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日蓮大聖人・池田大作

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第5回壮年部総会 文化的なる精神の再建を

1974.1.15 「池田大作講演集」第6巻

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1  きょうは、もっとも頼りにしております。わが創価学会の“重鎮”である壮年部の方々の総会、まことにおめでとうございます。(大拍手)
 また、きょうは、ごぞんじのように「成人の日」でもあります。いままで皆さん方が慈しみ育ててこられた後輩、子弟のなかにも二十歳に達し、大人の中間に入った方々が、相当数おられることと思います。私もただいま、妙法の成人の代表と一緒に、記念の植樹をしてまいりました。そうした成人になった方々にも、ともにこの席をお借りしまして、心からお祝いを申し上げるしだいでございます。信心においても、社会生活においても、すくすくと見事なる大樹に育ちゆくよう、大御本尊にご祈念申し上げておきました。
2  「おめでとう」の意味
 最初から、よけいな話を申し上げてはどうかと思いましたが、事のついでに正月や成人式等において、祝いの言葉に使う「おめでとう」ということの意味について、少し話をさせていただきたい。
 「正月が来たら……」「成人に達したら……」といって、その結果を祝ってきたのが「おめでとう」という言葉であります。しかし、それは、むしろ「予祝」といって、元旦や成人到達を出発点――すなわち原因として、その先行き、将来がめでたく展開していくようにと願いをこめて、前途を予め祝っておくというのが、本旨のようなのであります。これは、仏法でいう「本因」の姿勢にも通ずるところです。
 昔は「国見」といって、領主や氏族の長が、春のはじめに、自分の領地内を視察して眺めながら、その領地をほめる歌を作る習慣が多かった。「記紀歌謡」や「万葉集」の一部に出てくる「国見歌」がそれであります。そうしておけば、その年は作物もよく実り、国土内にはよいことがある――という思想からの行事であった。それが「予祝」であります。「おめでとう」ということであります。
 いま私は、それをいちだんと深めて、一念三千の定理にのっとって、壮年部の今年一年の健全なる発展、ならびに創価学会の後継者たるべき妙法師子の子で精神に達した方々の、大人材への成長を祈って、この席から「予祝」を申し上げるしだいであります。
 同様のことが、日蓮大聖人の御書にも拝することができる。
 弘安三年正月十一日の上野殿御返事でありますが、そのなかで「SA247E……SB095E」と仰せであります。
 これは、つねに変わらぬ上野殿の信仰の姿勢をほめ、この善根による果報の大なるを教えておられるところでありますが、そうしたなかにも、あたたかい将来への“祝い”の御心がこもっているように拝することができるのであります。
 この御書のなかで、もっとも大事なことは「人は善根をなせば必ずさかう」との仰せであります。ところが、私どもが真実の善根をなさんとすれば、必ず三障四魔が出てくる。「SA248E」ともあります。
 学会が「社会の年」として、大きな「人間広場運動」を通じ、社会への貢献をなさんとしている。これが善根であればあるほど、障魔も考えられる。御金言に照らして当然である。しかし、それに負けずに障魔を打破しきってこそ、善根というものは成就するというこの一点を、つねに忘れないでいただきたいのであります。風雪のために根っこが切れてしまったならば、決して大樹にはなれません。緑に粉動されてしまったならば、成仏という根本の根を張りめぐらすことはもはやできない。この道理をわきまえていただきたい。
 そのために、こうした三障四魔に対するあらかじめの用心や勇気ある戦い、誤りなき処置、そして毅然たる態度で臨む壮年部の幹部の皆さん方であっていただきたいというのが、私の心からのお願いであります。しかも、おのおののもっとも身近な地域において、この任務を担って、大切な婦人、若い青年男女の各部を守りきり、学会を微動だにもさせない――という自覚と責任を、つねにもっていただきたいのであります。その行動、責任があって、はじめて「必ずさかう」という法理となるのであります。
 では、何が栄えるのか――それはいうまでもなく、皆さん方の一族が栄、あわせて学会も総本山も社会も、そして帰趨するところは、敢然と大善根をなした皆さん方一人りひとりが、もっとも栄えるわけであります。どうか、この一年も仲良く、私とともどもに、法のため、社会のために、悔いなく全力をあげていってください。(大拍手)
3  勇猛精神の実践
 なお、ここで「全力をあげて戦う」と申しましたが、ひとこと注意を述べますと、これは休みなしにがむしゃらに突進することでは、決してありません。年中張りつめていたら、弓の弦でも切れてしまいます。少しも弛まず、張りつめて前進を止めないのは、信心という奥底の一念、そのものだけであって、外見上の行動ではありません。時によっては「前三後一」というふうに、一歩引くときさえあります。私どもが「全力をあげて戦う」ということは、「勇猛精進」するということであります。
 それについては、日寛上人のご教示を拝してみたい。
 依義判文抄に「問う、勇猛精進を題目と為すこと如何。答う、本門の題目に即ち二意を具す。所謂、信心唱題なり……中に於いて勇猛は是れ信心なり。故に釈に云く『敢んで為すを勇と言い智をつくすを猛と言う』云云。故に勇敢にして信力を励み竭すを勇猛と名づくるなり。精進は即ち是れ唱題の行なり。故に釈に云く『無雑の故に精、無間の故に進』と云々」(六巻抄124㌻)と。
 この御文の大旨を要約してみますと、純粋にこの大御本尊を獲持して余法に迷うことなく、縁に粉動されることなく、しかも水の流れるごとく弛まず、かつ積極的に唱題に励むのが、「勇猛精進」であるとの仰せであります。
 この点を根幹として、日常の応用、すなわち行動面への展開をはかった場合は「敢で為すを勇と言い智を竭すを猛と言う」との態度での実践が肝要となってくるのであります。あくまでも信心が本源である。唱題が根本である。それから日常の応用、行動面の展開、そこから学会活動というものが始まらなければならない。この態度が必要なのです。
 すなわち、広宣流布、仏法実践につながる作業にあっては、なにごとであれ、えり好みなどすることなく、つねに心の底から積極的に取り組んでいく姿勢と行動を、忘れてはならないという結論になるのであります。しかも、人の言葉のままに盲目的に突進するのではなくて、自分自身の責任感のうえから知恵を尽くして体当たりしていく。だれのためとか、彼のためとかではなくして、純粋に法のためであり、社会のため、自分自身のためという見地から、そのように行動していただきたい。それが「勇猛精進」すなわち「全力をあげて戦う」ということであると、私は思います。
 正本堂が出現してはや一年有余を経ました。いよいよわが壮年部も、本格的な力が出てきたと思いますが、この重要な一年の戦いは、壮年部長、また副会長を軸として、思うぞんぶんに展開されんことを待ち、祈っております。
 今年は、私は海外のことに力を入れさせていただきたいと思いますので、国内のことは、どうか皆さん方がしっかり団結に団結を重ねて、旧年に劣らぬ、朗らかにして、かちある諸活動を進めていただきたいと、お願い申し上げるものであります。
 どの部であれ、総会といえば、なにか大きな会場で華やかにやるものだというように考えがちでありますが、必ずしもそういうものではないと、私は思う。少数の精鋭が呼吸を合わせて集うというのも、また大きな起爆力となるものであります。きょうは、全国の代表わずか千人余りの総会でありますが、核融合のごとくに意欲の融合を成就させ、かつてなかった大きい起爆力を発揮していただければ満足であります。

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