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日蓮大聖人・池田大作

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第1回九州青年部総会 妙法に生きる”正信”の実践者に

1973.3.21 「池田大作講演集」第5巻

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1  元気いっぱいで、はつらつたる諸君の姿を拝見して、私はほんとうにうれしい。安心もいたしました。最初に、昭和五十四年まで毎年、この「春分の日」に九州青年部総会を開催していくようにしてはどうか、と提案いたしたいとおもいますが、いかがでしょうか。(大拍手)
 九州の同志の皆さん方を拝見していると、朴訥な負けん気をむきだしにして、体当たりで生きているたくましさを感ずる。それで私は、九州へくると、なにかほのぼのとしてあたたかく、ほほえましい気持ちになるもであります。私も広宣流布のために、これからも決然として戦います。どうか、九州の諸君も、いっしょにがんばってください。(拍手)
 きょうは阿蘇、霧島の山奥から、または五島や壱岐、対馬といった離島からも、はるばる集まってきた人も多いようである。遠路まことにご苦労さまでした。ところで、そういう辺地といわれるところの皆さんは、目立たないなかで、黙々と家業に励まれている人が多いと思う。また一方では、福岡とか、熊本とか、あるいはもっと遠く東京とか、大阪とかは、大きな都会で一流の大学や大会社へいっている人もいる。このように学会は、多種多様、さまざまな人々の集団である。
 人それぞれ、住んでいる場所や職業が違うだけではありません。生まれつきの能力の差というものもあり、信心のうえでの機根も、上根、中根、下根と違いがありましょう。こういう差別相が実相であり、私たちはそのなかで団結し、また異体同心の連帯をつくっているわけであります。
 ここにこそ、真実の宗教の偉大さがあるのです。それについて、日蓮大聖人は「SA208E……」と仰せであります。
 これは、よしんば自分が、能力がなく「下根」であっても、劣等感をいだいて、くよくよする必要はなにもないとの仰せであります。また逆に、たとえ才能があり、人々から「上根」と見られる立場であったとしても、人を見下したり馬鹿にすれば、愚悪の機根、生命へ転落してしまうとの意味の御文であります。
 仏法の真髄は、生命の深さと平等を説いている、また民主主義の根底をなす原理である――都会の人も、田舎の人も、このことをよくよくわきまえて、互いにおおらかな気持ちで信心し、みんな仲良く、いついつまでも限りなく前進していっていただきたいというのが、私のお願いであります。
 「九州人」という本のなかに、こういうことが書いてありました。「九州は日本歴史の母で、原人各族の新陳代謝も、建国の基もここに発し、国の文武もここに根ざして後、全国に普及し、日本は結晶した。されば日本全体をヨーロッパにたとえれば、九州はまさにギリシャで、アテネもスパルタもここにあった。――とは明治の史論家福本日南の言である」また「日本人均一化の方向(中略)の中で、いまなお強い地方人的特色をもっているのは、大阪、東北、そして九州人といえそうである」とも書かれています。
 大阪、東北、九州のなかでも、生まれつきの地方人的特色をハッキリと行動に出して暮らしている点では、おそらく九州人がいちばん強烈ではないかと考えられる。それだけに、信心の眼を開き、自分の欠点をよくわきまえ、雄々しく、行学の力によって長所を伸ばしきっていくことが、若い皆さんには大切なことであろうと思うのであります。
 そうしたことをめざす一助として、きょうは五つの事項をあげて、皆さんと語り合いたいと思います。
2  『正信』
 まず第一に「正信」ということであります。信心にせよ、信念にせよ、正しさというものが絶対要件である。反対になってしまえば、邪信か狂信でありましょう。信じた対象すなわち法や本尊が誤っていれば、邪信になってしまいます。しかし、これは私たちには無縁といってよい。私たちの受持する御本尊は絶対である。したがって、私たちの場合は正信か狂信かという問題しか起こりません。
 この狂信というのは、正法を信じても、起こりうるので困ります。だれが困るのかというと、結局、自分が困り、そのうえ人々を困らせてしまう。御本仏日蓮大聖人の仏法が完璧なものであることは、御書に照らして論をまたない。しかし、信ずる側の我々凡夫は、もとより完璧ではありません。どんな上根の人でも、能力には必ずその時点における限界がある。
 狂信は“自分がいちばん正しく、だれのいうことも聞く必要がない”と思う増上慢から始まるような気がしてならない。また、日蓮大聖人のご指南を勝手気ままに解釈し、学会の方針も受け入れず、我見、偏見で批判だけして、同志やあらゆる人々に詰め寄る人がいたら、その人は狂信の始まりである、と考えられるのであります。そういう人ほど、勤行もふまじめで要領がよく、理屈がうまいものである。信心即生活、一切法皆是仏法であるがゆえに、常識を逸脱して、学会内外に迷惑をかけることも狂信の第一歩となるでありましょう。
 なお、創価学会という集合体についても考えておきたい。“学会に不可能はない。なんでもできるのだ。間違いや欠点など少しもないはずだ”と思いこむこと自体も危険性がある。“学会に不可能はい”といっても、原理上、広宣流布推進については不可能はないと確信したいが、現時点における不可能ということはいっぱいあります。
 厳しく、激しい社会の障害もたくさんあるし、仏法に照らした三障四魔という難もある。仏法は、社会に立脚した道理であるがゆえに、すべてを一つひとつ積み上げていくものであることを忘れてはならないし、決してあせってもならない。
 たとえば“九州じゅうに会館をいっぱいつくってくれ”といわれても、予算も考えなければならないし、急にできるはずもない。“間違いや欠点などないはずだ”といわれても、試行錯誤はいくらでもあるし、事件が起こる場合もあれば、人材配置上の欠点や課題があるということもご理解いただきたい。
 このように、理想と現実との落差というものを冷静にみていくことのできない人の信心は、学会員として、はた迷惑ということになってしまうのです。
 我々はそうではなくて、よきにつけあしきにつけ、なにがあっても、それを受け止めた自分自身が自分自身のために、一定の条件下で大聖人の仰せどおり自らの行動、修行を正しく貫いていくことが「正信」であると考えたい。皆さん方一人ひとりが、こういう「正信」の徒になってくだされば、九州の天地はまさに盤石であります。大聖人がお喜びくださるのは当然でありますが、更に、その因果の理法によって、やがては汝自身の所願満足の勝利に、帰着することは間違いないと確信していきたいのであります。
3  『研鑽』
 第二は「研鑽」ということであります。広宣流布という未開の活動の道程において、社会問題を鋭く知り、また自己の問題も一つひとつ解決しながら成長していっていただきたい、ということであります。
 ともかく、御書を心肝に染め、インカネーション(肉化)させて、幅広い学問を身につけていくことを忘れてはならない。問題意識をもてない青年、問題意識を失ってしまった青年は、もはや青年とはいえないと思う。精神の若々しさは、問題意識をもつことにこそあるといえましょう。若々しい心はいつでも問題意識をかかえているものである。そして、それがあるからこそ悩みもあるが、半面、正義感、革命意識、向上心、探究心等々、未来改革へのもろもろのエネルギーがわいてくるものであります。
 クラーク博士の「ボーイズ・ビー・アンビシャス」とは、立身出世の野望をいだけといったのではなくして、こういう向上へリサーチ(探究)をすすめた言葉であると、私は思う。
 キリスト教でさえ、このような境地には達しているわけであります。いわんや、我々は妙法の子であり、二十一世紀を志向して進む実践者であります。広宣流布をめざす、時代の先駆をいく身であります。内外ともに広く学んで経験を積み、研鑽に研鑽を重ねて内容の充実した大樹に育っていただきたいと、お願いするものであります。

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