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日蓮大聖人・池田大作

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第4回婦人部総会 幸せ光る仏法体現の主婦に

1974.1.13 「池田大作講演集」第6巻

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1  婦人部の皆さん、本日は北海道からも、沖縄からも、また東北、四国、九州等の遠隔地からも、たくさんの晴れやかな姿を見せながら、立派な総会を開催されまして、ほんとうにおめでとうございます。(大拍手)
 世間の荒波がいかに高かろうとも、いや高ければ高いほど、私たちはしっかりと助け合い、励ましあいつつ、永年鍛えぬいてきた生命力や英知を、いまこそ発揮して、本年もまた家族のために、社会のために、そしてまた自分自身のために、大御本尊とともに仏法を体現していく勇者として、明るくがんばっていっていただきたいことを、まずお願い申し上げます。(大拍手)
2  災いと幸いの原因
 「十字御書」に次のような有名な仰せがございます。
 「SA243E」というご聖訓であります。
 いま申し上げました御書は、正確な年次はわかりませんが、身延においでの日蓮大聖人が、正月の五日に重須殿の女房という婦人に賜ったお手紙であります。蒙古が攻めてくるという時代背景をふまえて述べられたものであります。
 この仰せのなかには「災い」といい「幸い」といい、すべては法華経への「信」「不信」を軸として回転してくる現象であると、確固たる見通しと、揺るぎなき大確信とをお述べになっておられるのであります。時代の様相は、ただいまもまったく似ております。ご在世当時の最大の災いは軍事であったが、いまのは直接には国家経済、そしてそのバックは世界政治であります。
 昭和元禄と称して太平楽を決めこんでいたわが国は、日本列島に円の切り上げ騒ぎが持ち上がったのが昭和四十六年の秋でしたが、それでも元禄気分をふりきることができなかった。そして約二か年、今度は石油騒ぎが突発した。その結果、わずか三か月で現在のありさまであります。一億総動揺といってよい。戦後二、三年ごろのあの最悪のインフレよりも、なお上昇率が高いとまでいわれる状態になってしまいました。
 一月八日ごろの新聞を見ますと、ドルが暴騰して円が暴落だという。わずか一年前に対ドル二百数十円であったのが、今度は三百円の線で日銀が必死に防戦にまわっているという。
 新聞には「円の暴落は工業原材料の輸入価格のはねあがることを意味するから、大きなインフレ要因がもう一つ加わったことになる。大変だ」と書いている。
 とにかく、こうして騒ぎに騒ぎが重なって、先行きが見えないのが実情であります。だれもわからない。常識的にいうならば、この災いは世界政治の関係上、千里の外の諸外国から押しつけられたということになりましょう。
 だが「十字御書」では「わざわいを千里の外よりまねきよせぬ」と、はっきりと「まねきよせぬ」と断定しておられるのであります。ここに、単なる社会現象と、仏法によって社会現象の奥を見通していく認識との違いがある。どうやらわが国は、ここ二十数年のあいだ、国家エゴで世界に立ち向かいすぎて、手痛い反動をこうむりつつあるようであります。
 ある書物にこう書いてある。
 「利己行動は、一時的に得をするが、だんだんと自分の住む世界を狭くしてしまう。結局は幸福を減らす」というのであります。
 これは個人についていったものですが、同じことが国家その他の組織体についてもあてはまるようであります。
3  庶民は支配者の行動に敏感
 しかし、私は、そればかりがすべてではないと思うのであります。歴史的事実からみて、いったいに、いつの世、いずこの国でも、庶民というものは支配者の行動の善し悪しには敏感なものであります。それは、家庭の主婦である皆さんが、ご主人の行動に対して敏感なのとまったく同様であります。婦人には鋭い直感でわかってしまう性質というものがある。(笑い)
 したがって、庶民大衆は支配階層の利己的ないき方には、いろいろなかたちで抵抗運動を起こします。実際、わが国でもそうでありました。その運動のやりかたの善し悪しは別といたしまして、戦後の「火炎ビン時代」から今日まで、そうした運動はいろいろなかたちでとぎれずに続いてきているわけであります。だが、よく考えてみると、高度成長に勢いがついてくるにつれて、国民大衆のほうにも、だんだんとこの国家エゴに対する正義感覚というものが、マヒしてきた点もなきにしもあらずではないかと思うのであります。
 「立正安国論」には「SA244E」とありますが、慣らされてしまうと感覚がマヒしてしまうのは自然現象でやむをえないといえば、やむをえない。だが、やむをえないということは、それでよいということには決してなりません。とにかく、強力な支配階層の馬力に押しまくられて、国家エゴが社会全体にまかりとおってできた結果が「昭和元禄」といわれた風潮であったと思います。
 ところが、これは一度だけはわが社会にまかりとおりましたが、ごらんのとおり、世界に対しては通用いたしませんでした。あるいは円の切り上げをせまられ、あるいは石油その他の資源の輸入に制限を課せられ、更にはバンコクでも、またジャカルタでもみられた、あの数千の学生の反対運動等のように、経済侵略という“のろし”をあげられ、もしも、これでもまだ迷いが醒めなければ、なにをかいわんやであります。
 最近の新聞、雑誌をみると、言葉のうえでは同じように反省を求める声が日増しに高まっていて、ある人は「節約精神」の再考を説き、ある人は「政策路線の変更」を要求し、そしてまた、ある人は「国民的協力」を要請しております。
 これらをよくみると、結局、ぜんぶ社会の上部に位置している人たちによって、叫ばれているということであります。してみると、いままでわが社会を引っ張ってきた人たちが、かけ声のかけかたを変更しただけにすぎないということになる。
 この点、私はなんともわりきれないし、またそうした気持ちをぬぐいきれないのであります。今日までの、そのよってきたるところの根源を洗い直してみるならば、さきほど申し上げたとおり、国策や経済方針のその奥には、欲望と感情と思想の問題、つまり人間精神の問題と思想の問題が、厳然と伏在していたことは、明白であります。
 この根本を改めずに、放置したまま、いくらうわべだけを改革しようとしても、それではいつかまたかたちを変えた難局に直面し、違った苦しみに出あうのは必定であると思うのであります。ということは、二度、三度と、災いを千里の外より招きよせざるをえないということを憂うのであります。

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