Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人間関係って むずかしい 友情の積み重ねが「平和社会の土台」

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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2  「人間関係」は人類永遠の悩み
 池田 そうだね。「人間」は「人と人の間」と書くように、一人では生きられない。だから、どうしても人間「関係」が問題になる。これは人類永遠の悩みです。時には、人間関係がわずらわしくなって「一人で生きたい!」と叫びたくなることもあるだろう。しかし、それは現実には不可能です。仙人になるのでもないかぎり――。
 だとすれば、どうするか。自分から「いい人間関係」をつくるしかない。そういう関係をつくれる人間に、自分がなる以外ない。人間関係の「悩み」があるからこそ、自分が成長できるのです。悩みに負けなければ、「人格」が大きく育っていく。
 だから、独りぼっちではいけない。人間、一人なんて、ありえない。それでは自己中心のわがままになってしまい、何もできない。
 ―― ある高校生は言っていました。
 「今は結構、人間関係がサバサバしているように思います。面と向かって、じっくり話をすることが、あまりない。互いに″結びついていこう″という力が弱くなっているように感じるんです」と。
3  真の友情には切磋琢磨、向上がある
 池田 人それぞれ、生き方は当然、自由だが、「友情」を育てたほうが「得」です。モンゴルのことわざに「百トゥグリク持つよりも、百人の友を持て」とある。(トゥグリクはお金の単位。百トゥグリクはは訳十四円)
 友人のいる人こそが「豊かな人」なのです。なぜかならば、友情は、人間らしく、青年らしく、学徒らしく、互いに刺激し合い、切磋琢磨しながら、人生を向上させようというものだからです。
 生きがいのある人生を生きていこう、良い社会をつくっていこう、ともに、その道を歩んでいこうとするものです。
 だから、よき友人をもっている人は、強力な「補助エンジン」をつけているようなものだ。苦しい坂でも、励まし合って、力強く進んでいけるのです。
4  善友に近づけ悪友に近づくな
 ―― 本当に、「よき友人」は宝だと思います。ひと口に、友人といっても、「悪友」もいます。
 こんな声もありました。
 「人に物を買いに行かせる嫌な友人がいる」「すぐにお金を貸してと言う。貸したら返ってこない。また『ついてこい』とか言う。まったく、こっちの事情も関係なしに言ってくるので、友達とは呼べないと思う」と。
 池田 仏法では「善知識(善友)に親近せよ(親しみ、近づけ)」と教えている。良い先輩・友人に近づいていきなさいということです。逆に悪知識(悪友)に近づくな、という方向を説いている。
 御書には、「いかに自分は正直で、賢人でありたいと思っていても、悪人に親しみ近づけば、自然に十度のうち二度、三度と、その考えに随ってしまい、ついには悪人になってしまう」(御書一三四一ページ、趣意)とあります。
 むしろ、悪を戒める態度が大切であると書かれている。そうすれば、「善の方向へ行こう」として、本当の友情が芽生える場合もある。つまり、悪友が善友に変わる場合もあるでしょう。
 はじめは、集まって、たわいもない話をしたりするだけだったのが、何かのきっかけで、お互いが何かに前向きに挑戦するようになれば、立派な「善友」になったと言えるでしょう。
 ―― 善友と悪友――高校生のみんなは、どう思っているのか、ちょっと聞いてみました。
 「親友」とはどんな人だと思いますかと聞くと、「何でも話せる人」「自分のことをわかってくれる人」「いざという時、真剣に相談にのってくれる人」といった答えが、多く返ってきました。
 また「嫌な友達」はどんな人かというと、「自分勝手」「わがまま」「陰で人の悪口を言う」「うそをつく」「裏切る」「無視をする」「信用して話したことを、あからさまに言いふらす」「平気で約束を破る」……。
 たくさん答えがありますが、″人の気持ちなど考えない。自分のことしか頭にない人″という点が共通しているようです。
5  友情を育める「人格」を
 池田 やはり「人柄」が大事だし、「人格」が大事だね。友情を育む土台としては、互いに尊敬し、信頼していく心が必要になる。
 もちろん、けんかをする時もあるだろうし、言い合いになる場合もあるだろう。しかし、根本的には「親しき中にも礼儀あり」でなければならない。自分勝手はいけない。悪友というのは、社会や法律に反する人であり、人に大きな迷惑をかける人。善友は、人を励まし、希望をわかせ、友人をも向上させる情けをもっている人です。
 ―― そういう善友がいるといいですね。
 池田 そのためには、自分がまず、そういう人になることです。
 たとえば、だれかが悩んでいると知れば、「元気ないね。どうしたの?」と言葉をかけてあげる。何か約束をしたならば、ともかく、それを貫く――そういう人間になろうと自分が努力するなかで、自然のうちに、いい友達が周りに集まってくるものです。
6  友人ができない
 ―― 「自分は、友達をつくるのが苦手です。以前、皆によってたかって、いじわるをされた時期があり、心を傷つけられて、人とかかわるのが怖いのです」という人もいます。
 池田 今すぐに、理想的な友情が結べなくても、あせる必要はまったくない。人生は長い。チャンスは、いくらでもある。
 青春時代は、自分も大きく変わるし、相手も変わっていく。
 まず、自分自身をしっかりとつくることです。自分らしく、自分の希望の星を目指して進むのです。
 友情は、自然にできていく場合もあれば、求めてなる場合もある。「好き嫌い」から発する場合もあるだろう。どれも友情に変わりはない。
 ―― 好き嫌いというのは大きいと思います。
 池田 好き嫌いというのは、凡夫にとって当たり前の感覚です。それで友情ができなかったり、友情が壊れる場合もあるかもしれない。
 しかし「友情をもてる人格」が確立していれば、それでよい。その人は、だれかとの友情が壊れても、やがて「さらによい友情」が芽生えていくものです。
7  「友人に裏切られた」
 ―― 私は感じるのですが、皆、表面的にはいろいろでも、心の中は潔癖であり、純粋です。だからウソには敏感です。友達に少しでも偽りがあると、許せない。「もう、友達じゃない。信じられない」と。
 また、ある人は反対に「自分で自分が嫌いでしかたがない。だから、人のことが良く見えて、嫉妬してしまう」と言っていました。
 池田 そういうこともあるだろう。しかし、皆さんは、まだ若い。だれもが未完成だ。未完成でいいのです。未完成が尊いのです。そういう苦しみのなかで、もがきながら、前へ前へ進んでいけばよい。また、それしかない。
 大事なことは、何があっても、「人間って、こんなものだ」などと、傲慢に決めつけないことだ。人間は、そんな簡単なものではない。醜い一面もあるが、同時に最高に崇高なのも、また人間なのです。
 要は自分です。人ではない。たとえ裏切られても、「おれは裏切らない!」「私は約束を破らない」「友達が悩んでいるときは、一緒に悩み、乗り越えていこう」――そういう信念に立つことです。
 戸田先生は、青年に「筋を通す人になれ!」と教えられた。
 ―― 先日、モスクワ大学のログノフ博士(前総長)と池田先生との対談を読みました。(一九九八年四月六日付の聖教新聞)
 その中で、博士の孫娘アンナさんが、池田先生に″伸びる人、伸びない人の差はどこからくるのでしょうか″と質問していました。
 先生は「同じように努力しても、やはりよき環境が大切です」「だから、よき友人が大切です。それが人を善の方向へ導いてくれる」と述べておられました。
8  友情利用の悪も
 池田 「よき環境」といっても、いろいろあるが、友情は、恋愛、親子の関係とは違って、もっと普遍的で、もっと広々としている。
 また師弟という人間の大道とも違って、もっと身近なものでしょう。だから、「よき友人」をもてば幸福です。
 損得とか、お金のことで嫌な思いをするのは、よき友情とは言えない。人道に反したり、世間の法に反したり、みんなが「良くない」と思う関係は、悪友です。お金をもってこいと言ったり、悪い遊びに誘うのは友情ではない。友情を利用する「悪」です。厳しく戒め、避けなければならない。
 良くない関係を、ずるずると引き伸ばしてはならない。逃げる場合も、あっていいと思うし、だれか信頼できる人に相談することです。一人で、悩みをかかえこんではいけない。
9  エゴイストには友情はもてない
 ―― 「自分はいつも一人のほうが好きです。あまりみんなと一緒に行動はしないのですが、いいのでしょうか」という人もいます。
 池田 もちろん、それは自由です。みんなと一緒にいることが友情ではない。自分らしく、心のわかりあえる友人をつくっていけばいいのではないだろうか。
 ともあれ、友情は人間にとって大切な基本です。こんな言葉がある。
 「友情は近親関係にまさる」「″友情なき人生″は″太陽なき世界″と同じである」(キケロ)、「親友とは自己の外の自己である」(アリストテレス)
 友情は人格がないとできない。相手の地位とか肩書とかに、とらわれない。どこまでも「人間として」心と心のつき合いをできる人でないと、友情はできない。エゴイストには、真の友人はつくれない。
 また、大人になると、だんだん、利害ぬきの友情はできなくなっていくものだ。だから、若き日の友情は大切です。
 小学校の時の友人も、中学の時の友人も、高校の時の友人も、いうなれば″一緒に舞台の上で共演した仲″のようなものだ。一生涯、いつまでも忘れることはない。
 親子は一生のものであり、夫婦も本来、一生のものであるべきでしょう。同じように、友情も一生のものであるべきだと思う。
 それを前提にして、友情には「上中下」の三段階の友情があると言えるかもしれない。
 ―― それは、どういうことでしょうか。
10  上中下の「親孝行」「友情」
 池田 親孝行に「上中下」の三通りがあるというのは聞いたことがある?
 ―― はい。聞いたことがある気がします。
 池田 下の親孝行。それは「親の言うことを聞く」こと。何でも従っていくということです。親は喜ぶかもしれないが、完全に受け身です。
 中の親孝行は「親のために尽くしてあげる」こと。何か、ものをあげたり、喜ぶことをしてあげる。
 そして、上の親孝行は「たとえ親が反対しても″正しいもの″をもたせていく」ことです。
 ―― 私たちでいえば、正しい信仰を教えていくということですね。その時は反対されても、結局、親がいちばん幸福になる……永遠に幸福になるわけですから。
 では、友情については、どうなるのでしょうか。
 池田 「上中下の友情」――それは「上中下の人間関係」と置き換えてもいいでしょう。
 「下の友情」とは、平凡な普通の生活の中で、情け・思いやりのあるつながりをつくって、ともどもに楽しく生きていこうとする。いわば″一緒に楽しんでいこう″という友情です。
 「中の友情」は、もう少し高い次元で、理想に向かってどういう人間になろうか、どういう未来をつくろうか、どのように人類に尽くしていこうかという目的をもっている。社会のうえで勝利をしていこうという目的を共有した″励ましの友情″と言えるでしょう。
 ―― 面白おかしい、その場限りの友情ではなくて、″励ましの友情″ですね。
 高校生の声にも、たくさんあります。「学校の文化祭の出し物をみんなでつくりあげました」「テスト前とか、お互い、目標を決め、励まし合って頑張っています」「部活で水泳をやっていたとき、皆で一万メートルを泳ぎ切った。すごく疲れたが、最高の思い出になった」「高等部の部大会で、みんなと仲良くなれた。大成功して本当にうれしかった」等々です。
 さらに、こういう声もあります。
 「『受験は孤独な戦い』と言われるが、それは『自分自身に勝つ』戦いだと思う。その孤独に打ち勝つためには、友達との心のつながりが大切だと実感しています」
 「今、友達と一緒に、将来の夢を目指しています。絶対に二人で頑張る!」とも。
 「自分は独りじゃない!」――その心が力になり、実際に難関を突破した人を数多く知っています。だから″励ましの友情″は、皆もよくわかると思います。
 その上にある「上の友情」とは、どんな友情なのでしょうか。
 池田 「上の友情」は、同志のつながりです。互いに命をかけていく友情です。
 信仰の世界がそうです。かつて偉業を成し遂げた人の多くは、このような友情をもっていたのです。
 ―― 「盟友」という言葉を思い出します。
 池田 「盟友」とも言ってよいし、要するに「同志」です。全生命をかけた同じ「志」をもっている間柄です。そこには絶対の信頼関係がなければならない。死んでも裏切らない。自分を裏切らない。友を裏切らない。理想を裏切らない。
 さまざまな友情の姿があるが、″偉大な友情の模範″として、ホール・ケインが『永遠の都』に描いたロッシとブルーノの姿がある。
11  命をかけて友情を貫いたブルーノ
 池田 舞台は西暦1900年前後のローマ。他国の圧迫。腐敗した権力。民衆は幾重にも苦しんでいた。主人公は若き青年革命児デイビッド・ロッシ。無二の親友がブルーノ・ロッコ。民衆の悩みをわが悩みとして、彼らは立ち、叫び、戦った。
 政府の弾圧が始まった。ロッシは危機をのがれて亡命に成功する。一方、ブルーノは投獄されてしまう。拷問につぐ拷問。しかし、彼は屈しない。
 そこで、卑劣な権力は、ブルーノをだまそうとする。にせものの手紙を見せ、「これを見よ、ロッシはお前を裏切ったのだ!」と。「友人のお前だけを苦しめて、自分は陰でこっそり、お前を裏切っていたのだ」と。悪魔のささやきであった。
 しかし、ブルーノは頑として信じない。汚らしい声をふりきるように、ブルーノは絶叫する。「デイビッド・ロッシ万歳!」最後の最後まで友の名を叫び、同志の正義を信じ抜いて死んでいった。
 その戦友の魂を胸に、ロッシはやがて「人間共和の永遠の都」の扉を開く――こういうストーリーです。
 若き日、戸田先生は、この本を私にくださった。忘れ得ぬ一書です。
 「これを、君と仲の良い同志十数名に、順番に読ませてあげてはどうだろう。みんなが読み終わったところで、その感想発表会をもつのも、いいだろう」
 先生は、どんな嵐にも負けない崇高な友情を教えてくださった。この先に、いかなる嵐があろうとも、同志を断じて裏切ることなく進め! 全人類を幸福にするという「広宣流布」の勝利の日まで、鉄の団結で進みゆけ!――と。
 ―― そういう友情は、ものすごく大きなスケールを感じます。人間の真髄の輝きというか、心が燃えているというか――。
12  ″われは一人立つ″
 池田 「心こそ大切」なのです。どこまでも弱く、移ろいやすく、醜いのも人間の心。しかし、どこまでも強く、揺るがず、崇高になれるのもまた人間の心なのです。
 大詩人ユゴーは、独裁者(ナポレオン三世)との戦いで亡命し、″島流し″のような形で、何と通算十九年間を頑張り通した。彼は、どんな迫害にあおうとも、自分は「意気軒高に立っていよう」と決めていた。
 「あと千人しか残らなくなっても、よし、私は踏みとどまろう!
  あと百人しか残らなくなっても、私はなおスラに刃向かおう。
  十人残ったら、私は十番目の者となろう。
  そして、たったひとりしか残らなくなったら、そのひとりこそはこの私だ!」(『ユゴー詩集』辻昶・稲垣直樹訳、潮出版社。「スラ」は古代ローマの独裁的な政治家。ここではナポレオン三世のこと)
 そういう「一人立つ」信念の人であってこそ、本当の友人をもてるとも言える。
13  「一生懸命」は偽善的なのか
 ―― 今の風潮としては、「信念が欠けている」現実があります。
 「何かに一生懸命だと、八方美人に思われる」とか「真剣にやればやるほど、偽善と思われる」とか。
 池田 「人間は生まれながらに皆、死刑囚である」と言われる。人間、いつかは死ぬ。だれもが必ず、その日を迎える。
 では、その限りある生を何に使うか。それが大事だ。くだらないことに、あくせくしても一生。なかには、自ら命を絶つ人もいる。こんな愚かな、悲しいことはない。断じて自殺はいけない。
 どうせ命をかけるならば、偉大なもの、崇高なもの、永遠の正義にかけるべきではないだろうか。
 大変な時に、変わらずに頑張れば、後で尊敬される。状況が厳しかろうが、人が変わろうが、自分は自分の決めた道を貫く。その人が「人間として」の王者です。勝利者です。最後は勝つ。そういう人であってこそ、本当の友情をつくれるのです。
 私にも、そういう友人がいる。世界中にいる。
 皆さんのお父さん、お母さんも、そうです。無名の庶民の″忘れ得ぬ同志″がいるからこそ、その方々のために私は生きているのです。本当の友情だから、学会は強いのです。この崇高な「同志の心」を受け継いでもらいたい。
 ―― ひと口に友情といっても、大変に奥の深いものだとわかりました。
 池田 友情は、人間にとっての大切な基本です。友情は、平和のためにも、社会の向上のためにも、大きな「滋養」であり「刺激」となる。友情の積み重ねが、平和社会の土台となるのです。
14  人間共和の「永遠の都」を
 ―― 全ての人が友情で結ばれたらすばらしいですね。
 池田 人間はみな平等です。だから、人類はみな友情を結んで、理想的な社会をつくろうとする。人間共和の「永遠の都」です。
 釈尊は、こういう「友情」の心をこめて「一切衆生」と言ったのです。ありとあらゆる人間、生命を平等に大切にしていこう、一人のこらず幸福にしていこうという心です。
 しかし、全世界の人々が全部、友情で結びつくのが理想であっても、現実にはそうではない場合のほうが多いでしょう。
 だからこそ、積極的に「友情を結んでいく」行動が大切なのです。少しでもよい、現実に挑戦し、現実を変えていくのです。その積み重ねが平和をつくっていく。
15  「一対一の関係」がすべての基本
 ―― 池田先生は、世界中に「心の懸け橋」をつくっておられます。文化交流、教育交流、人間交流で……。
 でも私たちは、なかなかそこまでいけないという感じなのですが。
 池田 大きい戦いといっても、じつは「一対一の関係」の積み重ねなのです。小さな一歩一歩を、一人一人を徹底して大切にしてきたからこそ、世界に広がる友情の世界ができたのです。一対一の関係です、どこまでも。それを何か大きなことを言ったり、したりすることが大人物のように錯覚してはならない。
 雨の一滴も、川の水の一滴も、大海の一滴も、一滴には違いがない。小さな世界の中の友情であったとしても、全世界の友情につながる。同じ「友情」であり、違いはない。「一人」の本当の友人をつくることが、「世界」の平和へと通じているのです。

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