分の心を中心に考えるのではなく、どこまでも法を根本にし、広宣流布のために戦おう、生きようと、自分の一念を定めていくところに、初めて、自身の人間革命があるんです」
 伸一は、それからエリックとクワノを見て言った。
 「エリックさんとクワノさんは、これからは広宣流布のための人生だと決め、仲良く、二人で力を合わせて戦っていくことです」
33  開拓者(33)
 山本伸一の口調は厳しかった。
 「もし、クワノさんがだめになったら、それは、エリックさんの責任です。また、エリックさんがだめになったら、クワノさんの責任です。いいですね」
 クワノは、頷きながら、「はい」と返事をしたが、エリックは口を結んだままだった。
 「じゃあ、二人で握手をしなさい。みんなが安心するから」
 クワノは、手を差し出して、エリックの顔を見つめた。しかし、視線が合った瞬間、エリックは、自分の手をサッと後ろに回した。
 「これじゃあ、しようがないな」
 伸一は、苦笑を浮かべて言った。
 その夜、伸一が宿泊しているホテルに、支部幹部に任命になったメンバーがやって来た。
 伸一は、ここでは、支部長と支部幹事になった三人の壮年に焦点を絞り、指導していった。
 「一本の矢なら、すぐに折ることができるが、三本に束ねられた矢は、なかなか折れないという譬えがあります。支部の強さの秘訣も、団結にあります。あなたたち三人が、しっかり力を合わせ、責任を持って同志を守っていくことです。それができなければ支部はニューヨークに移します」
 三人とも、実直で人柄のよさそうな人である。しかし、各部を背負う学会の柱としての自覚や責任感は、いまだ乏しかった。
 伸一は、この壮年たちに大きな期待を託していた。それゆえ、厳愛の指導となっていったのである。
 「壮年というのは、各部の団結の要です。支部のすべての責任は、最後は壮年が持つのです。そのうえで婦人や青年には、『伸び伸びと、自由自在に戦ってください』という、度量がなくてはなりません。
 壮年の傾向として、力がなく自信もない人ほど、虚勢を張って権威的になり、威張るようになる。そうなれば、周囲の人は、付き従っているように見えても、内心はみんな軽します。
 特に、婦人に対しては、壮年は絶対に怒ったり、怒鳴ったりしてはならない。最も真剣に戦ってくれるのは婦人なのですから。
 日本では、昔は、妻は夫に従って従わせるといわれてきたが、これからは逆になっていくでしょう。
 ましてやアメリカは、レディー・ファーストの国ですから、なおさらです。壮年は、婦人の言うことを、よく聞いて、話し合っていくことが大事です」
34  開拓者(34)
 壮年の一人が、山本伸一に尋ねた。
 「私には、人に信心を教えるような経験も、実力もありません。これから、支部の幹部として、みんなから相談を持ち掛けられた場合、どうすればよいでしょうか」
 真摯な質問であった。伸一は微笑んだ。
 「経験は、これから積めばよいのです。学会は指導主義です。指導は、教授とは違う。自分が習得したものを人に教えるのが教授ですが、指導というのは、進むべき道を指し示し、ともに進んでいくことです。
 したがって、御書にはこう仰せである、学会ではこう教えていると、語っていけばよいのです。
 そして、一緒に、その人の幸せを祈ってあげることです。これは、誰にでもできることだが、人間として最も尊い行為です。自分のために、祈ってくれる同志がいるということほど、心強いことはありません。それが、最大の力になり、激励になります。
 また、これからアメリカには、幹部を派遣しますから、わからないことは、その人に、率直に聞いてください。幹部として、大切なことは求道心です」
 伸一は、幹部の基本を、諄々と話していった。
 新任の幹部が帰った後、同行のメンバーが、伸一の部屋に集まってきた。
 彼は、イスに腰を下ろすと、十条潔に尋ねた。
 「日本は、今、何時ごろになるかな」
 十条が、腕時計を見ながら答えた。
 「こちらが午後十一時五十分で、時差がプラス十七時間ですから、間もなく二十三日の午後五時になるころです」
 「よし、日本に国際電報を打とう。ブラジルとロサンゼルスの支部結成を伝えるんだ」
 十条が、電報を打ちに、部屋を出て行った。
 十条が戻って来るのを待って、伸一は、静かに語り始めた。
 「これから本部として、アメリカをどう育てていくかが極めて重要になる。海外に対しては、日本のどこかの総支部につけるという考え方ではなく、本部が直接、面倒を見て、力を注いでいくようにしなくてはならない。その意味から、今回、南北アメリカ大陸を、アメリカ総支部にしたいと思うが、どうだろうか」
 それは、この旅の途中、伸一が何度か、口にしていたことであった。
 皆、大賛成であった。
 「よし、決定だ!」
 彼は弾んだ声で言った。
35  開拓者(35)
 会長山本伸一を囲んでの打ち合わせは、午前零時を過ぎても続いていた。
 伸一は、次々に手を打っていった。
 「問題は、このアメリカ総支部の人事だが、しばらくは、本部が全面的に応援していくしかないだろう。そこで、総支部長は十条さんでいきたいと思うが、いいかね」
 「はい、わかりました」
 「総支部婦人部長は、清原さんだよ」
 「はい」
 「総支部幹事は、正木君と青田君だ。それから本部の海外係を発展させて、海外部としよう。部員も増やし、陣容も充実したものにするんだ。部長は神田丈治さんしかいないだろうね。
 この人事は、正式には、今月の本部幹部会で発表するとして、アメリカ総支部の結成は、すぐ日本に伝えておこう」
 ここに、アメリカの布陣は整ったといってよい。伸一は、疲労困憊していた。
 しかし、その彼の頭脳から、新構想が次々と紡ぎ出され、希望の広布図が描かれていったのである。
 日本では、二十三日の夜、学会本部に相次いで二通の国際電報が届き、本部はただならぬ興奮に包まれていた。
 「ブラジルとロサンゼルスに支部結成しました 十条」(二十三日午前零時二分
 ロサンゼルス発)
 「アメリカ大陸に総支部結成せり 十条」(二十三日午前一時二十八分ロサンゼルス発)
 本部に残っていた、最高幹部や職員たちは、海の向こうで、世界広布のうねりが、激しく巻き起こっていることを感じた。そして、深夜に及ぶ、山本会長の奮闘を思い、感動に体が震える思いがするのであった。
 翌日、一行はロサンゼルスのUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)などの視察に出掛けた。
 キャンパスには、緑が茂り、木々のに、鳥のさえずりが響いていた。
 伸一は、戸田城聖と大学設立の壮大な未来構想を語り合ったことを思い出した。それは、恩師の事業が暗礁に乗り上げた、苦境のさなかのことであった。
 「伸一、将来は大学をつくろう。牧口先生も考えられていた。ぼくができなければ君がやるんだ。平和建設の土台は教育だからな」
 その時の戸田の目が忘れられなかった。
 伸一は、UCLAの構内を歩きながら、つぶやくように言った。
 「学会も、大学をつくるよ。名前は創価大学かな」
 これが現実となるのは、実に、わずか十一年後のことであった。
36  開拓者(36)
 翌二十四日は、いよいよ帰国の日であった。
 一行は、午前十一時過ぎに空港にやってきた。
 ロビーには、四、五十人のメンバーが見送りに来ていた。
 山本伸一の周りに幾重にも人垣ができ、歓談の輪が広がった。
 「先生、また、アメリカに来てください」
 若い婦人が、名残惜しそうな顔をして言った。
 「来ますよ。皆さんが幸せになるまで、何度でも来ます。その代わり、来年は皆さんが日本に来てください。そこで、また、お会いしましょう。
 その時は、幸福になった姿のお土産をください。皆さんが功徳をたくさん受け、幸せになったという体験が、私には最高のお土産なんです」
 明るい語らいが弾んだ。
 伸一は、皆に飲み物を振る舞った。彼は、男子部のロスの中心者になった、留学生の中原雄治を見ると、笑顔で言った。
 「アメリカの青年の、栄光の未来のために乾杯だ」
 ジュースで愛する青年部の前途を祝った。
 その和やかな語らいを、人垣の一番後ろで、浮かぬ顔でながめている婦人がいた。カズコ・エリックであった。
 彼女は、支部結成式となった、あの座談会の夜は、泣きじゃくりながら家に帰った。
 ──私は、これまで一番頑張ってきたはずだ。それなのに、婦人部長になれないなんて……。
 エリックは、そう思うと、悔しくて仕方なかった。家に着いても、何もする気にならなかった。心はいつまでも高ぶり、気持ちの整理がつかないのだ。
 彼女は、ともかく御本尊様に、自分の胸の内を聞いてもらおうと思った。唱題が始まった。
 初めは無性に涙があふれて止まらなかったが、題目を唱えると、次第に心は平静さを取り戻していった。
 山本会長の指導が、彼女の胸に蘇ってきた。冷静に考えていくと、婦人部長になれないからといって、いじけてしまうのは、確かに信心ではなく、名聞名利であったことに気づいた。
 すると、今度は、自分の態度が悔やまれた。取り返しのつかないことをしてしまったと思った。翌日も、食事が喉を通らなかった。
 ──どうしよう。素直に謝れば、先生は許してくださるだろうか。でも、たとえ許してもらえなくても、先生にお詫びだけはしなくては……。
 エリックは、そう心に決めて、空港にやって来たのであった。
37  開拓者(37)
 カズコ・エリックは、山本会長に、非を詫びる機会をうかがっていた。
 しかし、気後れがして、言うチャンスが見つからなかった。
 伸一は、ロビーのイスに腰掛け、メンバーが差し出す書籍やノートに、次々と激励の揮毫をし始めた。
 ──どうしよう。言い出せない。……でも、今、謝らなかったら、きっと、一生、後悔するわ!
 彼女は意を決して、伸一に声をかけた。
 「先生! ……」
 伸一の視線がエリックをとらえた。
 「ごめんなさい! 素直になれなくて、申し訳ありませんでした」
 彼女は、頭を下げると、怖々とのぞきこむように、伸一の顔を見た。彼の顔に優しい微笑が浮かんだ。
 「そうだよ。信心は素直であることが大事だ。純真に信心を続けた人が、最後は必ず勝つんだからね」
 「はい! 頑張ります」
 エリックは嬉しかった。に大粒の涙が光った。
 そして、思った。
 ──そうだ、私も揮毫していただこう。
 彼女は、手にしていた書籍を、伸一の前に差し出して言った。
 「先生、私にも何か書いてください」
 「しようがないな。あなたが最後だよ」
 彼は、さらさらとペンを走らせた。
 「勇猛精進 伸一 十月二十四日 於 ロス飛行場」
 それから伸一は、婦人部長になったキヨコ・クワノを呼んだ。
 「クワノさん、エリックさんと仲良くやっていくんだよ。二人は、きっと、久遠からの姉妹なんだ。
 二人が力を合わせれば盤石な組織になる。そして、世界一、仲の良い支部をつくっていくんだよ。期待しているからね」
 「はい!」
 二人の声が、相和してロビーに響いた。
 伸一は、ニッコリ笑って頷いた。
 「先生、間もなく搭乗の時刻です」
 秋月英介が告げた。
 伸一は立ち上がると、皆に向かい、頭を下げた。
 「お忙しいなか、お見送りいただき、ありがとう。また、お会いしましょう。日本でお待ちしています。お元気で!」
 メンバーは、伸一を拍手で送った。
 そよ風が凍てた大地の眠りを覚まし、春の到来を告げるように、伸一は、友の心に希望の光を注いで、足早に去って行った。
38  開拓者(38)
 山本伸一の一行が乗った日本航空八一一便は、午後一時四十五分、ロサンゼルスを発ち、ハワイを経由した後、一路、東京を目指して飛び続けた。
 機内放送は、午後九時三十五分の羽田到着が、一時間余り遅れることを告げていた。時刻は、間もなく、日本時間の十月二十五日の午後十時半になるところだった。
 伸一は、深くシートに身を沈め、目を閉じた。彼をさいなみ続けた発熱も、下痢も、幸いに止まっていたが、彼の肩は凝り固まり、首筋も、腰も痛かった。しかし、彼は、生命を燃焼し尽くし、自らの使命を果たした、心地よい疲労を覚えていた。
 思えば、十月二日に日本を発ち、二十四日間のうちに三カ国九都市を巡るという、強行スケジュールであったが、二支部十七地区の結成をみたのである。南北アメリカに、広宣流布の黄金の種は下ろされたのだ。
 伸一は思った。
 ──戸田先生も、私の戦いを、きっと、お喜びくださっているにちがいない。
 伸一の胸に、恩師の顔がありありと浮かんだ。
 ──さあ、今度はいよいよアジアだ。先生が「雲の井に月こそ見んと願いてし
 アジアの民に日をぞ送らん」と詠まれたアジアに、燦々と、平和と幸福の光を注ごう。
 この時、既に翌年一月末からのインド、ビルマ(現ミャンマー)、タイ、セイロン(現スリランカ)、カンボジア、香港への平和旅が決定していたのである。
 ──更に、次はヨーロッパ、その次は中近東だ。
 彼の世界広布への夢は、限りなく広がっていった。そして、その構想を果たすうえでも、すべての基盤となる日本各地の組織の建設に、全魂を注がなくてはならないと思った。
 伸一が成さねばならない課題は山積していた。行事も、翌週からは、関東、中部、甲信越、北陸の各支部の結成大会をはじめ、男女青年部の総会などが待ち受けていた。
 彼は、三十二歳の若さであったが、一生という限りある時間のなかで、自らが成すべき仕事を考えると、人生はあまりにも短く感じられてならなかった。
 今、旅は終わろうとしていた。しかし、伸一にとって、この旅は、果てしなき平和への遠征の始まりであった。
 彼は、満々たる闘志を胸にたぎらせ、固くを握り締めた。
 下降し始めたジェット機の窓の下には、街の灯が、まばゆく輝いていた。広宣流布の本陣・東京の街の明かりであった。

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