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日蓮大聖人・池田大作

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君は自由?不自由? 人生は「無限の自由をつかむ」戦い

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
1  ―― 「青春対話2」の連載、ありがとうございます。本当にご多忙のところ、申しわけないかぎりですが、みんな心待ちにしています。
 「私自身が、だれよりも成長しよう」という思いで取り組んでまいります。
 池田 こちらこそ、よろしく。一緒に″対話の旅″を始めよう。私は、大切な後継ぎのみんなが喜ぶなら、何でもしてあげたいのです。
2  「青春の語源」
 池田 青春対話――ところで「青春」の語源は何だろうか?それは昔、中国で「春」の色を「青」としたことに由来する。春夏秋冬の四季に、それぞれ色があるとして、「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と呼んだ。
 ―― 白秋というのは詩人の北原白秋の白秋でしょうか。
 池田 そうです。朱夏の朱は赤いということ。玄冬の玄は黒いということ。それぞれ季節の感じがよく出ている。人の一生で言えば、幼少年時代は玄冬。万物が萌え出ずる春に備えて、大地の下にエネルギーを貯えている。そして、時来り、青春の季節になれば、生命は一斉に「伸びよう!」「花開こう!」と動き始める。
 英語の「スプリング(春)」も、バネのように「弾む」意味がある。日本語の「春」も、内側から外にエネルギーが「張る」意味があるという。
 「青春」を方角で言えば「東」です。太陽が出る方向です(朱夏は南、白秋は西、玄冬は北)。青春は太陽に顔を向けて生きるんです。
 「伸びる季節」であるがゆえに、楽しさも大きいかわりに、苦しさも大きい。青春は悩みの季節です。
 だからこそ、苦しさから逃げてはいけない。苦しみながら、悩みながら、「太陽」を求め、「太陽」に向かって進むのです。負けてはいけない。
 芽が出るには、種子の硬い殻と戦わなくてはならない。青空のもとに芽を出すには、厚い大地を突き破らなくてはならない。今の苦しみは、そのための苦しみです。伸びているから悩みが絶えないのです。
 だから、苦しくても、つらくても、前へ進むことをやめてはいけない。
 そのように、何があっても「もっと成長しよう」「もっと大きな自分になろう」と頑張る心を「青春」というのです。その心がある人は、年をとっても「青春」です。その心をなくしたら、年が若くても老年です。
3  自由とは、遊びや浪費ではない
 ―― よくわかりました。今回のテーマは「自由」についてです。「君は自由か? 不自由か?」と聞かれると、大半の人は「不自由だ」と感じる時があるようです。
 「学校の規則が厳しすぎる。″ポケベル″(ポケットベル。連絡をとりたい時に、特定の電話番号に電話すると、小型受信機に電波で合図を送り、相手に知らせる通信機器)ダメ、茶髪ダメ、ルーズソックスもダメ、指定以外のカバンもダメ。スカートは、ひざが隠れないとダメ。そんな学校はイヤだ」との声もよく聞きます。
 また、親の干渉がイヤだという意見もあります。家で自分あてに電話がかかってくると、「だれから?」と聞かれる。夜、行き先を告げて外出しても、何度もポケベルで呼び出される。「愛情ととることができない場合があります」と。
 さらに「毎日、学校やクラブや塾で忙しく、自由がない」という声もあります。
 池田 不満がいっぱいあるね。意味は、よくわかるし、その通りでしょう。だれだって他人から束縛されたくないし、楽をしたいと思うのが人情だ。規則がなければ、また、お金や時間がいっぱいあれば、うちの親がいなければ、どんなに自由だろうと思っている人もいるだろう。しかし、それは、まだ人生を浅く考えているし、社会の表面だけを見ている。
 資産家で、世界中を旅行し、贅沢をしながら、働かないで、大変に自由のように見えていても、心は空虚である人もいる。周りからは、最高の自由の人生であるかのように思われていても、逆に、苦しみ、空しく、自由である度合い以上に、「不自由な自分」に縛られている場合が多々ある。
 アメリカのある実業家の夫妻も語っていた。「私たちは、世界中の大富豪という人々を知っています。しかし、夫に先立たれた老婦人の最後のはかなさや、目標のない人生、財産をつくり目的を遂げてから、いざ自分に立ち戻った時にわびしい人生を、本当に数多く見ています」と。
 自由といっても、自分が心の底から「何を」したいと願っているのか。自由とは、遊ぶことではない。浪費することではない。時間があることではない。休日が多いことではない。気分のまま、気ままに生きるのは「放縦」であって「自由」ではない。
 自由とは、いかに、自分自身を高揚させていくか、自分自身の目的に向かっていくか――そのなかにこそ、黄金のような「自由」がちりばめられ、光っているのです。
 ―― たしかに「遊ぶことが自由だ」と、つい思ってしまいますが、違いますね。
4  「受け身」は「不自由」
 池田 じつは、自由があるからこそ、勉強できる。自由があるからこそ、学校へも行ける。自由があるからこそ、勤行もできるし、高等部の活動もできるのです。それを不自由ととらえるところに、人生の大きな錯覚がある。
 学校に行くのを、権利ととるか、義務ととるか。自由か、不自由なのか――自分自身の哲学、智慧をもっているかどうかで、すべてが変わってくる。
 「受け身」になったら、どんなに自由な環境であっても「不自由」な自分になる。「攻め」の一念になれば、どんなに不自由な環境であっても、「自由」な自分になれる。
 御書にも、「この法華経の文字は、一つ一つがすべて御仏なのだが、私たち凡夫の肉眼では、文字にしか見えない。それはたとえば、ガンジス川を、餓鬼界の者は『火』と見る。人間は『水』と見る。天人は『甘露(苦悩を癒し、不死になる飲み物)』と見る。そのようなものだ。水は一つだが、見る者の境涯によって別々に見えるのである」(御書一〇二五ページ、趣意)とある。
 病気の人は、学校に行けない。戦争中の国の子どもも、学校に行けない。行ける人は、行ける自由がわからない。行けることは最大の自由なんです。勘違いしてはいけない。
 ―― 学校に行けるということは、本当は、すごく恵まれていることなのですね。
5  「私に君達の身体をください!」
 池田 アメリカで、多発性骨髄腫という病気にかかった青年がいる。次第に体が衰えていく、骨の癌です。
 彼は、最後の二年間、全身をギプスで固め、車椅子にのったまま地域の高校を回って、薬物乱用がもたらす害について話をした。
 「君たちは、自分の身体をニコチンやアルコールやヘロインで壊してしまいたいと思っていますか?自分の身体が車の中で粉々になってしまえばよいと思っていますか?気持ちが沈み込んで、金門橋から身を投げ出したいと思っていますか?
 もしそうなら、私にその身体を下さい! それを私の物にさせて下さい! 私はそれが欲しいんです! 私は生きたいんです!」
 講堂での彼の演説を聴いて、皆、体が震えたという。(ジュリアス・シーガル『生き抜く力』小此木啓吾訳、フォー・ユー)
 旧ユーゴの戦争の中で、子どもたちは言っている。
 「ぼくにはいろんな夢があったけど、戦争がすべてを奪ってしまった」「ぼくらの夢は友だちがみんな一緒に普通の暮らしができるようになって、学校へも行けるようになることだ」(樫達京子・稲川英二『失われた思春期』径書房)と。
 最近、アフリカのルワンダでも、残酷な内戦があった(一九九〇年〜九四年)。ある少年は、親を失い、おばあさんといとこたちだけになってしまった。
 だれかが働いて暮らしを支えなければならない。子どもたちの一人は、学校をあきらめざるをえなかった。結局、この少年が働くことになった。つらくて、何度も何度も朝まで泣いた。
 今は、学校に行っているいとこから勉強を教わっているそうだ。(「毎日新聞」一九九七年七月十九日付)
 ―― そういう人たちに比べたら、日本の高校生は、どんなに自由かということですね。
6  自由とは、どんな境遇にも負けない強さ
 池田 その通りです。しかし、それだけでは、環境がすべてを決めるような考え方になってしまう。
 そうではない。人間とは、人生とは、そんな簡単なものではない。本当の自由とは、仏法で言えば「境涯」です。この世でいちばん不自由な牢獄の中でも、境涯の広い人は、「自由」なのです。
 ノーベル平和賞を受賞した、アルゼンチンのエスキベル博士は、「獄中で私は『自由』への意識をもつことを学びました」と私に語っておられた。
 亡くなられたモスクワ児童音楽劇場総裁のナターリア・サーツさんも、牢獄を″学校″にして、圧政と戦った人です。
 サーツさんは、囚人それぞれの持ち味を生かして学び合おうとした。″あの人は化学の講義ができる。あの人には医学を教わろう″と。彼女自身も見事な歌声を披露したり、プーシキンの詩を朗読して、皆を勇気づけた。
 幕末の吉田松陰も同じだ。野山獄で、囚人を相手に講義をし、皆を勇気づけている。最後は、獄吏までも講義を聴いた。
 牧口先生もそうです。戸田先生もそうです。「信教の自由」のため、「平和」のために牢獄へ行っても、断じて屈しなかった。日蓮大聖人が言われた通り、「身は従えられようとも、心は従わない」(御書二八七ページ、趣意)自由の大境涯であられた。
 ―― どこにいようと、何があろうと、自分の境遇に負けない人が「自由」なんですね。
7  三重苦の不自由を超えて自由を
 池田 そうです。有名なヘレン・ケラー(一八八〇年〜一九六八年)を知っているでしょう。(以下、ヘレン・ケラー『わたしの生涯』岩橋武夫訳、角川文庫から引用・参照)
 彼女は一歳半で、目も見えず、耳も聞こえなくなってしまった。もちろん話すこともできなかった。しかし、サリバン先生と″師弟一体″の努力によって、読み書きを覚え、ハーバード大学(当時は、ハーバード大学に併設された女子学生専門のラドクリフ大学)を卒業した。
 三重苦――不自由と言えば、これほどの不自由はないかもしれない。「闇」と「沈黙」だけが彼女の世界だった。しかし、彼女は、自分の心から「闇」を追い出した。
 九歳の時、彼女は初めて自分の声で「暖かいです(It is warm)」と一つの文章を発音できた。
 そのときの「驚きと喜び」を、彼女は生涯忘れなかった。話せないという「沈黙の牢獄」から抜け出すんだと戦って、彼女は勝ったのです。
 想像もできないような努力を重ねて、彼女は後に、世界中を講演して回って、身障の人々を励まし続けた。日本にも何度も来た。世界に「勇気」を与えました。
 彼女は負けなかった。誇らかに、希望という「太陽」に顔を向け続けた。勉強についても、他の学生が楽しく踊ったり、歌ったりしている間に、彼女は「指文字」で教科書を教えてもらいながら、時には、くじけそうにもなった。
 「私は幾度かすべり落ちたり、転んだり、立ち止まったり、離れた障害物にぶつかったり、腹を立てたり、沈んだり、機嫌をなおしたりしながら、重い足を引きずりつつ少し先へ進んでは幾らか元気を回復し、いっそう熱心をふるい起こしてさらに高く登り、しだいに開けゆく地平線を見はじめるのでありました。一つの苦闘は一つの勝利でありました」
 ―― 「一つの苦闘は一つの勝利」。本当に感動的な言葉です。
 池田 彼女は言っている。「そうだ、心の仙境ワンダーランドにおいては、私は他の人と同じ自由を持つであろう」
 彼女の勝利宣言です。彼女は「自由」を自分で勝ち取ったのです。「自由」という山頂に、自分ではい上がったのです。
8  「実力」をつけずして本当の自由はない
 ―― 強い強い人生ですね。
 あるメンバーから、「やる気はあるんですが、学校、家庭、高等部活動と忙しくて疲れます。どうしたら、こんな自分を変えられるでしょうか」という質問もありました。
 池田 強くなることです。強くなればなるほど、自由になれる。
 体力のない人は、五百メートルの山でも登るのは大変だろう。病気の人は、登ることもできない。健康な人は、楽しく、さわやかに登るだろう。
 だからこそ、自分自身を強くすることです。勉強も、クラブも、高等部の活動も、すべてやりきれる自分になることだ。
 「力」があれば「自由」になれる。スポーツもそう、楽器の演奏もそう。自由自在にプレーするためには、実力をつけなければならない。技術がなくてはならない。
 そのためには、自分を不自由な立場に置いてでも、懸命に練習しなければならない。苦労と相反して、自分のしたいことだけをやっているのは自由ではない。それでは、「放漫」であり、わがままです。
 ―― 悪いマスコミのいう「言論の自由」というのも単なる無軌道であり、他人の人権と自由の破壊です。
 言論の自由というのは、「ウソをつく自由」のことではないということを知ってほしいですね。
 池田 自由とは「自律」のなかにある。現実の社会・生活というものは、何かに縛られている。放縦ではない。無軌道ではない。
 太陽も、朝出て、夕方には沈む。星も夜だけ輝く。皆、それぞれの役目をもっている。それぞれの軌道に則って、運行している。その意味では自由ではない。
 朝起きて学校に行ったり、高等部の活動をすることは、今の諸君たちが歩むべき「軌道」なのです。絶対に、すべきだと思う。
 それをやらずして本当の自由はない。「力」をつけずして、強くならずして、本当の自由はない。
 知力、体力、精神力、生活力、経済力――力があれば「自由」になれる。その最高の力が「精神の境涯」なのです。
9  苦闘の中にこそ自由は育つ
 ―― やるべきことから「逃げる」のは、「自由」ではないということですね。
 池田 もちろん「逃げる自由」もある。しかし、それは小さな自由だ。最後は、何の力もない、ひ弱な自分になり、行き詰まり、最大の不自由の人生になってしまう。
 小さな自由に対して、大きな自由もある。「苦に徹すれば珠となる」という吉川英治氏の言葉がある。苦しんで苦しんで自分を磨き抜いていけば、珠のように厳然と輝く自分になれるのです。「珠」となれば、何ものにも負けない。自由です。勝利です。
 それを自覚していれば、「苦労」でさえ楽しみです。自分が決めて、あえて苦労していく――それが「大きな自由」です。
 船は、海があり、波があるから航海できる。飛行機は、空気の抵抗があるから揚力が生まれ、空を飛べる。おなかがすいているからこそ、ご飯がおいしく感じられる。
 自由とは、相対的なものです。何もかも自由になることなど、現実には、ありえない。不自由があるから、自由を感じられる。空気の抵抗が何もない真空状態では、飛行機は飛べないのです。また、不自由は、自由を求めているからこそ感じるとも言える。
10  自分自身からは逃げられない
 池田 「自分は自由だ」と言って、苦労から逃げても、「自分自身」からは、逃げられない。自分の弱さや性格、宿命からは逃げられない。自分の影から逃げられないのと同じです。
 いわんや生老病死すなわち、生まれ、生きる苦しみ、老いる苦しみ、病む苦しみ、死ぬ苦しみから逃げられるわけではない。
 苦しみは、逃げれば逃げるほど追いかけてくる。犬のようなものだ。だから、立ち向かうしかない。
 人生とは、最終的に無限の自由を獲得するための戦いなのです。そして、仏法の信仰では、宿命や生老病死の苦しみをも、幸福へのバネとしていける。そういう自分をつくるのが信仰の目的です。最高の「自由」の境涯をつくる信仰なのです。
 ―― 専門の仕事もこなせるし、英語も話せる。友人も多いし、学会活動も頑張りながら、睡眠時間を削って、今、国家試験に向けて勉強しているという人がいます。
 その人が「いちばん苦しい時が、いちばん楽しい」と言っていたのが印象的でした。
11  いちばん多忙な人が、いちばん自由を謳歌
 池田 いい言葉だね。自由とは、不自由と表裏一体です。いちばん多忙な人は、いちばん不自由なようで、いちばん本当の自由を謳歌している。
 時間的な自由というのは「空」です。時間の長さは基準にならない。時間がたくさんあるから自由とは言えない。
 問題は、中身です。同じ時間でも、自由を満喫している人もいれば、不自由を感じて文句を言う人もいる。同じ一時間でも、テレビを見て、あっという間に過ごしてしまうこともあれば、勉強をして充実して過ごすこともある。その一時間で、人生の大きな転機を迎えることもある。
 自由とは、自分の生きる価値、自分の価値観で決まるのです。
 ドストエフスキーというロシアの文豪を知っているでしょう。
 彼は若き日に、革命運動のために逮捕され、銃殺刑が宣告された。処刑場に連れ出され、仲間が縛りつけられた。小銃が囚人に向けられた。自分は五分後には、この世にいない――そう思った時、彼は、その五分間というものが莫大な富に思えた。そして、考えた。
 「もし死なないとしたらどうだろう! もし生命が返って来たら!――それはなんという無限なのだろう! しかもそれがすっかり自分のものだとしたら! そうしたらおれはその一分一分を長い百年として、なに一つでも失わないようにし、その一分一分をきっかり計算して、もうなに一つむだに費すことのないようにするのだがなあ!」(『白痴』小沼文彦訳、『ドフトエフスキー全集』7所収、筑摩書房)
 結局、処刑は直前で取りやめになった。
 これは極限の体験だが、人生の残りの時間が五分にせよ、五年にせよ、五十年にせよ、一分一分を大切に生きるべきだという点では変わりがない。
12  自分を支配できる人が自由人
 池田 要するに、自由とは、自分の生きる価値で決まる。自分の心・境涯で決まる。
 そこに自由があるのに、自分はそれをわからずに、不自由と思っている場合もあるだろう。同じ場所にいる人が、大いなる自由を感じている場合もあるだろう。
 同じ「自由」を、立派に価値創造に使う人もいれば、気ままに浪費して不価値・反価値にしてしまう人もいる。自由の名を叫びながら、自由を破壊する人もいる。″自由″の中に、価値と不価値を含んでいる。
 結論は、自分自身を支配できた人こそが、本当の自由なのです。賢者は自由人、愚者は奴隷なのです。
13  校則がうるさい
 ―― 校則に関してですが、まったく校則が必要ないとは思いません。でも、なかには、「ここまで細かく、うるさく規定する必要があるのか」と思うような学校もあるようです。
 池田 たしかに″縛られる″ことは、いやなものだ。
 「少年よ、大志を抱け!」の言葉で有名な、札幌農学校(現・北海道大学)のクラーク博士は、学校が規則をたくさんつくろうとしたとき、反対した。「そんなことで、人間がつくられるものではない」と。
 「規則は、一つあればよい。『Be gentleman(紳士たれ)』。この一語に尽きる」「ジェントルマンは定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなくて、自己の良心に従って行動するのである」(大島正健『クラーク先生とその弟子たち』新地書房)と主張したのです。
 私も同感だ。そのうえで、いかなる環境にあろうと、だれも心までは縛れない。心は自由です。自由な、何ものにも負けない強き心の翼をもつことです。
14  人間革命へ「今なすべきこと」に勝て!!
 ―― 「自分の将来の夢を、親は理解してくれない。自分の将来だから自分で自由に決めたい」という意見には……。
 池田 それは、ケース・バイ・ケースです。親のほうが、経験のうえからも、社会を見る目からも、正しい考え方、見分け方をしている場合もある。未経験の人が、経験ある人に相談・指導を受けながら、安全な、価値ある方向に行ったほうが賢明な場合も多々ある。とくに、東洋的な思想には、そのような傾向が強くある。
 親の言う通りにして、順調に進んでいる場合も多い。だが、若干、親が古い考え方である場合とか、親の思いやりの過重さが災いとなって、子どもに納得と理解をさせないで、強引的に、その方向に行かせようとしている恐れもある。
 時代とともに変化するものも大きいし、結論的には、自分自身の希望の道を、自分自身が責任をもって、自分自身がつくりあげ、自分自身が苦労し、悔いのない道を決め、歩んでいくことが正しい方向であると思う。
 なぜなら、一生は長いからです。歩むのは自分自身であり、戦うのも、勝利するのも自分自身です。いつまでも、親がいるわけではない。
 親は、子どもの希望の方向へ、力強く支援していく姿勢のほうが、親子ともに満足の方向が見いだせるのではないかと、私は思う。
 諸君も、親や周囲が納得するだけの姿を示すことです。とくに周囲に反対されている人は、皆を納得させるだけの熱意と、自分の直面している課題に完全燃焼している姿を示すことだと思う。
 今の課題から逃げている人は、未来も、また自分の課題から逃げてしまうだろう。それでは、だれも納得しないでしょう。
15  「人を蹴落とす自由」はあるか
 ―― 受験は人との競争です。自分が勝つか、他人が勝つか。あるメンバーから「人を蹴落とす自由もあるのでしょうか」と聞かれました。
 池田 それは「ある」と言えるでしょう。人生は戦いです。社会は厳しい。甘ったれの自由は許されない。善きにつけ、悪しきにつけ、弱肉強食、これが現実です。
 もちろん、本来的には、すべての人が平等で、すべての人が自由で、すべての人が幸福であることが原則でなくてはならない。これが、国連憲章や世界人権宣言の精神でもあり、仏法の精神でもある。
 しかし、現実には、人間は機械ではない。考え方や、個性、性格も違うし、宿命も違う。ゆえに、始末に負えないことだが、人を蹴落として自分が満足しようとする人間の業は、永久に消えないでしょう。
 それを法律や、行政や、教育でどのようにしていくか。現状は、残念ながら不十分です。人類社会の現実は、理想的な段階には、ほど遠い。
 それを理想に近づけていく根本は、「人間革命」運動です。矛盾の社会の中で、人の幸福を祈り、つくっていく生き方を広げていくのです。人を蹴落としていくというのは、動物です。自他共の幸福をつくる自分となるのが、人間革命です。ゆえに、一人一人の人間革命に支えられた社会をつくらなくてはいけない。
16  君よ、万人の自由のために戦え!
 池田 ある意味では、すべての人が幸福にならない限り、自分の真の幸福はないとも言える。そう自覚しているのが仏法でいう菩薩の生き方です。同じ意味で、すべての人が自由にならない限り、自分の真の自由はないとも言える。
 今も世界には、「貧困」や「抑圧」や「恐怖」に縛りつけられたり、「無知」に縛りつけられたり、「戦争」や「差別」に自由を破壊されている人々は多い。そういう人々の自由のために立ち上がり、戦う人こそが、本当の自由人なのです。私は、諸君に、そういう人になってほしいのです。
 そのためにも、今、自分自身のなすべきことに、立ち向かい、突き抜けて、勝利してもらいたい。その苦闘の中に、「自由」は自然とつくられていくのです。木が根を張りながら、大空に向かって伸び、大きくなり、花を咲かせ、実をつけるように。
 だから、「青春」の君よ、希望という「太陽」に向かって進め! と呼びかけたいのです。

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