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日蓮大聖人・池田大作

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人権って何? 人権は「勝ちとる」もの 人間愛の「勇気」で勝ちとれ

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

前後
1  池田 春が近づいてきた。梅が咲き、桃が開き、もうすぐ桜の季節になる。
 「冬来たりなば、春遠からじ」(「西風に寄す」から)と詩人のシェリーは歌ったが、どんなに苦しく寒い冬が続いても、冬は必ず春となるのです。
 これが宇宙の法則であり、生命の法則です。だから人間も、どんなにつらい冬が続いても、希望を捨ててはいけない。希望をなくさない限り、必ず春が来る。春とは「開花」の季節です。
 何度も言うように、仏法では「桜梅桃李」と説いている。桜には桜の美しさがある。梅には梅の香りがある。桃には桃の彩りがある。李には李の味わいがある。
 人それぞれに使命があり、個性があり、生き方がある。それを認め、尊重することです。それが自然です。
 現に、花たちの世界はそうなっている。百花繚乱です。
 ところが人間の世界は、違いを尊重できないで、「差別」をしたり、「いじめ」をしたりする。人権の破壊です。ここに根本的な不幸が生まれる。
 だれもが、人間として、人間らしく開花し、人間としての使命をまっとうしていく権利がある。自分にもある。人にもある。それが人権です。
 人権を尊重しないで、人の人権を侵害するのは、すべての秩序を破壊しているようなものです。人権を大切にし、人を尊敬できる――そういう「自分自身の確立」が必要です。
2  「いじめ」とは「小さな戦争」
 ―― 「差別」や「いじめ」は、身近なところにもあります。また戦争とか弾圧とか、極端な形をとることもあります。
 形は違っても、根っこは同じと考えていいでしょうか。
 池田 その通りでしょう。「いじめは小さな戦争です」と言った人もいる。
 戦時中のことです。私は高校生の諸君くらいの年齢か、もう少し若かった。
 蒲田(東京・大田区)の「大鳥居」の駅前で、ゆで玉子を売っていた。食べたいと思ったが、お金がないので食べられなかった。
 そこに、ある兵士が女性と連れだって、やってきた。たまたま、そこには上官がいた。兵士が上官とすれちがったとき、上官は「貴様は、ちゃんと敬礼しなかった」と言って、兵士を、めちゃくちゃに殴ったり、けったりした。
 本当は、きちんと敬礼したんだが、上官には、女性連れの兵士に「焼きもち」があった。そこで彼女の前で、さんざん殴った。大勢の人も見ている中です。兵士は反抗するわけにもいかない。あの時の、泣いていた彼女の顔が忘れられない。
 私は、それを見て、本当に日本人はいやだなと思った。軍隊は横暴だ、間違っていると思った。こういう「狭い心」「いばる心」「嫉妬」「自己本位」――それら低次元の感情が人権を壊すのです。その延長に「戦争」や「犯罪」もある。
3  「差別は犯罪」
 ―― 犯罪といえば、ヨーロッパでは「差別は犯罪である」と、はっきり認識している国が多いと言われています。その点、日本は、まだまだ人権後進国だと思います。
 池田 多くの人が、そう指摘しています。そういう「社会のゆがみ」が、陰惨な「いじめ」にも影を落としている。
 ―― 「いじめ」について、こういう声がありました。
 「『こいつはオレより弱そうだ』とか思って、弱い者をいじめるやつがいる。そのかわり、自分より強いと思われるやつの前ではペコペコしている。そういうやつは、本当に人間として許せないと思う」
 「自分自身、いじめを受けました。友達といえる人がいたので、その人のおかげで助かりました。あと、いじめてくる人に反抗することです。勇気をもって反抗すれば、だんだん少なくなっていきます。あと、私一人が苦しいんだと思わないことです。絶対に負けない!あいつらのために一生を棒にふってたまるか!という気持ちでがんばってきました」
 「私もイジメにあったことがあるんですが、私には何でも話せる友達がいて、一緒に戦ってくれる両親がいました。そして、何よりも信じられる御本尊様がいました。つらくて、泣きながら祈ったことも、何度もありました。今は、そんなことありませんが、自分がこういう立場だったことを、これからも絶対忘れず、今度はそんな人たちに対して(いじめられてる人も、いじめてる側の人にも)やさしい手を差し伸べてあげられるような心の広い、そして強く、優しい女性になれるよう、心がけています」
 「僕は逆にいじめていたほうでした。しかし、その罪の重さを感じて、その友人に謝り、今ではとても仲良くしています」
4  「悪い人間には厳しさも必要」
 池田 いかなる理由があろうと、いじめは絶対にいけない。いじめる側にも、言い分はあるかもしれない。自分の苦しさを、他の人にぶつけているのかもしれない。しかし、どんな理由があろうとも、いじめや差別を正当化することは絶対にできない。
 いじめは「人道上の犯罪である」ことを、皆の共通認識にすべきでしょう。
 悪い人間に対しては厳しさも必要です。これも人権闘争です。良い人間を守る。これも立派な人権闘争です。
5  「人間として」どう生きるか その哲学が人権の根っこに
 ―― 「いじめを止めようとすると、今度は自分がいじめられる。それで、何もできない自分が嫌になる」という人もいます。
 池田 自分が言えない場合、校長先生や、担任の先生や、上級生、両親に言うなど、知恵をもって対処してはどうだろうか。それがだめなら、御本尊に祈ることです。いずれにしても、自分で自分が嫌になってはいけない。
 今、行動できなかったり、言えなくても、よくないことを「よくない」と認識する心を忘れなければいい。いつか自分が強くなってから変革すればよいと思う。すぐ行動しても、けんかになって負けては、しょうがない。長い目で勝負をしていくことです。人権に対する土壌がないところで、いちいち人権侵害を訴えても、なかなか、まともに解決しない。
 二十一世紀には、理想的な人権の国になるように、一人一人が「意識」してもらいたい。「自覚」してもらいたい。
 ―― どうして、人間は人間を差別するのでしょうか。ラオス出身の女の子(中学二年生)が語っていたそうです。
 「(=小学校)5年生の頃、私がラオス人だから、新聞やテレビに載った時、ある子に、『スターでも何でもないのに、テレビなんかに出てバカじゃないの』と言われました。私は何のことかよくわからず、『どうしてそんなこと言うの?』と聞くと、『あんたは、日本に住まわせてもらっているんだから、あんまり目立つな』と言われ、ものすごく悔しかったです」(喜多明人著『わたしたちの独立宣言』ポプラ社)と。
 池田 外国人を「同じ人間」として見られない。それは心が貧しいからです。自分が「人間として」どう生きるかという哲学をもっていないからです。
 哲学を学ばず、目先しか見ていない。欲望のままに貪る「餓鬼」の心、強い者にはへつらい、弱い者はいじめる「畜生」の心――その悪根性でできあがった社会であるから、人を差別する心、人権を無視する社会ができてしまった。
 大事なのは「人間として」生きることです。それなのに、多くの日本人は、「人間として」生きる前に、「日本人として」発想してしまう。心の狭い島国根性です。少しでも「異質」だと思うと排除したり攻撃する。その閉鎖性が、国際的にも孤立を招いているのです。
 たとえば、在日朝鮮・韓国人の方々が大ぜいおられるが、その二世、三世の方が韓国・朝鮮語を学び、祖国の文化や歴史を学ぶためには、朝鮮学校や韓国学校に通うしかない。
 しかし、一般の高校と違い、「各種学校」扱いであるため、長い間、インタハイ(高校総体)も参加できなかった。通学のための学生定期も、もらえなかった。現在でもなお、一部の私立・公立大学を除いて、大学を受験する資格が得られないのです。
 これは、ほんの一例にすぎない。
 ―― 憲法に「基本的人権の尊重」がうたわれていても、人権侵害が制度として存在しているのですね。
6  人間は手段ではなく目的
 池田 「人間として」という根本を教えなければならない。まず、教育で人権意識を大いに高めなければならないでしょう。
 教育でも人権を教え、宗教でも人権を教え、政治では人権を尊重していく。その他、万般にわたって、人間を「手段」ではなく、「目的」として見られる社会を作らなければ、永久に差別社会、不幸な社会、不平等な社会、弱肉強食の動物的な社会は、なくならない。流転を繰り返すだけです。
 水俣病は、戦後最悪の公害病の一つです。人々は、あおむけのまま、両手両足を天につきだすようにして悶え死んだ。また、口もきけなくなり、意識も戻らなかった。多くの人が、胎児の時に水銀に侵されて生まれてきた――。
 その原因となったチッソ本社(東京)に、水俣病の患者さんたちが行った。熊本から不自由な体で、無理をして。患者さんたちは訴えた。
 「人間としてどうおもうな。あんたも人間、わたしも人間。あんたは東大を出たかもわからんばってん、切ればおんなじ血の出るばい」
 東大閥ともいわれ、エリートが集まる同社の社員は答えた。「はあ、それはわかります、しかしこれはたんなる交渉事でございますから」
 話が、かみ合わない。それどころか、「あんまり皆さんがそう言われると、わが社は倒産しますから、これは重大な社会問題ですよ」と、反対に、患者さんを脅し始めたのだという。(石牟礼道子「石の想い」、『陽のかなしみ』所収、朝日新聞社)
 「人間としてどうおもうな」。この言葉が受け止められない。生きた生身の人間の苦しみ、痛みが、少しも感じられない。それが、日本の「一流コース」と呼ばれる教育の結果なのだとしたら――本当に病は重い。
 ―― 私も、教育の問題は大きいと思います。何でも管理、管理で、自分の意見を言いにくい。また、「成績差別」が根本にあって、テストの点数が悪いというだけで、まるですべての面で劣っているかのように扱われます。「できない生徒」には人権がないとでも言わんばかりの教師もいるようです。しかし、実際には、点数は「人間として」のごく一部にすぎないわけです。
 池田 勉強は当然、大切です。しかし勉学は、「人間として」自分を豊かにしていくためにある。また、より多くの人に貢献していくためにある。成績は、そのための一つの目標にすぎない。それが、勉強に励んだ結果、人間性をなくしてしまうのなら、本末転倒です。
 第一、その人が、どういう人なのか、試験の数字なんかでわかるわけがない。
 「星の王子さま」(サン=テグジュペリ)といえば、″二十世紀の古典″と呼ばれる傑作です。こんな一節があった。
 「新しくできた友だちの話をするとき、おとなの人は、かんじんかなめのことはききません。〈どんな声の人?〉とか、〈どんな遊びがすき?〉とか、〈チョウの採集をする人?〉とかいうようなことは、てんできかずに、〈その人、いくつ?〉とか、〈きょうだいは、なん人いますか〉とか、〈目方はどのくらい?〉とか、〈おとうさんは、どのくらいお金をとっていますか〉とかいうようなことを、きくのです。そして、やっと、どんな人か、わかったつもりになるのです」(内藤濯訳、岩波文庫)
 人間を「数字」で見る大人の愚かさです。そこでは「かんじんかなめ」の「人間」が、すっぽり見えなくなってしまう。
 そもそも、子どもの心は、本来、人を差別したりしない。親が偏見を植えつけなければ、黒人も白人もアジア人の子どもも、一緒に楽しく遊ぶものです。
 また家がお金もちだとか、お父さんがどんな地位だとか、子どもの世界には何の関係もない。子どもは本来、「人間は皆、平等だ」ということを知っているのです。
 ―― 教育は、本当は、そういう人間らしい心を、もっともっと強め、広げるためにあると思うのですが、実際には反対になっているようです。
 池田 だからこそ諸君がいるのです。負けてはいけない。諸君が二十一世紀の日本と世界を変えていくのです。
 かつて牧口先生は、時代は「軍事の競争」から「政治の競争」へ、次は「経済の競争」へ、そして「人道の競争」へと向かうと論じられた。その通りでしょう。また、そうでなければ、人類の未来はまっ暗です。
 多くの識者が、世界に理想的な「人権国家」が無いと嘆いている。
 日本は今は人権後進国だが、本来、平和憲法をもっている日本こそ、「人道の競争」「人権尊重の競争」に勝利し、″世界の誇り″となるべきです。そういう国になるよう、政治家や教育者は取り組んでもらいたい。
 今までの長い間の人類の歴史は、本当の幸福も、本当の平和もなかった。それを指導者も学者も追求してきたが、達成できていない。
 現在も同じです。このままでは、未来もまた同じ繰り返しをしてゆくと思わざるをえない。それを悔いる第一点の重要な根幹をなしているのは「人権」を打ち立てることをしていないことです。
 たしかに様々な機関・様々な場において、人権尊重をうたい、論じてはいます。しかし往々にして、言葉のみであり、その場限りの単語、お上手な演説の一節にすぎない。深い認識が伴わない。
 ―― 人権といっても、深い「哲学」というか、「人間観」がないと、言葉だけになるということですね。
7  「ひとりの人を大切に」が人権の心、学会の心
 池田 そうです。人権を学ぶには、哲学を学ぶことです。それは、仏法を学ぶことに通じる。そして「哲学」とともに大事なのは、「闘争」です。叫ばず、戦わずして、人権は勝ちとれない。
 たとえ、制度や法律で保障されていても、人権闘争を続けなければ空洞化してしまう。中身が、からっぽになってしまう。なぜか。それは権力というものは、人権を好まない魔性があるからです。国家権力にせよ、他の権力にせよ。
 人権は「ひとりの人」を大切にする。かけがえのない「一人」として、開花させようとする。反対に、権力は人間をマス(集団・かたまり)でとらえ、物質のように扱い、数字や記号にしてしまう。それと戦っているのが創価学会です。「ひとりの人を大切にする」人権闘争です。
 戸田先生の原点は、どこにあられたか。それは、恩師・牧口先生の獄死でした。牧口先生の死について語るとき、戸田先生は、いつも目に涙をためて、こぶしを握りしめ、憤っておられた。なぜ恩師は死ななければならなかったのか。なぜ正義の人が迫害されるのか。なぜ愚かな戦争を避けられなかったのか。痛恨極まる思いであった。
 牧口先生は死して牢を出られた。戸田先生は生きて牢を出られた。戸田先生の使命の自覚は鮮烈でした。牧口先生を殺した「権力の魔性」を、断じて打ち破るのだ。それには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。根本の「人間」を変えるしかない。民衆が強くなるしかない。民衆が賢くなるしかない。そして世界中の民衆が心と心を結び合わせていくんだ――と。
 創価学会の運動は、民衆による民衆のための人権闘争なのです。
8  差別社会は独裁の横暴や衆愚政治を生む
 池田 病苦と経済苦に疲れ切った人。人間関係に押しつぶされ、人生に絶望した人。家族がバラバラで、すさんだ心の荒野をさまよう人。光の当たらない、あらゆる苦悩をかかえた民衆に手を差し伸べ、ともに同苦し、ともに立ち上がってきたのが創価学会です。
 諸君のお父さん、お母さんは、そういう「人間のための闘争」に生きてきた。名誉もいらない、地位もいらない、ただ「人間として」人間愛に生き抜いた。泥沼のような醜い社会のなかで、ひとすじに大いなる理想に生き抜いてこられた。最高に尊い方々なのです。その「心」を諸君は受け継いでほしいのです。その「人間愛」を世界に広げてほしいのです。
 ―― 人権が「ひとりの人を大切にする」ことだとすると、それは民主主義そのものだと思います。民主主義も、人権がなければ崩れていきますね。
 池田 人権思想が薄れれば、独裁者の横暴を許すことになるし、衆愚政治になる。社会の繁栄はない。ゆえに日本人は人権闘争をしなくてはならない。思想の自由、信教の自由を守り、人権に深く光を当てて――。
 人権と民主主義と平和は一体です。ひとつを崩せば、すべてを崩すことになる。それを、社会のあらゆる分野の指導者が胸に刻まなければならない。名誉も権威も、この人権思想を打ち立てていなければ、砂上の楼閣です。要は、「人を愛する心」が燃えているかどうかです。
 三十年以上前(一九六二年)、「部落解放同盟」の代表の方が中国を訪問した。周恩来総理と会見できて、団長さんは、多忙な総理が時間をさいてくれたことに感謝した。すると周総理は、こう言われたという。「何をいいますか。日本の中でいちばん虐げられ、いちばん苦しんでいる人たちが中国に来てるのに、その人たちと会わない総理だったら、中国の総理ではありませんよ」(上杉佐一郎対談集『人権は世界を動かす』解放出版社)
 周総理の眼には、日本の人民も中国の人民も、平等に大切であった。世界のいずこであろうとも、苦しむ民衆がいれば、その人たちと連帯する――こういう心で「新しい中国」をつくられたのです。
 仏法でも「平等大慧」と説く。平等です。一切衆生は平等であり、仏と衆生も一体です。どんな人にも「仏界」という最高に聖なる生命があるのです。ゆえに、すべてが「人間のために」、すべてが「人間から」始まる。その本質は、人権の一点にしぼられる。
 教育・文化・政治・経済・科学等々、ありとあらゆる社会の現象は、人権という思想を確立しなければ、必ず行き詰まる。「生徒のための学校」のはずが、「学校のための生徒」になってしまうように。それらの行き詰まりを、全部、いっぺん、「人間のため」の原点に戻して、そこから再出発しなければならない。それが人権の確立です。
9  毅然たる「誇り」を! その「強さ」が人権
 ―― 高校生から質問がありました。
 「私は障害があります。そのため、道や学校で笑われてしまいます。どうしたらいいか、自分にはわかりません」
 池田 結論から言えば、自分が強くなるしかない。それも人権闘争です。人に同情されるのは、決して人権ではない。
 「障害者も立派な人間だ」という誇りをもつことです。「自分としての使命があるのだ」との誇りをもつことだ。
 それをあざけり笑うのは、笑う人が悪人なのであり、人権無視の悪の罪業を積んでいるのです。それに負ければ、人権は崩れる。その強さが人権なのです。
 ―― 前に、「優しさとは強さのことだ」と教えていただきましたが、人権にも強さが必要ですね。自分の人権を守るにも、人の人権を守るのにも。
10  「黒人は″二流市民″ではない!」
 池田 私は世界の「人権の闘士」と語り合ってきました。アメリカのポーリング博士、ブラジルのアタイデ博士、アルゼンチンのエスキベル博士、インドのパンディ博士、南アフリカのマンデラ大統領、インドのパンディ博士など数多くの方々と対談もしてきた。
 だれもが「優しい」人でした。そして「強い」人でした。獄中での迫害にも屈しない一方で、会っただけで、″人の心に敏感″な温かさが伝わってくる。その一人、アメリカのローザ・パークスさんは、人種差別と戦った闘士ですが、「優しく、そして強い人」です。
 差別が横行していたころも、彼女は「黒人用」と書かれたエレベーターには乗らなかった。差別と妥協せず、あえて階段を使った。そして黒人の席を白人の席から「隔離」したバスには乗らず、遠い道も苦労して歩いた。
 暑い日に、のどがカラカラに渇いていても、「黒人用」という札のついた水飲み場では水を飲まなかった。
 「私は、二流市民として扱われることに妥協したことがありません。ほかの人に敬意を払ってほしかったら、まず、自分自身を大切にすることです」(ローザ・パークス『勇気と希望』高橋朋子訳、サイマル出版会)
 毅然として生きることです。その「人格」が人権の根本です。人格は、お金とは違う次元のいちばん重要な問題です。
 物質的な幸福を追うだけでは、本当の平和はない。
 二十一世紀は、どうしても「人権の世紀」にしなくてはならない。目先の利害にとらわれない社会にしなくてはならない。それには、まず自分が自分を大切にし、誇りをもって毅然と生きることです。その人が、他の人も大切にできるのです。
 大河も最初の一滴から始まり、大海へと注ぐ。「人権の世紀」への流れは今、始まったばかりです。
 ―― 身近なことでいうと、どうなるでしょうか。
 池田 たとえば良書を読むこと。そこには、多くの人権問題が含まれている。
 また、人の良い所を認め合う。人の個性を認め合うのは、人権の第一歩です。違いがあっても、「同じ人間なのだ」という、しっかりした人間観をもつことです。
 ある大脳生理学者によると、何かの「違い」を見つけるのは脳の浅いところの働きであり、「同じ」面を見つけるのは、脳の深いところで行われる高度な情報処理なのだという。
 つまり、だれに対しても「同じ人間として」つき合える人こそ、「優秀な人」であり、本当の教養がある人です。自分の人間性が豊かな分だけ、他人の中にも人間性を発見できる。人を、いじめたり、いばったりする人間は、その分、自分の人間性を壊しているのです。
 こんな詩があります。
  「夜には千の目がある
   昼には一つの目しかない
   けれど明るい世界は消えるのだ
   太陽が沈むときに
  
   知性には千の目がある
   心には一つの目しかない
   けれど人生の光は消えるのだ
   愛が消えるときに」(F・W・ブーディロン「光」)
 世界を照らす「太陽」は「人権」です。人間愛です。思いやりです。優しさです。その太陽の光によって、社会に「桜梅桃李」の万花が絢爛と咲き誇っていくのです。
 人権という太陽を二十一世紀に昇らせるのが、諸君の使命です。そのために、まず自分自身の胸中に、人間愛という「勇気の太陽」を昇らせてほしいのです。

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