Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

人間革命と広宣流布 君が「人間革命」した分だけ「広宣流布」は進む

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
1  ―― この一年間、私たちが、いかに生きゆくべきか、縦横無尽に教えていただきました。高等部の皆にとっても、一生の原点になったと信じます。本当にありがとうございます。そこで、今回は、いちばん、大切な「人間革命」そして「広宣流布」について、うかがいたいと思います。
 池田先生の大河小説『人間革命』の「はじめに」の一節は有名です。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」
 これは小説の主題であると同時に、池田先生の人生の歩みそのものだと思います。
 「人間革命」――自分を革命する。そこから全部が変わっていきます。
 でも、人間革命といっても、一体、どうなることなのか、ピンとこないという声もあります。
2  「人間革命」とは、より高く、深く、広いものへの努力
 池田 「人間革命」といっても、特別なことではない。たとえば、少年が、まったく勉強しないで遊んでばかりいたのに、「よし、勉強しよう」「将来のために努力しよう」と決意し、取り組んだ時、その少年の人間革命です。
 お母さんが、今の一家の幸せだけにとらわれて、これでよし、と思っていたのが、「このまま一生涯、幸せが続くかどうかわからない。もっと壊れない幸福を求めよう」と、信仰をもって一家を支えていくようになるのも、お母さんの人間革命です。
 お父さんが、自分だけ・家族だけ・友人だけという世界から、もう一歩脱却して、病める人・苦しむ人に慈愛の手を差しのべ、どのように幸福の人間道を歩ませてあげられるか、という運動をするようになるのも、お父さんの人間革命です。
 つまり、平凡から大きく目を開き、より高い、より深い、より広いものへ努力し、献身していく行動を人間革命というのです。
3  「自分は意志が弱くてダメだ」
 ―― 一歩強い自分になるということでしょうか。
 池田 そうです。その「一歩」が大事なんです。一歩、前へ進むのか、立ち止まったまま「これでいい」と思うのか。それで人生は全部、決まってしまう。
 ―― 九州女子高等部長が語っていました。
 「音楽科に通うあるメンバーは、人間関係に悩み、授業を休みがちでした。それが、題目をあげるようになって、きちんと通えるように変わったそうです。友人からも『ピアノ、うまくなったね』と言われ、母親とも仲良くなれた。そして感謝の気持ちがもてるようになったといいます。私自身、この信心のおかげで、『人のことを祈れる自分』になれたことが、いちばん、うれしいんです」と。
 しかし、その一方で、「自分は意志が弱くて何度、決意しても、くじけてしまう」「自分なんか、とても人間革命できない」と言う人もいます。
 池田 それでも、かまわない。はじめから立派なら、人間革命しがいがない。はじめは、どうしようもないように見えた人が、信仰によって、大きく変わってこそ、多くの人に希望を与えることもできるのです。
 また、苦しくて苦しくてならない時こそ、行き詰まりきった時こそ、大きく人間革命できるチャンスなのです。
 すぐに、くじけるのならば、くじけるたびに、また決意すればいい。「今度こそは」「今度こそは」と、もがきながら前進する人が、必ず人間革命できるのです。
 ―― よくわかりました。
4  日々をあくせくしているうちに
 池田 もう一つの次元から言うと、人間の世界は、個性・癖・宿命・血縁等、いろいろなことが複雑にからみあっている。それらで、がんじがらめになって、なかなか抜け出せない。目先の小さな悩みにとらわれ、日々をあくせくしているうちに、人生は、あっという間に終わってしまう。
 六道輪廻で生涯を終わるのが、ふつうなのです。
 しかし、それを突き破って菩薩界・仏界に達する行動、つまり、慈悲の行動と振る舞いをしていこうというのが、行動革命であり、人間革命です。
 みんなの身近なことでいえば、受験がある。もうそれだけで、世界はすべてという気になるかもしれない。その時、目の前に悩んでいる友達がいる。自分は受験だから、といって、無視すれば、それは「六道輪廻」。その時、ここで声をかけなければ一生後悔するかもしれないと、「一緒に頑張ろうよ」と励ましてあげれば菩薩界の生き方です。
 これが一家、一国、世界へと広がった時、偉大なる平和への無血革命となる。
 ―― 六道輪廻と言われましたが、たしかに、今の社会を見ていると、その通りだと思います。餓鬼界、畜生界のような社会です。人生の「いい生き方の見本」があまりにも少ない。ニュースも、政治家や財界人とか、いわゆる″偉い人″の悪事は数えきれません。
 しかし、だからといって、制度だけをいじくっても、悪いやつは、もっと巧妙に悪事を働くと思うんです。根本から、人間から変えないとだめだと思います。
5  「人間革命」こそ21世紀のキーワード
 池田 革命にも、いろいろある。政治革命、経済革命、産業革命、科学革命、芸術の革命、流通や通信の革命その他、さまざまです。それらはそれらなりに、意義があり、必要な場合もある。しかし、何を変えても、一切を動かしている「人間」そのものが無慈悲で、利己主義のままでは、世の中がよくなるわけがない。だから人間革命というのはいちばん、根本の革命であり、人類にとっていちばん、必要な革命なのです。
 戦争直後、東大の総長(南原繁氏)が「人間革命しなければならない」と言ったことは有名です。ペッチェイ博士も、「人間変革・人間蘇生・人間復興」が必要と述べていた。世界の多くの知識人は、皆、ここにたどり着いている。
 ―― 先日、先生と対談されたアマゾンの詩人チアゴ・デ・メロさんも「『詩人としてもはや感動することはない』と思っていたのに、(池田先生の)『人間革命』という思想に触れた時は、何十年ぶりの感動でした」と語っておられました。(一九九七年四月)
 池田 これからの世界のいちばんの焦点です。人生観・社会観・平和観等々、すべて新しい善の方向にもっていける精神そのものが人間革命なのです。「人間革命」は、二十一世紀のキーワードであると私は信じている。
 ―― ふつうに成長していくのと、人間革命とは、どう違うのでしょうか。
 池田 「革命」は英語で「リボリューション」。「ひっくり返す」という意味です。急激な変化を意味している。
 人間が少しずつ、年とともに成長するのは自然の流れです。それを一歩、越えて、急速に善の方向に変わっていくのが「人間革命」です。どんどん、よくなる。また一生涯、永遠に、成長していける。「ここまで」という行き詰まりがない。そのためのエンジンとなり、原動力となるのが信仰です。
6  「人間として」偉くなれ
 ―― たしかに、道徳の本とかを読んでも、それだけで人間革命できる人は、ほとんどいないと思います。
 池田 道徳の本なら何千年も昔から無数にある。自己啓発の本などもあるが、言葉だけで人間革命でき、宿命を変えられるならば、苦労はない。
 創価学会は抽象論ではなく、一貫して現実の人間革命を追求している。心を変革し、最高善の方向へもっていく。生きていく。行動していく。
 その人間革命は、根本的には、仏の生命と一体の中で、できる。仏と境智冥合することによって、「自分を変える」力が、自分の中からわいてくるのです。
 ―― 自分の中にある「自分を変える力」――それが仏界ですね。
 これは北陸の男子高等部長から聞いた、あるメンバーの体験です。
 彼には三人の親友がいて、よく一緒に話したり、マンガを読んだり、という仲だったそうです。夏休みのある日、たまたま今の社会への不満や「運命とは」という話題になった。人生観についての話が何時間も尽きなかったそうです。その後、池田先生の著作を友人が「貸してくれ。うちで読むから」と持っていった。「青春対話」も読み合うようになった。学校の授業で、いちばんふざけていた四人は今、いちばん真剣に授業を聞くようになったというのです。
 人間、だれでも、「成長したい」「変わりたい」と心の底では思っているのではないでしょうか。だから、ちょっとした、きっかけで変わることがあります。
 池田 人間だけが「向上しよう」「成長しよう」と思うことができる。ただ流されて生きているだけではなく、もう一歩深い、人間としての方向転換をしようと思うことができる。
 いわゆる「偉くなる」というのは、社会の機構上の話です。人間革命するとは、もっと深い、自分の内面のことです。永遠性のものです。社会的な偉さよりも、はるかに偉いことなのです。
 人間は人間です。人間以上のものになれるわけではない。だから「人間として」の自分を変えていくことがいちばん、大事なのです。名声で自分を飾り、地位で自分を飾り、学歴で飾り、知識で飾り、お金で飾っても、本体の自分自身が貧しければ、貧しく、空虚な人生です。
 すべてをはぎ取った、いわば「裸一貫」の自分自身がどうなのか。生命それ自体を変えていくのが人間革命です。釈尊も王子であったが、一切を捨てて、裸一貫の自分になって修行した。人間革命です。日蓮大聖人も、その当時、社会的には最低の存在とされた「旃陀羅が子」であると堂々と宣言されている。
 ―― たしかに、いわゆる″偉い人″が、名もない庶民よりも、人間としては、ずっと劣っていることは珍しくありません。
 それどころか庶民は皆、平和を望み、幸福を願っているのに、社会の指導者が人間革命していないために、皆を戦争に引っ張っていったり、不幸の方向へ導いていくということがあります。
 池田 二十世紀は二回も世界大戦を起こしてしまった。何億という人たちが地獄の苦しみを味わった。その原因は何なのか――それを考えた結論が、「人間自身が慈悲の存在に変わらなければいけない」ということなのです。
 ―― 小説『人間革命』の冒頭が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」となっているのは、深い意味があるのですね。
 そして、『新・人間革命』の冒頭は「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」でした。
7  8・15の思い出
 池田 八月になると、思い出すことがある。昭和二十年(一九四五年)八月十五日――終戦の日のことです。
 その日、東京は晴天だった。私は西馬込の親戚の家に疎開していた。正午から大事な放送があるということは聞いていた。いよいよアメリカに総攻撃をしかけるという大本営発表かと思っていた。そういう社会の雰囲気であり、そういう教育だった。正午前に、近所(東馬込)のおばあちゃんの家に向かっていったが、町は静まり返っていた。
 玉音放送(天皇の肉声を放送すること)を聞いたが、ザーザーいって、何を言っているのかわからない。勝ったのか、負けたのか、おばあちゃんもわからない。戻っていくと、弟が「負けた、負けた」と泣きながら駆けてきた。とうとう頭にきたかと思った。「負けるわけがない」とか、皆で言い合っていた。夕方近くになってから、日本が戦争に負けたのは本当だとわかってきた。
 町中が虚脱状態のようだった。進駐軍が入ってくることも心配になってきた。夕食の時間まで、皆、放心状態だった。しかし、それと同時に、午前中まで聞こえていた空襲の飛行機の音が、午後にはパッタリと止まり、「こんなに静かなのか」という安堵感も広がっていた。夜には、自由に明かりをつけることができた。「こんなに明るいのか」と思った。平和はいいものだなと思った。皆、安堵感はあったが、「負けて良かった」とか「負けてほっとした」とは、だれも言えなかった。
 戦争で、多くの若い優秀な青年が命を落とした。我が家は戦争に兄四人をとられました。
8  愚かな指導者が悲劇を招いた
 ―― 「愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである」(『人間革命』第一巻「黎明」の章)という人間革命の一節を思い出します。
 池田 私の長兄はビルマ(ミャンマー)で戦死です。立派な人格の兄だった。
 戦死の知らせを受けた時、まったく信じられなかった。それから三年ぐらいたってから、兄の戦友が訪ねてきて、戦死の状況を話してくれた。それによると、インパール作戦中のビルマで、機銃掃射によって撃たれ、川の中に落ちたらしい。
 私は、その状況があまりよく想像できないでいた。しかし、かつてテレビでインパール作戦の細かい検証をやっているのを見た。それを見て、やっと納得できたのです。と同時に、いかに無謀で悲惨なことであったのかを、改めて知ることができた。日本軍が通ったあとは死屍累々となり、「白骨街道」と言われた。
 指導者が状況判断を誤り、自分の手柄のことだけに目がくらみ、自分の指示で動いている多くの人を見失った悲劇だ。
 ―― こんな馬鹿げたことを二度と繰り返してはならないと思います。
 池田 今、再び国家主義、権力主義が強まっていると多くの人が警告している。半世紀前の大悲劇を皆が忘れかけている。だから平和を叫びきっている創価学会が大事なのです。
 私が入信したのも、戸田先生が戦争中、二年間も牢に入り、軍国主義と戦い抜いた、「それなら、この人は信じられる」と思ったからです。仏法の内容なんか、わからなかった。戸田先生という「人間」を信じたのです。そして戸田先生との「師弟不二の道」こそが、私の「人間革命の道」だったのです。
 ―― それが「広宣流布の道」そのものでもあったわけですね。
 池田 「広宣流布していこう!」という心が、人間革命していく心になる。
 人間革命が「自転」ならば、広宣流布は「公転」にあたる。自転と公転があって、宇宙の運動は成り立つ。公転がなければ宇宙の法則に反する。
9  広宣流布は「流れ」、全人類への永遠の流れ
 ―― 広宣流布というと、なかなかイメージがつかめないのですが、あるメンバーは「世界中の人が信心することが広宣流布なのでしょうか」と質問しています。
 池田 妙法を持つ人が、一人から二人になるのも広宣流布です。一万人が五万人になるのも広宣流布です。
 しかし、広宣流布とは数ではなく、「流れ」です。永遠に流れていくものです。ある時がきて、「これで、広宣流布が終わった」というものではない。それでは魂が消え、人間革命ができなくなってしまう。
 どこまでいっても広宣流布がある。「いつ、こうなったから広宣流布」というのは、例えでは言えるものだが、きまった形のことではない。
 ―― そうすると「自転」のほう――自分の人間革命も「流れ」なのでしょうか。
 池田 そうです。病気の人が健康になるのは、すごい人間革命です。意地の悪い人が、人に親切にするのも人間革命。親不孝の人が、親孝行になるのも人間革命です。
 人間革命は「こうだ」という、きまった姿ではなく、よりよくなっていく行動です。広宣流布と一緒で、流れのようなものです。自分がどんどん、よくなっていく軌道に乗っているかどうかです。
10  広宣流布の意味は?
 ―― 広宣流布という言葉は、どういう意味になるでしょうか。
 池田 広宣流布の「広宣」とは、「広く宣べる」ということです。世界に向かって、より広く、より大勢にのべる。のべるというのは、理念や正義や哲学を宣言することであり、宣伝する――のべ伝えることです。
 また広宣流布の「流布」とは、「大河のごとく流れ」「布のように布き広げていく」という意味になる。
 体裁や、格好や、慢心ではなく、ずっと全人類に「流れて」いくこと。「布」が広がっているように、まんべんなく皆に対して流れていくのです。
 布は縦糸、横糸が織られて、できている。広宣流布も、タテには師から弟子へ、親から子へ、先輩から後輩へと受け継がれていかねばならない。ヨコには、国を超え、階層を超え、一切の差別を超えて平等に広がっていかなければ偏ぱになってしまう。
 簡単に言えば、正しい仏法・正しい哲学によって、ありとあらゆる階層の人、ありとあらゆる国の人に、「最高の幸福法」を伝え、「最高の平和の法理」を広めていく運動を、広宣流布というのです。
11  かつてない壮大な「歴史の実験」
 ―― 「これが最高」と信じるものを人に教えていくというのは、仏法に限った話ではありませんね。
 池田 そう。商売でも、テレビにしろ、ラーメンにしろ、野菜にしろ、自分の店の品がいちばん優れていると思ったら、それを「多くの人に知ってもらいたい。買ってもらいたい」と努力するでしょう。それも、それなりの広宣流布といえます。
 学校でも、「自分の学校は、優れた人材を育てられる教育法をもっているので、それを広く普及させたい」と思う。その行動も、それなりの広宣流布といえます。
 次元は違うが、過去において、キリスト教も、それなりの広宣流布をしていたとの見方もできる。イスラム教や、ヒンズー教や、共産主義も、それなりの広宣流布をしていたと言うこともできる。
 しかし、キリスト教も、イスラム教も、共産主義も、歴史において、「それが広まったら、どうなるのか」という実験は、すでに行われてきた。
 日蓮大聖人の仏法の広宣流布は、まだ実験されていない。私どもは、この新しい壮大な歴史の実験をやろうとしているのです。
 ―― すばらしいことですね。広宣流布というのは、最高のロマンだと思います。
 池田 だから、自分自身に「確信」があり、最高の仏法であるという「誇り」がなければ、広宣流布の運動はできない。
 しかし、どんな世界でも、悪いやつはいるものだ。そういう人は、この大誠実の運動に身を置いていられなくなる。
 過去の反逆者は、全部、そうです。欺瞞、悪意、偽装の心で広宣流布の運動に取り組んでも、必ず正体は暴かれる。
 ―― その意味でも、自分自身が人間革命していかなければ広宣流布はできないということですね。
 池田 自分自身の人間革命は、「自分という小宇宙における広宣流布」といえる。それを各人が積み重ねていくことによって社会の広宣流布が進んでいく。要するに、自分が人間革命した分だけ、広宣流布が進む。
 また利己主義を捨てて、人々を救う広宣流布へ励んでいくことによって、人間革命も進む。そういう関係にあるのです。
 ゆえに一人で孤立してはいけない。広宣流布に進む、よき先輩とギアを、がっちりかみ合わせた人は、やはり成長している。人間革命しているものです。
12  「正しいのになぜ皆やらないのか」
 ―― 「仏法が正しいのなら、どうして皆が、なかなかやらないのか。どうして批判されるのか」という人がいますが。
 池田 正しいからこそ、なかなかやれないのです。親孝行は正しい。でも、なかなかできないでしょう。勉強することも正しい。しかし、なかなかできないでしょう。仏法も、それと同じです。
13  動物と人間の違いは「思想」
 池田 ともあれ、人間が動物と違うところは、「思想をもっている」ことです。「自分は、なんでこの世に生まれてきたんだろう」と、だれもが一度は考える。動物は、そんなことは考えない。
 また、人間が動物と違うところは、「正しく、平和的に、幸福に生きていくための理念を欲している」ことです。テレビ等で飢餓に苦しむ子どもたちを見る。だれだって何とかしたいと思う。それが人間です。
 人間、一人では生きられない。人間という字は「人の間」と書くが、人間の中で生きてこそ人間が磨かれる。ゆえに、最も自分が正しいと思った主義主張、思想、理念を、大勢の人に広めていこう、理解させていこう、というのは当然のことであり、責務であり、権利です。
 動物が、食べ物を自分だけのために貯めているのは畜生根性です。人間が、「幸福になれる方法」を自分だけのところに留めて、人に教えないのも畜生界であり、餓鬼界です。
 「正義を皆に知らしめよう」「幸福を皆に分け与えよう」というのが、哲学であり、教育であり、文化であり、仏法です。
 ―― それが広宣流布ということですね。広宣流布は人間性のすばらしい昇華であり、人間性の表現なんですね。
 池田 そうです。決して偏狭なものではない。ともに「人間として」語り合い、ともに「人間として」より幸福になっていこうと、心を結び合っていく。その連帯そのものが広宣流布に通じていく。
 ―― 池田先生が世界の識者・指導者と話し合い、平和へと連帯されている意義が一歩深くわかった気がします。
 この八月二十四日(一九九七年)、先生は、入信満五十年を迎えられました。五十年前、広宣流布は夢物語だったと思います。しかし、先生の激闘によって世界百二十八ヶ国(=二〇〇五年現在、百九十ヶ国・地域)にまで仏法は広まりました。
14  君の、あなたの勝利こそ私の希望
 池田 私は私の誓いとして、戸田先生から教えていただいた「人間革命」の道を、まっしぐらに生きてきた。そして、すべて誓いは果たした。私は勝ちました。
 勝つことです。勝つことが人間革命であり、広宣流布です。
 私は今、目先のことなど、眼中にない。迫害も非難も恐れない。ただ百年後、二百年後のことを考えている。万年の先のことを考えて、手を打っている。
 古来、素晴らしき弟子を誕生させたかどうかによって師匠の偉大さがきまると、言われてきた。
 私は、さまざまな、いわれなき中傷・批判をされてきたが、そんなことは問題にしていない。仏法の法理に照らして、やむを得ないことだからです。そして私の訓育した弟子が、どのように地域で世界で社会で活躍し、貢献し、その名が輝いていくかによって、私の勝敗が決まるということを、本然的に知っているからです。
 高等部出身者を見ても、社会で世界で活躍している人が非常に多い。頼もしい限りです。私は本当にうれしい。
 今、私は、何の悔いもない。仏法者・指導者として、誇り高く、永遠に、我が名を留めることができたと思っている。これは弟子が偉くなり、弟子が輝いているからです。
 私は勝った。私の人生は、誇りある勝利で飾ることができた。あとは、この栄光の道に、若き諸君がさらに陸続と続いてくれることを祈り、信じ、待つのみです。
 それだけが私の希望なのです。

1
1