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日蓮大聖人・池田大作

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川奈山宝地寺落慶入仏法要 庶民こそ広布の担い手

1973.2.22 「池田大作講演集」第5巻

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1  本日は宗祖日蓮大聖人ゆかりの地におきまして、立派な川奈山宝地寺の落慶入仏法要が行われ、まことにおめでとうございます。日達上人猊下に、心からお祝いを申し上げるしだいでございます。また、ご住職はじめご列席の皆さま、まことにおめでとうございました。どうかこの新寺院を、地域発展の立派な法城に育てていただきたいことを、まずお願い申し上げます。
 さて、本日は、七百年前の伊豆ご艱難を偲びたてまつり、少々ご事跡の一端をお話し申し上げ、お祝いの気持ちとさせていただきます。
 伊豆ご流罪につきましては記録が数々残っております。ご流罪の真因は、日興上人が御遷化記録に厳然と書き残しておられます。すなわち「一、弘長元年、辛酉、五月十二日伊豆の国に流され、御年四十、伊東八郎左衛門尉に預けらる、立正安国論一巻を造り最明寺入道に奉る故なり、同三年二月二十二日赦免」とありますとおり、立正安国論による幕府諌暁が誘因となったことは確かなようであります。
 大聖人の大慈悲、至誠の諌暁が文応元年七月、その最初の反動として松葉ケ谷草庵夜討ちが八月、ついで伊豆ご流罪が諌奏十か月後の弘長元年五月でありました。以上、一連の事情は次のとおりであります。
 有名な「下山抄」には「SA197E」と。
 以上のように、幕府は「立正安国論」奉上に対しては黙殺の態度をとり、得宗時頼の大叔父念仏者の極楽寺時重とその息子・執権長時とが後押しをして行わせた草庵夜討ちが失敗に終わったため、弾圧を企て、大聖人を伊豆へ流したわけであります。たぶん、他宗破折、四箇の格言を悪口とみなし、貞永式目第十二条「悪口の咎事。右闘殺之基は悪口より起こる。其の重き者は流罪に処せられ、其軽き者は召籠めらる可きなり」とあるとおり、それを濫用して無理やり罪状を仕立て上げたものと考えられるのであります。そして、時頼には単なる事後報告で体裁を取り繕ったようであります。
 ところで、流罪の翌月、つまり六月一日「吾妻鏡」に「奥州禅門俄に病悩」云云と記載されておりますように、極楽寺重時は厠で怪異を見て病悩し、毎日、暁になると発作が起こるようになり、ご流罪中の弘長二年十一月、ついに病没しております。また、ご赦免翌年の文永元年八月には、息子の執権長時が三十五歳でやはり病没しているのであります。
 これについて日蓮大聖人は妙法比丘尼御返事に「SA198E」と厳しくお示しになっております。そのうえ、天変地夭もとどまらず、安国論を考え、無実の流罪と見抜いていた時頼が赦免状を出したのであります。
 ご流罪中のこととしましては、船守弥三郎夫妻の一身を賭した外護、地頭の病気平癒依頼によるご祈願と、海中出現の釈立像の献上、日興上人の髄身給仕ならびに金剛院行満その他の折伏、また「四恩抄」「教機時国抄」等の御述作などが主なるご事跡であります。
 そのほか、この土地でも大聖人を怨敵視することはなはだしく、なかには毒茸をもった者さえあらわれたという伝えも「家中集」にはみえております。
 これらの大難をことごとく変毒為薬して地獄界を寂光と開き、着実に化導を進められる御本仏のご力用の不思議さを、謹んで深く私どもは拝すべきである、と申し上げたいのであります。
 伊東や川奈の漁港は当時、幕府が定めた風待ち港でもありました。「吾妻鏡」に「弘長三年八月二十七日申の刻以後風雨、夜に入り大風(中略)鎮西の貢運送船六十一艘伊豆海にて同時に濤を漂わす」云云とありますが、つねに起こりがちな難破の対策として、伊豆一帯に風待港がおかれていたわけです。大聖人の乗られた船が伊東港を目指したのに、川奈港に着いてしまったのも、風波のためであったと考えられますし、地頭献上の仏像が海中から出現したのも、やはりこのためであったと思われるのであります。
 地頭の病の平祈願と彼の帰服は、大聖人が凡夫僧としか見えず、しかも罪人にされているにもかかわらず、その大聖人こそがいかなる人をも救う慈悲と力と三徳とを備えておられる事実の実証であります。それは白法隠没後の末法の御本仏であり、その一事こそ、はるか二千余年の昔に釈尊が法華経に予言した大事であるからこそ、このとき、海中出現の釈像という形をとって、証明のために大聖人の手に帰したということではないか、と思うのであります。日寛上人が、末法相応抄において”この像を大事にされたのは頭陀応身の一体仏ではあっても大聖人の御目には一念三千自受用身と映ったからである”と仰せられているのは、どうもここにご真意があるように思われるのであります。さればこそ大聖人は、四恩抄に三徳を開かれ、教機時国抄に「SA199E」云云と婉曲ながら内証のご身分を表明あそばされている、と私は考えるのであります。
 次に、地頭と弥三郎の対照的な姿について述べてみたいと思います。この地頭の伊東八郎左衛門尉については従来、祐光と朝高の二説がありますが、一往、祐光説が有力なように思われます。玖須美の伊東本邸から徒歩十分ぐらいの山中、和田ノ森に大聖人を養い奉ったようですが、地勢からみて、たぶん当時は街道と海の両方に対する物見堂があって、それを用いたのではないかと思われます。ここへ移られる以前、一か月にわたって、船守弥三郎が川奈の土地の岩窟の中にお匿いしたという説が伝えられていますが、実際は浅井岩窟を後壁に利用して、漁具等の納屋かなにかがつくってあって、そこへお匿いしたとみるのが妥当ではないかと思われます。
 なお、弥三郎を極端に身分の低い一介の若漁師とみる説も疑問があります。というのは、川奈の現地はいまでこそ埋め立てで広くなっておりますが、埋め立て以前の土地は山の急斜面にそったごく狭い面積であり、共同井戸を中心にせいぜい三十戸から五十戸しか立地する余地はなく、したがって人数も百二十人から二百人どまりの血縁的村落共同体の部落であったろうと想定されるのであります。
 そして「船守抄」によりますと、弥三郎は、人をつかわして、粽、酒、干飯、山椒、紙など、相当な御供養を奉っておりまして、これは辺地の小部落の漁師としてはある程度余裕があり、人を使える身分であったことを示しております。もしか貧乏な一漁師であっては人を使うこともできない。また船守という呼称は「船頭の頭」「漁師頭」といった身分を指したものらしいし、また「船守抄」にお述べのご教示内容の程度の高さから推しても、無知、無分別な若い貧乏漁師とはどうも思えません。というのは、大聖人のこの御書にも「SA200E」とあります。このようにあれば少しは文字も読める人物らしいし、年齢も四十歳前後の壮年で、この村落においても中堅以上の立場では無かったかと考えられるのであります。
 さて地頭と弥三郎との対照はまさに次の一点にあります。地頭のほうは辧殿御消息に「SA201E」云云とあるように、後に阿弥陀堂加賀法印定清の姪の三川内侍を後妻にもらったらしく、それらの縁も働いてか、せっかく大聖人に病気を治していただきながら退転して、念仏真言に逆戻りしているのであります。
 とかく名聞名利の世界で暮らしている権勢家というものは、困った時は救いを求め、過ぎ去れば退転し、人間性が乏しく、所、広宣流布の担い手とはならないということを裏づけているように思えてなりません。
 一方、権勢となんのかかわりのない庶民の世界に生きている弥三郎のほうは、なにも名利を求めず、自分の人間性が命ずるままに、命がけで大聖人をお護りして純真に信心に励んでいるということであります。世法からいえば、地頭へ渡すべき流罪人を一か月も渡さずに匿っていたならば、自分自身が大犯罪を犯していることになります。当時では、それがもし発覚すれば、打ち首か所払いになってしまう。腹を決めて人間性の良心のほうを選んだ夫婦は立派であったと私は思うのであります。
 狭い川奈の部落内のことでありますから、弥三郎が大聖人をお匿いしているのは二日とたたないうちに部落中に知れわたったことも当然であると考えられます。近隣の部落へも知れていったかもしれない。だからこそ、伊東家家宰の綾部正清と伝えられている人物が伝え聞いて、地頭の平祈願のお願いにきたのでありましょう。川奈中の人々が弥三郎の行為を一か月余も知って知らないふりをし、部落の人も近隣の部落の人も、だれも正面きって地頭の伊東邸へ密告に行かなかったというわけは、漁師社会のなかで弥三郎がよほど信用厚い、人に好かれた人物であったと考えざるをえない。
 私はここに広宣流布が進展していく原理的かつ基本的な鍵がひそんでいるように感じられてならないのであります。この弥三郎の姿をとおして無名実直な庶民こそが広宣流布の真の担い手であると、歴史は教えているようであります。
 伊東一帯の皆さまは、どうかこういう立派な大先輩をもったことを誇りとして、一人ひとりがいかなる非難があろうと、批判があろうと、中傷があろうとも、「二十世紀の船守弥三郎」の心意気でこの社会を生き抜いていっていただきたいのであります。
 謹んで伊東一年九か月余の大聖人、日興上人のご艱難を偲び奉りつつ、以上を申し上げて私のあいさつとさせていただきます。皆さまのご多幸を心からお祈り申し上げます。(大拍手)

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