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日蓮大聖人・池田大作

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お隣・中国とどう付き合うか 正しき歴史観をもて

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
2  「自分の国を悪く言うのは悪い」?
 ―― じつは、どうもここ数年、かつて戦争を起こした「国家主義」が復活してきている気がするんです。大手をふって……。
 書店でも、そういう本が、よく目につきます。「日本が戦争したのを悪い悪いというが、自分の国を悪く言うなんて、自虐(自分をいじめる)史観だ」などという論調です。侵略とか都合の悪い事実には頬かむりして、日本は「こんないいこともしたんだ」という。
 冷静な人なら、ごまかしはすぐにわかるんですが、ぼーっとしていると、何となく、その気にさせられる。そういう本が若い人に、驚くほど浸透しているんです。
 池田 本当に危険だ。悪い行動を反省するのを「自虐」と呼ぶなら、戦争を肯定するそういう人たちの歴史観は「他虐(他人をいじめる)史観」とでもなるのだろうか。まったく論理になっていない。しかし、それだからこそ危険なのです。
 ヒトラーの話だって、論理的には、めちゃくちゃだった。しかし、あれだけの人々を引きずり、大悲劇をもたらした。
 そもそも国家主義というのは、人の理性に訴えるよりも、どろどろした情念に訴えるものです。だまされないよう、しっかりした歴史観が大事です。
 中国に日本が何をしたのか、はっきり「事実」を認識しなければ、日本という国の「現実」も見えてこないでしょう。
 ―― 中国は「お隣さん」です。私は九州ですが、九州から中国へ修学旅行で行く学校も多いので、すごく身近です。
 日中の歴史を見つめることは、日本という国は「どう歩んできたか」「これから、どう進んでいくべきか」を知る″鏡″になると思います。
 池田 そうだね。賛成です。「日本と中国は、絶対に友好を結ばなければいけない」――これは私の小学生のころからの信念です。
3  アジア蔑視の心
 ―― 中国と聞くと、『三国志』『水滸伝』といった歴史物語が浮かびます。また「世界一の人口」「漢文や古文で出てくる中国の地方に行きたい」「宇宙から見える唯一の人工の建造物・万里の長城をつくったのは、すごい」という声もあがります。
 その一方、こんな声もあります。
 「中学の時、『外国人の転入生が来る』と言われて、みんなすごく喜んでいたけど、中国人と聞くと、『なんだー』とか言ったりしていた。その時は何とも思ってなかったけど、今になって、『これは差別だ』と思った」
 「自分の友達は、中国人と間違えられた時に、あわてて『いえ、私は違います。日本人です』と答えた。友人は『自分は中国に対して、どこか偏見があったのかと感じた』と話してくれました」
 日本人のアジア蔑視、中国蔑視は、残念なことに、今もあると思います。
 池田 本当に愚かです。欧米人相手だと畏縮し、アジア人相手だと優越感をもつ。本当に卑屈な国民性です。
 ある人が言っていた。「日本人は、国家と自分を切り離して考えられない。国の威勢がいい時には、自分まで偉くなったように思う。国に元気がなくなると、自分まで自信をなくしてしまう」
 確固たる「個人」が確立されていないからでしょう。だから、国をあげて「欧米の文化を取り入れ、欧米に追いつき、アジアを支配する」という目標を掲げた時、だれもが「右へならえ」してしまった。
 もちろん、そういう教育を徹底したことも言うまでもない。中国・韓国から文化を学んだ大恩を教えず、″劣等民族″のように教えた。アジアの人々を「日本人よりも劣る民族」のように言わないと、「日本がアジアを支配する」という大義名分も立たないからです。とんでもないことだ。
 ―― 教育が、政府の都合でゆがめられたんですね。皆、「国家による洗脳」に、のっけられてしまった……。
4  牧口・戸田先生の「眼」の確かさ
 池田 しかし、そうした中でも、理性を失わなかった人たちはいたのです。
 たとえば、こういう証言もある。日中戦争のさなか、牧口先生は、東京高等工学校(現在の芝浦工業大学)の講義で言われた。
 「中国人が嘘をつく民族のようにいう人がいるが、それは違う。もし、中国人がそんな民族なら、なぜ五千年にわたって偉大な文化を継承できたか。道理に合わないではないか」と。
 こう言って、「中国人を蔑視するのは間違いだ」と厳しく教えられた。生徒たちは皆、驚き、実に印象的だったようだ。
5  聖戦なんて嘘だ
 池田 また太平洋戦争の開戦のころのことです。日本の中国侵略は「聖戦」とされていたが、戸田先生は、ある軍人に言った。
 「聖戦?それは、中国にとっても言えることじゃないのですか? 日本の対支作戦(=中国に対する作戦)のみが聖戦で、中国の対日作戦がそうではないとする論理は成り立たない。そうでしょう? あそこには四億の民が暮らしているんですよ。その人たちの生活を破壊する聖戦などというものがあり得るでしょうか。聖戦とは、四海(=全世界)絶対平等と平和、生命の尊厳を犯すものに対して敢然と立ち上がる場合にだけ使われる言葉です」(島村喬『日蓮とその弟子たち』波書房)
 軍人は、戸田先生の言葉に、ほおを殴られたような衝撃を受けたそうだ。
 そして「戸田先生。これが私だったからいいようなものの、他の将校だったら多分先生は憲兵隊行きでしょう」(同前)――″当局に引っ張られますよ″と。
 ―― すごいですね。
 牧口先生、戸田先生は、こういう知性があったから、軍部権力に命をかけて抵抗できたんですね。
6  「人道は国家よりも上」と見抜け
 池田 知性と、そして勇気があった。
 国家主義というのは、一種の「宗教」なのです。ちょっとむずかしいかもしれないが。
 「国」というものが最高に尊厳であって、国のためなら民衆の命を犠牲にしてもかまわない――「国」を″神様″にした宗教が「国家主義」です。
 このことは、トインビー博士も言われていた。近代の国家主義は、信じるものがなくなった″心の空白″に、古代の「集団力への崇拝」が復活してきたものだ、と。
 しかし、絶対に国家主義は誤れる宗教です。「国のために人間がいる」のではない。「人間のために、人間が国をつくった」のです。これを逆さまにした″転倒の宗教″が国家信仰です。
 牧口先生、戸田先生は、「国家」の上に「人間の道」を置いていた。国は大事かもしれないが、人類共通の「人道」はもっと大事だ。日本も大切だが、「人類全体」はもっと大切なんだ、と。
 ―― 納得できます。
7  「心の空白」にファシズムが……
 池田 だから、人殺しなど「人道」に背いた場合、自分の国であっても、「悪いものは悪い」と言っていくべきなのです。
 ―― 「心の空白」という話がありましたが、今の若者の心もそうかもしれません。最近の「新・国家主義」が、若い人に″うけている″のも、何か、しっかりした心のよりどころがほしいという「心のすき間」に入ってきているのではないかと思います。
 池田 そうだろうね。個人の自由を抑圧するファシズム(全体主義)にとって、個人個人がしっかりしてしまうと困る。民衆の「心の空白」ほど都合のよい土壌はないのです。
 ―― 「日本が悪い」と言うと、「そんなこと言うと、元気が出ない。誇りがもてない。暗い気持ちになってしまう」とか言って、平気で史実をゆがめてしまうんですね。これも「心が空白」だからではないでしょうか。
 池田 そうだ。「事実を直視できない」というのは、心の弱さでしょう。
 ―― きちんと歴史的事実を探究して教えるというのではなく、日本の国がいかにすばらしいか、国のためなら全てを犠牲にすることが当然なのだと、たたきこむわけです。「公のために個を捧げるのは、いいこと」なんだ、と。
8  奉仕すべき「公」とは民衆・人類
 池田 問題は、その「公」がイコール「国」にすり替えられていることだ。
 前にも話したように、真実の「公」とは「民衆」であり、「人類」です。国は、民衆のため、人類のために仕えるべき、いわば「公僕」なんです。
 ともあれ、正しい歴史認識こそ根本です。過去をねじ曲げれば、未来までねじ曲がってしまう。事実は事実として、きちんと見つめなければ、世界の人と対話が成り立たない。ひとりよがりの「世界の孤児」になってしまう。
9  連行・略奪・虐殺――「日本はひどすぎる」と
 ―― 八十歳を超えたお年寄りに聞いたことがあります。戦前、中国・韓国の方々に対する日本人の偏見は、本当にひどかった、と。
 戦争に行っても、新米の兵士に「度胸だめしだ」――それだけで人を殺した。
 あの南京大虐殺。日清戦争でも、旅順での大虐殺。そのほか「上海事変での暴行」。「三光作戦(焼き尽くし、殺し尽くし、略奪し尽くす)」「毒ガス兵器」「細菌兵器をつくる人体実験(731部隊)」「従軍慰安婦」「強制連行」本当にひどい。それでも、ごく一部です。
 中国側の資料では、(一九三七年から四五年までだけでも)中国抗日戦争の中国側の犠牲者は、軍隊と民間を合わせて、実に三千五百万人とされています。その苦しみ、悲しみは計り知れません。
 池田 戦争ほど悲惨なものはない。戦争の悲劇を風化させてはならない。
 私の長兄も、中国戦線に行かされた。帰ってきて、「日本は絶対に悪い」「日本は本当にひどいよ。あれでは中国の人が、あまりにもかわいそうだ」――人のいい兄が、怒りをあらわにして言っていた。あれは、忘れられない。
 その兄も、ビルマ(現ミャンマー)で戦死です。母の悲嘆にくれた、さびしそうな背中が、今も目に焼きついています。
 戦争の痛ましさは、学会の「反戦出版」の、どの一冊を読んでも、わかる。青年部や婦人部の方々が中心になって残してくださった労作です。戦争を二度と起こさないために、「事実を伝える」ことが大事だ。
 ―― 創価学会が集めてきた庶民の戦争体験は、将来にわたって大きな意義がありますね。百万の家族に、百万の悲しみ、苦しみがあったと思います。いえ、もっとあったでしょう。
 その一部を読み返しました。何かあるとすぐ「きさま、それでも帝国海軍軍人か!」となぐられた十四歳の少年兵。報国看護婦として、足や腕がなかったり、患部にウジやシラミのわいた重傷者の手当てを続けた十七歳の少女。家が農家で、学校に白米の弁当をもっていくと、先生に「国賊!」と激怒された十七歳の少女。敗戦を告げる天皇の放送を聞いて「死ぬまで戦うんだ!」と泣きわめいた小学五年の男の子。
 終戦後も、シベリアの収容所で極寒の冬を迎えた十七歳の少年。そこにいた人は、やせほそって、目はおちくぼみ、手足は針金のようだった……。
 池田 残酷だ。国家主義の犠牲者です。しかも、この人たちは、まだ生きて帰ってこられたから、こうして証言を残せた。しかし多くの人たちが、戦争に青春を奪われ、未来を奪われ、家族を奪われ、自分の命までも奪われたのです。
 また、反戦出版には「加害者としての記録」もある。そこが大事なところです。
 ―― 「戦争は過去の大人たちの問題。それを若い自分たちが、どうとらえるべきでしょうか」という意見があります。
 学会の青年訪中団に参加した、九州の男子部の方の話を聞きました。
 南京大虐殺の記念館で献花をした。それを見守りながら、涙を流している中国の老婦人がいた。その方が話してくれたそうです。当時、六ヶ月の身重で、お腹には赤ちゃんがいた。そのお腹を、日本兵は何と銃剣で三十数カ所も刺したというのです。
 「本当は、話したくない……。でも、今、二十一世紀を前にして、皆さんのような青年に『戦争の愚かさ』だけは語り継いでおきたいんです」
 中国の人は日本の侵略の歴史を忘れていません。忘れられるはずがない。それなのに、多くの日本人は知らない。学校でも、日本が犯した侵略の大罪には触れず、戦争の勝ち負けとかを機械的に教えがちです。今思えば、それを「おかしい」と思えなかった無関心さこそ、こわいと思います。
10  「日本人は歴史健忘症」か
 池田 若い諸君には、過去の戦争への責任はない。しかし、未来への責任はある。現在への責任もある。平和を壊す危険な動きを認めてしまえば、その責任はある。
 よく日本人は「歴史健忘症」と言われる。過去のことは、都合の悪いことは、みんな流してしまう――哲学のない、経験を生かせない、軽薄な国民であるということを心配します。
 すぐに傲慢になる。裏を返すと、そこには、確固たる歴史観も哲学もない。今も、そうです。これが日本の現状です。とても信頼できない。
 中国の江沢民主席(当時)が言われたように、正しい歴史認識がなければ、将来は必ずまた不幸な、悲惨な歴史を繰り返しかねない。
 したがって、日本の国が、正しく過去の認識をし、反省しなければならない。それをもってこそ、将来の「新しい歴史」が、また「称賛される歴史」ができあがる。これが根本中の根本です。
 ドイツのユダヤ民族が迫害された。その悪を糺すために、最後の最後の、地球の果てまで、ナチスを追及し続けている、あの姿。あの執念。これが、正しい世界を打ち立てていく、平和を打ち立てていく方法であり、道であり、戦いであると私は思う。
 その点、日本はあいまいです。わざと誤解させるような教育までもさせている。絶対に、正しい歴史認識を、完璧に、教育をはじめ、その他あらゆる方法で教えきっていかなければ、日本人は信頼されません。信頼のないところに、平和は生まれない。過去をごまかして「日本人の誇りをもて」と叫んでも、世界から信頼されずして、本当の誇りなんかもてるはずがない。
11  「歴史のブラックホールが日本に」
 ―― ユダヤ人と言えば、先日、ユダヤ人の人権団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のクーパー副会長のインタビュー記事を見ました(毎日新聞)。同センターは今、日本の戦争犯罪を厳しく追及しています。その理由を、こう語っています。
 「昨年(一九九八年)、日本を訪問した際、731部隊の元隊員と話す機会があった。彼は自分の行為をいまだに誇りにしており、『日本には歴史のブラックホールがある』と痛感したことが問題を取り上げるきっかけになった。日本政府は731部隊などの戦争犯罪に関する歴史的な事実に関し、日本や米国、中国の歴史家に公式記録を開示して研究してもらい、日本人やアジアの人々に調査結果を示すべきだ。日本の若い世代は、第二次大戦で何が起こったかを知るべきだ」(「毎日新聞」一九九九年六月二十一日付)
 そんな厳しいクーパー副会長も、またハイヤー会長も、池田先生のことは特別に信頼し、尊敬しておられますね。
 戦中、戦後を通じて、一貫して国家主義と戦い、民衆の側に立ってきたのが創価学会です。(中国の)「北京日報」の元東京支局長、駱為龍らくいりゅう氏は言われたそうです。
 「日本の国家主義の台頭、右傾化は心配です。興味深かったのは(=日本の週刊誌を読んで)池田先生のことを名指しで嫌い、といってはばからない人間にかぎって、『南京大虐殺はなかった』とか『侵略戦争ではなかった』と言い出すことです。これなどは『池田先生が日本の平和を守る旗頭である』ことの逆説的な証明ですよ」(「聖教新聞」一九九九年六月二十九日付)と。
12  「文化の大恩の国」と尊敬
 池田 大事なのは「思想」です。まちがった思想が、不幸の元凶です。
 周恩来総理は言われた。″中国はたしかに、日本に踏みにじられた。しかし、私たちは、日本の人民を恨まない″――という立場であられた。「日本の人民も、中国の人民と同じく、ともに日本軍国主義の犠牲者です」と。
 だからこそ「反・軍国主義」の創価学会を、こよなく信頼してくださった。
 この「反・軍国主義」の一点で、日本と中国の民衆が連帯すべきです。とくに、日中の青年と青年が「心」と「心」を結ぶことです。そのためにも、まず日本の青年が、正しき歴史観をもつことです。中国を尊敬し、中国の大恩に感謝する心をもつことです。
13  日中国交回復への苦難の道程みちのり
 ―― 中国にいってきた高校生から、こんな感想を聞きました。
 「無錫むしゃくで高校生と交流会がありました。話す言葉は英語でした。勉強への熱心な取り組みが、はっきりわかりました。日本の高校生は、かなわないと思いました」
 「中国の同年代の子は英語がペラペラでした。あとで聞いたのですが、中国の学生は、私たちの朝の課外授業よりも早くから勉強しているそうです」
 「万里の長城で、女の子が気軽に日本語で話しかけてきてくれた。人間としての温かさを、とても感じました」
 「中国へ行って、たくさん友達ができました。みんな、いい人ばかりです。また、自分の意志をしっかりもっています。これは、私たち日本人の足りないところだと思いました」今、中国には、年間百七十万人もの日本人が訪れているそうです。
 池田 すごい時代になったね。二十何年前には、だれも想像できなかったでしょう。
14  戦後も中国敵視
 ―― 日本と中国の国交が「正常化」したのは一九七二年(昭和四十七年)です。
 お隣なのに、戦後もずっと正式な付き合いがなかったのですね。
 池田 そうです。法的には、きちんと戦争を終結せず、戦争状態がそのまま続いているという異常な関係だったのです。中国の「文化の大恩」も忘れられてしまっていた。
 それどころか、日本は中国を敵視さえしていた。中国の国際社会への仲間入りを応援しないばかりか、国連加盟に反対さえしたのです。
 ―― 中国にあれだけの被害をもたらしたのに、罪の償いもせず、さらに踏みつけるような日本だったのですね!
 池田 もちろん、ごく一部には、友好への努力を続けている人もいたが、大勢は中国敵視でした。その大きな背景には、東西の冷戦がある。共産主義と自由主義の熾烈な争いです。
 くわしいことは、諸君自身がさらに探究してほしいと思うが、大戦後も、アジアは激しい戦火にさらされた。あの朝鮮戦争、ベトナム戦争も、その悲劇です。
 自由主義陣営の後ろだてにはアメリカがいた。日本は、当時のアメリカの「中国敵視政策」に追従したのです。結局、「世界の人口の四分の一」を占めていた中国が、国連からも閉め出されていたのです。
 ―― 池田先生が「日中の国交正常化」を叫ばれたのは、そんな大変な状況の中だったんですね。(一九六八年〈昭和四十三年〉九月八日。二万人の学生部員を前に)
 これについて、ぜひ、いくつか、うかがっておきたいのですが、高等部員は「日中友好の後継者」ですから。
 池田 どうぞ! 遠慮なく何でも聞いてください。
 ―― ありがとうございます。先生が提言された六八年は、まだ日中関係の展望が見えない時期でした。厳しい状況のなか、なぜ、あえて、だれも触れない領域まで踏み込んで、提言されたんでしょうか。
 池田 この発言の時期は、非常に重要な時期だったのです。というのは、中国は、ソ連との対立、日本との問題、そしてアメリカの敵視政策などで「孤立」していた。日本も、貿易だけは、ある程度の友好的なものがあったけれども、それも、だんだん減ってきてしまっていた。まったくの孤立状態の中国を、私は非常に心配して見ていたのです。
 私は思った。政治家は、利害とか力の関係で、ものごとをはかる。しかし、大事なのは、多くの「人民」の幸福である。この百年、あれだけ苦しんで苦しんできた中国の人民である。
 また日本の民衆も戦争で、どれほどの苦しみを味わったか、わからない。
15  平和へ! 日中友好は必然の軌道
 両国の人民のために、絶対に未来への「友好」「平和」の道を今、敢然と開いておくべきである。
 中国を孤立化させ、十億の人民と友好を結ばないまま、アジアの安定があるはずがない。世界の平和もない。
 あらゆる次元から考えて、「中国と友好を結ぶ」、これが一切の平和のため、繁栄のため、すべての人類への貢献のために必要である。未来の世界人類を真剣に考えるならば、必然的な軌道であると考えたのです。
 日中友好を提言すれば、当然、強い反発があるだろう。しかし、私はあえて、一人の日本の人民として、中国を敬愛する一人として、「新しい歴史をつくる場合には、犠牲と非難を受けていく勇気が必要である」――その決意をもって、未来のために、歴史を開くために、講演をしました。宣言をしました。
 ―― 提言では、アジアと世界の平和のために、「中国政府の存在を正式に認めること」「国連における正当な席を用意し、国際的な討議の場に登場してもらうこと」「広く経済的、文化的な交流を推進すること」を訴えておられます。
 そして「日中の国交正常化」を主張され、具体的な道すじとして、日中の首脳会談を提唱されました。会場で聞いた人は皆、先生のすごい「気迫」に感動したそうです。
 (提言では次のようにも。「日中両国の間には、いまだにあの戦争の傷跡は消えておりません」「両国の前途を担う未来の諸君たちにまで、かつての戦争の傷を重荷として残すようなことがあっては断じてならない」「国際社会の動向のうえから、アジアはもとより、世界の平和のためには、いかなる国とも仲良くしていかなくてはならないということを訴えたいのです。核時代の今日、人類を破滅から救うか否かは、この『国境を超えた友情を確立できるか否か』にかかっているといっても過言ではない。ここで中国問題をあえて論ずるのも、この一点に私の発想があったためであることを知っていただきたいのであります」[昭和四十三年九月八日、第十一回])
16  命をかけて「民衆のために」
 ―― 当時、中国との友好を主張することは、命の危険さえあったと、先輩から、うかがいました。今でも、「あの戦争は侵略戦争ではなかった」などというような人間がいるわけですから。
 提言の前年にも、日中貿易の窓口だった東京の(中国側の)事務所が襲われています。また当時、日本の左翼勢力も、中国を非難していた。これは事実です。
 「提言」によって、「右」からも「左」からも攻撃されることになったわけですね。
 池田 たしかに、ずいぶん批判されました。アメリカのマスコミからも「宗教団体の指導者が、なぜ″赤いネクタイ″をするのか」(共産主義を支持するのか)と。日本からは右翼、左翼、政治家等々から、あらゆる悪口雑言をされました。
 しかし、それは、そんなことは、もう、当然です。だれが何と言おうと、中国と友好を結ばなければ、日本の生きる道はない。二十一世紀まで考えた場合に、日本は完全に孤立する。それも私には、はっきりとわかっていた。
 また、中国の文化の大恩に、ご恩返しをしなければならない。そして何よりも、中国を侵略し、暴力を振るい、苦しめ抜いた罪――この罪を消さなければ日本民族の正しき未来はない。そういう人道上の問題も、深く私は考えていたつもりです。
 ―― 先生の「提言」は、中国の「光明日報」の特派員・劉徳有記者が即刻、全文を翻訳し、中国に打電しました。それは、すぐに周総理のもとに届けられた。総理は熱心に読み、心から喜ばれたそうです。
 当時は、文化大革命の混乱から、中国でも、周総理が心血を注いで築き上げてきた日中友好の空気が、すっかりしぼんでしまった。それだけに″池田会長の発言が中日友好を救いました″――鄧穎超とうえいちょうさん(周総理夫人)は、後に振り返って、そう語っておられたそうです。
 七〇年三月には故・松村謙三氏(元文部大臣・厚生大臣・農林大臣)が、学会の渋谷国際友好会館に、先生を訪ねてこられたのですね。
17  「あなたに周総理に会ってほしい」
 池田 そうです。開口一番、松村先生は、私が行った日中友好への宣言に対して、「百万の味方を得たような気がします」――そう力強くおっしゃった。あの声は、耳朶から離れません。
 「ぜひ、私と一緒に周総理に会いに行ってください」と強く要請されました。
 会見には、山崎尚見副会長も同席していた。
 当時、松村先生は八十七歳。私はまだ四十二歳。松村先生は親のような気持ちで、「ぜひ一緒に周恩来総理にお会いしていただきたい」と何回も私に言われた。私は「必ずまいります」と申し上げました。
 ただ、私は「ありがたいお話ですが、私は宗教者であり、創価学会は仏教団体です。国交を回復するのは政治の次元でなければできません。ですから、これは私のつくった公明党の議員を、松村先生に紹介させていただき、よく指導を受けて、訪中することがいちばん正しいと思います」。こう言いました。
 松村先生は「それでは、周総理に、公明党のことを、まず、よくお伝えしておきます。その後、いつか、池田会長自らが、おいでください。あなたに私は行ってもらいたいのです」。
 このように話の結論はなりました。そのとおりに、松村先生は真剣に段取りをはかってくださった。
 ―― 「提言」の真価を、見る人は鋭く見ていたのですね。
18  総理から「池田先生によろしく」と
 ―― こうして、中国からの招聘を受けて、公明党代表が三度、訪中したわけですね。
 池田 公明党の訪中団に対しては、こういう趣旨を伝えました。「あくまで誠心誠意、中国の指導者の話をうかがい、誠心誠意、友好を進めることだ」と。
 誠心誠意。これが私の出発点であり、結論です。
 その心を周総理はわかってくださった。
 また、「私の名前は一切、出す必要はない」と訪中団に伝えました。
 ―― しかし、会見の際に、周総理のほうから公明党の代表団に「池田先生によろしくお伝えください」と言い出されたのは、有名な話です。
 総理のこの発言について、中日友好協会の黄世明副会長は言われました。
 「今、考えますと、周総理の一言は、池田先生の中国問題に対する提言、あるいは態度と政策を称賛し、敬意を表した意味が込められていたのではないか、との思いがいたします」(「聖教新聞」千九百九十八年九月七日付)と。
 「提言」は松村氏だけでなく、各方面から大きな反響があったと聞いていますが。
 池田 もう一人、お会いしてはないが、当時、中日友好で、いちばん、関係の深かった学者に竹内好先生がおられた。竹内先生は私の提言に対して「光りはあったのだ」と有名な文章を書かれた。(「潮」一九六八年十一月号掲載)
 また、文化人では作家の有吉佐和子さんをはじめ何人か、中国をもう訪問しておられて、中国の指導者の私に対する要請など、連絡をいくつか、もらいました。
 ―― 七一年に中国は、ついに国連に復帰。劇的な″米中接近″を受けて、七二年九月に、とうとう日中国交正常化が実現します。
 先生の初訪中は七四年の五月から六月。周総理は会いたいと念願されていた。しかし、ちょうど先生の初訪中の最中に、総理はガンで入院。会見は不可能でした。
 出会いが実現したのは、一九七四年の十二月でした。ガンに深く侵されていたにもかかわらず、周総理は「池田会長には、どんなことがあっても会わなければならない」と、医師団の強い反対を振り切っての会見でした。
 そのことは、夫人の鄧穎超とうえいちょう女史が証言されています。
 (「あの時、恩来同志は、池田先生に会いたがっていました。しかし、恩来同志の健康管理をしている三〇五病院の医師団は、全員が反対しました。『総理、もし、どうしても会見するとおっしゃるなら、命の保証はできません』と。恩来同志は言いました。『池田会長には、どんなことがあっても会わねばならない』。医師団は、どうしてよいかわからなくなり、私のところへ相談に来たのです。会見をあきらめるよう、私から恩来同志を説得してほしいと。私は答えました。『恩来同志が、そこまで言うのなら、会見を許可してあげてください』。そうして、あの夜の出会いがあったのです」[『私の政界交友録』2。本全集第百二十三巻収録])
 池田 お会いしたときに、総理は言われました。
 「二十世紀の最後の二十五年間は、世界にとって最も大事な時期です。すべての国が平等な立場で助け合わなければなりません」
 また「中日平和友好条約の早期締結を希望します!」と鋭く言われた。
 (=「平和友好条約」は、その名前で名誉会長が、かねてから提言していた。一九七八年(昭和五十三年)に実現した)
 総理は私に「あなたが若いからこそ、大事につきあいたいのです」と言ってくださった。総理は七十六歳。私は四十六歳でした。
 「五十年前、桜の咲くころに、私は日本を発ちました」
 そう懐かしむ総理に「もう一度、ぜひ桜の咲くころに来てください」と私が言うと、「願望はありますが、もう無理でしょう」と残念そうに言われた。
 そのお心をくんで、創価大学に「周桜」「周夫婦桜」を植えたのです。
 「周桜」の碑は、中国の方向に向けて建ててあります。今も毎年、大勢の方が集まって総理をしのんでいます。
19  「日本の人民も犠牲者だから」と
 ―― じつは周総理は、すでに六〇年代の初めから創価学会に注目されていたのですね。
 池田 そうです。「二十世紀の諸葛孔明」であられるあの聡明で緻密な総理が、もう何年も前から、「創価学会をよく調べるように、よく認識するように」と指示されていたのです。
 ―― 「創価学会は、民衆のなかから立ち上がった団体である」その一点を高く評価しておられたと聞いています。
 池田 総理の発想の原点は、いつも「大衆とともに」「大衆のために」「人民のために」であった。中国の人民だけではない。日本の人民、世界の人民のことを考えておられた。
 総理は、日本人にとっても大恩人の指導者なのです。総理は日本への「戦争賠償の請求権」を放棄することを決断された。
 (周総理は、″日本の人民も、間違った軍国主義の犠牲者であるから、賠償を求めて、日本の人民を苦しめたくない″との考えだったとされる。日中友好協会会長を務めた宇都宮徳馬氏によれば、賠償金が、仮に五百億ドルとすると、年に十億ドルずつ払っても五十年かかる。しかも日本の外貨保有量が二十億ドルぐらい〈六五年ごろ〉の時代であった)
 もしか、この賠償金を払っていたならば、日本の今日は絶対ありえなかった。それを助けてくださった。
 この一点だけでも、周総理の大恩を、永久に日本は忘れてはならない。中国に大恩を返さねばならない。
 ―― 何か、ものの見方が、もう全然、ふつうの指導者と違うという感じですね。
 池田 周総理は、中国の人民にとっても、世界の人民にとっても、抜きん出た指導者でした。
 三年前(一九九六年)、キューバのカストロ議長と長時間、一対一で話し合いをしました。談たまたま周総理の話になった。そのときのカストロ議長の、あの態度、あのまなざし、雰囲気。これは格別でした。周総理のことを「本当に立派な大指導者であった」と。その言葉が印象深く残っています。すべてを含めた象徴的な言葉でした。
 ―― 鄧穎超とうえいちょう夫人からは、総理愛用の「象牙のぺーパーナイフ」と、夫人が愛用しておられた「玉製の筆立て」が先生に贈られたのですね。総理の「形見」ですから、すごいことですね。
 池田 私の宝というより、学会の宝であり、日本の、世界の宝です。
20  新中国から初の留学生は創大へ
 ―― 創価大学は、日本でまっ先に新中国からの留学生を受け入れました。これは私たちの大きな誇りです。
 九〇年、中国が国際社会で孤立しそうな時にも、池田先生は三百人の大親善交流団とともに訪中されました。
 中国の深圳しんせん大学への留学経験者から、「中国の本屋さんで池田先生の書物を置いてない店はないよ。私が日本人だとわかると、必ず池田先生のことを質問された。周総理と会談されたことは、とても有名で、みんな池田先生のことをよく知っている。尊敬している」と聞きました。
 中国にも、日本にも、「自分が日中友好の礎に!」と、日々、奮闘しておられる創価学会員が、たくさんいます。
 また今年の「中国京劇団」をはじめ、先生は文化の交流で「現代のシルクロード」をつくってくださっています。
 今、中国の大学等から「名誉教授」「名誉博士」の栄誉が約二十も先生に寄せられていますが、これも、絶大な信頼の証だと思います。
 池田先生と周総理の深い信頼の絆――。それが原点になって、日中を結ぶ「金の橋」は今、燦然と輝いています。
 しかし、その一方で、過去の歴史の過ちを隠し、美化しようとする人間が多いのも事実です。中国の経済成長などを背景に「中国脅威論」を煽る論調も出ています。
 二十一世紀の日中関係は、どうあるべきでしょうか。
21  「アジアが信頼」してこそ平和・日本
 池田 経済の交流も大事です。政治の対話も大事です。しかし、根本に「心」がなければ、真の友好はできない。
 そして「未来永遠に、中国と友好関係を結んでいく」以外に日本の生きる道もない。日本は、中国をはじめアジアから本当に信頼される国になってはじめて「平和国家」となれるのです。
 ゆえに、そのためにも、過去の歴史的事実を正確に知り、形式的でなく、中国の人たちの「心に届く」謝罪をしていかなければなりません。それが大前提です。
 「心」が通わなければ、何をしても、ぎくしゃくして、うまくいくわけがない。
 かつて私は人民大会堂で、中国の首脳に言いました。もう何十年も前のことです。「貴国は必ず大発展するでしょう。日本を、やがて追い越していくでしょう」今、だんだん、そうなりつつある。
22  中国と米国、東洋と西洋の「橋渡し」を
 ―― 「改革・開放」の流れは、もう後戻りしないと言われています。
 池田 その「改革・開放」の流れも、もとは周総理がレールを引いたものです。今、旭日のごとき発展を始めた中国の姿を、だれよりも総理が喜んでおられるでしょう。
 ともあれ、トインビー博士は語っておられた。「中国こそ、世界の半分はおろか世界全体に、政治統合と平和をもたらす運命を担っていると言える」(『二十一世紀への対話』。本全集第三巻収録)と。
 ″米中国交の立役者″アメリカのキッシンジャー博士(元国務長官)も、ニューヨークで再会した際に、私に言われた。「中国はさらに力をつけるでしょう。アメリカと中国は、もっと強力な絆を結ぶべきです」と。
 アメリカと中国と、二つの大きな軸を中心に、「アジア・太平洋の時代」が幕を開けると考えられる。日本が「国家主義」などの時代遅れの考えに染まると、米中の「谷間」になって孤立し、世界から相手にされない国になってしまう。
 米中の谷間になるのではなく、東洋と西洋の両大国の「橋渡し」をする日本でなければならない。
 それが「世界平和」への日本の大きな貢献です。
23  人間主義で世界と友好を結べ!
 池田 「国家主義」ではなく、「人間主義」で、全世界と友好を結ぶのです。友好を結ぶのが、いちばんの安全保障です。
 戸田先生は、「資源なき日本は、人材を資源にせよ」と言われた。
 優れた人材が各分野に育ち、世界に打って出て、その地、その国のために尽くしていく。そういう国を、どこだって、攻めるわけにはいかない。
 そのような、世界の民衆から尊敬され、称賛される国にならなければいけない。
 その舞台で活躍するために、今、諸君は頭脳を鍛え、体を鍛え、心を鍛えてもらいたいのです。
 ―― 友好のためにも「語学」が大事だと思います。九州高等部でも、中等部と合同で、十二月に「スピーチコンテスト」を予定しています。今回、「英語」に加えて、初めて「中国語」と「韓国語」の部門ができました。一人でも多くのメンバーが挑戦し、将来、友好の使者として活躍してくれることを祈っています。
 池田 中国にも、どんどん行ってもらいたい。そして、どこまでも「中国のために」「人民のために」尽くし抜く人が、たくさん出てもらいたい。そうなることが本当の日中友好です。そういう人がたくさん出てくれば、私は、どんなにうれしいか。
 日中の青年が手を取り合って、人民に尽くしゆく――そんな二十一世紀を、今は亡き周総理夫妻も、目を細めて喜んでくださることでしょう。

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