Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第1巻 「錦秋」 錦秋

小説「新・人間革命」

前後
1  錦秋(1)
 新天地アメリカに、幸福の種子を幾重にも蒔きながら、山本伸一の平和旅は続いた。
 彼の行くところ、希望の光が注ぎ、楽しき歓喜の波が広がった。
 十月六日の朝、伸一たちの一行は、サンフランシスコを発って、シアトルに向かった。
 ジェット機で西海岸を北上する、約二時間ほどの空の旅である。
 海外係からの報告では、シアトルには二十人ほどのメンバーがいるが、まだ座談会さえ開けない状態であるとのことであった。
 また、今回の訪問についても、手紙でしか連絡が取れず、出迎えがあるのかどうかもわからないという。不安をつのらせる旅であったといってよい。
 午前十時過ぎ、ジェット機はシアトルに到着した。
 ところが、空港には、意外にも十数人の友が出迎えていた。
 「先生! ようこそ、おいでくださいました」
 一行の姿を見ると、メンバーが駆け寄ってきた。
 「やあ、ありがとう」
 伸一は、手をあげ、笑顔で応えた。
 「あのー、私のことを覚えておいででしょうか。去年の三月に、日本を発つ時に、本部で会っていただいたものですが……」
 一人の婦人が、を紅潮させて言った。
 「ええ、覚えていますよ」
 その折、伸一は、婦人の話から、アメリカの軍人である夫との不和を感じた。そして、一家の和楽こそ、幸福の基盤であると訴え、激励に、青年部の体育大会の記念メダルを贈ったことを記憶していた。
 彼女の傍らには、歩き始めたばかりの男の子と、三歳くらいの女の子が、スカートにまつわりつくように立っていた。男の子は、アメリカに渡ってから生まれたのであろう。
 明るい婦人の表情から、一家の幸せが感じられ、彼は、喜びを覚えた。
 一言の激励で、人生が大きく開けることがある。ゆえに、伸一は、瞬間の出会いを大切にし、心から友を励ますことを、常に心掛けてきた。
 「可愛いお子さんだね」
 彼は腰をかがめると、男の子を抱き上げた。
 そして、片方の手で、コートのポケットを探り、リンカーン大統領の肖像が刻まれた一セント銅貨をつかみ出すと、それを男の子の手に握らせた。
 「ごめんね。何もお土産がなくって……」
 男の子は、伸一の腕のなかで、銅貨を握り、キャッキャッと声をあげて、無邪気に笑っていた。
2  錦秋(2)
 小さな子供を抱き上げてあやす、山本伸一の親しみに満ちた姿に触れ、緊張していた婦人たちの表情は、すぐに和らいでいった。
 カメラを手にした、若い婦人から声が上がった。
 「先生、記念撮影をしてください」
 「撮りましょう。せっかく、皆さんが来てくださったんですから」
 伸一を中心にして、皆が並ぼうとすると、彼は、さっと後ろに退いた。皆、怪訝な顔で伸一を見た。
 「皆さんが前に来てください。私は後ろでいいのです。後ろから皆さんを見守っていきたいのです」
 それは、伸一の率直な気持ちであった。
 会長として広宣流布の指揮を執ることは当然だが、彼の思いは、常に陰の人として、同志のために尽くすことにあった。
 伸一の言葉に、メンバーは、驚きを隠せなかった。皆がいだいていた「会長」の印象とは、大きく異なっていたからである。
 伸一の態度は、およそ世間の指導者の権威的な振る舞いとは正反対であり、ざっくばらんで、しかも、人間の温かさと誠実さが滲み出ていた。
 写真を撮り終えると、伸一は言った。
 「では、私たちが泊まることになっているホテルに行きましょう」
 どっと歓声があがった。皆、大喜びである。だが、同行の幹部だけが、こんなに大人数でホテルへ押しかけて大丈夫なのかと、ハラハラしていた。
 何台かの車に分乗して、ホテルに向かった。
 シアトルは、海と山に囲まれた風光明媚な街であった。太平洋につながるエリオット湾に沿って、海の間近まで丘陵が迫り、樹林の彼方には、富士によく似たレーニエ山の白銀の頂が輝いていた。
 緯度は北海道の北端より北に位置しているが、気温は、東京より少し低い程度であった。
 太平洋から吹きつける冬の冷たい風を、対岸のオリンピック半島がさえぎり、内陸部からの寒風は、東に横たわるカスケード山脈が防いでいるためである。最も寒い一月でも、平均気温は摂氏五度という。
 それでも、常夏の島・ハワイを経てやって来た伸一には、肌寒く感じられた。
 一行が宿泊するホテルは市街の中心にあり、窓からは、船の行き交うエリオット湾がよく見えた。
 メンバーが伸一の部屋に入ると、そこは、さながら座談会場のようになってしまった。
3  錦秋(3)
 メンバーは、それぞれ山本伸一に自己紹介し、近況を報告していった。
 皆、彼の来訪を待ちわびていた人たちである。話しながら、感極まって、泣き出す人もいた。
 伸一は、一人一人の話を聞き終わると言った。
 「さあ、せっかくの懇談の機会ですから、どんなことでも、聞きたいことがあったら聞いてください」
 メンバーは、この機会を待っていたかのように、次々と質問をぶつけた。仕事の悩みもあれば、病気の問題もあった。
 一人のアメリカ人の壮年からは、英字で表記した経本をつくって欲しいとの、要望が出された。
 それまで、英字の経本がなかったために、日本語がわからないメンバーは、人の勤行を聞いて、耳で覚えるしかなかったのである。
 「わかりました。それはお困りでしょう。すぐに検討します」
 伸一は帰国後、直ちにこれを進めていった。
 彼は、どこにあっても、常に同志との率直な語らいを心掛けた。その対話のなかから人々の心をつかみ、要望を引き出し、前進のための問題点を探り当てていったのである。
 そして、問題解決のために迅速に手を打った。提起された問題が難題である場合には、何日も考え、悩んで、なかなか寝つけないことも少なくなかった。
 まことの対話には、同苦があり、和気があり、共感がある。対話を忘れた指導者は、権威主義、官僚主義へと堕していくことを知らねばならない。
 伸一の思いは、いつも、広宣流布の第一線で苦闘する同志とともにあった。いな、彼自身が最前線を駆け巡る、若き闘将であったといってよい。
 質問に答えながら、伸一は、空港に出迎えてくれたメンバーのなかで、まだ、ホテルに到着しない友がいることが、気になって仕方なかった。
 「まだ、来ない人がいるけど、どうしたんだろう」
 彼は、話しながら、何度か、こう繰り返した。
 質問が出尽くしたころ、バタンと大きな音がして、部屋のドアが開いた。
 皆が一斉に振り向いた。そこには、裸足で、片手にハイヒールを持ち、もう一方の手に重そうな大型の録音機を持った、やや大柄な日系婦人が立っていた。
 彼女は、録音機を床に置くと、喘ぐように肩で大きく息をした。顔中に汗が噴き出していた。
 「どうしたんですか」
 伸一が尋ねた。
4  錦秋(4)
 婦人は、荒く息をしながら答えた。
 「すいません。空港からここに来る途中、皆さんの車を見失い、道に迷ってしまったもので……」
 「そうですか。ご苦労でしたね。心配していたんですよ」
 山本伸一は、婦人に笑顔を向けた。
 彼女の名前は、タエコ・グッドマンといった。
 前日、モンタナ州を車で出発して、雪のロッキー山脈を越え、早朝、ようやく空港に着いて一行を出迎えたのである。
 しかし、ホテルに向かう途中、一行の車を見失ってしまった。シアトルの地理がわからない彼女は、ホテルを探すのに、かなり時間を費やしてしまったのだ。
 苦心の末に、やっとホテルを見つけたが、ホテルから、かなり離れた駐車場に車を止めてしまった。
 そこから大型の録音機を持って、ホテルに向かって歩いた。この録音機は、モンタナで自分が信心をさせた人たちに、山本会長の指導を聞かせたくて、購入したばかりのものだった。
 大型の録音機は、女性の手には、途方もなく重たかった。数メートルも歩くと腕が痛くなった。
 しかも、履いていたのは買ったばかりのハイヒールであった。これが足に合わず、歩くとすぐに擦れができた。録音機の重さと擦れの痛みに音をあげ、彼女は何度も立ち止まった。
 時は刻々と過ぎてゆく。山本会長は、既にどこかに出発してしまったのではないか──そう思うと、気ばかりが急くが、歩みは遅々として進まなかった。無性に涙が込み上げてきた。
 ホテルのロビーに着いた時には、ハイヒールを脱いで、裸足になっていた。擦れのできた足で、重い録音機を運んで歩く苦痛は、恥も外聞も忘れるほど大きかったのである。
 伸一は、婦人の持ってきた録音機を見て言った。
 「ありがとう。うれしいね。同志のことを考えてくれて。みんなのために、懸命に戦う姿ほど、尊いものはありません」
 その言葉は、タエコ・グッドマンの胸に突き刺さった。ハッとして伸一の顔を見た。
 「先生……」
 何か言いかけたが、言葉にならなかった。
 彼女は、自分の心にわだかまっていた、悶々とした思いが、霧が消えるように、にわかに晴れていくのを覚えた。
 伸一の言葉は、彼女の人生を決する一言となったのである。
5  錦秋(5)
 タエコ・グッドマンが入信に踏み切った動機は、三年前に日本で母親がガンにかかり、医師から「六カ月の命」と宣告されたことであった。
 その苦悩のなかで、仏法の話を聞き、紹介者の指導通りに、一心に信心に励んだ。そして、二カ月たって再検査を受けると、母親のガンの症状はすっかり消えていたのである。
 その後、彼女は、職場で知り合ったアメリカ人と結婚し、渡米する。
 しかし、見知らぬ土地での生活は、日々、郷愁をつのらせた。
 彼女は、日本に帰れることを願って、真剣に信心に励んだ。入信するメンバーは二人、三人と増え、遂に十人を超えた。
 すると、彼女の心は揺らぎ始めたのである。
 ──もし、自分が帰国したら、後に残されたメンバーの面倒は、いったい誰がみるのだろうか。
 日本に帰りたい一心で信心に励み、弘教に力を注いだことが、かえって、帰国をためらわせる結果となったのである。
 彼女は心の藤を感じた。それは使命の目覚めといってよかった。
 そんなさなかに、山本伸一会長一行の訪米を知り、彼女はぜひ会長に会いたいと、一晩がかりで車を走らせてやって来たのだ。
 彼女は、「みんなのために、懸命に戦う姿ほど、尊いものはありません」と言う、伸一の言葉を耳にした瞬間、感激とともに決意が込み上げた。
 ──私は、このアメリカの地で戦おう。私を信頼して、信心を始めた同志のために……。
 人間性の光彩とは、利他の行動の輝きにある。人間は、友のため、人々のために生きようとすることによって、初めて人間たりえるといっても過言ではない。そして、そこに、小さなエゴの殻を破り、自身の境涯を大きく広げ、磨き高めてゆく道がある。
 伸一は、モンタナの地から、法を求めてやって来た婦人の、一途な求道の姿が嬉しかった。
 広いアメリカのここかしこに、広布の使命に生きる地涌の友が、涌出しつつあることを感じた。まさに、世界広布の時は来ていたのである。
 伸一は、ホテルに集ったメンバーに、英語版の学会紹介書である『ザ・ソウカガッカイ』や「歓喜」の文字を染め抜いた土産の袱紗を贈った。
 伸一との出会いの語らいを終えて、メンバーが帰っていったのは、午後一時過ぎであった。
 休息の暇もなく、全力で指導、激励にあたった伸一は、深い疲労を覚えた。
6  錦秋(6)
 山本伸一は、同行のメンバーと、シアトルの街を見学して、昼食をとることにした。
 車で街に出ると、正木永安が、一軒のステーキ・レストランの看板を指差して言った。
 「先生! このレストランでは、ステーキが一ドル十五セントだそうです。こんなに安いステーキは、めったにありません。ここにしてはいかがでしょうか」
 一行は今度の旅では、倹約をモットーにしていた。それは、自分たちの旅費は出来る限り切り詰め、集って来た現地の友に飲み物を振る舞うなど、皆に喜んでもらえるように有効に使おうという、伸一の発案によるものであった。
 当時は、旅行者一人が、手に入れることができる外貨は、一日当たり三十五ドル(当時の換金レートは一ドル=三百六十円)と、厳しく制限されていた。
 そのなかで出費をおさえるとなれば、食事代を切り詰めるしかなかった。
 一行は、この旅の間、自分たちだけでホテルのレストランなどを使い、本格的な食事をすることはなかった。たいていはコーヒーにトーストで終わらせるか、ホットドッグを買って食べるか、セルフサービスのカフェテリアですませた。
 そして、たまに安価な中華料理店を探して、栄養をとっていたのである。
 それだけに、一ドル十五セントのステーキはありがたかった。皆、喜んで、その店に入ると、ステーキを注文した。
 しかし、出てきたステーキは、まるで底のように硬く、全く味気なかった。
 「本場アメリカのステーキといっても、たいしたことはないわね」
 清原かつが、山平忠平に話しかけた。
 「この値段じゃ、多少まずくても仕方がないよ。でも、肉は硬いけど、油があれば、けっこういけるような気がするな」
 伸一は、そんな二人のたわいないやりとりを耳にしながら、せめて食事ぐらいは、十分に満喫できる旅をさせてあげたいと思った。
 しかし、生活苦のなかで戦う現地のメンバーのことを考えれば、質素に徹し、少しでも同志のために尽力することは当然であろう。それでこそ広宣流布のリーダーであり、その姿と真心に、人は信頼を寄せるのである。
 「こんなステーキでみんなには申し訳ないが、学会は、少欲知足でいこうよ。ことに幹部が、質素で清らかであることを忘れれば、そこから堕落が始まってしまうからね」
 伸一は、笑みをたたえながら、皆に言った。
7  錦秋(7)
 昼食を済ませた一行は、シアトルの街を散策した。
 山本伸一は、路上でを磨いている初老の男性を見つけると、気さくに話しかけた。
 「ハロー、お仕事はいかがですか」
 正木が、それを英語で伝えると、男性は、「日本の人かね」と尋ねた。頷く伸一を見て、彼は、人なつこい笑いを浮かべて言った。
 「きのう、日本のプリンスとプリンセスを見た」
 当時の皇太子の明仁親王と美智子妃が、日米修好百年を記念し、アイゼンハワー大統領の招きで、前日まで、アメリカを訪問していたのである。
 九月二十二日に日本を発った皇太子夫妻は、ハワイのホノルル、サンフランシスコ、ワシントン、ニューヨーク、シカゴなどを経てシアトル入りした。
 そして、前日の五日、シアトルのワシントン大学の日本庭園で開かれた日系人の歓迎大会に出席し、午後には、最後の訪問地ポートランドに向かい、その夜、帰国の途についていた。
 皇太子夫妻にとって、この訪米は、前年四月の結婚以来、初の海外訪問となった。初老の男性の話からすると、シアトルでは市をあげて大歓迎したようだ。
 実は、この年の六月に予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が、日米安保条約の批准をめぐっての混乱から、日本政府の要請によって延期されたために、アメリカ人の対日感情の悪化が伝えられていた。
 それだけに、アメリカ国民の反応が懸念されていたのである。
 ところが、結果的には初々しいカップルの訪米に、アメリカ国民の多くは好感を寄せ、親日の思いをいだいたようだ。
 伸一は、皇太子夫妻の訪米が、成功裏に終わったことを知って安した。
 一行は、しばらく車で街を見て回ってから、ホテルに戻った。
 そのころから、伸一は、体の異状を感じ始めた。胸から首筋にかけて、強烈に痒いのである。
 鏡に映して見ると、胸や首だけでなく、顔にも赤い腫れが広がっていた。全身の蕁麻疹であった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。間もなく、腹がゴロゴロして、痛み出し、下痢が始まった。熱も相当出ているらしい。
 伸一は、しばらく休めばよくなるだろうと、ベッドに体を横たえたが、発熱のせいか、悪寒に襲われ、体がガタガタと震えた。
 彼は、ベッドの上で、唇を噛みみ締めた。
8  錦秋(8)
 昼食のステーキが、山本伸一の体には、合わなかったようだ。
 それに、時差による疲労と睡眠不足、常夏のハワイとの激しい温度差も重なって、もともと病弱な彼の体力は、著しく低下していたのであろう。
 伸一は、常備薬として持参した薬を飲んでみたが、痒みも、下痢も、悪寒も、なかなか治らなかった。
 この日の夜は、座談会が組まれていた。いつまでも休んでいるわけにはいかなかった。彼は、ベッドから起き上がった。
 その時、ドアをノックする音がした。
 ドアを開けると、十条潔が立っていた。
 十条は、蕁麻疹の広がった伸一の顔を見ると、驚いて尋ねた。
 「先生! どうなさったんですか」
 「蕁麻疹らしい。少し下痢もしていてね」
 「医者を呼びましょう」
 「大丈夫だよ。薬も飲んだから、しばらく休めばよくなるよ」
 十条は、意を決したように言った。
 「先生、今日の座談会はお休みください。かなりのメンバーと、さきほどお会いしていただきましたし、まだ、これからも旅は続きますので、体調を整えていただきたいのです」
 「しかし、みんなが楽しみにして、待っているじゃないか。行かなければかわいそうだよ」
 「でも、ご無理をなさって、倒れでもしたら、取り返しのつかないことになります。座談会も、地区の結成も、私たちで行います。せめて、今日だけはお休みになってください」
 伸一は、同志のことを考えると、座談会を欠席することは、身を切られるように辛かった。
 しかし、十条の言うことも頷けた。海外歴訪の旅は、まだ始まったばかりであり、これから、カナダにも、ブラジルにも行かなくてはならない。
 もしも、病に倒れ、あとの行動に支障をきたすようになれば、更に多くの同志を悲しませることになる。
 それに、蕁麻疹で腫れた顔をして座談会に臨めば、かえって、同志に無用な心配をさせてしまうことにもなりかねない。
 彼は、やむなく、十条の意見に従うことにした。
 午後五時過ぎ、同行の幹部たちは、座談会に出掛けていった。
 外は雨になっていた。
 皆が出発すると、伸一はベッドの上に正座し、しばらく唱題を続けた。彼の体をもうとする病魔との、真剣勝負ともいうべき、闘いの祈りであった。
9  錦秋(9)
 山本伸一は、唱題の後、ベッドで体を休めた。
 彼は、広宣流布の長途の旅路を行かねばならぬ自分の体が、かくも病弱であることがふがいなく、悔しかった。
 伸一は、第三代会長として、一閻浮提広布への壮大な旅立ちを期した五月三日の夜の、妻の峯子との語らいを思い出した。
 その日、夜更けて伸一が自宅に帰ると、峯子は、食事のしたくをして待っていた。普段と変わらぬ質素な食卓であった。
 「今日は、会長就任のお祝いのお赤飯かと思ったら、いつもと同じだね」
 伸一が言うと、峯子は笑みを浮かべながらも、キッパリとした口調で語った。
 「今日から、わが家には主人はいなくなったと思っています。今日は山本家のお葬式ですから、お赤飯は炊いておりません」
 「確かにそうだね……」
 伸一も微笑んだ。
 妻の健気な言葉に、彼は一瞬、不憫に思ったが、その気概が嬉しかった。それが、どれほど彼を勇気づけたか計り知れない。
 これからは、子供たちと遊んでやることも、一家の団欒も、ほとんどないにちがいない。それは、妻にとっては、たまらなく寂しいことであるはずだ。
 だが、峯子は、決然として、広宣流布に生涯を捧げた会長山本伸一の妻としての決意を、披瀝して見せたのである。
 伸一は、人並みの幸福など欲しなかった。ある意味で広布の犠牲となることを喜んで選んだのである。
 今、妻もまた、同じ思いでいることを知って、ありがたかった。
 しかし、それは自分たちだけでよいと思った。その分、同志の家庭に、安穏なる団欒の花咲くことを願い、皆が幸せを満喫することを望んだ。そのための自分の人生であると、彼は決めたのである。
 峯子は、伸一に言った。
 「お赤飯の用意はしておりませんが、あなたに何か会長就任のお祝いの品を贈りたいと思っております。何がよろしいのかしら」
 「それなら、旅行カバンがいい。一番大きな、丈夫なやつを頼むよ」
 「カバンですか。でも、そんなに大きなカバンを持って、どこにお出掛けになりますの」
 「世界を回るんだよ。戸田先生に代わって」
 峯子の瞳が光り、微笑が浮かんだ。
 「いよいよ始まるんですね。世界広布の旅が」
 伸一は、ニッコリと笑って頷いた。
10  錦秋(10)
 山本伸一は、もとより、広宣流布に命をなげうつ覚悟はできていた。広布の庭で戦い、散ってゆくことには、微塵の恐れも、悔いもなかった。
 もともと、医師からも三十歳まで生きられないと言われてきた体である。いつ倒れても不思議ではない。
 しかし、恩師の志を受け継ぎ、世界広布の第一歩を踏み出したばかりで、倒れるわけにはいかなかった。
 伸一はベッドに伏せながら、自らの弱い体が、悔しくてならなかった。
 ──生きたい。先生との誓いを果たすために。
 彼は「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」との御聖訓を思いつつ、熱にうなされながら祈った。
 激しさを増した雨が、ホテルの窓を叩いていた。
 一方、ホテルをあとにした副理事長の十条潔らは、まず、シアトルの連絡の中心になってきたメンバーの家で、地区結成の打ち合わせをした。
 それから座談会場となっている集会所に向かった。
 会場には、四十人ほどの人が集まっていた。
 シアトル初の座談会としては、大変な盛会というべきだが、会場が個人の家とは違い、比較的大きなホールだけに、どこか寂しく感じられた。
 最初に、副理事長の十条から、山本会長は急用のために、座談会には、出席することができなくなった旨が伝えられた。
 参加者の顔には、ありありと落胆の色が浮かんだ。
 日本から来た幹部が、次々とあいさつに立ち、懸命に会場の空気を変えようとした。だが、重く沈んだ雰囲気を変えることはできなかった。
 参加者のなかには、日系婦人の夫で、未入信のアメリカ人も多かった。
 それだけに、十条たちは必死だった。しかし、力を込め、声を張り上げて叫べば叫ぶほど、皆の表情は、ますます暗くなっていくのである。
 伸一が出席した座談会に漂う、和気あいあいとした温かな雰囲気も、あの弾けるような喜びの表情も見られなかった。
 ──これではいかん。何かが違う。どこが違うのだろうか……。
 十条は、内心、焦りを覚えながら、伸一の出席した座談会での指導の様子を思い起こしていた。
 その後、日本語と英語のグループに分かれて、懇談が行われた。
11  錦秋(11)
 座談会の最後には、再び全員が集い、副理事長の十条潔が、シアトル地区の結成を発表した。
 拍手は起こったものの、やはり、どこか盛り上がりに欠けていた。
 座談会が終了した後、十条は、一人の婦人から、これから夫の転勤に伴い、エチオピアに出発するという報告を受けた。
 山本会長から、地区結成の全責任を託されてきた彼は、この婦人を、シアトル地区エチオピア班の班長に任命した。盛んな拍手が起こったのは、その時だけであった。
 夜、ホテルに戻った十条は、伸一の部屋に、座談会の報告に訪れた。
 伸一の蕁麻疹は、次第に引き始めていたが、下痢はまだ続き、熱も下がらなかった。
 しかし、伸一はベッドから起き、十条の報告に耳を傾けた。
 十条は、座談会の様子を詳しく伝えた後、伸一に尋ねた。
 「私たちとしては、一生懸命にやったつもりです。しかし、先生が出席された座談会とは、どこか雰囲気が違うのです。
 先生、この違いは、どこにあるのでしょうか」
 伸一は静かに頷くと、強い語調で語り始めた。
 「私も、何か特別なことをしているわけではない。 ただ″大切な仏子を不幸にさせてなるものか″″この人たちを幸せに導くチャンスは今しかない″との思いで、いつも戦っている。その一念が、皆の心を開いていく力になる。
 わが子のことを常に思い、愛する母親は、泣き声一つで、子供が何を欲しているかがわかる。また、子供は、その母の声を聞けば、安心する。
 同じように、幹部に友を思う強い一念があれば、みんなが何を悩み、何を望んでいるのかもわかるし、心も通じ合うものだ。
 そのうえで、何を、どう話せば、皆がよく理解できるのか、心から納得できるのか、さまざまな角度から考えていかねばならない。大事なことは、そうした努力を重ねていくことだ。
 私も、会合に臨むときには、全力で準備にあたっている。考えに考え、工夫している。それが指導者の義務であるからだ。
 幹部の話が、いつも同じで、話題に乏しく、新鮮さもないというのは、参加者に対して失礼です。それは幹部が、惰性に流されている無責任な姿だ」
 十条は、伸一の話を聞きながら、自分の姿勢を深く恥じた。
12  錦秋(12)
 山本伸一の体の不調は、翌朝になっても、まだ続いていた。
 熱が下がらず、立って歩こうとすると、足元がふらついた。
 しかし、彼は服を着て、出掛ける用意をした。この日は、大客殿の建築資材としてカナダ杉を購入するため、商社の案内で製材工場に行くことになっていたからである。
 案内された製材工場には大プールがあり、そこにカナダ杉の巨木が蓄えられていた。大きいものは、直径が三メートルもある。
 それが機械にかけられ、まるで羊羮を切るように、瞬く間に製材されていくさまは壮観であった。
 伸一はカナダ杉の材質などを念入りに確認し、この杉の購入を取り決めた。
 その帰りに、一行はシアトルの名所のワシントン湖に立ち寄った。
 この湖は、運河で海とつながり、湖と海には落差があるため、水位を調整する水門がつくられていた。
 その水門が閉じられ、船が運河を行く様子を眺めていると、しとしとと雨が降り始めた。
 湖には、浮橋が架けられていた。一行は、この浮橋に立ってみた。
 湖面の彼方に、山々が雨で淡く霞み、黄や赤に染まった森の木々が、水彩画のように見えた。
 「本当にきれい! まるで絵のようね……。
 でも、この美しい葉も、すぐに散ってしまうと思うと、無常を感じるわね」
 しんみりした口調で、清原かつが言った。
 伸一は、それに笑顔で応え、静かに語った。
 「鮮やかな紅葉は、限りある命の時間のなかで、木々の葉が、自分を精いっぱいに燃やして生きようとする姿なのかもしれないね。
 すべては無常だ。人間も生老病死を避けることはできない。
 だからこそ、常住の法のもとに、一瞬一瞬を、色鮮やかに燃焼させながら、自らの使命に生き抜く以外にない。
 人生は、限りある時間との戦いなんだ。
 それゆえに、日蓮大聖人も『命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也』と仰せになっている。
 今のぼくに欲しいのは、その使命を果たすための時間なんだ……」
 最後の言葉には、伸一の切実な思いが込められていた。しかし、その深い心をみ取る人はいなかった。
 色づく錦秋の木々にも増して、伸一の心には、広宣流布への誓いが、鮮やかな紅の炎となって燃え盛っていた。
13  錦秋(13)
 一行がホテルに帰ったのは、夕刻であった。
 夜になると、前日の座談会で任命になった、新任の幹部たちがやって来た。
 山本伸一を中心に、今後の地区の建設について、打ち合わせが行われた。
 伸一の熱は、依然として下がらず、体は無性にだるかった。しかし、そんな様子を、彼は微塵も感じさせなかった。熱のために赤らんだ顔さえ、メンバーには血色のよさに思えた。
 伸一は、広布への大確信をたぎらせ、烈々たる気迫で、シアトル地区の希望の未来を語った。彼は、座談会に出席できなかった分だけ、全魂を込めて、指導にあたったのである。同志の胸は躍り、夢は広がった。
 語らいは深夜まで続き、皆が帰っていった時には、伸一は、シャワーを浴びる力も失せていた。
 そして、翌日の午前五時半には、次の目的地のシカゴに向かうため、ホテルを出発した。
 早朝にもかかわらず、空港には、十数人の同志が見送りに来てくれていた。
 出発までのわずかな時間も、伸一は、友との語らいに余念なかった。
 まだ、発熱の続いていた彼には、何よりも休息が必要であった。しかし、彼の頭には、永遠なる広布の道を開くために、ただ、眼前の友を全力で励ますことしかなかった。
 シカゴ行きの飛行機の出発予定時刻は、午前七時であった。
 伸一は搭乗時間ギリギリまで、激励を続けた。そして、待合室のソファから立ち上がろうとした時、彼の体はグラリと揺れた。皆、ハッとして息を飲んだ。
 「皆さん、お見送りありがとう。また、お会いしましょう。お元気で!」
 しかし、伸一は、何事もなかったかのように、笑顔でこう言うと、同行の幹部とともに、足早に搭乗ゲートに消えていった。
 「先生は、ご病気だったのでは……」
 一人の婦人が、つぶやいた。皆の顔色が変わった。
 この病魔と格闘しながらの伸一の激励が、シアトルの同志の魂を激しく揺さぶり、弘教の波は急速に高まっていった。
 そして、二年半後の一九六三年(昭和三十八年)三月、海外初の出張御授戒が、このシアトルでも行われたのである。
 その時、派遣されて来たのが、後に日蓮正宗第六十七世の法主日顕となる、宗門の教学部長の阿部信雄であった。
 そこで、彼のなした行為がいかなるものであったかは、やがて、後世の歴史が証明しよう。
14  錦秋(14)
 山本伸一の一行が乗ったシカゴ行きの飛行機は、なかなか飛び立たなかった。
 機内放送は、計器の故障が発見されたために、出発時刻が大幅に遅れることを伝えていた。
 結局、飛行機がシアトルを発ったのは、午前八時半過ぎであった。
 一行がシカゴのミッドウェー空港に到着したのは、一時間半ほど遅れ、現地時間の午後五時過ぎだった。
 伸一たちが、空港ロビーに向かうと、元気な歌声が流れてきた。どうも聞き覚えのある歌である。
 近づくにつれて、それが『威風堂々の歌』であることがわかった。
 ロビーに出ると、十数人のメンバーが並んで、声を張り上げて熱唱していた。
 濁悪の此の世行く
 学会の
 行く手を阻むは……
 アメリカで耳にする懐かしい学会歌に、一行は胸を熱くした。
 この『威風堂々の歌』は京都支部歌として京都の同志に愛唱されていたが、京都でこの歌を聴いた伸一の提案によって、学会歌として全国で歌われるようになったのである。
 皆の前に立って、ワイシャツ姿でを握り締め、意気盛んに指揮をとっているのは、日本の男子部の幹部である青田進であった。
 「おっ、青田君じゃないか! 彼は、ニューヨークに来ることになっていたはずだが……」
 青田の姿を見て、十条潔が声をあげた。
 青田は、学生時代に、東大法華経研究会のメンバーとして、戸田城聖から、直接、訓練を受ける機会に恵まれ、大学を卒業すると、石油会社に就職した。
 そして、七月末から三カ月の予定で、石油化学装置の設計のために、アメリカに派遣されていた。
 彼は、自分の渡米中に、山本会長の歴史的なアメリカ指導が行われることを思うと、胸が高鳴った。
 青田は、先発隊の自覚で同志の激励に奔走した。彼は、広宣流布のリーダーである伸一の弟子として、メンバーとともに弘教のうねりを起こし、会長一行を迎えようと決意していた。
 ニュージャージー州に滞在していた青田は、当初、ニューヨークで会長一行を迎えるつもりでいた。しかし、一行のシカゴ到着に当たる十月八日が土曜日で、仕事が休みであったことから、彼は勇んでシカゴに飛んで来たのである。
15  錦秋(15)
 青田進は、昼前に空港に着くと、シカゴの連絡の中心になっていたミヤコ・コールマンの家を訪れた。
 そこには、既に数人の日系の女性が集まっていた。ケンタッキー州から、バスで十一時間を費やしてやって来たメンバーである。
 同志が集うところ、自然に座談の花が開いた。
 青田を囲んで、メンバーは、どんな思いで、この日を迎えたかを語り始めた。
 一人の婦人は、食事にも事欠く貧しい暮らしのなかで、祈り抜いた末に、ようやく夫の承諾を得て、三十ドルの旅費をもらい、喜々として駆けつけて来たという。三十ドルは、一カ月の食事代に相当した。
 「でも、私たちの会長である山本先生に、初めてお会いできると思うと、嬉しくて、嬉しくて……」
 婦人は、感涙に声を詰まらせた。
 聞けば、皆、家族の信心への無理解や生活苦のなかで、この日を唯一の希望として、苦労に耐えてきたのであった。
 青田は、その姿に、深い感動を覚えた。
 間もなく、空港に出迎えに行く時間になった。
 青田が電話で到着時刻を確認すると、飛行機は一時間半ほど遅れるとのことだった。
 「皆さん、せっかくですから、この時間を使って学会歌を覚え、決意の合唱で先生を迎えようじゃありませんか」
 青田は提案した。彼が教えたのが『威風堂々の歌』であった。アメリカ広布への息吹を託すには、この歌がふさわしいと思ったからである。
 青田たちが空港にやって来ると、十人ほどのメンバーが集まっていた。そこでまた、歌の練習をした。
 ミッドウェー空港に響いた歌声は、友の込み上げる歓喜の調べであり、誓いの曲であった。
 伸一は熱唱するメンバーの前まで来ると、自分も歌声に合わせ、を握り、腰の辺りで腕を上下に動かして調子をとった。皆の声に一段と力がこもった。
 今日もまた明日もまた
 折伏の
 行軍進めば
 血は湧き上がる……
 それは、見方によっては異様な光景に映ったかもしれない。しかし、伸一は、何よりも、友の健気な気持ちに応えたかった。
 彼は、誰よりも、労苦の人とともに心を分かち合うリーダーであった。
16  錦秋(16)
 熱唱に込められたメンバーの無量の思いが、山本伸一には痛いほど響いた。
 ──柱と頼む友もなく、孤独に苛まれ、生活苦と戦いながら、自らを鼓舞して信心の炎を燃やし、この日を待ちに待っていたにちがいない。
 「真心の合唱、ありがとう!」
 歌が終わると、称賛と感謝の心を込めて、伸一は言った。
 すると、それまで涙をこらえていたメンバーが、声をあげて泣き始めた。
 この熱い感涙にむせぶまでに、どれほど冷たい忍苦の涙を流してきたことであろうか。
 「大丈夫、もう大丈夫ですよ。皆さんは勝った。そして、ここに集まって来られた。私が来たからには、何も心配はいりません。
 さあ、出発しましょう! 晴れやかに希望の人生に向かって」
 心の底に染み渡る、勇気を呼び覚ます言葉だった。
 出会いの感動の余韻を、友の胸深く残して、伸一は車でホテルに向かった。
 あいにく、道路はラッシュアワーで渋滞していた。ホテルに着いたのは午後七時近くになってしまった。
 この日は、七時から座談会が予定されていた。急いでチェック・インしようとすると、思いがけない問題にぶつかった。
 ホテルでは、予約を受けていないと言うのである。
 旅行会社の手違いなのか、ホテル側のミスなのかはわからないが、フロントの係員は、予約がなければ、宿泊させるわけにはいかないと言う。
 正木永安が押し問答を始めた。
 既に時間は、七時を回っていた。とりあえず、婦人部長の清原かつ、教学部長の山平忠平、そして、青田進が、座談会場に向かうことになった。
 ようやく全員の部屋が確保できた時には、一時間が経過していた。
 伸一は、この日の座談会の出席は見合わせることにした。
 座談会は、翌日も開かれることになっていたし、これから彼が出席すれば、座談会の時間を、大幅に延長することになってしまうからである。
 その夜は、座談会に出かけたメンバーの帰りを待って、シカゴ地区の結成の打ち合わせを行った。
 しかし、話はシカゴにとどまらなかった。伸一は、アメリカ総支部結成の構想を語り、更に、インド訪問、ヨーロッパ訪問の計画へと広がっていった。
 彼の頭のなかで、世界は音を立てて動き始めていたのである。
17  錦秋(17)
 翌日の十月九日は、日曜日であった。
 休日の朝から、地元の同志に負担をかけてはならないとの山本伸一の配慮で、この日の午前中はスケジュールを空けてあった。
 伸一は、午前中、同行の幹部と一緒に、ミシガン湖のほとりにあるリンカーン・パークを散策した。
 背後には高層ビルが立ち並んでいるが、公園には鬱蒼と木々が茂り、リスが戯れ、芝生が広がっていた。
 広場では、数人の子供たちが、ボールを蹴って遊んでいた。皆、七、八歳くらいの少年たちである。
 その傍らのベンチに白髪の老紳士が腰掛け、笑顔を浮かべて、遊びに興ずる子供たちを見守っていた。
 日曜日の、ほのぼのとした公園の光景であった。
 老紳士は、子供たちがボールを蹴りそこねると、笑いながら声援を送った。
 一人、二人と、ほかの子供がやって来るたびに、少年たちは声をかけ、遊びの輪は広がっていった。
 そこに、ジャンパー姿の少年がやって来た。
 ところが、彼には、誰も声をかけなかった。この少年だけが黒人であった。
 彼は、傍らの木陰に立って、じっとボール遊びを見ていた。老紳士も、彼を無視していた。
 もう一人、別の子供が駆けて来た。皆が手招きし、遊びの仲間に加えられた。しかし、黒人の少年には、声はかからなかった。
 子供たちの一人がボールを蹴りそこねて、尻をついた。すると、黒人の少年が大声で笑い、はやし立てた。その時、老紳士がベンチから立ち上がり、顔を真っ赤にして、彼を怒鳴りつけた。
 少年は、老紳士を睨み返した。怒りと悲しみをたたえた、燃えるような目であった。
 そして、吐き捨てるように何か言うと、くるりと背を向けて、走り去っていった。その肩は、悔しさに震えていた。
 伸一の顔が曇った。
 彼は、少年を追いかけようとしたが、少年の姿は、既になかった。
 伸一は、強い憤りを覚えた。彼のは震えていた。それは、黒人の少年への非道な仕打ちが罷り通る社会に対する、やり場のない怒りといってよかった。
 リンカーン大統領による奴隷解放から、間もなく百年を迎えようとしている時に、その名を冠した公園で起きた出来事であった。
 それは、ささいな、ひとつの光景であったかもしれない。
 しかし、彼は、その背後にある差別の暗い深淵を、垣間見た思いにかられた。
18  錦秋(18)
 山本伸一は思った。
 ──あの黒人の少年は、どんな思いでここを立ち去って行ったか。こうした仕打ちが、日常茶飯事であるとすれば、少年の心は、どれほど無残に踏みにじられているか計り知れない。その心の傷口は、憤怒と悲哀の血にまみれているにちがいない。
 少年の未来を思うと、伸一の胸は苦しかった。
 当時のアメリカは、後に「ブラック・レボリューション(黒人革命)」と呼ばれる、一大転換期を迎え、公民権運動が大きく盛り上がった時代であった。
 一九五四年、合衆国最高裁判所が出した、公立学校での生徒の人種隔離を違憲とした判決を契機に、「隔離」すなわち「差別」の撤廃へ、人々の意識は急速に高まっていった。
 そして、翌五五年十二月、アラバマ州の州都モントゴメリーで、黒人女性ローザ・パークスの逮捕に端を発した、バス・ボイコット運動が起こっている。
 そのころ、アメリカの、ことに南部の各地では、黒人は、就労や労働賃金の格差はもとより、学校、交通機関、食堂などでも白人と隔離され、不当な差別が公然と罷り通っていた。バスの座席をはじめ、随所で人種隔離が、市条例として定められていたのである。
 パークスは、その日、仕事で疲れ切った体でバスに乗り、空いていた席に座った。バスの座席は後部が黒人用、前部が白人用とされていたが、白人の席が埋まれば、黒人は立たされるのが常だった。
 そこに、白人が乗り込んできた。座席は既にいっぱいだった。それを見た運転手は、彼女と、ほかの三人の黒人乗客に立つように命じた。
 三人は席を立った。しかし、パークスの答えは「ノー」だった。運転手は、口汚く罵声を浴びせた。
 「あっちに行け!」
 それでも彼女は「ノー」を繰り返した。そして、逮捕されたのだ。
 ローザ・パークスの逮捕を聞くや、黒人の怒りは爆発した。不当に差別するバスをボイコットしようとの声が起こった。この運動の指導者がマーチン・ルーサー・キングであった。
 彼らは、どこまでも非暴力で、粘り強く差別への戦いを続けていった。
 一年後、バス会社は倒産寸前となり、更に、最高裁が、交通機関での差別待遇に違憲判決を下したことから、強硬なモントゴメリーの市当局も、遂に、差別を認めた条例を撤廃するに至ったのである。
19  錦秋(19)
 バス・ボイコット運動の勝利は、公民権運動のうねりとなって、全米各地に広がっていった。
 そして、一九五七年には黒人の投票権などを認めた公民権法が、議会で成立している。しかし、白人の多くは、依然として、それに難色を示したのである。
 また、州権の強いアメリカでは、連邦政府の決定が、すべてそのまま実施されるわけではなかった。
 たとえば、黒人の隔離を違憲とする判決が出されても、州権を盾に、これに反対する州議会が、南部では少なくなかった。
 黒人と白人の共学は認められても、学校内の食堂も寄宿舎も、黒人は使用することができないケースもあった。また、黒人の入学反対を叫んで白人がデモを行ったり、黒人学生にリンチを加えるといった事件も相次いでいた。
 山本伸一は、黒人の少年への仕打ちを目にして、人種差別の問題に思いをめぐらしていった。
 ──理不尽な差別を撤廃するうえで、黒人の公民権の獲得は不可欠な課題である。しかし、それだけで、人々は幸せを獲得できるのだろうか。答えは「ノー」といわざるをえない。
 なぜなら、その根本的な要因は、人間の心に根差した偏見や視にこそあるからだ。この差別意識の鉄鎖からの解放がない限り、差別は形を変え、より陰湿な方法で繰り返されるにちがいない。
 人間は、人種、民族を超えて、本来、平等であるはずだ。その思想こそ″独立宣言″に表明されているアメリカの精神(マインド)である。しかし、白人の黒人に対する優越意識と恐れが、それを許さないのだ。
 問題は、この人間の心をいかに変えてゆくかに突き当たる。
 それには「皆仏子」「皆宝塔」と、万人の尊厳と平等を説く、日蓮大聖人の仏法の人間観を、一人一人の胸中に打ち立てることだ。
 そして、他者の支配を正当化するエゴイズムを、人類共存のヒューマニズムへと転じゆく生命の変革、すなわち、人間革命による以外に解決はない。
 伸一は、アメリカ社会の広宣流布の切実な意義をみ締めていた。
 戸田城聖は生前、人類の共存を目指す自身の理念を「地球民族主義」と語っていたが、伸一は、その実現を胸深く誓いながら、心のなかで、あの少年に呼びかけていた。
 ──君が本当に愛し、誇りに思える社会を、きっとつくるからね。
20  錦秋(20)
 休みなく、山本伸一のアメリカ指導は続いた。
 この日の午後は、座談会であった。会場は前日と同じニュー・ポートのクラーク通りにあるメンバーの家である。
 座談会は、日本語と英語の二つのグループに分かれて行われ、伸一は英語のグループを担当した。通訳は正木永安である。
 英語グループの参加者の多くは、日系人を妻にもつ夫であり、妻の勧めで信心を始めた人たちが大半を占めていた。
 伸一は、座談会を質問会とした。「どうすれば広宣流布が進むか」など、建設の息吹に満ちた問いが次々と出された。
 質問に答えながら、彼は会場の前列に、黒人と白人のメンバーが仲良く座っているのを、注意して見ていた。二人は互いに視線が合うと、微笑を浮かべて頷き合っている。
 その黒人の青年の手があがった。
 「私は、仏法者としてアメリカ社会に貢献したいと思っていますが、そのために何をすべきでしょうか」 この質問に、伸一は喜びを隠し切れなかった。
 「すばらしい考えです。あなたの心に、気高さと美しさを感じます。
 まず、あなたの地域で、職場で、すべての周囲の人から、人間として尊敬され、信頼される人になることです。それが戦いです。
 そして、このアメリカの社会に、仏法という自由と平等の人道の哲学を、広めることです。それが、アメリカの建国の精神を蘇らせることであり、社会への最大の貢献となります」
 青年は大きく頷いた。
 伸一は、この青年とは、後で更に対話し、励ましたいと思った。
 質問会が終わると、伸一はしばらく休憩とした。床の上に、直接、座る習慣のないアメリカ人への、心遣いからであった。
 自然に歓談が始まった。会場には、さまざまな人種や民族の人たちがいる。そうしたメンバーが嬉しそうに握手し、互いの決意を語り合っていた。
 少なくとも、その姿からは、偏見や差別を感じ取ることはできなかった。肌の色の違いなど、意識さえしていない様子だった。
 公園で肩を震わせて去って行った少年の姿が、人種差別を物語る一光景であるとすれば、この座談会は、人間共和の縮図といえる。
 伸一には、それが、かけがえのない、さわやかな一幅の名画のように感じられた。そこに未来の希望の光を見いだす思いがした。
21  錦秋(21)
 山本伸一も、その歓談の輪のなかに入っていった。彼は、メンバーに率直に尋ねた。
 「アメリカでは、人種問題が大きなテーマになっていますが、皆さんは、この問題をどのように考えていますか」
 正木永安が、伸一の言葉を訳して、メンバーに伝えた。すると、一人の白人の青年が答えた。
 「黒人への差別は、社会の随所にあります。また、私自身も、まったく偏見がないとは言えません。
 しかし、信心を始めて、さまざまな人たちと接し、一緒に活動するなかで、肌の色の違いはあっても、私たちは、ともに広宣流布をしていく同志なんだと感じられるようになりました」
 「そうですか。大事なことですね。
 ひとことに人類といっても多様です。人種も、民族も、言語も、文化も、国籍も異なっている。また、まったく同じ顔をした人が二人といないように、出生をはじめ、職業も、立場も、考え方も、好みも、一人一人違います。
 この多様性のうえに成り立っているのが、人間の社会であり、仏法でいう『世間』なんです。
 しかし、人間はともすれば、その差異にこだわり、人と人とを立て分け、差別してきた。
 本来、一つであるべき人間が、差異に固執することによって、分断に分断を重ね、果てしない抗争を繰り返してきたのが、人間の歴史であったといってもよいでしょう。
 大聖人の仏法は、その分断された、人間と人間の心を結ぶ、人類の統合の原理なんです」
 伸一の話に、一番、目を輝かせていたのは、さっき質問をした黒人の青年であった。
 その彼が尋ねた。
 「山本先生は、人間の心を結ぶのが仏法であると言われましたが、人と人のつながりを、仏法では、どのように説いているのでしょうか」
 「いい質問です。仏法の基本には、『縁起』という考え方があります。これは『縁って起こる』ということで、すべての現象は、さまざまな原因と条件が相互に関係し合って生ずるという意味です。
 つまり、いかなる物事もたった一つだけで成り立つということはなく、すべては、互いに依存し、影響し合って成立すると、仏法では説いているのです」
 メンバーは伸一の話に、真剣な表情で耳を澄ましていた。
22  錦秋(22)
 山本伸一は、「縁起」について語っていった。
 「同じように、人間も、自分一人だけで存在しているのではありません。互いに、寄り合い、助け合うことで、生きているのだと教えています。
 この発想からは、人を排斥するという考えは生まれません。むしろ、他者をどう生かすか、よりよい人間関係をどうつくり、いかに価値を創造していくかという思考に立つはずです」
 質問した青年は、頷きながら、胸の思いを吐き出すように語り始めた。
 「私は、この信心をするまでは、どうしても、自分のルーツに対するこだわりがありました。私たち”黒人”は、”白人”によって、奴隷としてアメリカに連れてこられたという思いが抜けなかったのです。
 その意識は、きっと”白人”の人たちにもあると思います。かつて奴隷だった人間を対等には扱いたくない。自分たちと同じように、すべての権利を与えたくはないという意識です。
 ですから、私は白人が嫌いでした。私たちは、両親も、祖父や祖母も、いえ、更にそれ以前から”白人”に利用され、虐待され、差別されてきたのだと思うと、どうしても好きになれなかったのです。子供のころから、苛められ、差別されるたびに、自分が黒人であることを思い知らされました。自分の体に流れている血を、恨めしく思ったこともあります。
 しかし、学会では、みんなが別け隔てなく、私に接し、温かく励ましてくれました。まるで人種の問題など、ささいなことだといわんばかりに……。その時、私は、利他の心に触れたのです。そして、今、先生がおっしゃったように、肌の色の違いという差異に、自分がとらわれていたことに気づきました」
 伸一は、微笑みながら言った。
 「そうですか。あなたが自分のルーツにこだわってきた気持ちは、よくわかります。しかし、仏法では、私たちは、皆、『地涌の菩薩』であると教えています。『地涌の菩薩』とは、久遠の昔からの仏の弟子で、末法のすべての民衆を救うために、広宣流布の使命を担って、生命の大地から自らの願望で出現した、最高の菩薩のことです。
 もし、ルーツと言うならば、これこそが、私たちの究極のルーツです」
 青年は食い入るように、伸一の顔を、じっと見つめていた。
23  錦秋(23)
 山本伸一は話を続けた。
 「つまり、私たちは、いや、人間は本来、誰もが、社会の平和と幸福を実現していく使命をもった、久遠の兄弟なのです。自己自身の立脚点をどこに置くかによって、人生の意味は、まったく異なってきます。たとえば、緑の枝を広げた大樹は、砂漠や岩の上には育ちません。それは、肥沃な大地にこそ、育つものです。同じように、豊かな人間性を開花させ、人生の栄冠が実る、人間の大樹になるには、いかなる大地に立って生きていくかが大事になります。その立脚点こそ、『地涌の菩薩』という自覚なのです。この大地は普遍であり、人種や民族や国籍を超え、すべての人間を蘇生させ、文化を繁茂させます。その地中には、慈悲という清らかな利他の生命の泉が湧いています。皆がこの『地涌の菩薩』の使命を自覚し、行動していくならば、真実の世界の平和と、人間の共和が築かれていくことは、間違いありません」
 黒人の青年の瞳は、キラキラと輝いていた。
 伸一は、彼に鋭い視線を注ぐと、力強く言った。
 「これまでにあなたは、何度となく、人生の悲哀を味わい、辛酸をなめてきたことでしょう。
 しかし、あなたは、『地涌』の生命に目覚めた。新しい人生の旅立ちをしたのです。
 過去を振り返るのではなく、未来に向かって、強く生き抜くことです。
 そして、あなたが味わった不当な差別の苦しみを根絶するために、ともに立ち上がりましょう。不幸という鉄鎖からの、人間解放の闘士として」
 伸一は、青年に手を差し出した。彼はその手を、強く、強く握りしめた。
 彼の張りのある黒い顔に微笑が浮かび、白い歯が光った。歓談の場は、友情と誓いの、未来への出発の舞台となった。
 そこに、座談会を終えた日本語のグループが合流してきた。
 伸一は、ここで地区の結成を発表した。誕生したのはシカゴ地区とケンタッキー地区であった。
 シカゴ地区の地区部長には、シカゴの中心となって活躍してきたミヤコ・コールマンが就任した。伸一は、彼女の夫のマーク・コールマンに、自分が胸につけていた学会の金のバッジを贈った。
 夫妻で力を合わせ、会長の自分と同じ自覚、同じ決意で戦い、シカゴ中の人々を幸せにしていって欲しいとの思いからであった。
24  錦秋(24)
 座談会の帰途、一行はコールマン夫妻と一緒に、ダウン・タウンを歩いた。
 林立するビルの谷間を縫うように、「ループ」と呼ばれる環状高架鉄道がゴトゴトと走って行く。
 その音の響きが、山本伸一には、賑わいを見せるシカゴの街の、弾む鼓動のように感じられた。
 彼の心も弾んでいた。アメリカ社会に走った人種問題の亀裂を修復し、人間の心と心を結び合う確かな証を、座談会で目にしたことが、嬉しくてならなかったからである。
 途中、伸一はカメラ店に立ち寄り、インスタントカメラを買った。旅先で出会った人々を撮影し、その場で写真を記念に贈ろうと思ったのである。
 早速、彼はミシガン通りで、このカメラを使った。
 道行く一人の少年に声をかけ、記念として一緒に写真に納まった。
 伸一は、やがて、アメリカの二十一世紀を担う少年たちに、一人残らず語りかけ、未来への期待を託し、祝福したい気持ちだった。
 一行は、超高層ビルとして知られるプルーデンシャル・ビルにも昇ってみた。
 眼下に広がるミシガン湖が、夕日に映え、金の鏡のように輝いていた。
 伸一は思った。
 ──青い湖面も、太陽の光を浴びれば黄金に輝く。人もまた、仏法の光に照らされれば金色の仏となる。偏見と憎悪の雲に閉ざされた無明の闇を照らす、妙法の太陽を、このアメリカの大地に昇らせるのだ!
 彼は、夕映えに染まるシカゴの天地に誓った。
 そのためには、多くの友をつくり、徹して育て上げていくしかないことを、伸一は痛感していた。
 皆で夕食をとり、ホテルに戻ったのは、午後八時ごろであった。
 伸一の発熱はまだ続いており、夜になると疲労感がつのった。
 伸一たちが、部屋に向かっていると、廊下に座り込んでいる、数人の人影に気づいた。婦人が四人に、子供が二人である。
 ケンタッキーからやって来た、日系人のメンバーであった。彼女たちは、地元に戻る前に、もう一度、伸一に会いたいと、彼の帰りを待っていたのである。
 「どうして、廊下なんかに座っているんだろう。ロビーのソファで待っていればいいものを。人が見たら奇異に思うな」
 石川幸男が舌打ちしながら、ボソボソと独り言のように言った。
 伸一は、それには取り合わなかった。
25  錦秋(25)
 「いやあ、皆さん、どうしたの?」
 山本伸一は、廊下に座って待っていた婦人たちに呼びかけた。
 「先生! お会いできてよかった。どうしても、先生に指導をお受けしてから帰ろうと思いまして……」
 「そう、ご苦労様。それじゃあ、ぼくの部屋にいらっしゃい。ずっと、待っていてくれたんだね。疲れただろうね」
 彼は、自分の部屋に案内したが、皆は気を使い、部屋に入るのをためらっていた。
 「さあ、遠慮なく、お入りください」
 伸一は、丁重に彼女たちを招き入れた。
 皆、身なりも決して立派とはいえなかった。しかし、伸一には、一人一人がアメリカを救いゆく金色の仏のように思えた。
 仏は、どこか遠い彼方の国にいるのではない。娑婆世界という現実の、この社会にいるのである。仏は、悩み、苦しみ、喜び、生きる、人間の生命のなかに存在するのである。
 伸一は、架空の仏ではなく、広宣流布の使命に生きる人間という仏に仕え、守ることが、会長としての自分の責務であると決めていたのだ。それが彼の信念であり、哲学であった。
 語らいが始まると、子供がぐずり始めた。
 おなかを空かしているようだった。早速、清原かつが菓子をたくさん買って来て、子供に与えた。
 ケンタッキーからようやく交通費を工面してやって来たメンバーには、子供に菓子を買い与える余裕もなかったにちがいない。
 伸一は、清原のその心遣いが嬉しかった。
 皆の話を聞くと、それぞれが大きな生活の悩みをかかえていた。
 しかし、彼女たちの胸中には、その苦悩をはるかに超えた、地区結成の喜びと、建設の気概が満ちあふれていた。
 川に岩や石があるように、人生にも常に悩みや苦しみはある。だが、滔々と水が流れていけば、岩も、石も水中に没し、やがては、岩は削られ、石も押し流されてゆく。
 広布という平和の使命に生きる生命の歓喜と躍動は、この滔々たる水の流れに似ている。
 多くの苦悩はあっても、信心の喜びがあれば、悠然と苦悩を押し流し、乗り越えてゆくことができる。
 伸一は、彼女たちのバスの出発時間まで、激励に激励を重ねた。
 飛行機が一瞬の操縦桿の操作で上昇していくように、彼は、一人一人が幸福の人生へと飛する転機を、全力でつくろうとしていたのである。
26  錦秋(26)
 シカゴでの三日目は、現地の視察に当てられた。
 アメリカを代表する大都市シカゴの様子は、明日の日本を映し出す鏡になるだろうと、山本伸一は考えていた。
 車中、伸一は、題目を唱え続けていた。彼はハワイの地に海外訪問の第一歩を印した時から、アメリカという新天地に、題目を染み渡らせる思いで、国土の繁栄を祈り念じ、常に唱題を心がけていたのである。
 一行は、オートメーション化された電気製品の生産工場をはじめ、シカゴの工業地帯を見て回った。
 その途中、ウインドー一面に張られた選挙のポスターが目についた。民主党の選挙事務所のようだ。
 十一月八日が、大統領の本選挙をはじめ、州知事、上・下院の選挙の投票日となっており、伸一たちのアメリカ訪問は、ちょうど、その選挙戦の真っただ中に当たっていた。
 ことに大統領選挙は、共和党のリチャード・M・ニクソン副大統領と民主党のジョン・F・ケネディとの一騎打ちとなり、激しい攻防戦が展開されていた。
 ニクソンは四十七歳、対するケネディは四十三歳であり、ともに若い世代の対決である。
 U2型機事件から東西首脳会談も流れ、再び冷戦へと逆戻りしようとしていただけに、人々は、アメリカの威信の回復と新たな未来を、新大統領に期待していたにちがいない。
 それを反映してか、この選挙への関心は極めて高かった。
 ニクソンは、政治家としての「経験」と、アイゼンハワー大統領の「後継者」であることを、前面に打ち出して戦った。
 一方、ケネディは「ニュー・フロンティア」をスローガンに、現状を一新する新政策を強調していった。
 特にテレビ討論では、ニクソンが「私には経験がある」と訴えれば、ケネディは「経験も必要だが、大事なことは未来をどう考えるかだ」と語り、両者の白熱した戦いとなった。
 そして、テレビを通して見た、ケネディの若々しい姿に、多くの視聴者は未来の新たな可能性を見いだそうとしていた。新しき時代を創造しゆくものは、常に新しき力である。
 伸一は、正木永安に大統領選の状況を聞きながら思った。
 ──新しき指導者を、新しき理念を、アメリカの民衆も渇仰している。同じく、仏法という未聞の大哲学を、待ち望んでいるにちがいない。
 彼は、無言で、ケネディのポスターを見つめた。
27  錦秋(27)
 一行は、午後には郊外を回った。
 辺りには、のどかな田園風景が広がっていた。
 「この辺の農家の人たちの暮らしについて、いろいろ聞いてみたいね」
 山本伸一は、ポツリと言った。
 一軒の農家の前を通りかかると、そこに一人の若い婦人が立っていた。その家の主婦のようだ。
 正木永安が車を止めた。伸一は車を降りると、笑顔で婦人にあいさつした。
 「ハロー」
 その後を受けるように、正木が英語で話しかけた。
 「こんにちは。シカゴの農家の暮らしについて、ちょっとお聞きしたいのですが……。
 こちらは、日本から来た創価学会の会長の山本伸一先生です。創価学会は世界の平和と人々の幸福を実現しようとしている仏法の団体です」
 正木は、こう言って伸一を紹介した。
 彼女は、快く正木の質問に答えて、シカゴの農家の生活や作物、また、家の歴史まで語ってくれた。
 一家は、ドイツから移住してきたという。
 その話し声を聞いて、家のなかから、老婦人が外に出て来た。年齢は六十代の後半であろうか。
 「ウチのおばあちゃんです。きょうは、おばあちゃんの誕生日なんですよ」
 若い婦人が伝えた。それを聞くと、伸一は、老婦人の手を取って言った。
 「そうですか。おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。
 どうか、いつまでも、いついつまでも長生きしてください。
 おばあちゃんが、元気でいることほど、ご家族の皆さんにとって、嬉しいことはありません。それは一家の幸せにつながります。
 また、ご家族は、おばあちゃんを誰よりも大切にしてください。その心が家族の愛情を強くし、一家が末永く繁栄していく源泉になります。
 幸せは、決して遠くにあるのではなく、家庭のなかにあります」
 正木が、伸一の話を伝えた。老婦人は、見知らぬ日本人の祝福に、嬉しそうに笑顔を浮かべた。
 伸一は、微笑む老婦人を見て言った。
 「それじゃあ、みんなでおばあちゃんの誕生日を祝って、バースデー・ソングを歌おう」
  ハッピー・バースデー・トゥー・ユー……
 彼は、老婦人を優しく包み込むように、視線を注ぎながら、自ら歌い始めた。
28  錦秋(28)
 山本伸一の歌声に、皆が唱和した。
 ハッピー・バースデー・トゥー・ユー……
 歌声は、田園の空に広がっていった。ほのぼのとした交歓のひと時となった。
 歌声の輪のなかで、老婦人は目を潤ませた。
 バースデー・ソングの合唱が終わると、伸一は、インスタントカメラで記念撮影をして、その写真を老婦人に贈った。
 彼女は、感無量の面持ちで言った。
 「ありがとう。面識もない方たちなのに、こうして祝っていただけるなんて。今日は私の人生で一番嬉しい日になりました……」
 「おばあちゃん、まだまだこれからも、楽しい思い出をたくさんつくってください。
 体は年をとり、顔に皺が刻まれていっても、心にまで皺が刻まれるとは限りません。自分の気持ち次第で、心はいつまでも青春でいられます。
 おばあちゃんも、いつも若々しい心で、青春の人生を生きてください。
 そして、百歳まで生き抜いてください。約束しましょう」
 正木永安が、その言葉を訳すと、彼女はを紅潮させ、首をかしげてみせた。
 「多分、私はそんなには生きられないと思います。
 でも、あなたの言うように、いつまでも青春の心で生きていきましょう。本当にありがとう……」
 最後は、言葉にならなかった。
 それから、彼女は、両手を広げると、伸一を抱き締めた。
 初めての、束の間の出会いである。しかし、その一瞬の間に、心の弦と弦とは共鳴し合い、美しい友情の調べとなった。
 人と人との触れ合いの深さは、必ずしも、歳月の長さによって決まるものではない。人格が奏でるヒューマニズムの調べが、心の共鳴をもたらし、人間の絆と友情を育むのである。
 それは、血縁や地縁、利害による結びつきを超えた魂の結合を可能にする。
 老婦人は、車で立ち去る一行を、いつまでも手を振って見送った。
 伸一は、常に人との出会いを大切にしてきた。相手が会員であるなしに関係なく、一つ一つの出会いに心を注ぎ、希望の苗を植え、友情の葉を茂らせ、新たな価値を創造していった。
 それが、「縁起」という人間の融合の原理を知る、仏法者のまことの生き方といえるからだ。
29  錦秋(29)
 翌十月十一日は、シカゴからカナダのトロントへの移動の日であった。
 当時、カナダには、まだ在住している会員はいなかった。
 山本伸一の一行が、このカナダを訪問するのは、大客殿の建築資材の購入と、現地の実情の視察のためであった。
 飛行機の窓の下には、燃えるような鮮やかな紅葉が広がっていた。赤と黄に染まった大地は、炎の海を思わせた。
 まさに、錦秋である。
 一行がトロントの空港に到着したのは、正午近くであった。カナダだけに、さすがに空気は冷たかった。
 ロビーに出ると、すぐに正木永安がレンタカーを借りに行った。
 一行が待っていると、少し離れた所から、じっとこちらを見ている若い日系の婦人がいた。緑色のコートを着て、頭にネッカチーフを巻いた、目の大きな女性であった。
 彼女は、一行の前にやって来ると、もの静かな口調で尋ねた。
 「あのう、創価学会の方でしょうか」
 ここでは、迎えてくれる人はいないはずである。
 一行は、不思議に思いながらも、この婦人もメンバーではないのかという期待に胸が弾んだ。
 十条潔が答えた。
 「はい、そうです。あなたも学会員ですか」
 「いいえ、違います」
 皆、怪訝な顔で婦人を見た。そして、彼女の次の言葉を待った。
 「私の母が日本で学会に入っておりまして、母からお迎えに行くように言われてまいりました」
 山本伸一が微笑みながら語りかけた。
 「そうですか。わざわざお迎えいただき、ありがとうございます。私が会長の山本伸一です。あなたのお名前は?」
 「はい、泉谷照子と申します」
 「それで、お母さんはどこの支部の方ですか」
 「たしか、蒲田支部と聞いていました」
 「私たちのことを気遣って、娘さんに迎えに行くように伝えてくるなんて、お母さんの人柄がしのばれます。立派な方ですね。
 ところで、あなたは、どういう経緯でカナダに来られたのですか」
 「はい、主人が商社に勤めておりまして、こちらに転勤になりましたものですから……。トロントには、半年前にまいりました」
 泉谷は、伸一の質問に、明るく、にこやかに答えていった。
30  錦秋(30)
 泉谷照子は、この空港から車で二十分ほどの、トロントの郊外に住んでいた。
 彼女の母親は、結婚してカナダに渡った娘のことが気がかりで、手紙で入会を勧めていた。
 しかし、彼女は、母親から教えられた、罰や功徳といった話が、いかにも、うさん臭い、時代遅れなものに思え、信心に抵抗を感じていたのである。母が毎回、送ってよこした聖教新聞も、目を通す気にはなれなかった。
 その母からこの日の朝、エアメールが届いた。そこには、学会の山本会長の一行が十一日にカナダを訪れることが記され、「山本先生は、世界的な指導者になられる方です。ぜひ空港でお迎えしてください」とあった。
 瞬間、彼女は、行くべきかどうか迷った。妊娠七カ月の身重で、朝から気分が優れなかったこともあったが、もしも、折伏などされたら、たまったものではないと考えたからだ。
 しかし、行かなければ、母の願いを踏みにじり、親不孝をするような思いにかられて、空港にやって来たのである。
 伸一は、泉谷の家庭の様子などを尋ねながら、人生にとって、なぜ信仰が大切かを説き、仏法とは、生命の法則であることを語っていった。
 そこには、無理に入信を迫る強引さも、居丈高な態度もなかった。話も理路整然としていた。
 彼女は、これまで自分が学会に対していだいていた印象は、どこか違っていたように思えた。
 それから伸一は、諭すように言った。
 「もし、何かあったらお題目を唱えることです」
 彼女は、その言葉を抵抗なく聞くことができた。
 間もなく、正木永安がステーションワゴンを借りて帰って来た。
 そこで、一緒に記念の写真を撮った。
 伸一が、泉谷に、空港までどうやって来たのかを尋ねると、彼女は、タクシーで来たとのことであった。
 「では、この車で、自宅までお送りしましょう」
 「いいえ、タクシーで帰りますから結構です」
 伸一は、たった一人で自分たちを出迎えてくれた婦人を、タクシーで返すことがしのびなかった。
 しかし、荷物を積み、一行が乗り込むと、車は満杯だった。
 「しばらく待ってください。なんとかしますから」
 何度か荷物を積み直したが、泉谷の乗るスペースは確保できなかった。
31  錦秋(31)
 泉谷照子は、自分を気遣い、車で送ろうとする山本伸一の誠意に、心温まるものを覚えた。
 「私のことなら、ご心配いただかなくても大丈夫です。どうぞ、ご出発なさってください」
 彼女が言うと、伸一は何度も、「申し訳ないね」と繰り返した。
 彼は、別れ際に、自分たちが滞在するホテルの名を告げて言った。
 「もし、聞きたいことでもあれば訪ねてください。また、日本に帰ったらお母さんに、娘さんはお元気であったとお伝えします」
 泉谷は、一行の乗った車が見えなくなるまで、手を振っていた。
 そして、一行を送り、タクシーに乗ると、さわやかな思いに包まれた。
 家を出る時の重苦しい気分とは異なり、心のなかに立ち込めていた霧が晴れ、朝の太陽の光を浴びたような感じがするのである。
 それは、母の要望通りに山本会長の一行を出迎え、親孝行ができたという安堵感だけではなかった。自分が知らなかった大事なものに、不意に出合ったような喜びといってよかった。
 彼女は、それは、母が一心に励んできた信仰の真実に、初めて触れた喜びであることに気づいた。
 山本会長という人間からあふれ出る、誠実さや思いやり、確信、そして、道理に適った指導に触れて、母のしている信仰のすばらしさを、感じ取ることができたのである。
 泉谷は、自分の心が、大きく変わっていることを知った。
 それから数週間後、彼女のもとに、何冊かの学会の書籍が送られてきた。差出人は、山本伸一であった。
 そして、この出会いから一年七カ月後、泉谷照子は自ら入信している。
 この時、伸一によって蒔かれた種は芽吹き、やがてカナダ広布の春の訪れを告げるのである。
 空港から、キング通りのキング・エドワード・ホテルに着いた一行は、早速、市内見学に出かけることにした。
 しかし、伸一はホテルに残った。体調が優れなかったからである。
 あのシアトル以来、発熱は治まらず、ことに午後になると、熱は決まって高くなった。
 ゆっくり休養をとればよいことはわかっていた。
 だが、一日に一年分の戦いをする決意で臨んだ今回の旅であった。スケジュールに影響のない範囲で、体を休め、無理を承知で走り続けるしかなかった。
32  錦秋(32)
 トロントの市内見学に出かけた十条潔らは、夕刻、一人の日本人の壮年を連れて、ホテルに帰って来た。
 この壮年は、貿易会社を経営し、一年の半分ほどは、出張でモントリオールに滞在しているという学会員であった。そして、山本伸一会長がトロントに来ることを知って、モントリオールからバスで約十時間がかりでやって来たという。
 伸一は、壮年としばらく懇談した。カナダにはいないはずの同志がおり、しかもモントリオールからわざわざ自分を訪ねて来てくれたことが嬉しかった。
 彼は、壮年にモントリオールの様子を聞いた。
 壮年は、キリスト教が社会の隅々にまで定着しており、そこで仏法を正しく理解させることが、いかに難しいかを語っていった。
 しかし、それは、現状が″どうであるか″を語る、客観的な状況分析ではあったが、その言葉からは、自ら″どうするか″という、広布の主体者としての挑戦の気概を感じ取ることはできなかった。
 「それでは、モントリオールの広宣流布は後回しにせざるをえませんね」
 伸一は言った。
 壮年は、怪訝な顔をしていた。
 いずこの地にあっても、広布を推進していくには、一人立つ獅子の存在が不可欠である。いかなる困難にも敢然と立ち向かい、広宣流布の全責任を担おうとする「人」がいなければ、向上も、発展もありえない。
 伸一は思った。
 ──新しき開拓に、困難と労苦が伴うのは当然である。困難といえば、すべてが困難であり、不可能といえば、いっさいが不可能である。それを突き抜ける炎のような覇気と闘争によってのみ、広布の開拓はなされるのだ。
 しかし、伸一は、その思いを飲み込んだ。カナダの一粒種ともいうべきこの壮年に、期待はしたが、厳しき「獅子の道」を語ることに、ためらいを覚えた。
 この壮年は、一人立つ学会精神を学ぶ機会もなかったにちがいない。それを考えれば、むしろ、ここまで自分を訪ねて来たことだけでも、称えるべきなのかもしれないと、彼は思った。
 伸一は、壮年の労をねぎらい、励まし、別れた。そして、生涯、信心の勝利者として、生き抜くことを念じた。
 伸一は、カナダの広布の幕開けのためには、「時」を待たねばならないことを悟った。広宣流布をこの世の使命と定めた同志が、陸続と育ちゆく「時」を。
33  錦秋(33)
 日蓮大聖人が一閻浮提総与の大御本尊を建立されてから、六百八十一年目にあたる十月十二日の朝を、山本伸一は、カナダのトロントで迎えた。
 御本仏大聖人の御遺命のままに、その法を世界に弘通せんと、初めてアメリカ大陸に渡り、カナダの地でこの日を迎えたことに、伸一は深い感慨を覚えた。
 彼は、体調を崩してはいたが、その胸には、広宣流布への新たな決意がみなぎっていた。
 この日、伸一たちは、正木永安の運転する車で、大客殿の建設のための購入資材を見て回ったあと、ナイアガラ瀑布に向かった。
 ナイアガラ瀑布は、エリー湖からオンタリオ湖に流れるナイアガラ川の中間にあった。車を降りると、地軸を揺るがすような轟音が響き、水煙を上げた巨大な滝が広がっていた。
 川中のゴート島で左右に分けられた滝は、それぞれ数百メートルの幅をもち、五十メートルほどの断崖を水が落下する光景は、壮観であった。
 伸一は、大自然の織り成す景観に魅せられ、岸の石囲いの上に腰を下ろした。
 空は、抜けるような青空である。滝の彼方には、色とりどりの紅葉が広がっていた。
 そのなかを、轟音を響かせ、純白の輝きを放って、水が躍り砕ける。そして、飛沫となって天に舞い、鮮やかな七彩の虹を浮かび上がらせていた。
 とどまることを知らぬ、豊かな水の流れは、広布の前進を象徴しているようでもあった。そして、虹のきらめきは、大いなる希望を表しているかのように、彼には感じられた。
 伸一は、雄大な景観を眺めながら、傍らに立っていた秋月英介に、深い思いを込めて語った。
 「この滝にかかる虹も、一たび流れが途絶えれば、瞬時に消え失せてしまう。人生の希望の虹も、広布への躍動の前進があってこそ輝くものなんだよ。
 希望を捨てない人には、いかなる困難にも負けない強さがある。しかし、希望を失えば、人生は闇だ。絶望は精神の死に等しい。
 青年は、常に希望をいだき、希望とともに生きていくことだ。ぼくは、世界の青年の心に、希望の虹をかけてあげたいのだ……」
 青年部長の秋月は、その言葉に、伸一の、青年への限りない慈愛と、熱い期待を感じた。
 ──この先生のもとに集うわれわれ青年部は、なんと幸せなことだ。
 と、秋月は思った。
34  錦秋(34)
 一行がホテルに戻ったころには、既に辺りは、夜の帳に包まれていた。
 山本伸一は、フロントで部屋のキーを受け取ると、ロビーのソファに座り、何気なく、傍らに置かれていた英字新聞を手にした。
 その瞬間、息を飲んだ。
 「これは社会党の浅沼委員長じゃないか!」
 そこには、学生服にジャンパーを羽織った男が、社会党委員長の浅沼稲次郎に刃物で襲いかかった写真がのっていた。浅沼のメガネはずり落ち、まさに倒れんとする瞬間であった。
 正木永安が、すぐに新聞の記事を翻訳して伝えた。
 「浅沼委員長は、日本時間の十二日午後三時過ぎ、東京の日比谷公会堂で行われた自民・社会・民社の三党の党首立会演説会で、演説中に十七歳の右翼の少年オトヤ・ヤマグチに短刀で刺されて死亡した……と書かれています」
 同行の幹部たちも、然とした顔で、新聞の写真を見入った。
 「大変なことだ……」
 伸一は、心のなかで題目を三唱し、冥福を祈った。
 彼は、浅沼とは面識もなかったし、もとより思想も主義主張も異なってはいたが、その庶民性とエネルギッシュな行動には、ある種の共感を感じていた。
 浅沼稲次郎は、社会党の書記長、委員長を歴任しながらも、東京・深川白河町のアパートに居を構え、生活は極めて質素であった。
 また、「人間機関車」といわれるほど、精力的に各地を駆け回り、デモの先頭に立ち、大衆とともに戦うことを信条としてきた。
 その浅沼が、テロの凶刃に倒れたことは、伸一にとっても、はなはだ残念でならなかった。
 彼は、残虐非道な犯行を憎んだ。そして、テロの暗い血の泥沼に沈んでいった犯人の少年も、また哀れでならなかった。
 この年は、新安保条約にまつわるテロ事件が相次いでいた。
 六月十七日には、二十歳の青年が、国会構内で社会党顧問の河上丈太郎衆議院議員をナイフで刺し、全治二週間の傷を負わせるという事件が起こっていた。
 また、七月十四日には、岸首相が、戦前、右翼団体の幹事長を務めた六十五歳の男に、首相官邸で短刀で刺され、全治二週間の傷を負うという事件があった。
 新安保条約をめぐっての騒動は、政治のやり方に問題があるとし、反省を促そうとしたというのが、犯行の理由であった。
35  錦秋(35)
 社会党の浅沼委員長の暗殺事件は、当初、誰もが、十七歳の少年の単独の犯行とは考えなかった。
 警察も、陰で糸を引き、指示した者がいるとの見解に立ち、捜査を開始したのである。
 犯人の少年は、かつて右翼団体に所属していたことなどから、その関係者に疑がかけられた。
 しかし、驚くべきことには、少年は思想的には影響を受けてはいたが、犯行は単独で計画し、実行したことが、後に明らかになるのである。
 彼は、自衛官を父にもつ礼儀正しく、優しく純粋な少年であったという。
 少年は、自衛隊の存在自体が、左翼勢力から激しく批判されていた時代のなかで、思春期を送っている。
 そのなかで、彼の心に、次第に反共的な意識が芽生え始めていったとしても、決して不思議ではない。
 そんな彼は、ある日、右翼の指導者の街頭演説を耳にした。
 ──その内容は、ソ連、中国は日本の赤化を目指し、共産党をはじめ、社会党、労働組合、全学連などもその走狗となっている、というものであった。
 そして、片や保守党政治家の腐敗堕落を突き、日本は、今や革命前夜の状況にあるとして、維新の断行を叫び、青年の決起を呼びかけていた。
 その熱を帯びた単純明快な訴えは、少年の魂を激しく揺さぶった。彼は、自ら進んで右翼団体の活動家となっていく。
 折から安保反対運動が広がろうとしていた。彼は、安保の反対を訴える集会やデモへの、右翼の抗議行動に参加し、真っ先にデモの隊列に殴り込んだりもした。検挙もたび重なった。
 しかし、その反対運動が多くの市民をまじえ、ますます燃え広がっていくのを目にすると、赤色革命への危機意識は、いよいよ高まっていった。
 彼は、左翼に比べ、右翼はあまりにも少なく、尋常な方法では、政権を奪うことなどできないとの思いをいだくようになった。そして、日本の共産主義化を防ぐためには、左翼の指導者を暗殺するしかないと考え始めるようになる。
 彼は、右翼のリーダーたちも、左翼の指導者を倒さなくてはならないと語っていながら、誰もそれを行動に移そうとはしないことが納得できなかった。
 少年は、失望を覚え、危機感と焦りをつのらせていった。彼は、ひとり思う。
 ──自分が殺るしかない、と。
36  錦秋(36)
 少年は、暗殺の対象として、何人かの政治家の名前をあげた。そのなかに社会党の浅沼委員長を選んだのは、社会党は人々の目を欺き、日本を共産主義に売り渡すもので、共産党以上に悪質であるとの判断からであった。
 ことに、前年三月に、社会党の書記長であった浅沼が訪中した折、「米帝国主義は日中共同の敵」と発言したことから、共産党的な体質を暴露したと、考えたようだ。
 しかし、少年が、ただ一人、テロに踏み切るには、それを支える精神の支柱が必要であった。
 彼には、やがて、家族にかかる迷惑を考えれば、躊躇もあったにちがいない。
 少年は、犯行のしばらく前に、「生長の家」の総裁・谷口雅春編著の『天皇絶対論とその影響』を、人から借りて手にしている。
 そこには、天皇への帰一の道は忠にあるとし、「私なきが『忠』なり」とあった。この言葉が、若い魂に無残にもテロへの決断を促したようである。
 そして、十一月二十日の第二十九回総選挙を前にした十月十二日、三党首立会演説会で、彼は、遂に暗殺を決行したのだ。
 恐るべきは、誤れる思想である。
 それから二十一日後の十一月二日、少年・山口二矢は、東京少年鑑別所の独房で首を吊り、自ら十七歳の命を断った。
 独房の壁には、ハミガキ粉で「七生報国 天皇陛下万才」と書かれていた。
 山本伸一は、トロントのホテルで、この浅沼委員長の暗殺を知ると、やるせない思いに沈んだ。
 少年は、自己の描く観念の理想の尺度に、現実を当てはめようとしたのではないか。
 しかし、矛盾をはらみ、流動する、生きた現実が、観念の尺度に合うことはない。合わないとなれば、行き着く先は、焦りか諦めである。とすれば、少年は、失望と焦燥にかられて、自滅を覚悟で、テロへの道をひた走ったのであろう。
 あの″安保闘争″に情熱を注ぎ、一敗地にまみれた学生たちの多くは、既に改革に背を向けていた。
 両者は、主義も主張も正反対ではあるが、共通した何かを、伸一は感じた。
 彼は、改革を夢見る純粋な魂が、希望を失い、無残に散り果て、また、朽ちてゆく無念さを噛み締めていた。現実の社会の大地に、若き力が根を張り、枝を茂らせてこそ、新しき時代の創造は可能となるからである。
37  錦秋(37)
 朝のハイウエーを、一台のステーションワゴンが疾走していた。ハンドルを握っているのは、正木永安である。
 トロントからニューヨークに移動するために、空港に向かう山本伸一の一行であった。
 正木の顔には、うっすらと汗がにじんでいた。
 ニューヨーク行きの飛行機の出発時刻は午前十時であった。朝八時にはホテルを発つ予定でいたが、それまでに全員がわず、出発が二、三十分ほど遅くなってしまった。
 正木は、その遅れを取り戻そうと必死だった。彼は地図を片手に、フルスピードで空港を目指した。
 ところが、空港にはなかなか到着しなかった。
 時計の針は、既に午前九時十分を回っていた。
 「まだ、着かんのかね」
 背後から石川幸男の声がした。
 「正木君、この道は、一昨日、走った道とは違っているぞ」
 言ったのは、秋月英介だった。正木は次第に不安がつのり始めた。しかし、地図を見ると、間違いなく空港はその方向にある。
 しばらく、そのまま走ったが、正木は途中でハイウエーを降り、近くの農家に駆け込んで電話を借りた。
 空港に問い合わせ、一行が、目指しているモルトン(Molton)空港(後のトロント国際空港)の場所を尋ねた。
 すると、意外な答えが返って来た。空港は、今来た道とは、正反対の方向にあるというのだ。
 「しかし、地図には、この方向に空港が記されていますが……」
 「ああ、それはミルトン(Milton)空港という、空軍の飛行場です」
 正木は、愕然とした。まさか、「0」と「I」の一字違いで、二つの空港があるとは思わず、この方向にモルトン空港があると信じ切っていたのだ。
 飛行機に間に合わなければ、伸一たちの計画はすべて狂ってしまう。ニューヨークの空港には、多くの同志が出迎えにきているはずである。
 正木は、あのハワイでの出迎えの時と同様に、全身から血の気が引いていくのを感じた。
 彼は、車に戻ると、伸一に向かって、蒼白な顔で言った。
 「すいません。道を間違えていました。すぐに引き返します」
 正木は、深々と頭を下げた。そして、車に乗り込むと、エンジンを全開にし、猛スピードで走り始めた。
38  錦秋(38)
 ハンドルを握る正木永安の耳に、後部座席で話し合う、石川幸男と山平忠平の声が聞こえた。
 「間に合いますかね。遅れでもしたら、えらいことになるからな」
 「そうだな。間に合わないかもしれないね」
 その言葉に、正木の胸は疼いた。彼は更にスピードを上げた。
 「正木君、そんなに急がなくていいよ。事故を起こしてはいけない。遅れたなら、遅れたでいいんだよ」
 山本伸一は正木を気遣った。本人は、大変な失敗をしたと、慙愧の念でいっぱいであるにちがいない。その張り裂けそうな胸のうちを、伸一は少しでも楽にしてやりたかった。
 ようやく、彼方にモルトン空港が見え始めた。正木は心で題目を唱えながら、必死でハンドルを操った。
 空港に到着した時には、時計の針は、既に十時を少し回っていた。一行は一縷の望みを託して、急いで搭乗カウンターに向かった。
 正木が息せき切って、便名を言うと、係員は「その便は、今、出発しました」と気の毒そうに英語で告げた。まだ若い、二十代と思われる係員であった。
 次の便の出発時刻と空席の有無を尋ねた。
 「次は十二時十五分ですが、あいにく満席です。本日は、午後十時十五分の最終便まで満席です」
 正木は伸一に、申し訳なさそうに、それを伝えた。一行は途方に暮れた。
 それから、正木は、またカウンターに行き、係員に事情を話した。
 若い係員は、「それはお困りでしょう。無事にニューヨークに着けるように手を尽くしてみます」と言ってくれた。
 係員の青年は、どこかに二、三本、電話を入れて、カウンターを離れた。
 皆、不安と焦りが入り交じった顔で、係員の後ろ姿を見ていた。
 「旅では、いろいろなことがあるものだよ」
 伸一は、そんな皆の心をなだめるように、気を使っていた。
 しかし、彼もこれ以上、ニューヨークで待つ同志に迷惑をかけることだけは、避けたかった。
 十分ほどすると、係員が戻ってきた。
 正木が不安そうに彼を見た。係員はニッコリと微笑みながら、英語で言った。
 「もうしばらく、お待ちになってください。おそらく、大丈夫だと思います」
 ほどなく、カウンターの電話が鳴った。待ち構えていたように係員は、電話を取った。彼は、電話の相手に、かなり長い時間、交渉してくれた。
39  錦秋(39)
 空港の若い係員は、電話を切ると、にこやかに正木永安に告げた。
 「別の航空会社の便になりますが、席を七人分確保することができましたよ。よかったですね。出発は十二時三十分です。荷物をあちらに運んでください」
 正木は、跳び上がらんばかりの気持ちだった。一行に便が取れたことを伝えると、皆の顔にようやく笑顔が浮かんだ。
 それから正木は、ニューヨークの空港に電話を入れて、アナウンスで一行の搭乗便が変わったことを伝えてもらうよう頼んだ。
 山本伸一は、この若い係員の親切が何よりもありがたかった。
 搭乗時間に遅れたのは、こちらの問題である。彼には、便宜を図る義務など何もなかった。
 それにもかかわらず、便を確保するために、親身になって八方手を尽くし、奔走してくれたのだ。しかも、恩着せがましい態度はいささかもない。
 伸一は、正木と一緒に、この係員のところへ行き、心から礼を述べた。
 「サンキュウ・ベリーマッチ。あなたの真心に深く感謝いたします」
 伸一が握手を求めると、若い係員も、にこやかに応じた。握った手と手に友情の鼓動が通い合った。
 「よい、ご旅行を」
 係員の青年は、こう言って、笑顔で一行を見送ってくれた。伸一は、この青年のことを、生涯忘れはしないだろうと思った。
 人類愛を語ることは容易である。しかし、たまたま出会った見ず知らずの人の窮状を聞いて、力になることは難しい。見て見ぬふりをし、かかわりを避けてしまうのが、人の常だといってよい。
 小さなことのようだが、人間としての思いやりと勇気がなければ、できないことである。人類愛や世界平和といっても、そうした身近な問題に、どう対処するかから始まるといえよう。
 伸一は、それにしても、窮地を救ってくれる人が現れたことが、不思議でならなかった。
 日本の同志が、彼の海外訪問の成功を願って、題目を送ってくれていることが、痛感された。
 青年の好意に感動を覚えながら、伸一は機上の人となった。彼には、飛行機の窓から見える、燃えるようなメープルの紅葉が、ことのほか美しく感じられた。
 視界に広がる錦秋の大地は、真心が織り成す、人間共和のまばゆい錦の絵模様に思えた。
 伸一の胸には、平和への誓いの鐘が、一段と高らかにこだましていた。

1
1