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日蓮大聖人・池田大作

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生と死 生きるって素晴らしい! この「今」を一分も無駄に使うな

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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1  池田 一九九九年。二十一世紀へ、いよいよ「秒読み」の段階に入った。諸君の時代です。諸君に託す以外にない。
 どうか二十一世紀を「すばらしい世紀」にしていただきたい。一人一人の「いのち」が最高に大事にされる世紀にしてほしい。
 すべての「差別」がないように! いじめがないように! 戦争がないように! 殺人がないように! 飢えて泣く子どもがないように! 絶望して自殺する母や子のないように! 自然破壊がないように! 学歴主義がないように! 拝金主義がないように! 人権を「宝」として大事にするように! 悪い政治家は民衆が罰する「民主社会」を! 嘘をつくようなマスコミは、だれも相手にしない「賢い社会」を!
 かけがえのない一人一人の夢が、個性が、絢爛と花開く新世紀をつくってもらいたい。そのためには、諸君自身が勝利することだ。諸君自身が、「哲学」と「慈愛」をもった人間に成長することだ。「実力」と、人の心がわかる「ハート」を兼ね備えた人間に成長することだ。諸君の勝利こそが、二十一世紀の勝利なのです。それしかない。
 ―― 頑張ります。「生命の世紀」を必ず、つくっていきます。
2  君よ 正しき「生死観」をもて!
 池田 「生命」を、どうとらえるか。その生命観、生死観、人間観が、一切の根本となる。今、日本は闇のように暗く、完全に行き詰まっている。多くの世界も行き詰まっている。行き詰まりの根っこは何か。
 「生と死」といういちばんの根本問題の狂いです。指導者も民衆も、「生死」といういちばん大事な問題を考えず、避けて、ごまかして、目先の欲望だけを追いかけてきた。その「しっぺ返し」が今、現れている。
 だから、その根本問題に立ち返らないで、どんなに表面的な対策を繰り返しても、変わらない。病気の原因を治さないで、一時的な痛み止めなどで、ごまかしているようなものです。よくなるわけがない。
 トインビー博士も言われていた。
 「今の世界の不幸は、各分野の指導者が、『死』という根本問題から目をそむけて、考えないところに原因があります」と。
 ―― だから、生命の尊さもわからないということですね。
3  なぜ「生命を最優先」しないのか
 池田 公害もそうです。
 あの悲劇の水俣病に対する対応を見ても、企業も、役所も、政府も、「生命を第一に大切にする」という発想は、まったくなかったと言っていい。あまりにも冷たい、あまりにも経済主義の、官僚主義の対応でしかなかった。
 企業がタレ流す水銀のせいで、健康そのものだった人が、手足がしびれ、曲がり、動けなくなる。神経を侵され、痙攣し急死する人。生まれた時から目も耳も働かず、会話もできない子。何の罪もない人々が、″生き地獄″に苦しみ抜いた。
 しかし、公害病として認定されたのは、患者の発生から何と十五年後です(一九六八年)。どうして直ちに手を打たなかったか。理屈をこねる前に、どうして、かけがえない命を救わなかったのか。
 (十五年の間に、熊本県水俣湾周辺の患者は、当時、認定されただけでも死者四十二人、患者六十九人に達していた。六十九人のうち二十人は、胎児性水俣病である。補償交渉の中で、患者さんたちは、あまりにも不誠実な対応に激怒し、こう叫んだ。
 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」(石牟礼道子『苦海浄土』講談社)
 純朴な人々に、ここまで言わせるまでの非道が続けられていたのである。その後も悲劇は拡大した)
 大企業にせよ、官庁にせよ、政治家にせよ、「一流大学」といわれる大学を出た人々が、いっぱいいた。そういう人ばかりと言ってよい。
 そのいちばん優秀なはずの人たちが、「人間として」大きく何かが欠落していた。恐ろしいことです。教育の根本的過ちがある。生命哲学がない。ヒューマニズムがない。
 ―― 本当に、そう思います。
4  「使命があるから」生まれてきた。
 池田 諸君は若いから、「死」といっても、ピンとこない人も多いかもしれない。それはそれでいい。
 しかし若いからこそ、真摯に「生命とは何か」「死んだらどうなるのか」「何のために人間は生まれてきたのか」ということを考えてほしいのです。しっかりした「生と死の哲学」をもった大人になってもらいたい。
 ある哲学者は「死を意識するかいなか――それが、人間と他の動物との違いである」と言っている。
 ―― 「死を身近に感じた」という東京の高等部員がいます。
 彼は陸上の選手です。一年生の年の十二月、後方宙返りの練習をしていて失敗し、頭から落ちてしまった。
 「頸椎脱臼骨折」「頸髄損傷」。じつは、即死していてもおかしくなかったそうです。
 手術は六時間におよびました。成功したものの、「当たり前のように動かしていた体が、人の手を借りないと動かせない」状態。そんな自分が、みじめでたまりません。
 年が明けた一月二日。池田先生から励ましの句をいただいたのです。
 「使命ある 君が健康 祈る日々」
 感激して、病気と闘う勇気が、命の底から、わいてきたそうです。題目をあげ、リハビリも頑張って、四月三日に退院。今では普通に学校に通い、陸上も続けています。
 彼は言っています。
 「即死していたかもしれない自分が、今、こうして元気にしていられる。本当にうれしい。このけがを通して、改めて御本尊様のすごさを感じました。これからは高等部員として、池田先生からいただいた句にあった『使命』ということを、しっかりと考え、ぼく自身の『使命』を必ず果たしていきます!」
5  全宇宙が大生命
 池田 よく頑張った! どんな人にも必ず「使命」がある。使命があるから生まれてきたのです。だから、何があろうと、生きて生きて生き抜かなければならない。
 使命――何に「命」を「使」うか。自分は、どんな「命」を受けて宇宙から「使わされた」のか。派遣されたのか。
 仏法では、全宇宙を「ひとつの巨大な生命」と見る。個々の生命は、その大海の波のようなものです。波が盛り上がれば「生」。波が宇宙に溶けこめば「死」。生も死も、宇宙と一体です。
 ひとつの生命が生まれてくるには、全宇宙が賛同し、全宇宙が協力している。全宇宙が祝福して送り出してくれたのが、諸君なのです。
 生命の尊さは平等です。生命には序列がつけられない。生命には、それぞれ個性がある。どの人の生命も、全宇宙と同じように尊い。全宇宙の生命と一体であり、同等の重さをもっている。そのことを日蓮大聖人は、こう仰せだ。
 「命というのは、一切の宝の中で第一の宝である」(御書一五九六ページ、通解)
 「命というのは、全宇宙の財宝をもっても買うことができないと、仏は説かれている」(御書一〇五九ページ、通解)
 「一日の命は、全宇宙の財宝よりも尊い」(御書九八六ページ、通解)
 だから絶対に自殺はいけない。絶対に、暴力はいけない。人を傷つけてはいけない。人をいじめてはいけない。尊い生命を傷つける資格など、だれにもありません。
 ―― ある人は「『いじめ』にあって落ち込んだ時、『なぜ、こんなつらい世の中に生まれてきたのか』と思いました。私は、なぜ生まれてきたんでしょうか」と悩んでいました。
 池田 なぜ自分は生まれてきたのか。それを探求するのが青春です。
 青春は「第二の誕生」の時だ。一回目は肉体の誕生。青春時代は、真の「人間」として生まれ出る時です。だから苦しい。だから悩む。卵からヒナが生まれるときみたいに、もがく。
 そこで、絶対にあきらめてはいけない。もがきながら、祈り、考え、学び、友と語り合い、今なすべきことに、ぶつかっていくことだ。あきらめずに挑戦していけば、必ず、自分にしかできない自分の使命がわかってくる。
 ―― はい。途中であきらめたら卵は割れません。
6  「歩み通した人」が最後の勝利者
 池田 悩みに負けてはいけない。悩みに負けた人間は、もう人間としての「新しい誕生」はない。動物のように、本能的に生きるだけの人間になってしまう。それは魂の「死」です。
 諸君はゴルバチョフさんを知っているでしょう。ソ連の元大統領です。私の友人です。冷戦を終わらせた人だ。「こんな馬鹿げたことは、もうやめよう!」と言って、″人類全体が幸福になる道″を求め、決然と一歩を踏み出した英雄です。
 ソ連の最高権力者だったのだから、国内では「全能」と言えるくらいの力があった。権力の砦の中で、安楽に暮らすこともできた。しかし、ゴルバチョフさんは、あえて険しい道へ歩み出したのです。殺されかけたり、裏切られたり、迫害にあいながらも、「人間を大事にする社会」への夢を捨てなかった。(=名誉会長は元大統領と対談集『二十世紀の精神の教訓』〈本全集第一〇五巻収録〉を発刊)
 ゴルバチョフご夫妻が関西の創価学園に来られたとき(一九九七年十一月二十日)、夫人のライサさんは、こんな話を学園生にしてくださった。
 「人生には、さまざまな痛手を受けることも、心の傷が癒えぬこともあります。必ずしも夢のすべてが実現するわけでもありません。しかし『達成できる何か』はあります。『実現できる夢』はあるのです。ゆえに、最後に勝利する人とは、たとえ転んでも立ち上がり、再び前へ進む人です。そして、そういう戦いを貫いていけるかは、『心』いかんによるのです。『死』を迎えるのは『疲れた人間』ではなく、『歩みを止めた人間』なのです。きょうはまだ若いと思っていると、あすには成熟期を迎える――人生とは、そういうものです。やがて皆さまは、家族、祖国、そして地球全体に対する責任を負うようになります。皆さまの夢がかないますように! すばらしいことが人生に起こりますように! 幸福でありますように!」(「聖教新聞」一九九七年十一月二十一日付)
 ―― すばらしい言葉ですね。
 池田 ご夫妻には、言うに言えない、つらい日々もあった。
 「それでも私たちは生き抜いてきました。生きて、戦ってきたのです」と述懐しておられた。
 今、諸君は「生きている」。それがどれほどすごいことか。この「宝」を無駄にしてはならない。
 ロシアと言えば、前にも話したが、作家のドストエフスキーは、処刑場で銃殺されることになってしまった。
 自分の順番を待ちながら、こう思った。五分後には自分も柱に縛りつけられ、撃たれて、この世にいなくなる。
 この貴重な五分間を無駄にしたくない。最後に残された宝物だ。大切に、大切に使わなければ!
 彼は五分間を三つに分ける。二分間は瞑想に使おう。二分間は友との別れに、そして残りの一分は、この世を見つめることに使おうと。そして、もしも助かったならば、「一瞬」「一瞬」を、まるで「百年」のように大事にして、絶対に一瞬も無駄にしないと誓うのです。
 ―― すごい極限の体験ですね。
7  生命を完全燃焼
 池田 しかし、考えてみれば、五分後でなくとも、人間は必ず死ぬ。100%、これほど確実なことはない。ユゴーは「人間は生まれながらにして死刑囚である」(『死刑囚最後の日』斉藤正直訳、潮出版社)と言った。
 だから本当は、だれもが一分、一分を「百年のごとく大切にして」生きるべきなのです。だらだら生きただけの人生は、むなしい。生命を完全燃焼させた一生は、安らかな死を迎えられる。
 レオナルド・ダ・ヴィンチは「あたかもよくすごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)と言った。
 自分がいつ死ぬかわからないと自覚した人は、一日一日を全力で生きるに違いない。駆けっこだって、ゴールがあるから全力で走れる。
 ―― 死を見つめることで、生が充実する……。たしかに、死がなければ、人生も、のんべんだらりとしてしまうと思います。
 試験がないと勉強しないみたいに。
 池田 そうだろうね。人間が死ななければ、いいように思えるが、きょう頑張らなくても、十年後、二十年後に頑張ればいいということになってしまう。いな、それすらもしなくなるでしょう。人間は堕落してしまうに違いない。
8  生命を鍛える信仰が必要
 ―― 「死」のことを真剣に考えないで、毎日をぼんやりと生きている人も、同じようなものかもしれません。
 池田 「死」を前にしては財産など役に立たない。地位も、名誉も、学歴も役に立たない。裸の自分自身の「生命」そのものの勝負です。
 生命が充実しているのか。生命がむなしく、弱く、しぼんでいるのか。
 だから、生命を鍛える信仰が必要なのです。
 ―― しかも、その「死」は、いつくるかわからないわけですね。少しも時を無駄にはできません。
 池田 無駄にできない。
 私は「一日を一週間に!」が毎日の習慣になっている。だから百年たらずの人生でも「何百年分の価値」をつくってきたつもりです。
 (=南アフリカのマンデラ大統領は言った。「池田博士が、この二十年間に成し遂げられた業績に肩を並べ得る人物は歴史上、ごくわずかでありましょう。博士の活動は、かつてないスケールで世界の指導者、国際機関に広く認知され、称賛され、今やワシントンから北京に至るまで、平和・人権・教育の第一人者として認められています」〈一九九五年十月、大統領が総長であるノース大学の名誉博士号を名誉会長に贈るさいに〉)
9  「われ、後悔なし」と
 ―― そうやって、毎日を真剣勝負で生きれば、「悔い」がないですね。
 池田 使命感です。使命感ほど強いものはない。
 フィリピンの独立の英雄、ホセ・リサール博士は、自分の使命に殉じて、銃殺された。しかし博士は、遺言にこう書いた。
 「私は、自分のしてきたことを後悔してはいません。もし、もう一度初めからやり直すとしても、同じ道を歩むのでしょう。なぜなら、それが私の使命なのですから」(カルロス・キリノ『暁よ紅に』駐文館訳、駐文館)
 ―― ″もう一度行くならば、また、この道を行くだろう″、こんな人生を私たちも歩みたいです。
 池田 そのためにも確固たる「生死観」が必要になる。人間は死んだらどうなるのか。仏法ではそれをどう説いているか。それを次で論じよう。
10  死後、生命はどうなるか
 ―― 「人間は、なぜ生きているんだろう」「どうして死ぬんだろう」「死んだら、どうなるのだろう」だれもが一度は考える問題です。
 ある高等部の友は、叔父さんの死を目の当たりにして、考え込んでしまったそうです。
 「魂の抜けた人間は、まるで蝋人形のようだった。その人間の形をしたものは何だったのだろうか?」と。
 また、こんな人もいます。
 「悩んで、つらい時、『なんで生きているのだろう』と考えたことがありました。よくわからなくて、生きているのが悲しくなりました」
 「祖父が死んだ時、生と死について考えました。『人はなぜ、こんなに簡単に死んでしまうのだろう』と。そして生前、何もしてあげられなかった自分を悔やみました」
11  生死の課題は根 他の悩みは枝葉
 池田 そうやって「死」を考えること自体が尊い。「人間」である証明です。大人になると、忙しさにまぎれて、だんだん、そういう根本的なことを考えなくなる。しかし「生と死」というテーマは、一生をかけて、自分自身が探求していくべき重大問題です。
 木で言えば、根っこのようなものだ。人生には、さまざまな悩みや課題があるように見えるが、それらは枝であり葉であり、すべて根本の「生死」という課題につながっている。
 ―― 「今は、まだ若いんだから、もっと年をとって、死にそうになってから考えればいいんじゃないか」と言う人もいますが……。
 池田 たとえば、こう考えたらどうだろう。ここに高校一年生がいるとする。一年生の間の「一年間の計画」を立てようと考えた。ところが、それは「高校の三年間をどう過ごすか」が決まらないと決めようがない。
 ―― それはそうです。
 池田 では三年間の計画を立てようとする。ところが今度は「卒業したら、どうするのか」が決まらないと、三年間の計画もできない。
 ―― 進学するのか、就職するのか、せめて方向性だけでも決まらないと、たしかに三年間をどう過ごすか、決めようがありません。
 池田 それと同じで、「人生をどう生きるか」と考えても、人生の″卒業後″すなわち死後、自分は一体どうなるのか、まったくわからないままでは考えようがないのです。
 ―― あっ、そうなりますね。
12  若き哲学者よ「生死の探求」を!
 池田 だから青春時代にこそ、若き哲学者として「生と死」を探求すべきなのです。もしか、死後、まったくの「無」であったら、人生、好きなことをやって、行き詰まったら死ねばいい……ということになりかねない。
 ―― たしかに、高校生だって、卒業後が「無」だったら、苦しい努力なんかしないと思います。
 「死後は無い」と考えると、″面白おかしく生きるための努力″は多少するでしょうが、それ以上に、自分を磨いたり、人に尽くしたりする努力はしなくなるでしょうね。
 池田 もちろん実際には、だれもが無軌道になるわけではない。それは社会的制約のせいだけではなく、人間は心の奥底では、生命が永遠であること、人生には歩むべき「正しき道」があることを直観的に知っているからではないだろうか。
 ―― 「死後が無だからこそ、現在を充実させて生きよう」と言う人もいます。ただし、だれもがそう思えるわけではありません。
 池田 現代では「死後は完全な無」と考える唯物的思想が広まってしまっている。倫理とか道徳などが「口先」だけになってしまった根本の理由が、ここにあると私は思う。
 ドストエフスキーは傑作「カラマーゾフの兄弟」で、兄弟の一人イワンに、″神がいないとすれば、この世に犯罪なんてあるのか? 「してはならない悪」など無くなるのではないか?″という思想を語らせている。
 「神」を「死後の生命」と置きかえても、同じことになるでしょう。だれもが″見つかりさえしなければ何でもする″という世界になってしまう。
 ―― 実際、そうなりつつあります。
13  人間は「生きる意味」を求める動物
 ―― 「『死んだら終わり』なんでしょうか?それなら、すべてはむなしいということになるのではないでしょうか?」という声もありました。
 池田 人間は「生きる意味」を求める動物です。それさえあれば、どんな苦しいことでも頑張れる。それがなかったら、他のすべてがあったとしても、むなしい。心は、ゆっくりと死んでいく。
 そして、高校一年生という期間に意味を与えるのは「高校三年間の展望」だったように、「より大きな展望」に立ってこそ、″意味″は見えてくる。
 だから、この一生を生きる意味は、生前と死後という「より大きな展望」に立たないと見えてこないのです。だから「生死観」が大事なのです。
14  宇宙生命は大海個々の生命は波
 ―― 仏法では「生命は永遠」と説きます。前に、「宇宙全体が巨大な生命であり、大海のようなもの。個々の生命は、その大海の波のようなもの」と教えていただきました。
 そこでは、波が盛り上がれば「生」。波が宇宙に溶けこめば「死」ということでしたが、今ひとつ、よくわからないのですが……。
 池田 戸田先生は「池に、インクをたらすと、溶けて見えなくなる。これが死だ。その後で、スポイトか何かで、インクの成分だけを集めたとする。これが生だ」と言われたこともある。
 ―― 溶けこんでも、個々の生命の主体が無くなるわけではないのですね。
 池田 「無」ではない。いつか縁に触れて、また「生」の状態になるのだから。それでは「有」かというと、まったくどこにも存在しない。宇宙の″ここ″にあるとか″あそこ″にあるとかは言えない。宇宙の全体と一体になってしまっている。「無」でも「有」でもない。これを「空」という。
 譬えで言えば、今、世界には、無数の電波が飛びかっている。今、ここにもテレビやラジオのいろんな波長の電波がある。日本の電波もあれば、海外の電波もある。
 「有る」といっても、見えもしないし、聞こえもしない。匂いもないし、さわることもできない。しかし受信機や受像機があって、その電波の波長に合わせれば、音が聞こえ、映像も見える。
 ―― テレビの受像機が「縁」になって、見えない波長が見える映像になったわけですね。
 池田 波長にとっての「死から生」への転換といえるかもしれない。もちろん、これは譬えだが――。
 そのように生命は宇宙に溶けこんで、互いにぶつかりもしなければ、おぶさったり、手をつないだりもしていない。それぞれが宇宙と一体になりながら、しかも個性が連続しているのです。
15  生前も色心不二、死後も色心不二
 ―― それは「霊」とか「霊魂」とかとは違うんでしょうか。
 池田 絶対に違う。「(実体的な)霊魂のようなものはない」と説くのが仏教です。「生命」は「色心不二」と言って、生きている時も死後も、「肉体的エネルギー」と「精神的エネルギー」は分けることはできない。一体不二です。
 「魂」だけが、フワフワと体から抜け出し、そこらを飛び回るというのは迷信です。あくまで「心身一体」である「生命」が宇宙の大生命に溶けこみながら連続していくのです。
 ―― その場合、「精神エネルギー」と言っても、死んで「脳」が破壊されているわけですから、どうなるのでしょうか。今、多くの人が「死んだら何も無い」とする理由の一つは、「脳」イコール「精神」なのだから、脳細胞の死とともに精神も消滅すると考えるからだと思いますが……。
 池田 大事なところです。くわしくは、いろんなところで論じてきたので、また勉強してもらいたいが、ポイントは「脳は精神の活動する″場″であって、脳イコール精神ではない」ということです。そう考えられる。
 たとえば、フランスの大哲学者ベルクソンは、精神を「洋服」に、脳を洋服を掛ける「クギ」に譬えた。クギがなくなると――つまり脳が死ぬと、洋服は下に落ちる。つまり精神活動はできなくなる。しかし「クギ」イコール「洋服」ではない。(「心と身体」澤瀉久敬責任編集『世界の名著53 ベルクゾン』所収、中央公論社、参照)
 ―― ベルクソンと言えば、十九歳の池田先生が、初めて座談会に誘われた時、「生命哲学」と聞いて「ベルクソンですか?」と問い返したという、あの人ですね。
 池田 そうです。ベルクソンが活躍したのは、もう百年近く前だから、そういう譬えになったのだが、今で言えば、テレビの「画面や音」と「受像機」に譬えたほうがいいかもしれない。
 記憶などの精神活動が「画像や音」とすると、それは脳すなわち「受像機」がないと現れてこない。しかし、好きなスターがテレビに映ったからと言って、どんなにテレビを分解しても、その人の映像が見つかるわけがない。
 それに似て、「脳」が死ねば、「精神エネルギー」は顕現する″場″を失うが、そのエネルギーそのものが消えたわけではないのです。
 同じく「肉体」の死によっても、身体的エネルギーは消滅しない。活動の場を失い、潜在化するだけです。
 ―― 潜在化していたエネルギーが、次に生まれ変わった時に、また顕在化してくるわけですね。
16  「生まれ変わり」ではなく「連続」
 池田 次の生のときに顕在化し、活性化する。
 しかし「生まれ変わる」のではありません。生まれ変わらないで、ずっと連続している。別の生命に変わるのではない。
 戸田先生は「長い線香が短い線香に生まれ変わったとか、長いタバコが短く生まれ変わったとか言わないでしょう。この生命が、そのまま連続していくのです」と強く語っておられた。
 ご自分の胸をたたきながら「この肉体が、そのまま続いていくのです」と言われたこともある。
 どこまでも、「心身一体の生命」そのものが連続していくのです。魂だけが空中に飛んでいるようなものではない。
17  「幽霊を見たという体験」があるが
 ―― そうすると、「幽霊を見た」とか「死んだおばあちゃんの声を聞いた」とかいう体験を聞いたことがありますが、これらは夢とか錯覚なんでしょうか。
 池田 いや、そういう体験は、ありうるのです。ただし幽霊ではない。
 宇宙に溶けこんだ「死後の生命」の波長と、こっちの生命の波長が、何かの理由で合ってしまった時、声とか姿が、こちらに浮かんでくるような現象がないとはいえないでしょう。生命の世界は不可思議なものですから。ともあれ、電話が、たまに混線するみたいなものです。
 ―― 携帯電話も、たまに混線します。
 池田 戸田先生は、そういう体験は、こちらの生命力が弱いからだと言われていた。弱いから、向こうの「生命の波長」に負けて、自分がラジオかテレビの機械みたいになってしまう。そして、自分だけが聞いたり、見たりするのです。
 だから、こっちの生命力が強ければ、そういうことはないし、むしろ、お題目で「仏界の波長」を相手に送ってあげて、安らかにしてあげられるのです。
 ―― 安らかに宇宙に溶けこんでいる生命だけではないわけですね。
 池田 苦しみながら溶けこんでいる生命もある。こわい怪獣に追いかけられるみたいに、おびえている生命もある。悪夢にうなされながら眠っているようなものです。
18  題目は「死後の生命」も救う
 ―― それを、お題目で救っていけるんでしょうか。
 池田 救っていけます。題目の音声は、死後の生命にも厳然と届いていく。
 もちろん生きている人の生命にも届いていく。
 大宇宙のどこであれ、地獄の果てまでも、温かい希望と安らぎの光で照らしていくのが南無妙法蓮華経の力です。
 「妙」とは死を表す。「法」とは生を表す。「妙法」で生死不二を表す。
 生も死も「生命」の変化の姿です。生と死は「二つ」のようであって、その奥底にある、ひとつの生命は不変であり、生と死を貫いて、永遠に続いている。
 その「永遠なる生命」の根源のリズムが南無妙法蓮華経です。だから題目は、死後の生命をも救っていけるのです。
 ―― 苦しんだり、安らかだったり、死後の生命の状態は、どうやって決まるのでしょうか。地獄とか霊鷲山とかが実際にあるんでしょうか。
 池田 あるのです。しかし特定の場所としてあるのではない。土星の向こうに餓鬼界があるとか、霊鷲山は太陽のそばだとか、そういうことはない。
 十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)の内容については勉強してもらいたいが、大事なのは「一個の人間にも十界がある」ように「大宇宙にも十界がある」ということです。そして生命の基本が「地獄界」になった人は、死後、宇宙の「地獄界」に溶けこむのです。
 自分の生命に「地獄界」はあるが、どこにあるかと言っても、特定の場所にあるわけではない。歯が痛くて苦しんでいるから、歯に地獄界があるとは言えない。
 その時は、生命全体が苦しみ、全体が地獄界になっている。それに似て、生命の基底が「地獄界」で死んだ場合、その人にとって、宇宙全体が地獄界になるのです。
19  人間革命とは「生命の基底部」の変革
 ―― 生命の基底というのは……。
 池田 自分がいつもそこへ帰っていく「基地」のようなものです。
 だれでも、生きていると、毎日、いろんな「縁」があるから、そのつど怒ったり、笑ったり、考えこんだり、生命は変化、変化している。
 それでも「すぐに怒る」怒りっぽい人とか、「すぐに落ち込む」生命力が弱い人とか、「まっ先に人のことを考える」菩薩界の人とか、その人の生命の基本、基地というものがある。
 この「生命の基底部」が、そのまま死後の行き先を決めるのです。
 ―― 何か、恐ろしいような気がしますね。
 池田 しかも、死後は外界の縁が生前のようにはないから、その「基底部」が自分のすべてになってしまう。
 基底部が地獄界の人――何をしても苦しい、生きるのが苦しいという人も、生きていれば、たまには楽しい瞬間もあるでしょう。しかし死んだら、もう地獄界という基底部だけを味わっていくしかなくなるのです。
 ―― そう考えると、「生きている間に、どうしても人間革命しておかないと」という気になります。
20  「人間としての生きざま」が死に表れる
 池田 それが端的に現れるのが「死」の瞬間です。たくさんの人の死を看取ってきた、ある女性がこう言っていた。
 「人生の最期に、パーッと、パノラマのように自分の人生が思い出されるようです。その中身は、自分が社長になったとか、商売がうまくいったとかではなくて、自分がどんなふうに生きてきたか。だれをどんなふうに愛したか、優しくしたか。どんなふうに冷たくしたか。自分の信念を貫いた満足感とか、裏切った傷とか、そういう『人間として』の部分が、ぐわぁーと迫ってくる。それが『死』です」と。
 ―― 厳粛ですね。
 池田 その瞬間には「有名」も役に立たない。「お金」も役に立たない。「知識」も役に立たない。「地位」も役に立たない。友人も家族も助けることはできない。自分自身の「真実」に一人で向き合うことになる。厳粛です。
 しかも、その死の瞬間の自分自身が、その後も、ずっと続くのです。
 だから、生きている間に、生命を「仏界」へと引き上げておきなさいと仏教は説く。「人間として」最高に豊かな自分をつくるのです。そのために信心があるのです。
 「人間革命」することが一生で最重要のことなのです。そして、若き青春時代であればあるほど「人間革命」しやすいのです。
21  「死んだ祖母にいつか会えるか」
 ―― 「大好きだった祖母が死んでしまいました。いつか私が死んだら、また会えるでしょうか」というんですが……。
 池田 「会える」と日蓮大聖人は言われている。たとえば、子どもを亡くしたお母さんに対して、優しく、こう言われている。
 「(子どもさんに)やすやすと、お会いになれる方法がありますよ。釈迦仏に導かれて、霊山浄土へ詣でて、お会いなさい」
 「南無妙法蓮華経と唱える女性が、愛しく思う子どもに会えないということは絶対にないと(法華経に)説かれています」
 (南条時光のお母さんに対して、時光の弟が急死した際に書かれたお手紙。〈御書一五七六ページ、趣意〉)
 霊山浄土で会うということは、″亡くなった子どもも成仏していますよ。あなたも仏になれるのだから、同じ仏界の世界で一緒になれるんだよ″ということでしょう。
 それは宇宙に溶けこんだ生命が、相手との一体感を感じるとも言えるし、宇宙の他の仏国土で会えるとも言える。この大宇宙には、もう広宣流布が終わった理想的な仏国土が、たくさんあると考えられる。
 この前、「宇宙全体の銀河の数は、約一千二百五十億個」という研究が発表されていた。(アメリカ天文学会で。NASAナ サ(アメリカ航空宇宙局)のハッブル宇宙望遠鏡の観測をもとにしたもの)
 ―― すごい数ですね。「星」が一千億以上というのではなくて、「銀河」が一千億以上というのですから……。ちょっと想像を絶する広さです。
 池田 それでも仏法の宇宙観から見れば、まだまだ大きいとは言えない。
 勤行で読んでいる法華経寿量品では、もっともっと広大な宇宙像が説かれている。実質的に「無限」を表現しようとしているとしか思えない、すごさです。
 ―― そういう仏法の宇宙像に、科学が近づいてきたということでしょうか。
 池田 そうも言えるでしょう。ともあれ、生命体が住んでいる惑星だって、地球だけではない。数限りなくある。
 その中の「仏国土」に、また一緒に生まれる場合もあるでしょう。また、地球をはじめ、「まだ広宣流布している途中の星」に一緒に生まれて、悩んでいる人々をともに救っていく場合もあるでしょう。全部、自分の自由自在になるのだというのが、法華経の教えです。
 生命は永遠です。だから、「死別した」と言っても、ちょっと遠くへ行っただけとも言える。外国へ行って、しばらく会えないみたいなものです。
 ―― そうしますと、そのおばあさんが、また地球に生まれてきて、再会するということもあるんでしょうか。
 池田 当然あるでしょう。ただし、会っても、うんと若くなってるから、「おばあちゃんだ」と、わかるかどうか。
22  悩み抜いたから人の心がわかる
 池田 戸田先生も若いころ、子どもさんを亡くしたのです。こう言われていた。
 「私は、年二十三で『ヤスヨ』という子どもを亡くしました。女の子であります。一晩、私は死んだ子を抱いておりました。そのころ、まだ御本尊を拝みませんから、もう悲しくて、抱いて寝ていました。そして別れて、私はいま、五十八歳です。彼女がおれば、当時三歳でありましたから、そうとう立派な婦人になっていることと思いますけれども、今世で(再び)会ったといえるか、いえないか……。それは信心の感得の問題です。私はその子に会っております。今生で会うというのも、来世で会うというのも、それは信心の問題です」(『戸田城聖全集』2)
 これは、子どもを早く亡くした人への励ましとして話されたのです。「今世で、あの子と、また親子の縁が結べますか」という質問に答えての言葉です。
 戸田先生は、娘さんの後、奥さんも亡くされた。子どもや奥さんに先立たれて、苦しみ抜いたが、そうやって、ありとあらゆることで苦しんだからこそ、今、大勢の人を励ませるのだ、大衆のリーダーとして、人の心がわかる人間になれたのだと言っておられた。
 全部、意味があるのです。その時は悲しくて、苦しんで、やりきれなくても、負けないで生き抜いていけば、あとから「ああ、こういう意味があったんだ」とわかります。それが信心の力です。また、それが人生の真髄です。
 ―― よくわかりました。そのうえで、「感得の問題」という「感得」とは、自分の生命の実感ということでしょうか。
 池田 実感です。生命の問題は、突きつめると実感の問題です。理論や言葉だけではない。口でどんなに「歓喜、歓喜」と言っていても、生命の実感が、どんより沈んでいたのでは何にもならない。
 また「生命が永遠だ」と頭でわかったつもりでも、生命を永遠に光らせるための努力と修行をしていないのでは、意味がない。本当にわかっているとは言えないでしょう。
23  幸・不幸を決めるのは自分
 ―― 「すべて意味がある」と教えていただいたんですが、事故とか病気とかで早死にする人もいます。そういう死も、意味があるんでしょうか。
 池田 意味を与えていかねばいけない。「生と死」の法則は、全宇宙に通じる普遍的なものです。しかし、その表れ方は、どこまでも個別的であり、人によって千差万別です。あまりにも複雑に、いろんなものがからみ合っている。
 たとえば、「定業」と言って、その人の過去世の行いによって、寿命とか根本的な軌道が決まっている面がある。
 また「不定業」と言って、報いを受けるかどうか決まっていないものもある。病気に譬えれば、定業は「重病」であり、不定業は風邪みたいな「軽病」です。
 ―― どちらも、自分が過去にした行いの結果ですね。
 池田 だから、だれが悪いのでもない。「自分は、どうして、こんな家に生まれたんだろう」「自分は、どうして、もっと美人に生まれなかったんだろう」とか悩む人もいるだろうが、全部、自分の過去の「行い」が招いた結果です。
 業とは「行い」のことです。心に思ったこと、口で言ったこと、実際にやったこと、そういう「行い」が、すべて自分の生命に刻まれる。善の行いをすれば、幸福な善い結果が、悪の行いをすれば、不幸な悪い結果が、いつか出てくる。
 形は人間でも、あまりにも非道な行いばかりしている人間は、次は人間に生まれてこられない場合もある。
 ―― 厳しいですね。
24  君よ生き抜け! 最後の勝者が永遠の勝者
 池田 生命に刻まれた善悪のエネルギーは、死によっても消えない。次の生へも続いて、持ち越していく。「エネルギー不滅の法則(保存の法則)」に似ているかもしれない。
 そういう「宿業」も、しかし日蓮大聖人の仏法では全部、転換できるのです。
 ―― 定業も、でしょうか。
 池田 定業も転換できる。いな、転換しなければならない。
 どんな苦しいことがあろうと、最後の最後まで生き抜き、戦い抜き、勝たねばならない。最後に勝てば、その人が「人生の勝者」です。途中で決まるのではない。最後に勝てば、それまでのすべてが「意味があった」と言える。
 最後に負ければ、それまでどんなに順調でも、すべて無意味になってしまう。
25  人に「明るさを分けて」いた少女
 ―― 病気が治らないで死ぬ人もいますが……。
 池田 本当に強盛な信心を貫いて死んだ場合は、その人は「勝った」のです。
 自分が病気で苦しみながら、最後まで広布のために祈り、友のために祈り、周囲の人を励ましながら亡くなった人も、いっぱいいます。
 そういう生き方、死に方が、どれほど多くの人に「勇気」を与えたかわからない。すぐに健康な体で生まれてきます。
 ある少女は、十一歳のときに脳腫瘍になり、十四歳で亡くなった。
 しかし、病院の大人の人たちにも「明るさをわけてあげる」くらい快活に振る舞っていた。病気が、どんなに苦しかったか、わからない。しかし彼女は題目をあげ抜いて、皆を励ましていった。
 そして最後には、お見舞いにきた人に、こう言っていた。
 「私ね、病気なんて、どうなってもいいんだ。自分のこと祈るのなんか、もうやめたの。私より不幸な人がいるんだもの。その人が、この信心をやって、一日も早く御本尊の素晴らしさをわかるように、一生懸命、祈るんだ」
 そして家族にも、にこやかに、こう語ったそうだ。
 「もし、この病気、お父さんがなったらどうする? 困るでしょ! お母さんがなっても困るし、弟がなったら乗り越えられない。だから、私がなってよかったんだよ」
 「私は、きっと生まれる前に、こうなることを約束してきたんだと思うの。だから私を知っている人たちが、私の姿を通して何かを感じてくれたら、それで幸せ」
 私も、少女の闘病を聞いて、「バラの花」を贈った。
 「福光」としたためて扇を贈ったり、あやめが群れ咲く風景を撮った写真も贈った。
 本当に喜んでくれたようです。
 少女が、周囲の人に残した言葉は「信心とは、信じて信じ抜くものよ」の一言だった。
 彼女は、その一言を、自分の生き方で示しきったのです。
 葬儀には、長い長い弔問の列が続いた。十四年半の生涯に、千人を超えるであろう人々に、妙法の偉大さを少女は語り続けたのです。
 少女の名前は、山田明美さん。千葉の柏の少女でした。(一九八二年十月に逝去)
 彼女は「勝った」のです。私はそう思う。全部、意味があった。いな、自分の戦いで、自分の苦悩に意味を与えた。
26  願兼於業がんけんおごう
 池田 ″前世で約束してきた″という言葉があったが、「願兼於業(願、業を兼ぬ)」と言って、「あえて願って、苦しみの姿で生まれ、その苦しみと戦い、打ち勝つ姿を見せて、人々に仏法の力を教える」生き方がある。菩薩の生き方です。
 信仰者が、はじめからすべてに恵まれていたならば、人々は仏法のすごさを知ることができない。だから、あえて悩みの姿で生まれて、「人間革命」してみせるのです。劇です。ドラマみたいなものです。
 ―― 病気や事故で死んでも、意味があるんですね。
27  「自分は勝った」と言える青春時代を!
 池田 人間だれだって、いつかは死ぬ。要は、どう生きたかです。長生きは大事だが、勝負は長さだけで決まるのではない。生きている間に、「何をしたか」。これで決まる。
 アメリカのノーマン・カズンズ博士は、こう言われた。
 「人生の最大の悲劇は死ではありません。『生きながらの死』です。生あるうちに、自分のなかで何かが死に絶える。これ以上に恐ろしい人生の悲劇はありません。大事なのは生あるうちに何をなすかです」
 カズンズ博士は、偉大なジャーナリストであり、平和の行動者でした。晩年は、「心と体は一体」という心身相関医学の分野で、先駆的な仕事をしておられた。
 ともあれ、人生は、長い短いではない。生きている間に、「永遠の良薬」である妙法を唱えた人は、それ自体が最高の幸福です。その仏縁によって、またすぐに広布の舞台に戻ってくる。ちょっと寝て、休んで、すぐに目が覚めるようなものです。事故で亡くなった人も同じです。もちろん、自分の「不注意」で、尊い命を落としては絶対にいけない。「信心しているから大丈夫だろう」と思うのは一種の「慢心」です。「信心しているからこそ」事故や病気に気をつけるのが、まことの信仰者です。
28  自殺は絶対にいけない!
 ―― 今の社会、自殺も多いんですが……。
 池田 世界的に多い。本当に、かわいそうだ。痛々しい。自殺する人は、追いつめられている。戦うことができない。逃げ場がない。しかし、死に逃避したとしても、生命の苦悩は消えないのです。いな、生命という「宝」を自分で壊すことによって、さらに罪を重ねてしまう。
 自殺する人は、追いつめられて生命力がなくなっている。それは根本的には、生命の根本法則である「妙法」に逆らっているからです。
 全宇宙が「生」と「死」のリズムを奏でている。大きな星にも生があり、死がある。小さな虫にも生があり、死がある。森羅万象が、生死、生死のリズムで動いている。その生死の根本を南無妙法蓮華経という。
 だから妙法に逆らえば、生命力はしぼまり、妙法を行じれば、生命力は強くなる。ともあれ、何があろうとも、絶対に自殺はいけない。
 ―― 「子どもが死んで、生きるかいもなくなった」と沈んでいる人もいました。
 でも学会の同志に励まされて、今、元気に新しいスタートをされています。
 池田 私たちは妙法家族です。生も死も超えて、妙法という″生命の無線″で結ばれている。唱えた題目は必ず相手に通じるし、自分が願えば、再び家族になったり、友人になったりして、身近なところに生まれてくる。それを確信して、遺族が堂々と幸福になり切っていくことです。その幸せの実証こそが、亡くなった人の成仏を雄弁に物語っているのです。
 ―― 遺された人が、どう生きるかが大事なんですね。
 池田 そうです。「生死不二」「父子一体」なのだから、家族の「生」の側が幸せになれば、「死」の生命も幸せになっていく。また「死」の状態の生命が成仏していけば、「生」の私たちを守ってくれる。
 ―― 「死後」の姿はわからなくても、「生」の姿を見れば、ある程度、わかるということですね。
 池田 そう考えられる。じつは、「死後」と言っても「科学的に証明」はできない。
 しかし、われわれが仏法を実践して、この一生で確かなる「実証」が出たならば、仏法の説いていることは正しいと言えるでしょう。
 ―― 正しくなければ、皆に「実証」が出るなんてことはありません。
 池田 皆が実験して、皆が同じように、何らかの「現実の証拠」をつかむことができた。そうすると、そこには一定の法則があると考えられる。
 仏法の教えの土台は「永遠の生命観」です。この土台が、もしか間違っていたならば、この「生」において、実証など出るわけがないのです。
29  「死んでみないとわからない」?
 ―― たしかに、よく「死後の生命と言っても、証明できないし、死んでみないとわからないじゃないか」と言う人がいます。
 池田 死んでみないとわからない――その通りだ。しかし、死んでみて「あ、やっぱり仏法は正しかった」とわかったら、どうするか。それから頑張ろうと思っても、もう遅い。
 ―― 手遅れです。
 一方、万々が一、「死後は無」だったとしても、仏道修行で自分を磨き、人生を充実させたことは、無駄にはなりませんね。どっちにころんでも、損はない。「賭け」に譬えれば、こんな有利な賭けはありません。
 池田 仏法は絶対に間違いないのです。「科学的に証明できない」と言っても、科学は万能ではない。とくに、近代の自然科学は、五感の働きを拡大して探究できる分野は得意だが、そうでない分野は探究する術をもっていない。
 ―― 「死後」については、探究する方法をもっていないんですね。
 池田 だから、いちばん正しい科学的態度は、「わからないことについては断定しない」ということではないだろうか。
 ゲーテや、トルストイも、そう言っている。ガンジーも、そう言っている。
 科学には、死後について、ないとか、あるとか発言する資格がないのです。
 ―― 資格がないのに「死後は無い」と主張するところに、傲慢があるし、誤りがあるわけですね。
30  大量死メガ・デスの20世紀から生命尊厳の21世へ!
 池田 非常に大きな過ちが、そこにある。「科学の世紀」である二十世紀ほど、人々が「死」を見つめることを避けて、「生」の欲望に走った時代もない。
 「死を忘れた世紀」が、その結果、二回の世界大戦や核兵器など「メガ・デス(大量死)の世紀」になったことは偶然ではないと私は思う。
 ″死後は無であり、人間は物質の固まりにすぎない″という生死観からは、「生命の尊厳」の根拠は生まれてこないからです。
 だからこそ、諸君は二十一世紀を、断じて「平和の世紀」とするために、「生命の尊厳」の哲学を学び、広げていってほしいのです。正しき生死観を学び、実践し、一日一日を「かけがえのない宝」として大切にして生きてほしい。
 そして、この一生で、何百年分もの価値を創り、永遠に輝きわたるような「不滅の人生」を築き上げてほしいのです。

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