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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部夏季講習会 信行学の持続で常に確信の息吹を

1972.8.24 「池田大作講演集」第4巻

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1  生命の惰性を排し前進
 はじめに、日常生活のなかに少しでも自分をみがいていこう、という向上の意欲をもった人になっていただきたいと申し上げたい。惰性だけで生きている人は、わびしいものである。
 一般的にいって、まだ結婚前の若い時代には、なんとか向上しよう、という意欲が強いものである。しかし、結婚し子供ができると、女性はしだいに家庭中心となっていく。そして、日常の忙しさのなかに没入してしまう。向上への意欲はとりあえず必要のないこととなり、日常生活のリズムに自分をゆだねていくようになってしまう。やがてそれが一定の習慣となり、惰性のままに生活していく。このような人が少なくないのである。
 人間は、特に女性は、向上の意欲を失うと急速に魅力がなくなり、体調の変化などと相まって、かつてのみずみずしい美しさは消え、いつのまにか心もびついて、精彩のない人間となってしまう場合が多い。
 十七世紀のフランスのある書簡文学者は「心にはシワはない」と、有名な言葉を述べているが、皆さんは日々、向上の意欲を失わずに、清水のように清らかな人生を送っていただきたい。
 しかし、いったんできあがった日常生活のサイクルは、怪物のようにとらえどころがなく、それを打破し、革新させることはなかなかむずかしいものである。更に心のというものは、容易に落とすことができない。ふだんは日常の生活の慣習に身をゆだねているために、なんのさしさわりもないのに、気がついてそれを変えようとすると、猛烈な抵抗をおぼえるものである。そこには、もはや新しいものを受け入れる余地はないと思われるほどである。
 そして「向上心という余計なものは私には必要ない」というのが女性の奥底にある考え方になっていることが多い。心の陰の声が、甘くやさしく語りかけている。「私はもうこれでいいのだ。主人もいる、子供もいる。これで幸せなのだ」――と。
 たとえ一時的に、よし、がんばろう、新聞を読もう、本でも読もう、と決意しても、もはや鉛のような錘が五体のなかにあって、そうやすやすと動こうとはしない。(笑い)そうなると人は必ず口実をみつける。やはりダメだ、自分はこれでいいのだ、と自分で自分にいいきかせて安心したり、再び元の生活のなかに沈潜してしまう。
 信仰の場合も同じことがいえる。地道な信行学によって生命をきれいにみがかなくなったら、やがて反動が起こり、生命自体が腐り始めるといえるだろう。つまり惰性という“ばい菌”が忍びこみ、ついにはその人の骨髄まで食い荒らしていくものである。
 最近のデータによると、結婚して十年前後の人、年齢的には三十五歳から四十歳前後の人の離婚率がもっとも高いといわれている、結婚直後というより、いわゆる安定期がむしろ危機となっている。このことは、注目すべき事実であろう。結婚して十年前後になると、当初の心が失われ、魅力も衰え、惰性と倦怠が新鮮な感覚をマヒさせ、そこに亀裂が生ずるからであると思う。
 人間は、一方では安定と調和を求めるものであるが、他方では、新鮮さを失うと、やがて息苦しくなってしまい、精神の窒息死を起こしてしまうものである。そこにはほんとうに充実しきった喜びはない。
 それでは、人々に再び新しい力を与え、蘇生の喜びをもたらすものはいったい何か。レジャーと答える人もいるかもしれない。趣味をもつことだ、という人も多いかもしれない。それらはそれなりに大切なことだとは思うが、それとて、精神の老化、鈍化を根本的に防ぐことは絶対にできない。
 その生命に新しい電流を流し、生きいきとした躍動を与えるものこそ生命を解明し、人間革命の方途を示した宗教であり、真実の信仰はそのためにある。したがって、日々の勤行、唱題が重要となってくる。
 と同時に日常生活のほかにではなく、そのなかに、つまり日常生活という現実の、地道ななかに、向上しよう、という意欲をもつことが、もっとも大切であると申し上げたい。しかもそれは、単なる意欲ではなく、思いきってなんらかの目標を決め、それを持続し、やりぬいていこうというものでなくてはならない。しっかり家庭のこともやりきりながら、より偉大な目的のために、日々、着実に向上の歩を進めていく、この人こそ賢明な婦人であり、尊い姿であると思う。
 詮ずるところ、日常生活のなかにあって、地道な信心、行学の実践を持続していくことこそ、自己の成長のために、また家庭を守るためにも、子供たちの将来のためにも、社会への価値創造のためにも、最高にして、偉大な向上の源泉になっていくことを再認識しておきたい。
2  御書を学び視野を開こう
 次に「婦人と教学」ということについて少々話をしておきたい。
 この世の中でもっとも美しいのは女性である。また、もっとも醜くなりうるのも女性であると考える。美しさは、女性の特権であり、醜さは女性の敗北である。妙法比丘尼御返事には、女性の醜い側面が次のように述べられている。
 「SA170E」云云と。
 では、なぜ美しかるべき女性が、このような姿になってしまうのか。それは、さきにも述べたように、女性がとかく現象面のみにとらわれて、物事の一切の本源をみようとしないために、周囲の物事に引きずられやすいからではないかと考える。
 この女性の性格について御書には「SA171E」と述べられ、また「SA172E」とある。私は、さまざまな例から考えて、結局、こうした性格、特質が女性のあらゆる不幸の根源になっていると考えざるをえない。
 したがって、皆さんが確固たる自己を築き、幸福の風をなびかせていくためには、どうしても信心、なかんずく教学が重要になることを強調しておきたい。なぜなら、表面的な物事に動かされやすい自分自身というものを、宿命的な自己というものをしっかり確立していくものこそ、教学であるからである。
 世間一般の例をとってみても、勉強している人は視野が広い。物事の本源をみていくこともできる。なかんずく、日蓮大聖人の御書は、人間の生命という根本問題を完璧に説き明かしたものであるがゆえに、一切の思想、哲学の鑑であり、あらゆる生活現象の原理といってよい。
 これを学んでいったときには、すべて物事の根源がしぜんに明らかになってくる。そこに大きな視野が開け、なにものにも妨げられない、広々とした、そして確固とした人間革命、すなわち自己というものの構築がなされていくのである。
 それはちょうど、真っ暗なほら穴のなかで、わずかな食べ物を取り合っていた人が、太陽の燦々と降りそそぐ木の実のたわわに実った野原に一歩足を踏み出していくようなものといえるだろう。
 また今日まで、じつにさまざまな婦人の集団があり、運動があった。しかし、創価学会の婦人部が行っているような宗教運動、哲学運動、そして人間復興の大運動は、その規模、その様相、その目的の崇高さにおいて古今東西に他に例をみないといってよい。
 皆さんが、着実に教学の研鑽を積み重ね、境涯を大きく開いていくならば、それこそ真実の女性開放の運動であり、やがては必ず後世の人々が、輝く二十一世紀への広大な新しい潮をつくった、と多大な評価を与えることであろう。
 更に、皆さんが、寸暇を惜しんで御書に取り組む姿勢が、ご主人、お子さん、お孫さん、友人等等に大きな波動を与えていくのである。また学会の基盤も更に不動になるといえよう。
 あるジャーナリストに会ったときに「一家の主婦が、あいた時間になにをしているか、その姿が子供に強い影響を与える、母親が暇なとき、ほおづえをついてテレビばかり見ているような家庭の子供と、わずかな時間をさいてでも本を開き、勉強しようとしている家庭の子供とでは、その子供の質的成長はまったく異なってくる。このことは統計的にいえる」という意味のことをいっていた。
 教育の根本の基盤が家庭にある以上、それは当然のことであろう。どうか皆さんは、お子さんに尊敬されるような母親になってもらいたい。そのためにも、教学にしっかり取り組んでいく姿勢をたもっていただきたい。
3  生活のなかで教学を体得
 大聖人ご在世当時の女性の弟子の方々をみても、真剣に大聖人の仏法を求めていた。妙法尼御前御返事にいわく「SA173E」、阿仏房尼御前御返事にいわく「SA174E」、妙一女御返事にいわく「SA175E」と。
 これらの御文をみても、当時の婦人がどれだけ求道心にあふれていたか、深く思索していたか、ということがわかると思う。
 なかでも、ある婦人は、鎌倉から一人の幼子を連れて、遠く佐渡ご流罪の大聖人をたずねて仏法を求めている。鎌倉から佐渡へは当時、男性であっても大変な道のりであった。また当時は戦乱の時代であり、その険難さは想像に絶するものがあったことであろう。
 この婦人に対して大聖人は「SA176E」と賞嘆され、日妙聖人という名を贈られたことは有名である。
 また兄弟抄で名高い池上兄弟の弟・兵衛志の妻は、夫が世間的なことにことよせて、信仰を捨てるかどうかという切迫した事態に陥ったとき、大聖人のもとをたずねて指導をうけ、激励されて、信仰を根幹に夫をしっかりと支えていった。
 もちろん、ご在世当時の女性の信徒がすべてそうであったとはいいきれない。信心弱くして退転したり、動揺した人がいたことも事実である。それらの人々の多くは教学がなかったがゆえに、まわりの出来事に動かされ、自身の進むべき方向を見誤ってしまった。
 どうか皆さん方は現代における“日妙聖人”“妙一尼”等として御本仏日蓮大聖人からたたえられるような一人ひとりになっていただきたい。
 もちろん今日ではなにも千里の道を歩く必要はまったくない。「御書全集」があり、また「大白華」も「聖教新聞」もある。また、なにも御書を最初の一行から完璧に読破しなければならないという、窮屈な考え方も必要ない。一日中机に向かって、ご主人のこと、お子さんのことをないがしろにするようでは、ほんとうの教学を学ぶ精神から、かけ離れた行き方であることもつけ加えておきたい。
 御書の一編を読む。聖教新聞に連載されている「きょうの発心」を毎日勉強していく。大白華に掲載された教学座談会等の教材を学ぶ。そのような毎日の積み重ねがもっとも大切である。毎日はできない場合もあるが、積み重ねを持続していくことである。勉強したことを忘れてもいい。それは少しでもおぼえてくれればいちばんいいけれども、無理だもの。(笑い)
 そうであっても、いったん広宣流布のために、仏法流布のために、自分自身のために学んだことは必ずいつのまにか血肉になっていく。そして、それはやがて皆さんにとっていろいろな意味で、かけがえのない宝となっていくことだけは間違いない。
 むしろ、よし、あしたから御書一ページなどと、身構えるということではなく、教学に取り組んでいくことが、あたかも空気を吸うがごとく、それがごくしぜんの欠くことのできないふんいきになっていけばいいのである。空気を吸い、御飯を食べるような気持ちで、ちょっと時間があったら御書をひらこう、三行でも五行でも読もう、これでいいと思うのである。
 このように家庭のなかに、生活のなかに教学があることは、信心を斬新にし、自己の成長への発条になっていくことを知ってほしい。そして、「婦人と教学」という他の世界には類例のない学会伝統の本筋に生きていただきたい。

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