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日蓮大聖人・池田大作

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文学との語らい 文学で「人間の心」を学べ「人生の深さ」を学べ

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
1  ―― 今回は「文学」について、うかがいます。
 前に、読書をテーマに語っていただきました(第十三回「良書との語らい」)。あれから奮起して読書に挑戦している人が、たくさんいます。
 よく「忙しい」とか「やることがある」といって、本を読まない言いわけにしていますが、「読むぞ」と、まず決める。そうすると時間はあるものですね。
 あるメンバーは言っていました。「本を読む楽しさが、だんだん、わかってきました」と。
2  文学を読むのは「試験のため?」
 池田 あえて、もう一度、語っておきたいんです。皆さんが、いい人生を生きるために。人の心がわかる「魅力ある人間」になるために。
 今の日本で、文学は生活から遠い位置に追いやられている。単に「試験のために読んでおかなければならない」ような存在になっている。
 それでは、あまりにも心が貧しい。「文学と自分自身を交流させる」素晴らしさを、もっと教えることが必要だと思う。
 人生は、一生涯、探究です。「人間とは何か」「よき人生とは何か」――その探究の旅の伴侶が文学なのです。
 ―― 楽しさにも、いろいろあると思います。テレビゲームなんかは、たしかに面白いが、後には何も残らない……と言う人も多いです。
 でも、夢中になって読んだ文学の感動は、いつまでも色あせません。
 池田 そう。見ることは「刹那的」であり、読むことは「永続性」がある。見るだけでは「受け身」になる。読むには努力が必要です。自分で努力し、自分で想像をめぐらし、一字一字、一行一行、一ページ一ページ、読んでいくしかない。
 大変だが、大変な分、自分で自分の心と頭脳を耕している。だから、読書している人は、顔つきまで違ってくる。
 そして、いつか、読む努力が当たり前になり、楽しみにさえなってくる。
3  文学は人間の絵巻、若き日に魂に刻め
 ―― 先生の「若き日の日記」(本全集第三六巻収録)を読むと、本当にすさまじい勢いで本を読まれていて圧倒されます。戸田先生の事業が倒産し、大変な苦境だった時も、その勢いは変わっていません。昭和二十六年(一九五一年)の二月八日の日記には、こうあります。
 「宗教革命の若人十四名、勇躍、師の下に集まる」「『永遠の都』の感想発表を、一名ずつ行う」
 二月二十一日には「若人よ、起て。若人よ、進め。若人よ、行け。前に、前へ。岩をも、怒涛をも恐れずに。ロッシの如く。ブルーノの如く。ナポレオンの如く。アレキサンダーの如く。ホイットマンの如く。ダンテの如く」
 二月二十四日は「『三国志』全巻、読み終わる。構想大なり。人心の機微よくえがけり。大戦乱に、活躍せし、武将、政治家の一大絵巻の感あり。策あり、恋あり、涙あり、意気あり、力あり、教訓多々なり。建設、革命の青年、劉備玄徳の姿――」と。
 最も厳しい渦中で、十年後、二十年後を展望して、学び抜いておられる。
 また、日記には、随所に文学への愛情があふれています。ある日は「『モンテ・クリスト伯』を読む。思うこと多し」と。
 また、ある時は「『スカラムーシュ』を読む」。さらに「読書。『プルターク英雄伝』遅く休む。――明日も、又、読もう」。「夕刻、神田通りへ。古本、三冊購入。買いたい本は、山ほど有る。財政難」と。
 先生は、若いころから「将来、大文学作品を書き残したい」と思っておられたと、うかがいました。先生は、どうして文学が好きになられたのですか。
 池田 若いころは身体が弱かったので、スポーツをあまりすることができなかった。本を読むことは寝ていてもできるので、自然と本を読むことが多くなった。これが第一歩です。
4  「文学がわからない指導者」だと社会は不幸
 ―― あるメンバーは「僕は理系で、文学とかは興味がもてません。どうしても読まないといけないでしょうか」というのですが。
 池田 正直な声だね。じつは、文学を読むことによって、理系の学問も光るのです。理系の学問だけでは、機械的な頭脳になってしまう。理知、情操、感情が含まれて、人間的になる。
 文学は、その潤滑油となる。現代社会では、この点が忘れられ、多くの悲劇が生まれています。
 国家の指導者が、科学のことしか知らない人では、兵器を作ることしか考えないかもしれない。文学を知ることによって、魂が入るのです。「心から出た文字」が文学です。
 ―― 理系といえば、戸田先生も数学の大家ですね。
 池田 戸田先生は数学の専門家だったが、文学のことをよく知っておられた。数学の大家・宗教の大家である先生が、「文学を読まなければ、数学も宗教もわからない」とおっしゃっていた。そして、青年に文学を徹底的に読ませた。
 私が戸田先生から最後に「今、何を読んでいるのか」と聞かれた時に読んでいたのは『エミール』(ルソー著)だった。
 これも広い意味の文学書です。将来、必ず学校をつくろうと思って読んでいたのです。文学は人間の研究です。自分の研究です。心の世界の無限を研究するのです。
 人間の心を知らないで、他のどんな分野でも、本当にはわからない。奥義はわからない。人間の文化はすべて、人間の心から生まれたものだからです。
 それにしても、理系とか、文系とかの区別もおかしい。
 専門性だけにとらわれて、文学の重要性をわからない政治家や教育者が多くては、いつまでも良い社会になりません。知識はあっても心がない、冷たいロボットのような専門家ばかりになっては、危険です。
5  人生の「動脈」に
 ―― 私は毎日、通勤電車で思うんです。いい年をした、おじさんたちが読んでいるのは、ほとんどが、くだらない週刊誌や、下品な夕刊紙ばかり。本当に心の貧しい日本だな、と。
 学校時代に世界文学をかじった人も、卒業すると、とたんに読まなくなってしまうようです。
 今の高校生は「一生涯、大文学を読み、人生について学び続けている」――そういう大人になってもらいたいです。
 池田 年をとったら、それだけで大人になるのか。そうではない。
 大事なのは「人間としての」成長です。「人間としての」豊かさです。それを文学は教えてくれる。
 「語学」を学ぶことによって、いくつかの国を自分の世界にもってくることができる。
 「文学」はさらに、心の世界を広げ、多くの国々と心の交流ができる。よき文学との出あいが一生を変える場合もある。
 文学は人生の動脈です。若き日に、よき文学を心に入れた人は、動脈に生き生きと新鮮な血液が脈打っているような人生になる。それがない人は、心に脈動がなく、生活もわびしい。空虚です。
 たとえば青空を見る。『戦争と平和』を読んでいる人なら、アンドレイ公爵が仰いだ青空を思うかもしれない。
 (軍旗を手にロシア軍の先頭に立ち、フランス軍へと突入したアンドレイ公爵は負傷して倒れる。そして頭上の高い空を見上げた。「はかり知れぬほどに高い空と、そのおもてを静かに流れてゆく灰色の雲のほか、なにもなかった。〈なんて静かで、おだやかで、荘厳なんだろう《中略》おれはどうしてこれまで、この高い空を見なかったんだろう?それにしても、おれはなんてしあわせなんだろう、とうとうこの空を見つけたとは。そうだ! この無限の空以外は、すべて空だ、すべて偽りだ。この空以外には、なんにもないのだ、なんにもないのだ。しかし、それさえないのだ、なんにもないのだ、静寂と平安以外には。ありがたいことだ!……〉」(中村白葉訳『トルストイ全集』4,河出書房新社)
 血で血を洗う戦闘のさなかで見つけた「平和の青空」――『戦争と平和』のひとつの山場です。そして、その同じ青空は今も皆の頭上にあるのです。
 また、川が流れている。ヘッセの『シッダールタ』を読んだ人ならば、シッダールタが苦悩の果てに、「川から学んだ」喜びをわかち合うこともできるでしょう。川は瞬時も休まず流れ、絶えず変化しながら、しかも、いつも、そこにある。いつも変わらず、しかも、いつも新しい。そのように世界も瞬間瞬間に完全であり、「今」「ここで」人間は幸福になれる――「いつか」「どこかで」ではなく。
 また、人の性格についても、ある人のなかにハムレットを見たり、ドン・キホーテを見たり、タルチュフ(偽善者。モリエールの劇から)を見たりできる。自尊心高きジュリアン・ソレル(スタンダール『赤と黒』から)を見ることもあれば、友人と恋のために断頭台に上った『二都物語』(ディケンズ)のカートンの面影を見ることもあるでしょう。
 海に行っても、『白鯨』(メルヴィル)の執念の海もあれば、『オデッセイ』(ホーマー)の漂泊の海もある。『ポールとヴィルジニー』(サン=ピエール)の悲しみの海もある。万葉の海もある。
 文学を知れば、千変万化する万華鏡のような人間模様と心理を、ありのままに観てとることができる。また、踊る無数の波の奥深くに、大いなる生命の大海を見抜くこともできるのです。
6  「今」読まねば!
 ―― あるメンバーからですが、「本を読んで、今の僕たちにしかわからないことはあるのでしょうか。年をとったら、わからなくなることがあるのでしょうか」と。
 池田 そう。わからなくなることはあるんです。
 読書は、年配になってからは、なかなかできない。目も悪くなるし、忙しくなる。読んでも内容を忘れてしまう。今はわからないだろうが、本当にそうなる。
 何ごとにも「時」がある。若い時に読めば、脳に焼きつく。どこかに刻み込まれる。思想をつくり、物の見方を学ぶための経験となり、力となる。
 人間にしかできない作業が「読む」ということです。「いつか、将来、ひまになったら読もう」と思っている人も、なかにはいるかもしれない。しかし、若い時に読まないと、結局、将来も読まなくなる。人生の土台づくりとなる青春時代に読むことだ。絶対に読むことだ。
7  「外国に行ったらいい文学の話を」
 池田 海外の著名人は、皆、文学の話題をスピーチに使う。そのような時、若い時に読んでいれば、その話の内容がよくわかる。何人かの人は、日本文学について、ある程度の知識をもって論じている。
 私も、ロシアの教育大臣とは竹取物語の話題となり、トインビー博士とは万葉集の話題となった。浦島太郎のことを論じた人もいた。文学の話は、政治や経済の話と違って美しいし、通じるのが早い。けんかにならない。
 戸田先生は、女子部に対して、「外国に行った時は、御書の話よりも、日本の美しい小説の話をしてみなさい」と言われたことがある。
 ―― 話の引き出しがたくさんあって、人をあきさせない。これも、人間として大事な魅力ですね。
 池田 大らかな気持ちで、「かぐや姫」の物語を語ってあげられるような女性であってほしいのです。どこの国にも説話がある。説話には、その民族の魂の継承の意味が含まれている場合が多い。やはり「語りつがれてきた」ものは、それなりの価値をもっている。
 「時」こそ最高の批評家です。その意味でも、「時」の試練を越えてきた良き文学に挑戦してほしいのです。
 ―― 「山本周五郎が大好き」という人で、「西洋の文学は、どうしても体質的にあわない」という人もいます。
 池田 外国の本は、翻訳の具合で、どうしても読みづらい場合がある。経験上、最初の二〜三割の間は少々読みづらい場合が多い。しかし、それを過ぎたころからは、ぐんぐん引き込まれていく。
 たとえば、バルザックの『ゴリオ爺さん』などは、舞台となる下宿屋の描写が延々と続いて物語がなかなか始まらない。しかし、娘に対する「父の心」をこれほどドラマチックに描いた書もない。
 だから、外国の本は最初のほうで読みづらくても、やめないで読んでもらいたい。山道を登っていて、だんだん景色が見えてくるようなものだ。
8  「読む時間がない」
 ―― 「塾やアルバイトや部活動で忙しい。読みたいが、読む時間がない」という声も多いのですが。
 池田 二、三種類の本を並行して読むのも、ひとつの方法です。気軽に読める本。小説でも薄い本。そして長編小説などだ。
 登校の途中でも、ちょっとした空き時間でも、その場その場で、選んで読める。時間がないというが、五分、十分の時間がつくれないわけがない。まとまった時間で読むのだけが読書ではありません。かえって、ちょっとした時間に読んだものが、あとあとまで残っていることも多い。
9  「作り話はイヤ」
 ―― 「ルポとか記録文学なら、納得して読めるのですが、小説とかは作った話なので面白くない」という人もいますが。
 池田 たしかに、小説の内容にはトリックがあったり、嘘もあるだろう。″本にだまされない自分″の確立は大事なことです。
 しかし、本物の文学のなかには、森があり、川があり、星があり、四季があり、波乱万丈の歴史がある。多くの普通の小説は、箱庭のようなものです。世界の大文学を読むことによって、もっと奥の深い世界に入っていくことができる。そういう世界を知らないと、人生、本当に損をします。大海を知らないで、川の浅瀬だけが世界だと思っているようなものだ。
10  「ともかく嫌い」
 ―― 「とにかく、読書がきらい。年に一、二冊しか読まない。ページをめくると、すぐに眠くなってしまう」という人もいます。何か″いい手″はあるでしょうか。
 池田 努力するしかない。甘ったれて、何か特別な″いい手″はないかなどと思っているかぎり、進歩はない。運動でも、そうです。「自分は走るのがきらいだ」と言って、何も努力しないでいたら、鍛えられるわけがない。
 読んで、眠くなるのなら眠ればいい。そのかわり、起きたらまた読めばいい。努力もしないで、人間ができるわけがない。自分の本当の力がわかるわけがない。人生の深さも、人間の素晴らしさもわからないまま、年をとってしまうでしょう。
 それを大前提にして、まだ本を読む習慣がない人は、短編でもいいから、何かひとつ、まず読むことです。それで読む力の「土台」の石をひとつ置いたことになる。次に、またひとつ読む。これで二つ目の石を置いたことになる。
 ―― 読む楽しさを知らないと、本当に、もったいないですね。
 池田 シェークスピアでも、当時は娯楽作品だった。今のテレビドラマみたいなものです。
 源氏物語でも、当時の人が争って回し読みしたのは、今の劇画を読むようなものだったかもしれない。だから、「古典」だからといって、変に、かしこまって、堅苦しく考える必要はない。まつりあげる必要もない。その面白さをわかる自分になれば、人生が豊かになるということです。
11  「法華経・聖書・古事記も文学」
 ―― あるメンバーからですが、「文学は『生き方』を示すものだと思いますが、音楽や美術とくらべて、どのような影響力をもっているのでしょうか」と。
 池田 文学は「読む」。美術は「見る」。音楽は「聴く」ものです。文学は書かれたものです。書くということは、思想がなくては書けない。
 思想には、さまざまな次元があり、無限大です。思想によって、人の心も動かされるし、変化する。
 「聖書」も、「法華経」も、「古事記」も文学であると、とらえる見方がある。
 文学は、人間の思想上の重大な位置を占めているのです。その影響力は、人間の生き方の深いところにまで及ぶ。だから、文学を読まず、思索をせず、ただ政治や経済や科学といった次元だけでは、人類は大変な損失を被ることになるでしょう。
 要するに、文学は「人間の生き方」「社会との関係」「戦争と平和」「努力」「愛情」「死」のように、さまざまな人間界の舞台を表現している。そのなかの一次元を照らしているのが音楽や美術かもしれない。
 また、そのすべての根元的なものを照らしているのが宗教です。文学が土台となって、芝居や劇や映画や音楽といった世界にも広がっていきます。
 ―― たしかに、トルストイの『戦争と平和』の映画や、ユゴーの『レ・ミゼラブル』のミュージカルなどがあります。それらに触れて、そこから土台にあった文学そのものに入っていく人もいるようです。
 読書が与えてくれるものは、本当にたくさんありますね。先生の若き日の日記にも、こうありました。
 「小雨。社にて『モンテ・クリスト伯』読了。読書は、智慧も、知識も、指導力も、そして御書の読み方にも、力を与えてくれる。『生涯、三十分ずつでも、読書せよ。一生の間には、大変な長時間の読書になる』といった人がいた」(一九五四年〈昭和二十九年〉二月十八日。当時二十六歳。本全集第三六巻収録)
12  文学を読むほど御書がわかる
 池田 懐かしいね。
 御書をわかるためには、文学を読むことです。文学を読むことによって、御書もわかるようになる。御書も、文学も、人間模様を表したものです。
 日蓮大聖人の御言葉には、「どう人を救うか」という深い慈愛がある。悪への激しい怒りがある。人の心のひだに分け入る温かさがある。
 ある時には、夫亡きあと、最愛の息子までも亡くした婦人に、「(息子さんが亡くなられたことは)夢か幻か、私にも、いまだにわかりません。ましてお母さまは、どれだけ嘆かれたことでしょう」と、ともに嘆かれている。
 また、亡くなった息子さんに会えるならば、お母さんは「羽がなくても天まで昇ることでしょう。船がなくても中国までも渡るでしょう。大地の底にいると聞けば、きっと地をも掘って行かれることでしょう」と、母の心を代弁して手紙を書いておられる。
 ―― こんな手紙をもらったお母さんは、どんなにか慰められたでしょうね。
 池田 御書には、ほかにも数限りない人間模様が描かれています。人生経験を積み、大文学を読めば読むほど、御書のすごさがわかってくる。また御書を読んでいれば、文学も深くわかってくる。
 ともあれ、人間の心の葛藤を表現しようとしているのが、文学なのです。だから、人間主義者として一生を生きるならば、読まなければならない。
 低俗な本や、ただ面白いだけの本は、文学とは言えない。そこには人間性の探究がないからです。専門書には、それぞれの路線があるでしょう。それらも必要だが、文学は万人が学ぶべき基幹道路のようなものです。
13  「心からの言葉」だけが「心」を動かす
 ―― 「飢えた子を前にして、文学は何ができるのか」(サルトル)という問いかけがあります。言葉だけではないか、無力ではないか、ということだと思いますが。
 池田 いちばん大切なのは、心の援助です。心の援助がまずあってこそ、お金や物の援助が生きてくる。
 そして、文学を読むことから、人を思う感情が出てくる。心からの言葉も出てくる。
 人間性の感情の中から、本当の援助が進んでいく。飢えた子どもたちにも、それを救う人たちにも、良い文学は必要です。
 仏法では「声仏事(仏の仕事)を為す」と説く。声が、言葉が、人を救っていく。深い心の表れた言葉が必要です。
 優れた言葉の表現は、文学を知る心の中から生まれる。日本の政治家の言葉は空々しい。
 ユゴーは人間愛の書『レ・ミゼラブル』の序文に記した。「地上に無知と貧困があるかぎり、本書のような書物も無益ではないだろう」(稲垣直樹訳、潮出版社)
 飢えた人を救おうという「心」をつくるのが文学ともいえる。ここから、すべてが始まる。ここから、お金や物の援助も生まれてくるのです。
14  優れた文章とは
 ―― 「優れた文章」とは、どのような文章なのでしょうか。
 池田 ある文学者と対談した時に、同じ質問をしたことがある。その文学者は一冊の本をパラパラとめくりながら、「良い文は、活字の並びがきれいに見えます。悪い文は、汚く見えます」と言っていた。
 それは別として、良い文は、おいしい食事を食べている時のように、感じよく読めるものだ。
 戸田先生は、本を読む時は、「はしがき・あとがきは必ず読め」と言われた。その文でも、ある程度の良し悪しがわかるものです。
15  文学を知れば景色の感じ方も変わる
 ―― 先生は世界桂冠詩人ですが、詩は、どのようにしてつくられるのでしょうか。
 池田 思ったことを、そのまま表現しよう、そのまま文字にしよう、と思っています。文学をたくさん読んでいると、自然と、その中の言葉が自分のものとなっていく。
 風景を見て、自然と言葉が出てくるようになる。景色の感じ方が違ってくる。木々の美しい緑を見て、動物は何も感じないかもしれない。芸術家はすばらしいと思い、庭師は健康な木々だと思うでしょう。
 たとえば、月が浜辺に照っている。
 「八百日やほかゆく浜の真砂まさごをしきかへて玉になしつる秋の夜の月」(『千載和歌集』久保田淳校注、岩波文庫)――広大な浜辺の砂を一面の宝石の原に敷き変える秋の月よ――という歌を思い出せば、浜辺はとたんに宝石の園に変わるでしょう。
 チリの女性詩人・ミストラルの
  「軽やかな雲よ、
   絹のような雲よ、
   わたしの魂を
   青空かけて運べ」(「雲に寄す」野々山ミチコ訳、『世界の詩集12 世界女流名詩集』所収、角川書店)
 という詩を読んだあとでは、風にも雲にも、切ないまでの深き思いを感じるようになるかもしれない。
 美しい詩といっても、飾った言葉が美しいのではない。本当の美しさは、心の美しさからしか出てこない。泥まみれになってでも、人間性のために戦っていく、その心から美しい言葉も生まれてくるのではないだろうか。
 そういう人間性と文学性とを融合させ、それを生活のうえで、どう表現していこうか――そこに生まれるのが詩なのです。また本当の文学なのです。
 古今の文学は、人間の「心から心へ」差しのべられた橋です。どれだけ橋を渡るかで、自分の心の中身が決まっていくのです。

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