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日蓮大聖人・池田大作

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勤行・唱題とは 信仰は人生のエンジン! 唱題でエンジンをかけよ!

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
2  人生と宇宙の「根本」を教えるのが宗教
 ―― まったく、その通りだと思います。それなのに、日本は特殊な国で、「信仰をもっている」というと変な目で見られます。本当は、信仰をもっているということは、確固たる人生観と信念をもっているということだから、そのほうがすばらしいことなのですが。「宗教」というのは、どういう意味があるのでしょうか。
 池田 宗教の「宗」とは根本ということ。人生の根本、宇宙の根本を教えようとしたのが「宗教」です。
 ―― そういう根っこを知らないと、人生が根なし草になるということですね。
 池田 宗教は人間としての証です。動物に、祈ることはできない。祈りは、人間にしかできない崇高な行為です。古来、あまりにも偉大な大自然に対して、山を対象にして祈ったり、火を対象にして祈ったり、海を対象に祈ったりしていた。大自然という、あまりの無限性と崇高さ、広大さ、人知では計り知れない超現実的なものへの畏敬から、自然のうちに「祈る」という行為が生まれてきた――こう考えられる。
 たとえば「災害から身を守ってもらいたい」「夫が死なないように守ってもらいたい」というように、本当に困った時に人間が欲する心がある。その心を強く凝縮させると「祈り」となるのです。理屈でも、学問でもない。それらを超えたものです。
 「祈る」と言うことは、自分の全生命の中でいちばん大事な、いちばんの強い思いを訴えたいということであり、それを願望するという行為です。
 ―― そういう心なら、だれにでもありますね。
3  「祈り」から宗教は生まれた
 池田 人間には、祈らざるを得ない本然的な心がある。それに応えて宗教が生まれた。「宗教があって祈りが生まれた」のではなく、「祈りがあって宗教が生まれた」のです。
 日々の生活の中でも「テストで良い点を取りたい」「明日は天気になってほしい」というように、祈りたくなる時は、たくさんあるでしょう。
 「自分は無宗教」と称する人でも、何か祈っている。「子どもが健康であってもらいたい」「もっと自分は向上したい」というような決意とか願望は、形を変えた祈りと言ってよい。これらを、もっと明快に、生命の法則のうえから、祈りと現実がきちんと合致していくようにしたのが、仏法の祈りです。
 要するに、人間が「幸福になる」ために宗教は生まれたのです。
4  拝む対象と自分が「感応」
 ―― 「祈る」という意義はわかったのですが、世の中には、たくさんの宗教があります。どうして、こうなったのでしょうか。
 池田 「祈り」を根本に宗教が発生したが、その後の人類の歴史の中で、それぞれの宗教が「祈る対象」を与えてきたのです。
 ―― たしかに、拝む対象は宗教によって、さまざまです。
 池田 この「拝む対象が、どのようなものであるか」が、じつは重要な問題なのです。
 ある人は、キツネを拝む。キツネを拝むと、自分の中の畜生の心を引き出してしまう。拝む対象と「感応」してしまう。つまり、対象と似た境涯になってしまう。竜神を拝めば、蛇に感応してしまう。
 ―― いわゆる世界的な宗教の中でも、いろんな分派がありますが……。
 池田 たしかに現在、たくさんの種類がある。しかし、もとをたどれば、キリストかマホメットというような、それぞれの根本にたどり着くでしょう。
 仏法にも、たくさんの種類がある。しかし、もとをたどれば釈尊です。
 ―― それが、どうして、たくさんに分かれてしまったのでしょうか。
 池田 そうなった重要な理由は、「教祖利用」です。宗教の発展の途中で、坊主とか学者とかが、教祖を上手に利用したのです。教祖を象徴的に使って、自分を権威づけていった。自分を偉く思わせるために教祖を利用したのです。
 教祖が中心ではなく、「自分」が中心になってしまった。そこから分派をつくっていった。ここから一切の乱れが生まれた。
 ―― 教祖・宗祖という、原点を忘れてしまった。
 池田 キリスト教ではルターが「キリストに帰れ」と宗教改革をした。日蓮大聖人は「釈尊に帰れ」と立ち上がったのです。
 ―― 創価学会は、「日蓮大聖人に帰れ」という精神で厳然と戦っています。
 池田 ともあれ、日蓮大聖人の仏法は宇宙大である。地球だけのものでもない。今だけのものでもない。永遠にわたって、すべての生命を幸福にできうる根本法則なのです。
 ゆえに、若き日に、妙法という生命の大法則を知った諸君は、人類の中で最高に幸福な人です。
 問題は、それを自覚できるかどうかだ。「そうだ、すばらしいことだ」と自覚できるためには、自分で体験してみる以外にありません。
 信仰は観念論ではない。いな人生そのものが観念論ではわからない。「生きる」とは観念ではなく、実践であり、実感であり、厳然と事実の上に刻まれてゆく歴史です。
5  勤行は「我が生命と大宇宙の交流」の儀式
 ―― 基本は、やはり「勤行・唱題」だと思います。
 「勤行をするよう親から言われるが、何のためにするのか、よくわからない」「特別の悩みもないし、必要性を感じない」という人もいます。
 一方、神奈川総県の男子高等部長からうかがったのですが、最近入会した高校生が、こう語っていたそうです。「朝晩の勤行が、自分が良い方向に向かう原動力になっていると感じます。一日一日が充実し、自分が描いている一日が送れるようになりました」と。
 勤行・唱題には、どういう意義があるのでしょうか。
 池田 勤行は、毎日の心の掃除であり、心の用意です。一日の出発のエンジンをかけることです。女の人が毎朝、お化粧するようなものだ。
 人によって、大きなエンジンを持っている人と、小さなエンジンを持っている人がいる。エンジンの大きさによって、人生の一生の行動が変わってくる。大きな違いです。勤行・唱題という行に励むことは、自分自身のエンジンを大きくしているのです。
 ―― たしかに生命力がわいてきます。唱題すると、どうして生命力が強くなるのでしょうか。
 池田 勤行・唱題は、自分自身と大宇宙とが交流しゆく儀式なのです。御本尊を根本として、自分という「小宇宙」の中に「大宇宙」の生命力を、生き生きと、くみ上げる作業が勤行です。それを毎日、繰り返していけば、生命力のエンジンが強くなってくる。
6  自分自身が「小さな宇宙」
 ―― 小宇宙……自分自身が「小さな宇宙」ということでしょうか。
 池田 仏法では、そう説いている。自分は生きている。生命がある。それと同じく大宇宙も一個の巨大な生命である。少しむずかしいかもしれないが、生命即宇宙であり、宇宙即生命である。
 私たち人間も、大宇宙と同じく一個の生命であり、「小さな宇宙」なのです。それを身体の面でいうと、頭が丸いのは天球が丸いのになぞらえ、両目は太陽と月になぞらえる。目が開いたり閉じたりで昼と夜を表す。髪は輝く星になぞらえる。――年をとって、抜け毛が始まると、それは「流れ星」。眉は星座になぞらえる。最近は、化粧で眉を描く人も多いが、それは人工衛星かもしれない。
 ―― 面白いですね。まだあるでしょうか。
 池田 息は風を意味する。静かな息は谷間の穏やかな風。興奮して、どなっている時の息は台風。体の節――曲がるところは全部で約三百六十節あるといわれる。これは一年を意味する。大きく曲がるところは十二節で、十二ヶ月を表す。
 ―― 四季もありますか。
 池田 体のうち、お腹のほうは温かいので春・夏を表す。背中の側は冷たく硬いので秋・冬を表す。血管は川です。小さい川も大きい河もある。堤防が切れて洪水になるのは、人間でいえば脳出血とか、血管の破裂です。
 骨は石などの鉱物にあたる。皮膚や肉は大地。体毛は森林です。そのほか内臓について等々、身体が一個の「小天地」であることを、仏典では、くわしく説いています。
 ―― よく「脳は、ひとつの宇宙」ともいいます。無限の力があると。
 池田 その通り。それを、どう引き出すかです。体の働きを見ても、生命は一個の「大製薬工場」といえる。必要な薬を自らつくって、健康を守る力がある。不思議な一つの宇宙です。大宇宙にある無数の原子、また陽子・電子・中性子・光子などの素粒子、水素・酸素・カルシウムなどの元素、それらの要素の多くが、わが身にも包含されている。
 ある学者は「人間の体は、星と同じものでできている」と言い、人間を「星の子」と呼びました。「小宇宙」です。物質だけでなく、宇宙の「創造と破壊の作用」「生と死のリズム」も、わが身を貫いている。また重力の法則、エネルギー保存の法則、その他、ありとあらゆる法則も、一個の小宇宙に、かかわっている。
 地球が太陽の周りを三百六十五日と五時間四十八分で一周する。厳然たる秩序がある。人体の細胞も六十兆といわれるが、それらが毎日、整然と、秩序正しく運行しているのが、健康な生命の状態です。不思議であり、絶妙な働きです。
 ―― たしかに「暑いと汗が出て体を冷やす」働きなども、すごい生命の力だと思います。
 池田 地球が太陽の周りを回る。ちょっとでも軌道がずれたら大変です。いな、地軸が少し傾いただけで、すべての生物は絶滅の危機を迎えるでしょう。それほど微妙であり、しかも厳然として、大宇宙即生命の「法則」がある。小宇宙も同じです。
 こういう「目には見えないが実在する法」を探究したのが科学であり、その成果を応用してつくったのが、さまざまな機械です。たとえば、船は、見えない「浮力」の法則を応用してつくったものであり、飛行機なら「揚力」の法則です。ラジオ・テレビは「電波」という法則などでしょう。それらは宇宙の部分的な法則です。
 それに対し、仏法は、物心のあらゆる法の根本にある「生命の大法」を探究し、発見したのです。それが「妙法」です。妙法は、目には見えない。しかし厳然と実在する。この妙法の力を引き出せるよう、日蓮大聖人が御本尊を御図顕してくださったのです。
 だから戸田先生は「もったいないことであるが、御本尊は幸福製造機にたとえられる」と、わかりやすく教えてくださった。御本尊に勤行・唱題することによって、小宇宙のわが身が、見事に大宇宙と調和していくのです。
 ―― すごいですね。「勤行」には、それほど壮大な意義があるのですね。
7  自身の「宝の蔵」を開く作業が勤行
 池田 崇高な儀式です。自分自身の中にある「宝の蔵」を開き切っていく作業です。わが生命の大地に、生命力のわき出ずる泉を掘っているのです。こんこんと、くめども尽きぬ智慧と慈悲と勇気の源流を掘っているのです。
 ―― 勤行すると、どうして大宇宙と小宇宙が交流できるのでしょうか。
 池田 「宇宙」も、その本体は南無妙法蓮華経です。「わが生命」も南無妙法蓮華経の顕れです。そして「御本尊」も南無妙法蓮華経の御当体です。三者とも南無妙法蓮華経であり、本来、一体なのです。
 ゆえに南無妙法蓮華経と唱えゆく時、御本尊を中心にして、わが生命と宇宙が、きちっとギアをかみ合わせ、幸福の方向へ、幸福の方向へと回転を始めるのです。
 春夏秋冬、三百六十五日、大宇宙のリズムに合致して、どんな悩みも乗り越えられる「生命力」と「智慧」と「福運」を発揮していける。「仏界」という生命力のエンジンを爆発させながら、行き詰まりを打開し、前へ前へ、希望の方向へ、正義の方向へと、勇んで走っていけるのです。
8  意味がわからなくてもいいの?
 ―― あるメンバーからの質問ですが「『題目や経文の意味はわからなくても、声に出すだけで功徳がある』といわれますが、それで本当にいいでしょうか」というのですが。
 池田 小さい時に、お母さんのお乳を飲んだでしょう。「ミルクの成分が何か」を知って飲んでいる赤ちゃんは、いない。わからなくても、飲めば成長する。それと同じです。もちろん、意味がわかったほうがいいのは当然だが、それは法への「確信」を強めるためです。だから、わかっても実践しなければ何にもならない。また、妙法の深義のすべてを論理的に理解するということもむずかしいでしょう。
 しかし、たとえば鳥には鳥の、犬には犬の世界の声があり、何らかの″言葉″があると考えられる。人間が聞いてもわからないが、鳥同士、犬同士には通じ合っているにちがいない。また、暗号や略語、外国語も、知らない人にはわからなくても、その世界の人には立派に通じている。
 ―― 意味がわからずに「サンキュー」と言っても、ちゃんと通じます。
 池田 同じように、勤行・唱題の声は、御本尊に通じている。仏・菩薩の世界には、きちんと通じているのです。いわば、″仏・菩薩の世界の言葉″なのです。
 だから、たとえ意味がわからなくとも、御本尊への勤行・唱題の声は、すべての仏・菩薩、諸天善神のもとに届いている。そして、目には見えないが、その人の願いを叶えるために、全宇宙が動いていくのです。
9  「題目だけ」ではダメなのか
 ―― 「朝、学校に行くのが早くて、どうしても勤行できない」という人もいますが、勤行をせずに、お題目だけではだめなのでしょうか。
 池田 お題目だけでも、かまわない。題目は″ご飯″であり、勤行は″おかず″のようなものです。ご飯だけでも、腹はふくらむ。
 ただ、バランスある食事をするためには、おかずもあったほうがいい。忙しい時は、ご飯だけでも立派に力となるが、理想の食事は、ご飯とおかずの両方をとることです。
 ―― 挑戦し続ける心が大切ですね。
 池田 そうです。勤行を、きちんとやったほうがいいのは当然です。それを大前提にして、大事なのは一生涯、御本尊を離さない信心です。一時的に、燃えるような「火の信心」をしても、あと退転してしまったのでは、しかたがない。少しずつでもいい。淡々と川が流れ、次第に大河になり、大海に続いていくような「水の信心」が大切なのです。
10  「一遍の題目にも限りない功徳が」
 ―― 「勤行ができなかった日は″罪悪感″にさいなまれる」という人もいるのですが。
 池田 御本尊を信じている限り、「罰」なんか出ません。心配しなくてもいい。日蓮大聖人は「一遍の題目にも、限りない功徳がある」と言われている。
 ―― それでは十回もあげれば、すごいことですね。
 池田 いわんや、真剣に勤行・唱題を続けたら、どれほどすばらしいか。全部、自分のためです。義務ではなく、自分の権利です。
 御本尊は決して、拝んでほしいなどと言われていない。こちらから、拝ませてくださいというのが信心です。やった分だけ、自分が得をする。お題目を何遍あげなければいけない、というようなことは大聖人は、おっしゃっていない。本人の自覚の問題です。信心は一生のことなのだから、神経質にとらわれてはいけない。
 ともかく窮屈に考える必要はない。仏法は人間を自由にするものであって、人間を縛るものではないのです。少しずつでも、毎日することが大事です。毎日、ご飯を食べてエネルギーとなる。勉強も毎日、積み重ねることによって力となる。「毎日の生活が即人生」となる。だから「毎日の生活即向上」でなければならない。その推進力が勤行です。
 その意味で、初詣でだけ行くような、年に何回かだけ祈るということは、全くの形式であり、ナンセンスです。
 勤行という行に励むことは、毎日の「心のトレーニング」です。自分自身の生命を清浄にし、エンジンをかけ、軌道に乗せていくことです。心身ともに回転を促し、リズムを整えていくのです。
 ―― 毎日、少しでも続けることが大事なんですね。北海道女子高等部長が言っていました。
 「勤行を持続できないメンバーも多いんです。でも皆、『悩んだ時は御本尊様の前に』ということは、わかっているようです」
11  悩みはたきぎ――題目で燃やせば幸福の炎が!
 池田 「ともかく御本尊の前に」――その心が大事です。「少しでも、お題目を唱えていこう!」「毎日、御本尊に祈っていこう!」と挑戦を続ける心が尊いのです。
 仏法では「煩悩即菩提」と説く。わかりやすく言うと、煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。菩提とは「幸福」であり、境涯が開けることです。
 ふつうは、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。しかし日蓮大聖人の仏法では、そうではない。
 悩みという「薪」を燃やして、はじめて幸福の「炎」が得られると説く。幸福の光とエネルギーが得られるのです。題目によって「薪」を燃やすのです。
 ―― 煩悩即菩提の「即」とは題目のことなんですね。
 池田 題目をあげれば、悩みが全部、幸福へのエネルギーに変わる。前進への燃料に変わる。
 ―― すると悩みが大きいほど幸福になれるということでしょうか。
 池田 その通りです。いちばん苦しんだ人がいちばん幸福になる。いちばん悩みをもった人が、いちばん偉大な人生となっていく。これが仏法です。だからすばらしいのです。
 悩みといっても、いろいろある。自分のこともあれば、お父さん、お母さんに長生きしてもらいたい――これも悩みです。友だちが元気になってほしい――これも悩みです。
 さらには、もっと大きく、世界の平和をどうするか、新世紀をどういう方向にもっていくか――これは偉大な悩みです。どんな悩みも全部、題目によって、自分のガソリンに変わる。生命力に変わる。人間性に変わる。福運に変わるのです。だから、大いに悩み、大いに題目をあげきって、成長していけばよいのです。
 信仰とは、目標という悩みの「山」をつくり、「山」を目指し、「山」を登りながら、山を登りきるたびに大きな自分になっていく軌道なのです。
12  祈り続ければ、必ずいちばんよい方向へ
 ―― 「御本尊への願いは一つずつするものでしょうか、それとも一度に多くしてもいいのでしょうか」という質問があります。
 池田 いくら多くてもかまわない。たくさん願いがある人は、その分、真剣に題目をあげればいいのです。仏法は道理です。
 デパートに行った時、たくさん、お金があれば、たくさん買い物ができる。三万円の買い物をするには三万円が必要です。千円しかなければ千円の買い物しかできない。それと同じです。自分が買うのだから、自分のお金がなければいけない。自分の願いをかなえるのは自分です。自分の信心です。他のだれでもありません。
13  「祈る時、雑念が」
 ―― 「祈っていても、いつのまにか雑念が入ってしまいます。どのように祈ればいいのでしょうか」と悩んでいるメンバーもいます。
 池田 人間だから雑念がわくのは当たり前です。そのままの姿で、御本尊にぶつかっていけばいいのです。祈り方に、「こうしなければいけない」という型などありません。パターンはない。仏法は「無作」です。
 つくろわない。飾らない。ありのままの姿で、ともかく題目を真剣に唱えていくことだ。信心が強くなってくれば、自然のうちに一念が定まっていきます。
14  自分中心でいい?
 ―― 「自分中心の祈り」でいいんでしょうか。
 池田 いいんです。自分中心が当たり前です。無理に背伸びしても、それは、うその自分です。
 ありのままの自分で、自分らしく、自分がいちばん、願っていることを題目に託していけばいいのです。そうすれば自然のうちに、境涯が開けてきます。
 また「もっと大きな自分になろう」と決意して、友のことを祈り、広宣流布のことを祈っていくのもいいでしょう。全部、自由です。自分が決めることです。勤行・唱題は「義務」ではない。自分のすばらしい「権利」なのです。
15  「祈りがなかなか叶わないのだが」
 ―― 中国女子高等部長が言っていました。「勤行・唱題を実践したら、本当に悩みが解決するのですか」と聞いてくるメンバーが多いのです、と。
 こんな質問もありました。「悩みを解決しようと、一生懸命に勤行をしているのですが、全然解決できません。最近は勤行もたるみがちで、この悩みは解決できないと思うようになりました。どうすればいいでしょうか」
 池田 「祈りとして叶わざるなし」の信心です。しかし、祈ってすぐに叶うのは″手品の信仰″だ。「明日、宝くじに当たりたい」「明日のテストで百点を取りたい」と祈って、簡単にそうなるものではない。しかし、もっと深く、長い目で見た場合に、祈った分だけ、全部、幸福の方向に行っているのです。
 目先の願いが叶う場合もあれば、叶わない場合もある。しかし、あとから振り返ると、その結果が「いちばんよかった」という形になっているものです。
 仏法は道理であり、信心即生活です。信心即現実だ。現実のうえで、努力もしないで、安易に願いが叶うわけがない。
 さらに、宿業的なもの――過去に根の深い原因がある苦悩を変えていくには、長い努力が必要になってくる。
 「切り傷が治る」のと「内臓疾患が治る」のとでは、治り方の時間も違ってくる。薬で治る病気もあれば、手術が必要な病気もある。それと同じです。また、信心の度合いも一人一人違いがあるし、もっている宿命も一人一人違う。
 しかし、祈っていくことによって、必ず「良い方向へ」「良い方向へ」と、本格的な希望が開けていくことは間違いないのです。
 ―― かりに、すぐに結果が出なくても、「続ける」ことが大事なのですね。
 池田 何でも「すぐ」ということは、あり得ない。「すぐ」に叶ってしまえば、その人の堕落につながる。安易な人生になってしまう。
 ―― たしかに、「すぐ」に願いが叶えば、人は努力なんかしなくなります。
 池田 ちょっと絵を描くのが好きな人が、バッバッと絵を描いて、すぐに展覧会ができて、絵が売れてしまうことなど、あり得ない。
 仕事をしないで遊び回り、そのせいで貧乏になっている人に、貧乏だからといって、たくさんお金をあげて、その人は幸福になるだろうか。
 ―― 絶対になりません。かえって変になってしまうと思います。
16  顕益と冥益
 池田 建物でも、こちらをいじったり、あそこを直したり、目先の改築を何回も重ねるよりも、新築するほうが丈夫で立派なのができるし、強い。目先のことではなくて、生命が底から変わるのが信心です。生命が芯から強くなっていくし、永遠に消えない福運が固まっていくのです。
 御本尊の功徳には「顕益」と「冥益」がある。「顕益」というのは、病気とか、人間関係とか、何か問題が起こった時に厳然と守られ、すみやかに解決できる利益です。
 「冥益」とは、木がゆっくりと育つように、また海の水が満ちていくように、次第に福運を積み、豊かな大境涯を築いていく。毎日見ていても変わっていないようで、何年間か長い目で見た場合には、厳然と幸福になっている。成長している。それが「冥益」です。「顕」とは、はっきり目に見えるということ。「冥」とは、なかなか目には見えないことを意味する。
 題目を唱えていけば、「顕益」の場合もあれば、「冥益」の場合もあるが、結果として必ず、自分にとっていちばんいい方向になっていくのです。
 ―― 神奈川の男子高等部長は、十七歳の時が信心の原点だそうです。バイト先の肉屋で、左手の指を四本、機械で切り落としてしまったのです。救急車の中で、お母さんは叫びました。「お題目しかない! 祈るのよ!」と。八時間もの大手術。成功はしたが、もと通りになるかどうかは五分五分。生まれて初めて、必死に祈りました。
 晴れて退院した佐々木さんを待っていたのは、地区の方々でした。ずっと地区で、お題目を送ってくれていたのです。手術の時も。その後も。感激した佐々木さんは、心で叫びました。「俺は、この温かい学会と御本尊様から離れない。絶対に!」と。指は、もと通りになりました。佐々木さんの体験は「顕益」ですね。
 池田 学会の同志は、ありがたいね。
 ともあれ、何があっても「祈り続ける」ことです。そうすれば、必ず幸福になる。その時は、自分が思っているような解決をしなくても、もっと深い所、あとから考えると、「いちばんよかった」という方向になっていたことがわかるものです。これがすばらしい「冥益」です。
 たとえば、「きょう腹一杯食べて、一生、飢えて暮らす」よりも「今すぐには腹一杯、食べられなくても、一生涯、悠々と食べていける」人生のほうが、はるかに良い。日蓮大聖人の仏法は、そのようなものです。
 ―― 信心には、少しも無駄がないのですね。
17  人生を楽しめる生命力を!
 池田 やった分だけ自分が得をするのです。もちろん、信仰をしなくても、生きていくことはできるでしょう。しかし、自分ではどうしようもない宿命もある。生命の弱さに振り回される場合もある。そういう自分を変えて、″ああ私の人生は素晴らしかった″と心から言えるようにならなければ損です。だからこそ、正しい″人生の指針″が絶対に必要なのです。戸田先生は言われた。
 「我々は何のために生まれてきたのか。それは『衆生所遊楽(衆生が遊楽する所)』と法華経にあるように、遊びに来たのである。だから、人生を楽しまなければ、つまらないではないか。御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と。
 生きていること自体が楽しい――こういう境涯を「絶対的幸福」といいます。信仰を貫き通せば、必ずそうなっていくのです。生命力のエンジンが、「さあ、何でもこい!」というふうに、たくましくなってくる。エンジンが弱いと、小さな坂でも、ふうふう言って、苦しまなければならない。
18  「信心しなくても良い人はいるが」
 ―― 「信仰をしていない人の中にも、すばらしい人がいる」という人もいますが。
 池田 その通りでしょう。人格的に立派な人は、たくさんいます。信心しているとかいないとかで差別するのは誤りです。
 信仰していなくても立派な人はいる。だからこそ信仰した私たちは、より以上にすばらしい人間にならなければいけない。謙虚に、学ぶべき点は学びながら、そういう立派な人と友情を結んでいくべきです。ただし、立派そうに見えても、その人の心の中までは、なかなかわからない。幸福そうでも、一歩、内面に立ち入れば、深刻な悩みを抱えている場合は多いのです。また、今、幸せそうに見えても、それが続く保証はない。
 そもそも、お金があるから幸福か。有名だから幸福か。大きな家に住んでいるから幸福か。絶対に、そんなことはない。
 お金があるために、争いになる人もいる。有名であったために、名声がなくなったとたん、みじめな人生になる場合もある。名声によって慢心して自分をダメにする人もいる。大きな家の中で、仲が悪く、心が冷えきっている家族もいる。
 そういう、はかない「相対的幸福」ではなく、自分自身の生命そのものを宮殿に変えるのが「絶対的幸福」です。自分が宮殿のように広々とした心になり、宮殿のように輝いていけば、どこにいても、何があっても幸福は揺るがない。
 また、人生のいちばんの根本問題は「死」の問題です。どんなに立派な人でも、賢い人でも、「死」の苦しみを解決することはできない。「死」という根本の苦悩を乗り越えて「永遠の生命」を感得するには、正しい仏法の実践しかないのです。
19  「題目は亡くなった人に通じるか」
 ―― お題目は、亡くなった人にも通じますか。
 池田 必ず通じます。生命は永遠です。たとえば苦しんで亡くなった人がいる。死んでも生命は苦悩の境涯の場合がある。悪夢にうなされながら眠っているようなものです。
 皆さんが、その人のことを心に浮かべて題目をあげれば、苦悩する生命の「苦」を、どんどん抜いていける。そして、題目の光を注いで、「楽」を与えていけるのです。いわんや、生きている親や友人を救えないはずがない。
 生まれ、生きる苦しみ。老いる苦しみ。病む苦しみ。死の苦しみ――「生老病死」という根本の苦悩の解決は仏法しかない。
 ピラミッドの昔も、科学が発達した現代も、人間の根本的な苦悩は変わらない。この「生と死」の問題を解決した仏法だからこそ、世界の人々が真剣に求めているのです。
 日蓮大聖人の仏法がすばらしいのは、そういう生老病死の「四つの苦しみ」が、題目によって、そのまま、自分自身という宮殿を飾る「四つの城壁」に変わることです。
 少しむずかしいかもしれないが、苦しみという泥が、すべて、幸福の宮殿を守り固める材料になる。悩みの泥が深いほど、偉大な宮殿が建つのです。ともあれ、青春時代は、壮麗な宮殿のような自分を築く土台づくりの時です。
20  唱題は「福運の土台」「生命の充電」
 ―― はい。やはり高等部時代が「土台」になっているという人が、たくさんいます。
 北海道女子高等部長は、高校二年の時、人間関係で悩み、真剣に唱題するようになったということです。それまでは、何か困ったことがあった時は勤行していても、あまり必要性を感じていなかった。でも、唱題に励むうちに、「自分が変われば、人も変わるんだ」ということを、身をもって実感したそうです。
 高校時代に、題目の偉大さを実感することが大切だと思います。
 池田 題目を唱えることは、若き生命に、福運の土台をつくることになる。今、土台がしっかりできていれば、その上に、どんな大きいビルでも建てられる。
 土台づくりにも、いろいろある。勉学の努力も土台づくりです。体を鍛えるのも土台づくりです。しかし、心と体の根本にあるのは「生命」です。根本の「生命」を鍛え、浄化し、拡大していくのは仏法しかない。頭脳を勉学で鍛えなければならない。体を運動で鍛えなければならない。そして、生命を唱題で鍛えていくことです。生命が変われば、頭脳も肉体も変わっていく。生き生きと働いていくのです。
 また、題目は″生命の充電″です。ふだんから充電しておけば、いつでも生き生きと動くことができる。充電していなければ、いざという時に力が出ないで、負けてしまう。若いうちに題目を生命に染みこませ、充電した人は、一生涯の幸福の土台をつくっているのです。
 ―― 信越の男子高等部長も高校二年生まで、あまり勤行をしていなかったそうです。当時は、ボクシング部のキャプテン。全国大会(インターハイ)にも出場し、「努力すれば何とかなる!」と自負していました。ところが、二年生の冬、椎間板ヘルニアになり、医者からは「ボクシングはできない」と宣告されます。どうしようもなく落ち込む日々。そんな時、男子部の担当者の方が通ってくれました。「信心に不可能はない。絶対によくなるよ!」と。それから、佐藤さんは勤行・唱題に励み、ヘルニアを見事克服して、翌年夏、再び全国大会に出場したのです。
 苦しんでいる時、身近な人の励ましが、すごい力になるのですね。
21  「毎日持続する」ことが大切
 ―― ところで、「勤行・唱題の時、正座しなければいけないのでしょうか。すぐに足がしびれてしまい、祈りどころではありません」という友がいますが。
 池田 椅子を使ってもいいし、足を崩してもかまわない。「しっかり仏様と相対していこう」という気持ちも大切だし、「楽しく気持ちのよい勤行・唱題」も大切です。この両方を思いながら、とにかく「続けていくこと」がいちばん大切です。形式にとらわれることはない。
 どんなスポーツも、最初からうまくできるものではない。練習を積んでうまくなる。最初のころの練習は苦痛かもしれないが、うまくなれば楽しいものです。同じように、「続けていくこと」で、だんだん正座をしても大丈夫になっていくものです。
22  「目をつぶってはだめ?」
 ―― 「勤行・唱題中、目をつぶってはいけないでしょうか」という人には。
 池田 目は、はっきりと開いて御本尊を正視したほうがいい。次元は違うが、かつてイギリスの貴族の子弟は、「相手の目を見て話す」訓練を小さい時からしたそうだ。
 いわんや勤行・唱題は、御本尊と対座するのだから、目をつぶらないほうがいい。神経質になる必要はないが、目をつぶると御本尊との感応が弱くなる場合が多い。
 もちろん、目が不自由な人は、御本尊を心に思い浮かべてすればいいのです。
23  諸天供養の意味
 ―― 朝の勤行で行う「諸天供養」の意味について教えてください。
 池田 信心に励む人を守る宇宙の働きを「諸天善神」という。諸天は、妙法が「食事」です。妙法を食べて元気になる。勢いが増してくるのです。初座で、諸天に「法味をささげる」のです。こちらが諸天に法味をささげて御礼を言うと、諸天のほうでも御礼を言う。宇宙の諸天善神と、自分の生命の中の諸天善神が、きちっとギアをかみ合わせるのです。
 だから、その後、御本尊に向かうと、宇宙の諸天善神も一斉に、自分と一緒に御本尊に向かって、あいさつする。そして自分が願った通りに、諸天が働きにいくのです。
24  「数珠」の意味
 ―― お数珠に意味はあるのでしょうか。
 池田 数珠は、基本的には、房が三本ある方を右手に、二本ある方を左手にかけ、真ん中でよじって用いる。三本の房は頭と両手。よじったところはお臍。二本の房は両足――数珠は、人間の体をかたどっているとも言われる。
 小さな珠は百八個ある。百八の煩悩、すなわち″悩みのもと″になる欲望などを表している。これよりさらに小さい四つの珠は四菩薩を表す。四菩薩というのは、法華経に説く地涌の菩薩の四人のリーダーのことです。
 ―― 上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩ですね。
 池田 それぞれ深い意味があるが略します。上行菩薩の本体は日蓮大聖人です。すべての人間を永遠に救いきっていくというのが四菩薩の力です。要するに、数珠には、御本尊に勤行・唱題することで、すべての「悩み」を「幸福」のエネルギーへと変えていける――そういう意義が込められているのです。また両手を合わせるのは、妙法との「境智冥合」を意味するし、十の指を合わせるのは「十界互具」を表す。十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)の各界がバラバラではないということです。バラバラではないからこそ、仏界の力が九界の現実生活のうえに表れてくるのです。
 ただし、数珠とか仏壇とか、お線香とかは信仰の「形式」の面です。形式は、時代や場所によって変わるし、変わってもかまわない場合が多い。
 大事なのは信仰の「中身」です。そして御本尊を信じて勤行・唱題する(自行)。また人にも妙法を教えていく(化他)。この実践は永遠に変わらないのです。
25  「本尊」とは「根本尊敬」の意味
 ―― 「本尊」とは、どういう意味でしょうか。
 池田 「根本尊敬」という意味がある。「根本として尊敬する対象」です。
 無宗教という人にも、何か、心の底で、いちばん尊敬しているものがある。その人がいちばん大切にしているもの、それが本尊です。
 口では何と言おうと、ある人は、「お金」が本尊になっている。ある人は「地位」が本尊になっている。ある人は「恋人」や「家族」が本尊になっている。ある人は「知識」が本尊になっている。また、漠然とした神とか天とか真理とかを本尊としている人もいるでしょう。
 根本として何を尊敬して生きているか――本尊によって人生が変わってしまう。
 日蓮大聖人の仏法では「仏の生命」を本尊とする。大宇宙と一体の永遠の大生命を本尊とするのです。しかも、その本尊とは、決して、遠いところにあるのでも抽象的なものでもない。自分自身の生命そのものでもある。
 日蓮大聖人は言われている。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」――この御本尊は、まったく別の所に求めてはならない。ただ、我ら凡夫が御本尊を信じて持ち、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉体の中にいらっしゃるのである――と。
 自分自身の中にも、永遠の大生命がある。胸中に御本尊がある。最高の人間尊敬、生命尊重の思想です。その胸中の御本尊を呼び顕すために、大聖人が御自身の生命を一幅の御本尊として顕してくださったのです。
 勤行・唱題は、ある意味で、いちばん、簡単な修行です。滝に打たれるとか、特別な苦行をするわけではない。大聖人の仏法が「最高に優れている」ゆえに、「最高に簡単な修行」で、仏界の生命を涌現できるようになったのです。機械だって技術が進めば進むほど、操作は簡単になる。
 一方、自分の生活の場で行う修行であるゆえに、惰性になりやすいし、続けるには、これほどむずかしい修行もないかもしれない。しかし「毎日、少しずつでも続けよう」と挑戦していけば、自然のうちに、自分の生命の中に「幸福への道」ができあがっていく。不幸の方向へ流されない「生命の防波堤」ができていくのです。

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