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日蓮大聖人・池田大作

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「個性的」って、どんな人 必ず君にしかない「宝=個性」がある

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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2  桜梅桃李で!
 池田 ある人が言っていた。
 「個性とは、この世界で、その人しかもっていない宝の一品である」
 まったく同じ顔の人はいないように、人それぞれ個性が違う。自分にしかない宝をもっている。自分にしかできない使命をもっている。
 鳥には鳥の個性があり、犬には犬の個性があり、ライオンにはライオンの個性がある。
 同じように、それぞれの人に、それぞれの性格があり、それぞれの個性がある。個性があるから、人格はできる。個性があるから、その人でなくてはならない生き方があり、人生があり、使命がある。個性とは、他の人がもたない、自分なりの独特の特性であり、本能的ににじみ出てくるものでしょう。
 人間の一生とは、自分らしい自分の個性を、思う存分に発揮し、思う存分に開花させていくためにある。難しく言うと「自己実現」です。これを「人間革命」と言ってもよい。
 この世に生まれてきた以上、絶対に自分にしかできない自分の使命がある。そうでなければ生まれてはこない。宇宙は決して無駄なことはしない。何か意味がある。人間が「雑草」と呼んでいる植物にだって、何か意味がある。また「桜」には桜の、「梅」には梅の、「桃」には桃の、「李」には李の、それぞれの個性があり、使命があり、意味がある。
 ―― 「桜梅桃李」ということですね。
 池田 そうです。梅が桜に憧れて、桜になろうとしても、意味がない。梅は梅らしく、自分を咲かせきっていくことが正しいし、それが幸福です。
 個性は、みんな違う。だから面白い。みんな同じだったら、つまらないでしょう。
 ―― たしかに理論派・直感派、学者タイプ・スポーツマンタイプ、理系・文系、雄弁・無口、短気・のん気、几帳面・大らか、直情径行型・慎重型、早熟型・大器晩成型等々、十人十色です。
3  懸命の努力また努力で、個性を磨け!
 池田 たしかに、その通りだ。しかし、忘れてはいけないことがある。それは、「本当の個性は、必死の努力によってしか花咲かない」ということです。だから、今の自分が自分のすべてだと思ったら、大きな間違いを犯してしまう。
 とくに諸君の年代では、何が自分の個性なのか、わからないのがふつうです。人間は変わるものです。だから、たとえば、「今の自分は無口だ。だから一生そのままでいこう」――これは個性を生かした生き方ではない。
 無口だけれども、必要なことを必要なときに、きちっと明快に話していける自分になっていこう。勇気をもって、正しいことを正しいと語っていける自分になろう――そう懸命に努力していくなかに、はじめから「おしゃべり」の人とは違った、その人ならではの味のある話し方ができるようになる。それが個性です。
 勉強でも同じだ。はじめから努力もしないで、自分は「勉強に向いていない」とか言うのは逃避です。人間は、違いもあるが、同時に、だれでも平等に「莫大な可能性」をもっている。人間は、やろうと思えば、大ていのことができるものです。いちばんいけないのは、自信を失い、「どうせ自分なんか」と、自分で自分を小さく決めつけてしまうことだ。
 頭のよしあしも、本当は、それほどの差があるものではないのです。今の成績が、自分の力のすべてではない。自分の個性なのではない。どんなに苦しくても、「人にできて、自分にできないはずがない」「自分の可能性を、ぎりぎりまで、ためしていくんだ」と頑張ることです。自分を信じきるのです。他人と自分を比較して、小さな劣等感をもったり、優越感をもったりする生き方は、わびしい。
 「自分のもてる力を、全部、出しきって生きてみよう」と決心して、努力また努力を重ねた人だけが、本当に「個性的」に輝いてくる。そういう人であってこそ、他の人の個性も尊敬できるし、大切にできるものです。絶対に、人の足を引っぱったり、いじめたりはしない。
4  よき個性とは「人のため」に行動できる力
 ―― こういう声もあります。「私の友人には、スポーツや勉強ができる人など、個性的な人がいます。でも自分には、これといった取りえもなく、自分が本当につまらない人間だと思ってしまいます。個性には才能が必要なのでしょうか」と。
 池田 個性と才能は別問題です。個性は一生のものであり、人格や生き方も含めた「全人間的」なものです。人生と社会の荒波と戦うなかで磨かれていくものです。自分らしく貫いていく生き方の中に、個性は光り、強まっていく。
 スポーツがよくできる人や、勉強がよくできる人は華やかでしょう。地道に努力していても、大きな結果が出ていない人は、たしかに華やかさはないでしょう。しかし「努力を続けている」その中に、じつは、立派な個性が光っている。
 そういう個性を、より「善」の方向へもっていくのが信仰です。自分をなげうって、人のために尽くしている人。人に認められなくても、人のため、社会のため、妙法のために行動している人は、最高峰の個性をもっていると言える。偉大な個性があればこそ、そのような行動ができる。本当の個性とは、表面に現れた現象ではない。そんなものは、薄っぺらなマスコミ的なものでしかない。
 良き個性とは、つまるところ「人格」です。自分中心ではなく、「世のため、人のため」に行動できる「全体人間」こそ、本当の「個性的な人」なのです。
5  「目立つ人」が個性的なの?
 ―― 「個性的」というと「変わった人」「目立つ人」というニュアンスがあります。また流行に乗っている人というか、「芸能人」などを思い浮かべるという声もありました。それらは、個性のごく表面的なものにすぎないということですね。
 池田 個性とは「人と違うことをやろう」というような浅いものではない。そんな虚栄を捨てて、自分が精いっぱい、何か価値あることをしようと打ち込んで生きた結果、光ってくるものです。ゲーテも言っている。
 「ただただどうすれば自分を著名にできるか、どうすれば世間をあっといわせることに大成功するか、ということだけをねらっている。こういう間違った努力が、いたるところに見られる」「全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』山下肇訳、岩波文庫)
 「見た目」とか「人気」とか「流行」とか、それらに踊らされている人は、本当のしっかりした自分をもっていない。本当の個性をもっていない人です。そういう虚像は、中身のない個性、ニセの個性です。
 芸能関係者が言っていた。「大女優と言われながら、他人を人間扱いしない人もいます。華やかに振る舞う大スターでも、自分の結婚式に呼ぶ友人が一人もいないという人さえいるんです」と。
 実像が大事です。見た目の「個性」でなく、中身の「個性」で勝負すべきです。
 ―― こういう意見もありました。「マスコミは女子高生というと、茶パツで、ルーズソックスで、ラルフのセーター着て、キティちゃんのピッチ(PHS。簡易携帯電話)もって……みたいに決めつけていて、本当にいやです。マスコミに踊らされている感じがします」
 池田 そうだね。その人が言うとおり、商業主義のマスコミの影響が大きい。流行も「つくられる」という側面がある。だから、はやりの服、はやりのものを身につけていても、かえってそれは個性的じゃないかもしれない。
 ともあれ、服装などは個人の趣味であり、本来、自由です。女性が美しくなりたいと思うのも当然であり、自然なことでしょう。ただ、今の皆さんは、そんなに化粧をしなくたって、きれいな服で飾りたてなくたって、美しく輝いているのです。
 ロシアの児童音楽劇場の母、ナターリヤ・サーツさんが、通訳の女性に言っていたそうだ。一緒にデパートの宝石売り場に行った時のことです。
 「あなたは若いから、あんな高いもので飾りたてなくても、そのままで美しいのよ。若さがね。でも、私は、もう若さという美はないから、その分、美しい物で飾ることが大切なの」(『私が見つけた「青い鳥」』斉藤えく子訳、潮出版社の「訳者あとがき」)と。
 本当の個性は、表面的な格好などではない。内からにじみでてくるものです。
6  「派手な服を親に注意された」
 ―― こんな声も寄せられています。「『服と音楽』で自分を表現したい。将来、その仕事に進みたい。でも、派手な服を着ると、親は『学会っ子なんだから、ふつうの格好にしようよ』と言います。親の気持ちもわかるのでつらいんですが、納得いかないです」という悩みもありました。
 池田 それは、親の無認識である場合もあるでしょう。「みっともない」という親の見栄の場合もあるだろうし、また親の愛情でもあるでしょう。
 たしかに、「ただ従う」というのでは、自分の個性を抑えつけられていると感じるでしょう。しかし、反発するだけが、それでは個性的なのかというと、違うと思う。家庭にかぎらず、一つの集団、一つの世界に入った場合には、賢明に、それに調和していこうという心も大事です。そういう応用性をもてることも、それ自体が個性です。
 ただ従うだけの「惰性」でもなく、反発だけの「わがまま」でもなく、釣り合いを取って、調和を図っていく。そのような聡明な考え方をできるのも、個性です。
 それがなくて、単なる自分中心主義になってしまってはいけない。
 自分だけが生きているのではない。親、友人、そして世界の中で生きている。すべて関係している。その中で個性を光らせることが大切です。
 わがままではなく、自分も、周囲をも、良い方向に伸び伸びともっていける生き方、あり方こそ、立派な個性と言える。
7  自他ともに価値ある進歩を!
 ―― 「流行が気になる」という人がいれば、「まったく気にならない」という人もいます。問題は「同じじゃないと、いじめられる」という傾向です。ある人は「同じ年代の子ども同士で『服は、これじゃなきゃだめ』という決まりがある」。また「みんなと違う意見を言うと、『ふつうは……』と言われて、白い目で見られる」と語っていました。
 池田 これは根が深い問題です。日本人は、昔から、画一性を重んじてきた。よきにつけ、悪しきにつけ。西洋との大きな違いです。個性観が全然、違う。個性を埋没させる国民性が、時代の進歩を妨げたことも大いにあるでしょう。
 いわゆる集団的なファッショで、囚人のように行動を縛るのは、個性を無くしていこうというものであり、人権無視のいちばん不幸なことです。
 本当は、人の個性を尊重し、自分の個性を伸ばしていくところに、自他ともに価値ある進歩ができる。人を見かけで判断するようなことは、人間に対する侮辱です。個性を大事にする心とは正反対だ。
 アメリカの人種差別撤廃の運動(公民権運動)の偉大なるお母さん、ローザ・パークスさんは、私の尊敬する友人です。どこまでも優しい、しかし、とても芯の強い女性です。彼女は語っています。
 「どのくらいお金を持っているか、どんな家に住んでいるか、どんな服を着ているかということで人を判断してはいけないと、母は私に教えてくれました。人は、自尊心と他人に対する尊敬の念によって判断されるべきだと、母は教えてくれました」(『勇気と希望』高橋朋子訳、サイマル出版会)
 ―― 「二十一世紀使命会」(未来部担当者の会)の人が言っていました。
 「今、学校では、成績が上がっても、素直に友達と喜び合えない雰囲気があるみたいです。殺伐とした感じがします。とくに受験生は。だから、部員会ではいつも、彼女は花にくわしいから『花リーダー』、本が大好きだから『読書リーダー』とか、音楽の好きな人に『CDナンバーワン』を紹介してもらうとか、みんなの個性に光を当てているんです」と。
 また、イギリスに小さいころからいた人は、「向こうにいた時のように振る舞うと、日本の学校では浮いてしまいます」と。「個性を大事にした教育」と口では言っても、日本では、みんな同じに見えるというのです。いわゆる「長いものに巻かれろ」式の集団主義、大勢順応は、日本社会のよくない点ではないでしょうか。
 池田 教育は、個性を埋没させるのではなく、伸ばしていくものでなくてはならない。政治も科学も文化も、基本中の基本は、個性の尊重のなかにある。それを「人権」という。個性の尊重といい、人権といっても、名前が変わっているだけです。
 しかし、現実には画一的な「管理教育」もあり、点数だけで人間全部を決めつけるような「序列主義」もある。ある人は「自分はいやだ。逃げたい」と叫ぶ。ある人は何も考えないことにして、「きょう」を気持ちよく過ごすことだけに集中する。日本の深刻な問題です。独創性や創造性の芽をつんでしまう場合が、悲劇的なまでに多い。
 個性がない、創造性がないというのでは、人類社会から遅れてしまう。それは人格がないということでもある。
 人間は皆、同じものではない。人権無視の従属は、個性を抹殺する不正義です。その究極は、圧政であり、ファシズムとなる。
 ―― そういうなかで、多くの人が「自信」を失い、卑屈になったり、虚無的になったり、暴力的になったりする現実があります。
 池田 人間は、だれでも、自分らしい自分の開花を求めている。それが妨げられると、人間は「うつろな心」になるか、「破壊的な行動」に走ってしまう。それが「いじめ」や「ファシズム」の土壌にもなっていく。
 しかし、だからこそ諸君は環境に負けてはいけない。自分自身を信じる心をなくしてはいけない。
 絶対に、君には君にしかできない、この世の使命がある。あなたには、あなたでしか咲かせられない人生がある。何を疑ったとしても、このことだけは疑ってはならない。
 たとえ、だれが君を、だめ人間のように見たとしても、君だけは、そう見てはいけない。だれが、あなたを「取りえがない」とののしったとしても、あなただけは、そんな悪魔の声にうなずいてはならない。歯を食いしばって、自分を信じて、題目を唱え、自分の課題に本気になって立ち向かっていくことだ。人のおもわくなんか気にしないことです。
8  「自分らしさがわからない」
 ―― どうすれば自信がもてるでしょうか。「どうしても自分が出せない。自分らしさが、わからない」という人もいます。
 池田 根本は題目です。唱題が自分という「可能性の卵」を温め、孵す「親鳥」になってくれる。鳥の卵の中身は、液体のようになっている。それを見ているだけでは、鳥の姿なんか見えない。しかし親鳥に温められることによって、その中から、くちばしができ、目ができ、羽ができ、やがては大空を翔けめぐる立派な鳥となる。
 ―― たしかに、十代はまだ卵の段階で、多くの人は、卵から何が孵るかわからないと思います。
 池田 自分の個性も、若いうちは、なかなかわからない。わからなくて当然なのです。むしろ、「これが自分の個性だ」と思っているものが、人の借りものにすぎない場合も多い。
 ゲーテは、若い人は「噴水」に似ていると言っている。周りからくみ上げた水をはき出しているだけで、自分自身の水源をもっているわけではない。周囲の情報とか流行とかを取り入れているだけなのに、それが自分の個性であるかのごとく錯覚している――というのです。(前掲『ゲーテとの対話』中、参照)
 ―― やはり、じっくりと自分を育てることですね。
 池田 可能性の「卵」を題目の「唱えの母」が温めて、育ててくれると日蓮大聖人は仰せだ。(御書一四四三ページ、趣意)
 仏法で説く「仏」というのも、最高に個性を開花させた人格といえるし、自己実現し、人間革命した姿です。唱題することは、桜梅桃李の花たちが、太陽に顔を向けていく姿ともいえる。生命の大地に根を張っていく姿ともいえる。
 そして、「自信」は「努力」から生まれる。努力なき自信は妄想にすぎない。何でもいいから、自分らしく、これに挑戦してみようとトライした人だけが、失敗しても失敗してもトライし続けた人だけが、何があっても崩れない「自信」をもてるのです。自信は不屈の「意志」と同じことです。他人と比較して一喜一憂しているような自信は、本物ではない。そういう「他人志向」「他人本位」の生き方は、必ず行き詰まってしまうものです。
 ―― 「自分自身に生きる」ということですね。個性的というのは、とても勇気のいることですね。
9  「他人本位」を捨てる勇気を
 池田 青春時代は「自分さがし」の時代とも言える。
 文豪・夏目漱石。彼も「自分さがし」の旅をさまよった。イギリス文学を志し、ロンドンへ留学する。しかし、文明のギャップに苦しみ、劣等感に苦しみ、神経衰弱になった。悩みきった果てに、彼は思い当たるのです。――文学とは何か。その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、自分を救う道はない。「他人本位」だから、だめだったんだ。自分自身に生きよう――と。後に、漱石は青年たちに言います。
 「ああここにおれの進むべき道があった! ようやく掘り当てた! こういう感投詞を心の底から叫び出される時、あなたがたは始めて心を安んずる事が出来るのでしょう。容易に打ち壊されない自信が、その叫び声とともにむくむくと首を擡げて来るのではありませんか」(「私の個人主義」、三好行雄編『漱石文明論集』所収、岩波文庫)
 若いのです。他人の目に振り回されず、思いきって、何にでも体当たりで挑戦してみることです。
10  周囲の人は「鏡」
 ―― 「自分を見つける」際にも、人の意見を聞くことが大事だと思います。自分のことは自分で、なかなかわからないものですから。
 池田 そう。本人は「自分はこう」と思っているのと、周りが「彼(彼女)はこう」と思っている内容が違う場合がある。自分の顔だって、鏡がないと見えない。周囲の人には見える。親とか友人とかには、自分以上に自分のことが見えている場合がある。
 だから、人から言われることによって自分の個性を良い方向にもっていける。教育や指導や、注意や、叱られたりすることも、それをきっかけに、自分を良い方向にもっていける。
 逆に、人から言われることを聞かないで、自分のわがままを通すのは、個性ではない。それは意地っ張りであり、だれも得をしない。最高の著名人だって、家では奥さんに怒られている。皆さんのお父さんも、家ではよくお母さんに怒られているでしょう。いくら偉いと呼ばれている人でも、注意されながら行動している。
 皆さんが、何か言われたり、注意をされたりするのは、偉大な個性をつくっている過程であり、「耳をもっているのに、人の言うことを聞かない」というのは、道理に反する。人に言われて反抗的になって、皆がいやな思いをするのでは、何にもならない。
 賢明にならなければならない。人から注意をしてもらい、悪い「くせ」の根を切ってもらったほうが、長く見たら、自分を助けていくことになる。根が残っていると、次第に悪の傾向が大きくなり、悪い人生の方向になってしまう。
 ―― 社会や集団とかけ離れた個性というのはないわけですね。
 池田 社会の中で、より大ぜいの人たちのために、自分を発揮していくのが個性です。
 人間として有能な「生きる智慧」をもちながら、社会の中で自分としての価値を確立していくのです。だから、社会のルールを守っていくことも、個性を光らせるために必要です。
 人間社会では、規則を守らないで行動するということは、社会からはみ出ることになる。それでは、自分の個性も活躍の場がなくなる。
 諸君の場合であれば、学校の規則を、わがままから守らないという行動は、社会に出た場合、社会からはみ出た存在になることに通じる。
 本当の鍛えられた個性の人は、人の意見を喜んで聞くものです。それだけの強さをもっている。人の意見を聞けないのは、その分、弱い人間なのではないだろうか。
11  よき模範・よき書物・よき友が個性をつくる
 ―― 「個性を考えたとき、どうしても理想とする人の『まね』をすることになってしまいます。それでもいいのでしょうか」という声もありました。
 池田 前にも話したが、「学び」なくして個性は磨かれない。栄養を吸収せずして、走れるはずがない。「まなぶ」の語源は「まねぶ」だとも言われる。「まねする」ということです。
 子どもは、知らないうちに親の生き方を見習う。動物もみなそうです。
 優れた人、卓越した人、行動の人も、必ずだれかの生き方を学んで、そのような個性をもつことができた。だから、偉人伝などは大いに読むべきです。そこから、さまざまなことを教わるでしょう。反対に、悪意に満ちた低俗な本を読んだりしていると、個性は悪の方向に引っ張られてしまう。
 日蓮大聖人も「悪い象に殺されても、身体を破るだけであり、地獄等には行かない。しかし悪友(悪縁)に振り回されてしまえば、身も心も破壊されてしまって地獄に堕ちる」(御書7ページ、趣意)と言われている。
 良い刺激によって、良い個性が育っていく。個性は教育によって、また家庭環境によって、そして自分の努力によってつくられるものだが、根本は自分自身の自覚です。良き本に触れ、良き友人をもつことが大事です。
 青春時代は、何が自分にとって良い方向なのか、悪い方向なのか、まだわからない時代です。優れた人のことを学ぶことによって、自分の進むべき方向が見えてくる。自分自身が見えてくるのです。
12  「心」で決まる
 池田 ともあれ、人間のねうちは職業で決まるのではない。財産や名声や学歴で決まるのではない。各人が自分自身の道で、どれだけ自分らしく頑張ったのか。どれだけ善いことをしたのか。どれだけ全生命をあげて、その道に打ちこみ、献身したのか。その「心」が人間の値打ちを決めるのです。
 ゆえに、個性とは「人間として、人間らしい生き方をする」根本です。お金は使ってしまえば無くなってしまう。物は、いつかは壊れるし、「自分自身」を豊かにしてはくれない。しかし、個性は、耕せば耕すほど豊かになる。使えば使うほど豊かになる。減りもしなければ、無くなりもしない。そういう何かが、必ず一つは自分の中にある。その「宝」を光らせていく戦いが人生です。
 勝負は高校時代だけで決まるのではない。一生をかけて、自分だけの「宝」を磨き抜き、光らせきった人が、本当の「勝利者」なのです。

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