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日蓮大聖人・池田大作

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正義はなぜ迫害されるのか 「勝ってこそ正義」を忘れるな

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
1  ―― 今回のテーマは「正義」です。高等部のメンバーから「ぜひ、先生に大阪事件のことをうかがいたい」という声が、たくさん寄せられています。
 小説『人間革命』(十一巻の「大阪」「裁判」の章)で、当時のもようを描いていただきました。関西のメンバーも一生懸命、読んでいます。
 (=昭和三十二年〈一九五七年〉、参議院の大阪地方区の補欠選挙。もちろん無実であったが、戸別訪問の教唆〈そそのかした〉と買収という無実の罪の容疑で、若き日の名誉会長は七月三日に牢に入った。奇しくも、その十二年前〈昭和二十年=一九四五年〉、日本の国家主義と戦い抜いた戸田第二代会長が出獄したのと同じ日であった。ただでさえ暑い大阪の夏。冷房も何もない狭い独房。池田が牢を出たのは七月の十七日のことであった)
2  大阪事件は「権力の魔性」との闘争
 池田 若き諸君のために語っておきたい。そのころ、世間は創価学会を「貧乏人と病人の集まり」とバカにしていた。
 それが前年の昭和三十一年の参議院選挙で、いきなり三人の国会議員を出した。それで驚き、権力者が学会を脅威に感じたのでしょう。
 創価学会がなぜ選挙に立ち上がったのか。それは、日蓮大聖人の「立正安国論」という教典に基づいてのことです。つまり、平和の哲学によって国を治め、国を平和にする。そして民衆を安泰にさせ、幸福にさせる、という目的です。
 本来、いかなる政治も、その根本に理念・目的があって、はじめて、具体的な政策等がつくり上げられるものです。哲学なき政治は、腐敗した利害だけの政治になってしまう。そういう信念から立ち上がった政界浄化の行動に対して、国家権力が学会の政治進出を抑えようとしたのが大阪事件だったと言って間違いない。
 ―― 小説『人間革命』を読んだある高等部員は言っていました。
 「とくに心に残っているのは、池田先生が逮捕され、取り調べを受けた時に、検事が地検から別館まで先生に手錠をかけて移動させたところです。この時、それを見た婦人や青年が、どんなにつらい、くやしい思いをしたか、そしてだれよりも池田先生がいちばんくやしいはずなのに、通りすがりに同志を励まされたところは、本当に感動しました。それと同時に権力の横暴には腹が立ってしかたがありませんでした」
 ある高校生は「証拠もないのに、なぜ罪をかぶせることができたのか不思議です」と言うのですが。
3  過酷な取り調べ
 池田 多くの無実の同志が逮捕された。取り調べも、まったく横暴なものだった。朝から晩まで、何日も尋問する。ある人は「何ひとつ、やましいことはしていないのに、『本当は悪いことをしたのでは……』と錯覚に陥ったこともありました」と言っていた。権力をカサに着て、弱い者いじめをするようなやり方だった。
 権力の魔手によって、か弱い庶民がおとしいれられる。そういう現実がたくさんあったのです。今もあるかもしれない。
 (ある壮年の法廷での証言によると、刑事は、こう責め立てた。「お前、聞くところによると、長男が修学旅行へいくそうやないか。はよ白状して帰ったらええやないか」「お前、子どもがかわいそうやないか。慈悲がないのか。鬼か」「いつまでも強情張っとると、入れ代わり、立ち代わり、晩もろくに寝かさんとお前を責めて白状させるで」
 この壮年は、涙ながらに法廷で証言している。「自分が働いておっても生活が苦しいのに、ここにいつまでもいたら、家族は飢えることになってしまう。私は、胸が張り裂けるような思いでした。でも、ありもしないことをいったら御本尊様を裏切るようで、忍びなかったんです。しかし、いわなければ帰してもらえません。それで、心のなかで御本尊様にお詫びして、嘘をついたんであります。『池田先生に〈戸別訪問せよと〉言われました』と」[『関西広布史』2,聖教新聞社、参照])
 ―― ひどいですね。大阪の同志は皆、怒りに燃えていました。「なんでやねん!」「ひどいことしおって!」「なんも悪いことしとらへんのに」「池田先生を返せ!」――と。
 「どうかご無事で!」と、やむにやまれぬ思いで、差し入れに行った方もいます。ただただ心配で、拘置所の前に何時間も立ちつくしていた方もいます。獄中の先生に届けとばかりに、音楽隊は学会歌を演奏しました。
4  師を守るために
 池田 拘置所での十四日間、戸田先生にも大阪の同志の皆さんにも大変、ご心配をかけました。また、一緒に拘置された人たちに対しては、今でもお題目を送っています。
 拘置所内では、牧口先生・戸田先生の暗黒の時代とは違っているし、このくらいのことで愚痴をこぼしては情けないと思っていた。わずか十四日間。決して楽しくはないけれど、たいしたことではなかった。
 ただ、精神的に苦痛であったのは、戸田先生を捕まえようとしていたり、学会本部を手入れしようとしていることを聞いた時です。戸田先生が年配で体力的に厳しいことは、だれよりも私が、よくわかっていた。もし、牢に入れられるようなことがあれば、先生の命にかかわったでしょう。戸田先生に手を出させては絶対にならないし、広宣流布の牙城に権力が土足で踏み込んでくることは食い止めたいと思っていた。
5  迫害されている人が正義の人
 ―― 先生の冤罪(=無実の罪)が晴れたのは、何と四年半ののち、昭和三十七年(一九六二年)の一月二十五日です。公判は八十四回にも及びました。
 先生も、何度も大阪に来られ、堅い木の裁判所の椅子に長時間、座られました。証言にも立たれた。
 午前中に公判があり、午後にもわたることもあった。ふつうであれば、神経をすり減らし、打ちのめされ、倒れるほどの過酷さだといいます。そんななか、夜には何ごともなかったかのように、生命力あふれるお姿で会合に出られ、同志を励ます――事情を知っていた人は、絶句する思いで感動を抑えられなかったと語っておられました。
 池田 長い裁判の末、当然ながら無罪となった。裁判の判決の後、検事が私のところに来て、「当然ですね」と、ひとこと言った。検事として言ってはいけない言葉だろうが、権力のこわさがうかがえる出来事だった。
 ―― 正しい行動をしたために牢獄へ入れられるなんて……本当に、さかさまです。
 池田 それが、これまでの人間社会の現実です。
 アメリカ・ルネサンスの哲人、ソローは言った。「人を不正に投獄する政府のもとにおいては、正しい者のいるべき真実の場所も、また刑務所である」(「市民の反抗」斎藤光訳、『アメリカ古典文庫4 H・D・ソロー』所収、研究社)と。
 悪い権力のもとでは、牢に入れられ、悪人と言われている人こそが、正義の人だというのです。
 ―― そういう社会では、「迫害されている人が正義の人」であり、「もてはやされている人は悪人」なんですね。
 池田 そういう場合が多いということです。それを鋭く見抜かなければいけない。
6  勝つ事が広宣流布
 ―― 政治権力と言えば、あの阪神・淡路大震災のときの政府の対応の冷たさを忘れることはできません。
 いったい、だれのために政治はあるのか。人の命を、生活をなんだと思っているのか。
 同じように、薬害エイズ問題もです。役人と製薬会社は、血友病の患者の方がエイズになり、命を落とす可能性が高いのを知っていながら、危険な血液製剤を売っていた。とんでもないことです。悪魔の心です。
 池田 権力というのは魔性です。自分たちが思うように民衆をあやつり、自分たちを守ることが根本となっている。自分たちのやり方や目的に反する者は悪人として扱う矛盾の世界です。
 仏法では、この地球は「第六天の魔王」が支配しているから、悪人を守り、善人を嫌う世界になっていると説く。第六天の魔王の心が、権力者の心に入り込んでいく。日蓮大聖人も大迫害の連続でした。
 仏法は、魔との勝負なのです。強い信心によって、戦うのです。
 この勝負に勝つのが広宣流布です。広宣流布の途上では魔は強いのです。
7  悪人は結託する 善人も連帯せよ
 ―― よく「今の中高生はこわい」とか、「よくわからない」と言われますが、今の日本社会を見ていると、大人のほうが、よっぽど悪いのではないでしょうか。悪人がはばをきかせて、まじめに生きる善人がバカを見るような世の中です。
 池田 それを変えるために、諸君がいる。
 七百年前、「熱原の三烈士」は、反対する坊主と、時の権力者が結託して、陥れられた。
 権力は善人を妬むものです。自分だけを守ろうとする野性的な行動です。そして、悪人は、なりふりかまわず、結託しやすい。善人は、なかなか連帯できない。善人が、ともに手をつないでいける世界をつくっていくことが理想です。
 「自分さえよければ、人はどうなってもかまわない」――そういうのは、原爆と同じ思想です。悪魔の思想です。国においてもそうだし、人においても、そうです。だから、大事なことは、自分が悪魔のほうにつくか、正義のほうにつくか。自分は、どっちの生き方を進むべきか――。
 本来、教育は善人の生き方を学び教えるものでなくてはならない。政治も宗教も、そうでなくてはならない。そこが混乱しているから、世の中も乱れてしまうのです。
 ある哲学者は言っている。
 「正義によって立て。汝の力、二倍せん」(ブラウニング)
 いくら迫害を受けても、我が弟子たちよ、正義のために立て! そうすれば二倍の力が出るのだと、私は教えたい。
8  「正義は偽善みたいで、きらい」
 ―― 正義について、いちばんの問題は「正義なんて気恥ずかしい」という風潮だと思うんです。「正義というと、何か偽善のようで、きらいです」という人もいるようです。
 池田 それは、よく解釈すれば、青春の潔癖さの現れとも言えるかもしれない。
 太宰治に『正義と微笑』という小説がある。十六歳の「僕」――俳優志望の青年(芹川進)の日記です。彼は書く。
 「僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ。十六から二十までの間に人格が決定されるといふ説もある事だ」
 「けれども、あまり固くなって、『重厚』になりすぎてもいけない。
 微笑もて正義を為せ! 爽快な言葉だ。
 以上が僕の日記の開巻第一ペエジ」(『太宰治全集』5所収、筑摩書房)
 しかめっつらした正義でなく、自然体の正義でいい。自分らしく、肩ひじ張らずにいけばいいと思う。
 ―― ある人は言っていました。「『偽善』というが、偽善でも『悪』よりはいい。はじめは偽善でも、真剣に善を目指して行動しているうちに、だんだん本物の善になっていくのだ」と。
 池田 諸君に忘れないでもらいたいのは、そういう「正義をバカにする風潮」を、だれがつくったのかということです。
 それは、自分たちが悪いことをしていたい大人たちがつくったのです。堕落した大人は、格好のいい言葉で飾りながら、心の中は汚れている。そんな大人が「どうせ正義なんて、ウソなんだ、裏があるんだ」と決めつける。そうしたほうが、自分たちが楽であり、変わらなくていいからなのです。
 ―― たしかに、人権無視の週刊誌をつくっているような人たちは皆、そうですね。
 池田 そういうものに影響されて、「正義を口にすることが気恥ずかしい」などと思ってしまえば、こんな愚かなことはない。悪い大人に乗せられてはいけない。
 正義など、どうでもいいというのは気楽かもしれないが、その代わり、人生の本当の深さも、喜びも、充実も、向上も、価値も、幸福も、何ひとつ味わえない。ただ動物のように、欲望に流されていくだけの人生です。何という、つまらない人生か。
 諸君は、自分が「これは正しい」と信じるものを、まっすぐに貫いていけばいい。つまずいても、そのたびに、また立ち上がって進めばいい。そうやって挑戦し続けるなかで、最高の正義の道に進んでいけるのです。
9  正しいからこそ迫害される
 ―― 高校生から質問があります。「正義なのに、正しいのに、なぜ迫害されるのでしょうか」
 池田 「正しいからこそ迫害される」のです。これは古今東西を問わず、重大な問題です。この一点は、全人類が革命されないかぎり、不可解で、また不合理な現実です。暗い現実の問題です。現実の例をとおして、皆も考えてもらいたい。
 ―― 深く胸に刻んでいきます。
 池田 アメリカのリンカーンは、人種差別の撤廃をしようとして暗殺された。白人と黒人を平等にしようというのは正しいことであるのに、迫害を受けた。
 インドのガンジーは、時の権力が民衆を抑圧していたのに対して立ち上がった。生活必需品である塩に重税をかけたことに反抗したりして、何回も牢獄に入れられた。そうやって民衆のために行動していたのに、やはり暗殺された。
 牧口先生・戸田先生は、「戦争は民衆が苦しむのだから絶対に反対である」という正しい行動をしたのに迫害され、牧口先生は獄死なされた。
 歴史に残るだけでも、このような人は何百人、何千人といるでしょう。まして、歴史には残されていない、そうした無数の人たちがいたに違いない。
10  「真実を見ないマスコミ」の悲劇
 ―― とくに日本では「出る杭は打たれる」と言うように、マスコミや権力の都合のいいように、邪魔者はたたけ、という方向に皆が、なびいていっているように思います。
 池田 ほとんどの日本の人格ある著名人は、何らかの迫害を受けています。
 ずるがしこく権力にすり寄っていく「保身の人」は迫害を受けない。それは波が立たないからであり、風が吹かないからです。世界でも同じでしょう。マスコミも、そういう現象面だけを見て、淵源や深さを見ないところに悲劇がある。
 ―― あの″信平狂言訴訟″など、その典型です。松本サリン事件でも、第一通報者の男性が、自分も自分の家族も被害者でありながら、犯人扱いされました。つまり、マスコミも世間も「真実は何なのか」を真面目に追求しない。ただ大騒ぎするだけなのです。
11  時代によって善悪は変化する
 ―― そうしますと、いったい「正義とは何か」という疑問がわいてきます。
 池田 たしかに、時代によって善悪の見方は変化する。その時代を支配する権力によって、世間一般的でいう「善悪」は変わってしまう。
 戦争中、東条英機は日本では「英雄」だったが、戦後は「犯罪者」となった。
 マッカーサーも戦争中、日本では「鬼」と言われ、「大悪人」であり「敵」であったが、戦後は「正義の味方」のように称賛された。
 その時の権力によって、同じことをしても、悪人にも善人にも変わってしまう。不明確で、複雑怪奇なものです。
 ―― 「正義」という大義名分のもとに人々が苦しむ……そういう転倒もあるのではないでしょうか。
 池田 そうです。戦争中は、戦争に参加することが「正義」とされた。こわいものです。だからこそ、「何が正義なのか」という、しっかりとした「価値観」が必要なのです。正義の要件は、あくまでも、人のため、社会のため、人類のため、幸福のため、平和のためという規範がなくてはならない。
 正義を壊すものは、人を殺す、盗む、嘘つき、嫉妬、陥れ、利己主義、破壊――といったことです。つまり、自分だけを、自分たちだけを守っていこうというものです。
 ―― そういうふうに見れば、「正義はどこまでも正義」なのですね。
 池田 永遠不変の正義とは何か。それを追求しなければならない。
 その結論は、宇宙とともに永遠である「妙法」という生命の法則に則って生きることです。「生命の尊厳」を実現していく戦いです。ここに最高にして、永久の正義がある。要するに、広宣流布こそ、正義の中の正義です。
 ―― すごい使命が、私たちにはあると思います。
 池田 だから、勝たねばならない。残念ながら、正義は必ずしも勝つとは限らない。それでは悲劇です。正義は勝ってこそ、本当の正義と輝く。
 仏法では「善悪一如」――善と悪はひとつのようなものである――と説いている。いくら「善だ」といっても、「悪」に負け、結果として「悪」を助長してしまえば、それは「悪」になってしまうかもしれない。
 悪に敗れてしまうような正義であるがゆえに、人類の不幸が続いているのです。歯止めをしなければならない。歯車を組み替えなければならない。個人においても、一家においても、団体においても、国家においても、です。
 フランス革命(一七八九年〜一七九四年)は、横暴な絶対王政に対して民衆が決起して打ち破り、民衆のための共和国をつくった。正義が勝ったとされているが、負けていれば正義とは言われていないでしょう。
 正義というものは観念では、いくらでも言えるが、現実の上で負けず、勝ち抜いた時だけ、正義という証が明確に刻印されていくのです。
 ―― いつも先輩から教えられてきました。「『負けたらあかん!』。それが関西の不敗の原点や!」って。
 池田 その心が燃えているから、関西は強い。関西は負けない。負けちゃいけない。どんな戦いでも。
 一見、目に見えない正義の戦いもある。歴史に残る戦いもある。さまざまな次元の戦いがある。たとえば、お母さんが正法を流布したという行動は、目に見えないかもしれないが、偉大な正義の行動です。
 ―― 高校生のみんなにとっては、どうなるでしょうか。
 池田 学校では、「勉強をしよう」というのが正義であり、勉強の邪魔をしたり、教室の物を壊したりするのは悪です。
 学校の目的は勉強をすることなのだから、その目的に向かった行為は正義です。自分中心で、勉強がいやだから授業を邪魔したり、学校の物を壊すのは悪です。
 また、いじめとか、悪を傍観してはならない。善人が団結しなければならない。
 ―― 振り返ってみると、大阪事件は、日本に健全な民主主義が根づいていないために起こった事件だと思います。当局にしてみれば、私利私欲がなく、まじめに日本をよくしようと政治に取り組む団体があるなんて信じられなかったかもしれません。当時も金権選挙が横行し、それが戸別訪問と一体で行われていた。それが、いわば当時の選挙の「常識」でした。
 池田 戸別訪問というのは、本来、民主主義の当然の行動と言われている。個々の家に行き、政治を論議することは最も民主的な行為だということです。だからアメリカやイギリスでは、戸別訪問が草の根民主主義の根幹とされている。
 しかし、そこで買収などをしようとする人間を取り締まり、防ぐ意味で、日本では戸別訪問が禁止されているわけです。
 金銭で票をとるなどということが絶対に許されないのは当然のことです。
12  民衆が立ち上がってこそ民主主義
 ―― 高校生の声に、こうありました。
 「民主主義とは、少なくとも民衆の人権を守るものです。国民の権利を守るために存在しているはずの国家が、国民を陥れるなんて……。大阪事件が、専制政治の社会ではなく、民主主義の社会で起こったとは信じられません」
 「日本という国は、今もそうですが、めちゃくちゃだな、と思います」
 「私は戦争はもう終わって平和だと思っていたけれど、じつは『南京大虐殺はなかった』なんて言っている人が政治家にいることを聞きました。信じられない!
 今、日本には無関心とか『自分はカンケーない』とか、そういうのがあって、それに慣らされていて、そのほうがカッコよくていいと思っていました。でも、それはウソです。私たちはもっと賢くならなきゃいけないと思いました」
 池田 日本の政治が変わらないのは、国民の関心が薄く、自覚がないからでしょう。感情論はあるが、行動を伴っていない。
 他国ならば、暴動になったり、激しい批判行動が行われるようなことでも、長年にわたって「お上」という意識が植え付けられ、何も行動ができない。「民衆が主人」であるという民主主義の精神を捨ててしまっている。小さいエゴに固まり、偉大な正義の集団行動をしていく力がない。ずるく、弱い国民性になってしまっている。愚痴、批判は言うけれど集合体にはならない。それは日本人の大きな弱点です。
 ―― たしかに、現状に文句は言うけれども、変えるために立ち上がりません。
 池田 民主主義は、民衆がもっと厳しく権力を追及し、反抗していかなければ、よくなりません。政治家も、強い信念で道を拓いていく勇気と気概のある人がいない。「自分は偉い」と思ってしまっている。
 その意味からも、選挙というのは非常に重大な主権在民の行動です。「民衆に権力がある」ことを理解させていく草の根運動が大事です。
 戸田先生は「青年は厳しく政治を監視せよ。(悪い政治は)だれが悪いのでもない。国民一人一人の責任だ」と言われていた。
13  まず行動! 「千里の道も一歩から」
 池田 ただし、政治が悪いといっても、クーデターや暴力革命になっては大混乱となってしまう。国民一人ひとりの行動で、良い方向へもっていかなければならない。
 最近、国民の六割から七割が「未来に希望がない」という統計が出ていた。恐るべき不幸なことです。政治が悪くなれば、悪人たちが栄え、善人が滅ぼされる時代となる。そうしてはならない。
 そのために、身近なことから、できる行動をしていかなければならない。「大海も一滴から」「千里の道も一歩から」であることを忘れてはならない。大山も、土と石でできている。一つぶ一つぶの土が結集して、できる。
 そういう本当の「民衆の結集」と、本当の政治の上に、平和な社会ができていくのです。民衆の中で、民衆のために、民衆とともに死んでいく政治家を、民衆がつくっていかなければならない。
 ―― サッカーのワールド・カップ(フランス大会、一九九八年八月)に出場しているイタリアのロベルト・バッジョ選手が、高校生に語ったそうです。
 「私たちは池田先生という偉大な師匠とともにいます。先生の指導を聞けるすばらしい時代に生きています。この『黄金の時代』を大切に、無駄にせず、皆さん、がんばってください!」と。
 池田 立派な人です。四年前、ミラノで、私はバッジョ選手に言いました。「最後の一瞬まで、戦って、戦い切ることです」と。彼は、その通りに戦い抜いた。いくつもの厚いカベを突き破り、今も戦っている。本当に、うれしい。
14  「富士のごとく」動じない自分を
 ―― 高校生からの質問ですが、「どうして、池田先生は勇気をもって、どんな困難も越えていけるのですか。正直言って、今の自分では無理だと思う。どうしたら、先生のように強くなれるでしょうか」と。
 池田 「艱難に勝る教育なし」です。迫害に生き抜くほど、強く、偉大な人間となれるのです。
 私は、常に「大衆とともに」「大衆のために」という信念できた。
 一日一日が、自分自身の建設であり、それがすべての建設につながるという確信をもっている。中傷・批判も恐れない。裏切り者が出ても恐れない。いかなる時でも恐れないという、その努力の結果が、不敗不滅の自分をつくるのです。
 人生や戦いには、前進をする時もあれば、退いたりする時もあります。休んだほうがよい時もある。さまざまな変化があるものだ。目標達成のためには、さまざまな変化があってもかまわないのです。
 知恵が大事であり、知識が大事です。人とのつながりを、社会とのつながりを、よく見極めていける聡明さが必要となる。愚かではいけない。そのために「勉強を積み重ねる努力」が必要なのです。
 そういう変化のなかで、一貫して言えることは、どのような時代になったとしても、人が何と言おうが、いちいち惑わされたり、動かされたりしないことだ。「富士のごとく」動じない信念が大切なのです。勇気と忍耐と才能が備わった「不動の自分自身」という山をつくってもらいたいのです。

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