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日蓮大聖人・池田大作

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第1回栃木県幹部総会 色心不ニの哲理こそ最極の実践道

1973.11.6 「池田大作講演集」第6巻

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1  栃木の幹部の皆さん、大変しばらくでございました。(大拍手)
 「教学の年」の締めくくりにあたって、こうして一堂にお会いすることができますことも、時にかなって、不思議な機縁ではなかろうかと思い、きょうの会合を、心からお祝い申し上げます。(大拍手)
2  教学は実践の哲理
 教学の試験については、どうか伸びのびと、思うぞんぶんにがんばっていただきたい。そこで、まず教学について、ひとこと申し上げさせていただきます。
 ご承知のように、日蓮大聖人の仏法は色心不二の大生命哲学であります。端的にいえば、現代の世界思潮は唯物論とキリスト教の唯心論に二分させる。しかし「物質・物体」と「精神」というものは、元来、一体のものである――という生命次元から出発した最極の哲学、宗教が大聖人の仏法であります。古来の西洋哲学一般は、だいたい「意識」というもの、すなわち、仏法で説く「心法」というものを中心にして、思想とか、哲理とかを扱ってきた傾向が強かったのであります。だが、ある哲学者は、こういうことをいっている。それは「人間の心身を切り離して、そのいずれかだけで、人間を語ろうする試みは、いつも誤りに陥る」というのであります。
 してみれば、過去の西洋哲学への反省が、西洋においても生じ、この色心不二の哲理を指向せざるをえない段階にきているように思われるのであります。私は、まずこの点をふまえたうえで、次のことを申し上げておきたいのであります。
 それは、仏法は、理解の対象ではなくして、実践の対象であるということであります。当然、私どもの教学もまた、実践の哲理以外のなにものでもありません。理解は、もちろん必要ではありますが、第一義をそこにおいては誤りとなるのであります。あくまでも、実践を土台としたうえでの理解が大切なのであります。この点を、日蓮大聖人の仰せによって拝してみますと、御義口伝の「第一如是我聞の事」というところで、次のようにご教示されております。
 「SA279E……SB073E」とあります。この御文を、一往、心浅く拝見するならば、「信は則ち所聞の理会し」というのは、信ずるならば、則ち聞いたところの法体についての道理が理解できる――というような意味に感じられますが、再往、心を深めて拝してみますと、決してそうではないのであります。
 仏法はどこまでも色心不二の実践道でありますから、「信順」の「信」とは「順」という語とともに、一対で成り立っていて、切り離すことができないのであります。「心法」において「信ずる」ということと「色法」すなわち「行躰・実践」において「順ずる」ということは、不二であって、離すことはできないという御書なのであります。
 してみれば「所聞の理会し」ということは、法体の道理が、頭で納得できるようになることではなくて、むしろ聞いた法体の道理が、人生、活動、生活における己の振る舞いのなかに、にじみ出てくるようになるということなのであります。すなわち、法理が身に具わるようになるということであろうと、私は拝するのであります。
 知的な理解というもののあり方は、あくまでもその実践の中につつみこまれたものとしての理解でなくてはならない。身につくからこそ、順ずることができるのであり、能持の人といえるわけであります。それではじめて、師弟の道が成立するのであり、そのところが、教学の真髄なのであります。
 試験もその一環としての最重要行事でありますから、どうかそのつもりで、ぞんぶんに取り組んでいっていただければ幸いと思うのであります。
3  栃木の歴史と風土
 次に、皆さんの故郷である栃木の歴史、風土について、ともどもに考えてみたいと思います。栃木の歴史は、ご承知のように、ひじょうに奥深いものがあります。数万年前の先土器時代にまで、さかのぼることが可能なのであります。県下全土にわたって、弥生時代の遺跡よりも、縄文時代の遺跡のほうが圧倒的に多い。その規模も、雄大な縄文文化圏が成立しているほどであります。
 歴史時代に入りましては「毛の国」まては「毛野国」と呼ばれていた。やがてそれが、上・下の二つに分割されて、栃木は「下野=下毛野=地方」ということになりました。「毛野国」の「毛」とは“地面からはえるもの”を意味している。日本で最古の辞典といわれている「和名抄」に「五穀、草木のたぐいを毛といえるなり」とあるように、上古から物産の盛んな繁栄地として「毛野国」と称されたもののようであります。
 細かい証明的なことは省略されていただきますが、上古、大和時代から平安末期まで「下毛野国」は一貫して、関東の中心地であった。同時に、東北への押えでもあり、また東北に対する文化や物産の搬入路でもありました。そこで東国のなかでも「下毛野国」に、真っ先に国府が設けられていたわけであります。
 白鳳時代には、中央政府の手によって、小乗教の三戒壇が建立されたことは、有名な史実であります。その一つが下毛の薬師寺であったのをみましても、中央では、いかにこの地方(栃木)を重要視していたかが知られるところであります。当時の小乗教の戒壇というものは、仏教流布の基地というよりも――医学や易学までつかさどる文化一般の教習所、つまりおおげさにいうならば、昔の総合大学といった機能のものらしく、そうした文化の流れが後年、足利学校の興隆へ結びついていくのではないかと、私は思っているものであります。
 したがって上古から中古にかけての栃木県は、文化、産物にわたって、東国のなかでは群をぬく国土であった。そしてつねに、大物の国造が派遣され、やがて、そこから大豪族が発生してきたわけであります。
 当然、国府があるほどでありますから人口も多く、当時、大量の人たちが容赦なく防人に駆り出されて、九州に送られております。昔から政治は非情なものであった。農民は、ずいぶん苦しめられたようであります。だが、庶民は根強いものである。そうした機構の社会のなかでも、たくましく生きぬいていったのであります。ともかく、栃木はそういう張りのある、開けた国土であった。
 時代が下って徳川時代に入りますと、幕府はこの下野を、徹底的に細分していったのであります。これは、栃木の住民の気質に少なからぬ悪影響をもたらしたようでありますが、それもはや昔話となり、明治からこのかた、さまざまな産業が発達し、人口も急増して、いまでは全国のなかでの中進県として、なお発展途上にあります。
 思うに、日光国立公園をはじめ、豊かな観光、休養の資源に恵まれ、その一方においては、県南部は東京への通勤圏に入っております。工業立地の需要が栃木へもとめられてきている事情等を総合してみましても、これからの県内情勢は、相当、激動的に進化していくのではないかと思われるのであります。
 そこで「日本の文化地理」という本には、これまでの県民気質というものを取り上げて、このように述べている。「生活物資の自給に恵まれた県である。極度の豊富さもないが、極度の窮乏もない。とにかく、足りてゆくことは県民性に穏健さを与え、穏健の無事は、保守性につらなり、律儀な努力で生活を組み立てる……」と。
 願わくは、こうした伝統の長所はこれからも決して失うことなく、第二章の新時代の進化に対しては、どうか大和、奈良、平安時代の気概を新たにして、立派な対応をみせていただきたいと、私は心から期待してやまないしだいであります。

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