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日蓮大聖人・池田大作

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芸術との語らい 「心」を耕せ! 「皆を喜ばせたい」が芸術の心

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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2  「人をくつろがせ、ほっとさせる」
 池田 決して特別のことではないし、本来、一流の芸術も、自然と同じように、「人をくつろがせたり」「生命力を与えてくれる」ものなのです。
 また、女性がきれいになろうとすることも、「美」の追求であり、芸術・文化に通ずる。きれいに掃除をしようとすることも、「美」の創造であり、芸術・文化に通ずる。部屋に、一輪、花を飾るだけで、全体が見違えるようになる場合がある。和やかになってくる。それが「美」の力です。
 芸術の世界は、「ほっとする」ものであって、身がまえたり、窮屈になったりするものではないのです。疲れている心を励ましたり、きゅっと凝り固まった心を、ときほぐし、解放させてくれるのが、芸術であり、文化なのです。
 ―― それを堅苦しく感じてしまうのは、芸術が「勉強」の対象になってしまうからかもしれませんね。
3  考えこむ前に一心に聴く・見る
 池田 芸術は、まず楽しめばいいんです。初めから頭で「理解」しようとすると、かえって、わからなくなってしまう。鳥の歌を「理解」しようという人はいないでしょう。花の野原を「理解」しようという人はいないでしょう。もちろん、優れた作品の中には、味わうのに集中と努力が必要なものもある。
 しかし基本は、音楽なら、まず無心に「聴く」ことです。絵画なら、一心にまず「見る」ことです。見る前に、考えてしまっている人が多いのです。
 たとえば、美術館に行くことも、日本では特別のことのようになっている。ヨーロッパなどでは、ごく小さい時から美術館に行く。当たり前のことであり、特別なことではないのです。それは、一つには欧米の美術館が民主主義の結実だったからかもしれない。
 昔、一部の王侯貴族とか大富豪しか美術品を集められなかったし、見られなかった。それを「私たちにも見せろ!」と言って生まれたのが美術館です。簡単に言うと、そういうことです。「美」を皆で楽しみたいという民衆の欲求の高まりで生まれたものです。これに対して、日本の美術館は、明治からの近代化に伴って、政府が「わが国にもヨーロッパのような美術館がないと恥ずかしい」と思って、つくったものです。「官」主導だったから、どうしても、「お前たちにも見せてやろう」という発想になってしまう。
 ―― 「ありがたく思え」と。それでは本当に窮屈で、しきいが高くなりますね。
 池田 今は大分、変わったと思うが、伝統というものは根強いもので、まだまだ、そういう発想が、芸術・文化の世界全体に残っていると思う。
 本当は、文化は「人を楽にさせる」もので、いばる心は芸術とは反対なのだが、それがわからない人が多い。
4  一生涯にわたる「感性の成長」を
 池田 自分の心を豊かにし、自分を表現しながら、他の人と何らかの和合をしていこう、交流していこうとする心。自分の名誉や、もうけではなく、「皆を喜ばせたい」という心。その心をつくっていこうというのが、本当の芸術であり、文化です。
 今の知識人や、権力者には、この点がわかっていない。自分のため、自分の主張にとどまり、どこまでいっても、本来の芸術や文化に、たどり着かない。
 だからこそ諸君には、本当の「文化の心」をもった人になってもらいたいのです。その心を磨くためには、美術館に行ったり、音楽会に行ったりすることも大事でしょう。また、歌ったり、絵を描いたり、工作したりすることも、文化人としての素養を、じょじょにつくっていることになる。
 受験勉強だけでは、進学のための人生になってしまう。もちろん、その取り組み自体はやむを得ないことなのだが、もっと、一生涯にわたる「自分自身の感性の成長」に何が重要なのかを見失わないでもらいたい。
 芸術に親しみ、なじんでいくことは大切なことです。試験勉強は知識の追求でしかない。心を豊かにするのは、芸術・文化です。学校の芸術の授業も大切でしょう。それは、自分自身の世界を広め、深め、和やかにしてくれるものです。
5  「人を見下す心」は「文化の心」と反対
 ―― メンバーの中には、学校の授業は「面白くない」「苦痛だ」という人が多いのですが。
 池田 そう言えば、ある識者が述べていた。「日本の場合、往々にして、芸術の教師に偏屈で生意気な変人が多い。静かに、深く、わかりやすい授業ができないのだろうか」と。そうなっている理由を考えると、日本の「芸術の心を育てる」土壌が劣っていることが大きいといえるでしょう。たとえば、英語の教師の中には、自分は英語ができて、生徒はできないから、自分のほうが偉くて、できない生徒を見下している人がいる。
6  「技術」心別問題。大切なのは心
 池田 それと同じように、芸術の教師の中にも、自分は上手に絵を描いたり、彫刻を作ったりできるから、できない生徒を見下してしまうような慢心をもつ人がいる。教師のそれらの技術は、職業人としての技術にすぎないのに――。
 あくまでも、生徒の「芸術・文化の心」を引き出すために、どう手だてをしていくかを追求できる人が、偉い教師です。残念ではあるが、今の日本の芸術の土壌のうえでは、そのような人が少ないのが現実のようです。上手・下手は別問題であり、「心こそ大切」なのです。文化とは、心を「耕す」ということなのだから。
 文化は英語で「カルチャー」という。耕すという意味です。宿命的に縛られて生きている人の心の大地に、「もっとすばらしい花を咲かせよう」「実をならそう」「そのために大地を耕していこう」という心のもち方が「文化」なのです。
 だから、「いばる」のは「文化」と正反対の心なのです。「いばったり、人を下に見るのは、本当の意味の芸術家でなく、芸術屋である」と論じていた人もいます。いばる芸術家は芸術屋であり、売名の文化人は文化屋です。
 皆を納得させられる人、尊敬と感謝ができる人が本当の芸術家であり、文化人であることを、二十一世紀を担う皆さん方は知ってほしいのです。
 ―― 芸術が人を和ませ、解放するというお話でしたが、ある会合で、こんなことがありました。高等部員がバイオリンを弾いたんです。すると、今まで下を向いていた参加者まで、皆、顔を上げて、目を輝かせて聴き入っているのです。びっくりするくらいの変化でした。
 東北の男子高等部長は音楽学校の先生なのですが、同じことを経験したそうです。彼自身も、会合でよくピアノを演奏するそうです。その時は「″菩薩界の音楽″というんでしょうか、生きる『勇気』と『希望』を贈りたいと思って弾いています」と語っておられました。
7  まず人間たれ!
 池田 すばらしいね。芸術のない世界は、灰色の世界です。文化が花開いてこそ、カラフルな、明るい世界になる。創価学会が文化運動を「草の根」のレベルから「世界的な交流」のレベルまで広げているのも、色とりどりの美しい花園を広げているんです。
 ―― はい。東北男子高等部長の「音楽との出あい」も、学会の少年部の合唱団だったそうです。高校二年から、本格的に音楽の道に進んだそうで、こんなことを言われていました。「文化とは、自分を発見する喜びと思います。子どもたちに教えている時も、音楽を通して、相手の個性が発見できた時がいちばんうれしい。その意味で、文化とは人間の追求だと思います」
 池田 その通りです。人間の追求です。名声の追求とか、お金の追求とか、虚飾の追求ではない。
 世界的・歴史的な芸術作品も、お金や名声を考えないで、「自分の魂を残そう」と思ったからこそ、今に残っているのです。卑しい心でつくった作品は、金メッキの作品です。
 一流の芸術には「生命力」がある。生きている。作者の「生命」が打ちこまれ、魂がこもっている。ロダンは、芸術家にとって「肝腎な点は感動する事、愛する事、望む事、身ぶるいする事、生きる事です。芸術家である前に人である事!」(高田博厚・菊池一雄編『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波文庫)と言った。
 芸術家である前に、人間であれ! と。この「人間としての」感動、希望、愛、戦慄が、作品を通して、こちらに伝わってくる。その「魂の振動」に、こちらの魂が揺さぶられる。それが芸術の体験です。その感動で、作者と鑑賞者は結ばれ、その感動をともにする時に、国境も超えて、人と人が結ばれるのです。
 ―― 本当に「心こそ大切」なのですね。
8  栄誉はいらぬ!
 池田 中国の敦煌とんこうは「砂漠の大画廊」ともいわれ、西暦四世紀から一千年以上にわたり栄えた仏教美術の宝庫です。その敦煌の宝を守り、世界に宣揚したのが、今は亡き常書鴻じょうしょこう画伯です。立派な方でした。何度もお会いしました。対談集も出しました。(『敦煌の光彩』本全集第一七巻収録)
 常書鴻画伯は本来、パリで一流の洋画家の道をたどっていた。数々のコンクールにも入賞し、前途は洋々としていたのです。しかし、ある日、セーヌ川のほとりの古書の露店で一冊の本に出あう。それが『敦煌千仏洞』という画集でした。祖国・中国に、これほどの偉大な芸術があったのか――しかも、その至宝が外国の侵略者たちに略奪されるがままになっていた。
 「帰ろう。中国へ。宝を守るんだ。この腕で」
 常青年は、栄誉も捨て、パリの生活も捨てて、砂漠の中の敦煌へ行ったのです。「無期懲役」と言われたような苦労の中で、芸術を守り、修復し、戦い抜いて、一生を終えられた。生活の苦しさのあまり、最初の奥さんにも去られ、壮絶なまでの戦いでした。
 何もいらない、ただ「美」を守りたい! 「美」の光彩を民衆に届けたい! と。
 私は、常先生の「心」にこそ、芸術の本当の「心」があると思う。
 常先生が言っておられた。
 「敦煌の作品が、今日なお、みずみずしいのは、画工たちが心で、魂で創作したからだと思います。心の底から生み出した創造的な力は、にせものではありません。真の芸術作品は千数百年を過ぎたとしても、人々に感動を与える力は衰えないのです。(中略)表面だけ見ると、美しく見える芸術品にしても、よく見ると、にせものだとわかる場合もあります」(『敦煌の光彩』)と。
 その通りでしょう。今の芸術や文化には、「この人は有名だから」とか、「金額」を基準にして決めようとする向きがある。残酷であり、いびつであり、悲劇です。
 しかし、それはそれとして、人間がより豊かに、より楽しく、より高く生き抜いていくために、文化の追求は永遠の課題です。
9  仏教と文化は表裏一体
 池田 人間は、一方では、競争・戦争・嫉妬というような残酷な面をもっている。
 もう一方では、「もっと豊かに、美しく、明るい生き方をしたい」という一面も、もっている。この両面の葛藤の繰り返しが、人類の歩みであり、歴史でしょう。
 だから、文化とか芸術というものは、人間が人間として最高の人生を飾り、エンジョイしていくために必要なことであり、動物にはないことなのです。これは、地上に楽園をつくろう、という「善」の心を引き出す作業です。「人間として」理想的な生き方なのです。芸術こそが人間を人間らしくするのです。
 ―― 魂をこめた芸術という、その「魂」は信仰の場合も多いと思います。大宗教は必ず大文化を生んできました。
 池田 権力に結びつかない限りは、そうです。キリスト教も権力と結びつかない時代は、文化が華を咲かせていた。
 思想のない文化は、長い目で見た時、大衆に受け入れられないからね。
 宗教――とくに仏教は、裏を返せば文化なのです。表裏一体なのです。文化も仏教も人間を「内側から」薫発するものです。
 常先生も言われていた。「敦煌芸術においては、創意の源泉は宗教にあるかもしれません。もし仏教を信じていなければ、敦煌壁画のような作品は絶対に生み出せないと思います」(同前)と。
 ―― やはり「権力」とか「いばる心」とかが、文化を殺してしまうんでしょうか。
10  文化の心を養い、平和な世界を創れ
 池田 そう。私の少年時代には、日本全体が戦争への道を突き進んでいた時代だった。美術とか芸術的なことは、戦争に反対することのような空気があった。だから、音楽といえば軍歌であり、絵といえば兵隊や、戦車や、戦地の看護婦の姿といったものを描かなければならないような思想を与えられていた。まさに文化に圧政がかかっていた。権力者の魔性です。
 文化や芸術が「内側から」人を解放するのに対して、権力は「外から」人を抑えこもうとする。反対なのです。
 ―― たしかに、世の中の指導者は、なかなか「美」を理解しません。むしろ文化を利用するだけというか。
11  「人間はこうあるべきだ!」と立つ
 池田 だからこそ、民衆の力で文化を興隆させるのです。ヨーロッパのルネサンスの芸術は、ある意味で、教会に束縛され、為政者に圧迫されてきた民衆の大反撃の結果という面がある。「人間は、こうあるべきなのだ!」と立ち上がり、表現した。偉大なる人間の力を示した。これが不朽の芸術として、今に残っているのです。
 為政者が文化・芸術をわかろうとしないということは、恐ろしいことです。それは、争いにつながり、ファシズムの方向につながる。反対の例もある。
 ドイツ・ルネサンスの画家デューラーのことを中川一政画伯(一八九三年〜一九九一年)がエッセーに書いておられる。デューラーといえば、銅版画でも有名です。
 ある時、デューラーは、王宮の壁画を描くことになった。ハシゴに登って作業していたが、そのハシゴが、ぐらぐら揺れる。見ていた皇帝が、ハシゴを押さえて支えた。その姿に、侍従が驚いて、皇帝が、そのような軽はずみなことをなすっては……と、とがめた。皇帝は答えた――私のような校訂は、これからも出るであろう。しかし、デューラーのような画家は、今までもいなかったし、これからも出ないであろう――と。(中川一政『我思古人』講談社、参照)
 ―― 「本当に大切な人は、だれなのか」が、よくわかっていたんですね。
 池田 文化の人が大切なんです。本当の文化人は平和的であり、「美の世界」「旭日の世界」「朝日の世界」に導いてくれる。権力者は、暗闇に誘っていく。正反対なのです。だから、文化の「心」を養い、広げていくことが、平和を創っていくことになるのです。
12  「学びの敵」は「恐れる」こと
 ―― 二十一世紀には「文化の人」が大切だとわかったのですが、そういう人になるには、どうしたらいいのでしょうか。自分は歌もへただし、絵もうまくないし……と思っている人も多いと思うのですが。
 池田 私も絵がうまく描けなかった。字もうまくなかった。しかし、「いい絵を見よう」「いい書を見よう」と心がけた。その心が今、大きな助けになっています。人間は賢く、聡明に生きなければならない。遠回りすれば、その先に行けるのに、自分では「行き止まり」と思って、立ち往生している場合がよくあるのです。
 ―― それは学校の勉強についても言えると思います。「自分はどうやっても無駄だ。行き止まりなんだ」と思っている人がいます。
 池田 しかし、じつは、そうじゃない。そう決めつけるから行き詰まってしまうのです。「学ぶ」ということのいちばんの敵は、「恐れる」ということです。語学でも、芸術でも、何でも――。
 「下手だと笑われないだろうか」「間違えて恥をかくんじゃないか」「こんなこともできないのかと軽蔑されるんじゃないか」そういう恐れがあると、なかなか前へ進めない。だから「勇気」を出すんです。笑われたって、かまわない。一生懸命やっている人を笑う人のほうが、恥ずかしい人間なんです。人と比べる必要なんかない。自分が少しでも進歩していればいいんです。教師も、一流であればあるほど、人に「恐れ」を感じさせないものです。「萎縮する」ことがいちばん、才能を伸ばす上での障害だと知っているのです。
 ―― 人を威圧したり、いばったりするのは、「文化を殺す」ことなんですね。美術館やコンサート・ホールなんかでも、人を緊張させるような雰囲気のところもあります。本当は、人をくつろがせて、元気にさせる場所のはずなんですけど。
13  文化は「皆が分かち合う」もの
 池田 文化は「皆が分かち合う」ものでなければならない。
 文化・芸術は、平等のものです。「美」に出あうとき、人は平等に「人間」に立ち返る。「人間」に立ち返れば、社長も平社員もない。教師も生徒もない。専門家も素人もない。
 世の中は差別の社会だけども、その中で、皆が平等に「人間」に立ち戻れる場が必要です。それが「文化の広場」であり、「芸術の森」なのです。
 また本来の宗教の社会的役割の一つも、そこにある。だから、文化・芸術に触れる人の中に、どのように「文化の心」が培われていくかが問題なのです。
 たとえば「私は外国文化にくわしい」と、いばる人がいるが、そんな人は文化を利用しているだけです。
 ―― 「日本は教育のレベルが高いのに、文化的教養がない」と言われるのも、そういう「心」の面の問題でしょうか。
 池田 日本は「文化三等国」であると言われている。「五等国」だと言う人もいる。日本の指導者も、教員も、生徒も、自分自身が文化的人間になっていない。文化の大事さを理解していない。いや、理解する努力をしていない。実行をしていない。格好と形式になっているから、文化が「身について」いない。
 これまで経済優先の考え方で、文化は付け足しにしかなっていなかった。その文化も、値段・お金で判断してしまう。そんな国民性ができてしまった。これを変えなければ、日本に明るい未来はありません。
 ―― 「文化は付け足しだった」と言われましたが、今でも、そういう考えは根強いのではないでしょうか。
 経済が豊かになったから、「次は文化を」というような風潮も、結局、文化を装飾品のように考えて、見栄を張っている感じがします。
 文化は人間にとって不可欠のものなんだということが、今ひとつ、わかってない。
14  文化は「人間性の解放」!
 池田 明治の大文豪・夏目漱石の有名な言葉がある。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る」(『草枕』、『夏目漱石全集』2所収、筑摩書房)
 人は生きていかなければならない。働き、食べながら、歳をとっていく。人の一生は、この繰り返しです。
 そういうなか、人類が進歩し、人間らしい生活を求め、「花を咲かせていきたい」という気持ちから生まれてきたのが、文化・芸術です。生きることは苦しい。バラの木のように、トゲがある。芸術・文化は、その木に咲くバラの花です。
 ―― 芸術のない人生は、花のない自然のようなものだということですね。
 池田 その「花」とは「自分自身」です。自分の「人間性」です。
 自分の中の「人間」の解放が芸術なのです。社会の機構は、人間を何かの部品のように扱ったり、等級をつけたり、圧迫しようという傾向がある。その結果、失われ、ゆがめられた人間性を取り戻すには、何が必要か。
 抑えつけられ、自分の中に、たまりにたまった「思い」がある。声にならない「叫び」がある。それを声にし、形にするのが芸術です。そういう感情を、娯楽や遊びで発散することもできる。しかし、それで一時的に元気になったとしても、本当の充実感、手ごたえはない。生命は輝かない。心の底では空虚です。それは自分自身の本質というか、自分の魂の欲求を、深いところから解放してはいないからです。
15  仏法は「最高の文化的人生を生きる」触発に
 池田 この、深いところにある自分の「魂」の叫びが芸術です。
 芸術を創造し、芸術を味わうことによって、抑圧された魂が解放されるのです。だから喜びがある。うまいとか、へたとかいう技巧を超えて、ありのままの自分の全生命を表現する喜び、感動、それが文化です。
 見る人も、その激しさ、強さ、真剣さ、美しさに心を揺さぶられる。だから、「人間として生きる」ことと「芸術」は切り離せないのです。
 桜梅桃李――それぞれの個性そのままに、自分なりに真剣に生き抜く姿は、それ自体、芸術・文化の心に通じる。
 文化とは「人間性の開花」です。だから国境を超え、時代を超え、一切の差別を超える。そして、正しい仏法の実践は、自分を耕し、最高の「文化的人生」を生きるための触発となるのです。
 ―― 文化には、そういう深い意味があるのですね。文化を「付け足し」のように考える社会は、人間らしい社会とは言えないですね。よくわかりました。
16  「美」の価値を広げれば「平和」が
 池田 文化を大事にする社会は、「人間の幸福」を大切にする社会です。牧口先生は「美・利・善」の追求が人間の幸福であると、おっしゃった。
 「利」とは、広い意味での利益の追求であり、幸福に通ずる。「善」とは、不正に対する正義の追求であり、幸福に通ずる。そして「美」は芸術・文化の追求であり、同じように幸福に通じる。この三つがそろっていなければ偏頗です。偏った社会になってしまう。人間は幸福になれない。
 今の日本は、政治偏重、経済偏重、科学技術偏重です。だからこそ文化・芸術の次元、つまり「美」の価値を大切にし、広げていくことが重要なのです。その努力が日本の国を「人間的な国」にするし、世界からも信頼される国にする。また世界の平和をつくっていく。
 ―― そのために池田先生が戦っておられる。それなのに、文化の心がわからない卑しい人々が、中傷したり、圧迫をしてきたことに、私たちは強い怒りをもっています。
 池田 戸田先生と出会った十九歳の頃から、私は「文化国家をつくるしかない。戦争の悲劇から精神的に立ち上がるのは、文化しかない」と思っていました。これは万国共通の法則です。この思いを今日まで貫いてきたのです。その結果、一民間人として、これだけ世界と交流し、信頼され、称賛されるようになった。まさに文化の力です。
17  文化・教育の力は時代の「底流」をつくる
 池田 トインビー博士と対談したのは二十五年前です(一九七二・七三年)。
 文化の大切さについても語り合ったが、博士と話しているとき、ちょうど世間では華やかな政治のニュースが流れていた。首脳同士の会見のニュースです。そのとき、博士は、「私たちの対談は今は見向きもされないかもしれないが、十年後・二十年後には、必ず皆が納得し、賛嘆する時が来るでしょう」と言っておられた。その通りになった。(=二〇〇五年現在、トインビー博士との対談集は二十六言語で出版され、世界の識者の″必読書″とさえ呼ばれている)
 文化の力は、地味かもしれないが、人の「心」を変える。ゆえに根本的である。政治・経済は、ニュースにもなりやすく、派手かもしれないが、時代の底流をつくっていくのは文化・教育の力なのです。川の浅いところだけを見てはならない。
 ―― 最初の質問に戻りますが、自分がへたであってもかまわないということでしょうか。
 池田 自分が上手にできなくても、偉大な芸術と接することが大事です。
 「すばらしい」と感動できることこそが、芸術の「心」なのです。見て、聞いて、感動して、そして何かを見いだすことが、芸術の「心」です。
 ―― 「一流」の芸術に触れよと言われても、「一流とは何かわからない」「人がいいと思っても、自分はそう思わない」という人もいるのですが。一流とは、何でしょうか。
 池田 本当に自分が感動し、賛嘆できるものが「一流の芸術」です。人ではない。「自分」が、感動する主体です。人の目で見るのではない。人の耳で聞くのではない。自分の目で、耳で味わい、自分の感性と心で感じとるべきです。「皆がいいと言うから」「皆が悪いと言うから」というだけで追随していたら、肝心かなめの自分自身の心が死んでしまう。
 先入観を捨てて、白紙の自分で、どんどん直に、ぶつかっていくのです。その結果、本当に感動すれば、それが自分にとっての「一流」です。
 ―― そうしますと、一流の芸術といっても、人それぞれに違ってよいのでしょうか。
18  一流を知った人は、二流・三流を見抜ける
 池田 人それぞれといっても、自分勝手ということではない。本当によいものを見抜く力は、努力し、「養って」できるものです。自分が進歩していけば、前には「いい」と思ったものが、そうでもなくなったり、前にはピンとこなかったものが、すごい迫力で胸に迫ってきたりする。
 たとえば、今、世界的に評価されているものは、長い歴史の中で、多くの人が感動し、賛嘆されてきた。それらの作品には、たしかに、それだけの何かがある。
 反対に、にせものは一時的には、もてはやされても、長続きしない。
 青空を見れば、だれでも「すばらしい」と思う。桜を見れば「美しい」と思う。それに通じるものを一流の芸術はもっている。「自然」そのもののような「生命力」をもっているものです。作品にそういう生命を吹きこむために、真の芸術家は、苦しんで苦しんで、自分の全生命を注ぐのです。
 ―― そういう「一流」を見抜く力を養うには、どうしたらいいのでしょうか。
 池田 やはり、傑作と言われる絵画や音楽を、たくさん見たり聴いたりすることでしょう。それが感性を磨く。自然のうちに、良い・悪いが見えてくる。
 二流・三流を見ていたら、一流はわからない。一流を見ていれば、二流・三流は、すぐわかる。鑑識眼ができてくる。だから、最初から、最高のものに触れるべきです。本で見ているだけでも、いつの日か実物を見たときに受ける感動は、まったく違ってくる。
 私もルーブル美術館(パリ)で本物の作品を見たときの感動は、すさまじいものがあった。ちょうど、人物を「写真で見る」のと、「本人と会う」違いのようなものです。良い絵を見る。良い曲を聴く。良い芸術と接することが、自分の心を養っていくのです。
 ―― 皆がプロになるわけではないですから、「文化を愛する心を忘れない」ことが大事だということですね。
19  文化は飾りではない。心がどうか
 池田 趣味として、絵が好きであるとか、歌が好きであるとかというのも、文化運動をしようという心に通じるでしょう。
 また、最近は会社においても、「一芸に秀でる」人を採用しようという傾向が多くなっているという。これには、いろんな背景があるが、その人のもつ文化性・芸術性を高く評価し、求めているともいえるでしょう。
 一芸に秀でている人が、有名になろうがなるまいが、その人のもっている「才能」と「心の豊かさ」を、皆で喜び、たたえ、分かち合える心があってほしい。
 そういう心の輝きをつくり、見いだすことは、本当に尊いことです。文化は飾りではない。アクセサリーではない。文化で「心が豊かになっているかどうか」が大事なのです。
 ―― やっぱり「心こそ大切」だと思います。京都の女子高等部長は、友禅染の仕事をされています。藤田さんは「自分の心が、自分の付ける色に出ます。たとえば、人の幸福を思う心をもてば、その心が絵に表れます。だから自分の心を磨かなければなりません」と言っておられます。
 「その意味で、もっともっと世界に目を向けて、新しい息吹を吸収しながら、日本文化を代表する友禅染を世界に発信していきたいと思います。『世界のため』『人のため』という心で」とも言われていました。
 池田 すばらしいね。私は、文化を尊び、芸術を愛する人たちが陸続と育ってほしい。そういう個人と個人が、がっちりと、つながり、また、そういう心で国と国とがつながっていったとき、世界は理想の世界となり、理想の人間像が現れる世紀となるでしょう。
 ―― それが本当の「平和の世紀」ですね。
20  心を鍛えなければ「ものまね」で終わる
 池田 平和と文化は一体です。文化国家は平和国家になれるし、平和国家は文化国家になれる。争いが多くなったとき、文化はすさみ、地獄の国家の方向に進んでしまう。
 「文化」対「野蛮」。この葛藤が人類史とも言えます。冷戦が遠ざかり、「どのような二十一世紀になっていくのか?」――これが世界の大きな課題です。
 結論を言えば、争いを食い止め、民衆の心を平和の方向へと昇華させゆく偉大な潮流は、文化しかないのです。
 ―― 先生が民音(民主音楽協会)や富士美術館(東京・静岡)、創価大学その他、文化機関をつくられたのは、すごい先見だと思います。偉大な「文化の潮流」をつくってこられました。
 池田 はじめは、みんな反対したんだよ。周囲のだれも理解しようとしなかったのです。
 ―― そういうなかを、先を見通して行動するというのは、すごい独創性で、それ自体、芸術的だと思います。文化でも、他の分野でも、日本人はよく「ものまね」がうまいと言われますが、独創性はどうやったら、できるのでしょうか。
 池田 もちろん、美の追求も、最初は「ものまね」から入ることも多いでしょう。「まなぶ」とは「まねぶ」からきたという。はじめから独創性が発揮されるわけではない。ピアノでも、鍵盤もちゃんと弾けないで自己流でやっても、それを独創とは言わない。はじめは、「まね」も「新たなる芸術」を引き出すための手段になる。しかし、まねがいつまでも、まねで終わってしまってはいけない。
 日本の場合は、ものまねで終わり、自分のもの・自分の芸術をつくるところまで、なかなか行き着かない場合が多いようだ。
 技術でも何でも、ものまねする模倣国家。まねをして金もうけをするのが、これまでの日本の大勢です。まねは上手なのに、そこをさらに突き進み、壁を破る努力がない。
 ―― 「まね」から「独創」に進むには、何が根本なのでしょうか。
21  「心」で感じ取る、「心」で表現する
 池田 目から入り、耳から入ったものだけでは「模倣」で終わる。心が大切です。自分自身の「心」で感じ、「心」で表現していくことです。そのためには、血のにじむような努力と追求、精進がいる。それによって、だんだんと、自在に表現できるようになるのです。
 努力です。レオナルド・ダ・ヴィンチは、「可愛想に、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか」(『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)と手記に書きつけている。
 またベートーヴェンは、死ぬまぎわの病床にあっても、ヘンデルの作品集を勉強しようとして、″わたしは、まだまだ、この人から学ばなければならない″と言っていたという。(小松雄一郎編訳『ベートーヴェンの手紙』〈岩波文庫〉の「注」で紹介)
 ―― あのベートーヴェンがですか。何か、「自分以上の天才はいない」といった誇り高い人のイメージが強かったのですが。
22  「真の芸術家は傲慢ではない」
 池田 当然、自負するところは強かったでしょう。しかし偉大な人は皆、謙虚です。人を尊敬することを知っているものです。小さな人物ほど、人を妬むのです。
 ベートーヴェンは、ある少女に、こう書いています。
 「真の芸術家は決して傲慢ではありません。芸術家は芸術にはかぎりがないことを知って歎き、如何に目的に到達するに遠いかをおぼろげながら感じ、人からは賛嘆されるが、さらに優れた天才は太陽のごとく遙かなかなたに輝いており、そこに行きつけないことを悲しむのです」(前掲『ベートーヴェンの手紙』)
 ―― こういう謙虚さがあったから、あれほどすごい作品がつくれたのですね。
 池田 たしか同じ手紙だったと思うが、ベートーヴェンは、″人が「優れている」というのは、『良い人間』であるということしかない″、つまり心こそ大切なのだと言っています。(「わたしはある人間がほかの人より優れている、といわれるにはその人がほかの人々よりさらに良い人間の一人に属するということ以外にないと思っています。こうした人の居る所がわたしのふる里です」〈同前〉)
 ―― 「人間」が大事ということですね。たしかに、有名な芸術家でも、人間としては尊敬できないということはあると思います。
 池田 そう。その人の曲を美しいと感じたり、絵がすばらしいと感じたりすることと、作品をつくった芸術家を尊敬することは別問題です。
 技術や才能の問題と、人物への尊敬を混同してはいけない。いわゆる文化人が退廃的人生を送ったり、野蛮な行為をすることは珍しくない。また極端な例かもしれないが、ヒトラーも自称・芸術家だった。彼の絵も残っていて、評価はまちまちだが、「公平に見て、技術的には決してへたではない」とも言われています。しかし、絶対に彼は「文化の人」ではなかった。「野蛮の人」であり、権力の魔性の権化の存在であった。
 良いほうの例としては、コロー(フランスの印象派の先駆)だったか、こんな話がある。
 彼は画家として成功してからは、いつも周囲の人を支援した。モデルが貧乏な男性と結婚したら、彼女に持参金を持たせてあげる。友人の画家が住んでいる家を追い出されそうになって困っていると、その家を買ってやる。
 ある女性がコローのことを、こう言ったという。「あの方の絵がすべて傑作かどうかは私にはわかりません。だが、あの方自身は、神様がおつくりになった傑作です」(北嶋廣敏『美術の森の巨人たち』グラフ社、引用・参照)
 ―― 芸術家といっても、人間としての自分を見つめないで、わがままになったのではいけないですね。
23  独創は、わがままからは生まれぬ
 池田 独創と、わがままは違う。にじみ出てくる個性と、奇をてらった見せかけの個性とは、まったく違う。
 いな、本当に個性的な人は自分の個性を表現しようとさえ思わないものかもしれない。むしろ、自然そのもの、生命そのもの、真実そのものに謙虚に仕え、それを表現しようとする。その結果として、おのずと表れ出てくる刻印された個性――それが本当の独創性でしょう。ロダンが「芸術に独創はいらない。生命がいる」(前掲『ロダンの言葉抄』)と言ったのも、同様の意味だったかもしれない。
 ―― 本物の創造性というのは、芸術家でなくても大切だと思います。これからの時代はとくに、もう「ものまねの日本」ではやっていけないと思います。
 池田 そうなるでしょう。「創造性の競争」です。しかし、創造性というのは言うはやすく、実際には、なまやさしいものではない。血の涙を流しながらの戦いです。
 必ず保守的な人々の反対にあうし、理解されない孤独にも耐えなければいけない。勇気もいる。粘り強さもいる。目先の損得に迷わされない信念もいる。
 ―― そういう意味では、「日本人に独創性がない」と言われるのは、そういう信念や勇気が足りないのかもしれません。
24  人間文化開く「創造の世紀」へ
 池田 諸君は、日本と世界を、創造性あふれる文化的社会にしてもらいたい。
 二十世紀は、あまりにも人を殺しすぎた。二度の世界大戦をはじめとして――。
 人類史でいちばん「文明が進んだ世紀」と言われながら、歴史上、いちばん「野蛮な大量虐殺」をしてきたのが二十世紀なのです。アウシュビッツ、ヒロシマ・ナガサキ、南京(大虐殺)、スターリニズムなどは、その悲劇の象徴です。
 それは、「文明社会」の格好はしていても、人間を愛する「文化の心」がなければ、平和はないという教訓です。その心がなければ、「文明の利器」は、たちまち「悪魔の道具」に変わるのです。
 牧口先生は「教育とは『人格の価値』を創造する、最高の芸術である」と教えてくださっている。不滅の言葉です。
 芸術は、特別の人だけのものではない。人を育てるのも芸術です。自分を育てるのも芸術です。美しい人生、美しい行動、美しい祈り。全生命を燃焼させながら、人間らしく、美しい心と心を結んでいくことは、すばらしい平和の芸術です。
 耕された生命と文化が一体となって、二十一世紀の「人間文化」は生まれる。開花しゆく生命と芸術が一体となって「人間芸術」は生まれる。その素晴らしき「創造の世紀」を創っていくのが、諸君の使命なのです。

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