Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1巻 「慈光」 慈光

小説「新・人間革命」

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1  慈光(1)
 大仏法の慈光は、今、アメリカ最大の都市ニューヨークの摩天楼にも、降り注ごうとしていた。
 トロントを発った山本伸一の飛行機は、午後二時過ぎに、ニューヨークのアイドルワイルド国際空港(後のジョン・F・ケネディ国際空港)に到着した。
 当初の予定より二時間半ほど遅れたが、十数人のメンバーが、「威風堂々の歌」の元気な合唱をもって一行を迎えた。
 そして、皆の歓迎の拍手のなか、まだ、四、五歳くらいの幼い少女が、伸一に花束を手渡してくれた。
 ニューヨークの街は、世界経済の中心らしく、さすがに活気に満ちていた。エンパイヤ・ステート・ビルディングをはじめ、高層ビルが林立する摩天楼の景観に、伸一は目を見張った。一行が宿泊するホテルはマンハッタンのブロードウェーと三十四番街が交差する角にあった。
 絶え間なく行き交う車の音は、十九階の伸一の部屋にも響いてきた。目を閉じると、それは潮騒のようでもあり、群衆の歓呼の声を聞くようでもあった。
 彼は、百年前に、このブロードウェーをパレードした初の遣米使節団の侍たちの姿を思い描いた。
 ワシントンで日米修好通商条約の批准書を交換した使節団は、ニューヨークを訪れ、ここで、市民の大歓迎を受けたのである。
 七千人の儀礼隊に護衛され、使節団一行は、馬車に乗って、ブロードウェーを行進した。街路は何万人もの群衆に埋まり、大歓声が空にこだました。
 この行列を目にした詩人のウォルト・ホイットマンは、それを、若き自由人・アメリカと、齢を重ねた万物の母・アジアとの出あいとして称え、歌った。
 西の海を渡り、日本か
 らやって来た、
 礼儀正しく、日焼けし
 たの、二本の刀を持
 った使節たちよ……
 彼は、この東洋との出あいによって、アメリカに欠けていたものが補われ、この国が完全なるものになることを夢見ていた。
 それから百年を経て、伸一は、東洋からの仏法の使者として、ブロードウェーの街路を踏んだ。
 一行を迎えたのは、群衆の熱狂とはほど遠い、一握りの同志にすぎない。
 しかし、伸一は、この訪問を、ホイットマンが渇望した、万物の母たる東洋の哲理との、真実の交流の夜明けにしなければならないと決意していた。
2  慈光(2)
 翌十四日の午前中、一行は国連本部を見学した。
 ちょうど九月二十日から始まった第十五回国連通常総会の最中であった。
 この総会には、ソ連のフルシチョフ首相、アメリカのアイゼンハワー大統領の東西両巨頭をはじめ、国家元首十人、首相十三人、外相五十七人など、「世界の顔」がそろい、″人類の議会″国連にふさわしい「首脳総会」となった。
 また、総会中に、カメルーン、トーゴ、マダガスカルなど十七カ国の国連加盟が認められている。
 これらの国々は、キプロスを除いて、すべてアフリカ大陸の新たな独立国である。これによって、国連加盟国は九十九カ国となり、そのうち、AA(アジア・アフリカ)グループは四十五カ国となった。
 つまり、AAグループが討議の決定を左右する大きな力となり、世界の政治地図が塗り替えられた総会になったといってよい。
 しかし、世界各国の首脳がそろい、加盟国は増加したものの、再び東西の亀裂が深まった総会は、嵐の様相を呈していた。
 総会は、一般討議の二日目に当たる九月二十三日、フルシチョフ首相の演説から、一気に緊張が高まっていった。
 同首相は、アフリカ諸国の国連加盟に歓迎の意を表した後、U2型機のスパイ飛行について触れ、米国が世界の緊張緩和を妨げたとして激しく批判した。
 更に、植民地制度の即時全面撤廃を、突如、提唱したのである。
 また、国連事務総長には西側諸国に有利な候補者ばかりが選ばれてきたと述べ、ハマーショルド事務総長に批判のホコ先を向けた。そして、国連事務総長のポストの廃止を訴え、それに代わって西側諸国、社会主義諸国、中立諸国のそれぞれのグループの三人の代表からなる、国連集団執行機関を設けるという、国連改革案を出した。
 東西の不信が深まるなかでの強硬な提案である。当時の西側諸国にとっては、いずれの提案もとうてい受け入れがたいものであり、それは、意図的な挑発と映ったようだ。
 ことに、事務総長の廃止は、国連に対する挑戦であるとの強い思いを、西側諸国にいだかせた。
 雪解けムードが漂っていた前年とは、打って変わって、総会は荒れに荒れた。
 国連事務総長への退陣要求に、ハマーショルド事務総長が辞任の意思はないと表明した時には、フルシチョフ首相は、テーブルをドンドンと叩いて不満を表したほどであった。
3  慈光(3)
 この国連総会では、軍縮問題を委員会と本会議のどちらの議題にするかで、最初から意見が分かれた。
 ソ連が本会議の議題とするように主張すれば、西側は「ソ連の要求は宣伝を狙ったものだ」と反論。
 すると、フルシチョフ首相は、演壇で両腕を振り回して、こう応酬した。
 「本気で軍縮をやるかどうかだ。……君たちが軍備競争を望むなら、それもよかろう。ソ連のロケットは地球のどこへでも飛んで行ける。宇宙のどこへでも打ち出せる能力すらもっている。この状態が続いたら、どうなると思うか」
 これに対して、フランスとアメリカの代表が、猛然と食ってかかるという一幕もあった。
 更に、植民地問題で、アメリカ代表が、「東欧には自由をもたない多くの国がある」と発言すると、東側諸国の代表は一斉にテーブルを叩き始めた。そして、ルーマニア代表が議長席に駆け上がり、場内は騒然となった。
 それに憤慨した議長は、ツチで机を叩き、休会を宣言したが、激怒のあまり力が入りすぎたのか、ツチはポキリと折れてしまった。
 世界の民衆は、等しく平和を望んでいる。しかし、総会に臨んだ各国の代表からは、その素朴な民衆の声が発せられることはなかった。人間を離れ、互いに敵視し合うイデオロギーの代弁者の叫びだけが、空しく議場に響き渡った。
 ″人類の議会″として国連を機能させるには、友好と対話によって、互いに人間という原点に立ち返ることを忘れてはなるまい。
 山本伸一の一行が国連本部を訪れたのは、フルシチョフ首相が二十五日間の国連滞在を終えて、帰国の途についた翌日であった。
 一行は委員会、本会議の議事を傍聴した。独立して間もないアフリカ諸国の代表の表情が、生き生きとしているのが印象的だった。
 植民地として統治されてきたアフリカ諸国には、政治、経済、教育、人種問題など、あらゆる課題が山積していた。しかし、リーダーの多くは若々しく、誇りと清新な活力に満ちている。大国の老いたる指導者に見られがちな傲慢さも、狡猾さもなかった。
 伸一は、アフリカの未来に希望を感じた。そこに新しい時代の潮流が始まると見た。
 彼は秋月英介に言った。
 「二十一世紀は、アフリカの世紀になるよ。その若木の成長を、世界は支援していくべきだ」
 彼の目は、遠い未来に注がれていた。
4  慈光(4)
 国連本部を訪問した一行は、それから、ニュージャージーにある座談会場に向かった。
 会場は、ワシントンから移転して来た、正木永安の姉にあたるユキコ・ニシノの家である。
 その家の入り口で、山本伸一は、日系の婦人と青年に出会った。
 伸一は、丁重に挨拶し、名刺を手渡した。
 青年は、日本の商社のアメリカ駐在員で、杉原光男と名乗った。婦人は、この青年がニシノに頼まれて連れて来た、ある大学の助教授夫人であった。婦人は入信していたが、彼女を案内してきた杉原は、学会員ではなかった。
 地元のメンバーが、未入信の友にまで協力を呼びかけ、座談会を成功させようとしていることが、よくわかった。
 座談会は六時半からの予定であり、それまでの時間を使って、地区結成の打ち合わせが行われた。
 座談会が始まった。集ったのは、友人も含めて十数人であった。
 参加者の大半は日系婦人である。また彼女たちの夫はアメリカの軍人として、日本に来ていたという人がほとんどであった。
 メンバーの表情には、生活の疲れが滲み出ていた。
 伸一は、一人一人に声をかけ、家庭の様子などを尋ねていった。
 最初に声をかけた婦人がいかにも、心細そうな声で答えた。
 「主人は軍人ですが、外国に派遣され、子供と二人で帰りを待っています」
 「そうですか。それは寂しいでしょう。どうか、ご主人が帰ってきたら、大切にしてあげてください。
 それまでは、お一人で大変でしょうが、子供さんを立派に育てることです。
 ご主人にとって、一番嬉しいことは、子供が、たくましく、すくすくと育っていることです。それが何よりも大きな励みになりますからね。
 また、ご主人は、奥さんが、明るく、元気で暮らしていれば安心し、仕事でも力を発揮することができます。反対に、奥さんがいつもめそめそし、悲しんでいると思ったら、心配で仕事にも身が入らないものです。
 ですから、もっと、はつらつとして、『私は、大丈夫ですから、あなたもしっかり頑張って』と、手紙に書いてあげるくらい強くなることです。自分が強くなければ、人に対して、優しい心遣いはできません」
 婦人の真剣な顔に、ほのかな赤みがさした。
5  慈光(5)
 山本伸一は、隣の婦人にも声をかけた。
 髪も乱れ、どこか、投げやりな雰囲気のある、三十歳前後の女性である。希望のない暮らしのなかで、心もすさんでしまったのであろう。
 「あなたのご主人のお仕事は?」
 「ウチのは、満足に仕事なんかしていません。日本に兵隊で来ていた時には、アメリカに帰れば、メイドもつけて、いい暮らしをさせてやるなんて、調子のいいことばかり言ってたくせに、こっちに来てみたら、生活なんて最悪ですよ。
 飲んだくれで、仕事もないし、暴力は振るうし、もうメチャクチャ。
 結局、私は、騙されたんですよ。騙された私の方が悪いといわれれば、それまでですけどね。もう、こんな生活は懲り懲り……」
 その言葉に、何人かの婦人が相を打った。
 自分の境遇を嘆く人たちは、アメリカのどの座談会の会場にもいたが、この婦人たちは、よほど辛い思いをしてきたにちがいない。
 婦人部長の清原かつが、血相を変えて言った。
 「あなた、勤行をしているんでしょ? 御本尊を拝んでいるんでしょ?」
 婦人は答えた。
 「いいえ」
 「いいえって、入信した時に、毎日、勤行し、題目を唱えるように、指導されたでしょ」
 「そんな話は聞いていませんよ。私は、アメリカに渡る時に、母から『おまえは、日本と戦争していた敵の国に行くんだから、何があるかわからない。だから御本尊様を受けて、何かあったら手を合わせるようにしなさい』って言われただけですよ」
 ニューヨークには、これまで、まったく信心指導の手は、入っていなかったようだ。ユキコ・ニシノがここに来るまでは、中心となって、皆を引っ張る人がいなかったのであろう。
 清原が、勢いこんで話し始めた。
 「これまでのいきさつはともかく、あなたが福運をつけるためには、アメリカの広布のために、頑張るしかないのよ」
 「コーフって、それ、なんですか」
 清原は絶句した。
 ──これは、いけない。信心即生活の基本を教えなくては……。
 「そ、そんなことも知らないの。アメリカ中の人たちにこの信心を教えて、幸せにしていくことです。それがみんなの使命なのよ」
 こう言いながらも、彼女は、戸惑いを覚えた。
6  慈光(6)
 清原かつは、深呼吸を一つすると、決意を新たにして、語り始めた。
 「信心の基本について、何も教わる機会がなかったというわけね。それでは仕方がないわ。
 いいですか、仏道修行というのは、自行化他といって、自分が勤行し、お題目を唱えるとともに、人にも仏法を教えていくことなのです。それを、きちんと実践していけば、最高の幸福境涯が得られると、日蓮大聖人は約束なさっているんです。
 ご主人だっていい仕事に就けるし、日本にだっていつでも行ける、女王のような境涯になれるのよ」
 「まさか。アン・ビリーバブル(信じられない)」
 「インポスィブル(不可能だ)!」
 婦人たちは口々に声をあげ、場内は騒然としてしまった。
 その時、それまで黙っていた若い婦人が、叫ぶように言った。
 「日本にいつでも行けるようになるというけど、私は、待ってなんかいられませんよ。私を一緒に、日本に連れて帰ってください。もう、いやで、いやで、たまらないんです」
 彼女は、泣き始めた。同行の幹部たちは、呆気にとられて、その婦人を見た。
 山本伸一の目が、鋭く光った。
 この時、彼の体は、いたく憔悴していた。同行の幹部たちも、それに気づいていた。
 しかし、彼は、上着を脱ぐと、静かだが、力強い語調で語りだした。
 「皆さんは、本当にご苦労をされ、じっと耐えてこられた。すべてがいやになりもしたでしょう。死んでしまいたいような気持ちにもなったでしょう。その辛く、悲しい胸の内は、私にはよくわかります。
 しかし、その苦しみを幸福へと転じ、流し続けてきた涙を福運の輝きへと転じてゆけるのが仏法です。一番、不幸に泣いた人こそ、最も幸福になる権利があります。私は、それを皆さんに実現してもらうために、このアメリカにやって来たのです」
 人々の苦悩の闇に、仏法の慈光を注がんと、伸一の闘志は燃え盛った。烈々たる気迫が、彼の全身からほとばしり、その言葉は友の生命を激しく揺さぶらずにはおかなかった。
 場内の空気は、一変していた。伸一は、真剣勝負の気持ちで言った。
 「皆さんは、信心によって、本当に自分も幸せになれるのか、と思っているのでしょう」
 会場の婦人たちは、一斉に頷いた。
7  慈光(7)
 山本伸一は、強い確信を込めて語り続けた。
 「大丈夫。信心を貫くならば、一人も漏れなく、幸福になれます。現に、日本では、百万人を超える同志が、幸せになっています。それが最大の証明ではないですか。
 仏典には、こんな話が説かれています。
 昔、ある男が、親友の家で酒を振る舞われ、酔って眠ってしまった。
 親友は、この男が、決して、困り嘆くことのないように、寝ている間に、男の衣服の裏に、最高に高価な宝石を縫いつけてあげた」
 参加者は、吸い込まれるように、伸一の話に耳をそばだてていた。
 「……やがて、男は、別の土地に行き、おちぶれて食べるにも事欠くほど、貧乏になってしまった。しかし、自分の衣服に、そんな高価な宝石が縫いつけられていることなど、全く気づかなかった。
 おちぶれた果てに、男は親友と再会する。親友は、男の衣服に、高価な宝石を縫いつけたことを教える。
 その宝石のことを知った男が、幸せになったのは言うまでもありません。
 これは、法華経に説かれた『衣裏珠の譬』という説話です。
 最高の宝石とは、皆さんの心にある、『仏』の生命であり、最高の幸福境涯のことです。その生命を、御本尊に祈り、広宣流布のために戦うことによって、引き出すことができる。
 しかし、せっかく信心をしながら、それがわからずに、ただ、悲しみに沈んでいるとしたなら、この説話の男のようなものです」
 参加者の目が、輝いていった。伸一は、にこやかに言った。
 「さきほど、清原婦人部長が、女王のような境涯になれると言いましたが、日蓮大聖人は、皆さんを仏の子であると断言されています。仏法の目から見れば、皆さんは女王の位よりも高い、最高の福運と使命をもった宝の人なのです。
 その皆さんが、いつまでも、不幸にあえいでいるわけがありません」
 伸一はそれから、同行の幹部を紹介し、それぞれの体験や、なぜ信心に功徳があるのかなどを、話すように促した。
 ついさっきまでとは打って変わり、参加者の表情には、求道の息吹があふれていた。
 同行の幹部の話が終わると、伸一は尋ねた。
 「なぜ、信心が大切なのか、わかりますか……」
 皆、明るい顔で、大きく頷いた。
8  慈光(8)
 山本伸一は、笑顔で友を包み込むように語った。
 「まだ、皆さんは、若いし、ご主人も元気だし、子供さんも小さい。しかし、女性の場合、さきにご主人が亡くなり、一人になるケースが多い。その時に、どう生きるかが、勝負です。
 自らの心の宮殿を開き、何があっても崩れない、絶対的幸福境涯を確立していくのが仏法です。ゆえに、生涯、信心を全うし抜いていくことです。今度は、日本でお会いしましょう」
 伸一は、ここで、ニューヨーク地区の結成を発表したあと、参加者に土産の袱紗を手渡していった。
 その時、新来者として参加していた一人の婦人が、入信を申し出た。
 彼女は、伸一の話を聞いているうちに、自分だって幸せになれるのだという、希望を感じ始めた。そして、ぜひとも信心をしなければと思ったのである。
 会場に、祝福の拍手が沸き起こった。
 やはり新来者として出席していた商社マンの杉原光男は、この座談会の様子を観察するように、じっと見ていた。
 彼はこれまで、正木永安や青田進から、何度も仏法の話を聞かされてきた。当時、杉原は、会社が引き起こした不祥事の責任を彼個人に負わされ、窮地に陥っていた。それでも、信心すれば、自らの敗北を認めるような気がして、かたくなに入信を拒否してきたのである。
 この日も杉原は、最初は駄々っこのような婦人たちの言葉に、伸一がどう答えるのか、興味本位で見ていた。しかし、誠心誠意、婦人たちを励ます、気迫にあふれた伸一の指導に、次第に心を動かされ始めた。
 ──この人は、赤の他人を、幸福にさせたいと必死になっている。こんなに温かい世界があったのか!
 人の世の冷酷さを肌で感じていた彼には、それは、衝撃的な光景であった。
 彼は、それから一カ月後に入信している。この杉原が、ニューヨークで最初の男子部員となるのである。
 伸一は、この時、あえて入信を迫ったわけではなかった。
 ただ、集った友の幸せを願い、人生の勝利の道を、人間の栄光の道を、懸命に語り説いただけであったといってよい。
 あの『イソップ物語』の「北風と太陽」の話のように、人の心のマントを脱がせるものは、寒く激しい北風ではない。それは、人を思いやり、包み込む、太陽のような慈光の温かさである。そこにこそ、人間のまことの共感の調べが生まれるからだ。
9  慈光(9)
 山本伸一の体調は、ニューヨークに到着したころから、著しく悪化していた。
 高い発熱による悪寒が彼をさいなみ、歩くと足がフラつくのである。
 ただでさえ病弱な伸一の体は、強行スケジュールの旅で、既に限界を超えていた。
 しかし、伸一はそれを堪え、そんな素振りさえ見せまいとしていた。自分のことで、みんなに心配をかけてはならないという配慮からである。
 翌十月十五日はブラジルに向かうための準備の日とし、会合のスケジュールは組まれていなかった。
 この日の昼間、同行メンバーは市内の見学や買い物に出かけたが、彼は宿舎で体を休めた。
 しかし、夕方からは、総本山に建立寄進する大客殿の、建設資材買い付けの便宜を図ってくれた、関係会社の現地の駐在員たちと一緒に、食事をしなければならなかった。
 そして、十六日には、アメリカの首都ワシントンに向かった。
 四時間余の列車の旅である。車窓に武蔵野を思わせる雑木林が続いていた。
 深まりゆく秋の景色を、ゆっくりと眺めながらの旅は、伸一の心を和ませた。
 列車が、ワシントンのユニオン・ステーションに着いたのは、午後一時ごろだった。
 駅では、二十人ほどの人が四列に並び、学会歌を合唱して一行を迎えた。
 最前列にいた日系の婦人は、「創価学会」と書かれた横断幕を手にしていた。伸一を見た瞬間、メンバーは瞳を潤ませ、歌声はとぎれとぎれになった。
 合唱するメンバーの横には、「運送班」という腕章を巻いたアメリカ人の壮年が立っていた。
 「輸送班」と書くところを「運送班」にしてしまったようだ。
 また、駅前に停車している車のアンテナには、三角形の旗がつけられ、そこに「SOKAGAKKI」と記されていた。
 「SOKAGAKKAI」(ソウカガッカイ)と書くつもりが、「A」の文字が抜けてしまったのだ。そのまま読めば「ソウカガッキ」となってしまう。
 しかし、伸一は、何よりも、同志の真心を大切にしたかった。
 「歓迎、ありがとう。皆さんの心が胸に染みます。感謝します。それでは、まいりましょう」
 駅頭のことでもあり、彼は多くを語らなかったが、心を込めて礼を言い、友の労をねぎらった。
10  慈光(10)
 「運送班」のアメリカ人の壮年が運転する車で、山本伸一は座談会場となったフミエ・シアリングの家に向かった。
 この壮年は、伸一が車に乗ると、愛想よく、「コンニチハ」と微笑みかけた。
 首都ワシントンはニューヨークのようにひしめき合う高層ビル群も、大都会の喧騒もなく、緑豊かな静かな街であった。
 シアリング宅は、閑静な住宅街の一角にあった。庭には、手入れの行き届いた芝生が広がっていた。
 この家の主婦であるフミエ・シアリングは、ワシントンの同志の中心となってきた日系婦人であった。
 その彼女が、手に包帯を巻き、スカーフにサングラスという姿で、一行の前に現れたのである。
 伸一は、心配そうな顔で尋ねた。
 「どうされたんですか」
 「すいません、こんな姿で。実は……」
 シアリングは、ためらいがちに、語り始めた。
 彼女は、この日、料理を作ろうとして、ガスオーブンに火をつけたところ、オーブンが爆発したという。オーブンのなかに、ガスが漏れていたらしい。
 そして、腕や頭に火傷を負ってしまったのだ。
 「それで、大丈夫なんですか」
 「はい、医者は軽い火傷だということです」
 「そうですか。それならよかった」
 彼の顔に、安堵の色が浮かんだ。
 「仏法に、転重軽受という教えがあります。信心の功徳によって、過去世の重い罪業を転じて、今世で軽く受けるということです。
 これも、一つの転重軽受の姿かもしれません。もっと大きな事故になるところだったのでしょう。
 そう確信して、感謝の思いで、信心に励んでいくことが大事です。そこに福運の道、勇気の道が開かれていくのです。
 しかし、もう一面では、これからは二度と事故など起こさないと決意し、細心の注意を払っていかなくてはなりません。
 題目を唱えているから、守られるだろうと考え、注意を怠るなら、まことの信仰ではない。信心しているからこそ、油断しないで、絶対に事故を起こすまいと懸命に努力し、工夫していってこそ本当の信心です。その時に題目の力が、知恵となり、福運となって生きてくるのです」
 伸一は、ともすればメンバーが陥りがちな、他力本願的な信仰観を打ち破っておきたかった。
11  慈光(11)
 首都ワシントンでの座談会は、午後二時から開始された。
 ここでは、まず、夫が未入信の日系婦人から、質問が出された。
 「夫は、私の信心には、よく協力してくれますが、自分はカトリック教徒だからといって、信心しようとしません。このままでは、私まで幸せにはなれないような気がしてなりません。どうすれば、信心させることができるでしょうか」
 それは、このワシントンだけではなく、全米各地で共通した、婦人たちの悩みであったといってよい。
 この婦人の夫は、「運送班」となって、車を運転してくれた壮年であった。山本伸一はそれを聞くと笑いながら言った。
 「学会の旗を立てて、喜々として車を運転し、広布のために尽くしてくれる。ありがたいことではないですか。入信するか、しないかといった、形にこだわる必要はありません。また、このなかには、ご主人やご家族が、信心に反対のご家庭もあるかもしれない。その場合も、信心のことで家庭のなかで言い争ったり、感情的になったりするのは愚かなことです。ましてや、ご主人が仕事のうえなどで行き詰まったり、失敗した時に、『信心しないからいけないのよ』なんて、責めるようなことをしてはいけません。一家のなかで、自分だけしか信心をしていないというのは、確かに寂しいかもしれない。しかし、奥さんが頑張っていれば、その功徳、福運は、全家族に回向されていきます。ちょうど、一本の大きな傘があれば、家族を雨露から防ぐことができるのと同じです。ですから、ご家族が信心をしないから、一家が幸せにはなれないと考えるのは誤りです。
 家族の幸せのために、入信を祈ってゆくことは大切ですが、根本は、信心のすばらしさを、皆さんが身をもって示していくことといえます。皆さんが、妻として、あるいは母親として、信心に励むにつれて立派になり、元気で、聡明で、温かく、思いやりにあふれた太陽のような存在になっていくならば、ご家族も自然に仏法に賛同するようになっていきます。つまり、自分が家族から慕われ、信頼されていくことが、折伏の第一歩になっていくのです」
 伸一は、仏法は、最高の良識であることを、訴えたかったのである。
12  慈光(12)
 質問が次々と出された。
 山本伸一は、時には、同行の幹部に回答を任せた。
 若い日系婦人が尋ねた。
 「五歳になる娘が、口がきけないのです。一生懸命に祈っていますが、まだ、願いは叶いません。本当に娘は話せるようになるでしょうか」
 伸一に代わって、石川幸男が答えた。
 「御本尊は絶対だから、願いは、叶うに決まっている。問題はあなたに御本尊を疑う心があることだ。そんな信心では、題目を唱えても、よくはならないよ。あなただって、自分を軽んじている人を、救ってやる気にはなれんでしょう」
 傲慢な答えに、婦人は、「はあ」と言ったきり、下を向いてしまった。
 伸一は、笑顔で包み込むように、言葉を添えた。
 「でも、大丈夫。真面目に信心をしていくならば、娘さんは、必ず話せるようになりますよ。ただ、それも信心の厚薄によって決まるのです。日本的なたとえになりますが、大きな釣鐘があっても、どんな撞木を使うかによって、音の出方は違ってくる。大木で力いっぱい突けば、大きな音が出るけれど、マッチ棒や割りで叩いたのでは、小さな音しか出ないでしょう。これと同じように、御本尊は、無量の仏力、法力を備えていますが、こちらの信力、行力が弱ければ、マッチ棒で釣鐘を叩いているようなもので、大きな功徳を出すことはできない。しかし、一生懸命に仏道修行に励んでいくならば、必ず、宿命を転換し、娘さんもよくなります。だから自分に負けないで、最後まで頑張り抜いてください」
 巧みな比喩を用いての、明快な指導であった。
 今度もまた、婦人の質問であった。困惑した顔で、彼女は言った。
 「実は、近所に住む友人に頼まれて、子供を預かることがありますが、それは彼女がキリスト教の教会に行くためなんです。でも、私が『教会に行くのなら子供は預からない』といえば、人間関係は壊れてしまうように思います。どうすべきでしょうか」
 伸一は、微笑みながら答えた。
 「ここは、アメリカなんですから、広々としたアメリカの大地のように、大きな大きな心でいくことです。子供さんを預かっている間に何をするかは、それは友人の側の問題です。 あなたが子供さんを預かるのは、友情からだし、そこから仏縁が結ばれていくのだから、神経質に考える必要は全くありません」
13  慈光(13)
 質問した婦人は、山本伸一の答えに頷いたが、まだ不安な表情をしていた。
 「破邪顕正」の折伏の精神と、人に対する寛容性とが、相反するもののように思え、頭の中で整理がつきかねているようだった。
 伸一は、彼女の気持ちを察知して、話を続けた。
 「私たちが、日蓮大聖人の門下として、法の正邪に対しては、厳格であるのは当然です。と同時に、人に対しては、どこまでも寛容であるべきです。そこに、真実の仏法者の生き方があるからです」
 参加者は耳を澄ませた。同行の幹部もメモを手に、伸一の次の言葉を待った。
 「法の正邪に対する厳格な姿勢と、人に対する寛容──この二つは決して相反するものではなく、本来、一体のものなんです。たとえば、ある名医のところに、毒キノコを食べてしまった病人が担ぎこまれたとする。名医は、病人がどんな人であれ、当然、あらゆる手を尽くして治療し、真心の励ましを送るでしょう。これが人への寛容の姿といえる。そして、患者に、『もう毒キノコなんか、絶対に食べてはいけない』と、注意もするはずです。患者が、『毒キノコは美味かったから、また食べたい』と言っても、『そうですか』なんて言って、賛成したり、妥協する医者はいません。それが、法に対する厳格さといえる。どちらも、患者の苦しみを取り除こうとする、医師としての慈悲と信念から発した行為です。仏法者の在り方もそうです」
 伸一は、日蓮大聖人が、果敢に折伏を展開されたのも、一切衆生の幸福の実現という、大慈大悲のゆえであることを語っていった。
 ──人々が、部分観に過ぎない爾前の教えを、最高の法と信じていくならば、仏法の精髄である下種の法華経を、信受することができなくなってしまう。そうなれば、結局、人々は不幸に陥らざるをえない。
 大聖人は、それを防ごうとして、「四箇の格言」を掲げ、敢然と立たれたのである。そして、権力にくみして誤れる法を弘める、腐敗、堕落した悪侶との、壮絶な闘争を展開された。
 悪と戦わず、悪を見過ごすことは、結果的に、悪を野放しにし、助長させることになってしまうからだ。
 しかし、その戦いの方法は、どこまでも″折伏″という対話であられた。
 しかも、命に及ぶ迫害を被りながらも、自らは非暴力に徹し、終始、言論による戦いを貫かれている。
14  慈光(14)
 山本伸一は、ここまで一気に語ると、質問した婦人を諭すように言った。
 「ですから、破邪顕正の折伏の精神と友情とは、決して、矛盾するものではありません。どちらも、根本は慈悲の心です。
 したがって、信心に励めば励むほど、より大きな心で友を包み、友情も深まっていくというのが、本来の姿です。
 折伏というのは、対話による生命の触発作業ですから、信頼と友情がなくては成り立ちません。
 あなたも、宗教の違いを超え、人間として、より多くの人と深い友情を結び合い、友の幸せを願える人になってください。
 それが、仏法の広がりと深さを示す、証明にもなります」
 メンバーにとっては、初めて耳にする、仏法のいき方であった。それは、新鮮な衝撃となって、友の心に刻まれた。
 更に、いくつかの質問を受けた後、伸一はワシントン地区の結成を発表した。
 地区部長には、座談会場の提供者であるフミエ・シアリングが任命になった。
 また、ワシントン、ニューカロライナ、ペンシルベニア、フロリダに、それぞれ班が誕生した。
 座談会が終わり、伸一が会場になっていた部屋を出ようとすると、一人のアメリカ人の壮年が、感無量の面持ちで、英語で語りかけた。傍らにいた正木永安が通訳した。
 「あなたの話を聞いて、私は感動しました。
 仏法は素晴らしい教えだと思います。あなたの宗教に入りたいと思いますが、私はカトリックですので、それができません。本当に残念であり、また、申し訳なく思っています」
 伸一は言った。
 「教団に属するか、属さないかは、問題ではありません。仏法を信じ、一遍でもお題目を唱え、私たちと同じ心で、奥さんやメンバーを見守り、応援していただければ十分です。
 そうすれば、更に仏法の素晴らしさがわかります」
 壮年は笑みを浮かべ、伸一に握手を求めた。
 広宣流布とは、即、人類の幸福であり、世界平和の実現である。
 それは、人間の心に内在する、「仏」という善なる生命を開き、耕し、ヒューマニズムの友情の輝きをもって、世界を包みゆくことにほかならない。いわば、偏狭なセクトの殻を破り、人間という普遍の大地に立った、生命のルネサンス運動が、広宣流布であるといえよう。
15  慈光(15)
 山本伸一は、フミエ・シアリングに、二階の別室に案内された。
 しばらくすると、品のよい老婦人が、茶菓を持ってやって来た。フミエの母親のトミノである。
 フミエとトミノは、二年ほど前に入信し、以来、地道に信心に励んできた。ことにトミノは、既に八十歳近かったが、学会のためには、何でもやらせてもらおうという気持ちで、広布の活動に力を注ぐフミエを、陰で支えてきた。
 トミノは、ニコニコしながら言った。
 「お疲れのところ、ご苦労様でございました。どうぞお召し上がりください」
 伸一が礼を言うと、彼女は、淡々と語り始めた。
 「先生のお話をお伺いしていて、学会というのは、本当に尊い団体だなと思いました。これからはアメリカでも、どんどん発展してゆくにちがいありません。
 でも、そうなると、必ず学会に対する風当たりも強くなります。私の人生経験から考えても、逆風の時代はあるものです。
 問題は、その時に、誰がこの尊い学会を守るかではないかと思います」
 伸一は、入信して二年ほどの老婦人が、こんなに学会の未来を考え、心を砕いてくれていることが意外でもあり、嬉しくもあった。
 トミノは、穏やかな口調だが、きっぱりと言った。
 「……でも、何があっても、私が生きている限り、このワシントンは大丈夫です。心配はいりません。頑張りますとも……」
 伸一は、地涌の仏子が、陸続とアメリカの大地にも、涌出しつつあることを実感するのだった。
 「ありがたいことです。感謝します。元気で、いつまでも長生きをして、学会を守ってください」
 老婦人は、そう語る伸一の顔に、汗が滲み出ていることに気づいた。
 「先生、汗をかかれていますが、どこか、お体が悪いのではございませんか」
 この時、確かに伸一は発熱していたのである。
 「いえ、心配はご無用です。一生懸命に話をしたので、ちょっと汗をかいただけですから」
 「そうですか……。それにしても、お疲れのようですので、しばらく、ここでお休みください。私は、先生のお体が、一番、心配なんです」
 彼女はこう言うと、気を利かせて部屋を出ていった。伸一は、束の間、ソファの背にもたれて疲れをした。
 トミノの温かい心遣いが、彼の心を和ませた。
16  慈光(16)
 その夜、一行はワシントンのホテルに一泊した。
 翌日、朝食を終えると、秋月英介が山本伸一の部屋にやって来た。
 「先生、それでは、私は一足先にニューヨークに戻ります」
 「ああ、新聞社の見学に行くんだったね」
 秋月は、この日の夕刻、聖教新聞の編集部長としてニューヨーク・タイムズ社を訪問し、見学することになっていたのである。
 「しっかり見学して、何がニューヨーク・タイムズを世界的な新聞にしているのかを、学んでくることだね。そして、よいと思ったことは、どんどん取り入れていくことが大切だよ。
 やがて、聖教新聞も日刊にしていかなければならないし、何よりも、誰もが認める、世界一流の新聞にしなければならないからね」
 伸一は、かつて戸田城聖が、しばしば「聖教新聞を日本中、世界中の人に読ませたい」と語っていたことが、心に焼きついていた。
 その言葉を、彼は、必ず実現せねばならないと誓ってきた。そして、そのために、いかにして、聖教新聞を世界的な新聞に育て上げようかと、常に、心を砕いていたのである。
 秋月は、伸一の言葉に、「はい」と答えたが、正直なところ、「世界一流の新聞」と聞いて、驚きと戸惑いを覚えた。
 聖教新聞は、この年の八月まで、週刊八ページ建てであり、ようやく九月から水曜日四ページ、土曜日八ページの週二回刊になったばかりであった。
 伸一は、聖教新聞の未来に、大いなる夢を馳せながら語った。
 「聖教は学会の機関紙だが、私は、同時に、人間の機関紙という考え方をしているんだよ」
 「人間の機関紙ですか」
 「そう。人間の機関紙だよ。一般の新聞は、暗いニュースに満ちている。それは、社会の反映だから仕方がないにしても、そうした社会のなかで、人々が、どうすれば希望を見いだしていけるのか、歓喜を沸き立たせていくことができるのかを考え、編集している新聞はない。
 また、人生の苦悩に対して、いかに挑み、克服していくかを教えている新聞もない。
 しかし、社会が最も必要としているのは、そういう新聞だ。それをやっているのは、聖教新聞だけじゃないか。そう考えていけば、聖教新聞は、まさに、″人間の機関紙″という以外にないよ」
 秋月の顔が紅潮した。
17  慈光(17)
 山本伸一は、グッと身を乗り出し、秋月英介を見つめて言った。
 「秋月君、聖教新聞の使命は極めて大きい。学会にあっては、信心の教科書であり、同志と同志の心をつなぐ絆になっていかなくてはならない。
 また、社会にあっては、不正、邪悪と戦い、仏法の慈光をもって、まことの人間の道を照らし、万人に幸福と平和への道を指し示していく使命がある。
 軍部政府と命をかけて戦った、牧口先生、戸田先生の精神を受け継ぐ学会の機関紙以外に、本当の平和の道は語れないからね」
 伸一は、戸田の姿を仰ぐように、目を細めて、窓の外に視線を向け、そして、言った。
 「戸田先生は、仏法者として弾圧を受けただけでなく、戦時中、雑誌の発行者としても、軍部政府と、水面下で戦いを続けていたことを知っているかい」
 「いいえ、知りませんでした」
 「これは、戸田先生からお伺いしたことだが、先生は、昭和十五年の一月に、『小学生日本』という、少年少女向けの月刊誌を創刊されている。
 これは、後に、私が編集長を務めた、『冒険少年』『少年日本』の前身ともいえる雑誌なんだ……」
 戸田城聖が『小学生日本』を発刊したこの昭和十五年、すなわち一九四○年といえば、皇紀二千六百年の記念式典や奉祝行事が大々的に行われ、大政翼賛会が発足した年である。
 既に、日中全面戦争に突入してから二年半がたち、一九三八年(昭和十三年)には、国家総動員法が公布されていた。
 つまり、国を挙げての戦争への協力体制が、ますます強化されようとしていた時であった。小学校一年生から、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と書かれた教科書が使われ、軍国主義が幼い子供たちの純白な心に、刷り込まれていった時代といってよい。
 また、各種の雑誌も、競い合うようにして戦争を賛美していた。
 言論、思想も、政府の厳しい統制下に置かれていただけに、そうしなければ、何一つ出版することが出来なかったのである。
 また、新聞や雑誌の発刊に必要な紙も、極めて入手困難な状況にあった。
 まさに、自由なき、いまわしい暗黒の時代の到来を告げていた。
 戸田は、このままでは、未来を担う子供たちが、軍国主義教育に歪められ、偏狭なものの見方、考え方に凝り固まっていくことを、深刻に憂えた。
18  慈光(18)
 戸田城聖は思った。
 ──子供たちは、他国の優れた文化や産業、国民性も知らぬままに育とうとしている。このまま排他性に染まり、国のために戦い、死ぬことのみを美徳とするようになれば、子供たちの人生を狂わせてしまう。そうなれば、国の未来もまたあまりにも暗い。
 戸田は、一個の人間として、また、仏法者の良心のうえからも、この事態を打開する、なんらかの戦いを開始しなければならないと考えた。
 そして、少年少女が世界に視野を広げ、物事の真実を見極める目を培える雑誌を発刊することを、思い立ったのである。
 しかし、そのころ、出版物への当局の統制は厳しさを増し、紙も不足していたところから、原則として、雑誌の創刊は認めないとの方針がとられていた。
 彼は、関係各所を駆け巡り、説得に努め、遂に『小学生日本』の創刊に成功したのである。しかし、もとより、国策に添った雑誌でなければならなかった。
 創刊号には、いかにも戦時下らしい、二、三の勇ましい題名が、目次に大きく刷られていたが、いずれも短編にすぎなかった。主流をなす連載は、極めて平和的な作品だった。
 しかも、創刊号にあった戦争に関係した二、三の企画は、しばらくすると姿を消し、『小学生日本』は、戦争賛美とはほど遠い、極めて異例な雑誌となった。
 更に、特筆すべきは、広く世界に目を向け、諸外国の優れた文化、産業などを伝えるルポルタージュやヨーロッパの物語などが掲載されていたことである。
 また、戦争について扱った小説もあるが、驚くべきことには、戦争は、決してお伽噺のように華々しいものではないと、登場人物に語らせている。
 戦争を賛美しなければ、廃刊にされかねない時代のなかで、戸田はその編集方針を曲げなかった。彼は大切な少年少女に、正しい人間の生き方を教えたかったのである。
 『小学生日本』は、やがて、小学校が国民学校に改称されたのに伴い、改題を余儀なくされた。
 当時、少年少女は、年少の国民の意味で″少国民″と統一的に呼ばれたが、戸田は、敢えて″少″ではなく、″小″の字を用いて、『小国民日本』と改題している。
 小さなことのようだが、それは、権力の支配に屈しまいとする戸田城聖の、信念の刻印であった。
 また、″小国民″は、後に続く小さき者を、力の限り、守り育てねばならぬという、彼の決意の表明であったのかもしれない。
19  慈光(19)
 『小国民日本』に改題され、最初の発刊となる昭和十六年の三月号には、「神秘とを解く」との特集が組まれた。
 そこに、戸田城聖は「科学の母」と題する巻頭言を執筆している。
 「不思議や神秘なことがらに、驚きと畏れをもって礼拝したのは、未開で野蛮な古代の人であった。わからぬことをわからぬままに信じて、迷信に陥ったのは、科学する心のない中古時代の人達であった。
 なぜだろう。一体これは何だろう。という私達の心に起るさまざまの疑問を、正しくつきつめて行くところに、世の中を明るくし、世界を進歩発達させる科学の世界が開ける。
 ニュートンは、庭に林檎の落ちるのを見て万有引力を見出し、ワットは鉄瓶の湯の沸るのを眺めて蒸気機関を発明した。エヂソンもキューリーも、せんじつめれば、この疑問を正直にまっしぐらにつきつめた人々ではなかったか。
 驚異と疑問こそ、科学の母である」
 国家神道を支柱とした、精神主義の色濃い時代に、「わからぬことをわからぬままに」信ずる愚かさを、彼は、少年少女に語りかけている。
 そして、「疑問を正直にまっしぐらにつきつめ」、科学する心をもてというのである。ここに、真っ黒な時代の潮流に、敢然と戦い挑む、戸田の良心の叫びを聞く思いがしてならない。
 更に十月号(国民学校上級生)には、「護れ大空」と題する特集が組まれている。その勇壮なタイトルとは裏腹に、そこには、防空マスクや防空壕のつくり方など、いかにして、子供たちが自分の身を守ればよいかが、詳述されている。
 また、そのなかには、イギリスやソ連の子供たちの防空訓練に触れた一文もある。そこには、こう記されている。
 「特にイギリスの小国民は、どれほどつらい、苦しい空襲を受けて来ているか、わたし達が考える以上に悲しいものであることは、たびたびニュースで伝えられています。
 最初は空襲の恐しさにお父さんやお母さんと別れ別れになってアメリカに避難したり、田舎に離れて行ったりしました。
 ……(中略)……危ない都会にいる子供も少なくありませんが、爆弾が遠くにでも落ちると見ると、速ぐに道路に伏せをして身の危険を守っていますが、その様子はすっかりなれて落着いたものだということであります」
20  慈光(20)
 この号の発行日は昭和十六年十月一日であり、それは、日本が米英に、宣戦を布告する、わずか二カ月ほど前に過ぎない。
 このころ、既に日英両国の関係はこじれ、イギリスを敵性国とする見方が強まっていた。
 そのなかで、イギリスの子供たちが空襲に苦しめられ、健気に身を守っていることを記した一文を掲載することは、いかに危険であったことか。
 戸田城聖には、日本の子供に限らず、世界中の子供たちが、守るべき対象であるとの認識があった。
 また、子供たち同士が、憎み合う必要などまったくない。むしろ、その苦しみを知り、手を結びあうべきであるとの、明確な主張があった。
 つまり、特集のタイトルこそ、「護れ大空」であったが、彼が守ろうとしたものは、「大空」よりも、次代を担う少年少女の、尊い命であったのだ。この企画のなかにも、″生きよ、生きてくれ″と、必死に若い魂に語りかけようとする、戸田の思いをみ取ることができよう。
 『小国民日本』は、一九四二年(昭和十七年)四月に廃刊となっている。
 ますます厳しくなる統制下で、当局の意図通りに戦争を賛美し、死に急ぐことをり立てる雑誌を作ることより、廃刊の道を彼は選んだのだ。
 戦後、日本のジャーナリズムは、ことごとく平和主義に転じた。言論、出版の自由が保障された世の中で、平和を叫ぶことは容易である。しかし、それが仮面の平和主義であるか、本物であるかを見極めるには、あの戦時中に、何をなしたかを問わねばならない。
 これは、ジャーナリズムに限らず、宗教についてもいえる。今日、いかに平和や民主を叫び、正義の仮面を被ろうが、戦時中の在り方のなかに、その教団の正体があることを見過ごしてはなるまい。
 山本伸一は、戸田が発刊した、この少年少女雑誌について、知りうる限りのことを、秋月英介に語った。
 「戸田先生は、あの時代のなかで、ジャーナリストとして、ギリギリのところで戦われた。
 それこそ、聖教新聞が受け継がなくてはならない精神なのだよ。
 信念も哲学ももたない言論は、煙のようにはかないものだ。しかし、聖教新聞には、仏法という大生命哲理がある」
 秋月は、緊張した顔で、伸一の話に、じっと耳を傾けていた。
21  慈光(21)
 ホテルの窓に、木漏れ日がキラキラと映えていた。
 秋月が尋ねた。眼鏡の奥の秋月の目は、燃え輝いていた。
 「山本先生、聖教新聞が世界一流の新聞になるために、記事を書くうえで、最も心すべき点は、なんでしょうか」
 「まず、機関紙として、同志が確信と自信を持ち、勇気が湧くという記事を心掛けるのは当然です。そのうえで、根本的には、大仏法の慈悲の精神をもとに、世界の平和、人類の幸福の追求を目指すことだよ。
 国の利害やイデオロギーによるのではなく、地球民族、地球家族として、ともに人間の道を探り、創ろうという主張が大事になってくる。
 私は、聖教新聞を、『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしなくてはならないと、かねがね思っている。これこそ、本来の大仏法の精神であるからだ」
 秋月は、自分の発想の殻を、大きく打ち破られた思いがした。彼は、彼なりに紙面の在り方を考えてはいたが、そこまで考えたことはなかった。
 「そのうえで、大切なことは、一切衆生が皆平等という、仏法の普遍的な哲理を、いかにわかりやすく、社会的に、現代的に、そして、斬新に表現することができるかだ。つまり、万人にわかる、開かれた言葉で、仏法を語ることだよ。
 学会員にしかわからない新聞では、社会には広がらない。まして、会員でさえ理解できないような難解な新聞になったら、編集者の自己満足になってしまう。
 それから、社会が何を求め、何を必要としているかを、的確に見抜いていくことだ。仏法にも、学会の現実の姿のなかにも、社会が欲する、すべての解答が用意されている。それを、社会、時代のテーマに即して、常に示していけるかどうかだ。
 そして、日々革新だよ。時代も動いている。社会も動いている。人間の心も動いている。それに敏感に反応しながら、触発と共感の指標を提示し続けることだね。
 だから、見出しにせよ、記事にせよ、あるいは割り付けにしても、過去のものを踏襲して、それに安住しているようではいけない。
 新聞は生き物といってよい。鮮度の悪い魚は見向きもされないように、惰性に陥り、マンネリ化した新聞は、読者から見捨てられてしまうものだ」
 それは、明快にして、要を得た指導であった。
22  慈光(22)
 秋月英介の顔には、次第に明るさが増していった。
 「秋月君、紙面を刷新していくには、結局は、記者の一念を刷新していくしかないんだよ。
 挑戦の気概を忘れ、惰性化し、努力も工夫もなく、受け身で仕事をするような記者では、何千人、何万人いようが、とても、世界の新聞とは、太刀打ちすることなどできない。
 必要なのは、全学会を背負って立ち、ペンをもって世界を変えようとする、獅子のような、一騎当千の記者だ。そうした記者が、一人か三人、いや、五人か十人もいれば十分だよ。本当の言論戦は、数ではないからな。
 世界一流の新聞ということは、世界一流の記者をつくるということなんだ。育てようよ、本物の記者を。広宣流布の戦いというのは、言論戦なのだから」
 聖教新聞は、編集部長である秋月の双肩にかかっていたといってよい。
 秋月は、青年部長として活動の中核を担いながら、毎号の新聞の発行に全力投球していた。
 この海外訪問でも、同行の幹部の一人として、メンバーの指導、激励に当たりながら、自ら写真を撮り、明け方近くまでかかって原稿を書き、それを本社に郵送していた。
 そのなかで、秋月は、山本会長を迎えて、新しい時代の幕が開かれた今、聖教新聞の未来は、いかにあるべきかを考え続けていた。しかし、霧がかかったように、明確な展望を見いだすことはできなかった。
 そんな秋月の気持ちを察して、山本伸一は、この日、彼と、聖教新聞について、語り合ったのである。
 伸一は、更に、希望の未来図を語っていった。
 「やがて、十年か十五年もすれば、海外にも、聖教新聞の特派員や駐在員を、どんどん出すようになるだろうね。
 そして、聖教の記者が、各国の大統領や識者にインタビューしながら、仏法の平和思想を堂々と論じていくことが、日常茶飯事になる時代が必ず来る。
 また、世界中の各界を代表する指導者が、どんどん聖教に原稿を書き、ともに恒久平和への道を探求するようにしようじゃないか。そうなれば面白いぞ」
 「はい!」
 秋月は、笑顔で頷いた。彼は、伸一の構想を聞き、未来に一筋の光が差し込んだように思えた。彼の心は晴れ渡り、身も軽くなったような気がした。秋月は、勇んでニューヨーク・タイムズ社に向かった。
23  慈光(23)
 秋月英介を送り出すと、山本伸一は、残った同行の幹部とともに、首都ワシントンの視察に出かけた。
 空は晴れ渡り、街路には、色づき始めた木々が茂り、白亜の建物がまばゆく映えていた。
 世界でも類いまれな、美しい公園首都といわれるだけあって、ワシントンDCは、自然と建物とが見事に調和した街であった。
 一行は、国会議事堂やホワイトハウス、ワシントン記念塔、リンカーン記念館などを見て回った。
 大客殿の建設が控えていた時だけに、建物への一行の関心は深かった。
 ことに、ギリシャ神殿風の石の柱と階段を配したリンカーン記念館が、皆の心をとらえた。
 「重厚な感じがして、いいですね」
 十条潔が、感嘆の声をあげた。
 「確かに力強さがある。大客殿にも、こんな様式を取り入れたいね」
 記念館を見上げながら、伸一が言った。
 「それはよいと思います。設計の関係者と相談してみましょう」
 十条は、嬉しそうに、手帳にメモした。
 この時の伸一の提案は、後に大客殿正面の大階段となって実現したのである。
 一行は、それから、タイダル・ベイスンと呼ばれる、ポトマック川につながる池のほとりを歩いた。秋風がに心地よかった。
 岸辺には、桜の木が植えられ、対岸には、太陽の光を浴びて輝く、ジェファーソン記念館の白亜のドームが見えた。
 桜の葉は、既に赤茶け、散りはじめていたが、花が爛漫と咲き誇る春は、さぞかし美しいにちがいない。
 「花の咲くころに、ここに来てみたいね」
 伸一が言うと、清原かつが語り始めた。
 「この桜の由来はご存じだと思いますが、第二十七代大統領夫人のヘレン・タフトの希望で植えられたものなのだそうです。
 彼女は、夫が大統領に就任すると、このポトマック公園の開発を担当することになり、日本の桜を植えたいと考えたといいます」
 「勉強してきたのかい」
 「はい」
 「その話は有名だね。ヘレンが日本に、桜が欲しいと言ったところ、確か、当時の東京市長だった尾崎行雄が、すぐに応じたのではなかったかね」
 「はい。尾崎行雄は、日米友好の証として、一九一二年の一月に、約三千本の桜の苗木を送りました」
 清原は微笑んで答えた。
24  慈光(24)
 清原かつは、得意そうにワシントンの桜の由来を語っていった。
 「尾崎行雄の送った桜の苗木は、無事にワシントンDCに到着し、ヘレン・タフトと日本大使の夫人の手で植樹されています。
 やがて、桜が根付き、年ごとに花を咲かせるようになると、この桜が話題を呼び、たくさんの見物人が来るようになりました。そして、ワシントンの人だけでなく、多くのアメリカの人から、愛されるようになっていったのです。
 ところが、その後、ジェファーソン記念館の建設にともない、三、四百本の桜を伐採することになりました。しかし、ワシントンの人たちから反対運動が起こり、ついに市当局も計画を変更し、伐採は、ほんの一部ですんだそうです」
 山本伸一は、清原が話し終わると言った。
 「いい話だね。私が子供のころに住んでいた蒲田の糀谷の家にも、大きな桜の木があってね。
 私たち一家は、やがて移転したが、戦争が末期にさしかかったころ、久し振りに、その家の近くに行く機会があった。
 かつての、わが家を訪ねてみると、そこは、軍需工場に変わっていた。家も、そして、広い庭にあった桜も切り倒されていた。
 戦争ですさんでしまった人の心には、桜のことを考える余裕など、なかったのだろう。残念な、寂しい思いで、そこにたたずんでいたことを覚えている。
 それから、間もなく、東京は大空襲にあい、多くの人たちが焼け出された。
 辺り一面が地獄のような廃墟になってしまった。
 でも、そんな町の一角にも、幾本かの桜が、美しく咲き香っていた。
 空はまぶしいばかりに晴れ渡り、すばらしい桜が、女王のごとく花をいっぱいに広げて、静かに春風に揺れていた。
 それは、暗い、泥沼のような時代のなかにあって、希望の輝きを放っているようにも見えた。
 また、鮮やかに咲き、すぐに散ってゆく桜は、人の命の、はかなさを表しているようにも感じられた。戦争で兄も亡くしたし、多くの若者たちが死んでいったからね。
 ひらひらと舞い落ちる花びらを浴びていると、私の胸には、無量の感慨が込み上げてきた。
 そして、自然に詩が浮かんできた。私は、家に帰ると、急いで、それをノートに記した」
 伸一は、青年詩人らしく、懐かしそうに語った。
25  慈光(25)
 焼け跡に咲く桜を見て詠んだ詩に、山本伸一は、『散る桜』という題をつけている。
  戦災に
  残りて咲きし桜花
  空は蒼空 落花紛々
  ………… …………
  ………… …………
  散る桜
  残る桜も 散る桜
  と 謳いし人あり
  青春桜 幾百万
  なぜ 散りゆくか
  散りゆくか
  南海遠しや 仇桜
  爛漫未熟に 枝痛し
  残りし友も
  いつの日か
  誰にも見られず
  散りゆくか
  諸行は無常か 常住か
  それも知らずに
  散りゆくか
  散る桜 残る桜よ
  永遠に
  春に 嵐と 咲き薫れ
 生と死と、無常と常住と──それは、十七歳の伸一の、避け難い人生のテーマであった。
 ここから、彼の哲学の行脚が始まり、やがて、戸田城聖との邂逅によって、仏法という生命の大法を知るに至るのである。
 伸一は、タイダル・ベイスンの岸辺の桜を見上げながら言った。
 「私が廃墟に咲く桜を見て詩を作っていたころ、ここでも日本から送られた桜を見て、心を和ませていた人がいたんだろうね。
 国と国とは戦争をしていても、花を見て美しいと感じる人間の心に変わりはない」
 清原は頷いた。
 「本当にそうですね。日本を訪れ、桜を見た外国の人は、その美しさが忘れられないと言いますね」
 「これから総本山には、世界中の友が訪れることになるから、桜の花をたくさん植えて荘厳しようと思う。咲き誇る桜は、日本の思い出として、また、満開の功徳の象徴として、登山者の心に、永遠に刻まれてゆくことになるだろう」
 伸一の胸には、桜が一面に咲きう、総本山大石寺の光景が広がっていた。
 以来、十余年を経て、伸一は、これを実現した。大石寺は、美しき桜の園となり、世界からの参詣者に、華麗絢爛たる名画を楽しませた。
 しかし、その桜が、天魔と化した残忍な法主によって、無残にも切り倒される日が来るのである。
26  慈光(26)
 山本伸一たちの一行は、昼過ぎに首都ワシントンを発ち、夕刻、ニューヨークに着いた。
 いよいよ明日は、アメリカを離れ、ブラジルのサンパウロに向かう日である。
 夜は、それぞれ荷物を整理するなど、出発の準備に時間をあてることにした。
 夕食の後、同行の幹部は買い物に出かけたが、伸一はホテルに残った。
 依然として、体調が思わしくないのである。いや、むしろ、最悪な状態になりつつあった。
 ニューヨークからブラジルのサンパウロまでは、十時間余の空の旅となる。
 しかも、現地との連絡もままならず、詳しい状況はつかめずにいた。心身ともに、労多き旅になることは間違いなかった。
 伸一は、背広のポケットにしまった恩師・戸田城聖の写真を取り出すと、ベッドで体を休めながら、その写真をじっと見つめた。
 彼の頭には、戸田の逝去の五カ月前の十一月十九日のことが、まざまざと蘇った。それは恩師が病に倒れる前日であった。
 伸一はその日、広島に赴こうとする戸田を、叱責を覚悟で止めようとした。恩師の衰弱は極限に達して、体はめっきりとやつれていた。更に無理を重ねれば、命にかかわることは明らかだった。
 伸一は、学会本部の応接室のソファに横になっている戸田に向かい、床に座って頭を下げて頼んだ。
 「先生、広島行きは、この際、中止なさってください。お願いいたします。どうか、しばらくの間、ご休養なさってください」
 彼は、必死で懇願した。しかし、戸田は毅然として言った。
 「そんなことができるものか。
 ……そうじゃないか。仏のお使いとして、一度、決めたことがやめられるか。俺は、死んでも行くぞ。伸一、それがまことの信心ではないか。何を勘違いしているのだ!」
 その烈々たる師の声は、今も彼の耳に響いていた。
 ──あの叫びこそ、先生が身をもって私に教えてくれた、広宣流布の指導者の生き方であった。
 ブラジルは、日本とはちょうど地球の反対にあり、最も遠く離れた国である。そこで、多くの同志が待っていることを考えると、伸一は、なんとしても行かねばならないと思った。そして、皆を励まし、命ある限り戦おうと、心を定めた。
 彼の心には、戸田城聖の弟子としての闘魂が燃え盛っていた。
27  慈光(27)
 山本伸一は、これまで、体調を整えようと、自分なりに、休息の時間をとるように心がけてきた。
 それも、当初のスケジュールを変更することなく、ブラジル訪問を実現するためであったといってよい。
 彼は、しばらくすると、ベッドから起き上がった。そして、イスに座ると、御守り御本尊に向かい、真剣に題目を唱え始めた。
 大生命力を自身の内より引き出し、病魔を打ち破らんとする、ひたぶるな祈りであった。
 長い唱題であった。彼が唱題を終えると、ドアをノックする音がした。副理事長の十条潔であった。
 十条は、数日前から、山本会長のブラジル行きは、止めるべきではないかと、考え続けてきた。日を追うごとに、伸一の体調が悪化していることを感じていたからである。
 最初にニューヨーク入りしたころから、伸一の衰弱は、ことに激しくなったようで、目の下に隈さえ浮かんでいたのを、十条は見逃さなかった。
 彼は、一人で悶々と考えた。山本会長のブラジル訪問は、広宣流布の未来構想のうえから、熟慮し抜いて練られたものであることをよく知っていた。それを止めれば、その広布の構想を崩しかねないことが、わかっていたからである。
 しかし、ブラジル行きを強行すれば、山本会長は、間違いなく倒れるだろうと思えた。彼は、同行の幹部の責任として、それを黙って見ているわけには、絶対にいかなかった。
 十条は悩み抜いた末に、ほかの幹部とも相談した。そして、伸一のブラジル行きを止めようとして、やって来たのである。
 伸一は、ドアを開け、十条を部屋に招き入れた。
 「やあ、十条さんか。買い物はすんだの?」
 「はい、行ってまいりました」
 「どこへ行ったの?」
 「デパートですが、意外に日本製が多いのに驚きました」
 十条は、それから、居住まいを正すと、顔を強張らせながら言った。
 「先生、誠に申しにくいことなのですが……」
 「何かあったの」
 十条は、思い詰めた表情で話し始めた。
 「あすのブラジル行きのことで、お話しにまいりました。結論から申し上げますと、先生には、このままアメリカにお残りいただいて、私どもだけでまいりたいと思います」
 伸一は、驚いたように、十条の顔を見ていた。
28  慈光(28)
 十条潔は、勢い込んで一気に語った。
 「先生が、著しく体調を崩しておられることは、誰の目にも明らかです。ここで無理をなされば、それこそ、取り返しのつかないことになります。
 もしも、先生がお倒れにでもなったら、学会は柱を失ってしまいます。そんなことになったら……。
 もっと早く、このことを先生に申し上げようと思っておりましたが、ついつい先生の前に出ると、それを口にすることができませんでした。
 差し出がましく、僣越であることは、十分にわかっております。
 しかし、先生には、どうか、お休みになっていただきたいのです。それがみんなの気持ちでもあります」
 十条はここまで語ると、哀願するような目で、山本伸一を見た。
 「十条さん、ありがとう……」
 こう言って、伸一もまた十条を見すえた。その目には決意の炎が燃えていた。
 そして、伸一は、強い語調で言った。
 「しかし、私は、行きます。私を待っている同志がいる。みんなが待っているのに、やめることなど断じてできない。
 ブラジル訪問は、今回の旅の大きな目的だったではないですか。そのためにやってきたのに、途中でやめることなどできない。
 戸田先生が戦いの途中で引き返したことが、一度でもありましたか!
 私は戸田先生の弟子です。行く、絶対に行く。もし、倒れるなら、倒れてもよいではないか!」
 気迫に満ちた、火のような闘志にあふれた言葉であった。束の間、沈黙が流れた。ただ伸一と十条の目と目が光っていた。
 十条は、ゴクリと唾を飲み込んだ。彼は、更に説得しようとしたが、何も言えなかった。
 伸一の決定した胸の内を聞いた十条は、もうこれ以上、伸一に語る言葉はないことを知った。そして、熱い感動が込み上げるのを覚えた。
 「山本先生! ……」
 十条は潤んだ目で、伸一を見て言った。
 「よくわかりました。申し訳ございませんでした。ただ、ただ、どこまでも、先生のお供をさせていただきます」
 伸一の顔に、微笑が浮かんだ。
 「行こうよ、海の果てまで。戸田先生に代わって」
 既に伸一の心は、軽やかに、まだ見ぬ新天地・ブラジルを駆け巡っていた。

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