Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第1回創価大学夏季大学講座 文学と仏教

1973.8.25 「池田大作講演集」第5巻

前後
1  一、日本文学の思想的土壌
 皆さんこんにちは。この創価大学の第一回夏季大学講座に、私も招待をうけまして、なにか話をするようにとのことでありました。どうしても、ということでありましたので、少々話をさせていただきたいと思います。(大拍手)
 この創価大学の夏季大学講座は“市民に開かれた大学”の意義をこめ、来年も再来年も、より盛大に、より充実させ、深い伝統をつくっていかれるようでありますし、できましたらより多くの人に、ぜひとも参加していただきたいことを、私からもお願い申し上げるしだいでございます。(大拍手)
 今日は「文学と仏教」という表題のもとに、限られた時間ではありますが、平素の所見といったものを少々、話させていただきます。
2  日本文学思想史の流れ
 仏教は、広くインド、中国、日本と長い歴史を経てまいりましたが、今回は、局面を日本のみに限定して、話をさせていただきます。
 わが国の文学思想をたどってみると、おおまかに、次のように区分することができると思います。
 第一は上代。この時代は思想的には、純粋に土着思想の時代であり、外来思想との接触は皆無の時代であり、アニミズムとシャーマニズムの時代でありました。このアニミズムというのは、神と宇宙を同一化した宗教のことをいう。すなわち“神のうちに宇宙を、宇宙のうちに神を見る”という思想であります。これは、イギリスの有名な人類学者であるE・B・タイラーが唱えた、一つの言葉であります。
 いわゆる汎神教とシャーマニズムは、原始的宗教に属すといわれます。これらは、神と人間と自然、万物という三つのあいだに、徹底した区別を設けない考え方である。
 時代的には、紀元前約六百年ごろから大和時代の統一国家の成立を経て、西暦七百年ごろの奈良朝時代までの時代であった。文学のうえからみるならば、口誦文学の全盛期であり、また文字による記載文学の発生期でもあった。
 この時代にあっては、文学的要素もすべて農業共同体としての地域や、氏族の全般や、国という全体的共同生活のなかにのみ溶け込んでおり、個人的な意識の発露は、わずかに歌のなかに見いだされるにすぎなかったのであります。すなわち、祝詞、宣命、更には「古事記」「日本初期」「風土記」と、そのいずれをとってみても、共同体や国の維持、経営に関係していて、まだ純粋な芸術としての文学という段階まではきていないように思うのであります。「古事記」は、神代から推古天皇までの記事をおさめた歴史、神話の書物である。「風土記」は、和銅六年に、日本の諸国の地名の由来とか地勢、産業等々を記して朝廷に差し出された、いまでいえば地理書のようなものであります。
 しかし、やがて次の時代に発生する文学は、この上代での生活文化の風潮のなかから、しだいに特色づけられて、生まれていったといってよい。
 したがって、日本文学の基本的な特色を知ろうとするならば、この上代の文学的傾向を無視することはできないと考えるのであります。大和に成立した統一国家は、はるか海を隔てた中国および朝鮮との接触によって、社会も文化も急速に変貌してまいります。
 まず、漢字という記載手段が入ってきた。更に、神づくりの技法が伝わり、それと前後して、仏教という外来思想が入ってまいりました。これは、当時の日本社会としては“文化大革命”ともいうべき大事件であります。万葉仮名による「記紀」の編さん。「万葉集」の編さん等、口誦文学を記載文学として、定着させることができたのは、この漢字のおかげであり、やがて、その漢字をもとにして、仮名文字をつくり出したことが、わが国に文学を興らしめる契機となったわけであります。
 この仮名文字の創案された平安時代は、また国策として政治的にきわめて意欲的に、仏教の布教がはかられた時代でもあります。したがって、この時代は上代の、神と人間と自然、万物が判然と区別されない素朴な汎神論思想とはまったく異なって、統一的世界観と体系的人生観とをそなえた仏教が、平安貴族の教養として、生活的にも、思想的にも、指導原理として浸透しはじめたのであります。
 更に、知識階級や思想の指導者として、はじめて僧侶というまったく新しい集団が生まれたのであります。この社会的現実と本格的な文学の発生とは、時と所をまったく同じにしておりますので、当時の日本文学は、そのすべての面で、深く仏教とかかわり合いをもっていたのであります。そして、この思想傾向は、その後も根深く定着して、今日にいたっていると考えられます。
 第三の時代は、中世であります。すなわち、鎌倉時代から足利、戦国の両時代を経て、織田、豊臣の時代にいたるまでが中世であります。この時代の思想的な特色は、前代の平安時代が仏教による啓蒙期であったのに比べ、いわば仏教が貴族の教養であった状況を突き破って、仏教が日本化した時代もあり、民衆化した時代でもありました。いわゆる「日本仏教」という特異な呼称を与えられて、中国からの伝来仏教と区別されるにいたるのは、じつに鎌倉時代からであります。
 この時代は、ご承知のように、政治権力が貴族社会から武家社会の手に移り、京都から鎌倉へと、政治中枢が移ったばかりでなく、文化のすべてが中国直輸入の生のかたちから、だんだん消化されて、日本に適応するように変容されていった時代でもあります。
 仏教を例にとりましても、難解な輸入型の多くの各宗派がすたれ、つまり南都六宗や比叡山が仏教の実質的中心としての力を失って、教養の高低浅深はさておくとしても、きわめて日本化された宗派が新興してきた。その“新仏教”が、武家と農民、漁民という民衆一般へ急速に伝播した時代であります。
 鎌倉時代以降は、仏教は知識と教養と儀式としてではなく、民衆の生活そのものに肉化(インカネーション)されていくところに、その特色がみられるのであります。したがって、仏教は文学においても、もっとも根強く定着し、あらゆる点で陰に陽に、思想の血肉として、にじみでるようになっていったとみるのであります。
 ところが、次の江戸時代になりますと、様相は一変いたします。そして更に、明治以降になると、更に変貌していくのであります。
 わが国に印刷術がもたらされたは、遠く奈良時代にさかのぼりますが、その後、鎌倉、室町時代においても、木版印刷は行われてまいりました。だが、なんといっても印刷が飛躍的に普及したのは、江戸時代に入ってからで、これが町人のあいだに文字の普及と文学の普及とをもたらしていったといってよい。
 徳川三百年の太平期は、こうして町人文化の興隆時代でありましたが、一面、幕府は宗門人別帳制度をつくって、仏教を民衆統制の手段にしてしまった。宗門人別帳制度が、江戸幕府の宗教統制政策の一つになったのであります。
 民衆の宗旨を、人別に全部記載するこの帳簿は、宗旨調査だけにとどまらずに、戸籍原簿ともなっている。つまり、転住することや逃亡、逃散を防止するために政策的に使われ、租税台帳の役割まで果たしていたのであります。
 この制度は、明治六年にキリシタン禁制の令が解かれて、撤廃せざるをえなくなった政治上の制度であるが、徳川時代においては、以上のように、仏教を権力で抑えてしまった。それに対して、儒教、特に朱子学を、幕府の文教の指針と決めていったのであります。
 幕府は、この朱子学を一般上下に押しつけたため、それまでの思想傾向が逆転されてしまったのであります。それにともなって、文学の面でも儒教のいわゆる仁・義・礼・智・信という、五常思想にもとづく義理とか人情が主題になり、仏教的な思想の深みが、失われてしまうようになったのであります。
 明治以降になると、西洋文明の流入とともに、文学の西洋化が起こり、そして今日、戦後の状況へとつづいてきます。ここでもまた、仏教と文学とのかかわりあいは、少なくとも表面的には、ほとんどみられなくなってしまった。ゆえに、わが国の文学と仏教という両者の直接関係は、上代の奈良朝時代に出会い、本格的に作用しあったのは、中古の平安朝時代と、その次の中世戦国末期までであったといわざるをえないのであります。
3  日本独自の文学的傾向
 しかしながら、ここで特記すべきことは、鎌倉時代に確立した日本仏教の思想的土壌は、その時代から早くも日本人の体質のなかに深くしみついていったということであります。このことは、日本独自の文学的傾向ないしは文学形式として、現代においてさえ、その気品、性格、感覚等をとおして、表れでているのであります。
 また、文学の発想の段階においても、文学思想そのものとして、その特色を発揮していると、私は感じているのであります。
 たとえば、伊藤正雄氏は「新補・日本文学史」のなかで「日本文学の究極する所は、簡素の美にあるであろう。形式において簡潔が尚ばれると共に、その精神においても簡素が愛される(中略)外が晩年の諸作、志賀直哉の文章など、近代文学においても高級の作品ほど簡浄の極致に達したと見られるものが多い」と述べています。
 こうした見方は、昔からの日本人の生活態度――すなわち、貧しくて物質的に恵まれないならば、それなりに自然と調和して生きぬいていこうという態度、また仏教の思想的深みに生きぬいて、表面の豊かさよりも、精神的内容の深さを追い求めるという思想的傾向、更に、千言万語を連ねるよりも、一言一句をかみして味わおうという感覚、情緒、そうした諸要素が一体化して、簡浄の美を追う文学的特徴と化したのではないかと、思うのであります。
 こういう特徴は、きわめて日本的なものである。墨絵においても広い白紙へポツンとスズメの子二、三羽を描いて、無限の広がりのなかにおける小さな有限者を配する。この配置の妙を現出させることにより、みる者の能力によって、いかようにも美をくみとれるふうにしつらえる技法と、同じものであるようにみえるのであります。
 要するに、日本文学の場合、読者側の美感覚や精神や教養を要求しているのであり、作者と読者の“一座同心”という調和のうえに文学美を築こうという発想が、潜んでいるように考えるのであります。むやみに西洋流の分析や多彩な表現を押し売りすることなく、読者に対して作者側は、心を深く、謙虚に、慎ましく控えて相対するという心的姿勢からの作風がうかがえる。そこには、お互いに心を清め合おうという無限の呼びかけがある。
 こうした点は、きわめて仏教徒的な意識のあり方であると、私は感ずるのであります。こういう態度は、文学作品を、作者一個人の完成作として追求するのではなく、作品を作者と読者の共同作品たらしめようという精神からくるといえるのであります。
 音楽の場合、作曲者が作曲しただけでは、それは一面では完成品であるが、半面、未完成でもある。なぜならば、作品の風格は演奏者の上手下手で左右されるし、聴衆の聴きとる態度によっても左右されるからであります。
 わが国の文学者は、昔から伝統的に、そういう意味での心情訓練を受け継いでいるように思われる。音楽の場合と同じように、作者、作品、読者、この三者が一体のところに文学作品としての完成をみようという精神――これは平安朝時代の日記もの、そてまた足利時代の随筆もの、戦記、歴史もの、更に歌道のなかにと、それぞれジャンルは違っていても、共通の精神態度として、伝統的に介在すると思うのであります。

1
1