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日蓮大聖人・池田大作

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福井県幹部会 妙法で郷土の復興を

1973.6.5 「池田大作講演集」第5巻

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1  昨年のお約束どおり、一年ぶりにおじゃまいたしました。ひじょうに明るい、そして朗らかな幹部会、ほんとうにおめでとうございます。(大拍手)
 皆さん方のお元気な姿を拝見し、なによりもうれしく感じております。ただ、こうして幹部会に出席された皆さん方は、県下の代表であって、出席できない他の多くの方々に直接お会いできないのが残念であります。お帰りになりましたら、どうかくれぐれもよろしく申し上げてください。それにしても、第一線で活躍されている方々が、福井県で六千人集まるということはちょっと想像できなかった。ありがたいことであります。
 “光陰矢のごとし”と申しますが、今年もはや前半を終える六月となりました。六月は梅雨の候といわれ、この雨の恵みをうけて、あらゆる草木がみないっせいに、ぐんぐん伸びる時期であります。
 ちょっとむずかしいかもしれませんが、この雨ということに託して、法華経の薬草喩品では「一地の所生、一雨の所潤なりと雖も、而も諸の草木、各差別有るが如し」(妙法蓮華経並開結280㌻)と説いております。
 御義口伝を拝しますと「SA218E」と。せんずるところは「一地」は「経」の一字、「雨」は「妙」の一字。九法界の一切衆生は法華経の三字の立場において、この一地、一雨の法益をうけて大成し、成仏するのであるというのが、その大意であります。
 ちょうど、この梅雨の時期にいっさいの草木がぐんぐん生育するように、皆さん方もどうか、妙法蓮華経の唱題に自ら励んでいっていただきたい。広宣流布のため、日蓮正宗のため、また創価学会のためというのは、当然のことではありますが、結局は全部、自分自身のための唱題となるのです。
 その唱えた題目の力用、働きを、ぞんぶんにまたわが身に受けて、たくましき福井の地涌の菩薩として、この人生を有意義に送り、また第二章の新時代に思うぞんぶんに活躍されますことを、まず、心からお祈り申し上げるしだいであります。(大拍手)
2  福井の国土と県民性
 この北陸地方は、東西文化圏の接点を形成しているといわれるとおり、隣の石川県は関東文化圏の西端であり、この福井県は関西文化圏の東端にあたります。端というのは、どうしても、もろもろの恩恵をうける機会が少ないもので、事実、福井県は、特に大きな地場産業もなく、現在のようなインフレ時代にはきわめて不利であるといえるかもしれない。
 しかし、経済的にそうであるからといって、それならば大都会のほうがすべてよいかといえば、必ずしもそうではありません。それとこれとは話は別であります。全体観に立ち返ってみれば、優劣はさまざまであるということも知っていただきたい。いまの大都会は、また大都会の人たちは、なにか人間本来のバイタリティー(生気)というものを失って、浮き草のような生活になってしまっている一面もある。
 それに対し、福井のように比較的自然環境に恵まれた地域に住む皆さん方は、そういう人間喪失的な悲哀とはまだまだ縁が薄いはずであります。それこそ、現代人の多くがもっとも強く望む有利な生活の条件であります。したがって、ある意味では、むしろ皆さん方のほうが大都会に住む人々よりもずっと恵まれているとさえいえる。地域的、経済的に中央から離れているからといって、決して卑下したりする必要はありません。また、都会の人をうらやむ必要もありません。
 どうか自信と勇気と希望をもって、この郷土の天地のなかで、生きいきと本有常住の人生をおおいに闊歩していってほしい。胸を張って、この郷土の世界で、きょうの仕事、あすの義務、すなわち社会活動を、また開拓を堂々としていっていただきたいと、激励申し上げるものであります。(大拍手)
 そこできょうは、皆さん方とともにもう一回、福井県という郷土について確認し、将来に備えていきたいと思います。
 ここ福井県は自然条件の厳しい土地柄であります。だが、歴史を振り返ってみると、古代においてはまことに誇りと気概に満ちた国土でありました。三世紀末から六世紀にかけての古墳時代をみても、福井県下の古墳は約三千基にのぼると推定されております。
 古墳は、当時の豪族の権力と財力の象徴であり、それはとりもなおさず、本格的な農業生産の大きさを示していた。ということは、古墳三千基は、そのまま福井地方の大繁栄ぶりを物語っていたといってよいでありましょう。当時、越の国の男大迹皇子が、わざわざ北陸の地から大和朝廷に迎えられ、第二十六代の継体天皇となったという史実に照らしてみても、この地の繁栄ぶりが端的に裏づけられているわけなのであります。
 米原から北陸本線に入ってほどない深坂トンネルのある山は、愛発山といいます。この山には当時、愛発の関といって京畿方面を守るための関所がおかれていた。それは不破の関、鈴鹿の関とともに三関と称し、東国固めの重要な地点とされておりました。
 また、いまのこの武生市に国府がおかれ、大化の改新までは、越の国一円を支配統治していたのであります。その越の国の範囲は、後の越前、越中、越後、および越の出羽といい、いまの山形、秋田地方までも含んだ広大なものであったようであります。その中心が武生であります。
 したがって、当時の福井人の誇りと気概と実力は推して知るべしであったのであります。現代では、福井県は“保守王国”といわれ、おとなしさや消極性が県民性であるかのごとくにみられがちでありますが、私には、それが本来の福井人の性格そのものであるとは思えません。むしろ古代からの誇りと気概と実力は、脈々として現代にも底流をなしていて、条件さえ整えば、立派にそれが開花すると考えている一人であります。その証拠に、福井は豪雨、豪雪、地震による大災害多発地帯であるにもかかわらず、そのたびごとに立派に立ち上がり、不撓不屈の精神を如実に発揮してきたではありませんか。
 おもだったものだけでも、まず気象災害としては、昭和四十年九月の西谷村一帯の集中豪雨であります。これは雨量一〇〇〇ミリを越え、史上二番目という猛烈さでありました。このときは、村のすべてが失われております。その他、昭和五年と十一年、二十八年にも特に激しい豪雨があって大きな災害を出したと記録されております。冬季には、昭和三十八年の豪雪被害も空前のものでありました。
 また、日本海側特有のフェーン現象による大火もしばしばで、福井市など、昔から何回も大火になりましたし、昭和三十一年四月のあの原の大火もこの例であります。
 地震のほうは、明治二十四年の濃尾大地震、昭和二十三年の福井大地震、この二つが最たるものであったと思いますが、福井大地震などは全・半壊および焼失家屋約五万戸、死傷者は二万人にもおよぶという大被害でありました。福井市においては、昭和二十年の大空襲で全市残らず焦土と化し、やっと復興しかけたところ、この大地震に襲われてしまったわけであります。
 文字どおり壊滅的打撃であったということは、だれよりも皆さん方が身にしみてごぞんじのところであります。しかし、その後思いきった都市計画を断行して、現在の立派な福井市を建設し“不死鳥・福井”と賛嘆されたことは天下周知の事実であります。その結果、昭和三十八年の全国調査において、福井市は全国一、環境の優れた都市であることが公表されるまでにいたっているではありませんか。
 そのいちいちについては省略させていただきますが、災害を乗り越えて堅忍不抜の精神を発揮してきたこの実例は、隠れもないところであります。
 これらの実証として、私は“消極性”“保守王国”というレッテルを断じて否定するものであります。古代の活力は、現代もなお生きていると主張するものであります。(拍手)
3  保守王国の原因は既成仏教
 では、本来の“自主、積極性”が認められずに“消極性”“保守王国”というレッテルをはられてしまったのはなぜなのか――これについて私は、決して批判というとらえ方ではなくして、本源的事実の推測のうえから申し上げたい。
 つまるところ、この問題は、福井県が一般に“仏教王国”といわれていることと切り離しては考えられないと思われるのであります。
 県人口約七十五万人。これに対して仏教寺院は約千七百か寺。ざっと四百数十人に一寺、百世帯に一寺の割りであります。そのうえ年に百万人を超える観光客、参拝客がやってくるばかりでなく、一向一揆の歴史でも名高いがゆえに、“仏教王国”という呼称となってしまっております。私は、この中世以降の宗教的史実が、かつての輝かしき福井をして“保守王国”と呼ばしめるにいたったと思わざるをえないのであります。
 福井県人の伝統として、先祖代々神仏を尊ぶ気持ちが深く、信仰心が厚い気風がある――そのこと自体は、まことに尊重に値するものでありましょう。だが、せっかくのその信仰心がどちらへ向けられているか、せっかくの精神的エネルギーがどう消費されているのかとなると、それはまた別問題であります。
 しかも、その点こそ大問題であり、立正安国論に明らかなごとく、それは災害多発にもおおいにかかわりのあるところです。ごく常識的に考えてみても、阿弥陀という仏が実在しているのか、釈尊が念仏を称えたか――それは違います。釈迦じたいが「迹門の阿弥陀といえども自分の分身にすぎない」といっているのであります。
 釈尊が壁に向かって九年も座ってがんばっていたか――これも違います。九横と大難と戦いながら東奔西走したのであります。教外別伝どころか、五時八教を説いて説いて説きぬいたのであります。不立文字どころか、八万法蔵、一切経を説き残したのであります。
 蓮盛抄にいわく「SA219E」と。昔の仏法においても、もともと座禅というものは、行法上の一手段にすぎなかった。すなわち釈尊が悟り、かつ厳然と示したもうた「妙法一念三千の大禅定の境地」――これを会得せんがための一手段にすぎなかったのであります。
 しかるに教外別伝、不立文字と称して妙法の境地を捨て去って、ただ座禅を組んだ。手段と目的とを違えた邪義禅であるから、これは時代の妖怪なりと天台大師は責めているのであります。
 御書にいわく「SA220E」と。
 この哀怨のフィーリング(感覚)が、その人自身の生命をどう揺り動かすかは、いうまでもないことであります。また、他力本願という寄りかかり的な生き方、人生の姿勢が、自主、積極性をどうむしばむかは、いうまでもないところであります。
 以上のようにして、力と気概と誇りに満ちていた古代の越の国人の精神が“保守王国”といわれるほどに変質されてしまった。いま厳然としてこの体質をかえ“保守王国”から新しい積極的な王国にかえるためにはどうすべきかを考えなければ、いつになっても解決の道がない。
 すなわち古代のバイタリティーを復興すべき道は何か。「SA221E」と大聖人は断言していらっしゃる。古代も、中世も、現代も、不変真如の真理の大地は、時の流れとともに表面だけは変わったとしても、その奥底は一貫して変わっていないということを確信していただきたい。(拍手)
 我々人間は、さきほどの御義口伝の法華経薬草喩品のたとえのごとく、いつの時代も、つねに「経」の一字の所生である。すなわち、その時代の思想、哲学、宗教によって動いていくものである。ゆえにいまこそ、独一本門の義天より、おおいに雨を降らすべき時である、と私は申し上げておきたい。そして、それはひとえに皆さん方の勇気と活動のいかんにかかっているわけであります。
 そこにのみ、この郷土の本源的大革命ができるということを申し残しておきたい。福井の皆さん方は“福井のルネサンス(文芸復興)を私どもの時代で必ず成し遂げる”また“子孫のために福井のルネサンスの土壌だけは開拓してみせる”ということを合言葉にして進んでいっていただきたいのであります。(大拍手)

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