Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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如我等無異と報恩 (第8回)

2009.3.7 「御書と師弟」

前後
1  御聖訓「我等具縛ぐばくの凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云
2  「師弟不二」の最高峰へ登れ
 「私が牧口先生のことを話すと、止まらないのです」
 恩師・戸田城聖先生は、よく言われました。
 「私と牧口先生の仲は、親子といおうか、師弟といおうか、汲みきれないものがあるのです。私は先生の本当の境地を知っていた。他の者たちは知らなかった。私は『今に牧口先生と会っていたことが、自慢になる時期がくるんだ』と言っていた。そして今、その通り、門下生の誇りになっている」
 牧口先生と戸田先生は、三類の強敵と戦い抜かれ、広宣流布の指揮を執られるご境涯において、一体不二であられました。
 弟子を自分と同じ境涯に、いな、自分以上の立派な人間に育てたい──。これが師の願いです。弟子を思う師の慈悲は、天空よりも高く、大海よりも深い。弟子が思っている以上に、幾千万倍も高く深いものです。
 その師の期待に、何としてもお応えするのだ──そう一念を定めて、祈り戦う弟子の生命には、師と等しい力が湧き出てきます。この「師弟不二」こそ、仏法の根幹です。
 日蓮大聖人は、女性の弟子への御聖訓に仰せになられました(「日妙聖人御書」)。
 「我等具縛ぐばくの凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云
 ──煩悩に縛られた我ら凡夫は、たちまちのうちに教主釈尊と等しい功徳を受けることができるのです。それは、釈尊の功徳の全休を受け取るからです。経文に「如我等無異」とある通りです──。
 あまりにも深遠な御聖訓です。苦悩多き凡夫である私たちが、妙法の功力によって、そのまま仏の大生命を我が身に輝かせていける。最高にありがたい、御本仏の大慈悲の法門です。
3  仏の境涯に高める
 ここに仰せの「如我等無異」とは、法華経方便品第2の経文です。「我が如く等しくして異なること無からしめん」(法華経130㌻)と読みます。
 釈尊が、弟子たちを自身と全く等しい仏の境涯に高めるという誓願を果たされた、という金言であります。
 大聖人は”この経文にある通り、教主釈尊と同じ功徳を受けられるのですよ、だから安心しきって信心に励んでいきなさい”と日妙聖人を力強く励ましておられるのです。
 法難の獄中で仏法の真髄を悟達された戸田先生は、ある会合で、信心の功徳に満ちあふれた体験発表を喜ばれながら、愉快そうにこう話されました。
 「さきほどの体験にあるような功徳は、まだ功徳の内に入りません。私の受けた功徳をこの講堂一杯とすれば、ほんの指一本ぐらいにしか当たりません」
 もっともっと大功徳を受けられるんだよ、とのお心でした。ご自身が仏法を行じ抜いて得た無量無辺の大功徳を、全学会員に一人残らず、等しく実感させたい──これが先生の祈りであられたのです。
 「如我等無異」という思想は、古今東西の思想・宗教の中でも、まことに革命的な人間主義の大哲理です。万人を皆、仏と等しい存在に高めていく──そう宣言しきれる教えが、他にどこにあるでしょうか。
 大事なのは、民衆です。民衆は目的です。手段ではない。その民衆を手段にして利用しようとするのが、権力の魔性です。そうではなく、民衆を目的とし、すべてを、民衆の幸福のために、民衆奉仕の方向へ持っていくのが、仏法の心です。そのための究極の力が「如我等無異」の妙法なのです。
4  人類の希望の法理
 「和我等無異」の根本には、「師弟不二」の精神があります。この師弟の精神が忘れ去られてしまえば、仏は民衆と隔絶した特別な存在へと権威化されてしまう。インドから中国、日本へ流伝するうちに、真の仏教が衰退していった一因もここにあります。
 法華経の真髄を行ずる日蓮仏法は、こうした宗教史の宿命を打破する希望の法理であります。
 「彼の功徳を全体うけとる故なり」。すなわち、仏が長遠の時間を経ながら、無量の修行によって得た大功徳、その大境涯の全体を、妙法を持つ私たちはわが生命に「忽に」受け取ることができるのです。
 戸田先生は言われました。
 「御本尊と大聖人と自分自身とが区別がないと信じて、そのありがたさを心にしみて感謝申し上げながら、題目を唱えゆくことです。その時、宇宙のリズムと我がリズムは調和し、宇宙の大生命が我が生命と連なり、偉大な生命力が涌現してくるのです」
 ゆえに、いかなる人生の苦難にも打ち勝てないわけがない。幸福にならないわけがないのです。戸田先生は「強盛に信行学に励めば、いつまでも悩める凡夫でいるわけがない」とも指導されておりました。創価の友は、必ず仏に等しい生命の光を放っていけるのです。
 ところで、この「如我等無異」という極理の中の極理の法門が、日妙聖人という女性門下に説かれた意義は誠に大きい。
 当時の日本では、女性は宿業深い身とされていました。その女性の弟子に対して、大聖人は「日妙聖人」と最上の称号を贈られ、そして、”あなたは偉大な仏と同じ境涯を開けるのです”と説かれたのです。この御金言は、先駆的な女性尊重・女性解放の人権宣言とも拝せましょう。
 私が対談集を発刊した、ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁も、日蓮仏法の先見性とSGIの実践への感銘を語ってくださいました。
 「自由と平等を求め、差別と闘いゆく努力が、全人類の守るべき義務として刻印されたのは、仏教のおかげです。仏教は理想主義の活力となっています」
 これは「世界人権宣言」の起草者の一人でもある総裁の重要な証言です。
5  健気な求道の旅路
 日妙聖人は、「乙御前の母と同一人物であると考えられています。夫と離別しながらも、信仰を貫き通した女性です。幼子の乙御前を連れて、鎌倉からはるばる佐渡の地まで大聖人を訪ねたとも伝えられています。
 乱世で治安もままならないなか、身の危険も顧みず師匠のもとへ──それが、どれほど勇気のいる旅路であったことか。
 大聖人は本抄で、この母の求道心をめでられ、「日本第一の法華経の行者の女人なり」と讃嘆されています。
 この御聖訓に照らしても、海外から尊い求道の広宣流布の研修会に参加されるSGIの友を、大聖人がどれほど誉め讃えておられるか。その功徳は計り知れないのであります。
 ともあれ、健気なる女性の勇気に勝るものはありません。
 戸田先生も「一番信頼できるのは健気な学会員である。なかんずく女性の方が、いざという時、肚が座っている。勇気があって恐れない」と結論されておりました。
6  師匠と苦楽を共に
 「御義口伝」には、「共とは如我等無異にょがとうむいなり」と説かれています。”師と共に”戦う中に、「如我等無異」の境涯が実現します。
 師匠と「功徳ひとし」の大境涯に至るためには、師匠と苦楽を共にし、あらゆる艱難を勝ち越えゆくことです。
 牧口先生は言われました。
 「私の言ったことが心でわかれば、口にも出るし、筆記もできる。行動にも出る。身・口・意の三業でわかることが、本当にわかったということになるのだ」
 その通りに戸田先生は、牧口先生の教えを「死身弘法」の大精神で実行し抜いておられた。「弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない」と語っておられました。これが本当の師弟です。
 私もまた、戸田先生の事業が最悪の苦境にあった時、一身をなげうって先生をお護り申し上げました。ただただ、先生に、全人類のための指揮を悠然と執っていただきたい! その一心で、阿修羅の如く祈り、戦い抜いたのであります。
 戸田先生は、日蓮仏法を身で読まれ、体現された行者であられる。ゆえに、先生に命を捧げる覚悟で戦うことこそ、仏法の奥義を極めゆく正道である。私はこう決めきって、若き生命を完全燃焼させました。
 今日に至る広宣流布の多くの重要な構想を広げていったのも、苦闘の中での二人の語らいでした。
 艱難辛苦を共にした師弟不二の一日、また一日、私は先生の境涯の奥の奥まで教えていただいたのです。この大恩に感謝は尽きません。
 反対に、多くの弟子たちは、先生が苦境に陥るや、先生を裏切って退転していきました。それまで忠義ぶっていたにもかかわらず、態度を豹変させて「戸田の野郎」と罵って去った恩知らずもいた。
 法華経では、「如我等無異」の教えが説かれる直前に、象徴的な場面が描かれています。
 それは、思い上がった五千人の増上慢の弟子たちが、いよいよ最極の真理を説き明かそうとする釈尊の前で、会座から立ち去っていくのです。
 この傲慢な弟子たちは、「未だ得ざるを得たりと謂い」、師の説法を軽んじてしまった。その本質は、恩を知ることのない無明の生命であります。
 しかし、釈尊はこれら不知恩の人間たちを引きとめようとはしませんでした。去る者は去るがよい──。「今、ここに集まっている者たちからは、枝や葉はいなくなった。正しく誠実な人間だけになった」と語り、悠然と説法を続けるのです。
 そして、一切衆生の成仏の道を聞き、釈尊の真正の弟子たちは生命の底から踊躍歓喜する。これが法華経の重大なドラマの流れです。
7  感謝の弟子が勝利
 仏法の命脈は「師弟」の精神にある。
 「如我等無異」という誓願は、仏一人では完成しないのです。師の教えを聞いた弟子たちが、どれだけ深い感謝と決意をもって、師恩に報いる行動を開始しゆくか。ここで決まる。弟子の心に「報恩」の炎なくして、「師弟」の道は絶対に成就しません。
 「師弟感応かんのうして受け取る時如我等無異と悟るを悟仏知見と云うなり」とも仰せです。
 「弟子の勝利」こそ「師匠の勝利」です。創価の師弟が、「仏と等しい」智慧と力で戦ってきたからこそ、日本、そして世界の広宣流布を成し遂げてくることができたのです。
 大聖人は「恩を知るのを人間と名づけ、知らないのを畜生とする」(御書491㌻、趣意)と厳しく戒めておられます。
 戸田先生の恩を忘れ、口汚く罵って裏切っていった畜生道の輩の末路が、どれほど無惨なものであったか。
 また、近年も、学会の大恩を踏みにじった反逆者たちが、どれほど侘しい姿を見せて滅んでいったか。正邪の現証は明確です。皆様がよくご存知の通りであります。
 師恩を深く知る人ほど、深い力が出る。弟子が師恩に報いようと心に固く決めた瞬間から、生命の次元で「師弟不二」の勝利の大行進は始まる。
 そして、その弟子こそが、「如我等無異」という師弟栄光の境涯を、三世永遠に満喫しきっていけるのです。
8  「皆を勝者に!」
 今、世界中が不況です。どこの国も大変であり、日本も同様です。その中で、学会の同志は真剣に奮闘されています。厳寒の天地でも、離島や山間部でも、妙法流布に懸命に進んでくださっている。災害に見舞われた地で、友を励ましながら、歯を食いしばって社会に貢献してきた方々も大勢おられます。
 わが同志の皆様方は、仏の「如我等無異」の慈悲を万人に伝えゆく大闘争を繰り広げておられる。それは、いわば「皆を勝利者に」という社会を築いているのです。断じて負けてはいけない。必ず「変毒為薬」していける信心です。「仏法は勝負」です。断固として勝ち越えていただきたいのです。
 インドの初代首相ネルーは強調しました。
 「仏陀が言ったように、真の勝利とは、敗北というもののない、すべてのものの勝利なのだ」(黒田和雄、斎藤春樹訳)
 女性未来学者のヘンダーソン博士も、「皆が勝者となる世界」というビジョンを提唱されています。私との対談集(『地球対談 輝く女性の世紀へ』)でも、この目標について語り合いました。
 弱肉強食を繰り返してきた人類の歴史を転換し、皆が勝者となる二十一世紀を! と──。
 そのためには、庶民が力を持つことです。庶民が向上することです。庶民が希望に燃えることです。そして、庶民が団結することです。
 仏の称号の一つが、まさにこの「勝者」であります。ヒマラヤの如き最高峰の大勝利者の境涯に、万人を導くことこそ、釈尊、日蓮大聖人が貫かれた「如我等無異」という仏法の大理想です。そして、これこそが創価の師弟の精神なのです。
 今や、この仏法の師弟の道に、世界の知性が確かな光明を見出される時代に入りました。
 南米の名門コルンビア・デル・パラグアイ大学のエリーアス総長は語っておられます。
 「仏法は、人間の精神を蘇生させ、一人の人間がもっている『極善の力』を引き出します。また、仏法の弟子は、師匠から『高い精神性と智慧』を学び、それらを他の多くの人々に伝える力を与えられるのです」
 深いご理解です。万人の生命にある「極善の力」──最強の正義の力を、わが胸中から湧き上がらせる源泉が、師弟です。
 また、私が「名誉郡民証」を拝受した韓国・清道チョンド郡の金相淳キムサンスン郡守は、創価の師弟を賞讃してくださり、こう語られました。
 「人間を最も人間らしくするのは、『恩を知るゆえ』です。そして、その恩に報いるために、『今、自身の人生を、どのような方向に生きているのか』、さらに『恩を受けた師匠を、どのように宣揚していくのか』という悩みに生きていくのではないかと思います」と。
9  「3・16」次の50年へ
 戸田先生のご逝去から五十一年。私の胸奥には、今も「大作、大作」と呼ばれる先生の大きな声が聞こえてきます。
 師匠からいただいた私の命です。恩師の血脈は、私の生命に厳然と流れ通っています。
 巡り来る三月十六日「広宣流布記念の日」。恩師から、私をはじめ後継の青年門下が正義の印綬をお受けした久遠の儀式の日です。
 昭和三十三年(一九五八年)のこの日、戸田先生は来賓方の前で「創価学会は宗教界の王者である」と、誇り高く師子吼なされました。これこそ、万代に輝く学会の永遠不滅の魂であります。この大正義と大確信を、私は一人、まっすぐに受け継ぎ、世界へ堂々と宣揚し、証明してまいりました。
 さあ、次の五十年へ、新しき広宣流布の大舞台の開幕です。
 わが頼もしき門下たちよ!
 元初の生命を燃え上がらせながら、師弟勝利の大旗を高らかに掲げゆこう!
  我も師子
   君も師子たれ
    師弟不二

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