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日蓮大聖人・池田大作

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青春の友情、青春の人生観 友情は「自分の生き方」で決まる

「青春対話」(池田大作全集第64巻)

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2  ″友情は喜びを二倍に、悲しみは半分に″
 池田 いい友人が一人いれば、人生の喜びは二倍になる。それが本当に「豊かな人」です。「友情は喜びを倍にし、悲しみを半分にする」というシラーの言葉は、今も変わらない真理でしょう。問題は「どうしたら、そういう友情がつくれるか」だね。両親を自分で選ぶことはできないが、友人は自分で選べるわけだから、大事なことです。
 ―― はい。友人関係の悩みは、すごく大きいと思います。「友達がいるから学校は楽しい」という人もいます。「友達はいる。でも心から話せる親友はいない」という人もいます。「友達は競争相手だ。友達が勉強しているのを見ると、あせってしようがない」。こういう気持ちもあると思います。
 また、「今まで親しくしていた友達が急に冷たくなった」「友達から裏切られた」「友達に無視され、とてもつらい」という悩みもあります。
 池田 青春の心は、寒暖計のように敏感だ。ある時は、すべてがバラ色に見えたかと思うと、すぐに「自分くらいダメな人間はいない」と落ちこんでしまう。それはそれで青春の特質だから、かまわない。大事なことは、どんな苦しいことがあっても「負けない」ことです。生き抜くことです。友人のこと、恋愛のこと、交通事故とか親の病気とか、目の前が真っ暗になるような、悲しい事件に遭遇することもあるでしょう。しかし、後になってみると、みな夢のようなものになるんです。
 私も終戦の時、これから一体どうなるのかと思った。生きていけるのかと、お先真っ暗だった。しかし、生き抜いて、今の自分がある。あの時の苦労も、今となっては夢のようなできごとです。どんなにつらいことがあっても、あきらめないで、前へ前へ生き抜いていけば、みな夢となって消えていくんです。それが大前提です。だから、カラッと生きるんです。そのうえで、友情について考えてみよう。
3  大震災=困難が友情を強めた
 ―― はい。「目の前が真っ暗になる」と言えば、あの阪神・淡路大震災がそうでした。家族を亡くした人も、たくさんいました。そのなかで皆が学んだことは、「つらい時に、友人くらい、ありがたいものはない」ということです。また「亡くなった友人の分まで強く生き抜くんだ」と、頑張っている人もいます。
 関西創価学園の教員の方が、しみじみと言っていました。「震災という困難が、同世代の友情、先輩と後輩の絆を強めてくれた」と。今年(一九九六年)の三月、関西創価高校卒業生は自宅(神戸市須磨区)が全壊してしまいました。彼は「いちばんつらかった時、最大に励ましてくれたのが創立者の池田先生であり、学園の友でした」と語ってくれました。そして「苦労を一緒に乗り越えようとする友の温かさを実感し、連帯感が強くなった」とも言っていました。
 ―― また、神戸市中央区の女子高等部員も、「多くの人に支えられている」ことを痛感したそうです。「心の底から友達のありがたさを感じました。目には見えないけど空気が私たちにとって不可欠なように、私も出会ったすべての友を″空気のように″支えていきます」と決意したそうです。
 池田 いい言葉だね。空気は見えない。心も見えない。しかし、見えない心の中に、喜びも悲しみも、美しさも醜さも、光も闇も、全部ある。見えない心と心をつなげるのが友情です。それは利害でもない。立場でもない。かけ引きでもない。表面的なおつき合いでもない。本当の人間同士の真心で結び合った間柄です。
 人生において最も美しく、強く、尊いもの。それが友情です。友情が諸君の財産です。どんなに偉くなり、金持ちになっても、友人のない人生はわびしく、さびしい。また独りよがりの偏ぱな人生になってしまう。
 とくに青春時代の友情ほど尊く、美しいものはない。
 大人になってからのつき合いは、多くの場合、利害や打算があり、一時的な立場上のものになりがちである。高校時代には、そういう余計なものがない。
 広大な宇宙の中の小さな地球に、同じ時代に、ともに生まれた。しかも人類五十八億のなかで、何もくどくど言わなくても心が通じ、何の構える必要もない、純粋無垢な絆で結ばれた関係は、そうめったにあるものではない。今、一緒に学んでいるというだけで、深い縁があるのです。
 そのなかで、「本当の友人だ」という人もいるでしょう。その友人を大事にしてほしい。また今、親友と呼べる友がいない人は、あせることはない。将来、最高の友人ができるために今はいないんだ、と決めていけばいい。今は自分を立派につくっていけばいいんです。将来、世界に友人ができる人もいるでしょう。
 ともあれ、友情というのは自分で決まるんです。相手じゃない。自分がどうかです。いい時はいいが、何かあるとすぐに別れてしまうというのではなくて、自分は変わらない。貫いていく。
 卒業する時も、「僕は一生、君を忘れない。どんなことも相談してくれ。僕も相談したいんだ」という度量というか、心のゆとりを忘れないでもらいたい。
4  人に裏切られても自分は裏切らない
 ―― 「自分は変わらない」というのは、すごくむずかしいですね。とくに「自分に思い当たることがないのに、急に冷たくされた」というような時には、どうしたらいいんでしょうか。
 池田 本当は、勇気を出して聞いてみるのがいちばんいい。案外、向こうではそんなつもりがない場合だって、いっぱいあると思う。傷つくのを恐れて、疎遠になったまま、相手のほうも、さびしく思っていたということだって実際あるんです。
 人間関係は「鏡」みたいなものだから、自分が「もう少し優しくしてくれたら、自分も何でも話せるんだけどなぁ」と思っていると、相手だって「もう少し何でも話してくれたら、自分ももっと優しくできるんだけどなぁ」と思っている。そんな場合が多いのです。
 だから「自分から話しかける」ことです。それでも冷たくされたら、本当は人間としてみじめなのは、相手のほうです。自分じゃない。
 人の心は、どうしようもない場合がある。変わる場合もある。その時にどうするか。「人は変われど、我は変わらず」でいきなさい。冷たくされても、自分は人に冷たくしない。裏切られても、自分は裏切らない。裏切るほうが、みじめです。自分の心を大きなクギで傷つけているようなものだ。それが自分ではわからない。
5  友の幸福を祈る 太陽のように光を送る
 ―― 「自分から声をかける」人は、友達ができますね。時には、シカト(無視)されるかもしれませんが……。
 池田 それだって、いいじゃないかと私は思う。釈尊も「自分から声をかける人」だったと伝えられています。強い人だから、それができるんです。
 人間、裏切られることもある。日蓮大聖人だって、多くの弟子に裏切られた。御本仏でさえもそうだった。私も裏切られてきました。本当に良くしてあげて、裏切られた。しかし少しも驚かない。むしろ当たり前のことと思っている。
 勇気を出すんです。自分は何も悪くないんだから、堂々と生きるんです。裏切ったほうが悪いんだから。いじめたほうが悪いんだから。かわいそうな人なのだから。
 たとえ裏切られたって、また新しい友情を結んでいけばいい。傷ついたからといって、「だれも信じない」なんていけない。だれも信じなければ、裏切られることもなく、傷つくこともないかもしれない。しかし、それでは閉じこもった狭い人生になってしまう。本当は、つらい思いをした人ほど、人に優しくできるんです。強くならなければいけない。
 太陽になるんです。太陽の光は、全部が全部、光を反射してくれる星の上に落ちるとは限らない。まったく光が無駄に使われたかのような方向にも、太陽は光を送っている。それでも太陽は平然と輝いている。
 光を受けとめなかった人は、あなたの前からいなくなるかもしれない。しかし、あなたは光を送った分だけ、自分自身が輝いていくんです。人がどうであろうと、自分は自分が「正しい」と信ずる道を行く。自分が変わらなければ、いつか必ず、本当のことがわかるものです。
 しかも皆さんには、題目がある。「いじめられていたが、懸命に唱題また唱題し、気がついたら、いじめがなくなっていた」という体験を、いくつも知っています。苦しい時に題目をあげることで、苦境を自然のうちに乗り切れている。あとから振り返って、そう気づくことが多いのです。また、友人のことを祈ってあげることです。それがいちばんの友情です。
6  「あんたの幸せ祈ってるから!」
 ―― 高校新報に、こんなハガキも届いています。
 「親友と呼べる人がいるって幸せな事。その子は、私なんかに耐えられないような過酷な人生を送ってきた子。時々、目を閉じて『このまま永遠の眠りにつきたい』と言うと、その度『絶対に死んだらあかんで!』と私は言う。死んだって楽にはならない。そこにはただ不幸が待っているだけである。ある日、私は自分が創価学会員ということを打ち明け、『あんたが絶対、幸せになるよう、祈ってるから』と書いた手紙を渡したら『読んでて涙出そうになった。ありがとう』と言ってくれた」
 友のことを祈っていくことが、根本の大事なことだと思います。
 池田 そうだね。友が病気になった。学校にこれない。家庭の問題で悩んでいる――。全部、お題目を送ってあげればいいんです。無線電信のように、目には見えなくとも、必ず通じます。
 祈りというのは、赤ん坊がお母さんのお乳をほしがるように、心の思いをそのまま祈ればいい。かしこまった形式ではなくて、苦しければ苦しいまま、悲しければ悲しいまま、そのままを御本尊にぶつければいいのです。また抽象的ではなく、具体的に「こうなりたい」「こうしたい」と、はっきり定めて祈ったほうがいいのです。
 また自分が嫌いな人、苦手な人、憎たらしい人、そういう人のことも祈ってあげるんです。はじめはむずかしいかもしれない。できないかもしれない。しかし挑戦し、祈っていけば、必ず変わっていく。自分が変わるか、相手が変わるか、いずれにしても、何か、いい方向へ道が開けることは多くの人が実感しています。何より、そういう人のことを祈ってあげられる自分に変わったということが、いちばんの財産になるんです。
7  「同志」こそ真友
 ―― 学校の先生から「頭の悪い友達とはつき合わないほうがいい。君まで頭が悪くなる」と言われ、あまり友達をつくろうとしなくなった人がいますが。
 池田 何をもって「頭がいい」とするか。それは複雑です。成績だけでは決められない。
 また高校時代に頭がいいとか悪いとか言っても、長い目で見れば、大した問題ではない。むしろ、へこたれない強さ。やると決めたら、とことん、やり抜く行動力――そういう人間としての鍛えのほうが、実社会では大きな力を発揮することが多い。だから、どんな友人からも、何かを学んでいける大きさがあっていいと思う。
 成績だけで、すべてを決めてしまうと、人生を小さくしてしまう。もちろん、学校の先生は、本人によかれと思って言ったのでしょう。頭が悪いとかではなくて、たしかに堕落的なつき合いを続けると、自分をダメにする。悪の誘惑とは勇気をもって戦わなければならない。
 友人の影響は、ある時には、親よりもだれよりも強い。いい友達、向上しようとしている人とつき合えば、自分も向上する。鉄鋼王カーネギーは自分のことをこう呼んでいたという。「自分より優れた者を周りに集めた者」と。これが彼の人生観であったのでしょう。結局、「いい友人をつくる」には、「自分がいい友人になる」以外にない。いい人の周りには、いい人が集まるものです。
 戸田先生は、麻雀をしていたり、くだらない雑誌を読んでいたり、酒を飲んでくだを巻いている若者を見ると、烈火のごとく怒った。「なんと惰弱な青年なんだ!」と怒られた。若者ならば、湖畔で未来の人生を語ったり、星を眺めながら希望をふくらませるようなことをしろ、とおっしゃっていた。健康なる心で、健康なる未来を語れ、と。
 いろいろな友人がいるでしょう。家が近所で一緒に登校する。クラスが一緒である。同じクラブである。一緒に遊びに行く。そういうなかで、最高の友人は、同じ目的に向かって進む友人です。なかんずく、同じ信念、同じ崇高な目的、同じ主義主張に生きる同志こそ最高の友人です。我々は広宣流布、すなわち全人類の永遠の幸福のために人生をかけた友人です。
 一つの目標に向かって、切磋琢磨する友情ほど、美しいものはない。親子、夫婦、恋人の関係以上に美しい。それこそ人間としての「あかし」であり、「人間の炎」です。
8  信念の人、一人立つ人によき友が
 ―― 「走れメロス」ですね。約束を果たすため、絶対に友達を裏切らずに、走り続ける、と。
 池田 そう。それは相手がどうこうではない。「自分は約束を果たすんだ」という自分の生き方です。
 私には世界に、多くの友人がいます。忘れ得ぬ友人の一人に、ローマクラブの創設者・ペッチェイ博士がおられる。
 ペッチェイ博士は初めてお会いした時(一九八一年六月)、第二次大戦中に牢獄に入った時の話をしてくださった。涙をうかべて話しておられた。ファシズムに対するイタリアのレジスタンスです。あまりにも横暴な独裁に向かって抵抗運動に立ち上がった。追われたり、逃げたり、隠れたり、戦ったり、それは大変だった。七万人もの人が犠牲になった。銃殺され、拷問され、道端で射殺され、多くの友人が牢獄に入った。博士も入った。死刑囚にもなった。
 そういう体験を通して、博士が気がついたことがある。それは、ふだん傲慢で、他人の批判ばかりしていた人は、牢獄で責められると、すぐに口を割ってしまった。皆の前での派手な人気とりや扇動はうまいけれども、いざという時は弱い。反対に、いつも謙虚で愚直なような人が、「あの、おとなしい彼が」と思う人が、そういう土壇場の極限状況のときに、平然としていた。ねばりにねばって、光を放っていたというのです。
 牢獄というところは、私も入ったが、なまはんかなところではない。そこで本当の人間の地金が出る。
 人は、見かけではわからない。人は、順調な時にはわからない。また人生は、こういう押しつぶされるような経験をした人でなければ、本当の深さはわからない。真の友情の素晴らしさもわからないでしょう。
 信念の人、一人立つ人、「我が道を行く」人であってこそ、信じられる「良き友人」になれるし、本当の友人をつくれるのです。
 秋の竹林は美しい。あの竹たちも、一本一本がまっすぐに天に向かって伸びている。そして、目には見えない地下の根っこでつながっている。
 その姿のように、真の友情とは、互いにもたれ合うのではなく、自立です。自立した同士で、目には見えない魂と魂を、がっちりと結び合わせていくのが友情です。
 友情も、自分自身の生き方で決まっていくのです。
9  大樹のような生涯の友情を育め
 ―― 「友情が大事だ」ということは皆、感じていると思うんです。ただ、友人といっても「同じ学校」「同じクラス」「同じクラブ」の時だけで、それが変わると、ほとんどつき合いがない。「一生の友人」がなかなか見つからないという人もいます。
 池田 そうだね。友情にも、いろいろある。生涯の友情もある。二十年の友情もある。五年くらいの友情もある。一年の友情もある。友情という自分自身の気持ちが変わらなくとも、相手が変わる場合もある。友情を一生涯と決める必要はない。
 「一生の友達」じゃないから大切でないともいえない。その時、その時、自分なりに誠実に接していけばよいのです。クラスメートは、同級生・同窓生と思って、悠々と接していけばいい。深い友情をもてる相手というのは少ないものだ。たくさんの草木を育てるのと、一本の大樹を育てるのでは、育て方が違うようなものです。
 いつも誠実な自分で生き抜けば、いつか自然のうちに、よい友人が周囲に集まっていく。そのなかから、大樹のような生涯の友情もできるでしょう。あせらないことです。まず自分をつくることです。君たちには、これから、数限りないすばらしい出会いが待っているのだから。
10  友情は人間としての「最高の清流」
 ―― 友情を長持ちさせる秘訣はあるんでしょうか。
 池田 友情は自然にでき上がるように思うものだが、そのうえに、二人がそれなりの目的をもち、励まし合い、助け合い、生き抜こうという、人生の、青春の力の足音がなくてはならない。
 「立派に大学を卒業しよう」「社会に貢献しよう」というような目的が大事です。目的が明確でない友情は、なれ合いになってしまう。目的に向かって、明るく励まし合い、それを達成しようという友情は長持ちする。
 「いつも一緒にいるから友情」か。そうではない。「お金を貸してくれるから友情」ではない。「親切にしてくれるから友情」ではない。「愛想がよく、性格が合うから友情」ではない。
 友情とは、彼が苦しんでいる時に同じように苦しみ、励ます。自分が苦しんでいる時に彼が同じように苦しみ、励ましてくれる。そういう、清らかな川の流れのような姿です。
 友情の「情」という字は、字の成り立ちは別として、「心が青い」と書く。心が生き生きとしている、清らかであるとも読める。「清らか」という字も、同じく、「水が青く澄んで流れている」姿ともいえるでしょう。
 友情とは、人間として「最高の清流」を流れることです。そして、彼も同じように清流を流れていく。その流れが合流した時、清い水かさが増え、清らかさも増える。
 その流れを見ている人が、「美しい流れだ」「清い流れだ」「水を飲ませてもらいたい」という気持ちになるような流れです。
11  ″相手によき影響を与える友人に″
 ―― それは、とてもうらやましいと思うんですが……そうなるためには、自分がどうかということですね。
 池田 その通りです。自分は、あの人と一緒に目的に向かって歩み、切磋琢磨し、苦しみをともにし、励まし合う。そういう清流の自分自身になればよいのです。相手が同じ気持ちをもてば″長い友情″となるし、相手が去ったら″短い友情″となる。
 また、自分にそんなつもりがなくても、相手を裏切ったような形になることもあるかもしれない。そうなったからといって、悲しむ必要はない。これが友情だと、つくってみせる必要もない。大切なのは、自分が友情の本義をもって生きていくことです。
 「蘭室の友」という言葉がある。蘭の高貴な香りが、部屋にいる人に移り香をのこす。そのように、″相手によき影響を与える友人″に、自分が、なっていくことです。
 自分が蘭になればいい。蘭は君子の花です。自分が、芳しい香りの人格になればいいのです。
 ―― 蘭といえば、コロンビアが有名です。「国の花」でもあるし、世界に咲く蘭の一割――三千種類がコロンビアにあると聞いたことがあります。
 そのコロンビアと池田先生との友情のお話をうかがいました。
 危険な状況にもかかわらず、信義を守って訪問されたんですね。
 池田 コロンビアの大統領ご夫妻自身が信義の方々です。
 コロンビアの人々は「コロンビア大黄金展」(一九九〇年、東京富士美術館主催)にも、世界初公開の大エメラルド(千七百カラットのエメラルド結晶原石)をはじめ、国宝級の約五百点を貸し出してくださった。文化交流へのその友情を私は忘れません。
 じつは訪問の直前、コロンビアの大統領府から連絡があったのです。「池田(SGI)会長は、本当にコロンビアに来てくださいますか?」と。
12  相手が大変なときこそ行動を
 当時、麻薬組織によるテロが激しくなっていた。多くの犠牲者が出た爆弾テロ事件が起こったばかりだった。危険のため、予定されていた国際会議が中止になったり、コロンビアを離れる報道関係者も多かった。だから、今回の訪問は見合わせるようにと、周りも止めた。
 しかし、私は大統領府に伝えました。
 「私のことなら心配はいりません。予定通り、訪問させていただきます。私は最も勇敢なるコロンビア国民の一人として、行動してまいります」と。
 訪問した私を、心から歓迎してくださったガビリア大統領夫妻との語らい(一九九三年二月)は忘れられません。「日本美術の名宝」展も大成功だった。
 ―― 相手が大変な時こそ、大誠実で行動することですね。
 いい時には一緒だが、何かあるとすぐに離れる――というのが普通だと思うのですが、「友情」はそうじゃない。でも、そのためには自分に強い信念がいります。
13  獄中で死ぬのは幸福か、不幸か
 池田 「嵐の時の友が真の友」とも言う。
 友情については、日本よりも西洋はじめ海外のほうが、深い歴史をもっている。深い内容と、永続性をもっている。事例を見ても、小説で見ても、そうです。日本は、「気が合っている」というような、浅いつき合いの向きがある。
 私の友人で、ある国の駐日大使がおられた。長年、大使を務められ、各国の駐日大使の中心的存在でした。
 母国でも重要な地位にあった。私は三度ほどお会いしたが、人格的にも、見識の深さも、実に立派な方でした。何度も「我が国へ訪問を」と要請をいただいた。そして私についての論文まで書いてくださり、母国の各界に配られた。さまざまな事情で、その国の訪問が実現できなかったことが今も残念です。
 国家の政変で、大使はイギリスに亡命し、そこで亡くなられました。政変の前、大使が本国に帰られる時、私は大使主催の晩餐会に招かれ、大使館を訪問しました。その時、大使が案内してくださった部屋には、国の最高指導者とともに、私の写真も飾ってくださっていた。
 大使は「私は、あなたを生涯の友人と思い、平和を目指す同志と思って、飾らせてもらいました」と言われた。そして、他の人たちの写真を紹介しながら、「皆、私のすばらしい友人です。同志です」と、一人一人、説明してくださった。ある外国の友人の写真のところでは「政治犯として、今も獄中にいます。信念の人です。一生、牢から出られないかもしれない」と、目をうるませておられた。
 私は大使に聞きました。「世間に出ることもなく獄中で死んでいくことは、人間として幸福だと思いますか。不幸だと思いますか」大使は、涙をぐっと抑えるかのようにして、きっぱりと、こう言われた。
 「この人たちは正義の人です。おそらく、獄中で死んでいくことになるでしょう。しかし、たとえ牢獄の中であっても、自分の信念のままに、その場で死んでいくことが、最も偉大なのです。それが勝利です」
 私は感動した。自分の信念を裏切れば、また同志を裏切れば、″自由″になれる。しかし絶対に裏切らない。たとえ人に裏切られても、自分は一人、獄中で死んでいく。これこそ本当の人間です。本当の友情です。
14  「人を知るにはその友を見よ」
 ―― 『永遠の都』(ホール・ケイン)のロッシとブルーノのようですね。
 池田 そうだ。「約束」です。ひとたび誓った、友人との「約束」を守る。それが友情です。そのためには、自分で決めた「自分との約束」を守れる人でなければならない。
 ともあれ友情は、人間としての「成長」と「善」の価値を生む。悪友は、「成長」がなく、「善」の価値がない。それは、ただの仲間であり、友情ではない。「その人を知るには、その友を見よ」という言葉もある。どういう友人をもっているかで、大きな影響を受けるし、朱に交われば赤くなる。悪い心、悪い考えをもった人は近づけてはいけない。
15  一流の人は裏切らない
 ―― 池田先生は世界中に友人がいます。身近な人でさえ、心を通わすのはむずかしいのに、国も言葉も宗教も民族も違うのに、あんなにも多くの友人をつくれるのは、すごいと思います。
 池田 世界の一流の方に、友人はたくさんいます。誇りとしています。ほとんどの人が、話し合ったことに対して嘘をつかない。裏切らない。利用しない。ともに語り、社会に貢献しようという「心の結び合い」は、ある次元から見れば、何よりも尊く、何よりも強い。これが、長い人生を生きてきての私の結論です。
 そういう人は、人生にあって、強く深い信念と、それなりの哲学をもっている。正しい人生観を生きようと努力している。何かに貢献していこうという謙虚な心をもっている。そのような、人間としての最高峰の証をもった人と、同じ次元で冥合する。そういう友情が理想です。その友情がなくなったとき、人類は永遠に闇となる。創価学会も、各国との友情があったからこそ、闇を切り開き、希望を見いだすことができたのです。
16  平和の絨緞じゅうたんを織り上げよ 友情の糸を縦に横にと
 ―― 平和も、友情を拡大したものですね。
 池田 その通りだ。絨緞は、糸が縦に横にと重なってできている。そのように、善の友情が世界中に縦に横にと織られ重なっていき、世界への懸け橋となっていけば、善の世界、平和の世界につながっていく。友情を大事にすることは、正しく、平和で、意義深いことです。「共生」「協調」という理想社会をつくる第一歩となる。
 昔から言われているように、悪人はまとまりやすく、善人はまとまりにくい。だからこそ、善人と善人の友情は尊いし、美しい。これこそ人間としての神髄なのです。
 ―― 悪人は利害で簡単にまとまりますが、善人はそうではない。だからむずかしいんですね。
 とくに日本人は、他人の成功を素直に喜べない心の狭さがある気がします。妬みっぽいというか、少し飛び抜けた人が出ると、足を引っ張ろうとする。
 ″横並び″が好きなんですね。でも、そういう″個性無視″は友情じゃないですね。
 池田 そう。自分と違うところをもつ人を尊敬できる「心の大きさ」が友情の土壌です。「大きい心」があれば、その分、すばらしい友情ができる。「小さい心」には、小さな、やせ細った孤独しか育たないでしょう。
17  「好きになれない友人がいる」
 ―― はい。でも、「どうしても好きになれない友人がいる」という場合は、どうしたらいいのでしょうか。
 池田 食べ物にも好き嫌いがあるように、好きでない友達がいても、それはしょうがない。ただ、嫌いは嫌いでかまわないが、嫌いだからといって、さげすんだり、いやがらせをしてはいけない。その人にはその人の生きる権利と生き方がある。それを大きく見てあげる心の余裕が大切です。
18  「自分のカラに閉じこもる性格」
 ―― ある女子ですが、「自分のカラに閉じこもりやすい性格なので、なかなか友達ができない」というんですが。
 池田 たしかに性格というものは、なかなか変わらない。性格が弱くてもよい。もちろん、強ければ、なおよいが。
 自分の性格は、どうしようもない場合がある。環境も、どうしようもないものがある。だからこそ、自分を鍛え、磨き、強めていこうと努力することが勝利への道なのです。
 自分の短所を自覚して、何とか向上していこうと祈り、努力する人は、自然のうちに、変わっていきます。内気な人は、思慮深い性格として、だんだんと輝いていく。長い目で見れば、そういう人のほうが、おっちょこちょいの人よりも、かえって深い友情をつくっていけるものです。
19  「級友が学校に来なくなった」
 ―― あるメンバーからですが、「学校に来なくなってしまった人がいる。あまり話をしたこともないクラスメートだが、どうしてあげればいいでしょうか」という悩みです。
 池田 まず、そうやって、人のことを思いやってあげる心が尊い。根本は、祈ってあげることです。具体的には、ケース・バイ・ケースでしょうが、「心配しているよ」「待っているよ」という気持ちを何らかの形で伝えることではないだろうか。それは状況によって、実際に会いに行ったり、電話したり、手紙を書くなど、方法はいろいろあるでしょう。
 急に変わるものではないかもしれない。ただ、「待っているよ、学校で顔が見れると、うれしいよ」と伝えて、友達がその気になった時に来やすいようにしてあげる。来やすい「道」を開けておくということです。そういう温かい気持ちをもった″同志″をクラスの中に少しでも増やしていくことも大事でしょう。
20  「成績がよいので妬まれる」
 ―― 「成績がよいので、妬まれる」人もいます。
 池田 その人は、誇りをもっていきなさい。人生、妬まれるのは、しょうがない。「中傷というものは何ごとにつけても、いろいろたくさんなされるものだけれどもね」(プラトン『国家』藤沢令夫訳、岩波文庫)と、ソクラテスが語っているように、人類の教師と讃えられた英知の人でさえ、中傷され、讒言におとしいれられていたのです。もちろん、成績を鼻にかけるのはいけないが。
 私が小学生の時、いつも良い服を着て、裕福で幸せそうな子がいた。うらやましいと思ったこともあった。皆も、羨望の目で見ていた。今ならば、焼きもちを焼いて″いじめ″の対象になってしまうかもしれない。しかし、そんな心は動物性の畜生の心です。彼よりもすばらしい人生を送ろうと思う雄々しい心が、「人間性」の輝きです。
 人をうらやんでも、自分がみじめになるだけで進歩はない。そういう感情に負けてはいけない。縛られてはいけない。要するに、「人を妬む」より、「人に妬まれる」ほうが、ずっといいのではないだろうか。
 人を包みゆくことです。大きな河のような自分になるのです。大きな海のような自分になるのです。大きな大きな青空のような自分になるのです。その「大きな心」から、大いなる友情のドラマは生まれてくるのです。

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