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日蓮大聖人・池田大作

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第36回本部総会 時流は「生命至上主義」の信仰へ

1973.12.16 「池田大作講演集」第6巻

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1  激動社会に“一念”の変革
 皆さん、おめとうごさいます。(大拍手)本日は、思い出深き中之島の中央公会堂におきまして、総本山より日達上人猊下のご来臨を賜り、また休日にもかかわらず多数のご来賓の方々のご出席をいただき、ここに全国の代表幹部とともに、第三十六回本部総会を開催できましたことを、心から感謝申し上げます。ほんとうにありがとうございます。(大拍手)
 私は、来年度のことを志向しながら、これまでの地方総会や本部幹部会などで、あらゆる角度からの指導をさせていただきました。なお、さきほどの活動方針などにも一切含まれておりますので、きょうは来年の社会的様相をふまえての所感を、展望させていただきたいと思うのであります。
2  経済至上主義の波綻
 私どもが来年を「社会の年」と決めたとき、現下の社会情勢はまことに激動の年となりました。それは「物資至上主義」「経済至上主義」の信仰にかわって、いやでも「人間至上主義」「生命至上主義」の信仰へと進まざるをえない状況となってきたということであります。すなわち、創価学会にとっての「社会の年」は、期せずして、社会にとっての「人間原点の年」ともいうべき方向性を示しはじめたと、確認できるのであります。
 一九七四年、すなわち明年の世界情勢というものは、アラブとイスラエルの対立に端を発した石油危機と、慢性的な悪性インフレによって、きわめて厳しいものとんになることが予想されております。事としだいによっては、第二次世界大戦の遠因となった一九二九年のあの大恐慌にも比すべき世界不況が、来年あたりから、突風のように襲ってくるかもしれないというのであります。
 そうしたきわめて厳しい経済不況の波で、もっとも深刻な打撃をこうむるのが、石油をはじめ資源の大部分を、諸外国からの輸入に依存している日本であることも、識者のほぼ一致した見解であります。
 このまま石油危機が進行していけば、来年春ごろには、日本経済は大混乱に陥る。ここ数年、年率一〇パーセント前後の高度成長をつづけてきた日本経済も、来年はゼロ成長か、悪くすれば、マイナス成長にまで落ち込んでしまうのではないか、といった見方まででている。
 つまり、日本は、戦後最大の不況を覚悟しなければならない、というのであります。そうなれば、まさに乱世であり、ひたすら前進することによって成り立ってきた、いわゆる“自転車操業”といわれる日本経済にとっては、一種の国難であります。しかも、そのしわよせを受けるのは庶民であり、中小企業である。
 すでにその兆候は随所に現れている。悪徳商社による買い占め、異常な物価上昇、戦時中を思わせるような買いだめの動き、中小企業の倒産、悲惨な一家心中といった最近の世相をみると、あの戦時中から終戦直後にかけての混乱期を、思い出させるものがあるといってよい。なにか、殺伐としたトゲトゲしい空気が、この日本列島をつつみ始めたような感じさえするのであります。
 古来、歴史は繰り返すといわれますが、私どもが恐れなければならないのは、このような世界的不況のときには、必ずどこかに熱い戦争の火の手があがるということであります。中東の火種は消えたわけではないし、中ソの国境紛争も解決したわけではない。ラテン・アメリカや日本を取り巻くアジアの各国でも、緊張が緩和したわけでは決してありません。きたるべき一九七四年の世界は、なかんずく日本は、政治も経済も、まことに前途多難なものがあります。
 心ある人々は、日本の進路は間違っていた。もう打つ手がない。どうしようもない。日本だけの安定と利益をむさぼっていたやり方に対し、手痛いシッペ返しを受けている。もはや八方ふさがりであり、その深刻な波を防ぐ防波堤はなにもない――とみているようであります。
 もう一つは、日本の指導者は、経済的繁栄ということにのみ心を向け、他の一切のことについて、あまりにも無関心であった、ということであります。私の尊敬している、ある世界的な知識人は「日本はまだ精神の鎖国状態である」と嘆いておりましたが、私も、まさしくそのとおりであると思う。日本がこれからの国際社会のなかで、どのように生きていくかを考えるにあたっては、この“精神的鎖国状態”を打ち破らなければなりません。
 だからといって、経済問題を無視せよというのではない。“人間とは何か”“人間いかに生きるべきか”“世界の人々に対して日本はなにをなしうるか”といった基本的問題から問い直し、そこから正しく位置づけていくことが大切であると思うのであります。これこそ、回り道のようであっても、日本人にとって、もっともさし迫った課題であると、私は訴えておきたいのであります。
3  発想の転換
 よく発想の転換ということがいわれる。人類の進歩は、たえず発想の転換、もしくは、新しい着眼点を発見しつつ、それを起点としてなされてきたといってよいと思う。
 科学の世界においても、近世において天動説から地動説へと変転したのも、また二十世紀においてアインシュタインの相対性理論が生まれたのも、そこには大きな発想の転換がありました。
 人間というものは、とかく、既存の枠のなかに生きようとする習性のようなものがあります。そして、その習性は頑として心の奥に根をおろしていて、いったんそこから脱皮しようとすると、ものすごい勢いで引き止めようとする。これは個人においても、また社会のメカニズムにおいても、同じようなことがいえそうであります。
 日本という社会は、とかくこれまで、日本から世界をみてまいりました。個人においても自分を中心に据えて他人をみようとするものですが、他人の目をもって自分をみるということも、大切なことであります。これは、地球を中心として考えた天動説から、太陽という他の天体を中心として地球を見直した発想の転換に通ずるものがあります。日本を中心にして世界をみるのではなく、世界の客観的な目で日本をみつめ治すという発想の転換が、いまほど必要なときはないと、私は考える。
 発想の転換とは、的確にいうならば「人間の一念の転換」であります。この生命の一念の狂いが、じつは日本をこれほどまでにだめにしてしまった。いったい、だれの一念であったのか――ある人は派閥と私利私欲の藤に明け暮れ、ある人は学問の権威の座に坐して民衆を笑し、ある人は経済的利益のみを追い求めて諸外国の顰蹙をかい、ある人は評論家と称して、もっともらしい言葉で自分を粉飾し、ある人はエリートという気位に立って弱き人々をいじめぬいてきたのであります。この一切のエゴの激突のルツボと化した日本の姿を、再び鏡に照らして見直すべきではないかと思うのであります。
 “昭和元禄”と呑気に構えていた脆弱な一念が、昨今にいたって、脆弱な精神構造として、白日のもとにさらけだされてしまたといってよい。
 ともあれ、あらゆる指導者たちが、正しい一念に転換することが、いまほど緊急な時代はありません。しかし、それは単なる反省とか意識変革などで変わりうるものではない。思想を支配するものが生命の働きである以上、もっと根源的ななにものかを必要とするのであります。それを、私どもは知っている。現代の人間のもっとも正鵠な一念は、仏法の神髄による生命哲学に帰着しなければならないと思うのであります。

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