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日蓮大聖人・池田大作

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沖縄広布20周年記念総会 沖縄文化の昇華に仏法の光を

1974.2.8 「池田大作講演集」第6巻

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1  親愛なる沖縄の皆さん、本日は晴れの記念総会、まことにおめでとうございます。(大拍手)
 私は、今回はじめて石垣島、宮古島へ激励のために足を運んだわけですが、石垣の友も、また宮古島の友も、みな元気いっぱいでした。私は、皆さん方の元気なお姿を拝見することが、なによりもうれしいのであります。(拍手)
 きょうは“平和の波動”というテーマを掲げたこの記念総会に、全島から代表幹部の方がお集まりでありますが、皆さんの手によって「沖縄広布二十周年」という、ひとつの大きな歴史的な節を迎えたわけであります。長いあいだ、ほんとうにご苦労さまでございました。(大拍手)
 さきほど紹介されましたように、沖縄創価学会は、理事室だけでも二十六人のリーダーが誕生したわけであります。どうか二十年後の一九九四年二月八日の第二期に向って、一人ももれなく、また新しい決意で、平和と幸福へのうねりを起こし、沖縄全島へその波動を及ぼしていくことができますよう、心よりお祈り申し上げるものであります。(大拍手)
 もう、皆さん方は、重々ご承知のこととぞんじますが「沖縄広布二十周年」と申しますのは、いまここにおられる沖縄長の安見福寿さんが、昭和二十九年の夏に、この沖縄の地で“一粒種”として活動を開始してから、ちょうど二十年になるからであります。東京で御本尊をいただき、入信後わずか五日にして、沖縄広宣流布を展開したのであります。
 安見さんは福寿という名前ですが、当時は、とても“福々しい”という境遇ですなかったようであります。(笑い)だが、この二十年間、自らの信条のままにがんばった結果として、今日はどうか――途中では議会生活も経験し、現在では沖縄長として皆さんを代表する重任にあたり、どちらからしても沖縄の名士の一人として揺るぎなき人生を築いております。
 しかし、ご本人一人まだけが福々しいのではなくて、会場の皆さん方をはじめ全島に福々しい会員諸氏がとまともにたくさんそろっておられる。この事実をみるとき、私は過去二十年間の沖縄広布史は、筆舌に尽くしがたい偉大なる歩みであったと、あらためて敬意をもってたたえたいのであります。(大拍手)
 そしてまた、かかる偉大な実証を与えてくださった。事の一念三千の御本尊のおおいなる仏力、法力に対して、あらためて賛嘆の念を禁じえないのであります。そして過ぎ去りし栄光の二十年をみるつけ、きたるべき二十一世紀へ向かって進みゆく、これからの二十年は、さらにさらに福徳と栄光に満ちたものであろうと、私は確信を一層深くするものであります。
 結論して申し上げるならば、日蓮大聖人の仏法は、生活と密着した仏法であるがゆえに、偉大なのでありまするそして、この仏法は“悟りの仏法”である。多くの体系化した思想、哲学がほかにあったとしても、単なる観念論にすぎない場合が多く、その究極においては自己を悟ことはできない。すなわち「人間革命」という幸福の実証というものは、まだ他の哲学では完遂できないようであります。
 ともあれ、仏法は公平である。この信仰という確信の人生を基盤にして、きょうからまた、しっかり両足を生活の大地に踏みしめながら、愉しい、悠々たる人生を生ききっていただきたいのが、私の願望なのであります。
2  如説修行者の姿勢
 日蓮大聖人は別当御房御返事において、つぎのように仰せられています。
 「SA294E」と。
 「大名」といっても殿様という意味ではなく、大きい名という意味であります。「小耻にはぢず」というのは、小さな恥にはとらわれないということです。
 すなわち、日蓮大聖人は社会のために、一切衆生のために、もっとも本源的な大事業を起こされました。「五濁」すなわち劫濁、衆生濁、煩悩濁、見濁、命濁――この思想の乱れ、生命の濁り、そしてまた衆生全体の濁り等、この「五濁の世間」を「寂光土」に変え、悩める九界の衆生を仏界の衆生に革命するという大事業であります。その帰結として、大聖人ご自身の御名もおおいに上がる、それが「大名を計る」ということであります。
 「小耻にはぢず」とは、御身にこうむった悪人呼ばわりなどの罵詈毀辱、更には流罪、死罪の罪人扱い等々であります。そういうことで恐れて恥じるようでは断じてならない、ということであります。
 我々の仏法実践、すなわち人間革命の経過も、また同じ原理であります。過去遠々劫以来の宿業がもたらすところ、十年、二十年の如説修行のあいだには、じつにいろいろなことが起こってまいります。私自身も、さまざまな経験を積んできています。皆さん方も、そうでありましょう。世間から、後ろ指をさされるような場合もあるし、凡夫だから失敗することもあります。誤解もされます。
 だが「大願」をはらんで「大名を計る」ものは、忍辱の鎧を着て「小耻」に恥じない、小さなことには紛動されまいというのが、如説修行者の人生心得たるべきであることを忘れてはならない。
 小耻に恥じないとは、わが身、わが行動を反省しないということではなくして、世間に対して、社会のなかにあっては、つねにいじけない、毅然たる態度をいうのであります。
 どうか沖縄の皆さん、私どもは、生涯、このように胸を張って、明るく笑みをたたえて、毅然たる態度で信心していこうではありませんか。(大拍手)そして沖縄の社会のために、おおいに貢献していかれますようお願いいたします。(大拍手)
 大聖人は、当時の蒙古の牒状を大願成就への前兆である、また立正安国論をもって警告した予言が的中したという点からは、世界第一の“高名”であるとも申しておられます。そのことは、さきにあげた御書のとおりでございます。
 この定理からみた場合は、現在の石油ショック、反日ショック、狂乱物価等、内外の問題は、それ自体は社会も私どももじつに困る現象ではありますが、歴史の流れからみた巨視的な観点からは、わが社会の文化のあり方を反省させ、そして広宣流布の方向へと、人の心、人間精神の向きを変えてゆく働きをなしていくものであると、そのようにみてほしいのであります。
 揺れ動く激動の社会のなかにあって、皆さんは、このような確たる見通しを堅持した上で、当面の悪性インフレなどには負けないよう、しっかりと生活防衛にも気を配っていってください。「SA295E」という御金言をかみしめて、まず自らの生活を完璧に確立していっていただきたいと思います。
3  「人間広場運動」の要素
 さて、今年は座談会を軸として、いろいろな「人間広場運動」を私どもは展開していくわけでありますが、それについて、私の考えの一つを申し上げてみたいと思う。
 いったい、こうした運動が効果的に浸透していくには、どんな要素が必要なのであろうかという問題であります。
 いうまでもなく、もっとも大切な要素は、相手のことを思いやる一念でありましょう。自己の利益に奉仕する一念では、いわゆる悪徳商社と同じで、世の中を悪くかき回す結果になってしまいます。海外各地で日本の経済活動がきらわれているのも、策や計算が先立っていて“利他の精神”が欠如しているところに問題がある。
 これに対し、私どもが展開する活動では“利他の一念”の作用は、決定的となる。どうか、この一念をしっかりと貫いて、地域活動を進めていただきたいのであります。そして、あらゆる地域社会の人々より、信頼され、感謝される運動を続けていってほしいと、念願するものであります。
 次に考えるべき要素は何か。少々むずかしい表現になりますが、それについて私は「真理性」と「説得力」の二つの要素をあげてみたいのであります。教機時国抄のなかに、こういうことが述べてあります。すなわち「智第一の舎利弗は、鍛冶師には不浄観を教え、クリーニング職の人には数息観を教えたので、かえって邪見のものになってしまった。しかし、仏は反対に鍛冶師には数息観を教え、クリーニング職の人へは不浄観を教えたので、覚ることができた」というのであります。
 数息観というのは出入りする呼吸を数えて、心の安定を得る教法であります。不浄観というのは身の不浄を観じて、貪欲を治すという教えであります。
 これらは、ともに小乗の法でありますが、御文の意は、衆生の“機根”とそれに対する“教法”とが合っているかどうか、との観点から述べられた御書であります。
 このことを現代的な視座からみれば、私は、真理性と説得力の問題ともなろうかと、考えるのであります。
 ある本に、こういうことが書いてありました。「説得力および真理性という二つの要求が、しばしば両立しえないことは明白であります。まず、ある議論がどの程度の説得力を発揮するかということは、特定の相手を離れては決められない。卑近な例をとれば、真夏の夕立の時に、裸の子供にシャツを着せるためには、カミナリさまにおへそを取られますよというのは、もっとも説得力のある論法であるかもしれない」と、そして更に「もちろん大人は子供ほど無知ではないが、完全な洞察力を期待することもできないから、真理性と説得力の両面を考えなければならぬ」という意味のことをいっておりました。
 さて、私どもの主張と行動とは、どういう場合にせよ、ますます真理性の高いものになっていかなくてはならない。学理的な面では社会もどんどん進歩していきますから、当然、それを吸収していかなければ広宣流布という文化のリード役はつとまりません。昨年から新しい教学運動を展開しているのは、そのためであります。
 しかし、また相手かまわず、それらの真理を展開しても、実践の効果は必ずしも上がるとはいいきれないのであります。
 さきほどこの会合の第一部で、皆さんの郷土色豊かな伝統文化の演技をみせていただきましたが、じつに見事でありました。そしてただいま、私は、ここでやや硬い話をしているのでありますが、両方を比べてみれば、理論的な高尚さという点では、私の方に分があるかもしれませんが、妙法の世界のすばらしさに眼を開かせるという効果については、皆さんの心のこもった演技のほうが、むしろ、説得力を発揮していたかもしれません。
 こうした両者のかねあいの問題は、あらゆる行事についてまわるものでありまして、もっとも価値的に、効果ある実践をめざすうえで、欠かすことのできない課題といえましょう。説得力というものは不思議なもので、一言一句たがわす、そっくり同じことをいっても、信用と実力のある人のいったのと、そうでない人がいった場合とでは、相手の受け取り方が違ってしまう。ですから、広宣流布といえども人材しだいとなってくるのであります。この意味におきまして、どうか沖縄の皆さんは、たゆまずに社会的にも人間的にも成長に励み、立派な社会人、すなわち、実力、信用を兼ね備えた人材になっていただきたいのであります。(大拍手)

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