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日蓮大聖人・池田大作

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第1回埼玉県幹部総会 広布の大河に人間革命の歴史を

1973.9.12 「池田大作講演集」第6巻

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1  本日は、かの竜口の法難記念の日でありまして、この有意義な日に、皆さん方と一堂に会することができ、ひじょうにうれしく思っております。おめでとうございます。(大拍手)
 さて聖愚問答抄という御書に「SA255E」との仰せがございます。
 当然、さまざまに拝することができるわけでありますが、端的に、わかりやすくいえば「生死を恐れ」とは、生命とは何か、この生命が永遠のものであるということを知らない場合には、生死を恐れることになる。また「涅槃を欣い」とは、一生成仏、すなわち人間として本源的な幸せの境涯をつかみたい、ということです。「信心を運び」とは、信心の向上を意味します。もとより、自行化他でありますゆえに、自分だけの信心というものはない。利他の信心――広宣流布というより、より永遠的な幸福と平和へ直結した信心の行動です。「渇仰を至さば」――求道心です。そして、これらの条件が整っているならば「遷滅無常は昨日の夢」になってしまうというのであります。
 つまり、目前の小さなことのみにとらわれてあくせくし、目的意識もあいまいなままに、世をはかなんだ哀れな生き方、なにをしても思うようにいかない、不幸な無常流転の人生は、過去の夢のようなものになってしまう。ひとえに南無妙法蓮華経と唱え、たくましくして純真な、時代に適った信心を貫いていくならば、いかなる罪も滅せられる。そして、いかなる福運をも呼び寄せることができるという御金言であります。
 ともかく、三大秘法の御本尊のあるところ、この「遷滅無常」――不幸の流転、はかないこの人生というものは、昨日の夢となって消えていくのであります。そして「来らぬ福や有るべき」――幸せなうつつの実態の行動の軌跡ができあがっていく。私どもの前途は、必ずや栄光と福運に満ち、栄えある決着の人生があることは間違いない、ということであります。
 いつも「人間革命」ということがいわれておりますけれども、皆さんがた一人ひとりが、その「人間革命の当体」であります。このことは、だれびとたりとも例外はなく、まったくの平等であります。“自分自身の歴史とは創るものである”との言葉を座右の銘ともして、どうか、皆さん方は、忍耐と勇気と明朗さをもって、雄々しく自分自身の人間革命の歴史をつくっていっていただきたい。ともに、この埼玉の新広布の開拓に、喜々としてがんばりぬいていただきたいことも、あわせて最初にお願い申し上げます。(大拍手)
2  埼玉の役割
 ここ埼玉は、現在ももちろんでありますが、歴史的にみても、一貫して東京の“奥座敷”としての機能を発揮してきた土地柄であります。千葉、神奈川などと同じく、もしも、首都圏のこの周辺部というものがなかったならば、東京の機能はマヒしてしまい、もはや東京が東京ではなくなってしまう。この点からしましても、東京の人は埼玉の存在に対して、心から感謝の念をもつべきであると、私は考えております。
 学会においても、事情はまったく似たようなものであります。なんといっても、東京と埼玉は、相寄り、相助けあって、発展していくべき、切れない関係のもとにある。なにかにつけて、華やかなスポットライトを浴びて、注目をひきつけるのは東京でありますが、そういう現実が成立するのは、いつも感謝しておりますし、これからも大きい期待をかけていきたい。皆さん方にあっても、広宣流布という尊い大事業に対して心からの誇りをもち、いよいよこの郷里・埼玉の建設のために、見事なる第二章の出発をしていただきたい。そして、全国に広がっていく広宣流布の模範地域・埼玉となっていただきたいことを、心からお願いするしだいでございます。(大拍手)
 私はきょう、埼玉へおじゃまするにつきまして、あらためて埼玉の地理と歴史を、ざっと復習してみましたが、これまで概括的に知っていた点につきましても、また新しい感慨をおぼえたもので、少少話をさせていただきます。
 初代会長の牧口先生は、ごぞんじのように、若いころ「人生地理学」に情熱をそそがれて、それがやがて「価値論」へと発展し、そしてまた、仏法へと入っていかれるわけでありますが、その地理学のうえからしても、埼玉はやはり、埼玉らしい特徴を備えていると感ぜざるをえない。地形のうえからいっても、わが国では、関東平野ぐらい広い土地はありません。その広々とした平野を流れている川の数と大きさも、この日本列島のなかでは他に例をみないほど群を抜いている。
 土地の広さと、利用できる川の数は、物理的に、産業や文化の発展の程度を基礎づけるものと考えられる。時代のいかんを問わず、それは人口の集中を運命づけているといってよい。
 歴史的にも、事実、わずか百年前までは、日本の文化の中心は、関東でなくして、むしろ、ある一面では、関西のほうがリーダーシップを保持しておりました。だが、いまでは、決定的に関東に移っております。
 要するに、国家活動、社会活動のうえから、中心的エネルギーは、関東の地に確立されているのが現状であり、また、これからのあり方も、ますますそうなっていくであろうと考えられる。
 したがって、広宣流布のうえにおいても、なにはともあれ、その中心的エネルギーは、東京を核にした関東の地に、確立されていなければならないと思うのであります。広宣流布に対する埼玉県の役割は、この自覚のうえに立って、築いていかなければならない。私は“埼玉こそ第二の東京なり”と命名して、進んでいっていただきたいのであります。(大拍手)
3  埼玉の歴史的伝統
 歴史を振り返ってみましても、東国がこの日本の発達に対して果たした役割は、ふつう考える以上に大きなものがあった。万葉の時代、つまり大和朝廷成立の直後から、すでに東国は、大きな役割を担って登場している。日本武尊の物語に象徴されるように、東国は、じつに重要な立場を当時から占めていたのであります。
 「万葉集」をみましても、東歌というのはありますが、西の歌とか南の歌というものはありません。防人が出たのは東国であって、他の地ではありませんでした。ということは、東国の経済力その他が、日本の発展史に、それほど大きい地位を占めていたという実証だと思われるのであります。こうしてみると、関東はやはり昔から、宿命的に日本の中心地域的な存在であったということが感じられるのであります。
 更に、その中核はどこであったかをたずねてみれば、武蔵と相模の二地域が浮かんでくる。埼玉は多摩の先ということで、“先多摩”から地名が生まれたように、武蔵の北部を占めた、関東の中心の一部であったわけであります。
 ご承知のように、この方面は鎌倉時代以前から、東国武士団の発生地として有名であり、そのため、半面では戦乱に明け暮れて江戸時代まできたというのも、やむをえないところであったとも思います。
 こういう経過をふみ、更に江戸時代には、幕府が意識的に分割政策をとったために、埼玉には強力な政治勢力はできず、ついに明治を迎えてしまったわけであります。そのかわりに、文化的意識と国土づくり――つまり平和的な方面に対しては、一般に知られている以上に根強い建設精神が生まれたということを、見逃してはならない。埼玉に居住する皆さん方は、こうした事情を、賢明に見通していくことが大切ではなかろうかと考えるものであります。
 最近、政府の提唱によって国土再開発ということが取り上げられております。政府のやることはあてにならないが(笑い)“言うは易く行うは難し”と申しますとおり、理想はどうあれ、現実はめんどうなものであります。埼玉の過去においても、まったく同様のことがみられる。それは、水害の国土からの脱皮ということでありました。なにしろ、大小のいろいろな川が、県内を通過している。昔ですと、濃尾平野を流れる木曾川、長良川以上に、水を治めることが難事業であったのは、当然の話でありましょう。その最たるものは利根川でありました。幕府もそれに注目せざるをえなかった。
 現実に、利根川が荒れだすと、他の多くの川もいっしょに荒れだしてしまう。そして、江戸周辺に大災害をもたらし、幕府の威信にかかわってしまうのでありました。
 このところは、じつはいろいろな教訓をはらんでいる。有形、無形の違いはあるといっても、原理は同じであります。もしも、信心のうえにおいて、埼玉の地が広宣流布に失敗をきたしたならば、おそらく東京あたりまで影響して、鼎の軽重を問われるというようになってしまうでありましょう。心していかなければならない重要な点であります。
 さて、そこで幕府は、利根川改修にのりだした。その方策は、それまで東京湾にそそいでいた利根川を、思いきって川筋を付け替えて、なんと二十数年かけて、現在のように太平洋のほうに流れるように大変革をしたのであります。
 本源的には、これで治水の基ができたわけであります。ただし、その後も幾多の水害が発生して、決定的に治水事業が完結したのは、じつに昭和の第二次大戦が終わってからのことであります。
 口でいうのは簡単でありますが、川筋がえの二十余年を含めて、この江戸時代前半の事業だけでも、じつに百年の歳月が費やされていたということであります。どうか、皆さん方も、このへんを考えていただきたい。
 わが創価学会の歴史は、いまだ五十年にも達しておりません。昔の利根川治水は、百年を費やしている。川一本治めるのに、昔の人々は、だいたい父子三代かけて、その災害除去に取り組んだわけであります。昔と今は違うといえば、いえるかもしれませんけれども、この事実は、決しておろそかにできるものではありません。
 そして、ついには父子三代をかけて立派にやり遂げている。金は幕府が出し、技術も幕府が提供したとはいえ、実際の労作業を担ったのは、主として埼玉の農民でありました。父子三代にわたって、この難事業に取り組んだのは、名もない農民であって、成功させた功績は、すべてこの人たちにあるといっても過言ではないのであります。
 しかも、親から子へ、同じ仕事を受け継いで、がんばりぬいて完成し、今日を救ってくれたという、この尊い事実――いまは、個人主義、自由主義の時代でありますから、こういう事例は、ピンとこない人がいるかもしれませんが、個人といっても、あくまで歴史的な伝統を背負っているという側面、また、歴史と現実と未来とを考えあわせていくならば、このような利根川治水の苦闘は、なにかしら私ども庶民の心情に訴えてくるものがあるのではないでしょうか。
 川一本を治めるのに、父子三代を費やした。いわんや、人類の思想を整理して、よりよき人間思想、人間哲学、人間生活の大河の流れをつくろうとするには、どれほどの活動と時間とが必要であるか――。おそらくは、私どもの心情をはるかに超えたエネルギーの集積が必要であると申さざるをえないのであります。
 日本人は、とかく島国根性で、気が短いといわれますが、私は、このさい、それを突き破って、空間的にも、時間的にも雄大なる視点と構想にもとづいた、創価学会の展望するところのものを、この地上に構築していかなければならないと考える。埼玉の皆さん方にも、その協力を、また模範の地域となるための努力を、心からお願いするものでありますが、いかがでしょうか。(大拍手)

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