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日蓮大聖人・池田大作

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日本協会主催レセプション 平等互恵の地球社会を

1975.1.10 「池田大作講演集」第7巻

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1  尊敬するシャピロ会長夫妻、マッケクロン専務理事、および貴協会の皆さま、本日はこのようにあたたかく、真心のこもった歓迎の席を設けてくださり、心より御礼申し上げます。大変にありがとうございました。
 あいさつは短いほうがベターであることをよくぞんじておりますが、きょうは、日米間の世々代々にわたる友好のために、少々長いスピーチをさせていただきますことを、どうぞご了承ください。
 まず最初に、地道に日米友好を推進してこられた貴協会のご強力とこれまでの実績に対し、私は心から敬意を表するものです。昨年はフォード大統領閣下が来日されるという、日米関係において画期的な年でありました。今日、日米の厳密な結びつきは、文化、経済面はいうまでもなく、生活全般にわたりきわめて幅広いものがございますし、日米友好の責を担うすべての人々にとって、今後いよいよ活動の場は広がるものと思います。日米友好の裾野をますます広げるために、由緒ある貴協会の役割に一層期待が寄せられるしだいです。
 さて、本日、皆さまにごあいさつするにさいし、つねに私の心を去来してやまない問題をとおして、創価学会について若干お話をさせていただきます。
2  地球の危機に際して
 二十一世紀まであと、四半生起――現代が地球的スケールで未曾有の困難な時代に直面していることは論をまちません。さきほどは国連へまいりましてワルトハイム事務総長と会見いたしましたが、この点に関して共通の認識を深めあったしだいです。この危機といわれる時代にあっては、たとえ次元、立場を異にしても、これからの世界の動向、人類の生存に、それぞれ誠実に自己の責任を果たしていかなければなりません。そうした責任のもとに、皆さま方の胸中のコンパスが、人類の未来という航海地図の上に、精密な、精彩ある恒久平和への近似値を描いておられることを期待します。
 私もまた、世界の国々に多くの友をもち、やがてわきたつであろう生命の讃歌を私の耳によみがえらせ、胸奥の共鳴盤に奏しながら、人類の心のなかをひた走る一個の人間であります。私の走る眼前には人間の幸福と平和の山脈が脈打って見える。が、その一方、窮乏と悲惨と空虚な人間の現実も、私の目には焼きついて離れないのであります。今日、こうして私たちが幸福な瞬間を送っているときにも、地球上のどこかでは飢餓に苦しんだり、戦火に逃げ惑っている人たちがいることを忘れるわけにはいきません。民衆の慟哭とうめき声も、私の心のなかを嵐のごとく吹きまくっております。
 こうした人間の悲惨はいったいどこから生じているのか。――確かにそれは時代により地域によって異なる。ある地域では、あすの食べ物にもこと欠くところもあれば、衣食足っても精神的な飢餓感から人生に苦悩する人たちもおります。しかし物質的な富に差はあっても、そこに共通しているは、人間が真に人間らしく生きられる社会を願望しているということでありましょう。
 現代は「地球時代」という呼び方もするように、交通機関、通信網の発達が諸国民の相互交流を劇的に展開させ、人類に運命共同体的意識を植えつけつつあります。ここに現代という時代の特徴もある。確かに過去、人類はさまざまな危機の時代を通過してまいりました。しかし、今日ほど地球上のすみずみにまで“危機”の意識が庶民レベルで自覚されている時代はかつてなかったといえましょう。
 ではいったい、この危機の所以はなんであるのか。インフレ、不況、エネルギー資源問題等、どれをとっても構造的な問題が世界をマヒに陥らせております。しかし、問題はたんにそうした目に見えるものだけではない。人々の心のなかには、漠然とした不安が去来している。これまでの人々の生活を豊かにし、幸福にさせると思わせてきた“成長”や“進歩”が両刃の剣のように人々を脅かしているからであります。
 科学技術の進歩にともなうさまざまな人類の危機が指摘されております。それに対応し、具体的な対策の提言をめざして活動しているローマクラブが、世界各国から注目されております。その代表世話人のアウレリオ・ペッチェイ氏は「物質的成長の限界は遠くないが、逆に人間の精神的成長の余地はまだ大きく、人類の生きのびるためのカギはここにある」と述べ「いま必要なのは、新しいヒューマニズム、人間の心のルネサンス」だと語っております。これは、はなはだ示唆的な言葉でありますが、これと同じような指摘をする識者は決して少なくない。しかし、具体的にどう「心のルネサンス」をはかるかということになりますと、暗中模索の状態であります。人類が、残された四半生起を平和で幸せに生きぬいていける新しい理念が見あたらないことが、現代の最大の問題といってよいかと思います。
 今日、確かに多くの識者がいろいろ問題点を指摘しております。私は、イギリスの歴史学者であり哲学者でもあるトインビー博士とも直接、長時間にわたり対話を交わし、書簡による討論も幾度となく繰り返してきました。そこではさまざまな問題が多角的に論じられ展開されましたが、特に博士は「二十世紀において、人類はテクノロジーの力に酔いしれてきた。しかし、それは環境を毒し、人類の自滅を招くものである。人類は自己を見つめ制御する知恵を獲得しなければならない」という意味のことを述べられた。そこでいきおい博士との対話は、人間論、生命論といった根本的なものに重点がおかれていったのであります。
3  仏教の視点
 もともと仏教の出発点は、人間のもろもろの苦悩をどう解決するかということにありました。この場合、人間の苦悩とは“生死病死”という根本的なものです。それはまさに“生命”それ自体の問題であり、苦悩する当体である生命そのものに目を開いたところに、仏教の英知の鋭利さがあったといえましょう。
 私はつねづね、きたるべき二十一世紀は、結論していうならば、生命というものに光があてられる世紀であると予見しております。そして創価学会という運動体は「“人間”そのものに仏法という生命哲学の背光をあて、心と心の深みに連帯のバネを与えゆく“人間革命”運動、すなわち人間の側から、平和運動に絶え間なき挑戦をなしゆく団体」と規定してまいりました。核兵器にしろ、公害にしろ、現代がかかえる巨大な問題は、つきつめてみると欲望とエゴに突き動かされ、自己をコントロールしえない“人間”そのものの問題に行きつくからであります。
 仏法哲学は、このわかりきったようでつかみえない“人間”そのものに英知の光を照射し、人間とは何かを洞察し、生命次元から解明した壮大な人間哲学であります。それはたんにものの考え方や生きる姿勢の転換を教えるにとどまるのではなく、普遍的な生命変革の実践法理を打ち立てているのであります。
 昨年、日本では「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになりましたが、仏法のいき方は、こうした単純な未来の予言にあるのではなく、未来の大きな展望のうえに立って「だからどうするのか」という当為を重視します。仏教には「一切衆生」という言葉がありますが、この「一切衆生」という言葉には、人間すべてを平等にみて、これを根源的に救済し、幸福にしていくためにはどうすればよいかという慈悲と責任感がこめられていると思う。創価学会は、いわばそうした使命感に根ざした生命的ヒューマニズムに立つ団体であります。

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