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日蓮大聖人・池田大作

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第6回全国諸精霊追善大法要 「法界平等利益」を実現

1974.7.15 「池田大作講演集」第7巻

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1  ひとことごあいさつをさせていただきます。ただいま、恒例によりまして、学会員として広宣流布に励まれた物故者各位の精霊に対し、つつしんで追善供養の法要を営み、妙法蓮華経の無上の醍醐を回向申し上げました。
 法会の導師を勤めていただきました当寺のご住職、高野日深先生に対しましては、不肖私、一同を代表しまして厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
 なお、千種日健先生をはじめ各寺の諸先生方にも心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
2  追善供養の意義
 学会におきましては、春秋二度の彼岸および七月のお盆等には、毎度このように、いまは亡き諸先輩に対する回向を申し上げておりますが、また学会の方針として、これからも永久に続けてまいるのでございますが、その趣旨は、これひとえに宗祖日蓮大聖人の教えのままに「法界平等利益」を実現し、「自他倶安同帰寂光」の実をあらわさんがためであります。
 すなわち、これはとりもなおさず、そのまま「立正安国論」実現の一環をなすものであることはいうまでもありません。しかして、また、ともに故人の法華経に身をまかせ、法華経に名をあげて広宣流布の戦野に散られた、その崇高なる遺徳の顕彰ともなり、追憶の念を新たにすることとなるのは、もちろんであります。
 きょうは、この席には全国代表として約五百人の方々がお集まりでありますが、回向の趣旨においては、日本ばかりか、世界の同志メンバーの方々も、その対象になっておりますことを、私は改めて申し上げておきたい。
 また、余談めいて申しわけありませんが、きょうのように、故人が対象とされるときには、あとに遺された方々を“ご遺族”と呼ぶのが習慣のようになっておりますが、私はこの“ご遺族”という言葉が、どうも感心しない場合があるのであります。
 それは、なにかおまけみたいに付随的な人たちが取り残された感じ、故人は有能で偉かったが残った人たちはそんなでもない、といったような感じ――もちろん、これは錯覚上の産物であることは、申すまでもありませんが、用いられる言葉から連想的に、こういう感じの意味が浮かんでくるのであります。
 ほんとうはそうではない。いわゆるご遺族の方々は、“遺された家族”ではなくて、立派な“後継者”であります。私的には、故人の遺徳と信心の業績を継ぎ、公的には、この社会と人類の文化や歴史を受け継いで、より良く、より立派に発展させていくべき、たくましい後継者であります。
 いまは亡き精霊の願うところも、必ずやそこにあったことは、疑う余地がありません。してみれば、故人が有能で、偉ければ偉いほど、その後継者の皆さまは、より有為の人材であり、より幸せになる人間であり、より立派な仏弟子、眷属であっていただきたい。また、そうめざしていただきたいのが、私のお願いでございます。
 そこにこそ、故人と子孫との一念の交流感応があり、真の生命の連帯があると、私は確信したいのであります。もし、そうでなければ、せっかくの妙法の回向といえども、理の辺はさておいて、事のうえにおいては世間一般のそれのように、単なる感傷的な追憶と大差のない行為に終わらないともかぎらないと思うからであります。
 結局、一般において現に行われている回向は、字からしてそうなりますけれども“後ろ向き”でありましょう。我々は、妙なる法理にまかせて“前向き”で生命の連帯を強化していく。ここにこそ“追善”ということの生きた意味があると信じてやまないのであります。
 故精霊におかれましては、かつては“生”いまは“死”。後継者各位や、私どもにおいては、いまは“生”今後いつかは“死”。実に“生死”以上の人生の大事はございません。
 日蓮大聖人はこう仰せであります。
 「SA328E……」と云云。
 生死の二法は、一心の妙用であるからには、永遠の生命の灯を高く掲げて、赤々と、この世を照らし晴らしてまいりたいものであります。
 「千日尼御返事」に、このようにございます。
 「SA329E」と。
 また「御義口伝」には「SA330E……」とございます。
 信心というものが、この大所高所にたてば、生死に即して大涅槃であります。ひとつ心境を大きく開いて、悠々とこの世を生きぬいていきますよう、心からお祈り申し上げるしだいであります。
3  盂蘭盆行事の由来
 次に、盆行事について、本日の法要の意義をとおしまして、ひとこと申し上げさせていただきます。
 もともと盆行事は、目連尊者の事跡から事始まったと申します。そこで「盂蘭盆御書」には次のように説かれてあります。
 「SA331E」とあります。
 追善供養の回向とは、このように広いものであります。現に昔、釈尊は、敵対者提婆をも回向して救い、彼を天王如来となしたのであります。また、これはかつて日達猊下が話されたことでありますが「わが正宗ではかの五老僧さえも、きちんと総本山の過去帳に載せて回向している」とのことであります。
 かくのごとく、敵対者までも地獄の苦を離れしめ、皆、本因初往の位置につけしめて、文字どおりに十界皆ともに仏道を成ずるのが供養の働きであります。
 また「法蓮抄」には「SA332E」とあります。
 これらの仰せによれば、追善供養の回向とは、実に皆成仏道の行事であり、そのときは各精霊も今度は皆さま方に対して、礼拝して依正一体を成じているとの御文なのであります。
 そればかりではありません。「総勘文抄」を拝しますと「SA333E……」とありますとおり、また新しくこの世に出現して、広布の戦列にはせ参じている方々も、多いはずなのであります。
 御金言は空しからず、であります。してみれば、精霊もご家族も、その功徳と福運いや勝ることは、疑う余地はまったくないのであります。本日、参集の皆さま方が固くこれを信じて、明るく人間革命と社会平和へ勇猛精進してくださるならば、私としてこれ以上の喜びはございません。
 万が一、現在逆境にある方がおられたならば、それは必ず一時のことと確信してください。地域の中心者にもご相談してください。因行あれば必ず果徳あり、この“必ず”の二字に真実の信心さえあれば、くるいは絶対にないのであります。互いに手をとり合って、大切なこの人生を力強く生きぬいてまいりましょう。
 本日は遠路を、またお忙しいところ、わざわざのご参集、私は深く感謝申し上げます。ご家族の皆さまにも、また地元の同志の方々にも、どうかくれぐれもよろしくご伝言を願って、私のあいさつとさせていただきます。まことにご苦労さまでございました。

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