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日蓮大聖人・池田大作

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大自然との語らい 自然と「調和」か「破壊」か人間自身の「生き方」が大切

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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2  「依正不二」
 池田 そうでしょう。生命は、自然とのつながり、かかわり合いがあって、はじめて生き生きとしてくる。
 生きとし生けるもの、太陽・月・星のもとで、美しい草木と、清らかな水に囲まれた自然の中でこそ、生き生きとしてくる。汚く、腐っているような環境は不自然です。そういうところでは、人間の心も、そうなってしまう。依正不二です。
 ―― 依正不二というのは環境(依報)と、そこに暮らす生命(正報)は一体である(二つでない=不二)ということですね。
 池田 そうです。自然を離れての人間は、あり得ない。自然を破壊するのは人間の傲慢であり、愚かさです。
 国木田独歩の『武蔵野』を私は愛読したものです。美しい自然の描写が、いたるところにある。今でも、いっぱい覚えている。「澄みわたった大空が梢々こずえこずえのすき間からのぞかれて日の光は風に動く葉末はずえ葉末に砕け、その美しさ言いつくされず」(岩波文庫)とか。
 ―― そういう美しい自然に触れると、自分も心が洗われるような気がします。これも「自然との語らい」ですね。
 池田 私は、そういう「自然との語り合い」を残し、自然を皆とともに味わいたいと思い、写真を撮っているんです。
 写真は「心」で撮るものです。ロバート・キャパは戦場で、戦争の悲惨さを撮った。私は、自然の大切さを残したいのです。
 現代は、自然の大生命に迫っていく追求が少なくなってしまった。他の学問の追究のほうが圧倒的に多くなってしまった。それでは、精緻かもしれないが、生命の根源から離れた根なし草のような学問になってしまう。
 昔の優れた芸術・文化も、自然を愛し、自然の中で生きてきたからこそ生まれた。自然を破壊するにしたがって、芸術も技巧的になってしまった。
3  「蛍」のドラマ
 ―― 関西の創価学園は、蛍で有名です。先生と生徒が一体となって蛍の養殖・保存に努めています。これも池田先生が提案されたんですね。
 暑い日も寒い日も、幼虫に餌のカワニナを与え、世話をするそうです。
 生き物を育てるのは大変です。ある時、写真の現像に使った容器を、きれいに、きれいに洗って、蛍の養殖に使った。でも現像の薬品が、ほんの少しだけ残っていた。それで、入れた幼虫は、みんな死んでしまったというのです。
 池田 皆、「命の尊さ」を実感したことでしょう。蛍が成虫になり、美しく光るのは、わずか二週間です。その短い間に、厳粛なる自然のドラマがある。
 私の小さいころ、家の近くに池があった。東京の大田区です。母屋のそばには、桜の木があり、近くに溜め池があった。池から流れる小川に、夏になると、たくさんの蛍が舞っていた。蛍が舞うところ。そこには人間と自然の仲よき調和がある。蛍は平和の象徴です。
 「蛍を育てた子どもたちは、皆、心優しい人に成長しています」との報告もうかがっています。
 ―― 蛍は世界各地にも、いますね。
 池田 フィレンツェのイタリア文化会館には、美しい姫ボタルがいます。
 ブラジルの詩人チアゴ・デ・メロさんも、関西学園で、こう話してくれたそうだ。
 「子どものころの思い出があります。アマゾンの夜。空には満天の星。その星々がアマゾンの『黒い川』に、そのまま映っている。まるで鏡のように。天の星々と水面の星々。その間を蛍が舞っていた。数十万という地上の星たちの光が舞っていた――。本当に忘れられない光景でした、と。
4  自然保護の人こそ最高の勲章を
 ―― 聞いただけでも心がときめく、幻想的な光景ですね。メロ氏は「アマゾンの守り人」として有名ですが、SGIでもアマゾンへの植林をやっています。
 池田 アマゾンに植樹をするなんて、壮大な芸術です。
 だれが見ていようといまいと、土にまみれ、汗びっしょりになりながら、地道に、根気強く作業しておられる。そういう人に勲章をあげるべきです。
 こうした無名の「自然の守り手」に栄誉を授けるような世界にならなくてはいけない。単に政治家を長くやったからだけで勲章を出すのは、それこそ「不自然」です。国会でも、真剣に自然を守り、愛する演説を、だれかがしたらどうなのか。
 政治も、人間の幸福のためでなければならない。民衆が代々にわたって大事にしてきた美しい自然を、経済優先・政治優先・科学優先で壊してしまっては悲劇です。そのバランスを考えるのも人間でしかありません。
 かつて、ある方と懇談した時、私は、日本中の駅が、ある駅は桜が咲き、ある駅はツツジが咲き、ある駅は藤が咲くというように、それぞれ特色をもったらよいと語ったことがある。道も、もっと街路樹を植えたほうがよい。中国には、すばらしい街路樹の道がたくさんあります。
 創価大学には、ツツジをたくさん植えた。豊かな自然環境のところでこそ、本当の人間教育ができると思ったからです。
 大石寺には桜をたくさん植えました。もっとも、大石寺の桜は、自然破壊の連中に切られてしまった。(二百八十本もの桜が日顕宗によって切り倒された)
 ―― その話を聞いた海外の人が、「それだけで極悪人とわかる。とんでもないことだ。考えられない野蛮な行為だ」と言ったそうです。
 池田 環境先進国では、自然を守るための厳しい法律がたくさんある。ブラジルでは、公有地はもちろん、私有地でも、監督機関の許可なしには一本の木も切れないそうだ。「木を植えることは、生命を植えること」という。古来から伝わる、この言葉の意味を、皆が深くかみしめるべきでしょう。
 ―― 世界的にも、自然環境は危機的な状況にあると言われています。これも全部、「人間自身」の問題なんですね。
5  人間の心の破壊が自然を破壊
 池田 そう。「人間」の問題です。
 仏法では、生命の状態を「十界」として、十段階に説いている(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、声聞、縁覚、菩薩、仏の十界)。
 十界では、「人間(人界)」を真ん中にして、それより上位の″尊い生命″もあれば、それより下位の″醜い生命″もある。下は、自然に反する″不自然″の生命状態です。上の四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏の生命)は自然を大切にし、自然が豊かに広がる楽土をつくりゆく。下のほうに引きずられるか、上のほうに引き上げられていくか、です。
 畜生の生命で草木を食べ尽くし、寒々しい自然にしてしまうような人間性を変えていくのは、人間の知性であり、文化であり、信仰です。依正不二だから、人間の「心」が破壊されれば、「自然」を汚し、破壊してしまう。地球の砂漠化も、人間の「心の砂漠化」と一体なのです。戦争は、その最たるものです。自然を破壊し、心を破壊する。
 二十世紀は「戦争の世紀」でした。二十一世紀は、「生命の世紀」にしなくてはいけない。経済、政治、科学、すべての面において「生命」が最優先される世紀にしなければならない。
 ―― 身近なところでも環境破壊は進んでいます。私の住んでいる地域でも、緑の丘や、あき地が″開発″され、マンションなどに代わっていっています。犬を放して散歩させられる場所もなくなり、息苦しい感じがします。
 池田 自然を壊すのは、人間を壊すことになる。なぜなら自然は、人類の「ふるさと」だからです。あらゆる生命も人類も、大自然の中から誕生した。機械ではない。科学でもない。自然という環境の中から誕生したものです。人工的につくったものではない。
 人類の誕生については、アフリカで誕生したという説や、何かの因果関係で、全世界の各所で、いっぺんに誕生したとか諸説あるが、自然の中から生まれてきていることは事実です。
 だから、自然から離れれば離れるほど、人間のメカニズムは狂ってしまう。この点に気づかなければ、人類の未来は不幸です。
6  「裸足で土を踏め、木を植えよ」と
 池田 フランスのルソーは「自然に帰れ」と叫んだ。あまりにも機械的になり、科学一辺倒になり、経済最優先になった文明の中で、人間の生き方が変形してしまった。その悲劇に対しての叫びだったでしょう。
 戸田先生は、青少年に向かって「裸足で土を踏め、木を植えよ」とおっしゃっていた。自然に根づいた人生の生き方を育成しようとされたのです。
 人間が「健康になっていこう」と思うのも、自然の法理です。健康のためには、良い空気を吸いたい、美しい緑や花を見たいと、皆、大自然の方向へ向いていく。ひまわりが太陽のほうを向くように。この法理を踏みにじったり、破壊したりする行為は、大きな過ちであることに気がつかなくてはならない。
 お金で青空は買えない。太陽や風を、ひとりじめすることもできない。大自然を破壊するのも、調整をとるのも人間です。自然との一体感を忘れてはならないのです。
 ―― たしかに、今の私たちの生活は便利です。お金を出せば何でも買える。食べものも二十四時間いつでも手に入る。選ぶのに苦労するほど、モノもあります。
 でも、そのために自然を破壊し、人間性も壊れかかっているのかもしれません。
7  ハンバーガーは″森林を食べる″
 ―― 私は学生時代、大手のハンバーガー店でアルバイトしたことがあります。商品は全部、冷凍されて工場から送られてくるのですが、お客さんの注文に応じて、すばやく熱い商品が出せるよう、あらかじめ温めておきます。
 でも、温めておいた商品が三十分たっても売れない場合は、″より新鮮なものを出す″ということで、包装紙にくるんだまま、どんどん捨てるんです。まだ食べることができるものを捨てるんです。
 池田 飽食の社会を象徴しているね。昔は、茶碗に、ご飯つぶ一つ残しただけでも、叱られたものです。
 ハンバーガーの場合、安くて大量の「牛肉」が必要です。牛には「牧草」を食べさせなければならない。牧草地を確保するために広大な森林を伐採した。
 一説によると、ハンバーガー一個分の食肉を生産するには、熱帯では五平方メートルの牧草地が必要だという。
 ところが、森林の木々が切られ、根っこがなくなると、雨が降ると栄養のある土もいっしょに流れていってしまう。その結果、新しくつくった牧場の大半が、数年で不毛な土地になってしまう。
 中央アメリカでは、(一九八五年までに)人の入れる熱帯雨林の三分の二が伐採されたという。そこに住んでいた動植物は死滅。森のインディオも生活の場を失いました。そうした犠牲を払って商品になり、なおかつ捨てられるのでは、あまりにもひどい。それが果たして「豊かさ」と呼べるか、ということです。片や、同じ地球上で、毎日、数万人の人々が栄養失調などの原因で亡くなっているのです。
 ―― たしかに、根本的なところで何かおかしい、人類は歩むべき道をまちがってしまったという気がします。
8  生命の輪は全部つながっている
 池田 科学の発達によって、ランプが電気に代わったり、生活が良くなったことは確かです。だからこそ、科学が発達すればするほど、人間の心も、より強く「自然を守ろう」という心にならなければならない。調和をとる必要がある。
 たとえば「森林」です。私たちが呼吸している「酸素」は一体、だれがつくったものか。森林です、海の藻です。植物たちが何億年もかけてつくってきたものです。
 「水」はどうか。私たちの生活用水は、大半が川から得ている。その川には、晴れの日も雨の日も、絶えず水が流れている。それはなぜか。
 森林の根っこの土が、降った雨を吸収し、地下水として、毎日ゆっくりと川へ流しているからです。もしも森林がなく、山がアスファルトのように硬かったなら、降った雨は、その日のうちに全部、川に流れ込み、海に送られてしまうだろう。栓を抜いた、お風呂の水のようなものです。
 「土」も、そうです。寿命を終えた木の根っこや葉っぱ、動物や微生物たちのおかげで、栄養のある土ができていったのです。土がなければ、稲や野菜も植えられない。食糧がなくて、人類は死滅です。そのうえ、日常使っている輪ゴムも紙も机もタンスも、家も、木が使われている。森林の恵みであることは言うまでもないでしょう。
 ―― 私たちが当たり前と思っている「空気」も「水」も「土」も「食糧」も、そして「生活」も、全部、森林が支えてくれているのですね。
 池田 まだある。「森の木を切れば、海の魚も取れなくなる」といわれる。
 ―― なぜでしょうか?
 池田 森林がなくなれば、降った雨が一度に川や海に流れこむと言ったが、土砂も大量に入りこむため、水が濁って住めなくなるのです。その水は、温度に敏感な魚には冷たすぎる。また、森林の生み出す栄養分が、ゆくゆくは魚のえさになる。森林があるからこそ海が守られているのです。(富山和子著『森は生きている』講談社刊、参照)
 ―― 全部、つながっているんですね。
 池田 自然は、「生命」が輪のように連なっている。互いに無関係なものは、何ひとつありません。どこを破壊しても、他のところに必ず影響する。
 「母なる大地」「母なる海」「母なる地球」……自然は、人類の母親なのです。″母親″をいじめ、痛めつけるなんて、これほどの罪はない。
9  地球も一つの生命
 ―― 全部が尊い「いのち」なんだ、生きているんだ、という哲学が大事だと思います。
 池田 私たちは地球の一部なんです。地球が私たちの一部なのではない。人間の傲慢は、そこを勘ちがいしてしまった。
 ガガーリンが、人類で初めて地球を宇宙から見た時、「地球は青かった」と言った。大変な証言です。海の青さ、雲の白さ。それは地球が「水の惑星」だからであり、「生命」の輝きです。
 仏法の真髄においては、一本の草も木も、石ころや塵でさえも「仏」の生命をもっていると見るのです。これ以上の「生命の尊厳」の哲学はない。
 仏法は演繹法的に(まず原理を示す方法)、また直観的に、そういう智慧を説く。
 科学のほうでも、帰納法的に(事実を下から積み上げる方法)、「人類の生き方」を向上させようという決意が必要でしょう。そこに、すべての出発がなくてはならない。
 地球も一つの「生命」である、という見方を示した「ガイア理論」は有名です。提唱者のラヴロック博士は述べている。
 「不思議なことに、なぜかその見方は優しさや慈しみの心という人間的価値と重なってくる」(『ガイアの時代』スワミ・プレム・プレブッダ訳、工作舎)
10  21世紀を、緑したたる「生命の世紀」に
 ―― そういう優しい心になれば、ゴミのポイ捨てなんかできませんね。
 池田 勝手にゴミを捨てる、空き缶を捨てるというのは、傲慢な畜生の心です。後から来る人のことを全く考えない「エゴ」であり、不自然な人生の生き方です。
 自然を大事にしようとしている人ならば、ゴミなど捨てられないはずだ。ゴミを捨てるのは、自分の「人間性」を捨てることにほかならない。反対に、自然を愛する人は、人を清らかに愛せる。平和を大切にする。損得の計算の世界を超越した、もっと情緒豊かな人生です。
 ″計算の人生″は、自分をも計算してしまう。計算は有限です。自然は無限です。
 ″計算の人生″は、要領よく、うまく生きたつもりでも、大きな自然の目から見たら、結局、貧しく、やせこけた、わびしい生き方になっている。大きな目で見たら、損をしているんです。
 ―― たとえば、他人の捨てたゴミを拾うことは、一見、割りに合わないことです。それを損とか得とか計算することなく、自然を愛する気持ちから実践することが大事なんですね。
 池田 それでこそ、人間らしい自分になれるのです。
 ―― 世の中が進んだからこそ、一人一人の自覚が大事だということですね。
 池田 科学が発達するにしたがって、自然を守っていく、さまざまな取り組みをしていくのが当然です。
 ″わがままを捨て、エネルギーのムダ使いをやめよう″″より自然を愛そう″というふうに。「生き方」の向上を伴わない「豊かさ」は、まやかしにすぎない。
 ―― 意識あるメンバーは、考えています。
 「″自分一人が努力しても仕方ない″という気持ちを捨てることだと思う」
 「″自分一人ぐらい汚しても大丈夫だろう″という考えをやめることが大切」
11  行動! 美しい地球を愛すればこそ
 池田 その通りです。自然を守るとは、口でいうほど、やさしいことではない。時には、妨害もある。命を狙われる場合さえある。
 アメリカの海洋生物学者、レイチェル・カーソンさんを知っているだろうか。『沈黙の春』(一九六二年発刊)は、環境汚染を取り上げた、勇気ある一書です。
 当時、アメリカでは、危険な農薬が大量に撒かれていた。効果があるかに思えたが、次第に、害虫以外の虫も、魚も、姿を消していった。楽しく歌っていた鳥たちも次々と死に絶え、春は「沈黙」してしまった。農薬を浴びた人間にも病気が続発しはじめた。
 彼女は、この事実を告発し、危険な農薬の使用禁止を訴えたのです。発表するやいなや、想像を絶する攻撃が始まりました。
 ―― 正しいことを主張しても、攻撃されるのですか。
 池田 正しいからこそ攻撃されるのです。それによって莫大な利益をあげている企業から。企業と手を結んでいる役人、政治家たちから。いつの時代も同じです。この構造を見破らなくてはいけない。
 農薬の関係者による非難キャンペーン。業界雑誌も彼女を風刺した。彼女の本を「カーソンが非難する農薬よりも有害である」(リンダ・リア『レイチェル・カーソン』上遠恵子訳、東京書籍)と。
 州の研究機関すら彼女に反論した。その研究機関は化学企業から多額の寄付金を受けていました。″『沈黙の春』を沈黙させよう″。テレビ・ラジオが平均・五十分ごとに彼女を攻撃した日もあった。医師会すら、″農薬の人体への影響は、農薬業界に聞くように″と勧めていたのです。
 しかし、彼女は訴え続けた。″これは、世界が危険な物質によって汚染されているという本当に恐るべき事実の一部分でしかない″と。そして民衆の支持を獲得し、環境保護の思想を全米、全世界へと広げていったのです。その信念の炎は、二年後に死去(一九六四年四月)した後も人々の心で燃え続け、大きく世論を変えていったのです。
 彼女は、若い人たちに語り残している。「地球の美しさと神秘を感じとれる人は、科学者であろうとなかろうと、人生に飽きて疲れたり、孤独にさいなまれることはけっしてないでしょう」(『センス・オブ・ワンダー』上遠恵子訳、佑学社)
 ケニアのことわざにある。「地球を大切にしなさい。それは、親からもらったものではなく、子どもたちから借りているものだから」と。
 しかし、環境を破壊する現代の大人たちは諸君や諸君の子孫の世代に、過大な″負の遺産″を残そうとしている。「経済」を最優先し、これまで自然によって守られてきた健康も、文化も、環境も、生命も売り渡そうとしている。だからこそ君たちが行動するべきなのです。まだ「地球の美しさと神秘」を見失ってない君たちが、声をあげるべきなのです。諸君が生きる二十一世紀を諸君の手で守る戦い、「生命の世紀」とする戦いは、もう始まっているのです。

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