Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第1巻 「新世界」 新世界

小説「新・人間革命」

前後
2  新世界(2)
 日米安全保障条約は、対日講和条約と不可分なものとして調印されている。
 この安保条約の趣旨は──講和条約によって、日本は独立を獲得しても、武装を解除している日本には、自衛の有効な手段がない。そこで、米軍が引き続き日本に駐留し、代わりに日本の安全を保障する、というものであった。
 しかし、そこには、数多くの問題をはらんでいた。
 そもそも、サンフランシスコでの講和条約自体が、全連合国が調印する全面講和には至らず、アメリカをはじめとする西側諸国との片面講和であった。
 そのため日本は、冷戦構造のなかで、初めから西側陣営として、反共体制の一環に組み込まれることになったのである。
 更に、安保条約によって日本の防衛をアメリカに依存することは、軍事的にも、政治的にも、アメリカへの従属を固定化するものにほかならなかった。
 しかも、この安保条約には、アメリカ側の権利は明記されていたが、負うべき義務の規定はなかった。
 たとえば、米軍が出動できるのは″極東の平和と安全の維持″″内乱や騒擾を鎮圧するために日本政府から要請があった場合″″外部からの武力攻撃があった場合″としていたが、日本を守るための出動の義務を負うわけではなかった。
 更に、アメリカの同意がなければ、第三国の基地の使用や軍隊の通過の権利を与えないことが定められ、日本の主権は著しく制限されていたのである。
 また、条約の前文には、安保条約は「暫定措置」であるとしながらも、その期間は定めておらず、更に、「(日本が)侵略に対する自国の防衛のため漸増的に自ら責任を負うことを期待する」とあった。
 それは柔らかな表現ではあるが、日本の再軍備への要求といえた。つまり、日本が自衛のための戦力を保持するまでは、米軍の駐留が続き、撤退させるには、軍事力を増強しなくてはならないことになる。
 事実、日本は、そのアメリカの″期待″に応え、一九五〇年(昭和二十五年)に発足した警察予備隊を保安隊へと再編強化し、やがて、一九五四年(同二十九年)、自衛隊へと発展させていった。
 この講和条約、日米安保条約は、一九五一年(同二十六年)十月二十六日に衆議院で批准されたが、それは、ある意味で、占領下におかれた敗戦国日本の、やむなき選択であったといえよう。
3  新世界(3)
 日米安保条約が、日本にとって不平等な条約であることは、誰の目にも明らかであった。
 その改定に意欲を燃やしたのが岸内閣であった。
 岸首相は一九五七年(昭和三十二年)の二月に内閣が成立すると、直ちに自衛隊法、防衛庁設置法の防衛二法の改定に着手し、自衛隊員を約一万人増員し、軍備の増強を図ってきた。
 当時、日本は、既に高度成長の時代に入ろうとしていた。一九五六年(同三十一年)の『経済白書』には「もはや『戦後』ではない」と記され、日本の経済力は西欧諸国に迫ろうとしていたのである。
 この軍事力と経済力の拡大を背景に、岸首相は安保条約の改定に着手した。
 彼には、日本がアジアの反共軍事国家となることによって、アメリカと対等の関係に近づき、同時に、ソ連、中国に対しても強い外交姿勢を確立していくという意図があった。
 これは、サンフランシスコ講和条約を結んだ吉田元首相の、軍事力はアメリカに依存し、経済の発展に力を入れて日本の復興を図り、経済力で自由主義陣営の一員として尽力するという路線とは、大きく異なっていた。
 一方、アメリカは、それまで、安保条約の改定は時期尚早としてきたが、折しも、このころ、極東戦略の転換の時期を迎えていた。
 当時、ソ連の技術力は既にICBM(大陸間弾道ミサイル)を実用化し、モスクワから、直接、ワシントンを標的に狙えるまでに進歩していたのである。
 ソ連にミサイル技術で遅れをとったアメリカは、ソ連に対抗するためにICBMの開発に力を注ぐ一方、NATO(北大西洋条約機構)各国との基地協定締結を推進して、IRBM(中距離弾道ミサイル)によるソ連の包囲網づくりに力を注いでいた。
 同時に、極東戦略でも、アメリカは核ミサイルに重点を置くようになってきていた。それにともない、ミサイル基地は必要性を増すが、日本に地上軍を配置しておく意味は、次第に希薄になりつつあったといってよい。
 こうした背景から、安保条約の改定にアメリカが同意し、第一回の日米協議が行われたのは、一九五八年(同三十三年)十月四日のことであった。
 その一方で、岸内閣は、それに歩調を合わせるように、四日後の十月八日、突如、警察官職務執行法の改正案を衆議院に提出したのである。
4  新世界(4)
 岸内閣の提出した警察官職務執行法の改正案とは、警察官の職務質問や所持品調べ、土地・建物への立ち入りなど、警察官の裁量を大幅に認め、権限を強化しようとするものであった。
 これが衆議院に提出されると、野党第一党の社会党は即時撤回を求め、それまではいっさいの審議に応じない強硬な構えを見せた。
 マスコミも基本的人権への侵害を招くものとして、強く反対した。
 警職法の改正は、大衆娯楽誌にも取り上げられ、「デートも邪魔する警職法」との見出しを掲げ、その危険性を訴える週刊誌もあった。
 自民党が警職法の改正に踏み切ろうとした背景には、この年に全面的に実施され強い反発を招いた、教師の勤務評定に対する日教組の反対運動や、王子製紙の労働争議などを封じ込めようとする、意図があったといわれている。
 また、安保条約の改定で反対運動が高まることを想定した、事前の策との見方もある。
 社会党は、国会で警職法に激しく抵抗し、院外にあっては警職法改悪反対国民会議を組織した。これには思想・イデオロギーを超えた各種の団体が加わった。
 そして、十一月五日には文化人や婦人団体も参加して統一行動が行われ、抗議ストに入った労働者は、四百六十万人といわれた。
 更に、十五日にも、全国で大々的な抗議集会が開かれ、かつてない大規模な抗議行動が展開されたのである。
 ここに至って、岸内閣は事態を収拾せざるをえず、遂に、警職法の改正を断念したのであった。
 民衆の力ほど強いものはない。民衆の力は、大地の強さに似ている。ひとたび怒りのマグマを噴き上げ、振動を開始すれば、山をも動かすエネルギーをもっている。時代、社会を変えゆく源泉は、常に民衆であることを忘れてはならない。
 警職法を撤回に追い込んだことは、大衆運動のもつ大きな可能性を、改めて物語るものとして、各界に強い影響を及ぼした。
 この経験は、社会党には、国会での議席数は及ばなくとも、大衆運動の広がりによっては、重要法案の通過を阻止できるとの、自信を与えたにちがいない。
 しかし、それは、同時に議会制民主主義の軽視につながる危険性をも秘めていたのである。
 ともあれ、岸首相は、この警職法の改正問題によって、国民の信頼を一気に失い、内閣の行く手が危ぶまれるほど、不信をかったのであった。
5  新世界(5)
 岸内閣が、国民の不評をかい、窮地に追い込まれていた十一月二十七日、皇太子明仁親王(今上天皇)と美智子妃とのご婚約が発表された。
 それまで報道を統制されていたマスコミは、このご婚約をこぞって大々的に取り上げ、連日のように、二人のラブ・ストーリーが報じられた。
 皇太子妃が、初めて「平民」から選ばれたこともあって、国民の関心は、政治から、一転して、皇太子妃に注がれていった。
 マスコミの報道では、軽井沢のテニスコートでのロマンスなど、「自由恋愛」が強調され、美智子妃は「昭和のシンデレラ」として、一躍脚光を浴び、″ミッチー・ブーム″を巻き起こしていった。
 それにともない、岸内閣への激しい批判はなりを潜め、風当たりは次第に弱まっていったのである。
 この婚約発表の余りのタイミングの良さの陰には、岸内閣の画策があったともいわれている。もし、そうであるなら、権力による大衆操作の、典型的な事例といわねばならない。
 こうして苦境を脱した岸内閣は、安保改定のための党内調整と日米協議を進め、着々とその準備を整えていった。
 社会党は非武装中立の立場から、安保条約の改定に反対していたが、安保への国民の関心は、いまだ低かった。
 社会党の主張は、安保条約が不平等なものであるという点は、自民党と同じであったが、東西両陣営からの軍事的中立を保つために、現在の安保条約を廃棄し、日本、アメリカ、ソ連、中国による安全保障体制をつくらなくてはならないとしていた。
 それは、アメリカとの条約を認めたうえで、不平等性、片務性を改めて双務的な条約にしなければならないとする自民党の主張と、全く相反するものであったといってよい。
 野党側の安保反対運動の取り組みの準備が進み始めたのは、翌一九五九年(昭和三十四年)の三月末のことであった。この時、社会党、総評などで、警職法改悪反対国民会議を受け継ぐかたちで、ようやく、安保改定阻止国民会議が結成をみたのである。
 しかし、反安保勢力の足並みは乱れがちであった。
 この年十月には、社会党から三十三人が離党し、社会クラブを旗揚げし、翌年一月に、反共と議会主義を掲げて民主社会党を結成した。これが後に民社党となるのである。
6  新世界(6)
 反安保勢力の足並みの乱れは、社会党に限らず、労働組合にも見られた。
 また、学生運動を担う全学連も、主流派と反主流派に分かれ、両者の間に深い亀裂が生じていた。
 もともと全学連は共産党の指導下にあったが、党中央の指導に反発した学生党員が、一九五八年(昭和三十三年)末に共産主義者同盟(ブント)を結成。その学生たちが全学連の執行部を占め、主流派を形成し、共産党系の学生たちが反主流派となったのである。
 日米安保条約の改定の交渉が大詰めを迎えていた一九五九年(同三十四年)十一月二十七日、安保改定阻止国民会議は、第八次全国統一行動を計画し、国会に安保条約改定交渉打ち切りの請願デモを行った。
 それは、整然とした、静かなデモであった。
 しかし、この時、全学連主流派の学生と一部の労組員が、国会の正門を開け、それに続いて、デモ隊約二万人が国会構内に突入したのである。
 この国会への突入は、ブントの指導者たちによって計画されたものであった。
 彼らは、アメリカだけでなく、日本も、また、ソ連も帝国主義に堕しているとして、すべての帝国主義の粉砕を叫んでいた。そして日本帝国主義を打倒する第一歩として、安保改定の阻止を掲げ、そのためには暴力的な抗議行動も辞さないとする、過激な主張を展開していたのである。
 新聞各紙は、翌日の朝刊で、「デモ隊、国会構内へ乱入」などの見出しを掲げ、この事件を厳しく批判した。
 自民党は、この乱入事件は国会の権威を踏みにじるものであり、これは、「(社会党、共産党の)共同謀議に基づく計画的な革命的破壊行為である」との声明を出した。
 一方、社会党は「全学連等一部の人々に対しては断固たる態度で反省を求める」と声明を発表。共産党は全学連主流派を「トロツキスト」と批判した。
 しかし、この事件が、安保改定への社会の関心を高める結果となった。また、型通りのデモだけで安保改定を阻止できるのか、との思いをいだいていた学生たちに、大きな衝撃を与えたのである。
 全学連は、既成政党からの非難をよそに、かえって多くの学生を糾合し、勢いづいていった。
 この″国会乱入事件″で、自民党は、直ちに、国会周辺のデモや集団行動を規制する国会審議権確保法案を提出した。
 そして、衆議院では、与党だけの単独審議で、この法案を可決したが、最終的には不成立となった。
7  新世界(7)
 一九六〇年(昭和三十五年)一月十六日、岸首相をはじめとする日本側全権団一行は、日米新安保条約の調印のため、羽田を発ってアメリカに向かった。
 羽田空港には、前夜から全学連主流派の学生七百人が座り込み、訪米を阻止しようとしたが、警官隊に排除された。
 そして、十九日午後二時半(日本時間二十日午前四時半)、アイゼンハワー米大統領の同席のもと、ハーター米国務長官を首席とするアメリカ側全権と、岸首相を首席とする日本側全権によって、新安保条約が調印された。
 場所は、百年前、遣米使節団が日米修好通商条約を結んだホワイトハウスのイーストルームであった。
 更に、この席では、日本での合衆国の軍隊の地位を定めた″地位協定″の調印も行われたほか、付属文書も交わされた。
 新安保条約──すなわち「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は、前文と十条の本文から成っている。
 新条約では、条約の期限も十年と定められていた。
 また、アメリカの日本に対する防衛の義務も明確化され、旧安保条約のもつ片務性や不平等性は是正されていた。しかし、それは、日本が軍備の増強を図り、アメリカの極東軍事体制の一翼を担うことを約束するものであった。
 ちなみに第三条には、日米両国は「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を、憲法上の規定に従うことを条件として、維持し発展させる」とうたわれている。
 これは、後に実施された第二次防衛計画などにも表れてくるように、更に日本の軍事力を強化させることにほかならなかった。
 また、第五条には、日米両国は日本の施政下にある領域で、「いずれか一方に対する武力攻撃」があった場合、「自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め……(中略)……共通の危険に対処するように行動する」ことを宣言している。
 つまり、日本にある米軍基地が攻撃を受ければ、日本も防衛の義務を負い、戦争に巻き込まれかねない危険を背負うことになる。
 更に、続く第六条では、日本の防衛のためだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に、日本は米軍が基地を使用する権利を認めることを明記している。
 それは、アメリカの極東戦略のなかに、日本が組み込まれることを意味しているといえよう。
8  新世界(8)
 この新安保条約は、調印の後に、批准のために国会に提出された。
 衆議院に安保特別委員会が設けられ、実質的に審議が開始されたのは、二月十九日のことであった。
 委員会では、そもそもこの条約を修正する権利が国会にあるのか、ないのかで揉めた。
 更に、条文にうたわれた「極東」の範囲や米軍の行動に際しての「事前協議」をめぐって、審議は揺れ続けた。
 そこに、突然、浮上したのが「黒いジェット機」問題であった。
 前年の九月、神奈川県・藤沢の民間飛行場に機体を黒く塗りつぶした国籍不明のジェット機(U2型機)が不時着するという事件があった。このジェット機には、不可解な点が多かったが、アメリカは、自国の気象観測機であるとして処理した。
 それから、八カ月が過ぎた一九六〇年(昭和三十五年)五月五日、ソ連のフルシチョフ首相は、ソ連最高会議の演説のなかで、ソ連領空に侵入してきた米国機を撃墜したと語った。
 アメリカは、この時も、問題のジェット機は、U2型機で、気象観測にあたっていた非武装のジェット機であると発表した。
 しかし、七日、フルシチョフ首相はその発表に対して衝撃的な言明を行った。
 ──アメリカの発表はでたらめだ。実は、このジェット機の飛行士は生存している。尋問したところ、侵入の目的はスパイ行為のための写真撮影であることを自白したのだ。
 そのソ連の言明に対するアメリカの言い分も、はなはだ挑戦的であった。
 ──情報収集は、どの国でもしている。アメリカは大量破壊兵器による奇襲攻撃をなくすため、一九五五年に、米ソ領空の空中査察を提案したが、ソ連はこれを拒否した。非武装のU2型機は、自由世界の国境に沿って、過去四年間飛行してきたが、それは奇襲攻撃に対処するため、やむなく行ったものだ。
 六〇年五月九日の安保特別委員会でも、早速、この問題が取り上げられた。
 同日、フルシチョフ首相は、ソ連領空への侵入のため、基地の使用を許している西側諸国に対して、ソ連は「その基地にロケットのホコ先を向けるであろう」と厳重な警告を発した。
 それは、新安保条約が締結されれば、日本は米ソの争いに巻き込まれ、再び戦争への道を歩むのではないかという危機感を、国民につのらせる警告であった。
9  新世界(9)
 U2型機によるスパイ事件は、東西冷戦の根深さを世界に実感させた。
 この一九六〇年(昭和三十五年)は、冷戦の雪解けの期待のなかで、幕を開けた年であった。
 前年の九月、フルシチョフ首相はアメリカを訪問して、国連総会に出席するとともに、ホワイトハウス、キャンプ・デービッドでアイゼンハワー大統領との会談が行われたのである。それは冷戦十四年にして、初めて注ぐ、緊張緩和の春の日差しであった。
 米ソ接近の背景には、核ミサイルの開発で、ソ連に遅れをとったアメリカが、脅威を感じていたこともあった。
 また、占領下に置かれていたベルリンの問題をめぐって、米ソ首脳の話し合いが不可欠な状況になっていたことも事実である。
 しかし、何よりも、核兵器の開発に躍起となり、その蓄積を競い合ってきた冷戦の危険性を、両国首脳が自覚し始めていたことが、最大の要因であったにちがいない。
 アメリカの科学者ライナス・ポーリング博士によれば、当時、核兵器の蓄積は人類を皆殺しにできる量の約二十倍をアメリカが、その半数程度をソ連が持つに至っていたといわれる。
 国連総会に臨んだフルシチョフ首相は、四年間に世界各国の軍備を撤廃するという構想を明らかにし、この提案を総会に提出した。
 続くアイゼンハワー大統領との会談では、国際問題は武力ではなく、平和的な話し合いで解決することを誓い合い、世界に声明したのである。まさに、時代は大きな転換点を迎えているかに見えた。
 そして、世界の人々は、この六〇年の五月十六日から、五年ぶりにパリで開催される東西首脳会談に、平和共存への期待を託していたのである。
 しかし、U2型機によるスパイ飛行が明らかになったことから、パリ会談は決裂し、六月に予定されていたアイゼンハワー大統領のソ連訪問も、事実上拒否された。冷戦は逆に深刻化し、雪解けの季節は、再び厳冬に引き戻されていったのである。
 ソ連国民も、アメリカ国民も、皆、平和を欲していた。しかし、米ソの指導者の間には、互いに不信感という越え難い心のが、根深く横たわっていたのであろう。
 それがスパイ飛行という行為を生み、その発覚によって、互いの疑心暗鬼が露呈され、平和への流れは逆流し始めたのである。
10  新世界(10)
 山本伸一の厳しい目は、日々の新聞報道などを鋭く見つめていた。
 緊迫する事態に、彼の心は激しく動き、頭は回転に回転を重ねていた。
 U2型機のスパイ事件によって、安保反対の声が次第に高まりつつあった一九六〇年(昭和三十五年)五月十九日、岸内閣は、日本の議会政治に重大な汚点を残す暴挙に出たのである。
 まず、この日夕刻、第三四通常国会の会期延長をめぐって紛糾し、中断されていた議院運営委員会が一方的に開会された。そして、五十日間の会期延長が、自民党議員だけで単独可決されたのである。
 これに怒った社会党議員は、本会議の開催を実力で阻止しようと、衆議院議長室前の廊下に座り込んだ。
 議長室から出ることができなくなった清瀬一郎衆議院議長は、国会への警察官五百人の派遣を要求した。異例の事態といってよい。
 国会周辺は、雨のなか、国民会議や全学連主流派の呼びかけに応じて集まった、約三万人のデモ隊で埋まっていた。
 午後十時二十五分、本会議開会の予鈴が鳴った。
 これが合図だったのか、それまで休憩に入っていた安保特別委員会の再開が、突然、宣言された。社会党の委員の大半は議長室前で座り込みをしていた。
 残っていた社会党の委員が委員長に詰め寄り、揉み合うという騒然としたなかで、新安保条約は委員会で可決された。その間、わずか三分ほどであった。
 しかし、怒号と揉み合いが続いていたため、速記録にも、何も記せないという有り様であった。
 一方、議長室前では、午後十一時過ぎ、警官が導入され、社会党議員のゴボウ抜きが始まっていた。そして、十一時五十分ごろ、衛視らに守られ、清瀬議長は本会議場に入った。
 自民党議員のみの出席という異常な事態のなかで、開会が宣言され、直ちに会期の五十日間延長を可決した。そして、二十日午前零時過ぎ、安保特別委員長の報告の後、討議もいっさいないままに、新安保条約を単独強行採決し、可決したのである。
 まさに議会主義を踏みにじる暴挙であった。これには、自民党内にも反対があり、病欠者などを除いて三十人近くが、安保採決の本会議を欠席した。
 自民党が、なぜ、かくも強硬に単独可決に踏み切ったのか。
 それは、日米修好百年を記念し、六月十九日、アイゼンハワー米大統領の訪日が予定されており、それまでに新安保条約を自然承認に持ちこむには、この時点での衆議院の可決が、タイムリミットであったからである。
11  新世界(11)
 自民党の新安保条約の強行採決という暴挙に、国民の怒りは燃え上がった。
 反安保の運動が、戦後の日本の歴史のなかで、空前の盛り上がりを示すのは、この時からであった。
 しかし、それは、安保条約そのものの内容よりも、議会制民主主義を踏みにじった岸内閣への怒りこそが、人々の行動の起爆剤になっていたといえよう。
 それまで、安保に対する態度を決めかねていた学者や文化人たちも、議会制民主主義を守ろうとする立場から、反安保を表明していった。
 デモに参加する人が増えだし、デモのプラカードには、「岸退陣」「国会解散」を訴えるものが目立つようになった。
 このころ、山本伸一は五月三日に会長に就任し、新たな広布の前進のために奔走しながら、新安保条約をめぐる国会の動向を、深く憂慮していた。彼もまた、議会制民主主義の危機に、心を痛めていた。
 安保をどうするかという問題は、日本にとって、深刻なテーマであることはいうまでもない。
 従来の安保条約が日本の主権を制限した、不平等な条約であることは明らかである。しかし、新安保条約も、幾多の問題を抱え、修正すべき点もある。また、社会党のいうように、安保そのものを廃棄に持ち込めば、日米関係に生じるであろう亀裂を、どう修復するかが大きな問題になる。
 それだけに、現実をつぶさに見すえ、問題点を明らかにしたうえで、より良き道を探し、合意を目指すための、徹底した審議が大切になる。
 しかし、この新安保条約をめぐっては、審議に長い時間がかけられたにもかかわらず、本当の意味での審議がなかった。
 自社両党ともに、「初めに結論ありき」という頑な姿勢に凝り固まり、自民党は、新安保条約の可決に猪突猛進し、一方、社会党も、断固拒否の一点張りでしかなかった。
 数を頼りにした自民党の単独強行可決は、議会主義の破壊を象徴する出来事であったことは、いうまでもない。
 しかし、これに対し、議会内で有効な対応のできなかった社会党の責任も、大きいといわねばならない。院外での大衆運動を否定するものではないが、議員としての責務は、どこまでも審議に徹して、そのなかで解決策を見いだすことにあるはずだ。
 実に議会主義の生命は、合意点を求めての、粘り強い討議と対話にあることを忘れてはならない。
12  新世界(12)
 自民党が新安保条約を強行採決した日から、国会周辺は、連日、万を超えるデモで埋まった。
 文化人のデモもあれば、婦人たちの提灯デモもあった。それは反安保の運動の広がりを示していた。
 この安保問題は、当然のことながら、学会の青年たちの間でも、大きな関心事となっていた。
 五月下旬のある日、山本伸一は、男子部の代表と懇談した。その折、一人の青年が尋ねた。
 「新安保条約は、今、大きな問題となっておりますが、この際、学会としても統一見解を出すべきではないかと思いますが?」
 青年会長・山本伸一は、笑みをたたえて言った。
 「それで、君は安保に対して、反対なの、それとも賛成なのか?」
 「私は断固反対です。安保は廃棄し、中立の立場に立つべきだと思います」
 すると、別の青年が発言した。
 「私は、全面的に賛成とはいいかねますが、今のところ、やむを得ないと思います。日本は、アメリカの協力なくしては、軍事的にも、経済的にも、独り立ちはできない状況です。
 今、安保を廃棄したりすれば、日本はアメリカを敵に回すことになります。したがって、安保を今の段階で廃棄せよというのは、現実を無視した意見です」
 ほかの青年たちも意見を述べたが、主張は二つにわかれた。
 伸一は、彼らを包むように見回すと、にこやかに語り始めた。
 「青年部の君たちの間でも、これだけ意見が食い違う。一口に学会員といっても、安保に対する考え方はさまざまだよ。反対も賛成もいる。そして、どちらの選択にも一長一短がある。
 それを、学会としてこうすべきだとは言えません。私はできる限り、みんなの意見を尊重したいのです。大聖人の御書に、安保について説かれているわけではないから、学会にも、いろいろな考えがあってよいのではないだろうか。
 政治と宗教は次元が違います。宗教の第一の使命は、いっさいの基盤となる、人間の生命の開拓にある。宗教団体である学会が、政治上の一つ一つの問題について見解を出すのではなく、学会選出の参議院議員がいるのだから、その同志を信頼し、どうするかは任せたいと思う。
 ただし、政治上の問題であっても、これを許せば、間違いなく民衆が不幸になる、人類の平和が破壊されてしまうといった根源の問題であれば、私も発言します。いや、先頭に立って戦います」
 青年たちの目が光った。
13  新世界(13)
 「安保反対」の声が、日ごとに高まりつつあった六月十日、アイゼンハワー米大統領の訪日の打ち合わせにやって来たハガチー大統領秘書の車が、デモ隊によって包囲されるという事件が起こった。
 羽田空港から米大使館に向かおうとするハガチー秘書の車を、空港出口付近で全学連反主流派と労組員のデモ隊が取り巻いたのである。デモ隊のなかには、車の上に飛び乗ったり、車を揺するものもいた。
 ハガチーの軟禁状態は約一時間ほど続き、米海兵隊のヘリコプターに救出されて、ようやく脱出した。
 この事件は、国際的にも大きな波紋を広げた。ハンフリー米上院外交委員は、「これは米国民に対する直接の侮辱である」と語り、激しく抗議した。
 そして、五日後の六月十五日。″六〇年安保″の運動のなかで、最も悲しく痛ましい、歴史の一ページが刻まれた。
 この日の夕刻、全学連主流派のデモ隊と、労組や新劇人などのデモ隊が、それぞれ国会を目指して行進していた。
 このデモ隊に、トラックに幟を立ててやってきた右翼団体が、突然、襲いかかったのである。
 なかでも多数の負傷者がでたのは、女性の多い新劇人のデモ隊だった。逃げ回る人たちが、カシの棒で滅多打ちにされていった。
 瞬く間の出来事に、警官の対応も出遅れた。見方によれば、それは警官隊が右翼の暴挙を黙認しているようにも見えた。
 国会の周辺は、全学連主流派などが呼び掛けた、二万人近い人のデモで埋まっていた。この話を聞いた学生たちは、岸内閣が右翼を動かし、攻撃をしかけてきたと思った。
 「突入!」
 国会への突入を計画していた全学連のリーダーが叫ぶと、怒りに燃えた学生たちは、バリケード用の警察トラックを引っ張り出し、国会南通用門を破った。
 警察の放水と学生の投石が始まった。警官も、学生も異様に殺気立っていた。
 構内に入った学生に、建物の陰に待機していた警官隊が、警棒を振り上げて殴りかかった。
 怒号が轟き、悲鳴が上がった。逃げようとする学生も、警官隊に、背後から警棒で殴打された。
 放水でできた水溜まりに倒れた学生の上を、幾人もの人が踏みつけていった。水溜まりは血で染まった。
 そのなかで、一人の女子学生が死亡した。東大文学部学生・樺美智子である。
14  新世界(14)
 山本伸一は、学会本部で樺美智子の死亡のニュースを聞いた。
 日本の行くえを憂い、民主と平和を願い、デモに参加した女子学生の死は、重く心にのしかかった。
 また、ともに青年である学生と機動隊員が、血を流し合わねばならなかったことに、胸を痛めた。
 既に衆議院を通過した新安保条約を覆すことは、不可能にちがいない。やがて新安保条約は、岸首相の目論見通りに、自然承認されるだろう。そして、それとともに、″安保闘争″もまた終わりを告げよう。
 その時、この学生たちのエネルギーはどこに向けられるのだろうか──と伸一は思った。
 彼は、その運動の暴走を懸念していたが、学生たちの純粋な気持ちは、痛いほどわかった。それだけに、学生たちの一人一人が、平和のため、民主主義のために、生涯を生きてほしかった。
 もし、歳月の経過とともに、その志が忘れ去られてゆくなら、この女子学生の″死の意味″はなくなってしまう。
 伸一は、沈痛の思いのなかで、彼女の死に報いるためにも、真実の民主と平和の時代を創り上げねばならないと決意した。
 この事件の翌日、政府は、こうした情勢のもとで、アイゼンハワー米大統領を日本に迎えることは難しいと判断し、訪日の延期を申し入れた。
 この時、岸首相は記者会見し、こう語っている。
 「日本の直面する事態を考えると、破壊的暴力によって、民主主義、議会主義が破壊されるとすると由々しきことである。政府としてはこの共産主義に対して人間の自由の尊厳を守る民主主義を、あくまで擁護する決意であり、それに必要な治安対策を立てることが最大の急務である」
 そこには、自らの責任を省みない為政者の傲慢さがあった。自民党の単独強行採決こそ、民主主義、議会主義を踏みにじり、人々の怒りの火に油を注いだ最大の原因ではなかったか。
 六月十九日午前零時。
 デモ隊が国会を包囲するなか、新安保条約は、参議院の議決を経ないまま、自然承認の時を迎えた。
 その瞬間、静寂が辺りを包んだ。
 「不承認を宣言する!」
 マイクで叫ぶ声が響き、それに合わせて、一部に喚声が上がったが、学生たちの多くは虚脱した顔で、それを聞いていた。
 その場に崩れるように、しゃがみ込む学生もいた。また、泣きじゃくる女子学生の姿もあった。誰もが一様に、敗北感をみ締めていた。
15  新世界(15)
 新安保条約の批准書の交換は、六月二十三日に行われ、この日、新条約が発効した。
 この発効とともに、岸首相は退陣を表明し、七月十九日に、池田勇人内閣が成立している。
 それは、日本の「政治の季節」が終わり、「経済の季節」の始まりを告げるものであった。
 そして、安保反対に向けられた、あの国民のエネルギーは、豊かな生活の追求に注がれてゆくのである。
 山本伸一は、この三カ月余り前の出来事を思い起こしながら、サンフランシスコの空港に降り立った。
 空港のロビーの時計は、午後四時三十五分を指していた。ホノルルとの時差はプラス二時間である。
 ロビーには、数人のメンバーが出迎えていた。
 「山本先生、ようこそおいでくださいました」
 一人の婦人が、こう言って副理事長の十条潔にあいさつした。
 聖教新聞などで伸一の写真は見ていても、面識がないだけに、誰が会長なのかすぐにはわからず、伸一より格幅のよい十条を、会長だと思ってしまったのであろう。
 十条は顔を赤らめて、伸一を指差し、「山本先生はあちらです」と言った。
 同行の幹部たちは、はにかむ彼の姿が、おかしくてたまらなかった。
 「す、すみません」
 十条を伸一と間違えた婦人は、恐縮して、何度も頭を下げた。
 「仕方ないよね。会ったことがないんだもの。わざわざ出迎えてくれて、ありがとう」
 伸一は笑いながら、労いの言葉をかけ、皆と一緒に空港の控え室に向かった。
 控え室に入ると、正木永安がメンバーを紹介した。
 初めに紹介されたユキコ・ギルモアは、サンフランシスコで中心的な役割を担ってきた婦人だった。
 彼女は、五年前に横浜で入信し、翌年、アメリカ人の夫とともに渡米した。信心を始めて、病院通いが絶えぬ病弱だった体が、丈夫になったという体験を日本でつかんでいた彼女は、サンフランシスコでも、日系人を見つけては一心に弘教をしていった。
 難しい話は何一つわからなかった。しかし、体でつかんだ信心への強い確信があった。
 彼女から仏法の話を聞いて、信心を始めた人は、十人を超えていた。
 そんなメンバーが三人、四人と集っては、座談会を開いていたのである。
16  新世界(16)
 サンフランシスコで座談会が行われてきたといっても、それは、信心の歓喜とはほど遠い、″慰め会″の様相を呈していた。
 集って来るのは、皆、異境での生活に耐えかね、日本への郷愁をつのらせている人たちである。集まれば自然にグチが出た。グチを語り合ううちに悲しみはますます深まり、いつも最後は、互いに涙ぐんでしまうような座談会であった。
 山本伸一は、ユキコ・ギルモアと、二言、三言、言葉を交わすと、彼女の苦労がみ取れた。精いっぱい孤軍奮闘してきた一人の婦人を、伸一は心から称え、励ましたかった。
 「大変でしたね。ありがとう。でも、もう大丈夫ですよ」
 その言葉に、彼女の目頭は熱くなった。
 伸一は、それからギルモアの後ろに控えめに立っていた、日系の婦人に声をかけた。どこか薄幸そうな、生活に疲れた様子が気にかかったのである。
 「お名前は?」
 「アイ・リンです」
 「どうぞ、こちらへ来てお座りください」
 伸一は、彼女にイスを勧めた。アイ・リンは、いたく緊張していた。
 彼女の夫は、アメリカ軍に勤務していたが、ギャンブルに狂い、莫大な借金を抱え、生活はどん底を極めていた。
 身も心もヘトヘトになり、自殺さえ考えていた前年の六月、仏法の話を聞いて、ワラをもつかむ思いで入信したのである。
 「信心は一生懸命やっているんですか?」
 伸一は尋ねた。
 「はい、『火の信心』をしています!」
 きっぱりと答えた。
 彼女は、「火の信心」とは一時的には燃え上がっても、すぐに消えてしまう信心であり、水が流れるように持続していく「水の信心」こそが、強盛な信心の姿であると教わってきた。
 ところが、上がっていたために、燃え立つような「火の信心」が強盛な信心である気がして、こう答えてしまったのだ。
 「あら、いやだ、反対でしょ。私は、そんなこと教えていないわよ」
 ユキコ・ギルモアがアイ・リンの服の袖をつかんで抗議した。
 伸一は、優しく微笑みながら言った。
 「『火の信心』はいけませんね。しかし、『水の信心』を貫いていくならば、必ず幸せになれますよ」
 確信にあふれた言葉であった。その一言に、アイ・リンは、心を閉ざしていた悲哀の厚い雲が払われていくのを覚えた。
17  新世界(17)
 山本伸一は、ユキコ・ギルモアの横にいた婦人にも話しかけた。
 「あなたのお名前は?」
 「はい、チヨコ・テーラーです。日本では蒲田支部で組長をしていました」
 「蒲田支部ですか。懐かしいね。それじゃあ、うちの家内のことは知っていますか」
 「ええ、先生の奥様は、私の実家の座談会に、何度か、お子さんをお連れになって来てくださいました。それに、私が出席した最初の座談会が、奥様の実家の春木さんのお宅でした」
 「そうなの。世界は狭いね。それでご主人は?」
 「ここにいるのが主人です。名前はポールといいます。仕事は、連邦政府の会計監査官です」
 彼女は、側にいた大柄なアメリカ人を指差して答えた。そして、申し訳なさそうに、付け加えた。
 「でも、まだ信心をしていないんです。応援はしてくれるんですが……」
 伸一はすかさず言った。
 「それで十分ではないですか。奥さんとともに、喜んで私たちを出迎えてくれるのですから、もう立派な同志です」
 「コンニチハ!」
 その時、ポール・テーラーが、屈託のない笑みを浮かべて、カタコトの日本語であいさつした。
 「オー、ハウ・ドゥユードゥー。嬉しい。ご主人にお出迎えいただいて。お世話になります」
 伸一は、大きな身振りで、英語をまじえて、握手を交わした。
 傍らにいたユキコ・ギルモアの夫も、伸一に握手を求めてきた。精悍な顔をした男性であった。
 「オー、サンキュウ・ベリーマッチ。いつも応援していただき、ありがとうございます」
 ミスター・ギルモアが、嬉しそうに日本語で話しかけた。
 「ヤマモトセンセイ、オマチシテマシタ」
 「どうも、ありがとうございます。これからも、奥さんのこと、学会のことを宜しくお願いします」
 二人とも、いかにも陽気で、気のよい感じのするアメリカ人である。
 伸一は、未入信のポール・テーラーに、会長就任を記念してつくったメダルを贈った。
 彼は、早速、それをつけて胸を張って見せた。そして、「ミンナデ、シャシン、トリマショ」と、持って来たカメラを構えた。
 ホノルル空港に到着した時とは打って変わって、明るく和やかな出迎えの光景であった。
18  新世界(18)
 一行は、空港からひとまずホテルに向かった。ホテルはユニオン・スクエアに近い、坂の途中にあるサー・フランシス・ドレーク・ホテルであった。
 このホテルは、クラシックな二十一階建てで、前の通りにはケーブルカーが走り、サンフランシスコらしい景観が広がっていた。
 ホテルで一休みした後、テーラー夫妻とギルモア夫妻の案内で、一行は夕食に出かけた。
 案内されたところは、テンプラの店だったが、壁に日本語の古びた品書きがベタベタと張られた大衆食堂といった感じの、いかにも庶民的な店であった。
 これは、テーラー夫妻が、既に洋食に飽きているであろう一行に、せめて日本食を味わってもらいたいとの思いで、選んでくれた店であった。
 普段は、外で日本料理を味わう余裕などなかったテーラー夫妻は、日本料理の店についての知識は至って乏しかったのであろう。
 それにしても、質素な店だというのが、同行したメンバーの率直な思いであった。
 しかし、山本伸一は、その真心が何にも増して嬉しかったし、また、ありがたくもあった。
 彼にとっての何よりのご馳走は、アメリカの地で広布の根を張ろうとする無名の婦人たちの、健気にして尊い姿であった。
 また、彼女たちにとっては、会長山本伸一の心からの労いの言葉と励ましの笑顔こそが、最高のご馳走であった。それは、あまりにもささやかな晩であったが、これが、アメリカ大陸での最初の会食となったのである。
 伸一は、二人の夫にも、何度も感謝と労いの言葉をかけた。
 日本語はよくわからないようだが、夫人が通訳をすると、目を輝かせて頷き、笑顔を返してくれた。
 食事の最中に、ユキコ・ギルモアに電話が入った。会長一行を空港に出迎えに行ったが、時間に間に合わなかったメンバーが、ギルモアの家に集まって来ているというのである。話を聞きながら、伸一は思った。
 ──その人たちは、さまざまな悪条件のなかで、時間に間に合うかどうかハラハラしながら、駆けつけてくれたにちがいない。
 そして、既に私たちが去ってしまった空港で、寂しい思いをし、落胆しながら、ギルモアの家にやって来たのであろう。
 今、最も激励しなくてはならないのは、その人たちである。私には、その責務があるのだ。
19  新世界(19)
 山本伸一は、すぐに自分がメンバーに会いに行きたかった。
 しかし、食事の途中で席を外すことは、ここに案内してくれた、テーラーやギルモアに対して、あまりにも失礼であろうと思った。
 やむなく、婦人部長の清原かつ、留学生の正木永安に、ユキコ・ギルモアと一緒に、みんなのところに行くように頼み、伝言と激励の品々を託した。
 伸一は、こうした一瞬一瞬の時を、決して疎かにはしなかった。戦いの勝敗も、いかに一瞬の時を生かすかにかかっている。友への励ましにも、逃してはならない「時」がある。
 彼の反応は常に素早かった。時を外さず、いつも機敏に手を打った。それは、「今」を逸すれば、永遠にそのチャンスをなくしてしまうかもしれないという、会長としての緊迫した責任の一念が培った、感受性の鋭さであったといえるかもしれない。
 更には、青春のすべてを注いで戸田城聖に仕え、後継の弟子として彼が受けた厳しい訓練のなかで、体で修得していったものでもあった。
 清原たちが席を外すと、伸一は、ポール・テーラーに言った。
 「慌ただしくて申し訳ありません。しかし、わざわざ空港に駆けつけてくれた方々の真心に、精いっぱい応えたいものですから。
 仏法というのは、特別なものではありません。真実の人間の道を、人としての正しい振る舞いを説いたものなんです」
 チヨコ・テーラーが伸一の話を訳して伝えた。ポールは真剣な顔付きで耳を傾けていた。
 彼の目が輝きを増した。そして、両手を広げて、にこやかに言った。
 「オオ、ブッポウ、ワンダフル!」
 夫人の瞳が潤んだ。少しでも夫に仏法を理解させようと、思い悩んできたのであろう。
 彼女は、感極まった顔で伸一に言った。
 「先生、ありがとうございます。主人が、信心の話を聞いて、こんなに喜ぶ姿を見たのは初めてです。
 また、あしたは先生にご出席いただいて、座談会が開けるかと思うと、まるで夢のようです。でも、申し訳ないことには、シスコにはそんなにメンバーがいないんです」
 「いいんです。私は種を植えに来たんですから。あしたからが新しい出発なんだもの」
 伸一の言葉はチヨコ・テーラーの心に刻まれた。
20  新世界(20)
 サンフランシスコの夜が明けた。
 十月四日は、山本伸一が出席して、座談会が行われる日であった。
 伸一の一行は、午前中は市内を見学し、午後には、日本総領事館を訪問した。
 そして、午後六時半から行われる座談会に臨んだ。
 座談会場は、サンフランシスコ特有の出窓のある家々が建ち並ぶ、コール・ストリートの一角にあるギルモア夫妻の家であった。
 午後五時過ぎ、伸一たちは会場に到着した。
 会場の家には、一行のために、別室が用意されていた。そこで、まず、地区の人事の検討が行われた。
 昨夜、伸一は同行の幹部に、サンフランシスコにも地区を結成する意向であることを告げ、副理事長の十条潔らに人事案の作成を依頼していたのである。
 十条が、人事案を伸一に見せた。
 伸一は、しばらく考えてから、断を下した。
 「そうだね、これしかないね。これでいこうよ」
 そして、静かに言った。
 「今回、北・南米には、支部や総支部もつくろうと思っている。海外は未来の大法戦場になるからね」
 誰もがわが耳を疑った。しかし、同行の幹部たちはハワイでの地区結成以来、伸一には、自分たちの想像をはるかに超えた、世界広布の壮大な構想があることを感じていただけに、驚嘆はしたが、不可解には思わなかった。
 むしろ、また、新しい何かが生まれる期待に胸を弾ませた。
 伸一は、現地の主だった数人のメンバーを、別室に招いて言った。
 「実は今日、サンフランシスコに地区を結成しようと思っています。それでユキコ・ギルモアさんには地区部長を、チヨコ・テーラーさんには地区担をお願いしたいのです」
 二人は、緊張した顔で頷いた。
 「ギルモアさんは女性の地区部長ということになりますが、ここは女性のメンバーが多いし、アメリカは男女平等の国だから、それもよいのではないかと思います。それに、仏法は『男女はきらふべからず』ですから、女性の地区部長が誕生しても、決して不思議ではありません。
 二人が力を合わせれば、きっと、すばらしい地区ができますよ」
 「はい、頑張ります」
 「しっかり戦います」
 決意のこもった返事であった。彼女たちの心田に、今、広布の種子が植えられようとしていたのである。
21  新世界(21)
 山本伸一は、それから、ユキコ・ギルモアとチヨコ・テーラーの夫に言った。
 「また、ダニエルさんとポールさんには、地区の顧問になっていただきたいのです。
 これまでと同じように、奥様を応援していただくとともに、地区の皆さんを見守り、時には、良き相談相手になっていただければと思います。お願いできますでしょうか」
 伸一の言葉を傍らにいた正木永安が通訳した。二人はにこやかに頷き、了承したが、同行の幹部たちは、さすがに驚きの表情を隠せなかった。
 ギルモアは仏法の深い法理などはほとんどわかっていない様子だし、テーラーは入信さえしていない。その二人が顧問になるなどという発想は、皆にはなかったからである。
 伸一は、同行のメンバーの気持ちを察して、すかさず言った。
 「私は、ポールさんのような方を大切にしたいのです。信心をしていないのに、学会をよく理解し、協力してくれる。これほどありがたいことはない。私は、その尽力に、最大の敬意を表したいのです。
 みんなは、ただ信心しているか、していないかで人を見て、安心したり、不安がったりする。しかし、それは間違いです。その考え方は仏法ではありません。
 信心はしていなくとも、人格的にも立派な人はたくさんいる。そうした人たちの生き方を見ると、そこには、仏法の在り方に相通じるものがある。
 また、逆に信心はしていても、同志や社会に迷惑をかけ、学会を裏切っていく人もいます。
 だから、信心をしているから良い人であり、していないから悪い人だなどというとらえ方をすれば、大変な誤りを犯してしまうことになる。いや、人権問題でさえあると、私は思っているのです」
 伸一の思考のなかには、学会と社会の間の垣根はなかった。
 仏法即社会である限り、仏法者として願うべきは、万人の幸福であり、世界の平和である。
 また、広い裾野をもつ大山は、たやすく崩れはしないが、断崖絶壁はもろく、崩れやすいものだ。同様に、盤石な広布の建設のためには、大山の裾野のように、社会のさまざまな立場で、周囲から学会を支援してくれる人々の存在が大切になってくる。
 更に、そうした友の存在こそが、人間のための宗教としての正しさの証明にほかならないことを、彼は痛感していたのである。
22  新世界(22)
 山本伸一が、別室での打ち合わせを終えて懇談していると、座談会の会場にあてられた部屋から、勤行の声が響いてきた。
 彼は、その部屋に顔を出した。三十歳前後のアメリカ人の男性を中心に、二、三人のメンバーが勤行をしていた。
 導師の男性の発音は、実に正確で、朗々とした勤行であった。
 伸一は、別室に戻り、しばらくしてから、その男性と妻である女性を招いて懇談した。
 「お名前は、なんとおっしゃいますか」
 伸一が尋ねると、彼は微笑みながら、両手を広げて、首を左右に振った。隣の夫人が代わって答えた。
 「すみません、主人は日本語がわからないものですから……。
 主人の名前は、ジョージ・オリバーと申します。私は妻のヤスコです」
 ジョージ・オリバーは、六年前に日本で入信し、三年前、妻のヤスコとともにアメリカに帰ってきた。
 日本では、大学で英文学を教えていた中野支部長の神田丈治に指導を受けながら、活動にも参加し、着実に信心に励んできた。
 アメリカに帰ってきてからも、夫妻で信心を続け、弘教も実らせてきた。
 「どちらから、いらっしゃったんですか」
 「はい、ネバダ州のリノから来ました」
 「どうも、遠くからご苦労様です。何時間かかりましたか」
 「車で五時間ほどかかりました」
 「そう。大変でしたね。それじゃあ、遅くなるといけないから、座談会が終わったら、すぐにお帰りになってください」
 ヤスコは、その言葉を夫に伝えた。
 「ドウモ、アリガトウ、ゴザイマス」
 ジョージは日本語で答えると、続けて英語で語り始めた。それを正木永安が通訳した。
 「山本先生にアメリカにおいでいただき、大変に光栄です。
 私たちは、かつて、アメリカに帰るべきか、日本に残るべきか、戸田先生に指導を受けたことがあります。その時、先生は、『仏法は世界に広宣流布されなければならないのだから、アメリカに帰って頑張りなさい』と言われました。
 私は、その言葉を聞き、戸田先生の世界広布を願う心に触れた思いでした。
 山本先生は、会長に就任されて、まだ五カ月しかたっていないのに、こうしてアメリカにおいでくださいました。
 それは世界広布を願う、戸田先生の精神の実践にほかならないと思います」
23  新世界(23)
 ジョージ・オリバーの話に、同行の幹部たちは、耳をそばだてていた。
 「私は、戸田先生が亡くなられてから、学会はどうなってしまうのか、不安に思っていました。
 しかし、こうして山本先生にお会いし、学会は若々しい山本先生とともに、限りない未来に向かって、新しい出発をしたことを感じました。
 また、山本先生に、私たちの帰りのことまでお心遣いいただき、感謝いたします。今日、先生とお会いできましたことは、私にとって貴重な人生の思い出となりました」
 オリバーの話を聞き、日本の幹部は驚いて顔を見合わせた。
 彼らには、日本人でなければ、信心や学会の精神はわからないのではないかとの思いが、心のどこかにあった。だが、このアメリカの同志を目の当たりにして、そんな考えがいかに見当違いであったかを、実感せざるをえなかった。
 十界互具という人間の心は普遍である。ゆえに、人種、民族を超えて、信心もまた普遍である。
 山本伸一は、ジョージ・オリバーの話を聞きながら、ネバダにも地区を結成し、この夫妻を、地区部長と地区担当員に任命すべきではないかと思った。
 彼は、ネバダには、ほとんど会員はいないことも聞いて知っていた。そこに、アメリカ人の地区部長を誕生させることは、確かに賭けといえば、大きな賭けにちがいなかった。
 しかし、種を植えなければ芽が出ることはない。それに、やがては世界各国に、日系人ではないリーダーが誕生していかなければ、本格的な広布の伸展はありえない。
 また、組織といっても人で決まる。中心者が一人立てば、すべては、そこから開けていくものである。
 瞬時のうちに、伸一の頭脳は、目まぐるしく回転していった。
 彼は言った。
 「ネバダにも地区を結成します!」
 同行の幹部にとっては、もはや理解を超えた決断といえた。
 それは、世界広宣流布をわが生涯の使命と定めて突き進む伸一との、一念の隔たりにほかならなかった。
 彼の打つ手の、一つ一つは、決して、単なる思いつきではなかった。たとえ瞬時に下された決断であっても、広宣流布のために、一念に億劫の辛労を尽くしての熟慮があった。
 世界は、伸一の胸中に鼓動していたのである。
24  新世界(24)
 座談会の開始時間が迫ってきた。
 ユキコ・ギルモアは、果たして何人の友がやって来るのか、気がかりでならなかった。
 今回、山本伸一会長を迎えるにあたっては、本部の海外係から、サンフランシスコ周辺に居住している二十人ほどの会員のリストを、送ってもらっていた。このメンバーの家を訪ねたり、手紙で連絡を取ってはきたが、そんなに大勢の人が来るとは、思えなかった。
 しかし、座談会が始まるころには、会場にあてられた部屋は、三十人ほどの参加者でいっぱいになった。
 やはり、大半は日系の女性であったが、メンバーは互いに、参加者の数の多さに目をみはった。
 日本各地の同志からも、この日、山本会長が出席して、ここで座談会が行われることが、サンフランシスコに渡った人たちに伝えられていたのである。
 アイ・リンは小声でユキコ・ギルモアに言った。
 「すごいわ。こんなに集まって。『地涌の菩薩』というけど、本当に地面から涌いてくるのかしらね」
 「つまらないこと言わないでよ。きのうだって、山本先生に『火の信心』をしてますなんて、胸を張って言ったりして。私がいつも変なことを教えているみたいに思われるでしょ」
 二人の話は、伸一の耳にも聞こえてきた。彼は、そんな無邪気なやりとりに、微笑ましさを覚えた。
 座談会が始まると、同行の幹部が、次々とあいさつに立った。皆、副理事長、教学部長、婦人部長、青年部長といった幹部である。参加者は、聖教新聞でしか見たことのない幹部の指導に接し、夢を見るような思いで、話を聞いていた。
 そして、いよいよ会長山本伸一の指導となった。
 彼は、ここでも、質問を受けることにした。
 質問には、いずれも、言葉も通じない異国での生活の悲哀が滲み出ていた。ハワイと同じように、「日本に帰りたい」との言葉も聞かれた。悶々とした思いにかられ、その日その日を、生きてきたにちがいない。
 悲しみと失意に閉ざされた人々に、生きる勇気を与えるために、伸一はここでも、満身の情熱を注がねばならなかった。それは、湿った薪を燃え上がらせるような労力を必要とした。
 彼は、一人一人を抱き締める思いで、諄々と諭すように、また、時には烈々たる確信を込めて、仏法の偉大さを語り説いていった。
25  新世界(25)
 質問会が終わりにさしかかるころには、参加者の顔に赤みが差し、屈託のない微笑みが浮かんでいた。
 山本伸一は、額に噴き出た汗を拭うと、力強い声で語った。
 「皆さんは、使命あって、このサンフランシスコに来られた。
 今は、それぞれ大きな悩みをかかえ、日々苦闘されていることと思いますが、それはすべて、仏法の偉大なる功力を証明するためにほかなりません。
 皆さんこそ、アメリカの広宣流布の偉大なる先駆者です。皆さんの双肩には、未来のアメリカのいっさいがかかっていることを、知っていただきたいのです。
 その意味から、私は、本日、三つのことをお願いしておきたいと思います。
 まず、第一に、市民権を取り、良きアメリカ市民になっていただきたい、ということです。
 広宣流布といっても、それを推進する人々が、周囲からどれだけ信頼されているか、信用を得ているかによって決まってしまう。
 アメリカにいながら、自分のいる国を愛することもできず、日本に帰ることばかりを考え、根無し草のような生活をしていれば、社会の信頼を得ることはできません。
 市民権を取るということは、国を担う義務と責任、そして、権利を得ることです。それが、社会に信頼の根を張る、第一歩になっていきます。
 第二には、自動車の運転免許を取るようにお願いしたい。
 アメリカは日本と違って国土も広い。どこへ行くにも車が必要です。皆さんが動いた分だけ、広宣流布が広がってゆくことを思うと、ドライバーのライセンスの取得は、広布の本格的な戦いを開始するうえで、不可欠な条件といえます。
 第三に、英語をマスターしていただきたい。
 自由に英語を話せるようになれば、アメリカ人の友人も増え、多くの人と意思の疎通が図れます。弘教は人との交流から始まり、交流は対話から始まります。
 また、大聖人の仏法は、日本人のためだけのものではありません。アメリカの広布を考えるならば、やがて座談会も、会合での指導も、英語で行われるようにならなければならない。その中心者となっていくのが、ここにいらっしゃる皆さんです。
 したがって、たとえば日本の『かぐや姫』の話を、英語でしてあげられるぐらいの力を、まず身につけていただきたいのです」
26  新世界(26)
 山本伸一は、場内を見渡した。
 静かに頷いている人もいれば、当惑ぎみの表情をしている人もいた。
 また、隣同士で顔を見合わす婦人もいる。互いに相手が車を運転し、英語を自在に操る姿など、想像もできなかったのであろう。
 彼は、メンバーの思いを察知し、言葉を継いだ。
 「大変なことを要求しているように思われるかもしれませんが、アメリカの広布を担うのは、皆さん方しかいません。
 ご婦人の皆さんのなかには、車を運転したり、英語を自在に操るなんて、とても自分には無理であると、思っている方もおられるでしょう。
 しかし、まず″必ずできる″″やるぞ″と決めて挑戦し、努力してみてください。皆さんならできます。
 アメリカには、女性ドライバーは、たくさんいるではありませんか。女性でも車を運転するのは、アメリカでは常識です。
 やがて、日本だって、十年もすれば、そんな時代になります。その意味でも、皆さんは、日本女性の先駆者となっていただきたいのです。
 また、英語だって、できないわけがありません。
 ここでは、五歳の子供だって、英語を話している。英語に比べれば、日本語は漢字もあり、大変に難しいといわれています。でも、皆さんは、その日本語を、見事にマスターしているではないですか」
 笑いが起こった。その笑いが、心にのしかかっていた重さを吹き払い、希望を芽吹かさせた。
 ──そうだ。やってできないことはない!
 皆、そんな気がしてくるのだった。
 この三つの指針を、伸一は海外訪問の期間中、各地の座談会で訴えていった。やがて、それは、アメリカの同志の誓いの「三指針」となっていったのである。
 座談会では、このあと、日本の活動の模様を伝えるスライドを上映した。
 そして、最後に、伸一が地区の結成を発表した。
 「本日は、アメリカの未来のために、新しい出発を期す意味から、サンフランシスコに地区を結成したいと思います。二日前に、ハワイにも地区が生まれましたが、アメリカ本土では最初の地区になります」
 期せずして、大きな拍手が沸き起こった。
 伸一は、人事を紹介していった。
 班は、サンフランシスコのほか、スースン、サクラメントにも結成された。
27  新世界(27)
 サンフランシスコ地区の人事に続いて、山本伸一は、ネバダにも地区を結成することを告げた。
 「ネバダ地区の地区部長にはジョージ・オリバーさんが、地区担当員にはヤスコ・オリバーさんが就任いたします。
 ネバダにはオリバー夫妻のほかは、お二人が弘教した二、三人のメンバーしかおりませんが、敢えて地区をつくります」
 オリバー夫妻が立ち上がった。参加者から驚きの声が漏れた。
 それを制するように、伸一は話を続けた。
 「皆さんは、会員もいないネバダに、なぜ地区をつくるのかと思われるかもしれませんが、それは未来への布石なのです。
 地区というのは、一人一人に直結した前線基地であり、そこには、日常の活動の、いっさいの機能が備わっています。
 皆、地区を中心に戦い、地区のなかで育まれてきたといえます。
 学会を一つの果樹園にたとえれば、ちょうど、果樹にあたるのが地区であり、果実が皆さん方です。果樹がなければ、果実は実らない。果樹にすべてはかかっています。
 創価学会といっても、その本当の母体は一つ一つの地区であり、地区の姿それ自体が、学会であるといっても過言ではありません。
 地区が誕生し、それが完璧に仕上がっていけば、その地域の広布は、大きな伸展を遂げていきます。
 ネバダは、広く大きい州であり、未来の限りない可能性を秘めた天地です。ゆえに、まだ地区部長と地区担以外に、ほとんどメンバーはいませんが、三年後、五年後、十年後のために、地区を結成したのです。
 これから、オリバーさんご夫妻には、大変なご苦労をおかけすることになると思いますが、戸田先生も牢獄から出られて、ただ一人、広宣流布に立たれた。
 それから、わずか十五年で、学会は百数十万世帯にまで発展したのです。オリバーさんご夫妻も、ネバダの大地に法旗を掲げて、決然と立ってください。
 特に、ご主人のジョージ・オリバーさんは、日系人以外の初めての地区部長です。学会が世界宗教であることを証明する、第一号の地区部長となります。アメリカ広布の模範となる戦いをお願いします」
 伸一がこう語ると、彼は「ハイ!」と、元気に返事をした。すがすがしい声の響きであった。
 また一つ、ネバダの地にも広布の種が植えられた。
 参加者は皆、新しい時代の到来を感じていた。
28  新世界(28)
 座談会が終了した後も、ほとんどのメンバーは帰ろうとはしなかった。皆、嬉しいのである。
 茶に菓子、海苔巻きなどが出され、部屋のあちこちで歓談の花が咲いた。
 同行の幹部に指導を求める人もいれば、住所を交換し合う姿も見られた。
 山本伸一が別室に引き上げると、間もなく、婦人部長の清原かつがやって来た。
 「先生……」
 清原は言いにくそうに、伸一に告げた。
 「実は、ユキコ・ギルモアさんたちが、これから、私たちに食事をご馳走しようとして、みんなから一ドルずつ、お金を集めたということなんですが……」
 清原の話を聞くと、伸一は顔を曇らせた。
 「それはいけない!」
 彼は、ユキコ・ギルモアを呼んだ。そして、諄々と指導した。
 「あなたたちの気持ちは嬉しいし、ありがたい。
 しかし、皆、生活も大変なはずです。私たちのことで、みんなに余計な負担をかけるようなことをしてはならないし、そんな必要はありません。
 また、私に食事を振る舞うために、お金を集めることにしたといわれれば、たとえ不本意であっても、従わざるをえない雰囲気がつくられてしまいます。
 そうなれば、みんなの意思とはいっても、半ば強制のようになり、それによって、学会に不信をいだく人もいるかもしれない。
 発意は真心であっても、結果としては、みんなの信心を混乱させることになりかねません。
 ですから、幹部は、会員から不用意にお金を集めるようなことは慎まなければなりません。学会では、お金の扱いについては、神経質なぐらい厳格にしているのです。
 厳しいことを言うようですが、集めたお金は、あなたから、一人一人に訳を説明して、丁重にお返ししてください」
 ギルモアは、最初は、伸一の指摘に戸惑いを覚えたようであったが、申し訳なさそうに、「わかりました」と言って、部屋を出ていった。
 彼女の善意から発した行為であることは、伸一にもよくわかった。それだけに、みんなに頭を下げて、お金を返すことを思うと、かわいそうな気もした。
 しかし、地区部長として組織を運営していくには、学会の金銭の取り扱いの厳格さを身につけなければ、いつか、金銭の問題で失敗しないとも限らない。それは、同志を思うがゆえの、慈愛の指導であった。
29  新世界(29)
 しばらくして、山本伸一は、再び座談会場になっていた部屋に顔を出した。
 アイ・リンが懇談する人々の間を縫うようにして、茶菓を運び、忙しく動き回っていた。
 その動きを見ていると、まるでわが家のように、ギルモア夫妻の寝室にも自由に出入りしている。伸一は彼女を呼び止めた。
 「リンさん、あなたはギルモアさんとは友人かもしれないが、人の家の寝室に出入りしたりすることは、慎まなければなりません。
 お互いのプライバシーを守ることは、アメリカ社会の大切なモラルです。
 仏法は、人の振る舞いを説いたものであり、仏法即社会です。人々の信頼を勝ち得るためには、細かい事への気遣いが大事ですよ」
 やがて、皆、アメリカ広布の中核となってゆく人たちである。だからこそ伸一は、一つ一つのさりげない振る舞いに至るまで、細かくアドバイスしておかなければならないと思った。
 まさに、一から手作りの人材育成であったといってよい。
 その時、理事の石川幸男が、傍らに来て座った。
 「こうして見てますと、地区を結成しても、心配ですな。幹部になったものも含め、とにかく常識がないし、物事を知らなすぎる。これで果たしてやっていけるんですかね。本当に人材がおりませんな」
 同志を見下げたような口調であった。伸一は、憮然としながら答えた。
 「私は、決してそうは思いません。みんな人材です。これから光ってゆきます。純粋に信心を全うしていけば、みんな広布の歴史に名を残す、パイオニアの人たちです。未来が楽しみです」
 石川は「ほう」と言って部屋を出ていった。
 この日、幹部に登用した人たちは、確かに幹部としての経験にも乏しく、未訓練であることは間違いなかった。また、社会的な立場や肩書も、決して立派とはいえなかった。
 しかし、アメリカという異国にあって、苦労に苦労を重ねながら、信心に励んできたメンバーである。人々の悲しみ、苦しみを、誰よりもよく知っている。
 そうであるなら、広宣流布という人間の一大叙事詩をつづるリーダーとして、最もふさわしい、尊い使命をもった人たちといわねばならない。
 伸一には、一人一人が、やがて、キラキラと七彩の輝きを放つ、ダイヤモンドの原石のように思えてならなかった。
30  新世界(30)
 翌十月五日、一行は、朝食をすますと、杉の巨木として知られるコースト・レッド・ウッドが生い茂るミューア・ウッズ国定公園に向かった。
 このコースト・レッド・ウッドが、総本山に建立寄進する大客殿の建設資材として、適当かどうかを検討するためである。
 案内役は、この日も、ギルモア夫妻とテーラー夫妻であった。
 市街を抜け、サンフランシスコ湾を右手に見ながら進んでいくと、行く手に、ゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)の赤い鉄柱が見えた。
 それは、近づくにつれて、頭上にのしかかってくるかのように、そびえ立っていた。
 一行は、この橋の近くにある広場で、車を降り、休憩することにした。
 広場には、橋を吊り上げているケーブルの一部が展示されていた。
 このケーブルの直径は九十二・四センチメートルで、二万七千五百七十二本のワイヤを束ねて作ったものだという。
 一行は、展示されたケーブルを、取り囲むようにして立った。
 「ケーブルは太いけれど、中の一本一本のワイヤは、意外に細いものなのね。これで、よくあの橋を吊り上げることができるわね」
 清原かつが、驚きの声をあげた。
 山本伸一は清原の言葉に頷きながら、きのう地区部長と地区担当員に任命になったユキコ・ギルモアとチヨコ・テーラーに向かって語り始めた。
 「確かに、一本一本は決して太いものではない。しかし、それが、束ねられると、大変に大きな力を発揮する。これは異体同心の団結の姿だよ。
 学会も、一人一人は、小さな力であっても、みんなが力を合わせ、結束していけば、考えられないような大きな力が出せる。団結は力なんだ。
 これからは、あなたたちが中心になって、みんなで力をあわせ、サンフランシスコの人々の幸せと広布を支えていくことです」
 「はい!」
 二人が同時に答えた。
 彼女たちは、自分たちが途方もなく大きな、崇高な使命を担っていることを強く感じ、身の引き締まる思いがした。
 休憩の後、一行の乗った車は、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡り、やがて山道に入っていった。
 尾根づたいに、幾重にも曲がりくねった坂道が続いていた。
31  新世界(31)
 一行の乗った車は、鬱蒼と木々の生い茂る森の前で止まった。
 ミューア・ウッズ国定公園の入り口である。
 園内に入ると、入り口の近くに、コースト・レッド・ウッドの巨木を輪切りにした断面が展示してあった。直径二メートルほどの大きな断面である。
 そこには、年輪がびっしりと同心円を描いて刻まれていた。そのところどころに、「五百年」「千年」……と生長過程が表示してあった。
 一行は展示された巨木の輪切りを叩いて、硬度を調べたり、乾燥による亀裂の入り方などを丹念に見ていった。
 そして、木陰でオニギリの昼食をとった。賑やかな食事が終わりかけたころ、公園の係員がやって来て、英語でまくしたてるようにしゃべり始めた。
 すると、ポール・テーラーが立ち上がり、大きな声で応じた。
 正木永安が、そのやりとりを伸一に教えた。
 「係員は、この場所は飲食をしてはいけないところなので、移動するように言ってきたのです。
 それに対して、ミスター・テーラーは『わかった。私たちは知らなかった。すぐに移動します』と答えたあと、先生のことを説明しております。
 ──ところで、あなたは日本の創価学会の会長である、山本伸一先生を知っていますか。あそこにいる方がそうです。偉大な仏法の指導者だ。あの方に会えたことは、あなたにとっても非常に光栄なことだ。
 こう言っているのです」
 皆、苦笑してしまった。
 「さすが地区の顧問ですな。自覚が違うね。これは、学会員以上に頼もしい。たいしたものだ」
 山平忠平が言うと、爆笑が起こった。
 食事をすますと、一行は園内を散策した。
 巨木の間を縫うように遊歩道が走り、辺りは昼なお暗く、森閑としていた。
 周囲に林立する木々の多くは、展示されていた輪切りの断面から考えると、樹齢千年を、はるかに超えていることになる。日蓮大聖人 の御在世当時から、既に、ここにそびえ立っていたのであろう。
 伸一には、これらの木々が、アメリカ大陸に妙法の太陽が昇る日を、ひたすら待ちわびてきたように思えてならなかった。
 一陣の風に、深緑の葉がそよいだ。
 それは世界広布の朝の到来に、喜びに震えているようにも見えた。
32  新世界(32)
 ミューア・ウッズ国定公園の帰途、一行は、サンフランシスコ湾を見下ろす、「テレグラフ・ヒル」と呼ばれる丘の上に立った。
 サンフランシスコには珍しく、霧も晴れ、彼方には、夕日を浴びた海が光っていた。ゴールデン・ゲート・ブリッジやベイ・ブリッジも手にとるように見渡すことができた。
 メンバーは、秋のさわやかな風に吹かれながら、眼前に展開される大自然のパノラマに息を飲み、眺望を楽しんだ。
 丘の頂には、消防用ホースの筒先に似た、コイト・タワーが建っていた。サンフランシスコを愛し続けた富豪のリリー・ヒッチコック・コイト夫人によって、建てられた塔である。
 そのすぐ下の広場の中央に、長いマントを羽織り、胸に十字架をつけた一体の銅像があった。
 「あれは、誰の銅像なんだろう」
 山本伸一が言うと、正木永安が、銅像の台座に書かれた文字を見にいった。
 「山本先生、クリストファー・コロンブスです。アメリカ大陸を″発見″したといわれる、あのコロンブスです」
 コロンブスが、イタリアのジェノバの出身とされるところから、イタリア系の市民によって、一九五七年の十月十二日に建てられたものであるという。
 コロンブスが、アメリカ大陸到達の端緒となるバハマ諸島のワットリング島に上陸したのは、一四九二年の十月十二日のことであるから、その四百六十五周年に建造されたことになる。
 「十月十二日といえば、大聖人の大御本尊の建立と同じ日だね……」
 つぶやくように伸一が言った。その声には、深い感慨がこめられていた。
 もともとコロンブスの旅は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に、大陸の東の海上一、五〇〇マイルにある黄金の島「シパング」として記された、日本を目指しての旅であった。
 日本を黄金の国として紹介したマルコ・ポーロが、アジアに滞在していた一二七九年(弘安二年)、日蓮大聖人は日本にあって、一閻浮提総与の大御本尊を御図顕されたのである。
 実際の日本は、マルコ・ポーロが口述したような、黄金に輝く財宝の国ではなかった。
 しかし、大聖人の大御本尊の御図顕によって、全人類の幸福と平和を実現しゆく、大仏法の黄金の光が、アジアの東のこの島から、世界に向かって放たれたのである。
33  新世界(33)
 「シパング」に魅せられたコロンブスが、サンタ・マリア号、ニーニャ号、ピンタ号の三隻の帆船を連ね、スペインのパロスの港を出たのは、一四九二年八月三日の早朝であった。
 カナリア諸島を経由し、大西洋を突き進むこと七十一日、十月十二日に彼はワットリング島を見つけ、上陸した。
 大聖人の大御本尊の建立から二百十三年後の同じ日である。山本伸一は、そこに何か不思議な因縁を感じた。
 コロンブスが「サンサルバドル(聖なる救世主)」と名づけたその島は、彼が目指した「シパング」でも東洋でもなかった。そこは西洋人にとって、未知の新世界アメリカであった。
 しかし、これが、世界の歴史を画する、大航海時代の新たな一ページを開いたのである。
 コロンブスの到達の日から、今、四百数十年の歳月が流れようとしている。
 彼の航海は黄金を求め、植民地を求めての旅であった。一方、アメリカの先住民にとっては、それは侵略にほかならなかった。
 しかし、伸一の旅はヒューマニズムの黄金の光を世界にもたらす平和旅である。それは、世界の広宣流布への、大航海時代の幕開けであった。
 コロンブス像の前で、伸一たちの一行は記念のカメラに納まった。
 記念撮影が終わると、伸一はコロンブス像を見上げながら言った。
 「私たちは今、コロンブスと同じように、アメリカに第一歩を印した。
 しかし、私たちのなそうとしていることは、コロンブスをはるかにしのぐ大偉業だ。この地球に、崩れざる幸福と永遠の平和という新世界をつくろうとしているのだ。
 やがて二十年、五十年、百年とたつにつれて、きょうという日は、必ずや歴史に偉大な意義をとどめる記念日になるだろう……」
 皆、厳粛な思いで伸一の言葉を聞いた。
 しかし、その言葉の意味を実感するには、まだ長い歳月を待たなければならなかった。
 伸一は、海のはるか彼方を、じっと見つめた。
 赤い夕日のなかに、髪を風になびかせて立つ、彼のシルエットがくっきりと浮かんだ。
 伸一は、しばし動かなかった。彼は、己心の恩師戸田城聖に語りかけていた。
 「先生! 伸一は、先生のお言葉通り、新世界の広布のを開きました」
 降り注ぐ太陽の光を浴びて、彼の顔は、金色に燃え輝いていた。

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