Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

なぜ祈りが叶うのか 努力、努力の延長に「祈りが実現」

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
2  「祈りとして叶わざるなし」
 ―― 以前、勤行・唱題の意義について、教えていただきました。それから勤行・唱題に挑戦を始めた人も多いようです。
 祈りはじめて、どう変わったか――聞いてみました。
 「二学期に入り、友人関係で悩みました。御本尊様に、『自分がいちばんいい方向に変わっていけるように』と祈り、素直に自分の気持ちが出せるようになりました。にがてだった友人のいい面にも気づくことができ、感動しました」
 「祈ると、自分自身が違う人になるような気がします。いろんなことに頑張れる自分がいて、何でもできるような気がして。そんな自分を見ている自分自身が大好きになります」
 「いじめに遭い、『このままではいけない。自分を変えたい』と一生懸命、祈りました。すると、何でも相談できる良き親友を得ることができました」
 その一方で、「本当に祈りは叶うのか」「こんな自分が『強くなれる』なんて信じられない」と半信半疑の人や「一生懸命、祈ったのに叶わなかった。精いっぱい努力もしたのに」と言うメンバーもいます。
 「御本尊に祈れば、どんな祈りでも叶う」と言われますが、本当でしょうか。
 池田 もちろんです。「祈りとして叶わざるなし」の御本尊です。「必ず叶う」と決まっているのです。
 日蓮大聖人は仰せです。「たとえ大地をさして外れることがあっても、大空をつないで結びつける人があっても、また、潮の満ち引きがなくなったとしても、太陽が西から昇ることがあったとしても、『法華経の行者』(妙法を実践する人)の祈りが叶わないことは、絶対にない」(御書一三五一ページ、通解)と。
 太陽は必ず東から昇る。それ以上の確かさで、祈りは叶う。それが宇宙の法則だからです。だから、大切なのは、こちらが「法華経の行者」であるかどうか、本当に実践しているかどうかにかかっている。
 戸田先生は言われていた。「釣鐘を、楊枝でたたくのと、箸でたたくのと、撞木(鐘を鳴らす棒)でつくのとでは、音が違うだろう。同じ釣鐘だが、強く打てば強く響き、弱く打てば弱く響く。御本尊も同じだ。こちらの信力(信じる力)・行力(行じる力)の強弱によって、功徳に違いがあるのだよ」
 ―― わかりやすい譬えですね。
3  こちらの「信力」「行力」で決まる
 池田 「信力」「行力」とあるように、信じる心は一種の「力」です。「絶対に、叶わないわけがない」と「確信」を奮い起こしていけばいくほど、その「信力」の強さに御本尊が応えてくださるのです。
 また、「行力」とは「題目を唱える力」と、人のため、社会のために「広宣流布へ行動していく力」の両方をいう。それが強ければ強いほど、いくらでも御本尊の「仏力(仏の力)」「法力(法の力)」は発揮されていくのです。
 ―― 何か、すごく合理的というか、法則にのっとったものなんですね。
 池田 「祈りが叶う」といっても、オカルト的なものではない。また人間とかけ離れた神仏が、″お情け″で願いを聞き届けてやるといった、神秘的な、いいかげんな話ではない。
 人間は、大自然から「電気の力」を「英知」を使って引き出し、利用できるようにした。あたかも、そのように、生命と宇宙の法則を研究したのが仏法です。その仏法の最高理論をもとに、日蓮大聖人が御本尊をつくってくださったのです。電気の理論で電灯ができたようなものです。
 だから戸田先生は、「もったいないことだが、御本尊は『幸福製造器』と言える。人類を幸福にするための機械であられる」と言われていた。
 人間の智慧、仏の智慧の最高の結晶が御本尊なのです。だから、こちらが一の信力、一の行力だと、一の仏力、一の法力となって現れる。百の信力・行力は百の仏力・法力となって現れる。万の信力・行力は万の仏力・法力となって現れるのです。
 ―― 仏教哲学は「八万法蔵」と呼ばれるほど、膨大な理論があります。これらを全部、勉強するのは、まず不可能です。
 しかし、電気の理論を勉強しなくても、電灯がつくように、仏教理論を勉強しなくても、唱題という″スイッチ″を入れれば、祈りは叶うということですね。
 池田 もちろん、理論も勉強した方がいい。勉強すればするほど納得できるし、仏法の素晴らしさ、深さがわかって「確信」が強くなるからです。「信力」「行力」を強めるための教学の勉強なのです。
4  人間だけに「祈り」がある
 ―― 「祈り」というと、何か特別のことのようなイメージがありますが、すごく道理にかなっているというか、人間の英知の結晶なんですね。
 池田 古来、人間だけが祈りを持つ。太陽に向かって祈る。火に向かって祈る。山に向かって祈る等々……。人間は、偉大なる自然に向かって手を合わせ、安全や幸福を祈ってきた。
 祈りとは、人間の大宇宙に対する敬虔な心であり、偉大なものに対する畏敬の念の発露である、と言えるかもしれない。
 理論でも、学問でも、科学でもない。人間と宇宙の「つながり」「関係性」「対応」という、人類が自ずから知っているもの、感じているものから発しているのです。合掌して祈ろうとする姿、行為は尊いものです。
 ―― たしかに、動物に祈ることはできません。
 池田 祈りは、本能的に、人間に備わったものなのです。たとえば、困った時に、「助けてください」「守ってください」という素朴な思いがわいてくる。
 ―― 必死ですね。理屈ではなく、どうしようもない人間の現実だと思います。
 池田 そのような思いが「祈る」という行動になっていったのだろう。これが、古今東西、大昔からの実態でしょう。そういう時、祈るという行動に、深い理論的な裏づけがあったわけではなかったと思う。「祈ったら必ずそうなる」という確信があったわけでもなかっただろう。しかし、そういう「祈る」という行動の中から、だんだんと、形のある宗教が発生していった――こう考えられる。
 ―― 宗教から祈りが生まれたのではなく、祈りから宗教が生まれたのですね。
 池田 私たちは――無宗教と自称する人でも――何かを心から願っている。何かを心の底で祈っている。これらを、宇宙の法則のうえから、祈りと現実がきちんと合致していくようにしたのが、仏法の祈りです。
 ―― 祈りから宗教が生まれた――たしかに、世界には、さまざまな宗教があり、宗教によって祈る対象も違います。
 池田 祈る対象を「本尊」という。馬に祈ったり、蛇に祈ったりする宗教もある。さまざまです。
 日蓮大聖人は「諸宗は本尊にまどえり」――諸宗は本尊について混乱している――と言われている。
5  「本尊」の意味
 ―― それでは、日蓮大聖人の仏法の「本尊」とは何なのでしょうか。
 池田 以前にも述べたとおり、「本尊」の「本」とは宇宙と生命の根本ということ。「尊」とは、その宇宙の根本を尊び、尊敬すること。「本尊」には「根本尊敬」という意味がある。だから、根本として尊敬するものが間違ったら、すべてが狂ってしまう。ある人は「お金」を本尊としている。ある人は「マスコミ」を本尊としているかもしれない。また、ある人は「科学技術」を、ある人は「学歴」を本尊としているかもしれない。
 日蓮大聖人の仏法では、宇宙の本源の「法」を「本尊」とする。それは自分自身の生命の根源の「法」でもある。ちょっとむずかしいが、「境智冥合」といって、拝む対象の「境」と、拝む側の「一念」である「智」が奥深く合一していく。つまり、宇宙の究極の「法」と自分の「一念」が合体して、祈りとなる。
6  万物を動かす本源力が妙法
 池田 たとえていえば、ギアを噛み合わせていくということです。小さなギアでも、大きなギアと、きちっと噛み合わせれば、すごい力が発揮できる。
 同じように、「小宇宙」の自分自身が、「大宇宙」の生命と、きちっとギアを噛み合わせていけば、どんな悩みも乗り越えられる無限のパワーが出るのです。祈りを叶えるために、全宇宙の諸天善神、仏・菩薩も動き始める。
 ―― その「ギアを噛み合わせる」のが「祈り」ということですね。
 池田 そうです。南無妙法蓮華経というのは、宇宙の「大リズム」の音声であり、宇宙を運行させている「本源」である。また「核」である。
 万物を変化させている根源が妙法です。だから、妙法を唱えていけば、万物を動かすことができる。宇宙が動いているリズムが、南無妙法蓮華経のリズムだと言っている人もいる。映画でも扱われたこともある。
 ―― はい。アメリカの「インナースペース」という映画でした。人間の体内(インナースペース)を旅していく話です。主人公が題目を唱え、「なせば成る!」と叫びます。
 いきなり「南無妙法蓮華経」という字幕が出てくるので、びっくりしました。
7  そのままの姿で祈る
 ―― メンバーからの質問なんですが、「祈り方がわかりません。正しい祈り方というのは、あるんでしょうか」というんですが。
 池田 ありのままの姿でいい。御本尊を「根本中の根本」と尊敬して、素直に、子どもが「お母さーん」と抱きついていくような気持ちで、ぶつかっていくことです。
 苦しければ苦しいまま、悲しければ悲しいまま、つくろわず、飾らず、背伸びせず、ありのままの心で唱題していけばいいのです。
 大聖人は「信心と申すは別にはこれなく候」と仰せだ。「信心というのは、特別のことではありません」という意味です。
 「親が子どもを捨てないように、子どもが母から離れないように」、そのように自分の心を御本尊の中に入れて、「実現させてください」と真心から祈ればいいのです。その祈りが、必ず、力を与えてくれる。
 「祈り」という特別なものがあるのではない。「心から、お願いする」ということにほかならない。「心」が大事です。心から御本尊を慕い、信じ、御本尊を大好きになって祈っていくことです。
8  唱題は「質と量」どっちが大事?
 ―― 「祈りは何時間もやらないと叶わないのですか。短時間でも祈りが強ければ、叶うのですか」と言う人もいます。要するに「質」が大事なのか、「量」が大事なのかということですが。
 池田 一万円札は、千円札よりも「質」が高い。一万円札のほうがよいのは当然です。真剣な、強き祈りが大事です。
 そのうえで、一万円札をたくさん持っていれば、いちばん、いいわけだ。祈る「質」も「量」も、両方、大事なのです。
 すべて自分のための信心です。唱題も「自分が満足する」ということが大事です。決して、何時間やらなければいけないとか、形式ではない。
 目標を立てることは意味があるが、疲れている時とか眠い時とか、心もうつろに、惰性で口を動かしているだけ――それよりも早く休んで、はつらつとした心身で行うほうが、価値的な場合がある。
 居眠りしながら祈るのではなく、真剣さが大事です。「ああ、すっきりした」と自分が満足するのが第一義です。その一日一日の積み重ねが、自然のうちに、いちばんいい方向へと人生を開いていくのです。
 ―― たしかに、そういう体験は、創価学会に、文字通り「無数」にあります。
 池田 そう。学会は、皆が「体験」をもっているから、強いのです。
9  さぼった時は
 ―― 「勤行・唱題を一日でもさぼってしまえば、今まで祈った意味はなくなるのでしょうか」と悩んでいるメンバーもいます。
 池田 勤行をさぼっても、それまで祈ってきたことが消えることはない。心配しなくていい。学校に行くのに遅刻しそうな時、勤行できなくとも、たとえば、お母さんが祈ってくれれば、すべて通じる。
 また、自分の心に御本尊への「信」があれば、福運は消えない。勤行をしなかったという″罪悪感″を持つ必要もない。
 もちろん、勤行をさぼることを容認するのではない。それでは、「心」が祈りから外れてしまっている。
 しかし、生活の中の信仰です。わざわざ遅刻する必要はない。
 ―― 「心」が大事なんですね。
 池田 だから、時間がなく、勤行がなかなかできなくても、自分から勤行をやめていってはいけない。そうなったら、信心の「心の火」が消えてしまう。自分から、やめてはいけない。
 祈りは「心の充実」であり、「心の確信」を高めていくのだから、自分にとって「得」になることは確かです。
 ―― 本当に時間がない時は、勤行と唱題のどちらを優先すべきでしょうか。
 池田 勤行する時間がなかったり、なかなかできない人は、まず題目をあげなさい。題目が″主食″であり、お経は″おかず″のようなものです。両方そろったほうがよいに決まっているが、まず題目をあげていきなさい。
 一遍でもよい。題目はあげていきなさい。日蓮大聖人は、一遍の題目にも、大功徳があると言われている。
 さらに、方便品・自我偈・題目とあげられれば、お経も題目も入っていくし、一段と充実感もあるだろう。もちろん、五座・三座の勤行をしていくのが理想ではあるが。
10  「実力を出しきる生命力」がわく
 ―― 「祈っている時間があったら、その分、勉強したほうがいい」という人もいますが。
 池田 勉強に忙しくて勤行をする時間がないと思う人は、勉強して余った時間で題目をあげればよい。祈っていく主体は自分です。自分が決めていけばよい。
 勉強をするというのは、言うなれば高校生の「義務」です。一生懸命に勉強をし、クラブ活動もしていれば、そうそう時間は取れないだろう。
 しかし、そのような中で祈っていくからこそ尊いのです。祈れば、自分自身の「勝利の原因」を作れます。祈ったほうが勝ち、得をします。
 題目をあげれば、生命力がわいて頭もよくなる。また、自分の実力を出しきる生命力がわいてくる。たとえば、実力が「十」ある人なら、試験の時も「十」出す生命力がついてくる。ふつうは、よくて、七か八しか出ないものだ。
 ―― 実力が「五」しかないのに「十」出したいというのは、虫がよすぎるということですね。
 池田 勉強という努力をしないで、祈って成績を良くしていこう、なんていうのは、錯覚です。努力をした延長に、祈りは叶い始める。「必ず、祈ったようになるんだ」と、自分の心が開けていく。
 また、「太陽」が昇れば、「地上」が明るく照らされていくように、現実の勉強や生活で、自分が何をどうすれば、うまくいくのか、はっきりとわかってくる。そして、「また頑張ろう!」という元気がわいてくる。
 ″努力するためのエンジン″が信仰です。祈りです。そこを、かん違いしてはいけない。
 ―― たしかに、百科事典を横に置いて、いくら祈っても、知識が増えるわけではありません。
11  祈りは「叶うまで」続けよ
 池田 働きもしないで給料をくれと言っても、それは無理です。
 仏法も、「すべての人を幸福にする」という仏の願いのために働いた分だけ、自分の祈りも叶っていくのです。
 そもそも、御本尊には「祈りを叶える義務」などない。「拝んでほしい」などと言われたわけでもない。こちらが、拝ませてほしいとお願いしたのです。その感謝の心があれば、祈りは早く叶うのです。
 ―― それと関連するかもしれませんが、こういう質問もあります。「叶わない祈りというのは、なぜ叶わないのでしょうか。その叶わなかった祈りも、自分の成長になるのでしょうか」と。
 池田 祈っていることがなかなか叶わなかったり、一生懸命祈っても、結局、叶わなかったということもあるだろう。しかし、大切なことは「祈りが叶うまで続ける」ことです。祈りが叶うまで祈りを続けることによって、自分自身を厳しく見ることもでき、日常生活の向上にもつながっていく。
 就職して働きにいっても、その日に給料がもらえるわけではない。木を植えて毎日、水をやっても、すぐに大きくなるものではない。
 ―― 「桃栗三年、柿八年」というくらいですから、時間がかかります。
12  「祈り」は向上への「心」の表れ
 池田 水をやり続けることで、だんだんと木が生長するように、毎日だんだんと勉強が進んでいくように、すべてのことが地道な努力の積み重ねで、でき上がっている。
 ―― 仏法は生命の法則だから、法則を無視した、道理に合わない話はないということですね。
 池田 祈ったから、すぐに具体的な結果が出るとは限らない。しかし、本当に毎日、祈った場合、その時は叶わなくても、何かの時に大きな軌道修正ができるようになっている。あとから考えると、「これで良かったんだ」と思えるように必ずなっている。
 ―― だから、祈り続けることが大切なのですね。
 池田 「叶う、叶わない」には、さまざまな要因がある。しかし、「祈っている」ことで、自分自身の軌道が修正されていく。また、たとえば「勉強」のことを祈ったとしても、それだけでなく、より以上、大きく、自分の人生万般に渡って広がっていくのです。
 結論すれば、何があろうと「御本尊に向かって祈ろう」という姿が大事です。それが、向上しようという決心の表れです。その「心」が大切なのです。その「心」が人間の証であり、何かを為していこうという崇高な精神の表れなのです。
13  「勤行・唱題のスピード」は?
 ―― 勤行・唱題のスピードは、どのくらいがいいのでしょうか。
 池田 早からず遅からずで、リズムがあり、大声にならず、また、小声でもなく……勤行のスピードも、年齢や男女や場所・時間によっても変わってくる。
 何にとらわれることなく、いちばん拝みやすい勤行でいい。ある先輩は「白馬がバッバッと進むような勤行がよい」と言っていた。
14  どこを見て?
 ―― 「小さい頃、御本尊様の『妙』の字を見ながら祈るんだよ、と言われました。どうしてですか」と聞く友もいます。
 池田 御本尊を見ているというのは、宇宙を見わたし、見おろしているようなものだ。御本尊というのは、簡単に言うと、宇宙の原動力、本体を顕されたものです。だから、御本尊のどこを見ても、宇宙全体を見ているのであり、同じです。
 ただ、拝みやすいのは真ん中あたりを見ることだろう。かつて、私も、先輩からは「『妙』は頭を表しているのだから、そこを見て拝んだらよい」と、言われたことがある。(妙は頭、法は喉、蓮は胸、華は腹、経は足を表すとされる)
 拝みやすいところを見ればよい。
 経典にも「端坐して実相を思え」(法華経七二四ページ)とあります。私たちの立場から拝すれば、「実相」とは御本尊であり、「思」とは信心です。
 端坐して(きちんとした姿で)御本尊に向かい、御本尊を信じて題目を唱えていく――そういう、ひたむきな信心の姿勢こそ大事であって、どこを見て拝みなさいとは、御書に書かれていない。窮屈なきまりなど、ないのです。
 ともあれ、祈りの仕方を自由自在にしてもらっているのは、日蓮大聖人の慈悲です。本人の自主性、性格、立場等、さまざまな境遇を考えて、伸び伸びと信心していきなさい、という大聖人の大きな御境涯です。経典や御書にない形式を押しつけてきたのは、後世の悪い坊主の権威・権力でしかない。
15  御本尊は紙ではないの?
 ―― 「印刷された御本尊が人間のさまざまな問題を解決できるのか」という疑問があるので、祈れないという人には。
 池田 御本尊は印刷かもしれない。しかし、厳然と「力」がある。お金の千円札も印刷です。卒業証書も印刷だ。大臣の辞令も印刷。大事な書類も、みな印刷だ。しかし、何らかの「力」をもっている。
 紙は「物質」であるが、御本尊に書かれている文字は、大聖人の「心」です。「魂」です。
 末法の御本仏である日蓮大聖人の魂を、墨に染め流して書かれたのが御本尊です。(御書一一二四ページ、趣意)
 色心不二、つまり、「物質(色)」と「心」は一体なのです。そこに生命がある。御本尊には仏の生命がある。紙を拝んでいるのではないのです。
 ―― 「文字」の力は、不思議ですね。たとえサイン一つでも、その文字には、その人の性格や福運や、さまざまなことが含まれています。
 池田 教科書も印刷だが、そこに書かれている文字を読み、知識を得て、さまざまな発見をしたり、新たな考えを持つことができるようになる。
 たとえば、看板に「東京駅」と書かれていれば、その漢字三文字の中に、東京駅のさまざまな機能が含まれている。新幹線の発着や東京の玄関という機能も入っています。もちろん、「東京駅」という文字がなくとも、看板がなくとも、東京駅は存在し、その機能は存在する。しかし、皆がその看板を目印として、わかりやすく、たどり着ける。
 ―― 御本尊は、私たちが大宇宙と交流するための、偉大なる文字なんですね。
 池田 携帯電話も、ただ電話を持っているだけでは使えない。電波と電波をつなぐ中継基地がなければ使えない。
 同じように、御本尊が宇宙との中継基地として、宇宙と自分を通じさせていけるようになるのです。
16  祈りは具体的に
 池田 ともあれ、祈りは「具体的」でなければならない。漠然とした一念であっては、「的」を見ないで「矢」を放つようなものだ。
 また、祈れば何とかなるだろうというような、甘えた一念ではなく、「何としても実現していくのだ」という、強き強き叫びがこもっていなければならない。全身全霊をかけた真剣勝負の祈りが、御本尊に通じないわけがない。
 また、自分のことだけでなく、友のこと、家族のこと、さらにはクラスのこと、社会、人類のことまでも祈れる信心になっていけば、その分、大きな自分になっているのです。
 私が三十二歳で会長になって、まず祈ったのは「豊作でありますように。飢饉がないように」「大地震がありませんように」の二点でした。
 また、あるときは「広宣流布のために、自分が大難を一身に受けていこう」と祈った。そして大阪事件(一九五七年=昭和三十二年)では、祈りの通り、無実の罪で牢へ行きました。
 ―― 祈りの次元が全然、違うという感じがします。
 池田 みんなが、まねをする必要はない。また、そんな簡単なものではない。ただ、何を祈っているかに、その人の境涯が表れる。その境涯を高めるために、「祈り」という崇高な修行があるのです。
 そして、祈った通りの結果を出すために、だれよりも真剣に行動していく。そこに「信仰即人生」の正義の軌道がある。その軌道を、毎日、たゆみなく歩んでいく人は、年とともに、どっしりとした「大樹」のごとき自分自身になっていくに違いない。

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