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日蓮大聖人・池田大作

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蓮生寺落慶入仏法要 世紀に光れ”生誕の地”

1974.2.16 「池田大作講演集」第6巻

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1  陽光燦たる本日、ここ宗祖日蓮大聖人ご誕生の地に、出生ゆかりの嘉日を期しまして、この立派な「本仏山蓮生寺」が建立され、まず日達上人猊下に衷心よりお祝い申し上げるものでございます。また、総監、ご住職をはじめ、ご列席の僧俗各位に対しましても、心からお祝い申し上げるしだいであります。
 ただいま、千葉創価学会員の皆さま方の尊いご供養を猊下にさしあげました。どうか、皆さま方にくれぐれもよろしくお伝えください。この蓮生寺は、正本堂落慶記念事業の重要な一環として建設されたものであります。
 顧みれば、大聖人ご誕生の小湊に七百五十二年後の今日まで、正宗寺院がなかったということは、なんとしても物足りなかった気がいたすのであります。しかし、ただいまからは、その不満足も立派に解消したわけであります。
 ともあれ、大聖人のご事跡は、ここ安房の国一帯においても残されておりますが、そのいちいちについては、地元の皆さんも十分ご承知のことでもありますし、この席では、それから離れて、大聖人のご化導の流通のうえから、いささか所見を申し上げ、もって慶祝の意を表明いたしたいと思います。
2  大聖人ご誕生の時代相
 大聖人のご誕生は、末法へ入って百七十一年目の春でありますが、「選時抄」を拝見いたしますと、まず冒頭に「SA296E」と申され、末法をさして「SA297E」と、釈尊の予言を引用しておられます。
 当時の時代相は、まったくこのとおりであります。わが国も、そして世界も、動乱の極にありました。わが国では、ご誕生の前年に有名な承久の乱が起こりました。結果は三上皇の島流し、そして、朝廷、公家方の領地は全部、没収という前例のない苛烈な処分が行われております。しかも、その後、勝った鎌倉幕府内では、陰湿な権力闘争が続いてゆき、その内部抗争をかかえこんだまま、蒙古襲来という外患を迎えていったのであります。
 そのとき、世界のありさまはどうであったか。当時の世界はおおまかに分けて、四大文化圏が存立していました。すなわち、中国文化圏、インド文化圏、イスラム文化圏、そしてキリスト教文化圏の四つでありました。
 このうちキリスト教文化圏とイスラム文化圏は、大聖人ご誕生の前、およびご在世中にかけて、何度も何度も十字軍戦争を行っていましたし、インド文化圏はイスラムの征服をこうむったのち、蒙古の兵力に脅かされていた最中でありました。中国文化圏も侵略されて完全に支配され、その侵略はやむところを知らず、そののち西へ南へと拡大していくのであります。
 こうしてみると、すべての文化圏が戦争のさなかにあり、まさに、世界大戦の最中だったわけであります。
 この点については、世界中が中世暗黒時代という評価にふさわしい状態であったといってよい。わが国においては、そのうえに飢餓や疫病、その他が加わり、民衆の生活は惨憺たるものでありました。これでは民衆のあいだに「貪・瞋・癡」の三毒が充満するのも当然といえましょう。
3  ご化導の順序
 大聖人のご化導は、まさにかくのごとき世相のなかで開始され、推進されたのであります。
 「報恩抄」には「SA298E」と述べられて、発迹顕本後のご身分およびその御徳を明示されるまでには、言語に絶する化導上のご辛労がありましたことは、いまさら申し上げるまでもないところであります。このようにして、しだいに弘安年度へと進んでゆかれ、熱原法難を経て「出世の本懐」を遂げられ、ついでご遺命を残してご入滅されるわけでありますが、このご一代を拝しますとき、ご化導の順序は、まことに深い配慮に満たされているのであります。
 すなわち、そのご身分においては、幼少の時から青年習学の時までの「理即凡身」から、建長五年四月二十八日、立教開宗後の「外用上行」としての「本化地涌の菩薩」の御身へと、更には竜の口以降の「本有無作三身の本地仏身」へと、確たる順序を踏んで、そのご身分を明かされ、また法の建立のうえにおいては、はじめに「題目」、ついで「本尊」「戒壇」の順に開示され、よく信心をもって拝するならば、なにびとといえども、納得できる順序でご化導を展開されているのであります。
 しかも、こうした順序を経過していく、そのなかにおいて、一念三千の法華の法門について、おのずから、事理、本迹、種脱の相違をば、厳然と立て分けられ、末法万年、そしてその後まで、未来の人類が拠るべき仏法の正体を明示しておられるわけであります。

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