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第15回学生部総会 第三の偉大なる蘇生の道を

1974.3.3 「池田大作講演集」第6巻

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1  きょうは、青春の宗教とともに生きゆくわが学生部の第15回総会、まことにおめでとうございました。(大拍手)
 また、ご多忙のなか、わざわざご臨席いただきました多数のご来賓の皆さまに、愛する学生部諸君にかわりまして、厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。
2  ファシズムの危機を阻止
 さて、最近、いろいろな機会に、私は、現代の日本ならびに世界が深刻な危機をはらんいることを指摘しました。長期的には公害や資源問題、人口問題、更に人間の精神的空白化等といった人類の運命にかかわる危機が潜在している。これらと関連したかたちで、短期的には、石油ショックによる経済的危機があり、それより少し長い、いわば中期的な展望の危機として、ファシズムへの傾斜という問題があるわけであります。このファシズムの危険性という点については、昨年末の大阪・中之島の中央公会堂での第三十六回本部総会でも訴え、その危機を防ぐ一つの具体的運動として、平和憲法を擁護する戦いが進められている。
 そこで本日は、このファシズム復活の危険性に対処する私どもの基本姿勢、根本的考え方を仏法者としての原点に立って、所感を申し述べておきたいのであります。
 ファシズムとはなんであるかという問題については、さまざまな側面があり、その定義づけについて、多くの議論があるでありましょう。
 そのなかには、特にドイツのナチズムに典型的にみられたように、人種主義があり、一人の政治権力者、一つの党による完全独裁政治があり、思想、言論、集会等の自由に対する抑圧があり、進歩への否定があり、更に武力による対外侵略という問題がある。これらは、いずれも無視できない問題でありますが、それらの根底にあって、こうした種々の特徴的機能を生みだしてきたファシズムの因子はいったい何か。
 それを私は、集団力の崇拝でしり、集団のなかへの個人の埋没、個の圧力的消滅である、と規定できるのではないかと考える。
 そうした集団のなかへの個人の埋没と消滅という点については、エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」という著書のなかで、精神分析の手法を適用することによって、徹底的に解明しているとおりであります。それは、ナチズムの全盛時代に書かれたものでありますが、ドイツの民衆がなぜ一人の政治権力者ヒトラーの独裁体制下に喜んで自ら入っていったか――すなわち、ワイマール憲法という理想的な民主憲法をもちながら、それが、なぜ一転してファシズムに走ったかのかを、明快に示してくれている。
 フロムによると、それはルターやカルヴァンによる・プロテスタンティズム以来、用意されてきた精神的空白と無力感、権威への服従主義から出ている一種の病理現象である。これが一方では、ナチズム、ファシズムとなり、一方においては資本主義社会となった、というのであります。
 しかしながら、集団に帰属することによって、精神的な安定感や充足感を得るということは、人間すべてにある心理といってよい。完全な孤独状態では生存しえないのが、あらゆる生物の必然的原理である。なかんずく、高度に発展した精神機能をもつ人間の宿命ともいえるかもしれない。
3  ここで大事な点は、個人の尊厳が否定されてしまって、全体のなかに部品として組みこまれるか、それとも個人の尊厳観が根本にあって、その個人を守り支えるために全体があるか、ということであります。
 人類文化の歴史をみるとき、いわゆる古代においては「個の自立」ということは、ほとんど意識されなかったといってよい。個人は集団のなかに一体化してしかありえず、そこから離れて生きる術はなかった。それは、物質的かつ技術的にやむをえないことであったし、意識的にも集団のなかに埋没し、ある特定の権威をもつ個人――すなわち帝王に服従することを、なんら異としない精神構造に形成されていた。それが古代における英雄神の神話が果たした役割であったのであります。
 それに対して、仏教をはじめ、キリスト教、イスラム教などの高等宗教が果たした役割は、なによりも個人の尊厳を浮かび上がらせたことにあった。それは「永遠不変の法」や「永遠なる神」なりを打ち立てて、それと個人とを直結させることにより、有為転変の現実に左右されない永久的な救いの道を説いたのであります。このことが、必然的に個人個人の尊厳性を裏づける結果となったといってよい。
 なかんずく、仏法においては、小乗、権大乗を経て、法華経にいたって「仏の生命」即「永遠不変の法」が、すべての生命の内奥に実在することが明かされ、個人の尊厳観に不動の基盤が確立されたのであります。この点は「神は人々の心のなかにある」と説きながらも、超越的な唯一絶対神という考え方を強調することをやめなかったキリスト教や、更にそれを徹底したイスラム教では、あいまいさを残していたところであります。
 それはともかく、こうした高等宗教がめざし、あるいは結果としてもたらした「個人の尊厳」という思想は、ファシズムにとっては、重大な障壁となる。ファシズムにとって、都合のよい宗教とは、集団力を神格化した古代宗教であり、その神的力が、ある特定の個人の内に体現されるとする“英雄崇拝”“カリスマ信仰”なのであります。
 ゆえに、ナチズムがドイツ国民の意識を深層部から動かし、支配するために利用したのは、キリスト教以前のゲルマン古代宗教への郷愁だったのであります。特に、リヒァルト・ワグナーの「ニーベルンゲンの指輪」は、ゲルマン古代の民族的英雄ジークフリートの悲劇の運命を歌ったもので、その壮麗な調べは、第一次大戦の敗戦国ドイツのイメージと重なって、深く民族の血をわきたたせたといわれる。
 日本においては、同じく高等宗教である仏教を飛び越えて、古代の神道が国家神道として復活し、この神格の体現者である天皇のもとに、日本民族という集団力のなかに、個人の埋没と犠牲がうながされたのであります。
 同様にして、イタリア・ファシズムの場合は、キリスト教以前のローマ帝国の民族的栄光と、ローマの神々への憧憬が、人々の心を集団力への服従に導く手段として用いられたことが、看取されるのであります。
 こうした歴史的事実の教訓は、一面の裏づけにすぎない。ファシズムの因子が何であるか。それに対して高等宗教、そのなかでももっとも完成され、最高峰をいく仏法の教えの根本義が何であるか。それらを、正しく、鋭く見きわめるならば、ファシズムの危機に対して、もっとも強力な抵抗をなす力をもち、また抵抗すべき責任を担っている者こそ、最高の仏法の極理を受持し、実践している諸君たちであることは、もはや明白であると、私は信じますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 いな、諸君たちは、たんにファシズムの危険を防ぎ、人間の尊厳を守るという消極的役目のみに終わるのであってはならない。かつてファシズムに走ったドイツ、日本、イタリア等の民衆の、そうした心理的メカニズムを生み出したものは、結局は自らの無力感であり、精神的空虚さであったのであります。
 したがって、一人ひとりの心のなかに、ふつふつと内より湧きいずる充実感と生命力と英知を、みなぎらせていく仏法流布の労作業こそ、ファシズムの毒草を根から断ち切り、もはや再び芽を出すことのできないようにする積極的な戦いであることを、ここで諸君とともに確認しあっておきたいのであります。

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