Nichiren・Ikeda
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良書との語らい
読書は「人間だけの特権」
「青春対話」(池田大作全集第64巻)
前後
1 ―― 今回は「読書の喜び」について語っていただきたいのですが。
池田 わかりました。しかし「読書の喜び」といっても、「本を読むのは苦痛」という人も多いんじゃないかな。
―― はい。じつは、その通りなんです。コンピューター世代というか、「読書は苦手」という人が多いんです。
それに読んでいたとしても、わりと軽い本とか、面白おかしいだけの本に流れることが多いようです。読まないよりはいいかもしれませんが……。
2 何百、何千もの人生を学べる
池田 いろんな人がいると思う。それはそれとして、確実に言えることは、「読書の喜び」を知っている人と知らない人とでは、人生の深さ、大きさが、まるっきり違ってしまうということです。
一冊の良書は、偉大な教師にめぐり会ったのと同じです。読書は「人間だけができる特権」であり、いかなる動物も読書はできない。
自分の人生は一回きりだが、読書によって、何百、何千のほかの人生に触れることもできるし、二千年前の賢者と話もできる。
3 ソクラテスやユゴーとも話を
池田 読書は、旅のようなものです。東へ西へ、南へ北へ、見知らぬ人たち、見知らぬ風景に出あえる。
しかも、時間の制約もない。アレキサンダーとともに遠征したり、ソクラテスやユゴーとも友だちになれる。語り合える。
「徒然草」の兼好法師も、「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とする」と表現しています。こんな喜びを知らないとは、何ともったいないことか。宝の山を目の前にしながら、何もとらないで帰ってしまうようなものだ。
4 若き日の「読書」は一生の土台
池田 多くの偉人は、必ずと言っていいくらい、若い時に人生の「座右の書」をもっていた。それは自分を励まし、リードするとともに、自分の親友であり、師匠と言える。
読書には、人生の花があり、川があり、道があり、旅がある。星があり、光があり、楽しみがあり、怒りがあり、大いなる感情の海があり、知性の船があり、果てしなき詩情の風がある。夢があり、ドラマがあり、世界があるのです。
そして、大事なことは、どんな「喜び」でも、それなりの練習、修練、努力が必要だということです。スキーの喜びといっても、スキーを練習しなければ味わえるはずがない。ピアノを弾く喜びも同じ、コンピューターを操作する喜びも同じ。読書も、それなりの努力、挑戦、忍耐があってはじめて「喜び」がわかってくるのです。
いったん、その喜びを知った人は強い。「本が友だち」になった人は強い。何しろ、人類の古今東西の精神の「宝」を、自由自在に味わい、くみ取り、使いこなしていけるのだから。その人こそ「心の大富豪」です。お金で言えば、銀行を幾つも所有しているようなものだ。必要なだけ、いくらでも引き出せる。
―― すばらしい境涯ですね。そうなるためには、具体的には、どうしたらいいんでしょうか。
5 超多忙の中で、どう読んだか
池田 読書は「習慣づける」ことが大切です。読書が習慣になった人は、電車のなかでも、寝る前でも、寸暇を惜しんで読むものです。
戸田先生も若い一時期、大八車(二輪の大型荷車)を引いて働いておられた。「その日の仕事を大急ぎですませて、野原へ行って、大八車をおっぽり出し、野原へ寝転んで、本を読んだものだ」と懐かしそうに語っておられた。
パスカルいわく「人間は考える葦である」。その「考える」ためには読書が不可欠なのです。ゆえに読書は人間の証といってよい。
―― 多くのメンバーからの質問なんですが、「池田先生は、忙しいのに、いったい、いつ、あんなに本を読まれたのでしょうか」というのですが。
池田 基礎は全部、青春時代です。青春時代に、時間をこじあけるようにして読んだのです。
夏なんかは、雑司ケ谷(東京・豊島区)の墓地へ行って、読んだこともある。月光の下で、筵に座り、懐中電灯をつけながら、ユゴーの「レ・ミゼラブル」などを読んだ。静かだし、涼しいし――当時はクーラーなんかないから。蚊には困ったけどね。
―― 徹底して「読む習慣」が身についていたのですね。
6 本が「友だち」、本が「ごちそう」
池田 もう、貪り読んだものです。手に入るものは、片っぱしから読んだ。
病弱だったせいもあるが、本は少年時代から大切な宝物でした。戦争中は、本を防空壕に運んで、爆弾にやられないように守ったこともある。
やがて戦争が終わった。私は十七歳。東京の町は、見渡す限り廃墟でした。国破れ、瓦礫の山となった市街の上に、青空だけが澄みきって、すがすがしく広がっていた。あの空の青さは、今も鮮烈です。
食べるものも、着るものも十分にはない。何もなかったが、希望だけは無限にふくらんでいた。やっと平和が戻ってきたのです。これで、思う存分、勉強ができる。本が読める。本が最高のごちそうでした。
そのころ、近所に住む青年たち二十人くらいが集まって、「協友会」という読書グループをつくっていた。ある日はダンテの「神曲」を語り合い、次はドイツの経済を論じ合うといった雰囲気です。
敗戦によって、今まで正しいと思ってきたことが全部つぶれてしまった。青年は、本当に正しいものは何か、人生や社会の真実とは何かと、懸命に模索していた。そんな時、本だけが頼りだった。
だから、暇さえあれば、神田の古本屋街を、まるで自分の書庫のように歩きまわった。″きょうは何かいい本が出てないか″″あの本はまだあるかな″と。薄給のなか、貯めたこづかいを手にして飛んでいき、まだ売れずに残っていた本を我が手にした時の喜びは、今もって鮮やかです。
―― 今は反対に本が洪水のようにあります。それでも読まないなんて、ぜいたくですね。
7 指導者になる人間は読書を忘れるな
池田 戸田先生も、読書については、それはそれは厳しかった。週刊誌のような本の内容にとらわれている青年を見たら、百雷が落ちた。
「くだらない雑誌なんか読んで、面白がっているようで、どうする。三流・四流の人間になるのか。長編を読め。古典を読め。今、読んでおかないと、人格はできない。本当の指導者にはなれない」と、命をふりしぼって、厳しく叱っておられた。
私に対しても、いつも、「今は何を読んでいるのか」と追及です。
たとえば「『エミール』(ルソー)です」と答えると、「内容を話してみろ」とおっしゃる。だから、読んでないのに読んだふりをすることはできなかった。
亡くなられる一ヶ月前も、「きょうは何を読んだのか」と尋ねられた。
先生は「指導者になる人間は、何があっても読書を忘れてはいけない。私は、『十八史略』(中国の歴史書)を第三巻まで読んだよ」とおっしゃった。
先生は、衰弱しきったお体だった。それでも寸暇を惜しんで読書をし、思索されていたのです。
また、「水滸会」という青年部の人材グループで、『水滸伝』『三国志』『モンテ・クリスト伯』『隊長ブーリバ』などを通して、指導者論や人間観を教えてくださった。
「若いうちに勉強しておけ。そうしないと年をとって、子どもにバカにされ、人にバカにされる。若い時代に読んだことは一生、残るものだ」と、強く強く語っておられた。
今、私も戸田先生と同じ気持ちです。
皆さんに読書の喜びを味わってもらいたい。そのために、「読まないではいられない」となるまで、習慣づけてもらいたい。
中途半端であっては、後悔するのは自分です。
8 読む暇がない
―― 「本を読む時間がない」という声もよく聞きますが。
池田 戸田先生は、言われた。「青年よ、心に読書と思索の暇をつくれ」(『戸田城聖全集』1)と。
「心に」です。″暇がない″という人は、大てい″心に暇がない″のです。読む気があれば、十分、二十分の時間がつくれないわけがない。
また机に向かって読むだけが読書ではない。昔から、文章を練るのにいいのは「三上」と言って、「馬の上」「枕の上」「厠の上」という。今でいえば「電車で」「寝床で」「トイレで」本を読めるではないかということになるでしょう。
皆さんも、好きな人には″たとえ一目でも、五分でもいいから会いたい″と思うでしょう。それと同じだ。
朝、昼、夜と、それぞれ十分の時間を作れば、一日三十分の読書ができる。
むしろ忙しければ忙しいほど、苦労してつくった読書の時間は、集中して読むものです。そのほうが、漫然と読んでいるよりも、ずっと深く頭脳に刻まれることが多い。
「受験勉強で忙しい」という人もいるだろうが、読書の力は、すべての勉強の土台です。長い目で見れば、必ず成績にも反映されるに違いない。その上で、″今の時間は、勉強と読書と、どちらを優先すべきなのか″ということは、自分が賢明に価値判断すべきでしょう。
9 「何から読んだらいいのか」
―― 「何から読んだらいいか、わからない」という人には。
池田 そう迷っている間に、一ページでも読んだほうがいい。迷っていても進まない。一ページでも読めば、その分、前進できる。
―― やはり「長編小説」とか「古典」とかを読むべきなのでしょうか。どうしても、とっつきにくいという人もいると思うのですが。
池田 人間にも善人・悪人があるのと同じように、本にも良書・悪書がある。
人間というのは、必ず何かの縁によって生きているものです。良い人とつきあえば良い心に染まり、悪い人とつきあえば悪い心に染まる。どんな善人でも悪い世界に入れば、二、三割は悪人になってしまうでしょう。
良書を読むことは、自分自身の中の命を啓発することになるのです。古典の良書は、古くならない。いつまでも新しい。二十一世紀にも色あせないでしょう。一生の財産です。
イギリスの小説家、バーナード・ショーに、こんなエピソードがある。
ある婦人が、一冊の書名を挙げたところ、ショーは、読んでいなかった。
婦人は得意気に言った。「ショーさん、この本は、もう五年間もベストセラーですよ。それなのに、ご存じないとは!」
ショーは穏やかに答えた。「奥さま、ダンテの『神曲』は、五百年以上もの間、世界のベストセラーですよ。お読みになりましたか?」
また、エマソンも「出版されて一年もしていない本は読むな」(『社会と孤独』)と言っている。
要するに、出版されて何年、何百年たっても読み継がれている本は名作、良書と思っていいでしょう。
人生の時間には限りがある。ゆえに良書から読むことです。良書を読む時間をつくるには、悪書を読まないようにする以外にない。
悪書は、仏法で言えば、十界の中の地獄・餓鬼・畜生・修羅の命を湧き出させる内容であり、卑しい悲劇をもたらす、毒薬・麻薬のようなものです。それに対し、良書は、幸福の向上と、知性と創造の方向に命を導き、思想・人生を建設する健全さがあるのです。
―― なかには「ゲーテやトルストイも何冊か読みましたが、かなりチンプンカンプンというか、感動しません」という意見もあるのですが……。
池田 正直でいいね。しかし、トルストイやゲーテに感動しないというのは、トルストイやゲーテが悪いのではない。
古典というのは、つり鐘みたいなもので、小さく打てば小さな音しか出ない。大きく打てば大きく応えてくれる。こちらの力次第なのです。どうしてもむずかしいと思うところは二、三十ページくらい飛ばして読んでもいいと思う。後で内容がよくわかってから、飛ばしたところに戻って、読み直して理解すればいいんです。要するに、何かを″学ぼう″という気持ちがあれば、必ず「宝」を見つけだせるはずです。
10 高山に登れば感動も大きい
池田 読書というのは、ある意味で、山に登るようなものだ。山には高い山もあれば、低い山もある。高い山に登るのは大変です。そのかわり、登りきった時の感動は大きい。視界も大きく開けてくる。はるか遠くまで見わたせる。見おろしながら、ほかの山や丘の低さも、全部わかる。大変な分だけ、偉大な栄養になるのです。
それを知ったうえで、たしかに、いきなり高山に登山せよといっても無理な場合がある。挫折したり、遭難したり、高山病になってしまうかもしれない。そういう場合は、まず手近な山から登るのもいいでしょう。
自分の興味がある分野の本から始めてもいい。読書に慣れて、ある程度、「読む力」の足腰がしっかりしてきたら、もっと高い山に挑めばいいでしょう。
高校時代に読めなければ、大学で挑戦してもいい。社会人になって挑戦してもいい。一生涯、勉強です。大事なのは、「人類の遺産を全部、自分の財産にしてみせるぞ」という決心です。「青春時代に数千冊の本を読破するぞ」というくらいの諸君であってほしいのです。
諸君は、二十一世紀の「使命の人」です。世界の舞台では、にじみ出てくる教養、人格がなければ、ほかのことがどんなに優秀でも尊敬されません。金もうけの機械のように思われてしまう。
読書が人間を「人間」にするのです。単なる技術屋であってはならない。どんな立場の指導者であれ、世界的な長編小説も読んでいないのでは、立派な指導者になれるわけがない。
人間主義、人間原点の社会をつくるには、指導者が本格的な大文学を読んでいなければならない。これは非常に重要なことなのです。海外の人は、よく読んでいます。日本人は「読んだふり」をしているだけの人が多い。
11 書を読め、書に読まれるな!
―― 読書する際に、気をつけることがあるでしょうか。
池田 「書を読め、書に読まれるな」ということでしょう。この言葉を、私は若き日の「読書ノート」にも記していた。
「読書ノート」は、昭和二十一年ごろから二十二年ごろにかけて、ザラ紙のノートに、せっせと書いていたものです。
当時は、紙も貴重品だった。ザラ紙のノートでも、それはそれは大切にしたものだ。感動した文章があると、すぐにノートに写した。ザラ紙だから、インクがにじんで、あとからは読めなくなった字もあります。
そのころ、自分に言い聞かせていたのが「書を読め、書に読まれるな!」ということです。読んだら、自分の栄養にするということです。
食べものだって、消化し、吸収しなかったら、自分の血となり、肉とならない。消化するには、自分で思索することが必要です。
牧口先生も「本に読まれるな。本を読んだら思索しなければならない。今の若い者はよく本を読むようだが、思索が足りない。本を読んで、思索することが自分のものになるのだ」と言われている。
12 3種の読み方
池田 戸田先生は、具体的に、こう言われていた。
「本の読み方にも、いろいろな読み方がある。第一に、筋書きだけを追って、ただ面白く読もうというのは、最も浅い読み方だ。
第二に、その本の成立や歴史的背景、当時の社会の姿、本の中の人物、またその本が表そうとしている意味を思索しながら読む読み方がある。
第三に、作者の人物や、その境涯、その人の人生観、世界観、宇宙観、思想を読む読み方がある。そこまで読まなければ、本当の読み方ではない」と。
ともあれ、良い本を自分のそばに置いておくことは大切です。かつて「竹沢先生と云う人」(長与善郎著)という本を先輩からすすめられた。その本から、多くのことを学んだものです。私は、良い友と一緒に、良い本を選び合いました。
―― 本を「自分のもの」にするには、先生がされたように「読書ノート」をつけたほうがいいのでしょうか。
池田 できる人は、そうしたほうがいいでしょう。自分の精神史にもなる。そこまでできない人は、たとえば本のうしろに感想を三行でも四行でもいいから書いてはどうだろうか。「面白かった」のなら、「何が」面白かったのか。「つまらなかった」なら、「なぜ」つまらなかったのか。
また本を読みながら線を引いたり、ところどころに感想や反論を書きこみする読み方もある。もちろん借りた本には、してはいけないが。
ともかく「書く」ことが、思索するきっかけになる。
13 肉体には食物が栄養、精神には書物が栄養
池田 ナポレオンも「読書ノート」をつけていたようだ。「天才は勉強なり」です。
彼は、大変な読書家だった。子どものころから『プルターク英雄伝』に親しみ、″自分も将来、この英雄たちのように生きたい″と奮起したという。諸君も「伝記」から入るのも、入りやすいかもしれない。
彼は、後にエジプトに行っても、スペインに行っても、あらゆる分野の書物を持参した。馬車の中にすら書棚を作ったと言われる。彼にとっては、読書こそ″前進のエネルギー″だったのです。
作家の河上徹太郎氏が紹介していたが、ナポレオンを尊敬していたスタンダールも、こんなことを言っていたという。
″ある程度、燃料をたかないと機関車が動かないように、毎朝起きて数百ページの読書をしないと、自分の平常の頭にならない″(『河上徹太郎全集』6、勁草書房)と。
彼らにとって、読書は頭脳と精神の「ガソリン」のようなものだった。そこから力を得て、創造し、闘争し、前進していったのです。
健康な体には「食物」の栄養が必要なように、健康な心には「書物」の栄養が必要なのです。
食べものも、甘いお菓子や、歯ごたえのない軟らかいものばかり食べていたのでは病気になってしまう。また「食わず嫌い」や偏食を重ねてはいけない。同じように、書物も栄養のある良書を避けてはいけない。
「悪書は堕落の使者であり、非行の手引きであり、不幸への落とし穴であり、魔力の毒手である」と言った思想家がいる。
良書は、教師であり、先輩であり、父であり、母のごとく偉大な存在です。
良書は、そこに「智慧の泉」があり、「命の泉」があり、「星」があり、人の「善なる魂」があるのです。
14 活字が「想像力」「思考力」を鍛える
―― 「マンガは読まないほうがいいのでしょうか」という声があるのですが。
池田 もちろん、「いつもマンガばっかり」では困る。
大事なことは「自分をつくる」ことです。そのマンガを読んで、自分の生き方が変わった、目からうろこが落ちた、感動で心が洗われた――そういう場合もあるでしょう。
つまらない活字より、ずっとすばらしい作品もある。
以前、私も「あしたのジョー」(高森朝雄、ちばてつや画、講談社)について、スピーチしたことがある。「まっ白な灰になるまで」完全燃焼していった青春のドラマです。
ただし、マンガやテレビは、あらかじめイメージが与えられる分だけ、想像力は育たないという意見もある。
その点、活字文化の長所は「想像力」と「思考力」を鍛えるという点にあると思う。テレビで見るのと、読むのとは根本的に違う。
「読む」ということは、頭脳・生命の中に刻みこまれる。自分をつくる大事な「糧」となり、滋養となる。「見る」だけでは、感覚的なものです。見ることは簡単であり、見ていることで知っているつもりになってしまうが、これは″皮膚″のような感覚で、自分の″肉″や″骨″にはなっていないのです。
今、日本の文化状況は「手軽なインスタント食品が氾濫している」かもしれない。そういう風潮に流されて、本格的な読書に挑戦しなかったら、中身のない、底の浅い人間になってしまう。そうなったら大失敗です。
私は、ある人に「後悔していることがありますか」と聞かれ、「若い時代に、もっともっと本を読んでおけばよかった。それだけが私の後悔です」と答えました。
―― 池田先生が、そう言われるなら、もう我々なんか……どうしようもありません。
15 読書が「可能性の大地」を耕す
池田 どんなに読んでも、勉強しても、「もう、これくらいでいい」とは言えない。二十一世紀の大樹となるべき諸君です。今のうちに、どれだけ「心の大地」を読書によって耕したか。それで決まってしまう。十分に耕され、養分を豊かにもった大地であれば、大樹は、いくらでも伸びていける。
諸君はだれでも、自分の中に無限の「可能性の大地」をもっている。その大地を耕す「鍬」が読書なのです。
自分は精いっぱい読書に挑戦しきった、「もう、これ以上は読めない」「もう、これ以上は勉強できない」。そう言いきれる青春であってほしいのです。