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日蓮大聖人・池田大作

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第3回全国寺院総代会 地域社会の依処として厳護

1973.1.29 「池田大作講演集」第5巻

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1  本日は第三回の全国寺院総代会がここ東京で行なわれ、総監をはじめ総本山の役員の御尊師の方々、そしてまた総代の皆さま方、遠路はるばるおこしいただき、まことにご苦労さまでございました。(拍手)
 それぞれの地において、信徒を代表して日夜、法城を守りとおしてくださっている皆さま方の誠意と努力に対しましては、心から敬意を表するしだいでございます。どうか法のため、宗門発展のために、今後ともよろしくお願いいたします。なお、この席をお借りして、将来の総代会や活動のあり方等について、慨括的にお話させていただきたいと思います。
 ご承知のとおり、さる二十七日、ベトナム和平協定が調印されて、かの地で実に三十年ぶりに戦火がやむことになりました。三十年といえば親子二代にわたる戦であります。人間が人間らしい生活を送ることをかくも永く、徹底して奪われたことは、考えれば考えるほど恐ろしく、悲しいことであります。
 立正安国論の趣旨に照らし、また仏法の鏡に映して見るとき、実に白法隠没という事実ほど恐ろしいものはないのであります。そこには個人の限界をはるかに越えてしまった集団人間−−−人間群の業の限りの五濁の世界だけがあって、個人は無限に押しつぶされざるをえない。
 してみれば、社会にとって平和ほど貴重なものはないのであります。戦後のわが国は、なるほど戦禍がないという意味では、確かに平和ではありました。しかし、人々が喜んで暮らせる社会かといえば、必ずしもそうとはいえない。いわゆる三障四魔の形となって襲ってくる――これが現実であります。厳しい、残酷な社会であります。このような現実を発生させる源は何か――。そして、それを退治する方法は何か――。それこそただ一つ、日蓮大聖人が立正安国論に示された大哲理にほかなりません。
 このように考えてまいりますと、日蓮正宗の寺院というものの社会的存在意義が、おのずから鮮明になってくるように思えてなりません。すなわち、正宗寺院は根源的な平和と連帯の原点であり、社会的には五濁と三障四魔に対する一大防塞であるということであります。
 また、日蓮大聖人の大白法と大精神とを、現実の大地の上にしっかりと築き上げた法の城だということであります。曽谷入道等許御書に「SA195E」とお示しのとおりであります。
 この尊い城を、白法隠没の方向へ傾けては断じてならないのであります。どうか総代の方々は、この自覚を一層深くして、ご住職ともどもに寺院の護りについていただきたい。つまり、有徳王の精神に立って総代の職責を果たし、かつ功徳を受けていただきたいのであります。
 寺院は、詮ずるところ、ご住職一個人の私物でもないし、まして総代個人、信徒個人のものでもない。法のうえにおいては、末法の救世主日蓮大聖人のものであります。そして、その役割りからいうならば、社会全体のための存在ともいえるかもしれません。信者だけのためにあるように思い込むあまり、未入信者を疎外して、寺院の社会的役割りをせばめて考えたならば、かえって日蓮大聖人のご精神を曲げることになりましょう。
 かといって、世法と仏法のけじめを見失って、いたずらに世間に世法的のみに開放したりすることも許されないことでしょう。そうしたことのみをするのであれば、他宗となんら変わらないことになってしまう。そのうえでなおかつ、世間のすべての人々が無言のうちに”あそこに立っているあの寺は、この町に住む自分達のものだ、私達のものだ”としぜんに愛着心と誇りと懐かしさを感ずるようでなければ、まだ本当だとはいえないのであります。
 童謡に歌われている「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る」というようなあの感じ……それが郷里の人心に浸透したときこそ、広宣流布は近いといえるのではないでしょうか。こう申し上げると、異議も出てくるかもしれませんが、むやみに塀ばかり高くして、なにか近寄りがたい感じがあるようでは、まだまだ広宣流布の実相とはほど遠い、といわざるをえません。
 ひと昔前までは、田舎では、人々が困ったとき、相談に行く先は決まっていた。役場とお寺と小学校の先生と医者のところです。いまの東京でさえ、下町の区役所には相談にくる人が案外多く、なかには夫婦ゲンカまで持ち込まれる場合があるそうであります。(笑い)
 これらのことは信仰うんぬんの問題というよりは、むしろ庶民の生活とどれだけつながっているかという親近感の問題であります。世の中が非常に複雑になったこと等もあって、具体的問題における、在家の人々の生活指導などはなかなか困難なことではありましょうが、ともかく正宗の寺院へ町の人々が人生相談にくるようになれば先入観念がずいぶん変わったことになりましょう。端的にいえば、まだまだ親しさというものがないように思う。また、現在は少数の御尊師で多忙をきわめる日々ですから、やむをえない面もあります。
 これは学会についても同じことですが、庶民と断絶があるということは宗教の孤立化でもあり、生きた宗教らしくないと思うのであります。かのキリスト教も、もとはといえば、こういう「浮き上がり」から転落し始めたようであります。
 つまり寺院というものは、たとえ法そのものが正しくても、信徒の減少や経済的破綻ということ以外に「権威主義」や「法権の城化」によっても白法隠没を引き起こすことになるのであります。それでは殿堂の威容が増すごとに、広宣流布の方向と逆向きの作用が強まり、なんのための寺院であるかわからなくなってしまう。
 こうしてみると、意外に寺院の維持、経営というものは難しい。この文明社会における、開放された世界宗教らしい寺院のあり方は、確かに難しいようであります。総代の方々は時勢を発展的にみて、その難しさと取り組んでいかなければならないわけであります。どうか、清浄厳格な信仰道場である側面と、地域社会の人間心理のよりどころである側面とを兼ね備えた気品、風格、そして情味がおのずから発祥する立派な寺院に護り育てていただきたいと思うのであります。
 総代の方々の気構えの根幹は、異体同心の一語に尽きる、と私は思います。いろいろなことについて、ご住職と総代では、見方、考え方が違うのは当然であります。第一、育ってきた伝統的環境が違うし、受けてきた訓練、立場、任務も違う。ご僧侶方は、どうしても令法久住という時間軸への進展努力が先立ち、信者の方は、広宣流布という空間軸への精進が先に立つ。両者では、見方の構造が違いがちであります。形のない共通の大空も、丸い窓から見た人には丸く見え、四角な窓から見る人には四角に見える。どちらも正しいのであって、認識、前提の枠取りの問題であるがゆえに、ご住職と総代が非建設的に意見の押し付けをやり合ったら、きりがなくなってしまう。
 このあたりのことをわきまえたうえで、お互いに賛嘆し合い、敬愛し合って話せば、異なる意見から生きた高い演繹が生まれます。それは、足して二で割る政治的妥協などとはまったく異なった尊い結論であると確信するものであります。つねに日蓮大聖人の仰せを中心に考えて相談し合えば、なにごとにせよ、変毒為薬もできようし、建設的なまとまりが生まれる、と私は思います。ご住職と総代との間柄は、いつもそのようであっていただきたいのであります。
 また、昔からの正宗寺院ですと、学会員以外の講中の方々もたくさんおられます。先祖代々、寺院を護持してきた立派な方々でございますから、どうか総代の方は大事にしてさしあげていただきたい。そうした空気のなかからこそ、寺院に対する諸天善神の守護もあろうかと思います。所、諂曲の人では、総代の資格はなく、公平、正直な人であってはじめて立派に総代が務まるのではないか、と思うのであります。
 曽谷入道等許御書に「SA196E」とあります。互いに凡夫ではありますが、ともに分を守り、責を負いつつ、信心の一点において同心であるならば、宗祖代聖人の理想に叶っていくことは間違いありません。四悉檀おのずから世間に進展して、寺院も郷土も五濁から守られ、かつ栄えていくことでありましょう。これも長期にわたる大きい忍耐の戦いであり、まことにご苦労ではありましょうが、なにぶんよろしくご精進のほどをお願いするしだいであります。(大拍手)
 また、宗門の側におかれましても、よろしく指導、激励のほどをお願い申し上げるしだいでございます。どうか、お帰りの節は、ご住職の先生にもよろしく伝言くださるようにお願い申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。(拍手)

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